ミステリ作家は死ぬ日まで、
黄色い部屋の夢を見るか?
~阿津川辰海・読書日記~

「いったい、いつ読んでいるんだ!?」各社の担当編集者が不思議がるほど、
ミステリ作家・阿津川辰海は書きながら読み、繙きながら執筆している。
耽読、快読、濫読、痛読、熱読、爆読……とにかく、ありとあらゆる「読」を日々探究し続けているのだ。
本連載は、阿津川が読んだ小説その他について、「読書日記」と称して好き勝手語ってもらおうというコーナーである(月2回更新予定)。
ここで取り上げる本は、いわば阿津川辰海という作家を構成する「成分表」にもなっているはず。
ただし偏愛カロリーは少々高めですので、お気をつけください。
(※本文中は敬称略)
著者
阿津川辰海(あつかわ・たつみ)
2017年、本格ミステリ新人発掘プロジェクト「カッパ・ツー」第1期に選ばれた『名探偵は嘘をつかない』でデビュー。作品に『録音された誘拐』『阿津川辰海・読書日記 かくしてミステリー作家は語る〈新鋭奮闘編〉』『入れ子細工の夜』『星詠師の記憶』『透明人間は密室に潜む』『紅蓮館の殺人』『蒼海館の殺人』がある。
読書日記が単行本になりました!『阿津川辰海・読書日記かくしてミステリー作家は語る〈新鋭奮闘編〉』

目次

第87回~最新

2024.11.08 第92回モダンホラー巨編、遂に来たる! ~あるいは旧刊再読日記~

2024.10.25 第91回秋の翻訳ミステリー特集(後編) ~超犯人、最後の打ち上げ花火~

2024.10.11 第90回秋の翻訳ミステリー特集(前編) ~表からも裏からも読める、推理の冒険~

2024.09.27 第89回不可能犯罪とは、演出力である ~〈ワシントン・ポー〉、最高傑作!~

2024.09.13 第88回論理とは、たたずまいである ~有栖川有栖の推理に魅せられる~

2024.08.23 第87回〈ネロ・ウルフ〉シリーズ(不)完全攻略(2) ~中期・後期の達成~

第81回~第86回

2024.08.09 第86回〈ネロ・ウルフ〉シリーズ(不)完全攻略(1) ~パターンを知ろう・前期のスタイル~

2024.07.26 第85回「探偵」の意志 ~坂口安吾と松本清張~

2024.07.12 第84回台湾発、私立探偵小説の精華 ~あるいは私的なイベントレポート~

2024.06.28 第83回まるで憑りつかれたように ~小市民シリーズ長編完結、の話題のはずが~

2024.06.14 第82回「トゥルー・クライム(実録犯罪)」ものの隆盛 ~話題は蛇行しながら~

2024.05.24 第81回S・A・コスビーにまたも注目 ~今回は捜査小説の王道か~

第75回~第80回

2024.05.10 第80回『両京十五日』は、今年最高の冒険小説だ! ~中国冒険小説の面白さを満載して~

2024.04.26 第79回ぼくの盛岡・仙台・神戸紀行 ~作家ゆかりの地を訪ねる~

2024.04.12 第78回犯罪小説への愛、物語への愛 ~スティーヴン・キングの最高到達点~

2024.03.22 第77回ぼくの山形紀行 ~もはやただの旅行記録~

2024.03.08 第76回作家たちの忘れ物 ~芦辺拓、新たなる偉業~

2024.02.23 第75回この罪だけは見逃せない ~ルー・バーニーの小説世界~

第69回~第74回

2024.02.09 第74回歩き、踏みしめる確かな道 ~私の愛する土屋隆夫~

2024.01.26 第73回評論を読もう! ~後半戦・海外ミステリー叢書の海に溺れる~

2024.01.12 第72回評論を読もう! ~前半戦・本格ミステリーの最前線~

2023.12.22 第71回ぼくの福岡清張紀行 ~松本清張記念館に行ってきました~

2023.12.08 第70回御無礼、32000字です ~『地雷グリコ』発売記念、ギャンブルミステリー試論~

2023.11.24 第69回これがほんとの「読書日記」 ~10月に読んだ本を時系列順にざっくり紹介~

第63回~第68回

2023.11.10 第68回書きたい人にも、読みたい人にも ~都筑流小説メソッド、再受講~

2023.10.27 第67回疲れた時に沁みるもの ~「日本ハードボイルド全集」総括とクロフツの話(なぜ?)~

2023.10.13 第66回17年ぶり、その威容 ~〈百鬼夜行〉シリーズ長編再読記録~

2023.09.22 第65回私の「神」が、私の「神」に挑む物語群 ~〈柄刀版・国名〉シリーズ、これにて終幕~

2023.09.08 第64回全員信用ならないなあ…… ~作家小説大豊作~

2023.08.25 第63回翻訳ミステリー特集・2023年版 後半戦 ~シビれるような「名探偵」~

第57回~第62回

2023.08.11 第62回翻訳ミステリー特集・2023年版 前半戦 ~ブッキッシュ・オン・ブッキッシュ~

2023.07.28 第61回映画と小説のあいだ ~後編(国内編)~

2023.07.14 第60回映画と小説のあいだ ~前編(海外編)~

2023.06.23 第59回多崎礼の話をしよう ~私を作った作家たち・2~

2023.06.09 第58回私たちを救うカナリアの声 ~私を作った作家たち・1~

2023.05.26 第57回古典の効用 ~今を忘れ、今を想う~

第51回~第56回

2023.05.12 第56回「老い」を考え、「謎」に痺れる ~「探偵役」の使いどころ~

2023.04.28 第55回 特別編10極私的「時代・歴史小説が読みたい」 ~〈修道女フィデルマ〉シリーズ全作レビューもあるよ!~

2023.04.14 第54回解かれぬ事件に潜むもの ~〈コールドケース四部作〉、堂々完結!~

2023.03.24 第53回新ミステリーの「女王」、新たなる羽ばたき ~マシュー・ヴェンの冒険、のっけから最高潮~

2023.03.10 第52回大いなる山に捧ぐ情熱 ~山岳ミステリー小特集~

2023.02.24 第51回新刊詰め合わせ ~それと、誰得すぎる2022年雑誌短編傑作選~

第45回~第50回

2023.02.10 第50回現代英国の新たなる「女王」! ~アン・クリーヴス全作レビュー(仮)~

2022.12.23 第49回クリスマスには仁木悦子を! ~江戸川乱歩賞受賞の傑作、三回目の再読~

2022.12.09 第48回極・私的『SFが読みたい……』2022年版 ~韓国SFから古典まで~

2022.11.25 第47回驚愕と奇想のミステリー集成! ~9月・10月新刊つめあわせ~

2022.11.11 第46回これまでのアメリカ、これからのアメリカ ~心に染み入るロード・ムービー~

2022.10.28 第45回現代英国本格の新たなる旗手、さらなる覚醒! ~イギリスの「ディーヴァー」~

第39回~第44回

2022.10.14 第44回 特別編9ジェフリー・ディーヴァー試論 ~その「どんでん返し」の正体、あるいは偽手掛かりと名探偵への現代米国アプローチ~

2022.09.23 第43回 特別編8-2翻訳ミステリー頂上決戦・2022年版! 後半戦 ~壮大なる物語の迷宮の先に、辿り着いた景色とは?~

2022.09.09 第42回 特別編8-1翻訳ミステリー頂上決戦・2022年版! 前半戦 ~無法者の少女と懐かしきアメリカ、そして謎解き~

2022.08.26 第41回 特別編7-2まだまだ阿津川辰海は語る ~新刊乱読編~

2022.08.12 第40回 特別編7-1まだまだ阿津川辰海は語る ~旧刊再読編~

2022.05.27 第39回全ページ興奮の本格×冒険小説、待望の最新刊 ~進化するアンデシュ・ルースルンド~

第33回~第38回

2022.05.13 第38回春の新刊まつり ~絞り切れなかったので、「かわら版」的短評集~

2022.04.22 第37回その足跡に思いを馳せて ~ミステリーファン必携の一冊~

2022.04.08 第36回心に残る犯人 〜未解決事件四部作、いよいよ好調!〜

2022.03.25 第35回悪魔的なほど面白い、盛りだくさんの超本格ミステリー! ~我が生き別れの、イギリスのお兄ちゃん……(嘘)~

2022.03.11 第34回引き裂かれたアイデンティティー ~歴史ミステリーの雄、快調のクリーンヒット~

2022.02.25 第33回児童ミステリーが読みたい! ~あるいは、私を育てた作家たちのこと~

第27回~第32回

2022.02.11 第32回かくして阿津川は一人で語る ~あるいは我々を魅了する『黒後家』 の謎~

2022.01.28 第31回たった一人で、不可能の極致に挑む男 ~しかし、ユーモアだけは忘れない~

2022.01.14 第30回佐々木譲は立ち止まらない ~歴史改変SF×警察小説、無敵の再出発~

2021.12.24 第29回法月綸太郎は我が聖典 ~“疾風”“怒涛”のミステリー塾、待望の新作!~

2021.12.10 第28回超個人版「SFが読みたい……」 ~ファースト・コンタクトSFっていいよね……~

2021.11.25 第27回ワシントン・ポー、更なる冒険へ ~イギリス・ミステリーの新星、絶好調の第二作!

第21回~第26回

2021.11.12 第26回伊坂幸太郎は心の特効薬 ~唯一無二の寓話世界、新たなる傑作~

2021.10.22 第25回世界に毒を撒き散らして ~〈ドーキー・アーカイヴ〉、またしても快作~

2021.10.08 第24回お天道様が許しても、この名探偵が許さない ~コルター・ショウ、カルト教団に挑む~

2021.09.24 第23回海外本格ミステリー頂上決戦 ~ヨルガオvs.木曜、そして……~

2021.09.10 第22回“日本の黒い霧”の中へ、中へ、中へ ~文体の魔術師、その新たなる達成~

2021.08.26 第21回世界水準の警察小説、新たなる傑作 ~時代と切り結ぶ仕事人、月村了衛~

第15回~第20回

2021.08.13 第20回 特別編6七月刊行のミステリー多すぎ(遺言)~選べないから全部やっちゃえスペシャル~

2021.07.23 第19回 特別編5ヘニング・マンケル「ヴァランダー・シリーズ」完全攻略

2021.07.09 第18回皆川博子『インタヴュー・ウィズ・ザ・プリズナー』

2021.06.25 第17回ユーディト・W・タシュラー『誕生日パーティー』

2021.06.11 第16回 特別編4D・M・ディヴァイン邦訳作品全レビュー

2021.05.28 第15回ベア・ウースマ『北極探検隊の謎を追って:人類で初めて気球で北極点を目指した探検隊はなぜ生還できなかったのか』

第9回~第14回

2021.05.14 第14回 特別編3ディック・フランシス「不完全」攻略

2021.04.23 第13回ヨルン・リーエル・ホルスト『警部ヴィスティング 鍵穴』

2021.04.09 第12回恩田 陸『灰の劇場』

2021.03.26 第11回佐藤究『テスカトリポカ』

2021.03.12 第10回高橋泰邦『偽りの晴れ間』

2021.02.26 第9回ロバート・クレイス『危険な男』

第3回〜第8回

2021.02.12 第8回 特別編2 ~SF世界の本格ミステリ~ ランドル・ギャレット『魔術師を探せ! 〔新訳版〕』

2021.01.22 第7回ジョー・ネスボ『ファントム 亡霊の罠』

2021.01.08 第6回清水義範『国語入試問題必勝法 新装版』

2020.12.25 第5回 特別編~クリスマスにはミステリを!~ マイ・シューヴァル&ペール・ヴァールー『刑事マルティン・ベック 笑う警官』

2020.12.11 第4回ケイト・マスカレナス『時間旅行者のキャンディボックス』

2020.11.27 第3回エイドリアン・マッキンティ『ガン・ストリート・ガール』

第1回〜第2回

2020.11.13 第2回ジェフリー・ディーヴァー『ネヴァー・ゲーム』

2020.10.23 第1回ジョセフ・ノックス『笑う死体』

画面下の番号リンクから目次の回に切り替えることが出来ます

第92回2024.11.08
モダンホラー巨編、遂に来たる! ~あるいは旧刊再読日記~

  • 貴志祐介『さかさ星』(角川書店)

    貴志祐介
    『さかさ星』
    (角川書店)

  • 〇告知から

     11月6日に文春文庫からアンソロジー『有栖川有栖に捧げる七つの謎』が刊行されました。有栖川有栖さんのデビュー35周年を記念して、一穂ミチ、青崎有吾、白井智之、織守きょうや、夕木春央、今村昌弘、私の七人が有栖川さんの作品世界をお借りして短編を書こうという企画で、「オール讀物」と「別冊文藝春秋」に順次掲載されたものでした。一冊にまとまったというわけです。それぞれの短編の感想は、第83回、第84回の冒頭あたりで話しておりますが、せっかくなのでもう一度まとめておきます。

     青崎有吾「縄、綱、ロープ」は、オーソドックスなフーダニット×都筑道夫の「ジャケット背広スーツ」(『退職刑事1』所収)を思わせる出来栄えで、劈頭を飾るにふさわしい読み味の好編……と思いながら読んでいると、思いもよらぬところのひねりに、火村ものの良さを思わせる洒落ッ気を感じさせ、膝を打たされました。トリビュートへのアンサーが見事な傑作。一分の隙もない。

     一穂ミチ「クローズド・クローズ」は、『ダリの繭』に登場した作家アリスの隣人である真野早織にスポットライトを当てて、女子高での制服盗難事件を描いてみせるのが楽しい一編。文庫には収録されていませんが、「オール讀物」2024年5月号に載った有栖川×一穂対談は、一穂さんの興奮ぶりに嬉しくなる楽しい対談ですので、ファンの方はぜひ。

     織守きょうや「火村英生に捧げる怪談」は、火村ものを主軸に置きつつ、有栖川作品の中でも〈濱地健三郎〉シリーズや『赤い月、廃駅の上に』といった怪談もののエッセンスを巧みに響かせ合うことで著者ならではの作品に仕立てています。自由に作品を掛け合わせるのもトリビュートの愉しみ。

     白井智之「ブラックミラー」は、『マジックミラー』に的を絞り、そのネタを割ると冒頭で宣言する所からして挑戦的です。『マジックミラー』では、アリバイ講義を逆手に取って実に鮮やかなトリックを仕掛けますが、このトリックを白井流の悪魔的発想で発展させてみせるところが素晴らしい力作。これにも意外な掛け合わせがあり、ニヤリとしました。ちなみに、私も『マジックミラー』ベースでいくことを一瞬考えたのですが、編集さんから「ブラックミラー」の原稿を共有いただいたタイミングで、白旗を上げた――というのはナイショの話。

     夕木春央「有栖川有栖嫌いの謎」は、こんなタイトルつけちゃって怒られないの?――という心配はまったく無用の愉快な一編(それでも心配な人は、有栖川さんの「解説」から先に目を通しましょう)。トリビュートならではの「日常の謎」で、有栖川版国名シリーズのある作品の響きも聞こえてくる作品です。

     今村昌弘「型取られた死体は語る」は、集中で唯一〈江神二郎(学生アリス)〉シリーズに挑んだ一編。同シリーズの良さでもある、学生同士のディスカッション小説の良さを活かしながら(シリーズ作品の中では「パズル研対推理研」を思わせる味)、著者らしい二転三転の展開を見せてくれます。

     私の作品「山伏地蔵坊の狼狽」は、『山伏地蔵坊の放浪』から三十年後の世界を描いています。短編「ブラジル蝶の謎」をベースにした作中作を書いているのは、〈有栖川版国名〉シリーズの中で、最も謎が前に押し出されており、かつ、別解を考えるのが楽しそうなシチュエーションだったため。それぞれ原典のネタは割っていません。

     巻末には、有栖川有栖ご本人による「解説」がついており、一編一編に丁寧に言及してくださっています(なので、本来なら私の感想なども不要だったのだ)。いずれにせよ、非常に贅沢な一冊となりましたので、有栖川作品や参加者に興味があればぜひとも「買い」の一冊ですよ。ファンとしては、帯裏で予告された、幻の火村シリーズと単行本未収録作品集『砂男』(2025年1月刊行予定)が待ち遠しいです。

    ○再読ばっかりしている秋

     さて、最近の読書は、各種ミステリーランキングへの投票を終えたため、新作のためだったり、頭の中をぐるぐるしている考えをまとめるためだったり、色んな理由で再読をしていました。なので、今日は最近読んだ小説を、読んだ順に軽く紹介していくだけの回をやります(評論も読んだのですが、評論回は次回に回します)。

     エリザベス・フェラーズ『猿来たりなば』(創元推理文庫)は、中学生以来の再読。なぜチンパンジーが殺されたのか? というホワイダニットが主軸になる話で、この解答だけはあまりに鮮やかなので覚えていたのですが、どのように成立させていたかを確認するために再読。この十数年で、フェラーズの邦訳作も色々読んだので、この作者の良さはどこか明朗でありながらひねくれたユーモアの感覚と、探偵―ワトソン関係のスクラッチングにあるな、というのを再認識。ジャーナリスト、トビー・ダイクとその親友ジョージの関係は、一般的にどちらが探偵で、どちらがワトソンと言える関係ではなく、さりとて、競い合っているわけでもない。片方が思い込みで爆走して推理をするのですが、それをもう片方が馬鹿にしきっている――かと言えば、そうでもない。いずれにせよ、この二人の言動を使って、読者を思いのままに誤導し、伏線を蒔いておく手つきが巧いのです。

     合作ミステリー『漂う提督』(ハヤカワ・ミステリ文庫)は、企画中の短編のテーマを「リレー小説」にしたので再読したもの。川を流れていたボートに殺されたペニストーン提督が乗っていた――という発端はタイトル通りで、この謎を英国の《ディテクションクラブ》のメンバーがリレー形式で繋いで解き明かしていくという趣向の小説になっています。この《ディテクションクラブ》については、マーティン・エドワーズの評伝『探偵小説の黄金時代』でもその内幕が明かされており、併せて読むと楽しめます。『漂う提督』の難しいところは、それぞれが担当部分(20ページそこそこのこともあれば、50ページ書く人もいて、解決編を任されたアントニイ・バークリイは100ページも書いている。しかもタイトルは「混乱収拾篇」である)を書く時に、自分の想定した解決に沿うように進めていき、自分の考えた解決編も発表しなければならないこと。これが、非常にキツい。と同時に、作家性が出るところです。たとえば第四章を担当したアガサ・クリスティーの考えた犯人像及びその動機は、実にクリスティーらしい。第七章を担当したドロシイ・L・セイヤーズは、犯行手順の再現や犯人の背景の設定に紙幅を割いていて、それも作者の持ち味です。第八章を担当したロナルド・A・ノックスは、39の疑問点を作中の警部に整理させ、後進に託しているかと思いきや、「予想解決編」では自らの「十戒」のルールそのままに犯人を割り出していて、どこまで本気で書いているんだか分からない。訳者あとがきで指摘されている通り、矛盾点が多い作品であり、前章を担当した作家がせっかく話を動かそうとしているのに、後の章の人が揺り戻してしまったりと、問題点は多いのですが、それだけに「リレー小説ってプロがやってもこうなるんだ」というのを再確認。企画の糧にはなりました。ちなみに、リレー小説の企画じゃないから、期待しないでくださいね。

     綾辻行人『どんどん橋、落ちた〈新装改訂版〉』『鳴風荘事件 殺人方程式Ⅱ』(いずれも講談社文庫)は、「犯人当て」というスタイルについて考えるために再度手に取った二冊。いずれも中学2年生以来。「犯人当て」について考えているのは、今年8月に参加した全日本大学ミステリ連合会の合宿において、私の古巣の「新月お茶の会」や京大・阪大等々の学生たちとした議論が頭にこびりついていて――それを自分の中でどう解消するかを考えていたからでした。京都大学推理小説研究会というと、手の届かない憧れにも似た存在なわけですが、その先輩―後輩の間には、外野にはもはや感知出来ない応答関係があることを肌で感じたのです(その応答関係の存在については、『どんどん橋~〈新装改訂版〉』に収録された大山誠一郎の解説からも垣間見ることが出来ます)。ある種の「過剰さ」によって成り立っている世界観を把握したい、そう思って『どんどん橋、落ちた』を読み返すと、腑に落ちることがいくつもありました。

    「精神的に超多忙」な状態に置かれた「綾辻行人」(内幕では、第二話以降の時期はゲーム「ナイトメア・プロジェクト〈YAKATA〉」に関わっていた時期だと明かされる)が、突然訪れたU君に「犯人当て」のテキストを差し出され、それに挑むことになる。U君の仕掛けた数々のトリックに、「綾辻行人」は時に「――汚い。卑怯だ」というような怒りにも似た言葉をぶつける。技巧的には、過剰すぎるトリックを外から解決するための額縁にすぎないわけですが、実はその額縁に、「犯人当て」というものの過剰さをシニカルに見つめる「現在」の作者の視点と、むしろ嬉々としてその道を追い求める「過去」の作者の視点が二重に折り重なっている。そう、この連作は、それ自体が秀逸な青春小説なのです。第二話の幕切れで、「綾辻行人」が思い出す、学生の頃の野心作に「袋小路への道標」という評価をつけられた記憶の苦さも、青春小説ならではの苦さであり、何か啓示にも満ちています。

     しかもこの連作は、第二話「ぼうぼう森、燃えた」以降の四作がわずか一年の間に書かれており、「犯人当て」というスタイルの過剰さによって、何か自分の欠落(=ラストに繋がる光景)を埋めようとするような作者の姿を現しているようでもあります。私は、ここに心が震えました。中学生の時は「なんじゃ、こりゃあ!」とひっくり返りそうになった本に、今はただただ、涙を誘われる。こういう体験こそ、再読の愉しみです。……まあ、初読時はU君のイニシャルがUであることの意味も分からず(本名を知らなかったので)、第三話「フェラーリが見ていた」に登場する編集者U山と同じなのか、と誤読していたくらいなので(読み始めの頃は編集者の名前まで意識しないので)。「内幕」が分かっていない初読時には見えなかったのは仕方のないことですが。

     一方『鳴風荘事件』は、長編という長さもあってか、「進んでいる道が間違っていない」と本当に解こうとしている読者に思わせる工夫が随所に見えて唸りました。初読時はクローズアップされた謎である「なぜ犯人は被害者の髪を切断したのか?」という謎の解答も分からなかったわけですが、そこを突破し、消去法を入念に組み立てて、真相に肉薄出来る何割かのマニアたちにも、「あれ?」と思わせるポイントを仕込んでいる。その「あれ?」というポイントの位置は、「読者への挑戦状」前の――真相を知らなければ意味が分からないはずなので、ページ数も明かせば――356ページで、きちんと宣言してある。ただ、この「あれ?」は、同時に「正しい方向に進んでいる」と思わせる強度も備えているのです。そこが面白くて、同時に、同時期の京大出身者の短編や、あるいは綾辻行人×有栖川有栖のドラマ「安楽椅子探偵」にも同様の趣向が存在し、それが例の議論から「当時会内で流行り、発展してきた手法」だと知り……なんとまあ、世界には色んなことがあるものだなあと思わされたのでした。

    ○自分にとっての「エンタメ」の代名詞

     貴志祐介『さかさ星』(角川書店)の話から始めましょう。著者の新作ホラー小説である『さかさ星』で扱われるのは、戦国時代から続く旧家・福森家に保管された大量の呪物。福森家では人による犯行とは思えないほど残忍な一家惨殺事件が起きており、この事件は、何者かがその大量の呪物を利用して引き起こしたのではないかと、霊能者・加茂禮子は喝破する――というのが大体の筋で、それぞれの呪物について、もっともらしい因縁譚を次々に開陳し、一方で、そもそものはじまりである一家惨殺事件の内容については物語の進行とともに小出しにされていく――という按配が、不安を掻き立ててくれます。霊能者を信頼してよいのかどうかも宙づりの心理状態に置かれて、語り手は事件を見極めなければならないのです。

     手札を開陳し、中盤以降、加速度的に展開していく事件は、開示された設定を用いた奇妙な「人物当て」の趣向を明らかにします。そう、これはフーダニットの小説でもあったのです。「解かなければ死ぬ」という絶体絶命のシチュエーションを用意したうえで提示される「人物当て」のロジックは実に悪魔的で、惚れ惚れするようです。語り手は恐怖を抑えるために終盤、ある行動を取りながら標的に迫るのですが……このシーン、なんだかとてもリアリティがあるんですよね。はたから見れば、ちょっと笑っちゃうような状況に見えるのですが、人が怪異に相対した時、自分の内から湧き上がる恐怖を抑え込むためには、恐らく有効な手法だと思うのです。というのが全部分かるからこそ――怖い。終盤の息詰まるようなスリルは、やはりこの人はエンターテインメントのど真ん中にいる、と感じさせてくれます。

     著者は今年『兎は薄氷に駆ける』も発表しており、こちらは冤罪をテーマにした法廷ミステリーになっています。冤罪がテーマのミステリーは、究極のところ、やったか、やっていないか、という二択に解が絞られるという苦しさがありますが、『兎は~』のすごいところは、たとえどちらが答えか確信を持っていたとしても――否、確信を持つからこそ――話がどう転ぶか分からない、というスリルを作っているところだと思います。何度も状況をひっくり返され、その過程をハラハラしながら見守ることが出来る。これだけ読まされてしまうなんて、と恐れをなしたことを覚えています。

     とまあ、『さかさ星』にダメージを喰らい――ついでに、自分が連載完結させたホラーサスペンスの改稿方法を考えなければいけないので――貴志祐介作品を読み返してみることにしたのです。中学1年生の頃、『クリムゾンの迷宮』『青の炎』を同時期に読んだことがハマったきっかけでした。『クリムゾンの迷宮』はゲーム小説にハマっていた流れで手に取り、ゲーム内で起こっているあまりにグロテスクな事態に悲鳴を上げ、作中で出てくる「ゾンビ」に夢の中で追いかけられました……(当時、それまでに読んだ中で一番グロテスクだった小説はなんだろう。多分、誉田哲也『ストロベリーナイト』の死体の描写だったと思います。これも中1。かなり近いタイミングで、『クリムゾン~』に塗り替えられたことになります)。だからこそ、別のタイミングで読んだ『青の炎』が、同じ人の手で生み出されていることが信じられず、その瞬間、すべて読むことに決めたのでした。当時から、私はホラーが苦手です。だから、本来なら足が止まってもおかしくないはずなのですが、とにかく読んだ。面白いものが読めるという確信が体を突き動かしていたのです。2008年1月、『新世界より』の刊行までに追いつけたことは、当時から誇らしかった。これをすぐに読めて良かったと、心が躍りました。中学2年生で新本格に足を踏み入れる前の出来事です。

     さて、その時期以来、久しぶりに手に取ったのはまず、『黒い家』です。これは、昔読んだ時あまりに怖かった。怖かったからこそ、再読できずにいました。そして今再読すると……怖い。めちゃくちゃ怖い。何が怖いって、どう考えても異常な事態が起こっているのに、「社会人だから」逃げられないのが、本当に怖い。中学生の頃に感じた恐怖というのは、保険というシステムを活かして社会に生きている化け物の行状を淡々と語る恐怖と、包丁を持って追いかけてくるという事実のシンプルな怖さ。しかし、やっぱりフィクションとしての怖さだと受け止めていたと思います。子供だったから。『クリムゾンの迷宮』も、『黒い家』も、中学生の頃には恐怖の質を同等に受け止めていたのでしょう。ある種、バーチャルな恐怖として。

     しかし、今は大人になり、なんなら、保険会社ではないにせよ、ある程度公的な機関での窓口業務を体験したからこそ、この話の本当の怖さが分かる。相手が「こちらのルール」に従って行動してくる以上、こっちも社会人として対応せざるを得ない、これが非常に嫌なのです。『黒い家』という小説では、事態が大きく動く100ページまでを使って、これから起こる悲劇の種まきと同時に、「こちらのルール」の提示を行います。保険会社ではこういう仕事が行われ、そのルールの穴を突いてこういうことをしてくるやつらがいる、という提示がひたすらに行われるのです。入院給付金の詐欺のエピソードなどはその最たるもので、「こちらのルール」と穴の提示を行ったうえで、しかし、それでもこういう事例にはこう対応することが出来る――という解決法を見せてくれます。

     では、『黒い家』に出てくる犯人はどうか? なすすべがない。そう、これが怖い。社会人として、会社としての「こちらのルール」を読者も共有している以上、この「なすすべがない」という状況を、認めたくなくても理解せざるを得ない。ここに恐怖の構造があります。ロジックで、人の悪意を立証しきることは出来ない。だからこそ相手の論理に従わなければいけない。異常な事態が起こっていることは、疑いようがないのに。家を特定されているのに、色んなしがらみがあって逃げられないのも、すごくリアルです。横山秀夫の警察小説は、組織に入った後の方が面白く読める、というのは私の先輩の言ですが、『黒い家』にも何か近しいものを感じました。保険会社のディティールを通じて見えてくる「こちらのルール」は、組織に所属した人間ならどこか心当たりのあるものであるはずだからです。

     なお、ここでは、初読―再読の違いを記すことを目的としているため、上記のように書きましたが、『黒い家』は子供が読んでも十全に楽しめない、と主張する意図は全くありません。むしろ、作中で子供がひどい扱いを受けるからこそ、湧き出る怒りや恐怖というものが、この本にはあります。名作は何度読んでも発見があるものだ――という当たり前すぎることを言うために、こんなに字数をかけるなという話ですが、当たり前のことを、当たり前に書き残したいのです。

     続いて『悪の教典』です。2010年7月に刊行された単行本を私は読んだのですが……そうなんです、高校1年生で読んだんですよ。恐らく、一番面白い時期に。だからこそ再読をためらう気持ちもあったのですが、これは、読み直して正解。どのように抑制し、恐怖を高め、種を蒔き、伏線を張り、解放するか――そのリズムを気持ち良いくらいに味わうことが出来ました。何より驚いたのは、結末を知ってから読み返すと、あらゆる伏線が綺麗に張られ、上巻の三分の一を読み返しただけで、生徒が死ぬ順番から結末まで全てを思い出すことが出来たことでした。無駄なく配置され、設計された小説が持つ美しさが『悪の教典』にはあります。

     語り過ぎるとネタバラシになりかねず、読んでいる時の疾走感を味わうべき本なので、ここでは再読で初めて気付いた事実を一つだけ。『悪の教典』のダークヒーロー、ハスミンは英語教師であり、たびたび生徒に「Good!」「Great!」「Excellent !」などの賛辞を投げかけます。その評価は三段階なのか? という疑問が、小説の冒頭、第一章で提起されます。ハスミンはそれに応え、「Excellent!」の上があることを示し、その英単語を吐きます。さて、その英単語が次に登場するのはどこでしょうか? なんと小説の最終盤、ハスミンがある事態に差し掛かった瞬間に、その口から放たれるのです。「心底感動するくらい素晴らしい」場合に発するという、「その単語」を。そして、「その単語」は、最終盤一度きりしか放たれない――上下合本版の電子書籍で答え合わせをすれば、その単語の検索ヒットは2件。第一章の講義のシーンと、最終盤のそのシーンのみです。なお、「Excellent」は8件。

     しかし、この小説が怖いところは、ギリギリまでその刀を抜かなかった貴志祐介の凄みではない――その刀を抜いたうえで、なおも「諦めていない」ハスミンの姿が、怖いのです。「心底感動した」瞬間に放つとされるその言葉をあえてそのタイミングで書くことによって、ハスミンの言葉が、やはり感情のトレースに過ぎなかったことをあからさまにするこの手つきが、怖い。何度読んでも惚れ惚れとします。やはり、私にとって貴志祐介こそは、ホラーというジャンルの代名詞、否、エンターテインメントの代名詞であるのです。

    (2024年11月)

第91回2024.10.25
秋の翻訳ミステリー特集(後編) ~超犯人、最後の打ち上げ花火~

  • ジェフリー・ディーヴァー『ウォッチメイカーの罠』(文藝春秋)

    ジェフリー・ディーヴァー
    『ウォッチメイカーの罠』
    (文藝春秋)

  • 〇翻訳ミステリー特集、後半戦!

     では、後編に取り扱う作品のリストを。

    ●ロス・トーマス『狂った宴』(新潮文庫)
    ●ヱヴァ・ドーラン『終着点』(創元推理文庫)
    ●アンソニー・ホロヴィッツ『死はすぐそばに』(創元推理文庫)
    ●ローレンス・ブロック『エイレングラフ弁護士の事件簿』(文春文庫)
    ●ジェフリー・ディーヴァー『ウォッチメイカーの罠』(文藝春秋)

     ロス・トーマス『狂った宴』(新潮文庫)は、新潮文庫の「海外名作発掘」の一環で刊行されました。ロス・トーマスについては、読書日記第62回で同じく新潮文庫で刊行された『愚者の街』を取り上げています。令和の世に、ロス・トーマスを新刊で読めるというだけで奇跡のようなことなのですが、『狂った宴』も高まり切った期待を軽々と越えてくる良作です。選挙請負人と若手広告マンがアフリカの小国で選挙戦に乗り出していく……というのがざっくりとしたあらすじなのですが、ゆっくりと描写の妙に身を委ねながら、選挙戦の勢力図をじっくりと頭に浸透させていく読み方が吉。人物描写の端々まで味わっていると、選挙小説として次第に面白さが増していき、ラストに至って、あっ、と声を上げることになるでしょう。騙された……といっても、『愚者の街』のようなコンゲーム性ともやや違いますが、「これはどういう小説だったのか」を一瞬で提示してしまう作者の手際の鮮やかさには舌を巻きました。

     ヱヴァ・ドーラン『終着点』(創元推理文庫)は、極めて特異な構成で描かれるサスペンス。社会改革の活動家、エラからの電話を受けてモリーが彼女のもとへ駆けつけると、エラの傍には男の死体が。エラは正当防衛を主張。モリーはエラを庇おうとするが……というのが冒頭に描かれる光景ですが、物語はこのシーンを起点として、エラを視点人物とする「過去」の章と、モリーを視点人物とする「現在」の章を交互に描いていきます。どちらも、現在の一点を起点に「遡って/進行して」いくので、描かれる時間軸はどんどん離れていきます。この特異な構成にもかかわらず、「エラは何を考えているのか」「被害者は誰なのか」などの複数の疑問のピースが手際よく埋まっていくのが見事です。極めて特異な構成の一作として、記憶に留めたい一冊です。

     アンソニー・ホロヴィッツ『死はすぐそばに』(創元推理文庫)は、〈ホーソーン&ホロヴィッツ〉シリーズの第五作にして、かつてない冒険に挑んだ一作。第一部ではテムズ川沿いの高級住宅地〈リヴァービュー・クロース〉に住む人々について、共通の人物への殺意をそれぞれが醸成する過程を一人ずつ順番に活写します。第二部では、「わたし=ホロヴィッツ」が登場し、第一部に書いた物語は、ホロヴィッツの手によるもので、ホーソーンが五年前に解決した事件について彼から聞き出し、物語に仕立てたという事情が明かされます。この後も、三人称視点で過去の殺人事件の顛末が描かれるパートと、ホロヴィッツの一人称視点で書かれたパートが(基本的に)交互にやってくることになります。その二つのパートによって、少しずつ謎が深まる行程は、さすがホロヴィッツというところでしょう(個人的には、第四部である人物が放つセリフにはニヤリとさせられました。さすがホロヴィッツ、クリフハンガーが巧い)。車庫と車の二重密室、というやや変わった問題構成ながら、ストレートに密室の謎が登場し、ジョン・ディクスン・カー、島田荘司、横溝正史への言及があるのも面白いところ。昔の日本では、障子と畳の国で密室ミステリーが生まれるはずがない、というのが通説だったように思いますが(だから畳の部屋で構成された横溝正史『本陣殺人事件』山村美紗『花の棺』が新鮮だった)、ホロヴィッツが「最高の密室ミステリは日本から生まれていると考えるようになった」(『死はすぐそばに』、p.298)と述べているのも興味深いです。シリーズ第五作でこれほどの冒険を成し遂げているのも見事……と思わされますが、最終的な犯人と結末には、まごついてしまいました。段々と手癖が見えてきてしまったというのもありますが、犯人の犯行計画に一点、納得しがたい箇所があり(ホロヴィッツは密室物に対する議論の箇所で、感情、つまり動機が埋もれてしまうといった批判的なスタンスを明らかにしますが、このスタンスからきた趣向であると考えれば、このアイデアが出てきた理由は分かります。ホロヴィッツの作品世界では、動機が最も重くみられる)、ついでに……このシリーズの次回作をどのように続けるつもりなのか分からなくなったというのは、これは要らない心配ですかねえ。過去の相棒が出てくるという趣向は面白いと思ったのですが、もうホロヴィッツ(作中人物)もやっていることめちゃくちゃですからね。不安よりも期待が大きいのはもちろんですが、また第六作を、あるいは他のシリーズや単発の作品であっても、楽しみに待ちたいと思います。

     文春文庫から刊行のローレンス・ブロック『エイレングラフ弁護士の事件簿』は、ファン垂涎の一冊。ブロックが38年間かけて大事に書き継いできた悪徳弁護士、エイレングラフの物語全12編を、一冊に集成したものです。第一作「エイレングラフの弁護」が発表されたのは1976年。この短編にエラリイ・クイーンが太鼓判を押したため、帯に「エラリイ・クイーン偏愛」の文字が躍っているわけです。

     エイレングラフはかなり癖のあるキャラクターです。自分の弁護した人間は必ず無罪になる、とうそぶいたうえで、依頼料については「成功報酬制」をとる。つまり、有罪になったら一銭もいただかない。代わりに、いかなる経緯であれ、無罪になったのなら、法外な金を支払わないといけない、というわけです。エイレングラフは最初の短編で、医師も成功報酬制にするべきだと発言するとおり、ブラック・ジャックを思い浮かべてもらえれば大体イメージ通りですが、この男、無罪を勝ち取るためならどんな裏工作でもする。それも、法廷に持ち込まれることなく、その手前で無罪になってしまうのです。とにかく悪辣。「無罪」という結論のためならなんでもするその極悪ぶりと、短編自体が持つトリッキーな味わいからは、麻耶雄嵩の創り出した銘探偵、メルカトル鮎を思い出します。すぐに事件を解いてしまうがゆえに、短編には向かないとうそぶいている、あいつのことです。

     その悪辣さは、一編目「エイレングラフの弁護」を読んだ段階で明らかになりますし、必ず無罪になる、というパターンをきっちりと守りながら、わずかに切り口を変えていく、曲芸的マンネリズムというべき手法に唸ります。さすがの職人芸。しかも、これは長編には決定的に向かない設定なのです。裏工作の具体的な手口をブラックボックスに入れることによって、「無罪」という結果と、その原因である「真犯人の自白」であるとか「疑いの払拭」だけを示し、エイレングラフが具体的に何をどこまでやったかは明言しない(一部手口を明かすこともありますが、脅迫の材料となる部分だけ話したら説明を打ち切ってしまう)。依頼人との対話のみで骨格だけを示す。この省略によって、エイレングラフの怖さが立ってきます(たとえば一編目について、「そうする」ように誰かに金を握らせて頼むとか、あるいは本人が本当にやってしまうとか、そんなシーンが描かれたら興ざめでしょう)。そういう意味で――かつ、メルカトル鮎とはまた違った意味で――エイレングラフは「短編向きの」弁護士なのです。

     ブロックの短編芸を味わえる名編で、どれも面白いのですが、シリーズものならではのひねった開幕から、ゾッとさせられる終幕まで実に見事な「エイレングラフの反撃」と、ふてぶてしい弁護士にふてぶてしい依頼人を掛け合わせた愉快な一編「エイレングラフの代案」を好きな短編として挙げておきましょう。いずれにせよ、ぜひとも買うべき一冊です。

    〇さらば、ウォッチメイカー!

     さあ、そしてジェフリー・ディーヴァー『ウォッチメイカーの罠』(文藝春秋)です。言わずと知れた〈リンカーン・ライム〉シリーズの最新作であり、シリーズ中盤以降、ライムの宿敵として幾度となく立ちはだかってきた犯罪王「ウォッチメイカー」との最終対決を描く作品となっております。個人的な感慨は別として、まずは客観的な評価ポイントについて、説明を済ませてしまいましょう。

     犯罪王「ウォッチメイカー」との因縁の歴史は、シリーズ第七作『ウォッチメイカー』から始まりました。時計を愛し、連続殺人のモチーフとして「時」を採用したこの犯罪者は、『ウォッチメイカー』の事件を通じてライムと戦いますが、その後の事件でも、突如黒幕として立ち現れたり、かと思えば刑務所から逃げ出したりと、八面六臂の活躍を見せてきました(それがどの作品でのことなのか――を明かしてしまうのはさすがにマズいので、タイトルは控えますが)。

     読書日記第44回では、「ジェフリー・ディーヴァー試論」と題して、当時の新刊『真夜中の密室』までの全作レビュー及びディーヴァーの「どんでん返し」を分析するという試みを行いました。そこでの議論を繰り返すことはしませんが、「ウォッチメイカー」については、ディーヴァーの頭の中に生まれた壮大な構想を、説得力を持って提示するための絶対的犯人、というような言い方で評価しました。『ウォッチメイカー』という作品はシリーズの第七作にして、ライムの第一期の総決算ともいえる作品であり、第二期以降、この作品では「操りの構図」が前面に立ち現れるようになります。これはディーヴァーが「どんでん返し」のためにこの構図を好んでいる――というのはもちろんだと思いますが、「ウォッチメイカー」という存在をサプライズに隠しておくためには、前面に別の犯人がいなければいけない、という事情もありそうです。

     さて、本作『ウォッチメイカーの罠』では、かなり早い段階で、ウォッチメイカー本人が犯人であることが明らかになります。「操りの構図」を捨て、直球勝負でリンカーン・ライムに挑んでくるのです。その意味で、本作は原点回帰ともいえる王道の〈リンカーン・ライム〉の推理物語たりえています。

     高層ビル建設現場でタワークレーンが倒壊、一名の死者と数名のケガ人が出た。富裕層のための都市計画に反対する過激派組織が犯行声明を出し、さらに、24時間のタイムリミットを提示、時間が経過したら、次のクレーンを倒壊させるという。証拠の分析結果から、ライムは結論する――犯人は、あのウォッチメイカーであると。彼はニューヨークに潜伏し、クレーン倒壊に始まる恐るべき犯罪計画を組み立てていたのだ。そう、リンカーン・ライムを、殺害するための計画を……。

    『バーニング・ワイヤー』の電気、『スティール・キス』のエスカレーターなど、身近なものを凶器に変えてしまうディーヴァーの腕前には恐れ入ります。序盤では、どのようにクレーンを倒壊させたか、がカギになりますが(最初の一章はクレーンに乗っていた作業員の視点から描かれ、爆発のような手段で一気に倒れるのではなく、少しずつ傾いていき、それが止められなくなっていったという経過であったことが示されます。この不可解な倒壊の仕方が、最初の謎になっている)、この手段の巧さにも膝を打ちますし、ここで登場したアイテムを何度も使い倒して、サスペンスを醸成してみせるところも余念がありません。

     ウォッチメイカー周辺の謎や、その目的といった大きな「どんでん返し」の前にも、思いもかけないところに罠が仕掛けられていて、思わず、アッと声を上げてしまう箇所が何回もありました。個人的には、第一部に置かれた、タイムリミットサスペンスだからこそ成立する、ちょっと意外な捻り。冷静に考えてみれば、疑ってもいいような書き方がされているのですが、どんどん前に進むストーリー展開に翻弄されて、思わずやられてしまいました。

     そういう細かい点も含めてよく出来ていますし、最後の最後の瞬間まで練りに練られた、「ウォッチメイカー最後の花道」には感嘆しました。ホワイダニットに凝るのは『ウォッチメイカー』以降の作者の特徴でもありますが、よくもまあ、これだけ捻りに捻ったことを考えると感心させられます。ライムが推理に推理を重ね、ウォッチメイカーの動機を推理しても、まだまだ、一枚、二枚先に展開がある。ここが面白い。対決の凝りようも嬉しくなるほどです。

     そして、最後に明かされるのは、とびっきり稚気に溢れた真相。ここも巧い。際限なく反転してしまいそうな真相に、最後の楔をそっと打つ、「なぜ?」への解答。この真相自体が、「ウォッチメイカー最後の事件」に捧げられたはなむけでもあるのではないかと思わされます。『真夜中の密室』で見せた原点回帰のエネルギーを、ウォッチメイカーという怪物に再度注入し、華々しく退場させた大いなる力作。シリーズファンとして大満足の一冊でした。

     さて……ここからは、かなり個人的な話。私が『ウォッチメイカー』という作品に出会ったのは、2008年、中学2年生でのことでした(邦訳刊行は2007年)。そして、『ウォッチメイカー』が、現代海外ミステリーへの入り口となったのです。中学生の時に読む『ウォッチメイカー』は、ビザールな魅力に満ち溢れていて、かつ、謎解きミステリーの快楽に溢れていました。その時点では――他のシリーズ作品をすっ飛ばして、『ウォッチメイカー』を手に取ったという経緯もあり――ライムその人よりも、悪のカリスマというべきウォッチメイカーという存在に強く惹かれ、こういう犯人を造形できるディーヴァーに憧れを抱きました。私のディーヴァーに対する憧憬は、その多くの部分を「ウォッチメイカー」という存在に負っており、どこか象徴的な存在と捉えてさえいたのです。

     それから、15年以上経ち、今、ウィッチメイカーの最後の事件に立ち会う。20代最後の月である24年9月に、この本に出会う……私にとっては、遅すぎる青春の終わりを意味するような、そんな気がして、自分に呆れるような、同時に、切なくなるような、そんな気持ちになったのです。ラストまで、手に汗握る展開で、どんどん読み進めたくなる一方で、なんだか読み終わりたくなかったのも、それが理由でした。

     読み終わったら、自分の中で何かが終わるような気がする。そんな不安に駆られつつ、完成度の高さに満足して本を置こうと思ったその最後の瞬間に、先ほども指摘した「稚気に溢れた真相」が明かされたのです。なんだかそれが妙におかしくて、切なさや寂しさが吹っ飛んで、まだまだこの人の背中を追いたいと、そう思わされたのです。「時計」というガジェットに執着して、悪の天才を創造したかつてのディーヴァーの姿が、今も変わらずそこにあることを、その「真相」は教えてくれたから――なのだと思います。

     だから、『ウォッチメイカーの罠』は、私の中で、かつてないほど大切な一冊であり、このようにどれだけ言葉を尽くしても、言い尽くせるような気がしないのですが……ひとまずは、最高だった、という言葉を残して、この原稿を終わろうと思います。

    (2024年10月)

第90回2024.10.11
秋の翻訳ミステリー特集(前編) ~表からも裏からも読める、推理の冒険~

  • ガレス・ルービン『ターングラス 鏡映しの殺人』(早川書房)

    ガレス・ルービン
    『ターングラス 鏡映しの殺人』
    (早川書房)

  • 〇雑誌短編など

     ハヤカワミステリマガジン2024年11月号の特集「世界のジョン・ディクスン・カー」はなかなか気合いの入った良い読み物でした。ジョン・ディクスン・カー本人の未訳短編のほか、各国で「〇〇のカー」の名を冠された作家たちの短編が三つ収録されています。いずれも読みごたえのある作品でした。

     まずカー本家は未訳短編「運命の銃弾」。カーの17歳の頃の作品だという本作は、密室トリックそのものには大きな難がありますが、短い尺の中でも容疑者を二転三転させ、自白合戦まで盛り込むあたりの過剰さは、これぞカー! と嬉しくなってしまいました。結末まで読んだ後、冒頭に立ち返ると、思わずニヤリとするような趣向も。密室や怪奇趣味ばかりが取りざたされるカーですが、やはりその本質は、「狙いすぎたフーダニット」にあると思うのです。

     スウェーデンのカーことヤーン・エクストレムは国内での短編紹介自体初めてという貴重な一編(長編の訳出は『誕生パーティの17人』『ウナギの罠』の二作)。短編「事件番号94.028.72」では、実験室内の冷凍槽の中で氷漬けになって発見された博士の死体。一見すると足を滑らせて冷凍槽の中に転落し、その後凍結した……という事故のようにも見えるが、所長は殺人としか思えないと主張する。特異な空間を使ったトリックの案出は『ウナギの罠』にも通じる美点。お前このシチュエーション好きすぎだろ! というツッコミが浮かんだりもするが。間違いなくこの雑誌最大の収穫といえる珍品。

     フランスのカーことポール・アルテの短編「妖怪ウェンディゴの呪い」は、六千キロも離れた二つの土地(フランスとカナダ)で同時刻に同じ手口で二人の女性が殺された、という奇妙な事件が描かれます。ウェンディゴの伝承を利用した怪奇色たっぷりの味付けは、カーの一側面を強く受け継いだ結果でしょう。シチュエーションを聞いた時はアリバイトリックなのかと思ったのですが、そうではなく、「なぜこのような符合が起こったのか?」という切り口から真相が浮かび上がるところが見所です。安楽椅子探偵風に短編で処理したのも成功だと思います。

     中国のカーこと孫沁文(鶏丁)の短編「昆虫絞首刑執行人」は、なんと目張り密室に挑んだ一編(内側からテープ等で目張りされており、出入りが不可能と思われる状況を作るシチュエーションのこと。カーの『爬虫類館の殺人』が代表的作例)。本文中では「テープ密室講義」と題された章まであり、どのように目張り密室を作るか、について二つの方法を示唆しています。本文中ではサンプルとしてカーとクレイトン・ロースンの短編「この世の外から」を挙げ、法月綸太郎『密閉教室』有栖川有栖『マレー鉄道の謎』については(作中のキャラは)未読であると書いていますが、その二作まで広くカバー出来る分類なのは間違いないでしょう(ついでにいえば、綾辻行人×有栖川有栖のドラマ「安楽椅子探偵」の第四弾「安楽椅子探偵UFOの夜」も)。派手過ぎる密室トリックについては、良い意味で、笑うが吉、というところでしょう。

     小説新潮10月号の特集は「伏線回収について本気出して考えてみる」。私の短編「女死刑囚パズル」もこちらに掲載されていますが(内容紹介は前回の読書日記を参照のこと)、今回注目したのは坪田侑也「放送部には滅ぼせない」。高校の体育祭直前、体育祭でかける音楽のアンケートをとるために置いていた放送部の投書箱に突如投げ込まれたルーズリーフ。『体育祭が憂鬱です。中止してください。いっそ、滅んでしまえ。』奇妙な投書に返事をしてみると、そこから手紙のやり取りが始まる。放送部の部員二名は、投書した人の気持ちに寄り添おうとしつつ、一体、誰からの投書なのだろうと、手紙の中の些細な文言からその素性を推理していく……。ザ・青春ミステリーといった感じの一編であり、「素性当て」については、フェアであると仮定するならほとんど解が決まっているようなもの。では、この短編はどこがすごいのか? 伏線の張り方、手掛かりの示し方が上手い、ということに尽きます。どこか懐かしさも感じるいい短編です。ぜひ。

     最後に寄り道として、稲田豊史『このドキュメンタリーはフィクションです』(光文社)を取り上げておきたい。ドキュメンタリーに隠された「作り手の作為」を読み解くことによって、ドキュメンタリーのフィクション性が明らかになる、という主張を、犯罪ドキュメンタリーからバラエティー番組までを俎上に載せて丁寧に論じていく本です。著者の別の本『映画を早送りで観る人たち ファスト映画・ネタバレ――コンテンツ消費の現在形』〈光文社新書〉を岩井圭也さんにオススメされたことがあり、興味深く読んだので、こちらも楽しみにしていました。『映画を~』にも通じる議論ですが、「第6章 脚注としてのメイキング」(主題は「さようならすべてのエヴァンゲリオン~庵野秀明の1214日~」など)における、メイキング=脚注「だけ」を楽しむ人の姿や、第7・8章で展開されるバラエティー「水曜日のダウンタウン」の悪意ある仕掛け(「水ダウ」のVTR明けやカット尻の話をきちんと系統立てて話してくれる評論に出会えてとても嬉しい)と受容のされ方に関する議論は、現在の受け手の態度を考えさせるという意味でかなり示唆に富んでいて、刺激的な読書になりました。ドキュメンタリーにあまり興味がないという人もぜひ手に取って見てほしいです。ハマりますよ。

    〇年に一度の翻訳ミステリー特集

     今年もミステリーランキングの刊行時期が近付いており、翻訳ミステリーの話題作の刊行が立て込んでいます。例年通り、今回も翻訳ミステリー特集を行っていきましょう。昨年も使った手法ですが、全国翻訳ミステリー読書会YouTubeライブとして行われた「第3回 夏の出版社イチオシ祭り」から、各出版社がイチオシ作品として取り上げた作品をまとめて取り上げていくことにします。ただ、参加した9社9作品のうち、扶桑社の『ヴァイパーズ・ドリーム』(11月5日刊行予定)、U-NEXTの『THE LIVING DEAD』(10月23日に上下巻で刊行予定)は、この原稿を執筆している9月末時点では刊行されていないため、紹介を割愛します。

     まずは前編で取り上げる作品のリストから。

    ●ベンジャミン・スティーヴンソン『ぼくの家族はみんな誰かを殺してる』(ハーパーコリンズ・ジャパン)
    ●イライザ・クラーク『ブレグジットの日に少女は死んだ』(小学館文庫)
    ●エイヴァ・グラス『エイリアス・エマ』(集英社文庫)
    ●ガレス・ルービン『ターングラス 鏡映しの殺人』(早川書房)

     残りの3出版社、文藝春秋、東京創元社、新潮社の作品は2週間後に更新の後編で紹介します。では、ガンガンいきましょう。

     ベンジャミン・スティーヴンソン『ぼくの家族はみんな誰かを殺してる』(ハーパーコリンズ・ジャパン)は、冒頭に「ノックスの十戒」を掲げるふてぶてしい謎解きミステリー。カニンガム家は曰く付きの一族であり、主人公の「ぼく」は冒頭で「ぼくの家族は全員誰かを殺してる」と宣言する。彼ら一族が集まったロッジで起こる殺人事件を描くわけですが、この平凡なプロットを「ぼく」の自在な語りが闊達に動かしていくところが本書のミソ。狙い澄ましたフーダニットの趣向まで一直線に練り上げられています。犯人の隠し方は非常に面白く、それだけでも読む価値がある一作です。趣向に関しては、一点、個人的に大きな不満があるのですが、友人に話したところ全く同意を得られなかったので、私の考えすぎかもしれません。

     ハーパーコリンズからは、ルー・バーニー『7月のダークライド』にもご注目。第75回で取り上げました。疾走感あふれる青春犯罪小説の傑作です。

     イライザ・クラーク『ブレグジットの日に少女は死んだ』(小学館文庫)は、読書日記の第82回でも取り上げた「実録犯罪(トゥルー・クライム)もの」の系譜に属する一冊。EU離脱(ブレグジット)の日に、十六歳の少女が暴行を受けて死んだ。犯人は同じ年頃の少女三人組だった。被害者と加害者たちはどんな人生を送ってきた人物なのか? なぜ、悲劇は起きたのか? モキュメンタリーの手法を使った作劇は、第82回で取り上げた作品と似通っていますし、「一旦この事件について取り上げたノンフィクションが出版され、内容に問題があるとされて回収された」という設定も、「第二版」という設定を付したジョセフ・ノックス『トゥルー・クライム・ストーリー』と酷似していますが、語り口が大きく異なるため、二番煎じとは感じさせません(ノックスが2021年に原著刊行、クラークは2023年に原著刊行)。様々な叙述形式を導入し、テキストの信頼性を幾重にも揺さぶってくるところが本作のミソといえるでしょう。

     エイヴァ・グラス『エイリアス・エマ』(集英社文庫)は、英国推理作家協会(CWA)賞の最終候補となったスパイ小説。英国の新人スパイ、エイリアス・エマは、ロシア人科学者夫妻の一人息子、マイケルを保護する任務を受けます。しかし、ロンドンの監視カメラ・ネットワークはロシアの諜報員にハッキングされており、二人はカメラの目をかいくぐって、自力でMI6の本部まで辿り着かねばならない……というのがあらすじ。エマの父親がロシアのスパイであり、エマにとってスパイになるのが夢だったという設定が効いています。決して楽天的なものではありません。父親のすすめで、エマは母親と一緒にロシアを出ることになりますが、単身ロシアに残った父はその後、国に殺されてしまったのです。いつか、ロシアに復讐するために、自分もスパイになる。新人スパイであるエマにはそうした強い復讐心があり、新人ならではの危うさも相まって、実にスリリングな読み味になっています。古き良きスパイ小説の面白さを味わえるアクション小説ですが、エマが超人ではなく、足掻いて立ち回るところが、親しみやすさを感じさせる理由でしょうか。池田真紀子の訳文も相まって、スピーディーに楽しめる快作。

     集英社文庫からは、海外ミステリーの刊行点数は少ないながら、今年はカルロス・ルイス・サフォン『マリーナ バルセロナの亡霊たち』も刊行されています。〈忘れられた本の墓場四部作〉の作者の原点ともいえる、愛すべき小品です。

    〇「両面から読めるミステリー」の新たなる傑作

     前編の最後に取り上げるのは、ガレス・ルービン『ターングラス 鏡映しの殺人』(早川書房)。本を手に取ってまず驚かされるのは、表からも裏からも読める、という構成の特異さでしょう(これは邦訳版だけでなく、原書もこの構成のようです)。赤い表紙の面からは、1881年、ターングラス館で起きる奇怪な殺人事件を描く【エセックス篇】、青い表紙の面からは、1939年、カリフォルニアで起こる作家の自殺事件を描く【カルフォルニア篇】を読むことが出来るのです。それぞれの作品は独立していますが、二つの物語を読むと、全体像が見えてくる仕掛けとなっているのです。ターングラス、砂時計というタイトルと、鏡のモチーフ選択も完璧で、実に惚れ惚れするような一冊です。

     両面から読めるようになっている本を「テート・ベーシュ」と呼び、日本でも過去に例がなかったわけではありません。折原一『倒錯の帰結』『黒い森』、芦辺拓『ダブル・ミステリ 月琴亭の殺人/ノンシリアル・キラー』がそれに該当するでしょう。また、テート・ベーシュとは厳密には異なりますが、六つの短編が互い違いに右綴じ・左綴じにされており、短編を好きな順番で読める道尾秀介『N』も、同じような仕掛けの本と言えるでしょう。

     先に、こうした日本の過去作品の話をしてしまうと、折原、芦辺の作品は、表から始まる「●●編」と裏から始める「▲▲編」のどちらからでも読めると謳ってはいますが、最後の大オチは真ん中に綴じられた袋綴じに書かれており、袋綴じだけは最後に開けるように指示されているわけです。何か大オチがある場合は、この仕切りが限界でしょう(また、二つの物語に何かしらの大オチがある、という提示によって、考え得るオチはあらかた制約されてしまうきらいもあります)。『N』はこの点、全編を通した大オチというものは存在せず、短編を一つ読むごとに作品世界のタペストリーが穴埋めのように埋まるような仕掛けになっているため、本当にどこから読もうと、どういう順番で読もうと良いという自由度を確保できるわけです。自由度の代わりに、著者が衝撃を制御しきれない弱点はあるでしょうが、ここでは繋がりが明らかになることで生じる衝撃よりも、個々人によって違う体験を得る体験価値の方に重きが置かれていそうです。『いけない』『きこえる』にも通ずる著者の姿勢です。

     では、翻って『ターングラス』はどうかというと、形式的には『N』に近いといえます。袋綴じのように、絶対に最後に読まなければいけないという箇所はありませんし、【エセックス篇】と【カルフォルニア篇】は本当にどちらから先に読んでも構わないようになっています。ネタを割らないように言うのが難しいのですが、二つの物語は、卵とニワトリのような関係性なのです。また、どちらから読んでも、「あれ?」となるタイミングが揃っているのも面白いと思います。最後の瞬間ではなく、もっと手前に置かれた違和感なのです。本の形式そのものも生かして、作者は容赦なく読者の鼻面を引き回してくれます。

     このタイプの作品で、趣向に溺れることなく、【エセックス篇】、【カルフォルニア篇】共に謎解きミステリーとしてスマートに作られているところも非常に好感が持てます。そのうえで、リドル・ストーリーのように、埋め切れない空白が残るところも面白いのです。全てがスッキリ明快に解かれて終わる折原・芦辺式のテート・ベーシュが好きだという方は首を捻るかもしれませんが、本を幾度も(砂時計のように)ひっくり返しながら、広げられた物語のタペストリーを眺め、わずかに埋まらなかった空白に思いを馳せる体験は、他では得難い楽しさがあります。造本も素晴らしく、ぜひ、一冊持っておきたくなる本です。

    (2024年10月)

第89回2024.09.27
不可能犯罪とは、演出力である ~〈ワシントン・ポー〉、最高傑作!~

  • M・W・クレイヴン『ボタニストの殺人』(ハヤカワ・ミステリ文庫)

    M・W・クレイヴン
    『ボタニストの殺人』
    (ハヤカワ・ミステリ文庫)

  • 〇告知から

    「小説新潮10月号」に「女死刑囚パズル ~迷探偵・夢見灯の読書会~」が掲載されています。同シリーズの第四弾です。このシリーズでは、読書会の課題本そっくりの事件に夢の中で巻き込まれる――という設定を用いて、これまで三人の作家を扱ってきました。ジョン・ディクスン・カー(カーター・ディクスン)、アガサ・クリスティー、エラリー・クイーンの三人です。そして、四人目はいよいよ日本人作家、それも、法月綸太郎に挑もうという趣向です。法月綸太郎「死刑囚パズル」『法月綸太郎の冒険』〈講談社文庫〉収録)で扱われた、「死刑執行直前の人間を、なぜ殺害したか?」というホワイダニットの謎に挑みます。この謎の別解は、鳥飼否宇「魔王シャヴォ・ドルマヤンの密室」『死と砂時計』〈創元推理文庫〉収録)でも編み出されていますが、それとはまた違った解決を捻り出しています。

     アイデアの中核は、打ち合わせの中で与えられたものですが、日本の刑務所をそのまま使うと上手く実現できないアイデアであるため(逆に言うと、夢世界で事件を起こす、という本作の枠組みが巧く使える形で、時宜を得たような感じがして嬉しかったです)、肉付けと演出、「死刑囚パズル」とクイーンの『Zの悲劇』に捧げるための消去法推理への挑戦に意を払って、どうにか完成させることが出来ました。核を与えてくださった新潮社の新井久幸さん、魅力的な設定と謎を使わせていただいた法月綸太郎さん、ありがとうございます。

     これからは日本人作家編が始まります……と言いたいところですが、打ち合わせの内容そのままでいくなら、第五話は異色編です。とはいえ、この異色編、料理が多分大変なんですよね……どうなることやら……。

    〇トリックの話

     さて、今少し名前を出した、カーター・ディクスン(以下、カーと表記)に寄り道してみます。なんだか無性にカーが読みたくなって、読書日記第79回の仙台紀行編で購入したカーの『一角獣の殺人』を読んでみました。カーの作品にはまだいくつか読んでいないものがあり、ちょっと大事に取っておいているのです。

     で、この作品、もう、めちゃくちゃ。良い意味で。「一角獣」の角で突かれたとしか思えない死体が出てくるという演出だけで、カー全開で笑ってしまうのですが、ストーリーの主軸をなしているのは、希代の怪盗、フラマンドとパリ警視庁の主任警部、ガストン・ガスケの知恵比べ、そこにわれらが名探偵H・M卿が絡んでいくという三つ巴の戦いなのです。もう、めちゃくちゃ(笑)。フラマンドもガスケも変装していて、誰がその正体なのか分からない、という状況がますます謎を複雑にしていて、もはや笑うしかないのです。でも、このめちゃくちゃっぷりが、カーなんですよねえ。

     謎解き物としては、このフラマンドとガスケまわりのアクロバティックな状況作りと、それを読み解いていく解決編が面白いところですが、トリックそのものはやや落ちる感じと言わざるを得ません。やっぱり、馴染みのないアイテムが真相に関わっているのが難点でしょうか。

     でも、これがね、事件が起こる時は妙にワクワクするんですよ。目撃者のいる状況で、階段の中腹に転げ落ちていった人間が、発見時には額に角で刺されたような痕を残されて死んでいる。不可能性の高い状況で、ここの演出力は、さすがカーといったところ。とにかくワクワクするんですね。一体どうやったのか、どうやれば突破できるのかと、眉に唾をつけて挑みたくなってしまう。だからカーの作品を読むたびに、ハウダニットというのは、演出力なんだと思い直してしまうのです。

     そこで、M・W・クレイヴンの話をしたい。

    〇〈ワシントン・ポー〉シリーズ、またしても最高到達点!

     M・W・クレイヴン『ボタニストの殺人』(ハヤカワ・ミステリ文庫)は、著者による警察小説〈ワシントン・ポー〉シリーズの第五作であり、真っ向から「不可能犯罪」に挑んだ贅沢な作品です。邦訳では初めて上下巻の分厚さになっていますが(6月に刊行された別シリーズの『恐怖を失った男』も600ページ超えの大部でしたが、『ボタニスト』は上下巻合わせると750ページを超える)、その分厚さをまったく感じさせない娯楽大作になっています。

     本作では二つの事件が同時並行で起きます。一つは、「ボタニスト」と呼ばれる殺人犯による連続毒殺事件です。ターゲットにあらかじめ押し花と一編の詩を送り、その詩の内容によって使う毒物を仄めかす……という趣向で、殺されるのは、女性差別主義者やネットの陰謀論者など、殺されても仕方ないとボタニストが考える相手ばかり。これが上巻の帯に書かれた「完全な密室下での毒殺」を描くパートになりますが、本来、密室と毒殺は喰い合わせが悪いところ、本作における徹底した「不可能性」の演出にはどうしようもなく興奮させられます。第三の事件以降、使われ得る毒物を特定してからの、「完全な」封鎖作戦には胸躍るものがあります。

     しかし、もう一つの事件もすごい。こちらでは、シリーズの重要キャラクターであるエステル・ドイルの父親が殺され、しかもその現場は新雪に覆われた「雪密室」。密室の中には、エステルしかいなかったので、第一容疑者になる……という趣向なのです。かなりショッキングな幕開けですし、それに見合うだけの盛り上げ方をしてくれます。クレイヴン自身、不可能犯罪に対する気概は十分で、「ジョン・ディクスン・カーの小説のなかにいるような気分なのはなぜだろうな?」(上巻、p.195)というセリフをポーに吐かせるシーンもあります。

     本作を読んで痛感するのは、不可能犯罪は演出によってこれほどまでに面白くなる、ということです。ハッキリ言って、たとえば本作のネタバラシだけを聞いて、二つの事件のトリックだけを知った本格ミステリーマニアが感心する可能性は極めて低いでしょう。片方のトリックはあまりにもぬけぬけとしすぎていて、もう片方のトリックは専門性が高すぎる。専門性が高すぎると、事前にフェアな情報提示が出来ないうえ、細かい手順の説明が解決の快感を削ぐ傾向があります。だから、トリックだけ抜き出したとしても、本作の魅力は少しも表現出来ないのです。

     では、『ボタニストの殺人』の魅力はどこか。それは、「不可能性」を堅牢にするための演出です。別解潰しだけでなく、「さあ、ここまで塞いだらいよいよ困難に見えるでしょう?」という作者のふてぶてしい書きぶりも、実に憎らしい。毒殺事件の方は、ターゲットは予告されている状態ですから、ターゲットを殺されないように、徹底的に通り道を塞いでいく手法が採られています。この執拗なまでの毒殺ルート潰しが、小説のテンションに大きく寄与しているのです。演出が強烈に行われているため、それだけでワクワクさせられますし、トリックが明らかになる推理や捜査の過程が面白く映えてきます。ここに、確かな本格ミステリーの愉しみがあります。

     少しだけ脱線すると、8月に公開された映画「ラストマイル」にも、こうした「演出」による「不可能犯罪」の愉しみがあります。同作は、監督・塚原あゆ子と脚本家・野木亜紀子のタッグによって作られた「アンナチュラル」「MIU404」と世界線を同じくするシェアード・ユニバース形式の映画であり、物流業界に鋭く切り込んだ社会派エンターテインメントです。しかし、何より興奮させられたのは、爆発物をいかに荷物の中に仕込んだか、という不可能犯罪ものとしての魅力です。「DAILY FAST」というショッピングサイトから運ばれた荷物の中に、爆発物が混じっていた。しかし、倉庫の管理状況はこう、配送時の状況はこう、では、どこで爆弾を仕込むことが出来る? というのが興味の中心になっていて、主人公二人は何度もその手口について議論を重ねます。何度も繰り返されるディスカッションと、「ショッピングサイトのセンター長がこの危機にどう対処するか?」という部分の解決策をケレン味たっぷりに描くことで、剛腕で成し遂げられるしらみつぶしの「消去法推理」。不可能性をこれほどまでに高めつつ、数段階に分けてプロットの中で謎を解消する手口には惚れ惚れしました。「ラストマイル」と『ボタニストの殺人』は、その娯楽大作としてのプレゼンテーションの見事さと、「不可能犯罪は演出力である」ということを思い出させてくれるという、この二点において、私の中で妙に重なった作品でした。

     閑話休題。〈ワシントン・ポー〉シリーズには、第一作の『ストーンサークルの殺人』や第三作の『キュレーターの殺人』のように、ミッシングリンクなどホワイダニットを中心に据えた作品があったり、第四作『グレイラットの殺人』のように派手なスケールの事件を扱う作品もありますが、個人的には、第二作『ブラックサマーの殺人』や本作『ボタニストの殺人』のように、「不可能性」を中心に据えたプロットの方が好みです。専門性の高いトリックも含まれますが、ブラッドショーというキャラクターの特性を生かしながら、ポーの推理力も光る展開が多く、読み応えがあります。そんなわけで、本作、かなり好みです。異論はありそうですが、私の中ではクレイヴンのベスト。

    (2024年9月)

第88回2024.09.13
論理とは、たたずまいである ~有栖川有栖の推理に魅せられる~

  • 有栖川有栖『日本扇の謎』(講談社ノベルス) ※講談社から愛蔵版も同時発売。書影は講談社ノベルス。

    有栖川有栖
    『日本扇の謎』
    (講談社ノベルス)
    ※講談社から愛蔵版も
    同時発売。
    書影は講談社ノベルス。

  • 〇めでたい知らせ!

     井上先斗『イッツ・ダ・ボム』(文藝春秋)が刊行されました。同書は第31回松本清張賞を受賞した作品であり、「日本のバンクシー」として注目を集めるグラフィティライター〈ブラックロータス〉を描いた犯罪小説となっています。第一部では、彼の正体を追うウェブライターの視点から、グラフィティなる特殊な文化そのものを俎上に載せつつ、〈ブラックロータス〉という謎の存在に迫る過程が描かれます。第一部は、いわばハードボイルド調。しかし、第二部になると、今度は別のグラフィティライターである〈TELL〉の視点に切り替わり、グラフィティという文化に身を浸す人々の叫びを描いていくのです。この二部構成が効いているのが、『イッツ・ダ・ボム』という小説の魅力です。もちろん、切り詰めた文体も魅力的で、ハードボイルドの雰囲気にがっちり合っています。200ページほどの長さなのも美点で、グラフィティに馴染みのない読者でも、ぐっと牽引されてあっという間に読めてしまうでしょう。

     表紙がグラフィティで描かれているという仕掛けも面白く、これはぜひ、紙で持っておきたい本ですね。表紙のグラフィティは、文藝春秋の地下駐車場で、実際にグラフィティライターの方が描いたものらしく、井上先斗による当日のルポエッセイが以下のリンクから読めます。WEB連載なので、すんなりハイパーリンクを貼れてしまうんですよね。

     リンク→https://bunshun.jp/articles/-/72887

     そして、この井上先斗さん……実は、同級生なのです。といっても学校は別なのですが、主に関東圏のミス研が参加する「全日本大学ミステリ連合」(以下、ミス連)という団体の同級生です。当時から会誌の交換などを通じて作品を読み合う仲だったので、『イッツ・ダ・ボム』の受賞及び刊行が自分のことのように嬉しい。授賞式での米澤穂信さんのスピーチも感動的で、良かったなぁ、とうるうる。昔からの友人がデビューするというのは初めての経験なので、こういう感慨が生まれるんだなあと、今はしみじみと噛み締めています。

     よく、新人が出るということはライバルが出てくるということだぞ、なんていう言葉を聞きますが、今はね、正直どうでもいいです、そんなこと。『イッツ・ダ・ボム』を読もうぜ、みんな――という、そんな感じ。

    〇ミス連の話から派生して……

     ところで今年、ミス連の夏合宿にお招きいただき、講演会をしてきました。その節は皆様、ありがとうございました。

     同団体は、毎年夏に作家を招いた合宿を行っており、今年は5年ぶりの開催となったのです。2019年は、辻真先先生をお招きして、熱海で合宿を行いました。新型コロナの影響でしばらく開催できなかった、ということです。私が現役学生で、幹事を務めていた頃は、毎月一回、OBOGも招いて夜に飲み会を行い、夏合宿をしていたのですが、今は現役学生を中心に昼に読書会を行っているということです。いいですねえ。

     また、文学フリマを通じて連絡先を交換したということで、なんと、関東圏中心だったミス連の合宿に大阪大学と京都大学のミス研が参加していたのです。個人的には、ちょっとした事件でした。それどころか、現役学生だけで40人を超える大所帯となっていて、私が幹事の頃、OBOGを入れても合宿が20人程度だったのがもう隔世の感。でかい団体になってくれて嬉しいです。来年も誰かに声がかかると思うので、もしこれを読んでくれている人に作家がいたら、うっすら、そういう行事があるって覚えておいてください。効果があるかは知らないけど。

     私の仕事としては、熱海の宿で二時間講演会を行い(他の作家さんや評論家さんがいない状態で二時間喋るのは、結構体力使いました。初めて喋ったことなども多いので、話した内容が何かの参考になれば嬉しいです)、サイン会をさせていただいて、夜にミス連恒例となっている古本オークションという、ダブってしまった本や放出本をオークション形式で売る行事の出品者および司会および集計者をやっていました。このオークションの収益は、出品者の懐に入るわけではなく、代々のミス連金庫に入れるだけなので、要するにチャリティーイベントなのです。評論本を中心に提供したもう一人のOBである早川書房の井戸本幹也氏と、電子書籍化もなかなかされていないレアな小説を中心に持ってきた私とで、バランスが取れていたのではないでしょうか。夜は京大ミス研の「犯人当て」観を拝聴する時間もあり、なかなか濃い時間でした。

     というわけで、今回お世話になった方々、改めてありがとうございました。今後の活動も、来年のミス連合宿も、ますます賑やかで楽しいものになることを願っております。

    〇論理に関わる小説たち

     では、ここから新刊の話を。白井智之『ぼくは化け物きみは怪物』(光文社)は、グロテスクな奇想を毎回実現してくれる名手による最新短編集。今回のポイントは、SF的な発想を導入することで、著者の奇想の領域が広がっていることだと思います。「大きな手の悪魔」は突如襲来した「襲撃者」たちにより人類が滅亡の危機に瀕している世界を描き、「モーティリアンの手首」では異星生物のバラバラ死体を発掘してしまった人々が描かれます。こうした派手な設定を使っていても、細かな物証に着目して状況をひっくり返していくのが白井流。

     末尾に置かれた書き下ろしの「天使と怪物」が白眉。綾辻行人「フリークス ─五六四号室の患者─」『フリークス』収録)や井上雅彦『竹馬男の犯罪』を思わせる、ショーに参加する異形の人間だらけの状況だからこそ成立するフーダニットのアイデアに、多重解決を絡ませているところが秀逸です。個人的には、冒頭に置かれた「最初の事件」は、雑誌掲載時から大好きな一編。設定を使ったぬけぬけとした展開にクスッときますし、些細な物証の動きとダイナミックなハウダニットが同居した謎解きも魅力。

     方丈貴恵『少女には向かない完全犯罪』(講談社)は、クライム・サスペンス風の枠組みを導入することで、今までにない著者の顔を示した一作。特殊設定×ロジックの遣い手である作者が今回導入したのは、完全犯罪請負人が幽霊となってしまい、復讐を企む少女のアドバイザーとなる……という設定。幽霊が存在する世界ではありますが、それが特殊設定ミステリー的に扱われるのではなく、むしろ、事件の調査を容易にするなどサスペンスとしての見せ方に奉仕し、ロジックは徹頭徹尾現実の理屈で行われるというあたりが魅力です。ロジックのかすがいが要所要所で使われることで、目的地を見失わずについていくことが出来ますし、だからこそ、終盤の連続どんでん返しの味わいも映えてきます。中盤である人物の存在が明らかになってから、コンゲームめいた味わいが生まれてくるのもユニークです。

     静月遠火『何かの家』(メディアワークス文庫)は、特殊設定ミステリーを読みたい人の心を満たしてくれるであろう一冊。なんといっても、西澤保彦『人格転移の殺人』を思わせる設定が扱われているのが魅力です。「決して一人で入ってはいけない」約束事がある家について、民俗学を専攻している学生がフィールドワークにやってくる……というのが筋。この家にはなんと、必ず誰か一人が囚われていて、次の人が来ないと外に出られない……というルールがあったのです。それだけでなく、もう一つ重要なルールがあるのですが、これはルール開示=ロジックの提示自体にニヤリとさせられるシーンなので、あえて伏せておきましょう。ぼかしたうえで説明すると、ここでは、そのルールが導入されれば真相はあからさまになるはずなのに、そうなっていない、というアクロバットが用意されているのです。著者は『真夏の日の夢』でも逆三角形型というか、終盤で怒涛の謎解きを行う快作をものしていて、探偵小説研究会の評論本『本格ミステリ・エターナル300』にも採られていました。本書『何かの家』もまた、ミステリー好きは読み逃すなかれ。

     倉知淳『死体で遊ぶな大人たち』(実業之日本社)は、タイトル通り、死体をテーマに据えて奇妙な謎を捻り出した中短編集で、著者のデビュー三十周年記念作品。死者が生者の首を絞めて心中が成立したとしか思えない状況を意外なトリックで解き明かす「それを情死と呼ぶべきか」や、両腕を切断後、腕だけ別人のものにすり替えられた奇妙な死体の謎を安楽椅子探偵形式で解き明かす短編「死体で遊ぶな大人たち」など(ロジックの形は違いますが、「死体で遊ぶな~」で展開される、街の中から一人を摘まみ上げるロジックの切れ味は、著者の『壺中の天国』を思い出します)、作者らしい作品が並ぶ中、異彩を放っているのは中編「本格・オブ・ザ・リビングデッド」

     作品の冒頭に置かれた注意書きの通り、「某人気作家の某ベストセラー作品と状況設定に類似したところが」ある作品なのですが、ここではゾンビに囲まれた山荘での殺人劇が描かれます(某ベストセラー作品を読んでいる人なら、あ、と気付くでしょう)。ゾンビについて、ロメロの創造した「モダンゾンビ」像にばっさりと焦点を絞り、八つのルールを提示して事件に入るのは、いかにもぬけぬけとしていて、倉知淳作品の読み味といったところ。あまりにも無茶ながら、妙に納得のいくバカトリック(誉め言葉)が成立しているのも面白くて、別バージョンとして摂取してほしい怪作です。

    〇〈有栖川有栖の国名〉シリーズ最新作

     さて、ここまで、さまざまな形の「ロジック小説」を見てきましたが、新刊を読むたびに、毎回、新しい形の冒険をしていると思わされるのが、有栖川有栖の作品群、特に、火村英生シリーズです。ここからの話は、正直、私の中でもまだ生煮えの議論です。時間が足りず、重要と思われる作品を読み返すことも出来ていません。なのですが、一度吐き出しておこうと思います。一言でいうなら、有栖川有栖の作品群においては、毎回、志向されているロジックの「たたずまい」が違っており、それは事件の性格から、あるいは名探偵にいかに推理をさせるかという問題意識から、必然的に生じうるものなのではないか、ということを言ってみたいのです。

     これを意識したのは、〈火村英生〉シリーズの一つ前の作品、『捜査線上の夕映え』が刊行された時の杉江松恋による書評がきっかけです(【今週はこれを読め! ミステリー編】→https://www.webdoku.jp/newshz/sugie/2022/01/11/185756.html)。この文章にある、「ここしばらくの火村英生シリーズは、名探偵が登場して推理するタイプの謎解き小説のフォーマットに新たなバリエーションを加えるような実験を常に行っている」という指摘からインスピレーションを受け、有栖川作品を読み直すうちに、仮説が生まれてきた……これが発想の順序でしょうか。なので、前述した杉江評に敬意を表しつつ、ここでは、自分なりの用語で、この「実験」をロジックの「たたずまい」という言葉で表現してみることにします。

     決定的だったのは、この評に出会った後、『妃は船を沈める』を読んだ時のこと(これは『ミステリーツアー』の書評のために再読したものです)。ネタを割らないために、迂回した言い方をします。ここでは、解決編において、重要な物証が一つ宙づりの状態で置かれ、そこから一点突破することは出来ません。だから、火村はある程度の段階まで推理を進めたら、その物証を宙づりのまま別の角度から推理を始める。その推理が、宙づりにした物証を回収するような形でなされたら、犯人はこの人だ、という言い方をする。この推理のやり口というのは、犯人の性格の裏返しでもあり、同時に、同書がW・W・ジェイコブズの怪奇短編「猿の左手」に別の解釈を見出す小説だったことを思い出させます。一つだけでは意味をなさない記述が、別角度の議論を経由することで、その形を変えてしまう。ここでは、ロジックの「たたずまい」が、小説全体の趣向と軌を一にしています。

     あるいは『乱鴉の島』。ここでは、島にいる人々の真ん中に、ぽっかりと、何か埋められない空白がある。その空白は、もちろん、作中で引用されるE・A・ポーの詩「大鴉」の響きとも重なり合っているのですが、重要なのは、その空白の正体を知らずに事件に巻き込まれる火村とアリスは、彼らから絶えず「疎外者」として扱われることです。この小説の構造そのものが、解決編の論理と響き合っていることは、既読者ならば納得してくれるはずです。

     『狩人の悪夢』という小説は論理の構造そのものが「狩人」という言葉に集約される物語でしたし、『捜査線上の夕映え』も、小説全体がコロナ禍の閉塞感とそこからの開放感を表現しており、事件の真相の中核をなすアレと、ロジックの動きはどこか連動しているようにも思います(こういう言い方が生煮えたる所以)。

     で、要するに何を長々と言ってきたかというと、最新作である『日本扇の謎』(講談社/講談社ノベルス)という長編でも、またやってきたぞ! ということが言いたいのです。そしてやはり、毎回、ロジックの「たたずまい」が違うという感覚は勘違いではなかったことが、ハッキリ示されているように思ったので、いかに生煮えといえどこのタイミングで言ってみたいと思ったのでした。

     まずはおおまかなあらすじから。記憶喪失の青年が舞鶴の海辺の町で発見され、身元を示す手掛かりは、大事に持っていた「扇」だけだった。程なく、その青年の身元は判明するものの、彼の周囲で不可解な密室殺人が起き、青年は事件と共に忽然と姿を消してしまう……。

    『日本扇の謎』というのは、エラリー・クイーン『境界の扉 ニッポン樫鳥の謎』(角川文庫。原題はThe Door Between)の予告が戦前のわが国では〝The Japanese Fan Mystery〟という誤ったタイトルで流布された……という「いわく」を利用して編み出されたタイトルです。この辺りの事情は、プロローグの「作家・有栖川有栖」と編集者・片桐とのやり方で過不足なく説明されます(ちなみにこのプロローグは、有栖川有栖が発想を組み立てる時の裏話を聞いているようで、そういう意味でも面白い)。密室殺人事件が出てくるところは『境界の扉』の本歌取りと言えますが、「扇」を中心に据えつつ、ロマンチックな筋運びをしてくれるあたりは、さすが有栖川本格といったところ。

     さて、今回の解決編で重要なのは、火村が「私はこれから●●を●●●●いきます」と宣言する場面だと思います。これは、発言の直後、刑事にツッコませている通り、火村がこれまでは嫌ってきた、嫌っていると言ってきた手法です。ここでは、今までの事件と違うことをしていますよ、と有栖川有栖はハッキリと宣言しているのです。

     しかし、この事件には、この論理が合うのです。実にぴったりとくる。要するに、『日本扇の謎』という作品の謎は、「あいまいさ」によって成り立っているのです。なぜなら、テーマが記憶喪失なのですから。

     記憶喪失というテーマが、あいまい、の印象に繋がるという議論について、せっかくなので他の二冊の新刊を経由してみましょう。一冊目は、S・J・ボルトン『身代りの女』(新潮文庫)。この作品は、学生の頃の若気の至りで起こしてしまった交通事故について、罪を引き受けた「身代りの女」が、二十年ぶりに出所し、かつての仲間たちの前に現れる……という筋の作品ですが、この「身代り」のアイデアよりも唸らされたのは、彼女が出所後、仲間の前で最初に発する一言です。彼女は、刑務所内でのケンカに巻き込まれてケガをし、記憶を失っている、と告げるのです。もし本当に記憶を失っているなら、身代りで罪を引き受けたことを覚えておらず、かつての仲間たちは「何か恐ろしい要求をされるのでは」と怯えなくてもよくなる。でも、本当にそうなのか? 記憶喪失を装うことで、自分たちの反応を試しているのでは? 「記憶喪失」という要素を導入した瞬間、彼女の本心は宙づりになり、これこそが、中盤以降のサスペンスを引き立てているのです。

     二冊目は、平石貴樹『室蘭地球岬のフィナーレ』(光文社)。〈函館物語〉シリーズの最終作であるこの作品については、読書日記第84回でも取り上げております。『室蘭~』では、ある人物が記憶喪失になったと主張しますが、捜査陣はこれを鵜呑みにせず、「記憶喪失が真実である場合/虚偽である場合」の二つの場合分けを念頭に置きながら、入念に推理を巡らせます。ここでは、記憶喪失という事象のあいまいさが、ロジックを複雑化させているのです。しかし、平石の論理は、有栖川の論理(ここでいう、『日本扇の謎』の論理)とは違った形で動きます。重要な物証、細かな手掛かりを、要石のように置いて、複雑化しそうな状況をロジカルに切り分けていきます。

    『日本扇の謎』では、どうか。ここでは、記憶喪失という事象の「あいまいさ」が、ロジックの中にそのまま取り込まれている。それこそが、「●●を●●●●」いくという手法なのです。全ての要素があいまいであり(これは読みづらいという意味では決してない)、確定しづらい状況であるからこそ、あえてそちらの道を採る。ロジックの「たたずまい」という仮説からすれば、記憶喪失というテーマと、「●●を●●●●」いく手法とは、ぴったりとハマるように選択されている。これが、有栖川有栖のロジックの「たたずまい」なのです。あいまいで、不確定。この事件の性格から、事件の動機も必然的に導かれるようになっています。事件の性格が、ロジックの「たたずまい」を規定する。これを、美しいと言わずしてなんでしょうか。

     そんなわけで、これはまたしても、ロジックの「たたずまい」が作品全体のテーマと一致した、見事で美しい作品なのです。この日記でこれまで挙げた作品や、エラリー・クイーンの諸作が示す通り、私は、物証そのものだとか、その物証から何を導くか、というところにややもすれば執着してしまい、物証や手掛かりばかり記憶に残ってしまうことが多いのですが、そうした微小な点ではなく、「たたずまい」そのものが流麗だと感じさせられるのは有栖川作品ぐらいしか思いつきません。有栖川有栖のロジックは、作品丸ごと呑み込まなければいけない。毎回ここまで計算し尽くされているのだとしたら、震えます。

    (2024年9月)

第87回2024.08.23
〈ネロ・ウルフ〉シリーズ(不)完全攻略(2) ~中期・後期の達成~

  • レックス・スタウト『編集者を殺せ』(ハヤカワ・ポケット・ミステリ)

    レックス・スタウト
    『編集者を殺せ』
    (ハヤカワ・ポケット・ミステリ)

  • 〇(不)完全攻略、続行!(各論編(2))

     レックス・スタウトの〈ネロ・ウルフ〉シリーズ(不)完全攻略の続きです。はい、細かいことは説明しません。前回を参照してください。

    凡例:〇は既読(◎は特にオススメ)。
     ・のままは未読。
     長編のタイトルの下にある太字はキャッチコピー。
     長編は「ユーモア度」「謎解き度」「読みやすさ」の三つの観点から五段階評価。
     短編については評価の表記を割愛。

    〇1946年『語らぬ講演者』(「別冊宝石」58号に掲載)
     ネロ・ウルフ依頼料を返還する? 謎めいた探偵の行動の意味は?
     ユーモア度 ☆☆
     謎解き度  ☆☆
     読みやすさ ☆

     1400名もの聴衆が待つなか、講演をする予定だった男が殴り殺された――という事件ですが、この長編では、『毒蛇』でも結末で用いた、アーチーによるウルフの行動の意図の絵解きが効いています。『毒蛇』の頃に比べると、二人の関係性にも変化が見える……でしょうか。読みやすさを低くつけているのは、ひとえに「別冊宝石」の読みづらさと訳によるもので、新訳されればまた印象も変わる……のでしょうか。戦後間もない発表であるため、アーチー少佐編の余波が感じられるのが興味深いです。

     この「別冊宝石58号」は、「世界探偵小説全集 レックス・スタウト篇」と題されており、『語らぬ講演者』のほか、長編『15人の名料理長』(『料理長が多すぎる』のこと)と中編「死の招待」(「ようこそ、死のパーティーへ」のこと)が収められています。『料理長~』と並ぶくらいには、スタウトの中でも有名長編なんでしょうか。

    〇1947年『女が多すぎる』(「EQ」89年11月号~90年3月号に掲載)
     アーチー、女だらけの会社に潜入捜査す。女好きの面目躍如、ここにあり。
     ユーモア度 ☆☆☆☆☆
     謎解き度  ☆
     読みやすさ ☆☆☆☆

     今回の依頼人は、大企業ネイラー・カー社の社長。この会社では、社員の一人が交通事故で亡くなっていたが、退職者に関するアンケートを社内でとったところ、その社員について「殺害されたため」と回答した人間がいた。本当に、彼は殺されたのか? この回答者は、なんのつもりでそんなことを書いたのか? 社長はこの謎について調べるためウルフに依頼し、なんと――ウルフを社員として潜入捜査させようとしていたのです。

     もう、この冒頭だけで笑わされますし、案の定、アーチーが潜入させられるところまでお約束通り、なのですが(いったんケンカ別れのような形になって潜入捜査に向かう寸前のウルフとアーチーの会話が結構好きです)、残念ながら、ミステリーとしては発端が山場だったと言わざるを得ないところ。依頼がスライドしていくようなウルフものの持ち味がなく、中盤、やや長すぎるきらいがあります(他の「EQ」掲載長編よりも長いので、ウルフものの長編の中でもかなり長い方でしょう)。解決編も今回はまずまず。ウルフによる大団円の推理劇を楽しめないことも、不満足感の一因です。ただ、アーチーのアクションシーンなど見所は多く、アーチーのファンであれば読み逃せない一編。

    ◎1948年『Xと呼ばれる男』(「EQ」98年9月号~99年5月号に掲載)
     悪の黒幕、アーノルド・ゼック現る。話題性は十分なのに、謎解きにも手を抜かない。
     ユーモア度 ☆☆☆☆☆
     謎解き度  ☆☆☆☆
     読みやすさ ☆☆☆☆☆

     ここから三つの長編にわたって、〈アーノルド・ゼック〉三部作が展開されます。アーノルド・ゼックというのは本書でも「ある犯罪」の裏にいる黒幕であり、政財界の大物ともつながっている「謎の人物」。たとえるなら、ホームズにとってのモリアーティ、というべき存在です。本書では中盤に、ウルフに電話をかけてきて、この件から手を引くように、という脅迫の電話をかけてきます。電話のみなので存在感は薄めとはいえ、「もしゼックを敵に回すようなことになったら、この家を離れて隠れ家を探さざるを得ないだろう」という旨のことをウルフは漏らしています。あのウルフが家を離れることを考えるというだけでも、相当です。ラストの会話劇がシビれる。

     作中で扱われる事件は、テレビ放送の本番中にゲストが毒殺された、というもの。ウルフの事務所は所得税の追加支払いに応ずるための余裕がなく、この毒殺事件に首を突っ込むことを決意……という発端からもう笑わされるのですが、出演者や関係者一人一人に秘密があり、それを暴いた結果、犯罪の形が見えてくる中盤まで、実にウルフものらしい本格ミステリーを味わうことが出来ます。中盤に、ある「ツイスト」を挟んでから、やや読み味が変わってきますが、最後に関係者全員を集めて推理を披露するところはいつも通り。偶然に頼り過ぎた真相に目を瞑れば、充分、スタウト印の本格ミステリーを味わえる作品です。

    ・1949年中編集〝Trouble in Triplicate〟
    ◎「急募、身代わりターゲット」(「求む、影武者」)→『ネロ・ウルフの事件簿 アーチ―・グッドウィン少佐編』(論創社)に収録
    〇「この世を去る前に」(「死の前に」)→同上
    〇「証拠のかわりに」→『世界短編傑作集5』(創元推理文庫)に収録

     この頃の中短編の充実ぶりには、本当に驚かされます。「急募、身代わり」は、ユーモアミステリーの教科書というべき傑作。ある人物が殺人を示唆する脅迫状を受け取り、ウルフのもとを訪れるが、どうせイタズラでしょうと追い返すと、本当に殺されてしまった。そして、二通目の脅迫状がウルフのもとに届いた……というのが発端で、アーチーは最初こそ本気にせず、軍の仕事を優先して事務所を離れますが、続く事態がもう、衝撃(笑)。笑撃といってもいいでしょう。この笑いの中に伏線とミスディレクションを潜ませてしまう手際こそ、「教科書」といった理由。謎解きの切れ味も素晴らしく、ウルフ初心者にも大いに薦められる作品です。

    「この世を去る前に」は、ギャングの抗争にウルフが巻き込まれるさまを楽しむ作品です。対立する二つのギャングが部屋に乗り込んできても椅子を立たないウルフ、面白すぎる。ネタの要になっている部分は、いつか、ちゃんと原書で確認しておきたいですね。

    「証拠のかわりに」は、読んだ時期を忘れたので総論の略歴には書きませんでしたが、スタウトで初めて読んだ作品になると思います。読み返してみると、中学生の頃はウルフやアーチーの魅力が分からなかったんだな、と思わされます。

    ・1949年長編〝The Second Confession〟
    (〈アーノルド・ゼック〉三部作の第二作にあたる長編です。原書を購入しましたが、この原稿を書くまでに読み終えることが出来ませんでした。ごめんなさい)

    ・1950年中編集〝Three Doors to Death〟
    〇「二度死んだ男」 「EQ」93年5月号に掲載
    ◎「献花無用」(「花のない葬礼」)→『黒い蘭』(論創社)に収録
    〇「死への扉」(「死の扉」)→『ネロ・ウルフの災難 外出編』(論創社)に収録

    「二度死んだ男」は、服を脱いで間歇泉の中に飛び込み、自殺したと思われていた叔父を街中で発見した、調べてほしい、という依頼から始まる一編。その後、顔を傷つけられた、当該叔父と身体的特徴の一致する死体が発見され、事態は大きく動き出します。ストレートなプロットの謎解きものですが、解決に際してウルフが取る手段には笑わされます。

    「献花無用」はウルフものの一つの愉しみである、コンゲーム性が色濃く出た中編。なかなか証言が集まらない状況下で、ウルフがいかにして事態を収めるか。「ぼくの見たてでは、この事件こそネロ・ウルフが最高の腕前をみせた事件のうちの一つだ」(『黒い蘭』、p.142)という作品冒頭での宣言は伊達ではありません。

    「死への扉」は、「外出編」の一編であることから分かる通り、自らが愛する蘭のために庭師の引き抜きをもくろみ、外出したウルフが事件に巻き込まれる話。一度帰ったらもう二度と来ないと自分で分かっているウルフの姿にはくすりときます。謎解きは普通。

    ・1950年長編〝In the Best Families〟
    (〈アーノルド・ゼック〉三部作の第三作にあたる長編です)

    ・1950年中編集〝Curtains for Three〟
    ◎「翼の生えた銃」(「翼ある拳銃」)→『ようこそ、死のパーティーへ』(論創社)に収録
    ・「セントラル・パーク殺人事件」→「ミステリマガジン」1979年11月号に掲載
    ・「ねじれたスカーフ」→「EQMM」1962年1月号に掲載

    「翼の生えた銃」は本格ミステリーというポイントから選ぶなら、〈ネロ・ウルフ〉シリーズ随一の傑作。銃殺事件の謎への解法は絵に描いたように鮮やかで、強烈な印象を残します。ディスカッションも読ませる作品です。

    ◎1951年『編集者を殺せ』(ハヤカワ・ポケット・ミステリ)
     「これぞ、ネロ・ウルフ」と思わせる中期のマスターピース。
     ユーモア度 ☆☆☆☆☆
     謎解き度  ☆☆☆☆☆
     読みやすさ ☆☆☆☆☆

     ウルフのキャリアからすると中期に位置する作品で、円熟の域にある傑作。出版業界を舞台としたからか、いつも以上に筆がいきいきしている感じがします。いきいきしているからこそ、ドタバタ喜劇も映えてくる。そのため、無暗に多い容疑者たちにも意外と混乱しない。今、新刊で手に入るものからウルフへの入り口を選ぶとしたら、これではないかと思います。ビブリオ・ミステリーとしても読める作品で、色々な切り口から楽しめるのではないでしょうか。

     依頼Aにあたる部分のきっかけの提示が、クレイマー警視が持ち込んだメモ、という形で、実にスピーディーに行われ、本題に入っていく流れも心地よい。謎解きの魅力と、ネロ・ウルフ流の心理劇の魅力が両立された解決編が見事です。

    ・1952年長編〝Prisoner’s Base〟

    ・1952年中編集〝Triple Jeopardy〟
    〇「悪い連〝左〟」(「身から出た錆」)→『ネロ・ウルフの災難 激怒編』(論創社)に収録
    ・「巡査殺し」→「EQMM」1957年12月号に掲載
    〇「『ダズル・ダン』殺害事件」(「ヒーローは死んだ」)→『ようこそ、死のパーティーへ』(論創社)に収録

    「悪い連〝左〟」は赤狩り時代のアメリカを背景に、FBIが関わる事件が描かれます。後の長編、『黒い山』や『ネロ・ウルフ対FBI』のプロトタイプのようにも思えます。

    「『ダズル・ダン』殺害事件」は、裏切り者の依頼人にやきもきさせられ、アーチーが容疑者という絶体絶命の状況にウルフが立ち向かう話。シチュエーションは凝っており、それだけで読ませますが、謎解きはまずまずです。

    〇1953年『黄金の蜘蛛』(ハヤカワ・ポケット・ミステリ)
     ネロ・ウルフ、子供の死を解き明かす。かのイヤリングの女は何処へ?
     ユーモア度 ☆☆☆
     謎解き度  ☆☆☆☆
     読みやすさ ☆☆

     タイトルとなっている「黄金の蜘蛛」とは、事件のキーポイントとなっている女性がつけているイヤリングのデザインです。ピートという窓ふきの少年(車の窓を拭いて、チップをもらう)が覗いた車の中で、「黄金の蜘蛛」のイヤリングをした女性がピートに警察を呼ぶよう求めた。しかし、女性に銃を突きつけた男が車を発進させ、警察は間に合わなかった。そこでピートはネロ・ウルフに相談を持ち掛ける、という筋です。このピートが、昨日見かけた車と同じ車に轢き殺されたことから、事態は大きく動き出します。ウルフ型のフォーマットを上手く活かした作劇で、ウルフは会ったこともない人々の中から犯人を見つけ出そうとするのです。これまでは、結構、容疑者を家に招いていたのに、今回は解決編で初めて会うなんて趣向も。イヤリングの手掛かりが効いている、シンプルかつ面白いスタウト型本格ミステリーの良作です。

     良作と言いつつ「◎」をつけていないのは、良作というのはあくまでもプロットに対する評価で、翻訳については首を捻ってしまうからです。本書の翻訳者、高橋豊は、アーチ―の一人称を「私」、ウルフの一人称を「俺」(客に対する時のみ「私」)という訳し方をしており(他は大抵アーチー「ぼく」、ウルフ「私」で、アーチー「私」を採るのは他に『ネロ・ウルフ対FBI』くらい)、それはいいとしても、ウルフの口調が乱暴で粗雑なのが気になってしまいます。他の作品だと、敬語ながら、慇懃無礼な印象が際立つといった塩梅で、私はこちらの解釈を採ります。ただ、「俺」口調のウルフはそれはそれで貴重なので、解釈の一つとして味わうのも吉、でしょう。

    ・1954年中編集〝Three Men Out〟
    ・「美しい容疑者たち」→「ミステリマガジン」1986年2月号に掲載
    ・「ゼロの手がかり」→「EQMM」1963年10月号に掲載
    〇「ワールド・シリーズの殺人」→『EQMMアンソロジーⅡ』(ハヤカワ・ポケット・ミステリ)に収録

     「ワールド・シリーズの殺人」は野球場に出かけたウルフがいつも通り殺人に巻き込まれる話です。野球ならではの心理的な手掛かりから、一発で犯人を指摘する推理が見所か。アンソロジー収録作品では、結構外出しがちですね。

    ◎1954年『黒い山』(ハヤカワ・ポケット・ミステリ)
     シリーズ最大にして、「最高」の異色編。シリアスだが「らしさ」溢れる冒険小説。
     ユーモア度 ☆☆
     謎解き度  ☆
     読みやすさ ☆☆☆☆☆

     シリーズものとしての「遊び」が楽しい作品です。遊びというには、題材がシリアスすぎるかもしれませんが。中期ネロ・ウルフ最大の実りと言えるのが、この作品です。

     この作品は、『我が屍を乗り越えよ』の続篇であり、そちらにも登場したウルフの養女、カルラ・ブリトンが再登場する作品となっています。ウルフの親友・マルコが路上で射殺され(これまでも幾度か登場しているキャラなので、かなり驚かされました)、さすがのウルフが茫然としながら遺体安置所へ出かけ(出かけ!?)、現場検証にも向かう……という冒頭からしてショッキング。ストーリーそのものも、ですが、ウルフが外出して動き回る、という部分もシリーズファンとしてはなかなかの衝撃。謎を解くために故郷の地、モンテネグロへ飛ぶことにもなります(ついに飛行機に乗るシーンまであるんだぜ)。『我が屍を乗り越えよ』に書かれていたウルフの過去が、がっつり本筋に絡んでくる作品です。

     とはいえ、ウルフが「外出」するというシリーズものとしての「くすぐり」自体は、他の作品でもたびたび取り入れられています。では、『黒い山』の面白さの本質はどこかといえば、東西冷戦の時代を舞台にしたスパイ小説的なプロットに、ネロ・ウルフが放り込まれること――でしょう。軍師タイプなのかと思いきや……というところもありますしね。シリーズものとしても衝撃的な展開の連続で、なかなか読ませる一冊。当時のアメリカの空気(「赤狩り」)に対するカウンターパンチであるとか、リベラリストとしてのスタウト像であるとかは、杉江松恋による解説に詳しいのでそちらに譲ります。

    ・1955年長編〝Before Midnight〟

    ・1956年中編集〝Three Witnesses〟
    ◎「次の証人」(「法廷のウルフ」)→『ネロ・ウルフの災難 外出編』(論創社)に収録
    ・「人を殺さば」→「EQ」1995年1月号に掲載
    ◎「真昼の犬」→『いぬはミステリー』(新潮文庫)に収録

    「次の証人」は『ネロ・ウルフの災難 外出編』に収録されたことからも分かる通り、ウルフが法廷に出廷し、証人を務める作品です。いつもは証人になるのを徹底的に拒否するので、相当珍しい事態ですが、おとなしくしていられないのがすごいところ。自分の前の証人の話を聞いている時、突然ウルフは席を立ち、独自の捜査を始めてしまうのです。法廷侮辱罪で逮捕状まで出る中、ウルフは事件を解決することが出来るのか? ユーモア・謎解き・読みやすさ、三拍子そろった快作です。

    「真昼の犬」は、『黒い山』でも描かれたモンテネグロ時代に引っ掛けて、意外にも犬好きなウルフの姿が描かれます。ホームズの時代から使われる「犬の手掛かり」を一捻りして使ってあるところがポイントで、なかなか読ませる作品です。

    〇1956年『殺人犯はわが子なり』(ハヤカワ・ポケット・ミステリ)
     ネロ・ウルフ、依頼人の息子の無実を証明せんとす。シリーズファン驚愕の展開とは?
     ユーモア度 ☆☆☆
     謎解き度  ☆
     読みやすさ ☆☆☆

     2003年にハヤカワ・ポケット・ミステリにて邦訳。ポケミスへの登場は、この作品が四十余年ぶりとなりました。この頃、ネロ・ウルフものの邦訳・再刊が進んでいたのは、帯にもある通り、WOWOWにて「グルメ探偵 ネロ・ウルフ」のシーズン1が放映されていたからのようです(私の手元にある『ネロ・ウルフ対FBI』新装版の帯にも同じ告知があります)。

     父親から息子を探すよう依頼され、息子のイニシャルPH宛ての新聞記事を出してみたところ、同じイニシャルをもつ、殺人事件の公判の被告がいることを知る――という発端は実に魅力的で、読ませるものになっているのですが、その後のプロットがかなりバタバタしていて、謎解きものとしてもやや不満の残る出来です。「冤罪で囚われた人間を救う」というプロットと、連続殺人との相性が悪いため(疑われている人物がアリバイを確保出来てしまう)、そのように感じるのでしょうか。

     ただ、シリーズファンとしてはかなり衝撃的な展開が一つ間に挟まれています。そんな展開を放り込むなら、もっと盛り上げてくれよ、と思わんでもないですが。

    ・1957年〝Three for the Chair〟
    ・「死を招く窓」→「カッパまがじん」1977年5月号に掲載
    ・「殺人はもう御免」→「EQMM」1958年7月号に掲載
    ◎「探偵が多すぎる」→『短編ミステリの二百年2』(創元推理文庫)に掲載

    「探偵が多すぎる」は私立探偵たちを集めていつものように推理を繰り広げるウルフの姿が面白い(スタウトのもう一つのシリーズで登場する女探偵、ドル・ボナーも登場します)。これも、ウルフもののパターンを律儀になぞっているので、入門編としてお薦めです。『短編ミステリの二百年』に選出されたのも納得の良作です。

    ・1957年長編〝If Death Ever Slept〟

    ・1958年中短編集〝And Four to Go〟
    ◎「クリスマス・パーティ」→『クリスマス12のミステリー』(新潮文庫)に収録
    ・「イースター・パレード」→「EQ」1987年5月号に掲載
    〇「独立記念日の殺人」→「ミステリマガジン」1976年2月号に掲載後、同2012年4月号に再録
    〇「殺人は笑いごとじゃない」→『ビッグ・アップル・ミステリー マンハッタン12の事件』(新潮文庫)等に収録

    「クリスマス・パーティ」〈ネロ・ウルフ〉シリーズのマスターピース。なぜなら、もうね、激萌え(笑)。アーチーに結婚話が持ち上がり、ウルフが慌て、アーチーは事務所で過ごした年月をしみじみとウルフ相手に語る……という冒頭だけでも素晴らしいのに、アーチーが出かけたクリスマス・パーティで殺人が起き、さて、突如現れたサンタクロースの正体は――で、もう、爆上がり。面白いねえ。東洋の血を引く容疑者に対しても偏見を持たず接するウルフの姿は、『料理長が多すぎる』で描かれたもの(黒人に対してもフェアに接するウルフの態度)とも通じますし、解決の手際も巧い。いやあ、いいね。ウルフ、アーチーが好きになってきたタイミングで、ぜひ手を出してほしい逸品です。

    「独立記念日の殺人」はどうも昔読んだような気がして、なぜだろう、と思って、再録されているという「ミステリマガジン」2012年4月号を探し出したら、納得。この巻の特集はアニメ「探偵オペラ ミルキィホームズ」に関するものだったのです。なるほどね、道理で読んでるはずだわ。作中にネロという名前のキャラがいて、そのモデルがネロ・ウルフなので、再録されたのですね。冒頭で『料理長が多すぎる』の被害者ヴュクシクの名前が登場し、彼から引き継いだレストランの管財人としての役目の一環として、ウルフは独立記念日のスピーチに招かれます。そう、これも「外出編」です。ハッタリ一発で犯人を捕まえてしまうので、解決はまずまず。

    「殺人は笑いごとじゃない」が収められたアンソロジー『ビッグ・アップル・ミステリー マンハッタン12の事件』は、あらゆる人種がひしめき、ビッグ・アップルと呼ばれる都市、ニューヨークを舞台にした作品を集めたもの。「西35丁目の殺人」を担当するネロ・ウルフは、ファッションデザイナーを巡るきらびやかな事件に挑みます。手にした情報を基に、いかに事態を収めるか? というところにポイントがあります。

    ・1958年長編〝Champagne for One〟

    ◎1959年『殺人は自策で』(論創社)
     ネロ・ウルフ、ビール断ちを決意する? 中期謎解き編の雄、現る。
     ユーモア度 ☆☆☆☆☆
     謎解き度  ☆☆☆☆☆
     読みやすさ ☆☆☆

     すごいですよ、これ。傑作。ベストセラーを盗作だと訴えて金をせしめる詐欺集団が本作の敵なのですが、「事件Aが事件Bへとつながっていく」「ある目的を持った一団を設定してその枠の中でフーダニットを展開する」というウルフものの特徴を踏襲したうえで、高いレベルの充実度を誇っています。

     フーダニットの完成度はスタウト作品の中でも屈指のレベルですし、ウルフがしっかり名探偵として追い込まれるのが良い(ビール断ちも決意するし、外出もする)。登場人物はかなり多いのですが、中期以降、やはりそのあたりの捌きが上手くなっていますから、あまり混乱しません。アーチーによる「挑戦」を受けて、ぜひ推理してみましょう。『編集者を殺せ』と並んで、今、ウルフ作品への入り口として薦める作品のツートップです(『シーザーの埋葬』も挙げていますが、現役本で手に入らないんですよね)。

    ・1960年長編〝Too Many Clients〟

    ・1960年中編集〝Three at Wolfe‘s Door〟
    ◎「ポイズン・ア・ラ・カルト」→『16品の殺人メニュー』『ディナーで殺人を〈下〉』に収録
    〇「殺人規則その三」(「第三の殺人法」)→『ネロ・ウルフの災難 女難編』に収録
    〇「ロデオ殺人事件」→『ネロ・ウルフの災難 外出編』に収録

    「ポイズン・ア・ラ・カルト」は各種食事系アンソロジーひっぱりだこのマスターピース。晩餐会中に毒殺事件が発生してしまう作品で、お抱えシェフであるフリッツに対して優しく接するウルフの姿など、レアな姿を楽しめます。解決編で、戯曲のように発話者とセリフを淡々と書く手法を使っており、この頃から増えてくる印象がありますが(『腰ぬけ連盟』にも存在するのですが、しばらく見かけなかった)、登場人物の多いスタウト作品においては分かりやすいのは確かなので効果的かも。

    「殺人規則その三」は、タクシーの中に突如現れた死体、という謎を描いた作品で、最終的な解決よりも、状況の転がし方が楽しい作品です。アーチーが事務所を辞職するところから始まるのも、シリーズファンはニヤリとくるところです。

    「ロデオ殺人事件」は、またしてもウルフ「外出編」の一編であり、リリー・ローワンのゲスト出演回でもあります。謎解きはやや精彩を欠きますが、オチにはくすりときます。

    〇1961年『究極の推論』(「EQ」1997年7月号に掲載)
     ネロ・ウルフ、不動のまま誘拐犯罪に挑む。消えた身代金の行方は?
     ユーモア度 ☆☆☆
     謎解き度  ☆☆☆
     読みやすさ ☆☆☆

     こちらも「EQ」に掲載されたきりの長編。「ビッグ・ボーナス一挙400枚」と冒頭にある通り、今でいう、長編の一挙掲載がなされた回です。少し短めの長編、の分量ですね。今回のポイントは、「動かない」探偵ネロ・ウルフと誘拐犯罪の取り合わせ。ウルフはいつも通りまったく家から出ることなく、金をせしめる方法を考えます(笑)。本格ミステリーの作家が誘拐ものを扱う時の手つきの癖が、この作品にも明瞭に感じ取れるのが面白く(センセーショナルにはいかず、すぐに死体が転がるところとか)、身代金が一旦消失する、という謎作りもユニークです。

    ◎1962年『ギャンビット』(「EQ」1992年5月号~7月号に掲載)
     ネロ・ウルフ、チェスプレイヤーの犯罪に挑む。彼はいかにして無実を証明するか?
     ユーモア度 ☆☆☆☆☆
     謎解き度  ☆☆☆☆
     読みやすさ ☆☆☆☆

     ウルフものの愉しさがストレートに出た作品です。『黒い山』などの冒険を経て、このシリーズはまた、シンプルな謎解きの魅力に帰ってきた、というべきでしょう。まず、作品の頭でネロ・ウルフが焚書をしているというだけで爆笑。「英語の完璧さを脅かす破壊的な辞書」だからと、ウェブスター大辞典の三版を、千切っては暖炉にくべ、千切っては……をしている時に依頼人がやってきます。殺人の容疑をかけられた父を救ってほしい、というヘビーな依頼を聞いている時にも、辞書を千切るウルフの手は止まりません。

     チェスをモチーフにした展開も面白く、チェス仲間たち(メッセンジャー、と作中では呼ばれます)を半身内サークルにした生真面目なフーダニットも、ウルフものの愉しさのパターンを綺麗になぞってくれます。アーチーが依頼人の父を訪れる場面では、『殺人犯はわが子なり』の被告人だったピーター・ヘイズの名前が登場し、スタウトがあの作品で試みたプロットにもう一度挑んだ、という宣言にも取れます。

     ポイントは、中盤でウルフが解き明かす事件の構図と、「被疑者は何を隠しているか?」。最終的な解決の仕方も、ちょっと捻った見せ方になっていて、飽きが来ない良い作品でした。

    ・1962年中短編集〝Homicide Trinity〟
    ◎「犯人、だれにしようかなイニ・ミニ・マーダー・モ」(「殺人鬼はどの子」)→『ネロ・ウルフの災難 激怒編』」(論創社)に収録
    〇「悪魔の死」(「デーモンの死」)→『ネロ・ウルフの災難 女難編』(論創社)に収録
    〇「ニセモノは殺人のはじまり」→『黒い蘭』(論創社)に収録

    「犯人、だれにしようかな」は確かにウルフ「激怒」の一編ではありますが、同時に、抱腹絶倒のシチュエーションともいえます。ウルフが油で汚れたネクタイを外して植物室へ行っている間に、依頼人がやってきて、アーチーがウルフを呼びに行った僅か数分の間に、依頼人がウルフのネクタイで絞殺されるのです。自分のネクタイを使われて怒り、「犯人をだれにしようか」と私怨全開の動機で推理を始めるウルフの姿に笑わされます。フーダニットとしてもソリッドな作りです。

    「悪魔の死」は特異なシチュエーションに笑わされました。夫を殺さないために、夫殺しの計画をウルフたちに聞いてもらい、銃を預かってほしい、という奇妙な依頼を聞いた直後、くだんの夫が殺されたのをラジオで知る、というのが発端。謎解きは手順にこだわりすぎ、やや切れ味に欠けますが、この発端だけでお釣りがきます。

    「ニセモノは殺人のはじまり」は偽札を巡る謎がメインですが、むしろハッティーという女性の強烈なキャラクターで引っ張っていく作品といえます。軽妙さは実に楽しい。

    〇1963年『母親探し』(論創社)
     ネロ・ウルフ、赤ん坊の母親を探す。意外なところから現れる真相が見所。
     ユーモア度 ☆☆☆☆
     謎解き度  ☆☆☆
     読みやすさ ☆☆☆

     後年の『ファーザー・ハント』と対をなす〝The Mother Hunt〟という原題の作品。依頼人の家の前に突然放置された赤ん坊の母親を探してほしい、という謎めいた依頼の面白さもさることながら、状況の転がし方が面白くて、読んでいて飽きがこない長編です。これまで未訳だったのが信じられないくらい。『ファーザー・ハント』はむしろ、私立探偵小説としての味わいに力点がある作品ですが、こちらは謎解きミステリーに踏みとどまっている印象を受けます。

     この作品では、ネロ・ウルフが外出――どころか、自分の城である事務所から逃亡する一幕が描かれます。ここが正直、めちゃくちゃ面白い。ある人物の家に行って、スクランブルエッグ作りには四十分かけろ、とか言い出す場面とか、やけに印象に残る。

    ・1964年中短編集〝Trio for Blunt Instruments〟
    ・「殺しはツケで」→「EQ」1979年11月号に掲載
    ◎「トウモロコシとコロシ」(「スイート・コーン殺人事件」)→『ネロ・ウルフの災難 女難編』(論創社)に収録
    ・「血の証拠」→「EQMM」1964年6月号に掲載

    「トウモロコシとコロシ」はウルフらしい捻くれぶりがフーダニットの中で生かされた良品。解決編直前に疑問のリストを掲げてみせるのは、他の本格ミステリーもやっていることですが、この作品では、ある意外な「もの」に疑問のリストが書かれているのです。こういう処理の仕方が、ネロ・ウルフという探偵と、このシリーズの面白さですね。幕切れの会話も実に感動的。いいですね。

    ・1964年長編〝A Right to Die〟

    ◎1965年『ネロ・ウルフ対FBI』(光文社文庫)
     ネロ・ウルフ、国家権力に挑む。コンゲームの魅力が炸裂した、ウルフ編随一の快作。
     ユーモア度 ☆☆
     謎解き度  ☆☆
     読みやすさ ☆☆☆☆☆

     後期ネロ・ウルフ、最大の異色編。ネロ・ウルフのもとを訪れた大富豪の未亡人レイチェル・ブルーナーは、FBIによる執拗な尾行、盗聴の被害に遭っていると訴えた。十万ドルの依頼料と引き換えに、FBIの所業をやめさせてほしい、という。行動を始めたウルフの前に、FBIの犯行と疑われるルポライター殺害事件が立ち上がってくるあたりは、依頼Aが事件Bへと転がるように繋がっていく、ウルフ謎解き編の定型をなぞっているように見えます。

     しかし、この作品で最も重要なのは、真相を突き止めたうえで、「どのように事態を収めるか?」というコンゲームものに通じる魅力。海千山千の猛者であるウルフだからこそ、困難な敵に打ち勝ち、全てを収める解決策を見いだすことが出来る。これはそういう長編です。ウルフ対FBIの構図だけでなく、ウルフ最大の敵にして友であるクレーマー警視の描き方も魅力。アメリカへの反発、主張がプロットの要諦をなし、作品の背景にあるアメリカ史を浮かび上がらせている点でも、『我が屍を乗り越えよ』―『黒い山』の系列に連なる作品といえます。

    ・1966年長編〝Death of a Doxy〟

    ・1968 年『ファーザー・ハント』(「EQ」1982年1月号から5月号に掲載)
     訳者にも恵まれた、〈ネロ・ウルフ〉シリーズ中、最高の「私立探偵小説」。
     ユーモア度 ☆☆☆☆☆
     謎解き度  ☆
     読みやすさ ☆☆☆☆☆

     エーミー・デノヴォの母親は三ヶ月前に轢き逃げで亡くなり、彼女に一通の手紙と二十万ドルを超える金を遺した。手紙によれば、その金は、二十二年間にわたり、彼女の父親から毎月送金されたものを貯めたものだという。エーミーはアーチーに依頼する。「私の父親を探してほしい」。二転三転する「父親探し(ファーザー・ハント)」が迎える結末は?

     英国推理作家協会シルヴァー・ダガー賞(CWA)を受賞した作品であり(刊行は1968年、受賞は1969年)、読む前から秘かに期待していた作品でした。謎解き度を☆1にしていることからも分かる通り、謎解きの魅力には乏しいプロットではあるのですが(母親の轢き逃げがクローズアップされるところなどは非常に魅力的なのですが、解決は腰砕けです)、ある人物を探すという、私立探偵小説の王道プロットが、ネロ・ウルフの世界観と見事に噛み合った素晴らしい「私立探偵小説」です(高名な容疑者に対して、不遜に挑んでいく……というウルフもののパターンと「父親探し」という主題の相性は抜群なのです)。父親候補をしつこく探しながら、否定されていく過程も、苦い結末も、クールな幕の引き方も、実に素晴らしい。この苦さ、クールさは、アーチーの普段の饒舌さゆえに成り立つのですが、各務三郎の訳が、その饒舌さの魅力を最大限に引き出しているのもたまりません。ウルフの邦訳は生真面目な、硬い文体が多く、笑いどころを見逃してしまうことも多いのですが、各務三郎の、適度に肩の力が抜けた感じの訳文には、何度もくすくすと笑わされました。あるいは、後期作品ならではの、レックス・スタウトの筆の余裕、でもあるのでしょうか。

     初期で謎解き小説としてのネロ・ウルフを追及し、1940年の『我が屍を乗り越えよ』からウルフのキャラクターというものを掘り下げてきたスタウトは、中期で二つの路線を並列させ、最後期に、シンプルな私立探偵小説に行きついたことになります。この変遷がどうにも面白く、また、CWAの受賞も納得の傑作です。

    ・1969年長編〝Death of a Dude〟

    〇1973年『マクベス夫人症の男』(ハヤカワ・ミステリ文庫)
     ネロ・ウルフ、夢分析に挑む? 晩年のスタウトは爆殺ものが趣味なのか。
     ユーモア度 ☆☆
     謎解き度  ☆☆
     読みやすさ ☆☆

     スタウト晩年の作品で、両手が血まみれになる夢を見てしまう男を紹介される……というのが事件への入り口になります。パターンをご存知の人ならお分かりの通り、これが事件Aであり、メインの事件はBということになります。慣れていないと、この構成だけで振り落とされそうな感じがします。「爆弾」というアイテムを使った大味なプロットは苦笑するしかないところですが、殺人犯の心理に迫っていくスタウトの筆さばきはなかなか面白いです。

    ・1975年『ネロ・ウルフ最後の事件』(ハヤカワ・ミステリ文庫)
     ネロ・ウルフ、依頼人のいない事件に挑む。ただ、己のプライドを守るために。
     ユーモア度 ☆
     謎解き度  ☆☆☆☆☆
     読みやすさ ☆☆☆☆

     原題は〝A Family Affair〟で、「最後の事件」とつけたのは邦題独自ということになります。1975年、この作品を発表後にレックス・スタウトが亡くなっているため、事実上「最後の事件」であることは間違いありません。しかし事実上「最後」であるだけか、というと、そうでもない。シリーズ最後の事件にふさわしい重みと意外性をこの作品は備えているのです。

     深夜にウルフを尋ねてきた、馴染みの給仕ピエール。彼は怯えた様子で、すぐにでもウルフに会いたいと持ち掛けてきた。アーチーはひとまず、彼をウルフの家に泊まらせるが、深夜の静けさを大音声が裂いた。ピエールは爆殺されたのだ。ピエールは何を恐れていたのか、何を言おうとしていたのか? 依頼人なき事件に、ネロ・ウルフは挑むことになる……。

     依頼人なき事件、というプロット自体は、実は中短編においては珍しい事態ではありません(「苦い話」「次の証人」「探偵が多すぎる」「ポイズン・ア・ラ・カルト」など)。しかし、この作品にはそれらの中編にはなかった、独特の重いトーンが絡みついています。地方検事からの妨害も受け、私立探偵としてのライセンスも停止されるなど、かなり危機的な状況での事件です。文体の魅力やアーチーの語りの魅力は健在ですが、ユーモア度を低くつけているのは、そのため。シリーズキャラクターも最後とばかりいきいきと動き、このピンチに立ち向かいます。謎解きは実に見事で、犯人の正体と、そのアイディアを支える伏線の巧さには唸らされました。たとえば、アーチーは解決編直前に、こんなことを漏らします。

    〝彼がそういうのを聞いたとき、ぼくは初めて理解した。稲妻のようにひらめいたのだ。推測や虫のしらせではない。理解したのだ。読者は少し前に気がついて、ぼくが理解しないことにあきれはてておられたのではないかと思うが、それは読者がぼくより頭がいいというのではない。読者は事件について読んでいるのに対し、ぼくは事件にまきこまれてきりきり舞いしていたのだから。また、ぼくとしては、一度か二度はいいところをついたことがあったかもしれない。だからといって、いまさらあと戻りしたり、変更したりしようとは思わない。ぼくは起こったことをありのまま記述し、報告しようとしているのであって、故意に引っかけようとなどとはしていないのだから。〟(本書、p.202-203)

     どうだろう。実に堂々とした「読者への挑戦」ではないだろうか? こんな風に挑発するほど、スタウトがこの真相と趣向に自信があったという証左だ(こうした「読者への挑戦」は、『殺人は自策で』でも試みられていた。後期の〈ネロ・ウルフ〉シリーズでは、「記述者」としてのアーチーがしばしば読者に顔を向けてくる)。もちろん、真相だけ取り出せば、特異というほどではない。しかし、これを〈ネロ・ウルフ〉シリーズの一作、それも最終作として読む、というのが大事なのです。旅路の最後に行きつくのにふさわしい作品。ラストのセリフも、スタウト自身の死をも思わせるようで、じーんとします。

    〇まとめ (不)完全攻略のおわりに

     これまで、〈ネロ・ウルフ〉シリーズについて感じたことを残しておこう、という試みをお届けしました。まあ、とりあえず、私があと十年くらいたって、「そーいえば、〈ネロ・ウルフ〉シリーズってどれがいいんだっけ」と分からなくなった時に、帰ってこられるようにはなっているなあと思います。『ギャンビット』や『ファーザー・ハント』などは非常にレベルが高く、雑誌に載せたままにしておくのはもったいないほどで、こういう機会に読むことが出来て本当に良かった、と思います。

     また、『Xと呼ばれる男』では、まだアーノルド・ゼックは電話の声のみの登場ですが、既に堂々たる存在感で、残る二作にも期待が高まりました。Kindleで原書を買い、冒頭を少し読んでみた……というところなので、読み切れたら、どこかでこれに加筆するか、報告するかします。しかし、いつになるんだろう。こうやって古典作家の読みたい原書を溜めすぎているな。

    (2024年8月)

第86回2024.08.09
〈ネロ・ウルフ〉シリーズ(不)完全攻略(1) ~パターンを知ろう・前期のスタイル~

  • レックス・スタウト『シーザーの埋葬』(光文社文庫)

    レックス・スタウト
    『シーザーの埋葬』
    (光文社文庫)

  • 〇告知から

     8月21日に『阿津川辰海 読書日記 ぼくのミステリー紀行《七転八倒編》』(光文社)が発売されます。読書日記の第36回から第71回までを収録し、2021年から2024年にかけて書いた13本の解説原稿を収めた本です。前巻より140ページも増えてしまった。ジェフリー・ディーヴァー回やギャンブル作品特集まで、長く、大変で、恐ろしい回がたくさん収録されています。眩暈がするような校正作業でした。昨今の情勢もあり、部数は第一弾の時より少なめですので、予約するなどして手に入れてくださいませ。

    〇レックス・スタウトなんかこわくない(総論編)

     さて、そんなことを言ったそばから恐縮ですが、これから「長く、大変で、恐ろしい回」が始まります。〈ネロ・ウルフ〉シリーズ(不)完全攻略です。アメリカの作家、レックス・スタウトが書いたシリーズであり、個人的には、長い長い苦闘の末、ようやく楽しめるようになった作品群です。33の長編と15冊の短編集があり、ここでは、邦訳されている長編23冊と、入手するのが間に合わなかった11の邦訳短編以外のすべての短編をレビューします。「間に合わなかった」というのは、ある仕事をこなすために読んだため、調査期間を7月末までということで区切ったからです(なんの仕事なのか、というのは、まだ言ってはいけないらしいのでここでは伏せます)。なお、8月の読書日記は、このレックス・スタウト回を前後編に分割して掲載してもらいます。ぶっちゃけ、7月は、まだ詳細を明かせない企画で短編集を読むフェーズと、レックス・スタウトを読むフェーズの二つしかなかったため、他に読書日記に書けるネタがないからです。

     このレビューを試みるにあたり、23の長編は、既読のものも含めて、発表年代順に読み潰していくことにしました。そうすることで、なにか、作風の変遷や、シリーズとしてのダイナミズムを捉えられないかと思ったからです。

     さて、まずは、「長い長い苦闘」について話させていただこうと思います。私とレックス・スタウトの関わりは、以下の通りになります。

    ・中学3年生の時、『法月綸太郎の本格ミステリ・アンソロジー』(角川文庫)の「海外クラシック・ベスト20」を一つ一つ読み潰す中で、『腰ぬけ連盟』を図書館で借りて読んでみるが、一度挫折する。
    ・「海外クラシック・ベスト20」の他19作品を全て読んだので、『腰ぬけ連盟』を再度借り、どうにか読み通すが、読んだ瞬間に全ての印象が記憶から消える。
    ・高校1年生の時、はやみねかおるの推薦作として栗本薫『ぼくらの時代』に出会う。同シリーズを読んでいき、第三作『ぼくらの世界』に辿り着くが、この本の中でネタばらしされる作品のリストに、『わが屍を乗り越えよ』がある(このタイトルは正しくは『我が屍を乗り越えよ』ですが、『ぼくらの世界』の中では「わが」表記になっています)。挑んでみるが、あまりの読みづらさに一章で挫折。同時に、『ぼくらの世界』を読むのも先送りになる。
    ・高校2年生の時、「いや、さすがにあれだけで終わるのはもったいない」と、唯一新刊で買える文庫だった『料理長が多すぎる』を読んでみる。全くハマらない。
    ・大学生になり、レックス・スタウトを読んでいる先輩に会う。「『黄金の蜘蛛』が面白い」などの話を聞くが、そもそも古書店で安く見つけることが出来ない。均一棚で見つけたら買う、というルールを設け、集め始める。
    ・大学2年生の時、『シーザーの埋葬』『編集者を殺せ』を読み、楽しむが、それ以上読もうという気が起こらない。論創社から『黒い蘭』が邦訳され、以後、中短編集の刊行が相次ぐ。お金が足りず、なかなか手は伸びない。
    ・社会人となり、体を壊して入院した時、どうせなら、今までゆっくり読む気にならなかったものを読んでみようと思い、『腰ぬけ連盟』を入院生活に持ち込む。この時はかなり楽しめるようになった。→読書日記第40回に詳しい。
    ・以降、論創社におけるレックス・スタウト短編集と長編を読む中で、少しずつ、面白さのリズムが分かってくる。ここで、ようやくほとんどの作品を楽しめるように。
    ・「ある仕事」のためにレックス・スタウトを読む必要が生じる。そこで、この7月に、全ての長編を頭から読む作戦を決行する。

     このような経緯です。実に15年間、紆余曲折を経て、どうにか楽しめるようになった、ということです。原因ははっきりしていて、これまでの読者としての私(特に中高生の頃)がキャラクターに全く興味がなく、事件の面白さにしか興味がなかったからです。別段、特徴のある謎やトリックがあるわけではないので、記憶に残らず、興味を持って読み進められなかった、ということです。

     アメリカで人気のある探偵――という評価を聞いていてもイマイチピンとこなかったのは、そもそも褒めている日本の評者を見ないのも大きかったと思います。ジョルジュ・シムノンには長島良三がいて、ロス・マクドナルドには瀬戸川猛資小鷹信光がいて、アリステア・マクリーンやジャック・ヒギンズには内藤陳がいて……というのは思いつくのですが、スタウトになると、パッと出てこない。私が翻訳ミステリーを読み進める一つの基準としていた瀬戸川猛資『夜明けの睡魔』では、スタウトは、ジョン・ル・カレ『寒い国から帰ってきたスパイ』を評した人間として名前が載っているのみ。

     強烈な印象があるのは、栗本薫各務三郎でしょうか。さきに各務三郎について述べておくと、彼は「ネロ・ウルフは名料理長」というエッセイの中で『料理長は多すぎる』を絶賛し、作中に登場するレシピを紹介したうえ、日本におけるスタウト紹介が広がることを求めていますし、光文社の雑誌「EQ」では、スタウトのCWA賞受賞作『ファーザー・ハント』を訳出しています。

     栗本薫は先ほどの略歴にも名前を出しましたが、『ぼくらの世界』という長編において、この本では以下に挙げる海外の名作ミステリーのトリックのネタばらしをする、といって、エラリー・クイーン『スペイン岬~』『緋文字』など五作品と並んで、レックス・スタウト『わが屍を乗り越えよ』(原文ママ)の題名を挙げています。作中でも、次のように述べます。この『ぼくらの~』というのは、作者と同姓同名の「栗本薫」が作中に登場する趣向のシリーズなので(ただし、作中の性別は男性)、セリフ内の「ぼく」というのは、イコール「栗本薫」のこと。

    〝ぼく、好きなんです。クリスティー、クイーンと並んで、いちばん好きな作家のひとりなくらいですよ。〟(『ぼくらの世界』より)

     あるいは、パシフィカの『名探偵読本4 エラリイ・クイーンとそのライヴァルたち』では、巻末の対談に参加して次のように述べます。

    〝栗本 私は一番ネロ・ウルフが好きなんですけれども、あれで一番おもしろいのはネロ・ウルフと、助手のアーチー・グッドウィンのやりとりですね。アーチーってのは、頭もいいし、気もきくし、ネロ・ウルフに可愛がられているんですけれど、まあ常識人で行動人なわけですよ。そこへネロ・ウルフというのはたいへんな奇人でまったくユニークな考え方をする、そこがとてもうまくかみあっていて、あのやりとりを日本で書ける作家はたぶん泡坂妻夫さんだけだろうと思うんです。〟(同書、p.220-221)

     この座談会では、この栗本の言及を除いて、同書の特集の目玉の一人であるはずのスタウトへの言及がほとんどない。栗本は二人のキャラクター性とユーモアを高く評価しており、『ネロ・ウルフ対FBI』には中村梓名義で解説を書き、高見浩訳のアーチーの一人称が他の大半の作品の「ぼく」ではなく「私」であることに「苦情」を言っている。その愛情が長らく続いたことが見て取れるのです(それよりも衝撃なのは、栗本薫の時代ですでに、『腰ぬけ連盟』は「神田の古本屋で購入した」し、「もっとも古い『黄金の蜘蛛』は絶版で、もう手に入らない、と早川の人に言われて失望した」というくだりです。スタウトの作品が手に取りにくいのは、今に始まったことではないらしい)。

     もう一人、重要な評者として、杉江松恋を挙げておきましょう。同氏は『路地裏の迷宮踏査』(東京創元社)に収録された「レックス・スタウトのリベラリズム」と、2005年にポケミスから邦訳刊行された『編集者を殺せ』の解説、2009年に同じくポケミスから邦訳刊行された『黒い山』の解説で、主にスタウトについて言及しています。「レックス・スタウトのリベラリズム」において、杉江はリベラリストとしてのスタウト像を紡ぎ、『料理長が多すぎる』が「黒人差別の問題を採り上げたミステリとしては非常に早い段階のもの」であることを指摘し、『黒い山』『ネロ・ウルフ対FBI』などにも通じるスタウト作品の縦糸をつかまえ、『腰ぬけ連盟』のトリックに別の光を当ててみせる。実に惚れ惚れとする筆さばきです。

     さて――そういう風に前置きをしておいたうえで、私がスタウト作品を楽しむまで15年かかった理由を一言で言います。それは「世評が高い作品がスタウトにとっての異色作であり、定型を知ってから初めて十全に楽しめるものであることに丸15年気付かなかったから」です。そもそも、日本で現在でも唯一現役文庫で手に入る『料理長が多すぎる』が、「あの家から出たがらないネロ・ウルフが外出する」という一編ですし、『シーザーの埋葬』も同様に外出編、『黒い山』は『我が屍を乗り越えよ』の続篇であると同時にまたしても「外出する、それも今回は旅行」という趣向です。定型からの距離が分かると、どれもシチュエーションだけでくすぐられますが、ピンとこなかったら、事件そのものを楽しむしかない。でも、事件そのものだけを楽しむには、〈ネロ・ウルフ〉シリーズはやや弱い。

     事件が面白くないと言っているわけではありません。むしろ、特異な事件に対して、「あの」ネロ・ウルフとアーチー・グッドウィン、そして、彼の周辺にいる人物がいかに反応するか――その文脈ごと楽しむのが、一番楽しく読むための近道であることに気付いたのです。事実、〈ネロ・ウルフ〉シリーズにおいて、本格ミステリーとしてもレベルが高いと感じる作品は、そもそもキャラクターの転がし方が達者な作品でした。キャラクターを動かし、ユーモアをふんだんに撒き、その中に伏線も隠してしまう。それが上手くハマっている時に、本格ミステリーとしてのスタウト作品が輝いてくる。

     ここでいう、「定型」というのは、以下のようなイメージです。

    ①ネロ・ウルフは家から外に出ず、冒頭で依頼Aに遭遇する。この依頼Aは、事件とのかかわりの起点に過ぎず、メインの事件ではない(このため、「依頼Aにかかわる人物や依頼人の紹介者は登場人物表にリストアップされない」「冒頭の内容が文庫裏のあらすじと一致しない」など、翻訳ミステリーの初心者を振り落とす要素がいきなり含まれる)。
    ②ウルフは依頼Aから金をせしめる方法を考える。あるいは、金にならないからと突っぱねる。この時、Aを受ける/受けないの分岐を作るために、ウルフの気分を変えるための仕掛けが冒頭に配される(例:『黄金の蜘蛛』において、お抱えシェフのフリッツが勝手な味付けをしてウルフが激怒すること=ウルフは虫の居所が悪いので、子供の話をまともに聞かなくなる/『殺人は自策で』において、ウルフが読んでいる本のランクをA~Dに分けているとアーチーが分析し、そのAランクに属する本の作者が電話をかけてくること=珍しく、ウルフは自分から少し興味をもつ)
    ③依頼Aはイレギュラーバウンド的に依頼Bの事件(メインの事件)へと発展する。ここまでに、あるいは、この時に、容疑者の枠となる人物関係が提示される(五人程度から、二十数人まで)
    ④ウルフは家から動かず、アーチーが外で動き回る。情報はアーチーからの報告でもたらされるか、ウルフの事務所を証人が訪れることでもたらされる。
    ⑤中盤で、ウルフは見込み捜査をするために、「仮説」を提示し、事件の構図、その見方を大きく転換する。
    ⑥大団円において、ウルフは証拠が乏しいなか、容疑者全員を事務所に招き、推理を披露する。この時、純粋に推理のみを披露し、心理的に追い詰める場合(パターンX)と、何か犯人を嵌めるための逆トリックを用意しており、策略的に追い詰めてしまう場合(パターンY)がある。

     こうです。要するに、ウルフが家から一歩も出ず、アーチーが動き回り、最後は大団円で解決する、ということですね。こう聞くと、大体イメージ通りだと思います。ここに、ウルフの家にいるお抱えシェフのフリッツ・ブレンナーと、園芸係のシオドア・ホルストマン、ウルフとアーチーが調査のために雇っている四人の探偵(ソール・パンザー、ジョニー・キームズ、フレッド・ダーキン、オリー・キャザー)、ウルフにたびたび噛みついては、時に協力関係を結び、時に対立するクレイマー警視というレギュラーキャラクターの魅力が加わってくる、ということになります(クレイマーは訳者によって「警部」「警視」と訳語が違いますが、私は多数派である「警視」のほうに慣れてしまったので「警視」で記述します)。作品に緊張感を与えるのは、大抵、このクレイマー警視で、外出して事務所を離れてしまう『料理長~』『シーザー~』では、そもそもこのクレイマーにお目にかかることさえ出来ない。

     そして、このパターンの時のウルフという男は……とにかく、ムカつくんですよね(笑)。植物室に行く時間(9~11時、14~16時)は固定だから絶対に客を通すなというし、客が来ても待たせる横柄ぶりだし、自分からは絶対に容疑者の元を訪れないからどんな相手でも呼びつけるし、大事な話をしている時にもずっとビールを飲んでやがるし。なんだ、こいつ? というのが私の最初の印象だったわけです(栗本を含めた何人かの評者はアーチーを褒めるわけですが、ハードボイルドに興味がなかった中学生の頃は、アーチーも好きになれなかった)。

     ただ、そういう風にしか生きられないウルフという男をアーチーの一人称視点で存分に皮肉りながら、時に愛情深く、時にケンカしながら描いていく過程を味わっていくと――ようやく、この二人組に愛着が湧いてくる。ここまでくれば、『料理長が多すぎる』で、電車に14時間も乗るなんて! と自分で決めた旅行なのにグチグチ言いまくるウルフに、「なんだこいつ?」と眉をひそめる気持ちより、「面白い奴だなあ」と笑う気持ちが勝つようになります。眉をひそめるくらいの態度でいい気もしますが。

     ⑥の解決に関してですが、もちろん、パターンXの方が本格ミステリーとしては練度が高く、パターンYに属するものは、巧妙なものから、ミステリードラマなどでも大量に見たことがあるであろう「レコーダーに自白を録音する」といった弱いものまでさまざまです。犯人を嵌めて自白で終わらせる場合もあります。こうなると、キャラクター小説、サスペンスとして楽しむことしか出来ず、謎解きものとしての評価は難しくなります。ただ、パターンYの作品はむしろ、⑤の「仮説」の部分に力点があることが多いのです(逆に言うと、この場合は中盤の⑤の時点で本格ミステリーとしての完成度は打ち止めになり、後半は犯人をいかに追い詰めるかというサスペンス的な読み方しか出来なくなります。代表例は、後に話しますが、デビュー作である『毒蛇』です)。スタウト作品は最後だけ読んで済ませるというわけにいかず、捜査・調査の過程、いかに調べるか、どうアタリをつけて何を見つけ出すか、というところが面白い、ということになります。

     しかし、このパターンYにあたる作品もそうそう馬鹿には出来ません。犯人を嵌める手段が、倒叙ミステリーの優れた「逆トリック」(探偵が犯人に対して仕掛けるトリック)のような味わいをもたらすこともありますし、「利害関係が対立する複数の事件関係者との衝突をいかにウルフが収束させるか」あるいは「ウルフがいかにして金をせしめるか」という興味は、コンゲームの魅力に近接する部分があります。たとえば、『ネロ・ウルフ対FBI』という長編は、事件の謎を解決することはもちろんですが、FBIや警察相手に、ウルフがいかに事態を収めるか、という部分に最大の力点があるのです。

     邦訳された23長編を全て読んだ感想としては、必ずしも、本格ミステリーとしてだけ読むのは幸せとは言えない、ということです。むしろ、恐らくはA・A・フェアの一連の作品群のように、キャラクターを楽しみつつ、事件も綺麗に収まるところを読んで、翌日には綺麗さっぱり忘れてしまうのがよろしいのではないかと思います。ウルフやアーチー、彼らを取り巻く人々の魅力が記憶に残れば、それで御の字、という作品群でしょう。エラリー・クイーンやジョン・ディクスン・カーが高く評価される日本(私も含めて)において、積極的な評価の声が根付いていないのも、正直理解出来ます。

     だから、私が今から書く(不)完全攻略レビューは、もっとスタウトを評価しろとか、復刊しろとかいうことではなく(「EQ」を刊行していた光文社でこの原稿を発表するのも、特段の意図はない!)、正直、私も数カ月したらここに書いたような各作品の感想を忘れてしまいそうだから、記録に残しておきたい――という危機感に近いのです。あと一カ月もすれば、一部の事件の真相はさっぱり忘れているでしょう。だから、この文章の最終的な目標としては、現在流通している論創社版スタウト、特に中短編集に手を出してみる人が一人でも多くなるのを願うとか、古書店でレックス・スタウトに出会った時、「そういえば阿津川はなんて言ってたかな」「フーン、じゃあこの値段なら買っておくか」というせめてもの指標になるとか、それくらいの意味しかないと思います。まあでも、書いておきましょう。そのための「日記」なんですから。

    〇(不)完全攻略、スタート!(各論編(1))

     では、(不)完全攻略を試みます。第14回のディック・フランシス回と同じように、三つのバロメーターを設定し、ざっくりと評価していったほうが読みやすいでしょう。三つのバロメーターは、「ユーモア度」「謎解き度」「読みやすさ」とします。

    「ユーモア度」は、主に、事件そのものの面白さから、語りの面白さ、あるいはキャラクター小説としての完成度などで評価します。

    「謎解き度」は、端的に本格ミステリーとしての完成度ですが、上に述べたパターンであれば、⑤が鮮やかである作品も比較的高い傾向(☆3~4はつく。最後まで力が籠っていれば5になる)になります。

    「読みやすさ」は、登場人物の数やその整理の仕方、プロットの把握のしやすさ、訳文の読みやすさなどで判断します。

     以上の評価は邦訳長編23作品についてのみ、行います。短編については短評をつけますが、全てに評価を書いていると読みにくく、煩わしいので割愛します。

     さて、長々と評価を読んでも大変だと思いますので(おまけに、分割掲載のため後編の評価は2週間待っていただかないといけませんので)、ここで結論のみ書いておきます(見づらくなるので、初出の太字表記はしません。また、(不)完全攻略内においても、そこで話している作品のメインタイトルのみを太字表記し、関連作として言及している他のスタウト作品はすべて太字表記しません)。

    ・初心者におすすめの長編三選
    『編集者を殺せ』(ハヤカワ・ポケット・ミステリ)
    『殺人は自策で』(論創社)
    『シーザーの埋葬』(光文社文庫)

    ・偏愛長編五作(順不同)
    〇本格ミステリーとして
    『ギャンビット』(「EQ」掲載)
    『Xと呼ばれる男』(「EQ」掲載)
    『ラバー・バンド』(ハヤカワ・ミステリ文庫)
    『ネロ・ウルフ最後の事件』(ハヤカワ・ミステリ文庫)
    〇私立探偵小説として
    『ファーザー・ハント』(「EQ」掲載)

    ・偏愛短編五選(順不同)
    「死にそこねた死体」(『ネロ・ウルフの事件簿 アーチー・グッドウィン少佐編』〈論創社〉に収録)
    「急募、身代わりターゲット」(『ネロ・ウルフの事件簿 アーチー・グッドウィン少佐編』〈論創社〉に収録)
    「トウモロコシとコロシ」(『ネロ・ウルフの災難 女難編』〈論創社〉)に収録
    「探偵が多すぎる」(『短編ミステリの二百年2』〈創元推理文庫〉に掲載)
    「クリスマス・パーティ」(『クリスマス12のミステリー』〈新潮文庫〉に収録)

     では、以下からは発表年順に作品をみていきましょう。未訳の作品は適宜スキップします。以下のリストは、『ネロ・ウルフ対FBI』の光文社文庫新装版に掲載されたリストをもとに作成したものです。元のリストは、長編、短編を分けて掲載してありますが、作風の変遷や展開を辿るために、年代順にすべて並べてあります。長編のタイトルの下に1行太字で入っているのは、なんとなく作ったキャッチコピーです。

    凡例:〇は既読(◎は特にオススメ)。
       ・のままは未読。
    〇1934年『毒蛇』(ハヤカワ・ミステリ文庫)
     ネロ・ウルフの捜査、原点にして確立す。衝撃の結末を見よ。
     ユーモア度 ☆☆
     謎解き度  ☆☆
     読みやすさ ☆

     原点ともいえる作品ですが、ネロ・ウルフとアーチー・グッドウィンのキャラクターが既に完成しているのもさることながら、調査のやり方がどのシーンでも面白い。失踪した兄の部屋でスクラップされた新聞を見た、という些細な手掛かりから、彼がどの記事に興味を持って記事を切り抜いたかを、実験によって特定する序盤もユニークですが、中盤、キャディーの子供たちを招いて昼食会を開きながら尋問をするシーンは、ネロ・ウルフの探偵法を象徴するような名シーンになっています。彼と少年たちの対話から、事件の構図ががらりと変わる(総論で述べたパターンでいうと⑤の部分)、という見所も含めて。がらりと変わってからの展開が少し長すぎるのが、玉に瑕、とは言えますが(つまり、パターンYの代表例です)。

     病死で片が付いたはずの事件をほじくり返すために、地方検事との賭けを要求し、検視を要求するアーチーの姿はまさしく抱腹絶倒。自分からは話を聞きに行かず、とにかく相手を呼びつけるウルフのスタイルはこの時点で確立していて、これを痛快に感じるかどうかが、ウルフものを楽しめるかどうかの分水嶺といえます。特に……恐れ入ったのは、この結末です。1934年という発表年においても、特段、斬新というわけではないオチなのですが、シリーズの第一作でやっていいオチの方向性なのか、これは、と呆れてしまい、しかる後に、爆笑してしまいました(だから、Yパターンではあるのですが、単純に自白を引き出すとかではなく、変なオチに辿り着く作品ではあります)。いやあ、やられた、やられた。

     ただ、同時に、一切復刊が望めないのではないか、と思わされるのもこの作品です。黄金時代の本格ミステリーにおいて、今では「古い」と感じさせられる価値観が登場することは珍しいことではありませんが(本来的には、その時代性の違いも含めて受容し、作品の一部として鑑賞するべきですが)、『毒蛇』には、「事件関係者の女性を複数の男性で拉致、脅迫し、情報を聞き出す」というシーンが含まれ、それについてなんのお咎めやツッコミもないことには頭を抱えさせられました。この一点に目を瞑れば、悪い作品ではないのですが、目を瞑ってくれる読者の方がもはや少ないのではないかと思ってしまいます。また、シリーズを追った後で振り返ると、クレイマー警視がまだ登場していないのも非常に残念です。

    ◎1935年『腰ぬけ連盟』(ハヤカワ・ミステリ文庫)
     再読、三読してようやく真価を見出せた、「カーの長編ベストテン」
     ユーモア度 ☆☆☆☆
     謎解き度  ☆☆☆☆☆
     読みやすさ ☆☆

     私が最初に読んで、最初に挫折してしまったウルフ作品。登場人物の多さや、なかなか事件の正体が見えてこない序盤の読み味が大きく足を引っ張っている印象です。「腰ぬけ連盟」というものの実態が見え、15人の容疑者が現れるところまでが少し長い。そこまで読んでいけば、連盟の中心にいる「ポール・チャピン」という作家のキャラクターが見えて、「いかにウルフが事態を収めるか」という部分に物語の興味の焦点が移っていきます。

     この作品では、本格ミステリーとしての狙いにも力点が置かれていますが(根拠をしっかり示した逆転劇なので、確かに他の長編よりは本格度が高い)、何より驚かされるのは、ウルフが正義で動く人間ではまったくない、ということを態度のうえで示す部分でした。ウルフは解決編において、ある評決を採りますが、その後の彼の発言が本当にすごい。そんな理由で謎を解かないルートもあったのね、と笑わされます。ただ、これで笑えるようになったのは三読目となる今回で、初読・再読の時は、「なんなの、こいつ?」という印象が先立ってしまっていたのです。ウルフは正義で動く人間ではない。それもこのシリーズの一つの「定型」であって、それを外す時が結構面白いのです。

    ◎1936年『ラバー・バンド』(ハヤカワ・ミステリ文庫)
     確立したスタイルの「ウルフ流本格ミステリー」、初期の完成形。
     ユーモア度 ☆☆☆☆
     謎解き度  ☆☆☆☆☆
     読みやすさ ☆☆☆

     本格ミステリーの良作。スタウト、あるいは〈ネロ・ウルフ〉シリーズ最初の一冊としてもオススメできます。これも、スタウトもののパターンに則った作品といえます。最初にウルフが担当することになる会社での金銭盗難事件は入り口に過ぎず(依頼A)、その事件で出会った関係者から「輪ゴム団(ラバー・バンド)」のメンバーたちをめぐる奇妙な事件に取り組むのが本題になります(依頼B)。しかし、導入の事件は登場人物たちの性格を印象付けるのに役立っていますし、冒頭、一見無関係に思われたウルフとアーチーの会話劇は、中盤に至って「そういうことだったのか!」という納得と驚きに転じます。段々とユーモアも脂がのってきて、冒頭の、「ウルフが運動のためにダーツを使ったポーカーの役作りゲームを始める」というくだりだけで笑わされます。

    『腰ぬけ連盟』でものにした、因縁を持った登場人物の一団を作って、そこでフーダニットを展開するフォーマットを活かした周到な本格ミステリー。その「登場人物の一団」がぐっと少なく、5人です。まあ、周辺に何人も散りばめているんですが、それでも少ない! ありがたい! トリックは脱力ものであるとはいえ、その狙いがはっきりとしたトリックであるため、謎解きものとしてまとまっている印象を受けるのです。犯人の正体と伏線には素直に膝を打たされました。

    〇1937年『赤い箱』(ハヤカワ・ミステリ文庫)
     ウルフ、早くも外出し、愚痴る。心理謎解きミステリーの良作。
     ユーモア度 ☆☆☆
     謎解き度  ☆☆☆☆
     読みやすさ ☆☆☆

     この作品で早くも、ウルフ外出、というパターン外しを行っていることに驚かされます。奇妙な毒殺事件について直接聴き取りをするため、家を出ることになるのですが、一旦おとなしく家を出たはいいものの、その後も依頼人に「私を家から出したじゃないか」とグチグチ言う姿には苦笑。推理という点では、細かな伏線から隠された人間関係と犯人を炙り出していく手法が見事で、充実の本格ミステリーとなっています。

     問題は、またしても最後のオチ。ウルフものでは容疑者たちを集めて推理を披露するのが定型になっているとはいえ、そこから倫理観を踏み越えたようなオチがつくのは驚かされました。そうならないようにすることは出来たんじゃないか? という気分ではありますが、そうしてしまうのがウルフ、ということでしょう。

    〇1938年『料理長が多すぎる』(ハヤカワ・ミステリ文庫)
     有名作にして最も入手が容易にもかかわらず、異色作。パターン外し、完成す。
     ユーモア度 ☆☆☆☆
     謎解き度  ☆☆☆☆
     読みやすさ ☆

     さて、『料理長が多すぎる』です。唯一現役の文庫で手に入る〈ネロ・ウルフ〉作品であり(24年7月時点)、最も手に取りやすい作品ですが、本書をスタウト作品の入り口として読むのはオススメ出来ません。なぜなら、これはシリーズ第五作目であり、今までの作品で試みたパターンを外すことが面白さの核心を成しており、これを始めに読むとシリーズキャラクターを含めた面白さを体感出来ないばかりか(クレイマー警視も名前こそ登場しますが、遠く離れた地なので活躍はしてくれません。フリッツやシオドアといったいつもの面々ももちろん不在)、ウルフの料理蘊蓄連打と「多すぎる」料理長(登場人物)のせいで混乱し、シリーズの愉しみから振り落とされかねないからです(読みやすさを☆1としているのは、そのためです)。

     ウルフが保養地カノーワ・スパーに向かうために電車に乗り込むが、車や電車など動くもの全般が嫌いなので恐慌状態になっている、という発端からして、ウルフをよく知った状態で読むと抱腹絶倒なのですが、初読時はその面白さも分からず、なんなんだこいつは、というだけで終わってしまいました(第四作『赤い箱』で近所に外出させ、第五作の本作で遠出をさせているなど、段階を踏んでいるのも面白い)。平井イサクの訳でスタウトを読めるのは嬉しいので、出来るなら、スタウトの文体や雰囲気に少し慣れてきてから手を出したいところです。じっくりと読めば、利きソースの催しから犯人を導き出す推理や、ウルフが犯人を追い詰めるためにとった手段は面白く、楽しめます。

    ◎1939年『シーザーの埋葬』(光文社文庫)
     ネロ・ウルフ、「牛による殺人事件」を捜査する? シリーズ随一の本格&ユーモア編。
     ユーモア度 ☆☆☆☆☆
     謎解き度  ☆☆☆☆☆
     読みやすさ ☆☆☆☆

     これは単独で読んでも十分に面白い作品ですが(事実、初読時の大学生の時もかなり楽しみました)、パターン外しという特徴を知ってからなら、より深く楽しめます。これも、ネロ・ウルフを外出させ、そこで事件を解かせる――というネタに挑んだ作品だからです。蘭を出品するため出かけたら車が故障し、アーチーはウルフにぐちぐち言われながら闘牛と戦うことになる、という冒頭から笑いが止まらないのですが、全米チャンピオン牛といわれるシーザーが、死体の傍におり、その角には血が――という不可思議な事件が起こって、本格ミステリーとしての興味もぐんと高まる、という次第。エリザベス・フェラーズ『猿来たりなば』を思い出す、動物×本格ミステリーの雄編です。

     この作品において、アーチーは彼の「本命」ともいえる女性リリー・ローワンに出会います。彼女の存在はシリーズにおいてかなり大きく、リリー・ローワンが出演する作品は大体良作以上といっても過言ではありません。実にいきいきとしたキャラクターで、これならアーチーを任せてよかろうと思わされます(誰目線?)。

    〇1940年『我が屍を乗り越えよ』(ハヤカワ・ポケット・ミステリ)
     バロメーターは低いかもしれない。しかし、ウルフを知るためには読み逃せない一冊。
     ユーモア度 ☆
     謎解き度  ☆☆
     読みやすさ ☆

     推理小説の体裁をとっており、ギリギリその枠内に踏みとどまっているものの、国際謀略風味を加えて異色編となっている作品。初期作から続けてきた、パターンの確立と、定型外しの試みが、ここで、「ネロ・ウルフ自身の物語」として完成する、というのがここまでの大きな流れと言えるでしょう。

     モンテネグロからやってきた女性がウルフを尋ねるのが事件の始まりなのですが、シリーズものとしては、ここでウルフの出自と過去が明かされるのが大きな見所。リベラリストとしてのスタウトの顔が覗く作品であり、およそ探偵らしからぬその過去には驚かされました。ここで明かされたウルフの過去は、ウルフが故郷モンテネグロの地に帰ることになる『黒い山』(1954年)へと繋がっていきます。

     ただ、この作品は翻訳の事情によってかなり読みづらい作品になっています。元々やや読みづらい佐倉潤吾訳+50年代発行のポケミスなので促音〈っ・ッ〉などが大文字で表記されている〈やってくる→やつてくる、のように表記される〉+モンテネグロから来た女性の発音を表現するための「どか(どうか)」などのヘンな表記、という三連コンボ。おまけに、促音とモンテネグロ発音の区別が時折つかない。すごく読みづらい。新訳が待たれるところ――といいたいところですが、作品の性質を考えると、それも厳しそうです。

    ◎1940年『遺志あるところ』(「EQ」93年7月~9月号に掲載)
     軽快にして軽妙な謎解き編が帰ってきた。ウルフ、遺言状騒動に巻き込まれる。
     ユーモア度 ☆☆☆☆☆
     謎解き度  ☆☆☆☆
     読みやすさ ☆☆☆

    『我が屍を乗り越えよ』で異色の題材を取り扱った後、「遺言状」という推理小説のベタな題材に戻ってきた作品。前作で大きな冒険をしているせいか、今回は丁寧に「定型」をなぞるところから始めており、読み心地も安定したウルフものの面白さです。上流階級の三姉妹に、兄からの遺言でそれぞれ、モモ、ナシ、リンゴが一つずつ贈られ、兄の妻にはゼロ、兄の愛人に数百万が遺されるという発端からして笑わされてしまいますが、遺言関係のトラブルには首を突っ込みたくないウルフが、金ほしさに変な形で依頼を引き受けることに。ウルフの部屋に次々と事件関係者が訪れたかと思いきや、兄の死に不審な点が投げかけられ、一気に推理小説的な興味を深めていきます。

     ウルフが拠点を移すところなども非常に面白いのですが(パターン外しの一種)、それ以上に面白かったのが、ある事件が発生した際のやり取り。ウルフが「アーチー、わたしは二分もらいたい。二分後に上に行って、ブロンスン警部補に知らせなさい」と告げるくだりがあるのですが、アーチーが戻ってみると……いやぁ、久しぶりに小説を読んで声を出して笑った。アントニイ・バークリーの『最上階の殺人』の再読以来。そうした、シリーズものとしてのくすぐりが本編の最大の魅力ですが、謎解きもしっかりしています。ウルフらしい手掛かりが最後に配されているところがポイントでしょう。

    ・1940年中編→1985年刊行の〝Death Times Three〟に収められる

    〇「苦い話」(「苦いパテ」)→『ネロ・ウルフの災難 激怒編』(論創社)に収録

     さて、ここから、中短編集が登場することになります。中短編集の最大の特徴は、これまでの8長編で確立したスタイルを基礎として、圧縮した形でプレゼンテーションすると同時に、更に豊かなパターン外しを案出してくるところです。登場人物を大量に出し、その枠内でフーダニットを試みるスタウトの作風は、中編の長さでは十全に威力を発揮せず、バタバタした印象が際立つものもありますが、整理されている時は、〈ネロ・ウルフ〉シリーズの魅力を凝縮して味わうことが出来る最良のサンプルとなっています。また、パターン外しが多くなる、の一例として、中編の方がウルフの外出の機会が多いことも挙げておきます。ウルフを外出させると、いつもの拠点やシリーズキャラクターが使えなくなりますが、その分、中編の尺に合ったのではないか、という気がします。

    「苦い話」は、〈ネロ・ウルフ〉シリーズの中編初登場作品。スタウトの死後、作品集に収められました。ウルフ家のレバーパテに毒が入っていた、という発端こそ魅力的ですが、謎解きは普通です。

    ・1940年中編集〝Black Orchids〟
    ◎「黒い蘭」→『ネロ・ウルフの事件簿 黒い蘭』(論創社)に収録
    ◎「ようこそ、死のパーティーへ」→『ネロ・ウルフの事件簿 ようこそ、死のパーティーへ』(論創社)に収録

     非常に充実した二編です。前半にあたる「黒い蘭」では、フラワーショー中に起きた殺人事件をきっかけに、ウルフがある蘭を手に入れるまでが描かれ(外出編/パターン外し)、「ようこそ、死のパーティーへ」では、その蘭が絡んだもう一つの事件が語られる、という構成(こちらは、王道のパターンを使っている)。アーチーは序文において、「ようこそ~」には、一つ解かれない謎が残る、と大胆不敵に宣言してみせますが、最後まで読んでみて、その狙いにニヤリとしてしまうという、小気味の良い二編。日本では分冊して収録されましたが、可能なら、続けて読んでも楽しそうです。

    「黒い蘭」はウルフ外出編というのもあって、ユニークで楽しい仕上がりです。「ようこそ、死のパーティーへ」は、ウルフものの面白さを凝縮したような中編です。癖のある依頼人との面会→容疑者が一気に登場する→イレギュラーバウンドのように違う事件に発展する、という流れが定型をなぞっているのもさることながら、序盤に置かれたドタバタ劇が伏線となり、面白い調査シーンが描かれるのが実にスタウトらしい。犯人はやや分かりやすいですが、推理のポイントは鮮やかです。

    ・1944年中編集〝Not Quite Dead Enough〟
    ◎「死にそこねた死体」(「まだ死にきってはいない」)→『ネロ・ウルフの事件簿 アーチー・グッドウィン少佐編』(論創社)に収録
    〇「ブービートラップ」→同上

     アーチー・グッドウィンは第二次世界大戦中、少佐になっていた――という事実に着目し、その時期の作品をまとめたのが、論創社の『ネロ・ウルフの事件簿 アーチー・グッドウィン少佐編』です。このユーモラスなシリーズにも戦争の影がちらつく……のは事実なのですが、ユーモラスな筋運びは健在。中でも「死にそこねた死体」は、キャラクターを使った遊びと謎解きの企みが満杯に詰まっており、〈ネロ・ウルフ〉シリーズの中短編の中でも一、二を争う傑作。アーチーが久しぶりに事務所に戻ってみると、ウルフがダイエットを始めており、家は荒れ放題になっているという発端だけでも笑わされますし、『シーザーの埋葬』以降、アーチーの正ヒロインとして収まった感のあるリリー・ローワンのゲスト出演回でもあります。リリーが持ち込んだ依頼はやがて殺人に発展するのですが、そこでアーチーが取る行動が……衝撃(笑)。しかし、ウルフへの信頼に裏打ちされたその行動と、ウルフがアーチーへの信頼をにじませる一つのセリフに、グッときてしまう。それでいて、謎解きのポイントもシンプルかつ強力です。たった一つの発想で、容疑者枠が鮮やかに反転する。見事!

    「ブービートラップ」は手榴弾が爆発して大佐が死亡し、これが事故なのか殺人なのかを捜査することになる、というのが大体の筋。軍部の汚職に分け入っていく分、「死にそこねた死体」よりも、戦争の影は濃いのかもしれません。謎解きのほうはまずまず。

     さて、ちょうど原稿の半分なので、ここで分割します。続きは2週間後!

    (2024年8月)

第85回2024.07.26
「探偵」の意志 ~坂口安吾と松本清張~

  • 坂口安吾『安吾探偵事件帖 ――事件と探偵小説』(中公文庫)

    坂口安吾
    『安吾探偵事件帖
     ――事件と探偵小説』
    (中公文庫)

  • 〇告知

     本日、7月26日に拙作『バーニング・ダンサー』(KADOKAWA)が刊行されました。警察ミステリー×どんでん返しという惹句とタイトルからご想像いただける通り、ジェフリー・ディーヴァーっぽい作品をやりたくて書いたものです(読書日記の第44回と併読してもらうとちょっと面白いかも)。あとは、超能力者たち(作中では「コトダマ遣い」と呼んでいます)の戦いを書いたので、ドラマ「SPEC 〜警視庁公安部公安第五課 未詳事件特別対策係事件簿〜」へのオマージュも入っています。まあ、阿津川がやりたい放題やらせてもらった作品、という感じです。手掛かりと解決は、一応今まで通りのクオリティーを目指しているのですが、どうでしょうか。

    〇鮎川哲也のレアコレクション!

     光文社文庫から鮎川哲也『夜の挽歌 鮎川哲也短編クロニクル1969~1976』が刊行されました。光文社文庫への未収録短編を集めたもので、私も初めて読むものがたくさんあり、かなり楽しめました。光文社文庫から先んじて『黒い蹉跌』『白い陥穽』という倒叙ミステリー短編集が二冊刊行されており、その雰囲気を感じさせる倒叙ミステリーが大半で、他に、アリバイ物や密室物のレアなものが入っています。まずは倒叙ミステリーの話をすると、鮎川哲也の倒叙ミステリーは、ずっと犯人の視点から記述され、最後に数ページ、刑事が登場して、決め手を突き付けるという構成になっているものが多いのですが、この構成に説得力をもたらしている刑事たちの堅実な仕事ぶりが面白いと思います。鮎川哲也が描く刑事は本格ミステリー界でも屈指の有能さで、そうした刑事だからこそ、たった一つの決め手の提示が鮮やかに映える。徹底的にそぎ落とした構図が効いているのです。このタイプの作品だと、『夜の挽歌』の中では「水のなかの目」「冷雨」、「尾のないねずみ」が好きでした。しかも、「尾のないねずみ」は私が大好きな「ガスミステリー」(ガスを扱ったミステリーで、F・W・クロフツ『二つの密室』や日影丈吉『女の家』などいぶし銀の傑作が多い。ガスミステリーという言葉は多分ないと思いますが……)。

     密室ものである「地階ボイラー室」は推理の根拠が面白い作品で、最も感心したのは「ドン・ホァンの死」。犯人を指摘する決め手が、少し捻じれているのが好みです。ストレートにいかずに、誰が何を知っていたかを立体的に組み上げていくと、構図が見えるというのが良い。こうして集められたレアな短編十五編でこれだけ楽しめるのですから、いい加減、角川文庫の『鮎川哲也名作選』を集めて、一から読んでいくべきですね。『裸で転がる』しか読んでいない。あれは表題作が傑作。

    〇坂口安吾と「探偵」

     ここからは、だらだらと、坂口安吾の話をしてみます。5・6月に中公文庫から二冊の新刊『安吾探偵事件帖 ――事件と探偵小説』『不連続殺人事件 ――附・安吾探偵とそのライヴァルたち』が刊行されたからです。そこに描かれたいくつかの「探偵」という像を拾いながら、結局、この二冊が面白い、ということを語るだけの回ですが、結論を先取りするなら、それは坂口安吾を通じて松本清張の響きを聞く試みでもあります。

     ひとまずは『安吾探偵事件帖』の話から始めましょう。安吾のエッセイの中から、戦後の難事件について語ったものや、裁判の傍聴記などを収集した第一部(「Ⅰ 事件と裁判」)と、推理小説について論じたものを収集した第二部(「Ⅱ 推理小説論」)からなる本で、帯に「戦後の難事件を推理し、探偵小説を論ず/安吾探偵登場!」と謳われている通りの構成。まずはこれが面白かった。ここから安吾のエッセイにハマりました。

    「Ⅰ 事件と裁判」編は、難事件への推理、といいつつ、鋭い推理で犯人像に迫っていくというよりは、同時代的な事件について、ああでもない、こうでもないと安吾独自の視点で思索を巡らせるという内容です。「帝銀事件を論ず」では、「帝銀事件」そのものよりも戦争の影について話し、「孤独と好色」は「下山事件」について下山総裁自殺説を採った場合のスケッチという具合で、むしろ推理そのものより、最後の引用が効いている。「下山事件推理漫歩」は、江戸川乱歩・中舘久平との座談であり、基本的な事実は一緒に検討しているものの、むしろ、最後には他のエッセイと同じように新聞・マスコミへの批判へ流れていきます。「孤立殺人事件」は、「孤独と好色」とも響き合う内容で、一つの死を論証することでその孤立の構造を暴いていく内容でこちらも素晴らしいですし、事件の図面なども挿入されているのがますます探偵小説風。

     白眉は「フシギな女」という題名の、八宝亭事件に関するエッセイです。八宝亭事件というのは、このエッセイを読むまで知らなかったのですが、築地の中華料亭において四人が殺害された事件のようです。安吾はまず、1951年4月号の「新潮」に、この「八宝亭事件」に関して述べた「フシギな女」と題するエッセイを載せているのですが、すごいのはその続き。1951年5月号の「新潮」に掲載されたもので、これは先月号の原稿の内容について、東京新聞の小原壮助が寄せた批評に反論する内容なのです。「フシギな女」という題名に込められた皮肉と配慮について述べたうえで、いかに相手が自分の文章を読めていないかを滔々と論駁する安吾の筆の冴えに、何か黒い笑いが込み上げてくるシロモノです。現実の八宝亭事件に対する謎解きであるのはもちろん、先月号の安吾の原稿の意図に関する「謎解き」でもあるという構造がスリリング(5月号の原稿の口調が強気なのは、3月10日に共犯者の女性が逮捕され、その証言により、3月11日に主犯が捕まっていることを受けてのことなのかもしれません)。

    「Ⅱ 推理小説論」に収められた文章は、安吾の推理小説観が伝わってくるもので(人工性への拒否感や手掛かりに関する考え方など)、いかにして『不連続殺人事件』『安吾捕物帖』が生まれ得たかが分かってくる内容。特に、「推理小説論」が読めたのは嬉しかった。これは実は、2018年に新潮文庫から復刊された『不連続殺人事件』に収録された戸川安宣・北村薫の対談「安吾の挑戦」を読んだ時から気になっていたのです。ちょっと引用すると、

    〝北村 (中略)話を安吾の推理小説観に戻しますと、安吾の考えが分かりやすく書かれている「推理小説論」という文章があります。私は高校生の時に鈴木幸夫編『殺人芸術』に収められていたのを読んだのですが、この中で安吾は横溝の「蝶々殺人事件」が傑作だと書いています。なるほど「蝶々」はそんなにすごいのかと呼んでいくと、あろうことか、「一つ難を云えば、犯人の〇〇が……」と書いてあるんです。
    戸川 犯人を書いちゃった(笑)。
    北村 愕然としました。「おい、待ってくれよ」と。「本陣」よりも傑作だという犯人の名前を書いてしまっている。これは自分の記憶を改変しなければならないと思って、買ってあった「蝶々」に、登場人物表から適当な名前を見つけて、「犯人は誰々」と別の名前を書いておいたんです。さらに数年経って、記憶が薄らいだころに読んでみたら、なんと安吾が書いていたのと犯人が違うんですよ。
    戸川 安吾はどうしてしまったんでしょうか(笑)。意図的にそうしたんですかね?
    北村 いや、多分、思い込みで書いてしまったんでしょう。ぞろっぺえな安吾らしい。〟(『不連続殺人事件』〈新潮文庫〉、p.407~408)

     この対談では、むしろ、安吾のクリスティーに対する敬愛を引いてくるところ(この後の箇所)が面白いのですが、北村薫が話した「蝶々犯人取り違え事件」の衝撃が面白すぎて、やけに記憶に残っていました。その認識で「推理小説論」を読んでみると、確かに間違えている(笑)。トリックに対する評価とまとめは合っているのに、犯人だけが違う。このそそっかしさがどこか面白い。「推理小説論」の初出は1950年4月の「新潮」で、『蝶々殺人事件』についての分析は、1947年の「東京新聞」が初出の「推理小説について」の方が詳しい。トリックの難を三つに分けて具体的に記述したうえで、それでも、傑作だと述べるところが潔いのです(ちなみに、こちらでは犯人がバラされていません)。上の引用部でも「「本陣」よりも傑作」という表現がありますが、謎のために人間性を歪めるのが嫌いな安吾は、『蝶々』でも三つ気になったんだから、『本陣』はもっと気になったんだろうなと思わされてしまいます。

    〇『不連続殺人事件』とその周辺について

     さて、そんな安吾の実作について触れつつ、その周辺で書かれた文章を多角的に集めたのが中公文庫の『不連続殺人事件 附・安吾探偵とそのライヴァルたち』です。

     まずは『不連続殺人事件』の思い出話をしておけば、私が初めてこの作品を読んだのは中学生の時。角川文庫でした。初読時には、とにかく多すぎる登場人物と殺人事件の量に面食らい、読み進めるのに難儀したのですが、結末に至って狙いが分かり、「名作」であることは理解したという感想でした。とはいえ、そこに興奮が伴っていたかというとそうではなく、疲れの方が勝ったという印象ではありました。よく言われる、『不連続』に似たクリスティーのある作品を読む前でもあったので、衝撃もひとしおではありましたが。いわば、これが「懸賞付き犯人当て」だったという触れ込みで読み始めたのに、えー、そういう方向性の解答なの、という素朴な感情が基にあったという感じです。

     大学生の時に二回目(先ほど引用した新潮文庫の新版)、今回で三回目(中公文庫)。回を追うごとに、その精緻さへの評価が高まる感じがしています。二回目の時に、「犯人当て」として解が無限に広がりそうなところを、「心理の足跡」という楔を打っているのが巧いのだと気付かされ、伏線なども丹念に拾う作業が出来、それが楽しかった。また、新潮文庫版は、「読者への挑戦」となっている連載時の「附記」をすべて収めており、それによって、当時の素人探偵たちの雰囲気と安吾の挑発っぷりを味わえて、当時の雰囲気を嗅ぎ取れた気がしたのです(併録の戸川・北村の対談によると、これらの「附記」を収録したのは創元推理文庫版の『日本探偵小説全集』の功績が大きいよう。中公文庫にも「附記」はしっかり収録されています)。

     でもやはり、今回が一番面白く読めた。それはひとえに、附録の面白さだと思います。坂口安吾が平野謙・大井広介(廣介)・荒正人らと、読んでいる本を千切って回し読みし、解決編にあたる部分を読まずに全員で解答を出し合い、推理比べをするという「犯人当てゲーム」とでもいうべき遊びをしていたのは、安吾が「真珠」でも書いている通りなので有名な話ですが(どこで初めて触れたかは思い出せません。何かのエッセイか?)、そのゲームの内容と勝敗の記録について、「それぞれの言い分」を聞くことが出来るのがこの附録です。客観的な記録は戦争で燃えたらしいので、もうそれぞれの言い分の食い違いを楽しむしかないところですが、安吾以外の証言を拾っていくと、とにかく、安吾の推理が当たらなかったというところは大筋で正しそうな気がしてきます。一人だけ十五枚、二十枚も解答を書いて、短編小説ぐらいになっていた、というのも、いかにも安吾らしい。探偵行為そのものに没入し、熱をあげていく姿は、現実の世相・事件を巷談として語り倒していく巷談師の姿とも重なるように思えます。

     他にも、江戸川乱歩による『不連続殺人事件』の感想や、荒正人・江戸川乱歩・大井広介による「座談会・評論家の目」、埴谷雄高、佐々木甚一のエッセイも収録されています。埴谷と大井が『不連続殺人事件』の安吾に提出しにいく場面の描写などは、実に克明です。安吾がたった一つの質問をして、それへの反応が埴谷・大井の間で違う、というあたりのカット割りが巧い。ここで当たっていたのは大井なのですが、大井の推理は「メタ読み」、それも友人で手癖や好みを知っているがゆえの「作者読み」にすぎなくて、だからこそ、懸賞では四等の五十点に留まっているのでしょう(完全正答は九十五点)。メタ読みにも面白いのと面白くないのがあって、鮎川哲也の「薔薇荘殺人事件」に対する花森安治の解答なんかは、面白い例。作中のデータからの「メタ読み」であると同時に、推理小説を書く立場からはしっかり耳が痛いので、これは面白いと思うんですが、大井のは、こんな当て方されたらかわいそうだろと思ってしまう(笑)。

     それにしても、不思議なのは江戸川乱歩の文章です。『不連続殺人事件』について、クリスティーの作品を挙げるのはいいとして、「この小説の犯行動機と犯人についての着想は私のベスト・テンの高位にある作と酷似している」と言っているのは、どれのことを言っているんだろう。恐らく、海外作品のベスト・テンを挙げたのに関連していると思いますが、どれのつもりなんだろう。この評では「トリック」という言葉が広い意味に使われすぎていて、「作者が読者に仕掛ける」という一点のみで『不連続』の作中の雰囲気に関する工夫と、『アクロイド』の手法を同列に扱っているので、それほど真面目に考えてもいけないような気がするんだけど(ちなみに、傍証ではありますが、大井廣介の『紙上殺人現場 ――からくちミステリ年評』においては、陳舜臣『白い泥』に言及しながら坂口安吾『不連続殺人事件』に言及するくだりがあり、そこでは、まさに乱歩のベスト・テン作品から一作品の名前が挙がっています。この頃、その作品の「価値」ってそこだと思われていたんだと思うと、興味深い)。

     しかし、この附録に関しての熱の入れようはすごい。巻末の「関連年表」でようやく油断していると、『復員殺人事件』の「附記」が収録されたりしています(p.440)。珍しい。『不連続殺人事件』本文に描かれた「推理小説の世界」と、推理小説に耽溺し、探偵行為そのものに熱中していく「現実の安吾の世界」が響き合う、非常にユニークな構成になっていると思います。

    〇ここで松本清張の話題へ

     さて、ここでいったん、松本清張の話題へ脱線。「帝銀事件」や「下山事件」というと、松本清張自身も『小説帝銀事件』『日本の黒い霧』で扱った題材になります。で、あるがゆえに、安吾の『安吾探偵探偵帖』を読む時、私は常に松本清張のことを考えていました。しかし、実際の事件に対するそれぞれのスタイルはまったく異なる。それぞれが生きた時代の違いでもあるのかもしれませんが、スタンスの差が大きいのだと思います。安吾は巷談師であり、むしろ「探偵」行為そのものに耽溺し、いかに語るか、ということに関心があるように思えますが、清張のそれは「推理」として書かれることに意味がある。安吾の語りから覗くのは、彼の生きた「今」の姿と、そこに生きる人々の姿ですが、清張は推理によって自らの史観を紡ぐ。

     ヒントになるのは保阪正康『松本清張の昭和史』(中央公論新社)です。二〇〇六年に平凡社から刊行された同題の本を一部修正し、『松本清張研究』に掲載された二つの座談会を収録した本になっています。『松本清張の昭和史』においては、『昭和史発掘』と『日本の黒い霧』をメインテキストとし、松本清張の史観、その核心を暴いていきます。謀略・陰謀史観について正面から書いているのはもちろん、大岡昇平佐藤一の清張批判なども丁寧に拾い上げ、その実像に迫っていく足取りの確かさが魅力です(帝銀事件について清張が書いた文章を引用し、当時の清張の「恐怖心」を分析するところはユニークで、しかし、異様な説得力がある)。特にしっくりきたのは、「白鳥事件」に対する推理が説得力に欠けていることを指摘した場面でした。

    〝この結論は確かに興味のある見方だ。なるほどという感がする。しかし、もうひとつ説得力をもたないのはなぜか。松本の着想や推理には抜きんでたものがあるが、それにしても説得力をもつ史実が浮かびあがってこないことである。この点に私は戸惑いを覚えるが、このような着想や推理だけで事件を見ていくことに読者としてもいささか疲労を感じるのではないだろうか。
    『日本の黒い霧』にはそういう疲労を生む作品も含まれている。そうした作品には、謀略史観に近づく寸前で筆を止めて、それ以上は踏み込むまいとする必死の自制も感じられる。〟(『松本清張の昭和史』〈中央公論新社〉、p.179)

     証拠をきちんと列挙して推理や着想を導いていくにもかかわらず、それが一つの「史観」のもとに吸い取られていくことへの快感と違和感。『日本の黒い霧』に感じたスリルの正体は、これなのかもしれないと思わされました。

     翻って安吾の話をするなら、だからこそ、『安吾探偵事件帖』の「軽やかさ」に自分は惹かれたのだと思います。安吾にも当然主義主張があって、そのどぎつさもあるとはいえ、語り口そのものは軽妙であり、その「語り」によって自分たちの「今」の姿を描いていく。語りそのものに、あるいは探偵行為そのものに熱中する文章に、『三幕の悲劇』を千切って回し読みし、黙々と答案をしたためる安吾の姿を見ることが出来るような気がします。だから私は安吾のエッセイを好きになったのかもしれません。

     『松本清張の昭和史』の中には、『日本の黒い霧』を肯定的に評価した評者の名前として荒正人の名が挙がり、『閉じた海 社会派推理レアコレクション』(中央公論新社)に収録された「私小説と本格小説――対談・平野謙」では、松本清張と平野謙が対峙し、『日本の黒い霧』についても語る(清張が『点と線』以前の批評家たちの反応に対し、平野の前で恨み言を述べる場面もあり、どこかスリリングな対談にもなっています――ヒリヒリする、という意味で)。そういったメタ的な事情でも、「安吾探偵とそのライヴァルたち」と響き合っています。

     一方で、中公文庫『不連続殺人事件』の荒正人・大井広介・江戸川乱歩座談会では、清張作品について、乱歩は肯定的に、大井は否定的に受け止める場面があります(1957年11月の「宝石」に収録されているもので、『点と線』は連載中。刊行されるのは、その翌年のこと。なお、大井の清張評については、1960年から66年の「時評」である『紙上殺人現場』でその評価の変遷を丁寧に追えるので、併読すると楽しい)。複数のテキストが網の目のようにつながって、当時の人々の反応や関係が見えてくる、そういう体験を中央公論新社から復刊・再刊されている作品群が与えてくれています。

     坂口安吾のエッセイが読みたくなって、『安吾巷談』を買ってみました。文庫でも良かったのですが、2018年に刊行された三田産業版にしました。これも痛快な語り口に魅せられる本ですが、冒頭から「麻薬・自殺・宗教」という文章に接して面食らわされますし、延々と競輪の話をしている「今日われ競輪す」には笑わされます。しかし、「ストリップ罵倒」のようなどギツい風俗話を読むと、どこか都筑道夫『二十世紀のツヅキです』(フリースタイル)のキツさを思い出すというか。ところで、都筑道夫はモダーン・ディテクティブ・ストーリーとして『不連続殺人事件』を高く買っていて、解説も書いており……ありゃ、このままじゃ話題がループしてしまう。

    『安吾巷談』を買ったら、友人から「『安吾新日本地理』も面白いよ」と耳打ちされたので、さっそく購入してこちらも読んでみました。うん、さすがにこれも面白い。日本全国の土地について、ああでもない、こうでもないと語る「巷談」の一種で、大阪や仙台の住人は真面目に受け取ったら怒るのではないかという表現がざっくばらんに登場しているのに笑わされます。「探偵」行為の一種としてとらえるなら、古代史を読み解く「飛鳥の幻」「飛騨・高山の抹殺」は必読級に面白い。「安吾歴史三部作」の一つらしいので、残りの二作、『安吾新日本風土記』『安吾史譚』も楽しみに読もうと思います。まずは、探すところから。しかし、古代史に関して造詣が深く、それに対する推理の提示が面白いという点も、松本清張に通ずるところが――うわ、参った。これじゃ今回の原稿終わらない。こんなところでやめにしましょう。

    (2024年7月)

第84回2024.07.12
台湾発、私立探偵小説の精華 ~あるいは私的なイベントレポート~

  • 紀蔚然『DV8 台北プライベートアイ2』(文藝春秋)

    紀蔚然
    『DV8 台北プライベートアイ2』
    (文藝春秋)

  • 〇告知から

     前回の読書日記でうっすら告知した通り、泡坂妻夫『乱れからくり[新装版]』(創元推理文庫)の解説を執筆しています。泡坂長編の中では特に好きな一作なので、解説を任せていただき、光栄でした。自分と泡坂作品との出会いから、その作品の魅力、その中でも『乱れからくり』がいかに素晴らしいかについて、いつも通り暑苦しく語っております。ネタバラシありのパートも作りましたので、本文を読み終わった方、読んだことのある方は、そちらも併せて楽しんでいただけますと幸いです。ぜひ(なお、前回書いた通り、蓮沼尚太郎「第四の推理小説」を読む前に書いた解説ですので、参考文献には挙げておりませんが、リスペクトは捧げております)。

    〇雑誌の話題

    「小説新潮」7月号では「第37回山本周五郎賞」の決定・発表に伴い、受賞作である『地雷グリコ』の冒頭掲載と選評の掲載に加え(伊坂幸太郎の選評には、葛藤も評価も真っ直ぐに書いてあって、思わずため息が漏れました)、歴代受賞作家の競作が載っています。その中から米澤穂信「名残」に注目。大叔父が経営する宿の常連客が、お気に入りの牛乳をある時からぱったり飲まなくなる、という「日常の謎」なのですが、「日常の謎」に伴う問題意識である「なぜ本人に聞かないのか」という問いが静かにしかし重く響いてくる佳品でした。牛乳が主題になる点で、「おいしいココアの作り方」(『春期限定いちごタルト事件』収録)を思い出しますし、宿の描写もキリッとしていて心地よい。良い短編を読めて幸せ。それにしても、来年からはこの「歴代受賞作家の競作」の時に、青崎有吾にも声がかかる可能性があると思うと胸熱(改めて、青崎さんおめでとうございます!)。

    「オール讀物」7・8月号は「真夏のミステリー特大号」。冒頭からいきなり、『可燃物』の葛警部が登場する米澤穂信「お見通し」が掲載されていて、旺盛な仕事ぶりに驚き。居酒屋で「手柄話」を同僚から聞かされる、という冒頭から引き込まれ、次第に様々な真実が見えてくるいぶし銀の手つきが魅力。何より、居酒屋の描写が、とても良い。大山誠一郎「三匹の子ヤギ」は過去のコンビニ占拠事件を緋色冴子が解き明かす〈赤い博物館〉シリーズの一作ですが、どこか『可燃物』収録の「本物か」のアプローチを思い出せたところも、響き合いを感じてユニークでした。「有栖川有栖デビュー35周年記念トリビュート」企画では、一挙に三編の短編が掲載。今村昌弘「型取られた死体は語る」は企画中唯一〈江神二郎〉シリーズに挑み、推理研の雰囲気を活かしたメタミステリ―に仕立てていますし、織守きょうや「火村英生に捧げる怪談」は作者らしい怪談という切り口と火村ものの取り合わせが魅力的。フーダニットとしては青崎有吾「縄、綱、ロープ」の切れ味が素晴らしい。火村もののフォーマットの使い方や、ミステリーについての論の入れ方、その呼吸もエミュレートされているし、何より感動したのは結末の一言。火村ものの良い短編を読んだ時のため息が、見事に再現されているのです。

    〇函館物語四部作、感動の「フィナーレ」

     平石貴樹『室蘭地球岬のフィナーレ』(光文社)が刊行され、〈函館物語〉シリーズ四部作がこれにて完結。平石作品はいつも楽しみにしていて、落ち着いて文章を追いかけなければすぐに置いていかれてしまうほどのハードパズラーぶりを愛しているため(それは警察の捜査パートを地の文で淡々と記述していくこのシリーズでも無縁ではありません)、読む時には、えいやっと気合を入れて読まないといけません。しかし、本格推理好きとしては、それだけの価値がある作品群なのです。『だれもがポオを愛していた』『笑ってジグソー、殺してパズル』『スラム・ダンク・マーダー その他』はもちろん、『松谷警部と三ノ輪の鏡』『スノーバウンド@札幌連続殺人』が特に好き。さて、今回は〈函館物語〉シリーズについて簡単に全作紹介していくことにしましょう。

     第一作『潮首岬に郭公の鳴く』(光文社→光文社文庫)は本格推理の新たなる宝石ともいうべき傑作。三姉妹殺人事件、しかもその死にざまは芭蕉の俳句になぞらえられている、とくれば、マニアは横溝正史『獄門島』のことを思い浮かべるでしょうが、『潮首岬~』では幾重にも『獄門島』への響きが奏でられ、見事な本歌取りたりえています(解決編に至って、そんなところまで本歌取りするか! という驚きが幾つもやってくる)。驚愕の構図と動機に感服しきりの作品で、実に悪魔的。この時点で、解決編前に作中事件の年表が登場し、長い時間軸の中で起きていた犯罪の構図をジャン・ピエールが淡々と読み解くというシリーズの構図が出来上がっています。

     第二作『立待岬の鷗が見ていた』(光文社→光文社文庫)は、五年前から起きた複数の事件を巡る構図を読み解くミステリーですが、作中に登場する女性作家の設定が何よりもユニーク。「夏樹静子賞」という架空の賞を受賞している設定からして良いですが、彼女の小説を読み解くことによって見えてくるスリリングな構図が読みどころの作品。小説が現実の事件の手掛かりになるかも! という見せ方は、アンソニー・ホロヴィッツ『ヨルガオ殺人事件』をも思わせます。もちろん、行きつくところは全然違いますが。最後にタイトルの意味が明かされ、その心象風景を描くところが見事です。

     第三作『葛登志岬の雁よ、雁たちよ』(光文社)でも、長い時間軸にまたがる事件が扱われ、目次が示す通り、四つもの事件が複雑に絡み合う構図を見せてくれます。ある程度存在が宙ぶらりんな白骨死体が中心に据えられているのが特徴ですが、この作品の見所は、登場人物たちの心のすれ違いを、推理によって読み解いていくその試みだと思います。そう思って見ると、この〈函館物語〉シリーズの本質は、長い時間を描くことによって生じてくる心理の機微、動機の驚きなのではないかと思わされます。

     さて、そして迎えた第四作にして最終作『室蘭地球岬のフィナーレ』は、函館近郊で起きた放火事件と、その唯一の生存者である少年は記憶を失っている、というのを出発点にして、警察の地道な捜査行が描かれる作品になっています。それもそのはず、ジャン・ピエールはフランスに帰っており、事件の終盤まで現れることがないからです(舟見警部補が、ジャンがいずれやってきた時のため第一作目と同じように年表を書くシーンはちょっとかわいい)。捜査においてはかなり早い段階で少年が記憶喪失を装っている可能性まで疑われ、行き届いた検証によって事件の構図を明らかにしようとしますが、続発する事件の全体像がなかなか見えてこない。解決編で、私は思わずアッと膝を打ちました。中心にとても大胆なアイディアがあって、しかも、それを支えるために綺麗な伏線がいくつも敷いてある。その大胆なアイディアは、函館物語だからこそ映えるものです。うわっ、これはやられたな、と思わされましたし、ジャン・ピエールが登場してすぐに注目する手掛かりの解釈にも唸ります。手掛かりをはっきり出しておいて、その意味が分からない、という按配がとても巧い。これでお別れと思うと非常に寂しいですが、最後にまた一作目を想起するような悪魔的なアイディアを見せつけてくれて、大満足の一冊でした。一作目と四作目のトリックに、「あるアイテム」が共通して登場しているのもニヤリとさせられますね。

    〇私立探偵・呉誠の魅力

     ウツゼン『DV8 台北プライベートアイ2』(文藝春秋)が刊行されました。3年前に邦訳された『台北プライベートアイ』(文藝春秋→文春文庫)の続篇で、前作では台北市が舞台でしたが、今作では淡水に舞台が移り、事件の見せ方も大きく変わっています。

     まずは前作の話から。『台北プライベートアイ』は、元は劇作家であり、大学教授だった男、呉誠が50歳を機に「私立探偵」を開業するシーンから幕を開けます。台湾では組織的な「興信所」はあるけれども、個人による「私立探偵」は存在せず(もちろんアメリカのようなライセンスも存在しない)、だから自分は台湾で唯一、そして台湾で最高の「私立探偵」なのだ、と持論を展開する呉誠には笑わされてしまいますが、こうした一人称の語りこそが本書の魅力になっているのです。呉誠の語りは文庫版のあらすじでは「哲学的なモノローグ」と紹介されているので、難しい本なのか、と思う人もいるかもしれませんが、ユーモアとペーソスをまぶしながら、あらゆる事物に対して持論を展開する呉誠の語りは、哲学的でありながら、ところどころくすくす笑える「おかしさ」に満ちています。私が特に好きなのは、呉誠が隣人夫婦の子供である小学生二人に英語を教えるくだりです。長く難しい単語から教えた方が、あとで簡単な単語を覚える時の分かりが良い、として、あえて難しい単語を呑み込ませるのです。これだけならただ笑えるだけなのですが、その後、小学生らしい「覚えたものはすぐに使いたい」という感覚と、呉誠の持論が絡み合って、どこか暖かい光に満ちた情景がそっと置かれるのです。このあたりの筆さばきが、どうにも心地良い。ハードボイルド小説の魅力とは文体そのものであり、ひいては一人称の語りそのものです。ここには、その魅力が十全にあります。

     もちろん、事件そのものもユニーク。『台北プライベートアイ』のあらすじには「vs.連続殺人鬼」と大々的に書かれており、もちろん主題はそちらの事件になるのですが、まずは呉誠最初の事件となる浮気調査を丹念に描き、その描写の中で仕込みを少しずつしていくというプロットが面白い。中盤以降、いよいよ「連続殺人鬼」編が開始すると、絶体絶命のピンチに立ち向かいながら、真犯人との攻防を繰り広げることに。ここの味わいが、「劇場型犯罪」感も含めて、どこか懐かしい警察ミステリーの味わいがあって、非常に好きなのです。特に、組織とはいえ一枚岩ではなく、警察官一人一人に思惑があって、呉誠のことをまっとうに助けられなかったり、あの時自分はこんなことを考えていたんだよ、と本筋からはやや外れたところで種明かしがあったりと、キャラクターたちがプロットの中で魅力的に動いている感じがして良い。

     また、呉誠はパニック障害を抱えており、それが本書全体に「ネオ・ハードボイルド」の雰囲気をまとわせています。「ネオ・ハードボイルド」とは、①マチズモが弱体化し、より探偵自身のキャラクター性が重視された作品群を指す言葉で、多くの場合、②探偵自身がその身体や精神に何かしらの弱点を抱えています。マイクル・コリンズの描いた隻腕の探偵〈ダン・フォーチュン〉シリーズがその嚆矢といえます。③探偵が事件そのものと深いかかわりを持つようなプロットもその特徴で、個人的には、新本格ミステリー以後の本格ミステリーの系統・発展とも深いかかわりがある概念だと思っています(探偵そのものが何か「弱点」を抱えた存在として描かれることや、探偵が超人的な位置から引きずり降ろされるような一連の作品群のアプローチ、という点で)。

    『台北プライベートアイ』に感じたのは、このネオ・ハードボイルド的な楽しみでした。①呉誠自体のキャラクターの魅力、②呉誠がパニック障害という弱点を抱えながら探偵として奮戦し、それがプロットにも巧妙に使われていること、③(ネタバレにならない範囲で言うと)呉誠が事件を解くことが、プロット上の要諦になっていること。このように三要素が綺麗に揃っており、ドラマにも密接に関わっている。これほどまでに清々しいネオ・ハードボイルドを読めたのは久々で、嬉しさもひとしおです。

    〇2作目『DV8』について

    『DV8』とは作中に登場するバーの名前で、英語の「deviate」、逸脱する、という意味の単語です。こういう遊び心にもニヤリとさせられますが、作品の舞台も移っており、また新しい楽しみを提供してくれます。呉誠は前作の事件を受けて、台北市から淡水へと引っ越しており(訳者あとがきによれば、これは紀蔚然自身が淡水に引っ越したからだと言います)、新しい土地で新しい事件に巻き込まれます。バーの女主人、エマ姉さんから引き受けた依頼がきっかけとなり、20年前の連続殺人事件の謎を掘り出してしまう、その調査行そのものが面白い。

     今作の大きな特徴は、「DV8」というバーを中心に、呉誠の人間関係が発展し、広がっていくところです。一作目では、拠点が呉誠の事務所になっていますが、「最初の事件」の関係者との繋がりは、メインの事件である「vs.連続殺人鬼」編においては後景に退いてしまい、あまり顧みられません。一方、『DV8』においては、呉誠という人間を取り巻く人間関係が、バーを中心に築かれ、一つ目の事件の関係者が二つ目の事件では味方になったり、二つ目の事件がその人間関係によってさらなる謎を呼んだりと、一つの長編の中で有機的に生かされていきます。これが楽しいのです。たとえていうなら、これは東直己『探偵はバーにいる』の楽しみと似ているのです。

     事件そのものも、一作目とはまた違ったアプローチの見せ方をしています。過去の事件が題材になるからこその「ずらし方」が魅力でしょうか。

    〇私的イベントレポート

     さて、話題は2024年6月9日に新宿紀伊國屋書店イベントスペースにて開催されたトークイベント「台湾ハードボイルドと華文ミステリーの現在」へ移ります。控室に現れた紀蔚然さんはハットと髭が似合う紳士で、「東京という土地は煙草を吸うのが大変なところだね」などとニヤニヤしながら言うところは、さながら呉誠そのもの。そのため、トークの中心も、呉誠という存在や紀蔚然さんそのもののパーソナリティーを深堀するような形になりました。

    『DV8』の中には以下のような記述があります。

    〝おれは警察の捜査の過程を丁寧に追うタイプの小説が好きだ。スウェーデンのヘニング・マンケル、アメリカのマイクル・コナリー、それに日本の横山秀夫の三人がお気に入りの作家だ。彼らの小説にならって、おれも調査をするときには一歩一歩進むことにしている。〟(同書、p.44)

     同書の中に、島田荘司、ジョン・ディクスン・カーなどの名前が登場する個所もありますが、これらの作家が好きな登場人物は呉誠とはまったく別の人物であり、その扱いも軽いことから、ここに挙がった三人――マンケル、コナリー、横山――の扱いの方を重く見ます。私はこの記述をヒントに、紀蔚然さんの小説の好みや、どのように『台北プライベートアイ』二作の構想を膨らませていったかを聞き出したいと思っていました。

     今回の話の中で特に私が興味を惹かれたのは、「呉誠はパニック障害を抱えているが、そこには紀蔚然さん自身の体験が反映されていること」と、「ヘニング・マンケルが好きで、ミステリーによって犯罪や社会を描きたい」という熱意を話され、第三作の構想について明かした部分でした(全世界的な〇〇の活動についてミステリーの形で書く、ということをおっしゃっていましたが、興味を削ぐかもしれませんので、念のため伏せておきましょう)。

     アメリカのハードボイルドで好きな作品はあるか、という問いには直接の答えがありませんでしたが、別の話題の中で、ローレンス・ブロックの名前が挙がりました。ブロックの小説指南本の中で、ブロックが自身の活動の中で後悔していることの一つとして「探偵役であるマット・スカダーに年を取らせてしまったこと」を挙げている、というエピソードを話し、だからこそ、呉誠には年を取らせない、自分は年を取るけれども、五十歳のままでイメージしてほしい、と話されていました(「作品ごとに別の女性と恋愛をさせる」から、その説得力のためだとも冗談を飛ばしていましたが)。

     もうひとつ面白かったのが、横山秀夫の話題です。紀さんが机の上に広げているノートに、ずっと「横山秀夫」の文字があるので、この話はどうしても壇上で引き出しておきたかった。紀さんは「横山秀夫は自らが記者の経験を持つ作家で、それだからこそ、警察組織のことがいろいろと分かって読んでいて面白い」という点を指摘されました。この点は、『台北プライベートアイ』の魅力――前段で私が指摘した、組織とはいえ一枚岩ではなく、個々に思惑が存在し、それがキャラクターの魅力として現れる――にも繋がってくると思いました。横山秀夫のそうした長所を魅力と捉えるからこそ、あのように書かれたのだ、と。壇上で指摘すると、「横山さんほどきちんとしていない、私の書く警察はでたらめですよ」とはにかんでおられましたが。

     話を聞いているうちに、『台北プライベートアイ』はネオ・ハードボイルドだ、という前段の指摘は、修正する必要があるのではないかと思ってきました。「捜査の過程を丁寧に追う警察小説」を何よりも好む作家が、しかし、警察が捜査するのではなく、私立探偵を主人公にした理由は「一人称小説を書く」ことが主目的だったからだといいます。ミステリーの形で犯罪と社会を巡る物語を書きたい作家が、自らのパーソナリティーと向き合いながら作劇を進めていった結果として、ネオ・ハードボイルドが志向していた文学形式と近接していく。個性として現れていく。その過程が面白いと思ったのです。警察小説、ネオ・ハードボイルドの中間地点に『台北プライベートアイ』は位置し、そのどちらとも似ているようでいて、どちらでもない。だから面白いんだという話を、どうにか壇上でも言葉にして伝えさせていただいたのですが、どうだったでしょうか。

     心に残っているやり取りは、戯曲について伺った時のことです。紀さんは『台北プライベートアイ』を2011年に書く前は、戯曲を多数書いていたと著者略歴にもあるのですが、この戯曲の中に、ミステリーを志向したものはなかったのかどうかが気になったのです。答えは「一つあるが、戯曲でミステリーを書くのは非常に難しい。成功している例はアガサ・クリスティー『ねずみとり』くらいだ」「戯曲の会話劇の形で犯罪を書くことが上手くいかなかったからこそ、一人称の小説を書いてみようという思いが高まった」というものでした。やや自虐的にも思える答え方も呉誠の皮肉めいた語りを思わせますが、「一つある」と聞くと読みたくなってしまうのが、ミステリーマニアの哀しいサガ。

     あと心に残っているのは、『DV8』に登場する女性、「エマ姉さん」の名前は、ユングが提唱する「理想の女性」を意味する言葉「アニマ」からきているという話です。これと「作品ごとに違う女性と呉誠は恋愛する」という部分を組み合わせると、『DV8』の「訳者あとがき」にもある「第三巻では呉誠をダークサイドに落とす」という著者の言葉の意味が分かってきます。今、呉誠が幸せだからこそ……ということですね。うーん、呉誠がかわいそうな目に遭っていると、それはそれで目を引く私立探偵小説になりそうなので、期待が高まりますね。

     ところで、演題の後半部分「華文ミステリーの現在」については、担当編集からの事前情報で「紀さんは台湾や中国のミステリーはあまり読まれない」ということを伺っていたので、ほぼ一人で奮戦(といっても、自分の読書遍歴を語るだけですが)したのですが、幾つか具体的な作品名や作家名を挙げると、「陳浩基『13・67』は私も読んでいて、台湾・香港のミステリーのナンバーワンだと思っている」「『炒飯狙撃手』を書いた張國立とは友人で、あれも面白い」などの発言を引き出すことが出来て、ホッと一息でした。

     最後に開かれたサイン会では、自分もちゃっかり列の最後に並び、紀蔚然さんにサインを入れていただきました。かなり緊張しながら臨んだのですが、対話するうちに、作家としての紀蔚然像が色々と見えてきて、自分でも楽しいトークイベントになりました。

     以上、つたないながらイベントレポートをお送りいたしました。

    (2024年7月)

第83回2024.06.28
まるで憑りつかれたように ~小市民シリーズ長編完結、の話題のはずが~

  • まるで憑りつかれたように ~小市民シリーズ長編完結、の話題のはずが~

    米澤穂信
    『冬期限定ボンボンショコラ事件』
    (創元推理文庫)

  • 〇告知

     6月20日発売の「別冊文藝春秋」2024年7月号に短編「山伏地蔵坊の狼狽」が掲載されています。こちらは、「別冊文藝春秋」と「オール讀物」の連動企画で行われている「有栖川有栖デビュー35周年記念トリビュート」の一作として書かせていただきました。「別冊文藝春秋」は電子雑誌として購入していただくことが出来ますが、「WEB別冊文藝春秋」においても、300円の有料記事として販売されています。気になる方は、いずれの方法でも大丈夫ですので、ぜひチェックしていただければと思います。

    「山伏地蔵坊の狼狽」の元ネタはそのタイトルから分かる通り、有栖川有栖『山伏地蔵坊の放浪』(創元推理文庫)。探偵役の問わず語りで全てが進行し、語られた事件の真偽そのものも実は不明という点において、バロネス・オルツィ『隅の老人の事件簿』の唯一の正統後継者と言えるのが、この『山伏地蔵坊の放浪』だと思っています。といっても、今これを私が言ったところで、この二冊の解説者である戸川安宣の画期的な論考の二番煎じにしかならないのですが(この二つの解説は私の「安楽椅子探偵」に対する想像力の源泉であり、ひいては小学館の連作「隅野苑」の由来にもなっているのですが、その話は完結してからおいおい……)。

     というのはさておき、偏愛作だからこそ、トリビュートの題材に選ばせていただいた、というわけなのです。私の短編「山伏地蔵坊の狼狽」では、原典の頃から20年以上経った現代を舞台にして、「在りし日の山伏が、そのままの姿で彼ら常連客の前に現れる」という謎と、その山伏が語る作中作の事件――という二本立ての趣向で書かせていただいています。トリビュートということで、二次創作らしく、遊ばせていただきました。ちなみに、作中作の事件は死体の周囲を大量の蝶が飾っていたというもので、「ブラジル蝶の謎」のオマージュになっています。原典のネタばらしはしませんので、お気軽に遊んでいってください。

    「有栖川有栖トリビュート企画」は、5月までに一穂ミチ「クローズド・クロース」(オール讀物2024年6月号)、夕木春央「有栖川有栖嫌いの謎」白井智之「ブラック・ミラー」(別冊文藝春秋2024年6月号)の三編が発表されています。一穂は有栖川作品のキャラの中でも真野早織にスポットライトを当てて(『ダリの繭』に出てくるアリスの隣人です)、女子高での制服盗難事件を描くのが楽しい。夕木はどの作品の二次創作でもない、トリビュートならではの「日常の謎」を軽妙に書いて見せるのがユニークです。白井はタイトル通り『マジック・ミラー』がモチーフですが、原典の素晴らしいアリバイトリックに、白井らしい悪魔的発想が絡みついているのが見事。いずれも楽しい作品で、これから発表される作品も、いち有栖川有栖ファンとして大いに楽しみにしております。

     いつも、自分の雑誌短編の告知ならこんなに字数は使わないのですが……今回は有栖川さんの作品世界を使わせていただいて、書かせてもらった仕事ですので、他の作品も含めて長めに言及させていただきました。いわゆる二次創作を書くのは久しぶりだったので、「ならでは」の苦悩も色々あったのですが、ひっくるめて楽しんでいただけると幸いです。

    〇雑誌の話題から

    「ジャーロVol.94」では竹本健治「五色殺戮」の連載が開始。夢の中の殺人、という題材からして興奮してしまったのですが、経緯も凄い。完結したらインタビュー等でも言及されるのでしょうが、ここでも一度記録に残しておきたいので、巻末の「◎編集部より」から引用しておくと、

    〝この作品、じつは竹本氏が『匣の中の失楽』でデビューした直後に、とある評論家から「村山槐多が『五色殺戮』という長編を構想したまま夭逝してしまったのだが、ひとつ、竹本君、このタイトルで槐多の夢を果たしてみませんか」というご指名を受けて以来、長年積み残していた宿題だそうで、なんと構想45年!〟(「ジャーロVol.94」、p.266)

     45年! もうぶったまげるしかないのですが、なんとも人目を引くこのタイトルが、村山槐多の果たされなかった夢だというのが面白い。おまけに、本文の中に「内耳」が印象的に登場するあたり、これはもしや竹本の構想作品としてタイトルだけどこかで見た「内耳の構造」と関係があるのでは……? と邪推してしまいます。ともあれ、幻想ミステリーとして非常にワクワクさせられる滑り出しで、首を長くして続きを待ちたいと思います。

     倉知淳「風漂霊」は、なんと創元推理文庫『占い師はお昼寝中』のコンビによるシリーズ最新作。創元クライム・クラブで刊行されたのが1996年だから……これも、28年ぶりの新作? どっひゃあ。オカルトとロジックの掛け合わせが魅力のシリーズですが、綱渡りのような絵解きが今回も面白い。今後の動きにも期待したいところです。

     今号のジャーロでは、評論にも言及しなければいけないことがたくさん。新保博久⇔法月綸太郎往復書簡「死体置場で待ち合わせ」と杉江松恋「日本の犯罪小説 Persona Non Grata」がそれぞれ最終回。前者は最後の最後に多重解決、安楽椅子探偵、特殊設定ミステリーなどをキーワードにしながら、芦辺拓『乱歩殺人事件 ―「悪霊」ふたたび』の企みにならって、新保博久が坂口安吾『復員殺人事件』の「断筆」の理由を推理してみせるのが面白い。同往復書簡は書籍化予定もあるようなので期待したいところ。後者は宮部みゆき『火車』を冒頭に取り上げ、最終的に〈杉村三郎〉シリーズまで辿り着く。『日本ハードボイルド全集7 傑作集』の解説においる桐野夏生に関する指摘と、最後に接続してみせたところにしびれました。……かと思えば、佳多山大地「名作ミステリーの舞台を訪ねて」の主題も宮部みゆきの『火車』という、この交錯ぶりも楽しい。

     最後に、「謎のリアリティ」第58回では、片上平二郎さんが拙著『黄土館の殺人』を取り上げてくださっています。ありがとうございます。――あらゆる評論・書評と距離が近くなりすぎても悪いですし、あるいは、書かれていることに縛られるようになっても良くないのかなという思いもあり、最近は自分が言及されている評論や書評に一つ一つお礼を言わないようになってしまったのですが……これについては言及しておきたかった。『現代ミステリとは何か 二〇一〇年代の探偵作家たち』(南雲堂)における片上さんの「あらかじめ壊された探偵たちへ ―阿津川辰海論」を拝読して、「この後、私が何を書いてもいいんだな、いいようにしてくれたんだな」という思いが込み上げてきて、これが作家論の力なんだなと思わされたのです。同時にいち読者としても、この後何を書いてくれるのか気になっていた、というか。『黄土館』のあとがきにもある通り、プロットはだいぶ前に完成しており、本文を書き上げた後に(23年4月)、献本をいただいていた『現代ミステリとは何か』を読んだと記憶しているので、『黄土館』がどう受け取られるかはある意味ずっと気になっていたのでした(偶然、起こってしまった事象も含めて)。

    〇小市民シリーズ、「四部作」完結!

     24年4月、米澤穂信『冬期限定ボンボンショコラ事件』(創元推理文庫)が刊行。小市民シリーズの「四部作」はこれまで、『春期限定いちごタルト事件』『夏期限定トロピカルパフェ事件』『秋期限定栗きんとん事件』と発表され、その後に、短編集である『巴里マカロンの謎』(いずれも創元推理文庫)が刊行されています。四季をそれぞれあてがわれた四部作と、間に短編集が一つ、という形になっています(加えて言うと、短編についてはまだまだ未収録のものが残っており、桑港サンフランシスコクッキーの謎」「羅馬ローマジェラートの謎」「倫敦ロンドンスコーンの謎」の三編が、それぞれ「ミステリーズ!」や「紙魚の手帖」に掲載されています。いずれ短編集の二冊目も出る、のでしょう。私は、趣向の面白さに膝を打った「羅馬ジェラートの謎」が大好きです)。

    「古典部・小市民」(発表)以後の世界を生きる私たち世代にとって、青春ミステリーのメルクマールとして無視することが出来ない存在であるのが、米澤穂信です。あえて大袈裟に言ってしまいますが。その中でも、〈小市民〉シリーズの動向からは目を逸らすことが出来ませんでした。キャラクターの特異性を使うことによって、ミステリーの可能性をどこまで拡張することが出来るか、という試みに毎回刺激を受けていたからです。もちろん、「小市民として生きたい」という標語と、そのために小鳩と小佐内がどのように振る舞うか、という主題はキャラクター小説、青春小説として充分読み得るものですが、ここでは、その標語と振る舞いがミステリーとしてのトリッキーさにも直結していると思ったのです。可能性というとまたしても大袈裟かもしれませんが、『巴里マカロンの謎』で犯人当てからハードボイルドまで、様々なプロットの作品を配置したことや(もちろん未収録の短編でもその企みは続いていると思います――なぜなら、私が「羅馬ジェラートの謎」に感動したその核心は、「そのテーマ」を「この形」に仕立てたことそのものにあったのですから)、倒叙(あるいは「小さな犯罪」小説)である「シャロットだけはぼくのもの」(『夏期限定トロピカルパフェ事件』収録)や『九尾の猫』を思わせるようなミッシングリンクもの(『秋期限定栗きんとん事件』)など、シリーズを振り返ると様々なミステリー上のサブジャンルがずらっと並んでいることを考えると、満更大袈裟でもない気がします。いや、もちろん、〈古典部〉シリーズにその趣向がないとは言いません。例えば、「やるべきことなら手短に」『遠まわりする雛』収録)の真相は、折木奉太郎というキャラクターの性格なしには成立しない。逆に、真相がキャラクターの性格を引き立てる効果を持っているとさえ言えます(アニメ「氷菓」において、シリーズ第四作の短編集に収録された「やるべきことなら~」は第1話Bパートのエピソードとして再編され、シリーズ第一作『氷菓』の事件が本題に入るよりも前に解決してしまいます。もちろん、作中の時系列から考えれば自然な事ではありますが、そのシャッフルにより、事件がキャラクターを描き、視聴者に印象付ける、という効果はより鮮明になりました)。

     なのですが、〈小市民〉シリーズにおいては、もっと積極的に、キャラクターがミステリーの趣向に奉仕しているとさえ感じられるのです。根っこを同じくしつつ、さらにミステリーとしてレベルの高い試みをしている、というか。「そのために」創られたキャラクターの不自然さなど一切ないのに、彼らならこうするだろう、こう振る舞うだろう、という想像とミステリーとしての意外性が完全に一致する地点に真相がある。この美しさは、並大抵のことでは辿り着けません。私がこの感覚に辿り着いたのは、『夏期限定トロピカルパフェ事件』の結末を読んだ時です。とあるジャンルのミステリーであることを前面に出しておきながら、その裏面にぴったりと、別の企みが潜んでいる。『秋期限定栗きんとん事件』も同様の想像力に基づいています。もちろん、その着地点はまったく別のところにあるのが、すごいところですが。

     さて、そんな感覚を持っていたところに迎えた『冬期限定ボンボンショコラ事件』ですが……これがまた、すごい。「あるジャンル」のミステリーであることはあらすじでも巧妙に伏せられており、これ自体、シリーズ読者への贈り物として紡がれたものであり、「配慮」なのだと思うので、そこは私も伏せますが、まずはこれが非常に稀有な「交通事故ミステリー」であることを述べておきたい。

     交通事故の因果関係を捜査する課だってこの世にはあるのですから、題材になってもおかしくはないのですが、案外作例は少ないのです。もちろん、米澤自身に「ねむけ」『可燃物』収録)という作例があり、午前三時に発生した交通事故について、複数の証言が奇妙にも一致している……という謎を描いてみせている、のですが。本書と同じように、「準密室状態の道路から車が消失する」という謎だけ取り出せば、ヒュー・ペンティコースト「子供たちが消えた日」(『短編ミステリの二百年〈3〉』収録)と同様ですが、トリックやアプローチはまるで異なっています。

     交通事故が主題になる、という点では、東野圭吾『天使の耳』(単行本刊行時のタイトルはそのものずばり『交通警察の夜』でした)、愛川晶『夜宴 美少女代理探偵の事件簿』、短編ですが夏樹静子「三分のドラマ」(『乗り遅れた女』収録)などが思い出されるところ。『天使の耳』はトリッキーで謎解きとドラマのバランスが良く、交通事故ミステリーの可能性を総覧した感がある名著ですし、『夜宴』は「死んだ男」が運転した車が空を飛び事故を起こしたという大胆な謎が扱われる作品。それでいうと、「死んだ男」が運転したという点では、ジョン・ディクスン・カーの『絞首台の謎』も車ミステリーと言えるのか(カーだけに)。夏樹静子「三分のドラマ」は、轢いてしまった男が道路に倒れていた、というのが発端のシチュエーションで、死亡にかかわる因果関係が不明瞭なシチュエーションが見事です。あるいは、変わり種として、台湾の作家である凌徹「幽霊交叉点」(「ミステリーズ!vol.29」所載)を挙げてみてもいいかもしれません。バイクに乗っていたライダーが、左手の道から現れた自動車に轢かれた――と思った次の瞬間には、その自動車が右にいた。自分をすり抜けていったとしか思えない。あれは幽霊なのではないか、というのが発端の謎なのですが、どのような事態が起こって不可思議が生じたかを解きほぐす謎解きは、まさしく「不可能犯罪」の魅力であると同時に、優れた交通事故ミステリーである証左です。

     また、漫画「ハコヅメ」は泰三子による優れた警察ミステリーですが、その10巻には、第81話「事故防衛本能」という交通事故ミステリーが収録されています。わずか16ページの中に仕込まれたツイストの数々にはため息が漏れるようです(タイトル回収も見事)。交通事故×漫画という点では、「交通事故鑑定人 環倫一郎」(原作・梶研吾、漫画・樹崎聖)も見逃せない。舞台がアメリカなので日本と少し事情は違いますが(しかし、漫画の形で次々登場するアメ車を楽しむことが出来るとも言えます笑)、全18巻、ひたすらに交通事故の裏に隠された真実を暴き出して行く珠玉の交通事故ミステリーです。最後に、全編がその趣向で貫かれているとはいえませんが、小島正樹『扼殺のロンド』も、扉の開かない事故車の中で二体の死体が見つかるという事件のトリックが衝撃的な作品でした。

     閑話休題。『冬期限定ボンボンショコラ事件』の「交通事故ミステリー」としての特徴は、避け得ない事故として、あるいは企まれた事件として、どちらの可能性もある事件として常にスリリングに描かれ続けるところにあります。その宙ぶらりんの構造がキャラクターの行動や思考そのものに影響を与え、物語を駆動している。それ以上のことを言えないのが歯がゆいのですが、真相そのものよりも、ある人物の特異な反応が疑問を生むところなど、細かな処理の巧さに感嘆します(加えて、「交通事故ミステリー」というキーワードで一つ付け加えておくなら、「情報密度」の交通整理の仕方も『冬期~』は巧みです。交通事故ミステリーでは専門用語や「開けた空間」における事故の細かい状況など、どうしても事件の情報量が過密になる傾向があるのですが、その情報の切り分けと整理が巧みで、読んでいて一切混乱しない。さらに――この「情報密度」は、読者の心理にある「陥穽」を作るためにあえて選択されたのではないか、とさえ思ってしまいました。交通事故に関わる細かい情報を読者に「読ませる」ために。他の情報〈伏線〉については目に留めてもらいつつ「流させる」ために)。

     そしていよいよ真相に辿り着いた時――私の頭をよぎったのは、ある推理小説家の名前でした(その推理作家、日本の作家の名前は、松浦正人の解説における「ネタばらし」部分に明確に刻印されていますので、ご参照を)。その作家が自家薬籠中の物としていた「ある趣向」が、米澤の筆によって完全に再現されている――それも、私の主張では、「キャラクター小説」として。なぜなら、ここではキャラクターと事件が、読者に与える「情報密度」の処理速度に対して、適切な負荷をかけさせるような配置がされているからです。特に驚かされるのはあるアイテムの使い方です。徹底的なまでにキャラクター小説的に書かれた「それ」が、ミステリーの企みに奉仕してしまう。私が言ったのはこれのことです。キャラクターに対する想像力とミステリーの意外性が完全に一致するところに、真相がある。それが「ある趣向」のために使われた。それだけで、私にとってこの小説は「事件」とも言える破壊力を秘めていたのです(あるいは、このシリーズと比較して面白いのは、むしろ宮部みゆきの〈杉村三郎〉シリーズかもしれません。名探偵であることを辞めて小市民をめざす「元探偵」の小鳩と、第一作から第三作までの事件を受けて「私立探偵」となる杉村三郎。一方は挫折により探偵を捨て、他方は挫折により探偵になる。〈小市民〉シリーズの各編の中に、ハードボイルドの骨法を意識したような作品があることも見逃せません)。

     傑作だ――という紛れもない思いを、ここまでしたためてきたつもりです。しかし――どうしてか――この原稿において、米澤穂信の話をするのはここまでになります。いや、実際には同じ話なのですが、決して同じ話には見えないでしょう。

     私はこの本を読み終えた瞬間から、正確には、松浦正人による解説を読み終えた瞬間から、ある疑問に憑りつかれてしまったからです。これからするのはその話です。その話だけです。その疑問というのは、

     ――蓮沼尚太郎って、誰だ?

    〇「第四の推理小説」について

     先に言えば、私はこの先の文章を書くべき人間ではないのかもしれません。もっと「事情通」の人がいるのだろうし、ここで私が調べるようなことは、「事情通」の人にとってはあえて改めて粒立てるようなことでもないのかもしれない。なので、私は1994年生まれの、何も知らず、この記述に行き当たった人間の話として、少なくともこの二カ月蓮沼の名に憑りつかれた一人の若造の話としてしか、これを書くことが出来ません。

     加えて言えば、『冬期限定ボンボンショコラ事件』のレビューにおいては伏せた、「ある推理小説家」の名前を、ここから先では明かします。明かさないと、話にならないからです。その名前を目にしたところで、『冬期~』の真相に直結するとは到底思えないのですが、念のため、同書についてなんの予断も持ちたくないという場合は引き返してください。

     松浦正人の解説の末尾には、このような記述があります。

    〝参考文献 蓮沼尚太郎「第四の推理小説 ―第二稿―」《蒼鴉城》第六号(一九八〇年/京都大学推理小説研究会)所載〟(『冬期限定ボンボンショコラ事件』、p.431)

     おいおい、またしても京都大学推理小説研究会かよ、という思いが即座に湧きました。小説家だけでなく、こと日本のミステリー界の中にいると、どんなタイミングでも突き当たります。でも、この参考文献の記述がやけに心に残ったことも事実。どのタイミングかは分からないけれど、おそらく、学生が書いた文章が、参考文献として挙げられているという不思議。もちろん、同会の出身者である巽昌章法月綸太郎などの評論活動を思えばさほど不思議なことでもありません。あるいは、学生として活動をしていた人たちに目を向けるなら、京都大学推理小説研究会出身のとある編集者から、会員が書いたという「初期クイーン論」連作のコピーをもらったことがあり、その内容に恐れをなした経験もありますし、先日文学フリマで購入した久納淳生『ダンガンロンパFF 雨の記号、そしてハッピィ・バースデイ』というダンガンロンパの二次創作犯人当て小説は、もちろん、「ダンガンロンパ」文脈の犯人当てとしても高い完成度を誇りつつ、「ダンガンロンパ」論としても出色の出来栄えだったのです。そうした、外部からでも分かるレベルの高さを知っていたからこそ、学生が書いた評論がこうした形で参照されることもあり得るだろう、不思議ではない、と思ったのでした。なんとかして読んでみたい――国会図書館で調べてみて、《蒼鴉城》はまだ書誌情報の整理中、という記述を見かけたので、『冬期限定ボンボンショコラ事件』を読んだその日の夜は、これで考えるのをやめたのでした。

     次に動きがあったのは、5月のある日のこと。この日は、ある目的のために、東京創元社の会議室に籠って、東京創元社の雑誌(「創元推理」「ミステリーズ!」「紙魚の手帖」)をひたすらめくり、とある目的で書誌情報を作るという楽しい(苦しい)仕事をさせてもらったのですが(※完全に自分の意志で申し出たものですので、ご心配なさらず)、そこで大きな発見をすることになったのです。

     それが、「創元推理17」に掲載された蓮沼尚太郎の「第三の推理小説―ホワイダニットWhydunit-について 名探偵システムの完成」という評論でした。第4回創元評論賞において佳作を射止めた作品です。思いがけず目にした蓮沼の名前に驚くと同時に、「第三」「ホワイダニット」という文字列にも衝撃を受けました。その瞬間、私は完全に確信したのです。「第四の推理小説」とは、恐らく「ホワットダニット」に関する論考に違いない。だからこそ、松浦正人は今回の解説において「第四~」を参照したのだ。そして、その主題とは恐らく、泡坂妻夫なのだ、と。事後的に答えを知ってしまった私が、いくらここでこんな「推理」を書いたところで、その衝撃は伝わらないでしょう。太字にしてみせたところで同じことです。しかし、その瞬間の私にとっては、まさに雷に打たれたような衝撃だったのです。なぜならば、「第四の~」の「第二稿」が書かれたという「1980年」と言えば、泡坂妻夫がまだ『11枚のとらんぷ』『乱れからくり』『湖底のまつり』『亜愛一郎の狼狽』しか本を刊行していないはずだからです。1980年に単行本になった『花嫁のさけび』『煙の殺意』『迷蝶の島』にこそ目を通していたかもしれませんが、ネットで確認すると、『亜愛一郎の転倒』さえ1982年だという。泡坂流ホワットダニットの一種の象徴的作品(純粋にそれ以外に謎を含まないようにみえる、という点において)であるはずの「歯痛の思い出」(『亜愛一郎の逃亡』収録)さえ、まだ出ていない。1980年? あまりに早すぎる。

     私は東京創元社の会議室で、ほとんど妄執に憑りつかれたようになって、「創元推理」のページを繰ったのです。すると、他にも二つの評論が見つかりました。「第四の~」も含めてまとめると、次のようになります。

    ・1980年「第四の推理小説 ―第二稿―」《蒼鴉城》第六号(京都大学推理小説研究会)所載
    ・1997年「第三の推理小説 ―ホワイダニットWhydunit―について 名探偵システムの完成」創元推理17号 ぼくらの愛した二十面相(東京創元社)所載 ※第4回創元推理評論賞佳作
    ・1998年「第二の推理小説 ―ハウダニット Howdunit-について ―HowdunitからWhendunit、Wheredunitへ―」創元推理18号 丑三つ時から夜明けまで(東京創元社)所載 ※第5回創元推理評論賞佳作
    ・1999年「第一の推理小説 ―フーダニット Whodunit-について ―謎から矛盾へ―」創元推理19号 夢のような探偵小説について(東京創元社)所載

     この時点で、私の手元にはまだ「第四の~」がありません。しかし、「第三の~」を読んで、そのテーマが連城三紀彦のホワイダニットであったのを見た瞬間、「第四の~」が同じく幻影城出身である泡坂妻夫の話であることを確信します(評論の末尾においては、いよいよその証拠が現れます)。しかも「第三の推理小説」は極めて卓抜した連城三紀彦論だったのです。『飾り火』という「恋愛小説」として書かれた作品の分析を経由して、「推理小説」として書かれた〈花葬〉シリーズの特質を炙り出していく筆もさることながら、都筑道夫のいう「ホワイダニット」と連城三紀彦作品の「ホワイダニット」を切り分けてみせるあたり手さばきに惚れ惚れとするようです。連城作品とは無縁に思える副題通りの「名探偵システム」という語に辿り着くあたりもユニークで、とにもかくにもこれが読めたことが嬉しいと思える評論でした。

    「第二の~」はハウダニット論として、精緻化した形での密室分類にも挑んでいる内容ですが、新保博久「高木彬光『刺青殺人事件』はアリバイ崩し小説である」(連載エッセイ「シンポ教授に訊け!」内の一回)について言及するのも面白い。密室とアリバイの距離の近さについて、私は東川篤哉作品を読むうちに自分の中で精緻化したのですが、ここに明晰に語られていてシャッポを脱ぎました(古い表現……)。「第一の推理小説」はほとんどがクイーン論、法月綸太郎論とでもいっていい内容で、これまた垂涎。『一の悲劇』土屋隆夫のある作品を……というのをこれほどハッキリ言った例は初めて見たかも。四、三、二、一と、学生時代から足掛け20年にもわたる論が、「フーダニット」のもとに収斂していく結末は、見ていてため息が漏れるようです。

     こうなれば、「第四の~」を読みたくなるというもの。ですが、すぐには読みだせなかった。というのも、私は7月に刊行される泡坂妻夫の『乱れからくり[新装版]』(創元推理文庫)の解説を引き受けていたからです。もし「第四の~」を読んでしまえば、私が書こうと思っていることは、きっともう出力できなくなるだろう。それでいいと言えばいいのかもしれませんが、『乱れからくり』を再読(実をいうと、四回目)した時の感覚は、自分の中できちんと形にして届けておきたい。そこで、解説の原稿を書き終えてから、そのタイミングで「第四の推理小説」ってお持ちでないですか? と担当編集さんに聞くことにしました。結局、『冬期限定ボンボンショコラ事件』の解説者である松浦正人さんがコピーを送ってくださり、遂に読むことが出来ました(松浦正人さん、その節はありがとうございました)。

     読んでみると、予想通り、泡坂妻夫のホワットダニットについて論じた文章であり、さらに驚くべきことには、『狼狽』『転倒』『逃亡』の三作で二十四編ある〈亜愛一郎〉シリーズについて、「全十七篇のうち」という記述があります。短編の初出誌の名前まで、丁寧に書いてあります。やはり、『転倒』刊行前なのです。「歯痛の思い出」のタイトルも、その列挙の中にはありません(しかし、この「第四の~」を読むまで「紳士の園」『煙の殺意』収録〉のことを失念していたのは、我ながら迂闊すぎました。そうでした、あれはまさにホワットダニットです)。泡坂以前のホワットダニットの作例について、様々な例を挙げながらも、それぞれが別の主題を含んでいることを指摘していくあたりの手際などもさすがです(チェスタトンならアレとアレ、という指摘にも唸りましたが、より深く頷かされたのは、ケメルマンから「九マイルは遠すぎる」ではなくアレの題名を挙げているところ!)

     ホワットダニットとは、「第四の~」にある通り、「何が行われたのか」が主題となる小説といえる。そこでは犯罪そのものの存在さえ隠蔽され、種明かしにおいて、伏線によって導かれることになる――。これが蓮沼の論の大枠ですが、感覚的な話を付け加えるなら、私が泡坂妻夫のホワットダニットに衝撃を受けたのは、一見ナンセンスな不条理劇に見えた出来事が「伏線」として立ち現れ、首尾一貫した「論理」があったことが見えてくるという、その絵解きの面白さにありました。一瞬だけ本論に立ち返るなら、〈小市民〉にはまさに、それがあったのです。そして、米澤が使う「論理」は、キャラクター(たち)の行動原理そのものなのでした。そこにこそ、私はシビれたのです。思えば、米澤穂信「夜警」『満願』収録)における伏線の切れ味と、それによって「導かれ」た事件の真実を読んだ時にも、私の脳裏には泡坂妻夫の名がよぎりました。

     米澤はたびたび泡坂への敬愛を示し、私の手元にある創元推理文庫の『煙の殺意』第6版(2017年)には米澤穂信による推薦文が掲載されていますし、同文庫の『奇術探偵曾我佳城全集』では解説を執筆しています。その解説には、こんな表現があります。

    〝――佳城が奇術を演じるのではなく、カード自身が勝手に変化したり、消えたりしているとしか見えない。それには大変な技術を使っているのだと想像されるが、もう一つの佳城の芸は、その技術を完全に消し去っているのだ。従って、佳城の奇術にはいささかの嫌味もなく、ただ見ていて不思議で楽しい限りだ。(「シンブルの味」)
     まさに、そうなのだ。この一文が泡坂ミステリの魅力を過不足なく説明しているのは、偶然ではない。ここで描かれている芸の在り方は、泡坂妻夫にとって一つの理想だったのだろう。そして泡坂は練磨し自らの小説を理想に近づけて、「技術を完全に消し去って」、「ただ見ていて不思議で楽しい限り」の小説を書いていったのだ。なんときれいなことだろうか。私は泡坂妻夫を敬愛している。こんな作家はほかにいないと思う。何を読んでも嬉しいばかりだ。〟(同書下巻、p.502~503)

     そう、「シンブルの味」の件の文章が魅力的に映るのは決して「偶然ではない」。なぜなら「シンブルの味」こそは、佳城の、ひいては泡坂の奇術観、あるいは「トリック」に対する感覚がミステリーの形を取った名品であるからです。佳城と対置されたカール岡野という奇術師のキャラクターと、佳城が披露する「トリック」についての昔話が、巧妙に「芸」というものの本質を描き出していく。そういう短編の一節に目を留めて、限りない敬愛の念を表現したのが、今引いた一節です。

    「なんときれいなことだろうか」。この言葉は〈小市民〉シリーズに対する私の感動とも響き合っているように思います。「きれい」としか言いようがない。言いようがないからこそ、この文章は米澤穂信への敬愛の念を示す文章としてしか存在出来ない。キャラクターの「論理」と真相の意外性が一致するところに、泡坂が拓いたホワットダニットという小説形式の特異性として、真相が存在する。だからこそ、この小説は「きれい」なのです。たとえそのキャラクターたちの「論理」に、ゾッとするような意地の悪い悪意が覗く瞬間があるとしても。蓮沼尚太郎の評論を通じて、その「きれい」さへの解像度が一つ、自分の中で高まったような気がしたのでした。

     というわけで、長い長い旅はこれにて終了。今回の冒頭で紹介した私の短編のタイトルが「山伏地蔵坊の狼狽」だったことを思えば、これで「狼狽」という出発点に帰ってきたと言えなくもない、ですね(そうだろうか?)。

    (2024年6月)

第82回2024.06.14
「トゥルー・クライム(実録犯罪)」ものの隆盛 ~話題は蛇行しながら~

  • 「トゥルー・クライム(実録犯罪)」ものの隆盛 ~話題は蛇行しながら~

    ダニエル・スウェレン゠ベッカー
    『キル・ショー』
    (扶桑社文庫)

  • 〇告知から

     6月12日に講談社から『ミステリーツアー』が刊行されました。MRC(メフィスト・リーダーズ・クラブ)のLINEを通じて配信していた書評企画を書籍化したもので、執筆陣は青崎有吾、伊吹亜門、似鳥鶏、真下みこと、そして私の五名。それぞれ書評が15本で計75本が掲載され、「カーテンコール」という書き下ろし部分もあります。私の書評では、次に書評して欲しい本を3〜4択のアンケート形式で読者に投票してもらい、次の選書を行っていたため、そこで最多得票とならず、書評を書けなかった計31冊を「カーテンコール」でまとめて紹介しました。ということで、ぜひ読書日記ともども、よろしくお願いいたしますね。

    〇雑誌の話題から

     ハヤカワミステリマガジンの7月号は「令和の鉄道ミステリ」特集。注目したのは霞流一「スティームドラゴンの奇走」! タイトルから、霞の傑作鉄道ミステリーである『スティームタイガーの死走』(角川文庫)を思い出す人も多いでしょう。そう、この二作には幻の蒸気機関車である「C63」が共通して登場するのです。かたや、玩具メーカーの社長が会社の宣伝のために完全再現させたもので、探偵役は鍼灸医師である蜂草輝良里(スティームタイガー)、かたや、中古車販売会社で成功した社長とその二人の息子が鉄オタの夢として再現したもので、探偵役は私立探偵の紅門福助(スティームドラゴン)という設定の違いはあるけれども。

    『スティームタイガーの死走』は、診療所の人体解剖図みたいに、全身の筋肉や骨がむき出しになっているために「アカムケ様」というあだ名がついてしまう、奇っ怪な死体を巡るトリックや、鉄道ミステリーらしい趣向の盛り込みが素晴らしく、文庫本で250ページ弱という短さに楽しさがてんこ盛りにされた傑作でした(大胆なトリックや犯人指摘の意外性だけでなく、「額縁」にも企みがあるところがニクい)。「スティームドラゴンの奇走」は短編サイズながら、またも密室、それも首切り死体という趣向で、意外な鉄道トリックで魅了してくれます。ほんと、この一編のために買ったといっても過言ではない。

     令和の鉄道ミステリーの名手・山本巧次『開化鐡道探偵』『急行霧島』などでは昔の鉄道を扱って鉄道ミステリーを仕立てていますが、今回の短編「幸運の境界 線路上の死角」では「令和十X年」を舞台としています。雑誌内の「解説」も自ら筆を執り、令和の防犯システムのおかげで単純な犯罪が難しくなってきたことに言及し、「防犯システムを回避するか、逆手に取る」ような仕掛けを「捻り出」す必要があると述べています。なるほど、この短編でも、犯人の計画性の問題をきちんと考慮に入れたうえで、そうしたシステムに対する「抜け道」を考案しているのです。「令和の鉄道ミステリ」には海外からの短編紹介もあり、コーネル・ウールリッチ「無賃乗車お断り」ジョン・チーヴァー「五時四十八分発」が掲載されています。特に後者が素晴らしい。チーヴァーってどうしてこんなに小説がうまいんだろうね。

    「小説新潮」6月号の特集は「生まれたての作家たち2023」。『ノウイットオール あなただけが知っている』中の一編において優れた漫才小説を書いた森バジルが、ここでは「演じろ、櫛田」という演劇小説を書いていて、軽妙で歯切れの良い文体をまたも堪能しました。著者コメントによると6月に刊行される第二作『なんで死体がスタジオに!?』はテレビ業界が舞台ということで、こちらにも注目しています。特集外ですが、浅倉秋成「臆り億り人」も大いに楽しみました。こちらはスーパーマーケットのしがない店長を務める「僕」が、料亭で偶然耳にしてしまった会話がインサイダー情報ではないかと気付き、株取引に臨む――というのがあらすじなのですが、わずか14行程度(雑誌の3段組で)の短い会話に、いくつか意味不明の単語が混じっており、その単語の解釈を二転三転させる展開が、まるでハリイ・ケメルマン「九マイルは遠すぎる」のパロディーのようで、大いに笑わされてしまったのです。でもねえ、この小説の良いところは、その二転三転する推理じゃなくて、心に爽やかな風が吹き抜けるような最後のスカッとした書きぶりだと思うんですよね。

    〇日本推理作家協会賞翻訳部門の話題!

     去る5月に、第77回日本推理作家協会賞の翻訳部門「試行第二回」受賞作がジョセフ・ノックス『トゥルー・クライム・ストーリー』(新潮文庫)に決定しました。ということで、ノックスさん、訳者の池田真紀子さん、おめでとうございます!

     同作については読書日記第64回で取り上げていますが、ノックスが完成させた「犯罪ノンフィクション」という「体裁」で書かれた作品で、女子学生ゾーイが失踪してしまった事件について、関係者へのインタビューとノックスとイヴリンという女性とのメールのやり取り、ノックスが読者に対して語り掛けるパート、などによって構成されたモキュメンタリー風の構造になっています。インタビュアーを務めつつ、その原稿をノックスに売り込むイヴリンと、そのイヴリンに対して冷淡な態度を取り続けていたにもかかわらず、いつのまにかこの本の出版にこぎつけているノックス……というメタレヴェルの謎にも興味を掻き立てられていると、作者自身が思わぬ形で登場したりする。まったく油断がならない本なのです。

     以前、この本を「作家小説」という切り口で紹介してみました。小説家が、作家を主人公にして書いた小説で、現代においてはモキュメンタリーとも近接する……というぐらいの意味合いで書いていました(並べて紹介したギヨーム・ミュッソ『人生は小説ロマン最東対地『花怪壇』と合わせるために適切な切り口だった、とも言えます)。あるいは、その前年に邦訳されたジャニス・ハレット『ポピーのためにできること』と「記録のみで構成されている」「謎解きにも注力している」といった特徴が共通していることから、並べて論じたくなる誘惑も強かったのを記憶しています。

     しかし今回、選考のために改めて再読してみると、「実録犯罪もの」についての文脈が力強く立ち上がってきたのです。それは端的に言って、ノックスの作品が邦訳刊行された2023年9月以降の翻訳ミステリーのいくつかに、「実録犯罪もの」に対する共通のトーンが感じられたからなのです(あるいは、23年9月「以前」の邦訳作品にも)。より正確に言うなら――『トゥルー・クライム・ストーリー』を再読した瞬間、ここ数カ月に読んだ翻訳ミステリーが「実録犯罪もの」というキーワードで一つに繋がり出し、一つの本流と傍流がくっきりと見えたので、それについて言語化しておこうといった試みが今回の目的です。

     まずは、23年12月に邦訳されたキャサリン・ライアン・ハワード『ナッシング・マン』(新潮文庫)から取り上げてみましょう。『遭難信号』『56日間』などのサスペンスで日本にも知られるようになったハワードがこの作品で書いたのは、まさに「実録犯罪本」を巡るサスペンスでした。

     一切の証拠品を残さないことから「ナッシング・マン」と呼ばれるようになったかつての連続殺人鬼は、しがない警備員として暮らすようになった。しかし、彼はある日、勤務先のショッピングモール内の書店で、ある「実録犯罪本」を見つけてしまう。『ナッシング・マン 生き残った者による真実を求める調査』。それは、彼が過去にたった一人だけ取り逃した女性が執筆した本だった……。

     2018年、アメリカでは「黄金州の殺人鬼(ゴールデン・ステイト・キラー)」と呼ばれる連続殺人鬼が逮捕されました。1970~80年代に米国・カリフォルニア州を震撼させた連続殺人・強姦事件であり、手口が違うために同一犯の犯行とは考えられず、長らく未解決でした。この事件の解決には、ミシェル・マクナマラという犯罪ジャーナリストの功績が大きい。彼女は執念を持って犯人を追いかけ、原稿を執筆中の2016年に亡くなってしまいますが、夫が原稿を整理して刊行したのが、日本でも邦訳刊行された『黄金州の殺人鬼 凶悪犯を追いつめた執念の捜査録』(亜紀書房)です。一冊の実録犯罪本が、それを書く執念が、本当の犯人の喉元に迫り、追い詰めた。これはそういう「現実」の「物語」です。

     ハワードはあとがきにおいて、この一連の騒動から一週間も経たない間に同書を読み、『ナッシング・マン』の構想を得たことを明かしています。「現実」においては、犯人が本に目を通していたかは分かりませんが、もし目にしていたとしたら、その心理にどんな葛藤が生まれ、作家と犯人との間でどんな心理戦が繰り広げられるか――そんな想像の翼を広げたのが『ナッシング・マン』というわけです。事実、作中作である『ナッシング・マン 生き残った者による真実を求める調査』への凝りようも半端ではない。「生き残った」被害者の人生から話を立ち上げていくその筆致は、まるで本物の実録犯罪本を読んでいるかのようです。設定が先に立っているがために、「自分に繋がる何かが書かれていないか気になっている」にもかかわらず、律儀に頭から本を読み通す犯人の姿には苦笑させられてしまうのですが、そこも含めて、当時の一連の出来事に対する衝撃の強さが伝わってくるようです。

     海外においては、こうした騒動やポッドキャストなどにおいて、「実録犯罪(トゥルー・クライム)もの」に対する興味が日本よりも強いのではないかと思いました(日本がモキュメンタリー〈フィクションをドキュメンタリーのように演出する手法〉やホラーに対してよりその傾向が強いように感じられる理由については私には知識が足りず仮説を立てられません)。そうでなければ、ホリー・ジャクソンの『自由研究には向かない殺人』『優等生は探偵に向かない』『卒業生には向かない真実』(創元推理文庫)のような想像力も生まれ得ないのではないでしょうか。一作目『自由研究~』こそ、五年前の殺人事件について、無実の人間が疑われていると信じる主人公・ピップがインタビューにより真実を明らかにする……という内容ですが、二作目『優等生は~』において、このピップが解決した一作目の事件の顛末が「犯罪実録ポッドキャスト」として配信され、ピップは一躍「時の人」となり、リスナーがついているという設定が披露されます。そして友人の兄が失踪すると、その行方を捜すために、彼女はこのポッドキャストで友人の家の事情を配信するようになる……。私は解説を執筆するために『優等生は~』のゲラを受け取り、初めてこの設定に触れた時、まずは抵抗を感じ、倫理的に問題はないのかなどの思考がぐるぐると頭を渦巻いてしまったのですが(上手く言葉にすることが出来ず、解説では呑み込みました)、海外における「実録犯罪もの」の隆盛を見せられると、事後的にその設定の「源泉」に触れることが出来たような気がします。よりかみ砕いていうなら、これを「あり得そうなフィクション」として呑み込み得る素地が本国にはあるのだな、と思わされた、といいますか(加えて言うなら、ホリー自身も倫理的な問題や衝突などには自覚的であるからこそ、三作目『卒業生は~』の衝撃の展開にも辿り着いたのではないかと感じられます。ポッドキャストが、決して作中で便利な「だけ」には使われていない。原動力が司法制度への怒りなのだとしても)。

    「実録犯罪もの」が隆盛を誇るということは、そこに反発する流れも生まれてくる、ということになります。そうしたカウンターパンチの一環として、23年11月に邦訳されたダニヤ・クカフカ『死刑執行のノート』(集英社文庫)と、24年3月に邦訳されたジャクリーン・バブリッツ『わたしの名前を消さないで』(新潮文庫)を取り上げてみましょう。前者は死刑執行まで残り12時間という状況である死刑囚アンセル・バッカーを二人称の視点で記述し、加えて、彼に関わった三人の女性(ラヴェンダー、ヘイゼル、サフィ)の視点からアンセルの人物像を浮き彫りにするという結構の作品で、『トゥルー・クライム・ストーリー』と同じく、翻訳部門「試行第二回」の候補作となりました。その訳者あとがきには次のようにあります。

    〝著者クカフカが本書のもとになるアイデアを得たのは、シリアル・キラーを扱う犯罪ドラマやトゥルー・クライム(実録犯罪)ものの過熱した人気ぶりだった。クカフカ自身もティーンエイジャーのころからこのジャンルの番組を熱心に観ていたが、やがて疑問を抱くようになった。シリアル・キラーものの主人公の多くは男性犯罪者だが、異常者と一律にくくられ、視聴者や読者はその異常性を自分とはまったく無関係のエンターテインメントとして消費する。それまで目立たなかった男性が女性に危害をくわえたとたんに注目されるわけだ。一方で、被害者の女性たちはかえりみられることがない。彼女たちにも家族や友人がいて、被害にあわなければ生きられた人生があったのに、やはり消費され、忘れ去られる。このジャンルに潜在するそのような視線には問題があるのではないか? クカフカは、その視線のベクトルをはじいて変えたかったと述べている。〟(同書、p.435)

     だからこそ、『死刑執行のノート』は二人称で記述されるのです。この物語が、読者にとって「他人事」にならないように。いわゆるミステリー的な趣向や意外性には乏しくとも、この作品が人の心を打つ理由はそこにあります。反対に言えば、こうしたカウンターパンチ作品が出てくるほど、本国での過熱ぶりはすごいということになります。

     ニュージーランド出身の作家であるジャクリーン・バブリッツが書いた『わたしの名前を消さないで』については、ここまでに挙げた英米の作家と同列に並べるわけにはいかないかもしれませんし(実録犯罪ものに対する現況が違うと思われるため)、ここまで名指しするような形で「実録犯罪もの」へのカウンターとなっているわけではありませんが、犯人の人生に対する言及を徹底的に排除する姿勢には共通したものがあり、言及しておきたいのです。ここでは、殺害されたアリスの視点(魂)から物語が記述されていくことになりますが、そこで、アリスについて何を語り、何を語らないかは、アリス自身の自己決定権として保持されます。

    〝わたしのことはもうだいたいおわかりですよね。
     こちらには亡くなった女性がたくさんいます。そういう女性たちの物語は、遠目には同じように見えるでしょう。第三者がその人のことを語ると、どうしてもそうなります。〟(同書、p.7)

     被害者たちの人生は、後追いの人物たちに「再構成」されることでしか存在しえない。まるでグロテスクなパッチワークのように。だからこそ、「彼女たち」自身の視点から物語を記述する。ここには、クカフカと同じ問題意識が存在していると思うのです(犯人の人生を徹底して書かない――という点については、日本の作品も満更遅れているとは思えません。野木亜紀子脚本の連続ドラマ「アンナチュラル」を思い出してください。作中のある人物の過去に関わる殺人鬼については、「その正体が明かされる瞬間」〈それも、前のエピソードの真相を残酷に反転させてまで!〉と「その人物をいかに追い詰められるか」という部分にのみ物語上の力点が置かれており、「犯人がどんな人生を送ってきたか」「なぜこんな犯行に手を染めたか」については、ハッキリとシャットアウトしてみせます)。

    〇「実録犯罪もの」の最新事例

     そんな「実録犯罪もの」に新たな系譜が登場しました。いや、根っこは『トゥルー・クライム・ストーリー』と同じと言っていいのです。その作品はダニエル・スウェレン゠ベッカー『キル・ショー』(扶桑社文庫)。本国での刊行は2023年、邦訳は24年5月です。

     アメリカの田舎町で16歳の女子高生が失踪した。その行方を追うために、家族の同意を得て、大手テレビ・ネットワークによってその事件をリアルタイムで報道する連続リアリティー番組が制作された――というのが本書の根幹の設定です。「んな馬鹿な」と言いたくなるような大ボラですが、その番組そのものを記述するというよりは、番組から十年経った現在において、26人の事件関係者の証言を集め、当時の騒動について再構成する、というプロットを取っているのが面白い。つまり、『トゥルー・クライム・ストーリー』と同じく、モキュメンタリーの手法なのです。

     一つのイベントについて、複数の事件関係者の証言を次々と紹介していき、出来事を点描していく、という構成までそっくりです。思うに、ドキュメンタリー番組と同じ見せ方を意識しているのでしょう。次々にインタビュー相手の映像が切り替わり、「私にとっては素晴らしい日々だったね」と老齢の男が言った次のカットで、「いや、実際そんなもんじゃなかったよ」と当時は彼の下で働いていた青年が述懐する……というような、映像的娯楽としての見せ方。一つのイベントや出来事への解釈を次々と示し、互いに対する反応や表情などの描写は都合よくカットしていく。複雑そうに見えますが、映像が発送元だと考えると、脳内再生にも困りません(『トゥルー・クライム・ストーリー』と比較して『キル・ショー』についてもう一つ褒めておきたいこと――それは、各証言者の名前の下に(父親)(母親)(地元テレビ局のニュースリポーター)など肩書を示す工夫を、初出以降もずっと続けているところ。『トゥルー~』では、初出にだけあって、二回目以降はなくなっているんですよね。肩書がずっと書かれているおかげで、登場人物が多すぎても混乱しない)。

     さて、『キル・ショー』ですが、真相の意外性や、次々に訪れるツイストの魅力は素晴らしい。この内容の密度で400ページ台というのも嬉しい事実。そして、この本は結末において、とある露悪的な趣向を明らかにします。テレビを題材に取ったこと、「実録犯罪」と「リアリティーショー」をテーマにした問題意識が、ラストシーンにおいて噴出するのです。こうした「見世物」を楽しんでしまう人間の品性そのものに、唾を吐きかける。それは決して上品なやり方ではありません。ここまで読んできた読者に唾を吐きかけることと同義であるからです。しかし、「実録犯罪もの」に対する本国での捉え方――特に、「小説家」たちの捉え方を見せられると、この露悪的な指弾にも「義」があるとさえ思わされてしまいます。決して、珍しいオチではないのですが、こういう文脈でとらえてみるとやけに重く響いてくる、という意味。

     で――ここで話は『トゥルー・クライム・ストーリー』に戻ってくるわけですが、少なくとも私の中では、この『キル・ショー』の存在が、また一段と『トゥルー~』の印象を深めてくれたと思うのです。どちらが良くて、どちらが悪い、ということではありません。というのも、『トゥルー・クライム・ストーリー』においては、『キル・ショー』がひたすら露悪的に行った、「実録犯罪ものを楽しむ人々」に対する指弾を、何層にも重ねた「皮肉」によって行っているのではないか――そう、思わされたのです。作者自身が顔を出し、自ら「信頼できない語り手」を演じてみせ、自らイヴリンという女性から送られてきたメールを一方的に黒塗り処理し(いわば、検閲――その女性の「声」を握り潰し)、露悪的な男性を演じてみせるのも、作中で起こる女子学生ゾーイを巡る事件の真相の一部がとんでもなく下世話なものであることも、全てが、「実録犯罪ものを楽しむ人々」と「実録犯罪ものの構造」を茶化し、相対化する試みに見えてきたのです。こうしたドキュメンタリーものにおいて、唯一読者が寄り添える存在であるはずのインタビュアーでさえ信頼できない、という趣向の尖り方も含めて、この作品自体が、すべての「実録犯罪もの」を過去にしてしまうほどのインパクトに満ちていると言っても過言ではありません。

     ここ一年のいくつかの事例を挙げただけでも、これだけ多くの翻訳作品で「実録犯罪」が言及されているのですから、今後もまたポツポツと見かけるような気がしています。そういう時に、今日ここに書き留めて置いたことが、何か役に立つといいのですが。

    (2024年6月)

   

第81回2024.05.24
S・A・コスビーにまたも注目 ~今回は捜査小説の王道か~

  • S・A・コスビー『すべての罪は血を流す』

    S・A・コスビー
    『すべての罪は血を流す』
    (ハーパーコリンズ・ジャパン)

  • 〇『レーエンデ国物語』、次なる物語!

     多崎礼『レーエンデ国物語 夜明け前』(講談社)が出ました。心待ちにしているシリーズの続きなので、嬉しい限り。これでシリーズも第四弾。新刊が出るたびに感想を書いていて、第一巻は第59回、第二巻『月と太陽』は第64回、第三巻『喝采か沈黙か』は第68回で取り上げています。

     さて、第四巻となる『夜明け前』では、いよいよ「レーエンデ国」成立前夜(といっても十数年前、ではあります)、成立のきっかけとなった一組の兄妹が描かれます。一人はレオナルド・ペスタロッチ。嫡男である彼は友人たちと共に何不自由ない暮らしを送っていましたが、こっそり家を抜け出して夏祭りに行った際、劇場に出会い、やがて、自分の家の真実の姿を知ってしまいます。一方、妾腹の皇女ルクレツィア・ダンブロシオ・ペスタロッチは銀妖精と時折会いに来る母親をわずかな楽しみとする少女でしたが、ある事件をきっかけにシャイア城を追われ、レオナルドのいるボネッティで暮らすことになります。

     それぞれの視点からそれぞれの出自を描くのが第一章と第二章で、ここまでで全体の五分の一ぐらい。多崎礼、さすが、登場人物に背負わせる業が深い。高貴な生まれの青年が義憤に燃える第一章のレオナルドの方は、それでも英雄譚的な楽しみ方が出来ますが、六歳にしてとんでもない宿痾を背負わされてしまう第二章のルクレツィアは本当に胸が詰まる。気持ちが重くなり、一旦栞を挟んでしまったほどです。

     おまけに序章が完璧。ちょっと引用します。

     〝生前、彼は言っていた。
    「妹を愛していた」と。「心から信頼していた」と。「彼女も俺を理解し、信頼してくれた。自分がどう行動すれば、俺が何を選択するのか、彼女にはすべてわかっていた」と。愛おしげに、誇らしげに、血を吐くように独白した。「だから殺すしかなかった」と。〟(『レーエンデ国物語 夜明け前』、p.13より)

     予告された悲劇。豊穣に展開するファンタジーの沃野に身を浸しながらも、読者は結末を知らされてしまっているのです。おまけに、あえてミステリーに引き寄せて言うなら、ここに描かれているのは情念のホワイダニットであるともいえるでしょう。どうして、「だから殺すしかな」いと言えるのか。これは、一発の銃弾の真意を知るための物語でもあるのです。

     第三章、第四章では、またしても多崎礼の恋愛小説パートにドキドキさせられながら、革命の物語もいよいよ佳境に入っていきます。まるでクライマックスへ向けて、忍ばせるように、遂に「レーエンデ国」という言葉が本文の中にそっと置かれてもいます。面白い、あまりにも面白い。そして、「哀しい宿命を抱えた一組の兄妹」という主題が、あまりにも私の趣味に刺さり過ぎたことも付言しておきましょう。正直、ずっと泣いていた。

     いよいよ第五巻『レーエンデ国物語 海へ』を残すのみとなりました。帯には「今冬刊行予定」の文字が躍っています。早く続きが読みたいようでもあり、もう終わってしまうのが寂しいようでもあり。いずれにせよ、心待ちにしたいと思います。第五巻が出るまでに、ぜひこの傑作シリーズに追いついておきましょう。

     なお、6月3日には『レーエンデの歩き方』(講談社)という公式ガイドブックも刊行される模様。すごい、この速度でガイドブックが出るのか。こちらも注目ですね。

    〇告知も一つ

     5月22日に中央公論新社から『ミステリー小説集 脱出』が刊行されました。全編新作書き下ろしのアンソロジーです。参加作家は、井上真偽、空木春宵、織守きょうや、斜線堂有紀、そして私の五人。それぞれが「脱出」をテーマに書いています。私の作品は「屋上からの脱出」。天文部員たちがひょんなことから真冬の屋上に閉じ込められてしまい、手元にあるもので、どうにかこうにか屋上から脱出しなければいけなくなる……というあらすじです。アイテムをリストアップし、そこから手段を考えるシーンは、『都会のトム&ソーヤ』のオマージュで入れました。「脱出」テーマの短編は「第13号船室からの脱出」(『透明人間は密室に潜む』収録)でやってしまったので、少し目先を変えたものになります。同作が好きだった人には、気に入っていただける、かな。よろしくお願いいたします。

     各編も軽く紹介してみましょう。織守きょうや「名とりの森」は、森に入ると名前を忘れてしまい、その名を奪われてしまう、という設定を使ったホラーミステリー(ジュブナイル風味もあり)。森を「脱出」するための攻防が見所。

     斜線堂有紀「鳥の密室」は、魔女狩りが横行する街を描いた一編で、著者の作品で言えば『本の背骨が最後に残る』の系譜といえる「異形コレクション」風ホラーの一作。核となる発想に驚きます。エグい。

     空木春宵「罪喰の魔女」は、人を喰う巫女が棲む神社を描く物語で、著者の『感応グラン=ギニョル』が好きな人には文句なしにお薦め出来る作品(逆も然り)。伝奇小説の味がしますね。文体が凄い。

     井上真偽「サマリア人の血潮」は、見知らぬ研究所で目覚めた男は記憶喪失になっていた……という発端の物語で、まさに「脱出」の王道を往くような中編。モザイク状に記憶と設定が明らかになっていく構成に感嘆。どこか著者の『アリアドネの声』を思わせる「脱出」劇です。

     以上全五編、いずれもそれぞれの角度から「脱出」を描いたアンソロジーとなっています。何か一編でも気になった方は、ぜひお手に取ってみてください。面白いですよ。

    〇S・A・コスビー、またしても傑作

     昨年、2023年に『頬に哀しみを刻め』で「このミステリーがすごい!」海外編1位を獲得した S・A・コスビーの新刊が今年も出ました。『すべての罪は血を流す』(ハーパーコリンズ・ジャパン)がそれです。そしてこれが……またしても、やってくれたなあ、という一作。

     ヴァージニア州の小さな町が舞台となる本作では、はやくも冒頭で、高校での銃撃事件が起こる。教師であるスピアマンが銃撃され、容疑者の黒人青年が、白人の保安官補に射殺されてしまう、という悲劇的な事件だ。元FBI捜査官で、郡初の黒人保安官タイタスは捜査を開始するが、容疑者の青年は殺される前に奇妙な言葉を残していた。「先生の携帯を見ろ」。果たしてスピアマンの携帯電話を探ると、そこにはスピアマンと狼のマスクを被った男たちによる、凄惨な殺人の写真が遺されていたのだった。

     この殺人の記録が、実に唾棄すべき犯罪であるがゆえに、小さな町は更なる混乱に巻き込まれていきます。黒人青年を白人の保安官補が射殺した、という事件自体も、混乱の要因です。ブラック・ライヴズ・マター(Black Lives Matter、通称 BLM)運動も一つのキーワードになるでしょう。タイタスは郡初の黒人保安官であり、人口二万人のこの小さな町においては、ほとんどの人間と顔見知りであるという状況ですが、彼の行動原理は「黒人としての行動/保安官としての行動」の間で常に引き裂かれており、その葛藤こそが本書の最大の読みどころになっています。教会の牧師と活動家たちの間で板挟みになり、両者から汚い言葉を投げ掛けられながら、あくまでも保安官として騒動を鎮圧しなければならないというシーンは、実に巧くて胸が詰まる。

     保安官が主人公であり、連続殺人の捜査がプロットの要諦をなすあたりは、いわゆる警察小説の読み味もありますが、もっと強く思い出すのは、ダシール・ハメットの『血の収穫』だったりしました。これは、中盤以降に築かれる死体の山と、幾つも用意されたアクションシーン、そして最後に残る荒涼たる地平に、共通点を感じたからだと思います。他には、スティーヴン・キングの「キャッスルロック」もののように、一つの地方都市を丁寧に描き、崩落させていく小説の面白さにも似たものがあります。街そのものが主人公である、というような。「チャロン郡」と題された章が複数回挿入され、街とそこに生きる人々(多くは脇役級?)の様子を点描してくれるのが、より「街が主人公である」という印象を強めているのだと思います。

     S・A・コスビーは様々な「犯罪小説」のテンプレートを用いて、黒人としてのアイデンティティを描く試みを続けているのかもしれない、と思います。『黒き荒野の果て』では、ありがちな「最後の仕事」ものの犯罪小説のテンプレートを用いながらその試みを行い、『頬に哀しみを刻め』では最愛の人を奪われた父親たちの私的な復讐劇としての犯罪小説を起ち上げてみせました。その意味では、いわゆる「警察小説」「捜査小説」のテンプレートに則っている『すべての罪は血を流す』は、基本プロットが「捜査小説」であるがゆえに、かなり手垢のついた物語にも感じられます。しかし、だからこそ、コスビーの人物描写と筆の巧さが見えてくる、ともいえます。

     一つの作品としての密度、物語としての熱さは、正直言って『頬に哀しみを刻め』に譲りますが、『すべての罪は血を流す』も読み逃せない作品です。ぜひご一読を。

    (2024年5月)

   

第80回2024.05.10
『両京十五日』は、今年最高の冒険小説だ! ~中国冒険小説の面白さを満載して~

  • 馬伯庸『両京十五日 Ⅰ 凶兆』、書影
    馬伯庸『両京十五日 Ⅱ 天命』、書影

    馬伯庸
    『両京十五日 Ⅰ 凶兆』
    『両京十五日 Ⅱ 天命』
    (ハヤカワ・ポケット・ミステリ)

  • 〇カッパ・ツー第三期受賞者、信国遥に注目せよ!

     信国遥『あなたに聞いて貰いたい七つの殺人』(光文社)が刊行されました。新人発掘プロジェクト「カッパ・ツー」の第三期作品。第三期は、信国遥さんと真門浩平さんのお二人が選ばれたので、これにて出そろった形になります。これまでの選出者をあらためて整理すると、

     第一回:阿津川辰海『名探偵は嘘をつかない』
     第二回:犬飼ねこそぎ『密室は御手の中』
     第三回:真門浩平『バイバイ、サンタクロース ~麻坂家の双子探偵~』
         信国遥『あなたに聞いて貰いたい七つの殺人』
     (刊行順、版元はいずれも光文社)

     このようになります。ガチガチの本格ミステリー賞、という性質になってきましたね。いいぞいいぞ。それぞれにそれぞれの探偵像/名探偵像が提示されているところも個人的には推しポイントです。

     さて、そんなわけで満を持して登場の『あなたに聞いて貰いたい七つの殺人』ですが、これがすこぶる面白い。劇場型犯罪×本格ミステリーという発想だけで嬉しくなってしまいますが(アガサ・クリスティー『ABC殺人事件』であり、エラリイ・クイーン『九尾の猫』だ!)、設定、展開、解決いずれも巧みで、唸らされます。

     若い女性ばかりを殺害し、その様子をインターネットラジオ「ラジオマーダー」で実況する殺人鬼ヴェノム。その正体を突き止めてほしいと、探偵・鶴舞に依頼したのは、オッドアイと真っ黒な服装が特徴のジャーナリスト・桜通来良だった。鶴舞たちは「ラジオマーダー」に対抗して「ラジオディテクティブ」を起ち上げ、ヴェノムの放送に入り込んだノイズから、その殺害場所や法則を割り出そうとする……。

     相手が「劇場型犯罪」なら、こちらは「劇場型探偵」とは、帯にある東川篤哉の推薦文のフレーズ。この設定が絶妙で、しかも、抑制の効いた文体で書かれているために、実にスリリングに演出されているのが見事です。そのスリルに、「音」がもたらしている効果は絶大でしょう。映画「ギルティ/THE GUILTY」では、コールセンターの職員が電話の音声のみから、今まさに危機に瀕している女性を救おうとする推理行が描かれますし、島田荘司の短編「糸ノコとジグザグ」(『毒を売る女』収録)では、ラジオ番組の中でリスナーからの電話に応えるコーナーがあるのですが、そこでリスナーが自殺を仄めかしたため、彼の言葉から推理を進めて、自殺を止めようと奮闘します。これらの先行作や『あなたに~』に共通するのは、「音」という少ない手掛かりから少しずつ犯人/対象者に肉薄しようという過程の演出であり、そこに推理小説としての興味が生まれているのです(ちなみに、本書の成立にヒントを与えていそうなのは、むしろ別の映画なのですが、それを仄めかすタイミングなどもニヤリとさせられます)。

     300ページ台の長さでこのスケールの劇場型犯罪を捌き切った手際も見事ながら、解決編の精妙さにはますます唸らされます。構図の一部が見通しやすくなっているのは確かですが、全体像を言い当てるのは難しいのではないでしょうか。もちろんネタバレは出来ませんが、作中序盤の出来事に対する解釈と、探偵の使い方には膝を打ちました。凝りに凝りまくった本格推理として、大いにオススメします。

     ちょっと紹介が長かったのは、同時受賞の真門浩平さんを第72回と第78回で2回取り上げているから。カッパ・ツー受賞の『バイバイ、サンタクロース』だけでなく、東京創元社から『ぼくらは回収しない』も刊行したので、そうなったんですよね。紹介した字数を足したら同じくらいな気がします。改めて、真門浩平さん、信国遥さん、デビュー作の刊行、おめでとうございます!

    〇『両京十五日』、凄すぎる。

     凄すぎるんで読んでくれ、とだけ言って終わりたい。だってもう、凄すぎるんだから。

     馬伯庸『両京十五日 Ⅰ 凶兆』『両京十五日 Ⅱ 天命』(ハヤカワ・ポケット・ミステリ)に対する偽らざる本心です。この作品の魅力を言い尽くせる気がしない。作中にも登場する長江のように、雄大で汲めども尽きない冒険小説。『両京十五日 Ⅰ 凶兆』はハヤカワ・ポケット・ミステリの2000番作品であり、記念すべき一作ですが、その特別な番号にも恥じない大傑作になっているのです。

     簡単にあらすじを紹介しましょう。舞台は中国、明の時代。1425年、明の皇太子・朱瞻基は遷都を図る皇帝に命じられ、首都の北京から南京へと遣わされる。しかし、南京に到着した直後、朱瞻基の船は爆破される。これはクーデターなのか? 皇帝危篤の報も間を置かずに届き、皇太子は命を狙われる。彼は切れ者の捕吏(罪人を捕らえる役人)・呉定縁、才気迸る下級役人・于謙、秘密を抱えた女医・蘇荊渓らと共に、北京への帰還を目指す。その距離、1000キロメートル。しかも敵が事を起こすまで、わずか十五日しかない。朱瞻基は北京へ帰れるのか? そこで待ち受けるものとは?

     こんなあらすじを書いているだけでもう、面白い。A地点からB地点へ行くことが作品の最大の目的になる点は、ギャビン・ライアル『深夜プラス1』月村了衛『土獏の花』といった冒険小説の王道プロットです。しかし、こうしたアクション・活劇中心の冒険小説は、どうしてもパリッとした文体ときびきびした展開で書かれるところ、『両京十五日』はちょっと違う。もちろんアクションシーンもキレキレなのですが、それ以上に、ストップモーションやスローモーションの使い方も絶妙で、読んでいるだけで、自分の感覚が何倍も引き延ばされていくような感じがする。そういう巧さなのです。たとえば、序盤、朱瞻基の船が爆破されるシーンを、「第一の刹那」などと場面ごとに記述し、その瞬間のドラマを2ページもかけて記述するところなどが代表例でしょう。中国の歴史小説ならではの文体も、その感覚に一役買っています。ゆっくりと、雄大な大河の流れのように、事物を説明し、それを解釈し、説諭していくふくよかな文体が、実に心地よい。これは翻訳者(斎藤正高、泊功)の功績も大きいのだと思います。ともすれば大仰に感じられてしまう文体と人間ドラマですが、それがこの時代の「命の軽さ」に見合っているんですよね。命が軽いからこそ、瞬間瞬間に命を懸け、大見得を切る文体が似合う、というか。

     だから、実は『深夜プラス1』よりも、むしろ私は『水滸伝』『三国志』を想起したのです。小学生から中学生の頃、夢中になって読んでいた中国の大河小説の面白さ。『両京十五日』で、新キャラクターが出るたびに、その来歴や代表的なエピソードなどを歯切れよく紹介していく場面は、まさに『水滸伝』で武将たちが紹介されるシーンの面白さと同じ。政変や白蓮教徒の思惑に翻弄されながら戦うところは『三国志』の興奮が思い出されました。読書をするようになって、あえて背伸びして大人向けの本を読んで、分からないところや難しいところもあるけど、圧倒的に面白くて、何度も何度も読み返した、あの頃の感動が蘇ったのです。こんな本には、そう出会えない。あえてとうかいすれば、ジャンルの書き手/読み手として長く生きすぎたせいで、分析癖だったり(プロットを見て「ああ、『深夜プラス1』のアレね」と思っちゃうのもそう)、そもそもミステリーを読むことへの義務感だったりが染みついてきて、そういうのが鎧のように身についている状態で、普段は本を読んでいるというイメージがあります。その鎧の存在を忘れさせてくれるような面白い本に出会うと、うわあ、これは面白かったなあとここで採り上げているわけなんですが、『両京十五日』には、鎧どころか、もう、丸裸にまでされたという感じ。だって、読み始めの頃の興奮そのままなんですもん。

     私がグッと心掴まれたのは、Ⅰ巻の序盤で、蘇荊渓が登場したタイミングです。もちろん、男装の女医というキャラだけでバチバチに強いのですが、呉定縁と二人になったタイミングで、こいつがぶちかます話がもーとんでもなく面白い。エピソードからしてぶっ飛んでいるのですが、初対面でそんな話をするふてぶてしさにグッと来てしまったのです。それで、一気にのめり込んで、あとはもうずっと面白い。私があともう一人好きなのは、敵方ですが、白蓮教徒の〝病仏敵〟の異名を持つ男、梁興甫。信念のある敵役はいつだって好きですが、活躍の仕方がとんでもない。

     全キャラクターが魅力的であるがゆえに(敵方の策士に、いつもおやつを食べながら登場するキャラクターまでいるんだぞ!)、彼らの葛藤も冒険も全て楽しめるのが素晴らしい。朱瞻基とかはねー、今行けよ! みたいな場面で躊躇ってしまうシーンがあり、ヤキモキさせられることも多いのですが、その心理も頷けるので見守ってしまうんですよね。長江を見ながら国の政治について考えるシーンとか、そういうちょっとしたシーンまで全部心に残る。

     しかもね、これは「謎解きミステリーとしての興趣もある冒険小説」なわけです。無敵でしょう? プロットと展開があまりにも強く、波乱万丈の冒険譚を楽しめるにもかかわらず、最後の最後に見事な謎解きが待ち構えている。そのシーンの意味合いには惚れ惚れとするよう。なるほど、だからこそ、この謎解きはこのタイミングで行われなければならなかったんだ……と、茫然としながら膝を折るしかない。すごいぞ、これは(すごい、しか言っていない)。

     ちなみに、本作は明の時代を扱った歴史小説でもあるのですが、「史実がどうなのか」「どのように史実が生かされているのか」「どの登場人物は実在し、どの登場人物は創作なのか」という点については、一切気にせずに物語を楽しんでOK。なぜなら、Ⅱ巻の巻末には、作者による「物語の周辺について」という解題がついているからです。歴史小説としての面白さについては、この解題だけでも十分に補完出来ます。というかね、本文を読んでいる間は、細かいことを気にしている暇もありません。面白すぎるから。

     それにしても、今まで紹介されてきた華文ミステリーって、新本格直系のハードな本格推理が多い印象でしたが、最近、そのイメージも変わってきているというか、本格以外の物も紹介されるようになった気がして、楽しいです。紫金陳『悪童たち』『検察官の遺言』は、前者は秀逸な犯罪小説、後者は大上段に構えた捜査小説で、それぞれ東野圭吾の〈加賀恭一郎〉シリーズを思わせるような味わいがありましたし、陳漸『大唐泥犁獄』のように中国の馥郁たる歴史と物語を活かした歴史推理小説もある。歴史小説の枠は、文体まで含めると、ちょっと『両京十五日』が圧倒的すぎるのだけれど、こういう方向性の作品はもっと読んでみたいな。

     普通に「傑作」というと、「今年度のベストミステリー」とか「今年を代表する一作」というニュアンスになるのですが、これはもう、生涯単位の傑作に挙げてもいいくらい。だって、ちょっと圧倒的なまでの面白さだもの。Ⅰ・Ⅱ巻合わせて1000ページ超、しかもポケミスなので二段組という、手を出すのに躊躇うレベルの分量かもしれませんが、それに見合う大いなる価値がある大部です。ポケミス2000番の記念でもありますし、ぜひ買って挑みましょう。はぁぁ、しかし面白かったな。それにしても、これを読むと無性に漫画『キングダム』も読み返したくなりますね。時間の吸われ方がエグい。でも幸せだ

    (2024年5月)

第79回2024.04.26
ぼくの盛岡・仙台・神戸紀行 ~作家ゆかりの地を訪ねる~

  • 陳舜臣『昭和ミステリ秘宝 三色の家』、書影

    陳舜臣
    『昭和ミステリ秘宝 
    三色の家』
    (扶桑社文庫)

  • 〇まずは告知から

     4月25日発行の「季刊asta vol.11」に、「失恋名探偵」シリーズの第二話「キミが犯人じゃなければ」が掲載されています。惚れた相手が全員犯人、という不幸体質に生まれた男子高校生を、名探偵を夢見る女子高校生が使役するコンビ探偵物ですが、今回のシチュエーションは「『想い人』は現場近くの密室の中に閉じ込められた女性のはず。他の人物が犯人なら密室の謎など存在しないのに、なんといまいましいことか!」というものです。エラリー・クイーンの某長編の変奏曲ですが、そこまで本格的なものでもない、かな。このシリーズは設定をどこまでひねれるか勝負なので、これからもこんな感じでやっていきます。

    〇盛岡・仙台紀行編

     三月前半に、盛岡に行く用事があったため、そこに仙台への取材旅行をくっつけてみました。盛岡に行く日の前日は、とあるイベントのために横浜に行っていたので、横浜飛び出し盛岡、取って返して仙台、そこから東京へ帰還という、どうかしているスケジュールを断行することに。さすがに疲れました。

     さて、旅行の一冊目は風見潤『スキー場幽霊事件』(講談社X文庫)。少女文庫レーベルから発表されていた〈幽霊事件〉シリーズの一作で、以前、50冊以上揃ったセットを古書店で購入したため、いつ読もうか悩んでいたところ。で、タイトルを眺めているうち、日本の地名が多いことに気付き、旅行の時に持ち歩いて、その土地で読もうと決めました。『スキー場~』はタイトルにこそ地名が入っていませんが、パラパラしたら、岩手は遠野の近くにある架空の村が作品の舞台と分かったので、持っていくことに。ティーンズ文庫らしいカップルの雰囲気に気恥ずかしくなりながらも、足跡のない殺人と、スキーのリフトからの人間消失の謎に魅了され、どちらの謎にも一定程度の満足感。文体も平易ですんなり読めてしまうし、これは旅行にうってつけかも。ちなみに、本書で最も驚いたのは、作中に出てくる暗号の作成に、新井素子が協力したという「あとがき」で披露されたエピソード。

     この「旅行に合わせて〈幽霊事件〉を読む」縛りの難点は、『バリ島幽霊事件』『香港幽霊事件』を読むのが大変なことでしょうか。パラパラしてみないと地名が分からないパターンもあるので、見逃してしまうことも多そう。そして、最大の難関があります――『ヤマタイ国幽霊事件』。まいったな、これはどこに行く時に読めばいいんだろう?

     二冊目は高田崇文『QED 河童伝説』(講談社文庫)。こちらも岩手県遠野が舞台なので持参。なんとなく、旅行の時には一冊は『QED』を持っていこうという意識があるので、まさしくうってつけでした。河童伝説はなぜ現代まで伝えられる形になったのか? という部分の読み解きが面白く、アニメや漫画での受容のされ方も相まって、なんとなく可愛らしいイメージすら抱いていた「河童」の裏に隠された、薄ら寒い物語にぞっとしてしまいました。

     ここまで読んだところで、東北新幹線は盛岡駅に到着。ちらつくぐらいの雪は降っていますが、基本的には天候に恵まれ、歩きやすい。まあ、寒いのは間違いないですが……。この日は昼・夜と盛岡で用事があるため、動きはほとんどそれに制約されます。見られた観光名所も石割桜くらいでした。盛岡冷麺を食べるために夜は焼肉店へ。翌朝はじゃじゃ麺の店に開店凸。一泊二日の滞在ながら、かなり食べてしまった。

     東北新幹線で仙台に移動。盛岡までは友人と二人旅でしたが、友人は仕事があるというので、ここからは一人旅になります。三冊目は井沢元彦『義経はここにいる』(講談社文庫)。宮城県といえば義経伝説ということで持参しました。作者の作品では『本廟寺焼亡』『六歌仙暗殺考』『欲の無い犯罪者』などにも登場する名探偵・南条圭による推理を堪能できる歴史本格ミステリー(なお、井沢は『義経幻殺考』でも義経伝説の一つを検証する物語を書いており、そのことについて本書の作中で触れている)。歴史本格は、歴史解釈か、現代で起こる本格ミステリー部分のどちらかが弱く感じられることがあるのですが、本書はどちらもなかなかの強度。平泉の金色堂にまつわる絵解きの面白さや、「宮沢賢治が義経の秘宝を発見し、日記に書き残していた」というハッタリの効いた説の提示は、歴史ミステリーの面白さに満ち溢れていますし、現代部分も、首のない死体の使い方が結構面白い。やはり、井沢元彦、いいなあ。ちなみに、井沢元彦では『修道士の首 織田信長推理帳』『五つの首 織田信長推理帳』(いずれも講談社文庫)はかなりの本格度を誇っており、オススメです。

     仙台に着いて荷物をホテルに預けたら、仙台旅行のメインイベント——古本旅へ(なんでだよ!)。まずは、仙台駅からバスで三十分ほど行った鈎取バス停の近く「萬葉堂書店」へ。十万冊がずらりと並び、地下にまでみっしりと古本がある店で、遠方から訪ねる人も多い名店です。しかし、これは車が必須だなあ。広い店内を二時間ほど彷徨した後、①・②ディーン・R・クーンツ『逃切』『ストーカー』(いずれも創元推理文庫)、③ハーバート・レズニコウ『ゴールド1/密室』(創元推理文庫)、④・⑤・⑥陳舜臣『虹の舞台』『神戸異人館事件帖〈夏の海の水葬〉』『影は崩れた』(いずれも徳間文庫)、⑦陳舜臣『昭和ミステリ秘宝 三色の家』(扶桑社文庫)、⑧陳舜臣『割れる 陶展文の推理』(角川文庫)、⑨辻真先『銀座コンパル通りの妖怪』(双葉文庫)、⑩司城志朗『街でいちばんの探偵』(光文社)、⑪ルース・レンデル『ハートストーン』(福武書店)、⑫アキフ・ピリンチ『猫たちの森』(早川書房)、⑬野崎六助『煉獄回廊』(新潮社)、⑭黒川博行『雨に殺せば』(文藝春秋)、⑮法月綸太郎『頼子のために』(講談社ノベルス)。私が古書店で探すのは品切重版未定の本(ついでにいえば電子書籍化もされていないこと。正確に言えば、『三色の家』の収録長編二本〈『三色の家』『弓の部屋』〉はKindle化されていますが、扶桑社文庫版には、ここでしか読めない短編と杉江松恋の解説がついている)で、ここでしか読めないものが中心ですが、⑭、⑮の毛色が違うのは、いずれも初版帯付きだから。特に『雨に殺せば』の帯は素晴らしい。「浪速のポワロ」という呼び名が、この当時から与えられていたことが分かる(今ちょうど、黒川博行にハマっていて、創元推理文庫に入っている初期作品は全て新品で買い直したばかりなのです。『キャッツアイころがった』『雨に殺せば』『八号古墳に消えて』『ドアの向こうに』が特に好き!)。①・②・⑪・⑫はいずれも再読なのですが、状態が良いのと、帯付きなのが嬉しくて購入。特に、⑪はレンデルの中でもひときわ短い作品ながら、猫の表紙が可愛いゴシックな装いの佳品なのでオススメ。④~⑧は今回の後半でお届けする「神戸旅行編」に向けて買ったところ。正直、家の中を探すよりも、古書店で探した方が早いんですよね。

     萬葉堂が遠いので、時間のほとんどをそこで使い果たしてしまったのですが、なんとか仙台駅まで戻ってきて、牛タンを食べ、駅の東側へ抜けたところにある古書店「あらえみし」へ。玄関でスリッパに履き替えて、室内にみっしりと並べられた本を見るアットホームな雰囲気の古書店で、こちらもじっくりと堪能。ずっと探していた本があったけれど、かなりの美本&お値段だし、運ぶ最中に帯を破ってしまったらと思うと怖くて手が出せず、ここでは⑯南條範夫『連鎖殺人』(双葉社)を購入する。著者の「推理短編傑作集」だというので、興味津々。著者の作品に初めて触れたのは、『綾辻行人と有栖川有栖のミステリ・ジョッキー1』に収録された「黒い九月の手」という作品で、これに頭をぶん殴られたのです。なんというか、ヘンな論理を用いた作品なのです。有栖川さんの選出、だったかな。

     店を出ようとしたところで、店員さんに、近くに2号店があって、そこにはミステリーがたくさんありますよと言われたので、な、なんと、と尻尾を振ってついていく。そちらもスリッパを脱いで上がる、一般の住宅のような雰囲気ながら、創元推理文庫やハヤカワ・ミステリ文庫、ポケミスがずらっと並び、読売新聞社の「フランス・ミステリー傑作選」まで六冊中五冊は置いてあるという充実ぶり。国内ミステリーの見たことがないところなども置いてあり、頭を悩ませる事態に。旅先なので買う冊数は絞らなければと思いつつも、⑰ジャック・ヒギンズ『サンタマリア特命隊』(河出文庫)、⑱F・W・クロフツ『ポンスン事件』(創元推理文庫)、⑲カーター・ディクスン『一角獣の殺人』(創元推理文庫)、⑳マーク・マクシェーン『雨の午後の降霊会』(創元推理文庫)、㉑カトリーヌ・アルレー『大いなる幻影 死者の入江』(創元推理文庫)の五冊を購入。⑰、⑳、㉑は、いずれも川出正樹『ミステリ・ライブラリ・インヴェスティゲーション』きっかけで読みたいと思った本の拾い残し。特に⑰は内藤陳の推薦帯がちゃんとついているので、めちゃくちゃ嬉しい。⑱は既読のクロフツ作品なのですが、黒い表紙のクロフツで揃えたくて、見かけたら集めることにしているのです。⑲は文庫で持っていなかったので、ぜひとも持っておきたかった。

     ミステリマニアはぜひ、店主に声をかけて、2号店に連れていってもらうと楽しいことでしょう。私はまるで知らなかったので、声をかけられなかったら、きっと出会えていなかったと思います。その節は皆さん、ありがとうございました。

     さて、旅行中の四冊目は伊坂幸太郎『アイネクライネナハトムジーク』。こちらは仙台駅中のくまざわ書店で購入。というのも、仙台駅に降り立った瞬間、ペデストリアンデッキを見て――あ、これ『アイネクライネナハトムジーク』の表紙で見たやつだ! と思って、読み返したくなったから。現地で読むと、冒頭のシーンの臨場感とか嬉しい。確かにペンギンの群れのように人々があちこちを向いて立っている感じ。しかし、読み返してみると、なんて優しい小説なんだろう。一人旅の最中に読んでいると、なんだか無性に目頭が熱くなってきます。伊坂作品を読みながら、ふと思い立って、帰りの新幹線までの間、伊坂作品ゆかりの地を歩いてみることに。勾当台公園は、『ゴールデンスランバー』の青柳が無実を訴えた野外音楽堂があるところですが、アニメ「Wake Up, Girls!」の聖地でもあります。チェックアウト前の朝の散歩で行ったので、近隣の官庁街に通うサラリーマンたちが、そこかしこで煙草をふかしていて、旅情はあまり湧かないのでサッと見学して退散しました。その後は、あまり時間もないので、せめて仙台駅でコインロッカーを探そうと思い立ちます。『アヒルと鴨のコインロッカー』のラストで登場する、アレを閉じ込めたコインロッカーです。しばらく探し回って見るものの、調べたら、東西連絡通路の開通とともに、問題のロッカーは撤去されたと知り、断念。一応、作中の描写的にこのあたりかなー、というところまで行って、現代的な、交通系ICがそのままカギになるタイプのコインロッカーを見てきて、あのシーンがこのコインロッカーだったら、と空想したところでタイムアップでした。なんだか、ちょっと間が抜けたシーンになってしまいそう。ガチャ、という音の代わりに、ピッ、ですからね。

    〇三月後半 神戸紀行編

     さて、神戸編です。光文社の担当編集に同行してもらい、取材旅行です。このタイミングで決行したのは、神戸文学館で開催中の「陳舜臣生誕100周年 神戸が生んだ名探偵 陶展文の事件簿」も見に行けるから(会期は2024年4月14日までなので、更新の時には終了してしまっています)。

     東京駅から新幹線に乗り込み、一冊目は J・L・ブラックハースト『スリー・カード・マーダー』(創元推理文庫)を。出発直前に献本がきたというのもありますが、紀行編ではその土地の作家や作品を優先するので、海外物をあまり読めていないな、ということに気付いたため。今回は土地にこだわらずに読んでみました。『スリー・カード・マーダー』は2023年にイギリスで発表された作品ながら、密室殺人、それも複数の密室に挑んだ直球勝負の本格ミステリー。作中にはジョン・ディクスン・カーの『魔女の隠れ家』や『三つの棺』、おまけに『三つの棺』作中で展開される密室講義に関する言及まであるという始末(ちなみに、作中で密室トリックの一つが引き合いに出されていますが、これは『三つの棺』のネタバレではないので気にしないで大丈夫ですよ)。ではマニアックな味わいなのかといえば、そうでもない。警官の姉と詐欺師の妹、というアンビバレントなバディーものとしての味が立っていて、思いもよらない問いを突き付けられるクライマックスまで含めて、むしろ現代サスペンスとして読んだ方が吉という感じ。水準以上には楽しんだので、次回作も楽しみ。

     二冊目は陳舜臣『昭和ミステリ秘宝 三色の家』(扶桑社文庫)。今回の神戸旅の目的である「陶展文の事件簿」に合わせて持ってきたもの。内容自体は再読になります。「陶展文」が登場する作品は、長編が四つ、短編が六つあります。長編はデビュー作である『枯草の根』に続いて、『三色の家』『割れる』『虹の舞台』の四作品で、今回の旅行には、『三色~』『割れる』『虹~』の三冊を持参しました。

     扶桑社文庫版の『三色の家』には、表題となっている『三色の家』の他、陳舜臣の第三長編である『弓の部屋』、短編「心で見た」が収録されています。いずれも神戸の異国情緒を活かした作品であるのはもちろんなのですが、『三色の家』は密室もの、『弓の部屋』は毒殺もので、いずれもトリッキーな作品です。派手なトリックというよりは、観察と巧みな伏線配置に基づく、心理の陥穽を突くような作品で、濃い味付けの現代ミステリーに食傷した心を癒すのにうってつけです。特に『弓の部屋』で使われるトリックは、実にシンプルで、漫画などでも作例を見たことがあるほどなのですが、作品年代的には相当早い。しかし、ここで重要なのは、むしろ、探偵役がなぜそのトリックに気が付いたか、という「気付き」の伏線の巧さだと思うのです。

    『三色の家』というタイトルは、海岸通りに立つ家が、フランス国旗のような三色に塗り分けられていて、「三色の家」と呼ばれているというところから。倉庫である一階が赤レンガ、二階と三階は白のモルタルだけれど、海岸通りに面した三階の表側だけが青色に塗られている。青、白、赤で「三色の家」というわけ。この家が密室殺人の舞台となるわけですが、昭和八年の神戸の雰囲気を活写し、その中に巧みに伏線を埋め込んでみせる手際にあらためて感嘆しました。むしろ再読の方が楽しめるというもので、最後の最後に回収されるトリックの小道具が、こんなにも序盤にさりげなく置かれていたのか! という点には感心しきり。

    『割れる』(角川文庫。徳間文庫版もある)は、陳舜臣マイベスト3に入るほどの作品なので、読み返すのも三回目。あらすじはこう。日本に滞在しているはずの兄を探すべく、林宝媛は陶展文を訪ねる。兄の行方を探り始めた陶展文の前に現れる死体。その兄が泊まっていたとされるホテルの部屋から、中国人の撲殺死体が発見されたのだ……。

     かなりシンプルな状況設定かつ文庫で250ページ弱という短さの作品ですが、中心となる構図が明らかになった時の衝撃が素晴らしいのです。海外の有名作家のあの作品を、裏側から書いた作品だったのか……というのは、ちょっとネタバレを気にしすぎて分かりづらいですが、たった一つの発想をもとに真相が明らかになっていく解決編の興奮はかなりのものです。特に、物証の扱いが見事で、細かな矛盾を拾い上げていく手つきが面白いのです。自分の作品でも参考にしました。18節の「真っ二つに」と19節の「割れる」という章題の付け方もニヤリとさせられますし、タイトルの意味が明らかになるところにも膝を打ちます。

     と、陳舜臣の思い出に浸ったところで、新幹線は新神戸駅に到着。所要時間は約三時間。そのまま元町へ。春休みということもあってか、かなりの人出で、学生と思しき人々もたくさんいます。中華料理屋でフカヒレ麺と炒飯、天心のセットを食べる。そういえば、張國立『炒飯狙撃手』(ハーパーコリンズ・ジャパン)を読んだので、美味い炒飯も食べたかったのだった。美味い。

     ここからは、「ジャーロ」掲載の佳多山大地「〈名作ミステリーの舞台を訪ねて〉第14回」(「ジャーロ」vol.93に収録)を参考に神戸を歩いていく。商船三井ビルディングまでは、元町駅から大体歩いて十分くらい。周囲のビル群と比べるとひときわ古く、歴史を感じさせるビルで、確かに、これなら昭和八年から陶展文が店を開いていてもおかしくはない。味のある感じの建物です。元町・中華街からも少し離れているので、余計にキャラに合っているように見えるのかも。陶展文の店はこのビルの地下にあった設定ですが、今は一般客が地下に降りることは出来なさそう(地下への階段は、職員の通用口の方にしかない)。そこまで見るのは断念して、港の方へ。神戸第二地方合同庁舎は、かつて陶展文が何度も訪れた水上警察署の跡地。そこから道沿いに行けばメリケン波止場の方へ辿り着きます。陶展文が推理をするために何度も歩いたであろう道を歩きながら、何か霊感でも得られないかと期待してみるものの、メリケン波止場に立つスターバックスを見て、「あ! ここ『相席食堂』で見た!」と思った瞬間に脳内の風情は雲散霧消。この旅の一つの重要な目的である「陶展文展」を目指します。

     元町から電車に乗って灘駅へ。灘から坂道を上がって十二分ほど歩いたところに神戸文学館があります。神戸らしい赤煉瓦の雰囲気が良い建物で、入ると左手にラウンジ、右手の大部屋に展示があるという感じで、規模は小さめ。企画展「陶展文の事件簿」も、じっくりと全ての文字を読んでも三十分あれば見切れる感じでした。しかし、陳舜臣ファンとしては、内容は充実。四つの長編と六つの短編の紹介はもちろん、「三色の家」の模型や、作中で陶展文が遊んでいる「象棋(シャンチー)」の実物もあります(象棋については、HUNTER×HUNTERに出てくる「軍儀」の原型と考えられるアレといったほうが伝わるかもしれないですね)。神戸ゆかりの作家たちについての常設展もじっくりと堪能。横溝正史はいいとして、翻訳者である西田政治の訳書カーター・ディクスン『プレーグ・コートの殺人』まで展示されていたのにはびっくりしたのですが、そういえば、お二人がカーに出会ったのは、神戸に輸入される本が理由だったんですよね、確か。横溝正史を読むという手もあったなあ。主要な長編はもう読み切ってしまっていますが、再読ならいくらでも楽しめるし。好きなのは『蝶々殺人事件』『獄門島』『悪魔が来りて笛を吹く』『夜歩く』『悪霊島』で五選、という感じかなあ。

     ちなみに、陳舜臣作品についてもベストを挙げると、『炎に絵を』がダントツのマイベスト、次に『方壺園』『影は崩れた』『月をのせた海』『黒いヒマラヤ』などが続きます。『炎に絵を』なんかは、300ページにも満たない作品の中に、ミステリーに求める衝撃と、小説に求める滋味が全て入っていて、何度読んでも本当に素晴らしい。短編集では『紅蓮亭の狂女』が素晴らしい出来栄えですし、いかにも著者のお得意の歴史小説の領分っぽい『漢古印縁起』なども美術ミステリーの良作なので侮れない。いずれもオススメですし、最近ではちくま文庫で『方壺園』が復刊されたのが喜ばしいのですが、あとが続かないのがちょっと寂しい。

     夜は神戸牛焼肉とマジックバーへ。肉が美味い。肉が美味いから何を食べても美味い。脂が美味い。マジックバーなんておしゃれなところ、入ったこともないので怖かったけど、関西圏なのもあってか、お客さんの反応がテンション高めで楽しめました。マジックも近くで、しかもお客さんの反応込みで見てみると、勉強になるなあ。必要以上に酔っ払った頭で、ホテルに帰ってから、陳舜臣『虹の舞台』(徳間文庫)を開いてみる。四つの「陶展文」長編の中では十年ほど発表時期が開いているからか、謎解きミステリー度はやや低めながら、チャンドラ・ボースに関する挿話が楽しく、ボースの本を陶展文が読み耽ってしまうシーンがやけに心に残る。これも実に楽しい一冊。

     翌朝は姫路に移動し、姫路城観光を決行。神戸駅から姫路駅までの道すがらは、風見潤『ミナト神戸幽霊事件』(講談社X文庫)を読む。神戸で殺された女の人が、同じ頃、横浜の元町で目撃されていた! という謎が出てくる作品で、いわゆるアリバイトリックものですが、「ひねった時のアリバイ物の王道」みたいなオチがつくところはご愛敬か。とはいえ、サクッと読めるところも含めて、やっぱり旅のお供にはうってつけ。大事なカレとの旅行♡的なのを大事にするから、旅情的な部分も程よいしね。

     桜の季節一歩手前で、まだ桜は咲いておらず、残念。しかし城内に入り、天守閣へ至る道すがら、少しだけ咲いている桜の木を見つけて嬉しい気分になりました。肝心の天守閣は……もちろん世界遺産なので、見られたという感動や、こんなにでかい木造建築ってすげえなあという感慨もあるにはあるのですが、それ以上に、とにかく上って下りるのが大変だったという気持ちが強い。昔の階段、細くて高くない? 光をあまり取り入れない構造になっているからか、外は快晴なのに、中が薄暗かったのも階段への恐怖を掻き立てられました。いや、すごく楽しかったけれど。

     姫路城を脱出(笑)してから、城の目の前にある料理店で播磨の魚介を食べる。ウナギ科の魚であるハモのかば焼き風丼を食べたのに触発されて、姫路駅のジュンク堂に寄り、ヤーン・エクストレム『ウナギの罠』(扶桑社文庫)を現地調達。旅行の時、まさに発売した直後くらい、だったかな。東京に戻ってから買えばいいものを、読みたい気持ちになったので買ってしまいました。これは読書日記第29回で松坂健・瀬戸川猛資『二人がかりで死体をどうぞ』を取り上げた時に、松坂健が紹介していた作品として言及していたもので、「スウェーデンのカー」による幻の密室ものです(原著刊行年は1967年。なお、松坂健による紹介文は、『ウナギの罠』の「解説」として収録されています)。読んでみたいとはかねてから思っていたのですが、はてさて、どんな作品だろうと思ってみたら、ウナギをとるための罠の中で起きる密室殺人というユニークな状況設定もさることながら、「一つ一つの構成要素・原理は見たことがあるのに、全体としては見たことがない」感じの密室トリックにびっくり。人によっては苦笑の作品でしょうが、個人的には、第二の事件とのリンクを含めて技あり一本という感じでかなり楽しみました。作者のもう一つの邦訳である『誕生パーティの17人』(創元推理文庫)はもう中身を覚えていないんですが、こんなに面白い作家だったか。一つこうやって訳されてみると、もう一つ、二つぐらいは読んでみたいなあと思ってしまうのがマニアのどうしようもなさですが、さて、この夢はどうなることやら。

    (2024年4月)

第78回2024.04.12
犯罪小説への愛、物語への愛 ~スティーヴン・キングの最高到達点~

  • スティーヴン・キング『ビリー・サマーズ』、書影
    スティーヴン・キング『ビリー・サマーズ』、書影

    スティーヴン・キング
    『ビリー・サマーズ』
    (文藝春秋)

  • 〇カッパ・ツー第三期受賞者に新たな動き

     カッパ・ツー第三期に選ばれた二人のうちの一人、真門浩平さんの二作目――というよりも、「もう一つのデビュー作」が刊行されました。『ぼくらは回収しない』(東京創元社)がそれ。帯に推薦文を寄せております。「ミステリーズ!」新人賞最後の受賞作である「ルナティック・レトリーバー」を収録したノンシリーズ短編集です(「ミステリーズ!」新人賞と同じ座組や条件で、現在は「創元ミステリ短編賞」と名前を改めています)。一言でいうなら、多彩なプレゼンテーションにより作家としての技巧の幅を見せつけた作品集になっていると思います。冒頭の「街頭インタビュー」からして、テレビで放映された数十秒のインタビュー映像から、意外な真相を読み解く「日常の謎」ものになっていますが、最後まで油断のならない構成が曲者。続く「カエル殺し」では、お笑い芸人の殺人事件が描かれますが、核となる発想はなかなかユニーク。「速水士郎を追いかけて」のトリッキーさも好みかな。先んじて刊行された、カッパ・ツー第三期受賞の『バイバイ、サンタクロース 麻坂家の双子探偵』(光文社)は、ダークな剛腕といった感じの連作短編集になっていましたが、こちらは一転、爽やかでほろ苦い衣を纏わせた、達者な短編揃いで、その振れ幅に驚いてしまいます。共通するのはミステリセンスの確かさ、でしょうか。併せて楽しんでいただきたい二作品です。

     さて、カッパ・ツー第三期受賞のもう一人、信国遥さんの『あなたに聞いて貰いたい七つの殺人』も、いよいよ今月、4月下旬に光文社から刊行されます。ぜひこちらにもご注目ください。この読書日記ではタイミング的に、5月前半の日記で感想を書かせていただくと思います。

    〇自分の告知

     間に挟み込むように、一応自分の告知を。3月22日発売の「小説新潮4月号」に、〈迷探偵・夢見灯の読書会〉の第三話「モザイク岬の謎」を掲載しております。大学サークルの読書会を描いて、課題本に似た事件が夢で起こるという趣向の連作です。第一話「第三の短剣」ではカーを、第二話「そして誰にも共感出来なかった」ではクリスティーを題材とし、今回はいよいよエラリー・クイーン。『スペイン岬の謎』が課題本です。全裸死体の謎に新たなパターンを加えてみようという試みが、ヘンな形で形になった作品ですが、連作として、御三家を並べることは出来たので、ほっと一息。第四話からは趣向を変えて、国内作家にも挑んでいこうと思うのですが、はてさてどうなることやら。

    〇『ビリー・サマーズ』はマイベストキングだ!

     さあ、とにかく今回はスティーヴン・キング『ビリー・サマーズ』(文藝春秋)の話だ。もう思い切って言ってしまうが、これは「今年のマイベスト」確定だし、圧倒的に「マイベストキング」です。いわゆるホラーではなく、恐怖小説の要素はカケラもないにもかかわらず、「マイベストキング」だと言い張ってしまいたくなる強さ。だって開いた瞬間からビリーのことが好きになって、たびたび涙腺がギュッと締め付けられて、物語巧者ならではのクリフハンガーに鼻面を引き回されて、最後には声を上げて泣いたんだから。もう、今年はこれに勝る読書体験をするのは無理だよ、無理。それほどまでにこの本は愛おしくて、切なくて、そして明るい光に満ちている。

     あらすじを書きましょう。本作の主人公は、殺し屋であるビリー・サマーズ。彼は引退を決意し、「最後の仕事」を引き受けるが、収監されているターゲットを狙撃するためには、ある一瞬を狙うしかない。狙撃地点となる街に潜伏するため、エージェントたちはある筋書きを考え出した……それは、小説家だ。ビリーは小説家に扮し、街で生活を始める。時には、ご近所付き合いまで。小説家はあくまでも偽装の身分だから、小説を書く必要はない。内容について聞かれたら、事前の打ち合わせ通りのことを答えればいい。それなのに、ビリーは自分の体験を小説に書き始めてしまう……。

     序盤は信じられないほど何も起こらない。「殺し屋小説」と聞いて、派手なアクションや展開を期待して開いた読者は面食らうでしょう。しかし、このスロースタートぶりがキングだなあと思わされるところ。あとに『11/22/63』の話もしますが、近年のキングはこのどうでもよいはずの日常描写がどんどん巧くなっている気がして、ビリーがご近所付き合いの一環としてモノポリーをするシーンなど、すごく良い。序盤は、ディティールの積み上げ方の巧さをじっくりと味わいながら、キングのスローな語りにゆったりと身を預けるのが吉。そうしている間にも、エンジンはしっかり温まっているのですから。

     このディティールという部分が、また嬉しい。ビリーは、エージェントには「狙撃以外に能のない愚鈍な男」だと思われようとしているので、アメコミを読むポーズをとるのですが、実際の愛読書はカバンに忍ばせたエミール・ゾラ。この描写からしてニヤッとしてしまうのですが、肝心の小説を書く時も、パソコンが監視されている可能性を考えて、あえて下手に、暴力的な文体で記述しようとする。その書き方が……これもまた、すごく良い。ウィリアム・フォークナーの南部小説的な荒涼たる世界観を書いているし、子供の頃の体験から始まるので、粗雑な文体が妙にマッチするのです。こういう、ディティール選択の理由付けとそれによる小説上の効果が、無理なく一つ一つ読み取れるところに、ひたすら感心するばかり。

     あらすじであえて「最後の仕事」とカッコ書きしたところで、ははあ、と思った犯罪小説ファンも多いでしょう。犯罪小説の世界では、『「最後の仕事」モノ』と名付けられるような作品群があって、殺し屋や運び屋が「最後の仕事」を引き受けると、それがキッカケで最悪のトラブルに巻き込まれたりするものなのですが(最近の映画だと「ベイビー・ドライバー」などを思い出してもらえば良いかと)、ビリーが引退を決意しながら「最後の仕事」を引き受けた時に、犯罪小説ファンはニヤニヤしてしまうことでしょう。しかし、キングの意地の悪いところは、そういう視線すらメタに皮肉ってしまうところ。ビリーにあえて『「最後の仕事」モノ』というフレーズを使わせてまで、評論家の視点を先回りしてしまうという始末。このあたりは「読書家」キングの面目躍如といった感じ。

     犯罪小説とキングの取り合わせが、実は一番好きなので、キングが殺し屋を書くというだけでワクワクしてしまう自分がいます。ホラーで怪人による恐怖とそこから生き残った人々の人生を書ける(『IT』など)作家は、人がどういう時に犯罪の側へ転がっていくか、どういう偶然が人を犯罪に導いてしまうかを見つめ、あるいは、犯罪・暴力の荒涼たる酷薄さも描けるのではないかと思うのです。ここで引き合いに出すのはちょっと違うかもしれませんが、ホラー作家・貴志祐介の犯罪小説『青の炎』『兎は薄氷を駆ける』を読んだ時の感慨に似ているでしょうか。『悪の教典』は展開こそホラーに近接していますが、起こる事件や犯人に着目した構成は犯罪小説のそれといってもよさそうです。

     そういった点で、スティーヴン・キング諸作の中でかなり印象に残っていたのが『ダーク・ハーフ』です。のちに「好きなキング作品の話」で詳しく取り上げようと思っているのですが、リチャード・バックマンという別名義が明らかになった時の騒動からヒントを得た作品で、注目すべきは、作中の作家の設定。文学作家、サド・ボーモンドとして知られる作家が、別名義、ジョージ・スタークで犯罪小説を書いていた、というものなのです。まあもちろん、「表の顔」がホラーではなく文学で、しかも、「表の顔(文学)では売れていない」という点も含めて、現実と全く違うのはもちろんなのですが、「裏の顔」にあえて犯罪小説家を選び取ったところに、ニヤリとしたのです。そして、愛読者の中の一人が、「実はジョージ=サドに気付いていた」と言い出すシーンが面白い。その読者はジョージの犯罪小説の方がむしろ好きなのですが、すこぶる退屈なサド作品の中に、ひときわ光る描写があったと話す。それは、殺処分しなければいけない馬を射殺しながら、牧場主がマスターベーションをする、というシーン。そこに描かれた暴力性が、ジョージ・スタークの作品そのものだった、と語っているのです。

     肝心のシーンがお下劣なのはキングらしいところですが、この描写を読んだ時に、なんだか、ジム・トンプソンの自伝的な作品を読んだ時と同じような、奇妙な感慨に捉われたのです。「そういうこと」をしてしまう人々、暴力的な行動・犯罪に流れてしまう人々の、荒涼たる心の中を抉り出すような筆致に、うわぁ、キングってこれを書かせても巧いんだな、と実感しました。

     ビリーが綴る小説は、キングがこれまでのキャリアの中で描いてきたどれよりも素晴らしい犯罪小説たり得ています。ビリーの小説は、「これまで」の自分が、なぜ殺し屋になったのか、なぜそのような生き方を選択しようと思ったかを綴るものであると同時に、「これから」の自分が、なぜあんな行動を取ったかを、読者に悟らせる役割も果たしています(それを読者だけが気付く、という構成も愛おしい)。「作中作」を含むキング作品といえば、やはり『ミザリー』が思い起こされるところでしょう。あちらではメタフィクショナルな仕掛けを全開にして、トリッキーな密室劇の中に読者を引きずり込む役割を果たしていますが、私が思い出したのはむしろ、中編「スタンド・バイ・ミー」です。映画の方が有名な作品ですが、小説の魅力は何より、作中に登場する作家、ゴーディ・ラチャンスの習作短編を二つ読めるところです。ここではメタフィクショナルな仕掛けなどは先鋭化していませんが、書くことそのものが喜びだった頃の情動が閉じ込められているような気がして、なんだかほほえましくなってしまうのです。

     ビリー・サマーズの小説(作中作)は、作品外にいる私たちやキングにとってみれば優れた犯罪小説であると同時に、ビリー自身が自分の体験を抉り出すことによって生まれた自伝でもあります。そして、ビリーは自らの体験を小説にしていくことに、いつの間にか没頭していきます。ここの描写が、めちゃくちゃ良い。任務のためであった行動が、いつの間にか自分のための時間になり、自分を見つめ直し、描き直す行動になる。この、作品を書くものなら誰にでもあったはずの、黄金色の瞬間が閉じ込められている――それだけで、この本には読む価値がある。何よりも強い価値があるのです。

     さあ、しかし、ビリーの小説には最後のピースが足りない。それは読者です。ある一つの出会いがビリーを、思いもよらなかった結末へ導いていく……この流れまで含めて、全てが素晴らしい。いまは作中作まわりの話しかしていませんが、「外枠」にあたる殺し屋の「最後の仕事」部分のサスペンスだって、上巻の後半からギアを上げて加速していきます。こちらも鳥肌が立つほど巧い。スロースタートに見えた前半も前フリにして、完璧にして感涙の下巻へなだれ込んでいく。多くを語れず、作品の周りをうろうろするように話すしかないのが心苦しいですが、この下巻は絶対に物語読者の心を掴むでしょう。犯罪小説への愛、物語への愛が、これ以上ないほど綺麗な黄金色の輝きに結実した作品――それがこの、『ビリー・サマーズ』です。とにかく、今年はこれを読んでくれ。

    〇好きなキング作品の話 ~なんとか十作に絞って~

     さて、ちょっと先走るようにして、過去作の話も色々出しましたが……ここからは、自分の好きなキング作品の話をあれこれしていこうと思います。『シャイニング』や『IT』は、自分の原体験に刺さり過ぎていて、もはや「別格」の扱いになってしまっているので、それらを除いて選んでみます――主に、大学生の時期以降に読んだ作品群です。記憶もかなり鮮明だし、じっくり書けるラインかな、というあたりから。

    1、『死のロング・ウォーク』(扶桑社ミステリー) 1979年

     いきなり、キングの別名義であるリチャード・バックマン作品から一冊。十四歳から十六歳までの少年百人が、アメリカ・カナダの国境から出発して、ただひたすら南に歩く競技に参加させられるのですが、歩行速度が時速四マイル以下になると警告が発せられ、一時間以内に三回以上警告を受けると射殺される……という、すこぶる異常な設定で書かれた最強の青春小説。この設定がとにかく強い! のは言うまでもないのですが、番号を与えられた少年たちが繰り広げる群像劇があまりにも見事で、避けようのない死へと一人一人呑み込まれる過程にどうしようもなく引き込まれます。語り手はレイ・ギャラティに固定されているのですが、それぞれの理由でこの競技に参加した参加者たちのキャラクターや物語が、一つ一つ心に残るんですよね。生き残ったら本を書くために、一人一人にインタビューしてる奴、大好き。

     恩田陸『夜のピクニック』高見広春『バトル・ロワイヤル』に影響を与えた作品としても知られていますし、歩きながら行われる対話によって物語を駆動するテクニックは、米澤穂信『ふたりの距離の概算』、ピーター・ラヴゼイ『死の競歩』なども思わせます。スティーヴン・キング作品のマスターピースとして復刊してくれないかな。これはただのデスゲームではなくて、青春小説であり、ヒューマン・ドラマなのです。そう言うと甘っちょろい物語に聞こえるかもしれませんが、死が約束されていることもとても大事なんですよ。

    2、『ミザリー』(文春文庫) 1987年

     作家ポール・シェルダンが自動車事故で半身不随になり、元看護師のアニーに助けられる。しかし、アニーはポールの愛読者であり、病院には全く連れていってもらえず、監禁されてしまう。ポールが書いていた長編『高速自動車』を燃やし、ポールの人気シリーズであるミザリーものの新作を書かせようとする――というのがあらすじ。

     ここにきて大ベタ。50周年記念帯の時に買ったので記憶が鮮明なのです。つまり、作家になってから読んだのですが――作家だからこそ、怖いんじゃないの? と言われそうですが、とんでもない。途中まで、アニーにはイライラさせられ通しです。『高速自動車』を燃やされるくだりではこっちの方がキレそうになりました(笑)。それが恐怖に取って代わったのは、「N」の文字が欠けたタイプライターという小道具が、小説全体の中で暗喩として意味を持つことに気付いてからです。そして、第三部に入ってからは、いよいよ絶望。怖すぎる。スーパーナチュラル要素のない犯罪小説・密室劇・メタフィクションとして、ある意味最も広くミステリー好きにも薦められる作品です。

     本書と『ビリー・サマーズ』には一つの共通点があることを、キングは明かしています。『スティーヴン・キング大全』から『ビリー・サマーズ』に言及したくだりを引用すると、以下の通り。

    〝本書(注:『ビリー・サマーズ』)はまた、書くという行為を探求した作品でもある。「これまで書いた本の中には、書くことをある種の中毒性とみなす作品がある。しかし2冊だけは異なる。ひとつは『ミザリー』で、もう1冊が『ビリー・サマーズ』だ。それらの作品では、書くことが救いとなることが語られている。プロの作家でなくても、そういうことはときおりあると思う。書くことは自分自身の感情や世界線への入り口となる。だから、それはいいことなんだ」〟(『スティーヴン・キング大全』、p.216より)

    「なんてこった、キング、あなた、『ミザリー』を救いとして書いていたのか!」とハリウッド映画風に天を仰ぎたくなるような記述ですが、そう思って、一編の傑作として、それも、ポールにとっての「極めて私的な傑作」として作中で書かれた「ミザリーの新作」を振り返ってみると、その閃光のような輝きが胸に迫ってきます。自分の作品世界に縋るポールの姿も。とてつもなく怖く、感情を揺さぶられる作品ですが、ただ怖いだけではない。その多面的な魅力を、未読の人はぜひ体験してみてほしいです。

    3、『ダーク・ハーフ』(文春文庫) 1987年

     実は、『ビリー・サマーズ』が出る前は、これが私のキング偏愛作ナンバーワンでした――というのも、これは犯罪小説に関する物語であり、失われた半身を描く物語であり、飛び切り不気味なシーンが最後に現れる怪奇小説でもあるからです。

     売れない文学作家サド・ボーモンドは、犯罪小説家としての裏の顔を持っていた。その名はジョージ・スターク。サドはある日、すべてを公表し、ジョージ・スタークの名前を葬り去ることを決意する。しかし、ある殺人事件が身近に発生し、事態は急変する。ただの別名義だったはずの「ジョージ・スターク」が血肉を得て、人を殺した、というのだ……。

     スティーヴン・キング=リチャード・バックマンが明らかになった騒動に着想を得て書かれた小説で、「転んでもただでは起きない」創作姿勢には感服するしかありませんが、作中の「ジョージ・スターク」が書いた犯罪小説の概要が、とにかく面白そうなんですよねえ。「スターク」という名前から明らかな通り、ドナルド・E・ウェストレイクの別名義「リチャード・スターク」から取ったもので(ちなみに、「リチャード」・バックマンの由来も同じらしい)、著者の犯罪小説観が窺える記述も興味深いですし、そういった記述の数々から「読書家」キングの肖像が立ち上がってくるのも面白い。もちろん、話の筋も絶妙に面白い。サスペンスフルな展開も良ければ、最後に現れる、ゾッとするようなビジョンもさすが。

    『ダーク・ハーフ』にも登場する架空の地方都市「キャッスルロック」は、キングの複数の作品で出てきますが、私は「キャッスルロック」が出てくる作品が大好き。能力者ゆえの苦悩を描き、「喪失」の物語としての凄まじい強度を備えた傑作『デッド・ゾーン』、狂犬病にかかった犬に襲い掛かられる恐怖が素晴らしい『クージョ』(車の中に閉じこもるシーンの厭さときたら!)、手塩にかけて育てた街を、丁寧に丁寧に破壊していく『ニードフル・シングス』など(蜘蛛の足を嚙み千切るシーンとか、未だに忘れられないんですが……)、10選をこれで全て埋めてしまえるほど。『骨の袋』も物悲しいゴースト・ストーリーでいいですね。エモいし。

    4、”Four Past Midnight“→『ランゴリアーズ』『図書館警察』(文春文庫)の二分冊 1990年

     キング中編集の中で最も好きな作品――と、まあ、「中編」と言いましたが、文庫で300ページクラスの作品二つで一冊、分冊されてもその総ページ数は約1400ページという大容量なので、日本作品の感覚で言えば「長編が四つ読める」といった方が正しいかも(笑)。私が ”Four Past Midnight“ を勧める理由は、ここに、キングが展開する「恐怖」のパターンが総覧のように並べられているからです。

     まず冒頭「ランゴリアーズ」は、ジャンボ機の中で眠ってしまい、目を覚ましたら、11人だけを残して乗客全員が消えていた――という、有名な事件「メアリー・セレスト号事件」を遭難者の視点から覗いたような「厭な」物語。乗客たちを襲う怪異のビジュアルからしてサイコーですし、11人を群像劇のように動かし、駆動していく手さばきには、マルチ・キャラクターを得意とするキングの手腕が遺憾なく発揮されています。中編「霧」や長編『アンダー・ザ・ドーム』と同じように、「大いなる理不尽」に襲い掛かられる恐怖を描いた傑作。中核のアイディアはSFでもある。

    『ランゴリアーズ』に同時収録の「秘密の窓、秘密の庭」は、映画「シークレット・ウィンドウ」の原作。自分の作品を盗作したのではないか、と疑いをかけられる作家の心理を描いたサスペンスで、真相の意外性もなかなか。『ミザリー』や『ダーク・ハーフ』好きには堪えきれない逸品ですし、新刊『ビリー・サマーズ』にも連なる、「キングの作家小説」としても読ませる作品。

     二分冊の二冊目『図書館警察』の表題作では、不気味な図書館と、借りた本を返さないと現れる「図書館警察」の恐怖を描き、リアルな描写を積み重ねることにより、日常の中にぽっかりと開いたファンタジックで不気味なビジョンを際立たせるキングお得意の骨法が存分に発揮されています。恐怖という点では、四つの中で一番怖いかな。世界観の作り込み方も好み。

    『図書館警察』に同時収録の「サン・ドッグ」は、『ダーク・ハーフ』の項で述べた町・キャッスルロックが登場する物語。破滅編である『ニードフル・シングス』への橋渡しをする役割を果たしています。異界を写すカメラがもたらす破滅を描いた作品――なのですが、冒頭にキングが置いた献辞にある通り、「ジョン・D・マクドナルドへの追慕」として書かれた作品なのが特徴。ジョン・D・マクドナルドというのは、私立探偵の〈トラヴィス・マッギー〉シリーズなどで知られる作家で(『濃紺のさよなら』など。ちなみに私はそのシリーズではない『夜の終り』が好き)、そのジョンに捧げたためか、犯罪小説としての切れ味も素晴らしい作品になっています。

     ちなみに、『図書館警察』の巻末には翻訳者+装幀者座談会が収録されており、翻訳者の白石朗、小尾芙佐と装幀者の藤田新策の三人が収録作とキングについて語り倒しています。『IT』が優れた恋愛小説であると言及する藤田氏の指摘には首がもげるほど頷いてしまいますし、キングの各作品の繋がりなどを続々と読み解いて指摘していく白石氏の熱量に脱帽です。また、これは小尾氏も含めて、三人共通の特徴ですが、キングについて話す時、全員、微に入り細を穿って、ディティールや細かな表現の巧さを騙っているので、キング作品のディティールがいかに人を魅了するかが分かって面白い。

    5、『ドロレス・クレイボーン』(文春文庫) 1993年

     取調室でのやり取りのみで構成された、真正面のミステリー作品。「キングは女性が書けない」という批判に応えるために書かれた〈虐待される女性〉三部作の第二作(第一作は『ジェラルドのゲーム』、第三作が『ローズ・マダー』。この三部作の命名は風間賢二『スティーヴン・キング論集成 アメリカの悪夢と超現実的光景』で知ったもの。なんて命名だ)。設定の奇抜さが際立つ『ジェラルド~』、絵の中の世界というファンタジー要素も掛け合わせた『ローズ~』に比べると、本書『ドロレス~』には、派手さはなく、スーパーナチュラル要素もなく、「ないない尽くし」に思えますが、その代わり、キングの「語り」の魅力が横溢し、ミステリーとしての構築性も高い傑作になっています。

     30年前に夫を殺したと噂される女性に、新たな殺人の容疑がかかる。共に暮らし、生活の世話をしていた女性が亡くなったのだ。二つの殺人の真相は? 過去の殺人の日にあった皆既日食は、彼女の秘密を見ていた……。

     同書は「黙秘」というタイトルで映像化もされており、こちらはキング映画の中でも屈指の傑作となっています。「ミザリー」以来の主演キャシー・ベイツによる熱演も見事ですし、皆既日食と秘密のコントラストは、映像で見た方が映えているような気さえします。また、原作では問わず語りのようにドロレスが話をまくしたて、時系列を頭の中で整理するのが大変なのですが、映画は分かりやすくするため巧みに再構成されているので、「副読本」的な扱いをする場合でも大変優秀です。もちろん、原作も読んでほしい。文章を読みながら、頭の中で再生される「読者それぞれのドロレスの声・ドロレス像」にこそ、この作品の本質があるのですから。

    6、『回想のビュイック8』(新潮文庫) 2002年

     倉庫に眠る謎めいた車、ビュイック8を巡って、息子が亡き父の同僚たちをインタビューし、父の意外な過去を知っていく……という筋の物語で、車を描いたホラー『クリスティーン』のような話と思いきや、あれよあれよと意外なところに導かれる、語り部の才を味わえる佳品。名作『グリーン・マイル』を思い起こさせる要素もあり、それぞれの語りが響き合いながら、クライマックスに向かっていく下巻の展開でその印象は最高潮に。語ることで物語を駆動し、語ることで世界を変えていく。その構成にグッときました。

     ちなみに、この作品、帯裏の文言が良い。チェックボックスにはチェックがついています。

    〝本書はこんな方にお薦めです
    □『スタンド・バイ・ミー』が好き。
    □『グリーン・マイル』には感動した。
    □『アトランティスのこころ』は傑作!
    □『骨の袋』の愛の切なさに涙した。〟

     こうして挙げられているタイトルを見ると……うーん、まさに思うつぼというか。私はキングの「エモさ」が好きなのだなあと、改めて再認識させられた帯です。

    7、”Full Dark, No Stars“→『1922』、『ビッグ・ドライバー』(文春文庫)の二分冊 2010年

     原題が象徴する通り、とにかく暗く、陰鬱で、厭な後味が残る作品が集まった中短編集。特に犯罪小説×ホラーとして出色の中編「1922」が素晴らしい。息子と共に妻を殺し、古井戸に捨てる犯行シーンの書きぶりからして堂にいっていますが、なぜその罪を告白したのかが明らかになっていくパートの薄ら寒さときたら。読んだ後しばらく具合が悪くなるくらい厭な話。告白・語りによって話を駆動していく点は、『ドロレス・クレイボーン』の再演ともいえるのですが、「1922」はむしろ、虐げていた側の男性の視点から書いているからこそ、これほどの「厭」さを表現し得ているともいえます。『ジェラルドのゲーム』『ドロレス・クレイボーン』『ローズ・マダー』で、女性の視点から男性を書いたキングが、あえて男性にもう一度帰ってきた時に、これほど暴力的で、最悪の犯罪小説が産み落とされるのかと、ゾッとしてしまったのです。

     復讐譚の「ビッグ・ドライバー」、夫が殺人鬼であることを知ってしまった妻の心理描写に暗澹とする「素晴らしき結婚生活」など、どれも引き込まれます。しかし、厭な話であるということは共通している(笑)。読者は選びそうですが、どうしても挙げたかった。

    8、『11/22/63』(文春文庫) 2011年

     邦訳が2013年ということで、私が大学に入った年に日本で刊行されたキング作品。これが面白いんだよなあ。何回読んでも面白い。ケネディが暗殺される1963年11月22日にタイムスリップし、その暗殺を阻止しようとする――というあらすじだけ聞けば、陳腐そのものなのですが、移動手段をタイムトンネルとしたうえで、行ける年代を「1958年」に設定するアイディアが天才的。タイムトンネルを使えばリセットは出来るものの、1958年から5年間の人生を過去で過ごさなければならず、肉体は年を取るので、簡単にリセットボタンを押せない。ここが、便利なタイムトラベルとはまるで別なのです。

     そこで、『11/22/63』は、物語上最大のXデーである1963年のケネディ暗殺の日をよそに――1958年の世界で「日常」を生きる物語として立ち上がっていきます。ここを退屈なスローテンポと捉えるか、物語巧者の圧倒的な余裕と捉えるかで、本書の評価は百八十度変わるでしょう(事実、大学のサークルではそんな雰囲気だった気が)。私は肯定派で、円熟期の今のキングは――今回の新作『ビリー・サマーズ』も含めて――さりげない日常描写が実は一番面白いと思うのです。心に沁みるし、そんな描写の中にきっちり伏線を張り巡らせている。ラストシーンの、憎たらしいほど巧いこと! エモいこと!

     タイムトラベルそのものの物珍しさがなくなった今、「タイムトラベラーの悲哀」「割を食った人生の悲哀」というものが、胸に迫ってくるようになったというのもあります。佐々木譲『図書館の子』に収録の短編「遭難者」とか、真相の明かし方にグッとくるんですよね。オススメ。

    9、『ジョイランド』(文春文庫) 2013年

     キングの中でもミステリー度の高い一冊。というか、直球のフーダニットですからね。海辺の遊園地、ジョイランドで殺人を繰り返す殺人鬼を追う物語で、青春時代を描くエモさとミステリーの骨法がコンパクトにまとまった一作(文春文庫で360ページぐらい。キング長編の中では圧倒的に短いですね)。本国では、「Hard Case Crime」という、復刊なども積極的に行っているレーベルから出た作品で、ミステリー度が高いのも頷けます(同レーベルはマックス・アラン・コリンズやローレンス・ブロックなどを一昔前のアメリカのペーパーバックみたいな表紙で出してくれるので、かなり好きです)。最後の一行がとてもいいんですよねえ。エモい時のキングは無敵。

     ちなみに、キングは同レーベルで、第一弾に「コロラド・キッド」、第二弾が本書、第三弾が “Later” という作品で、今回の「スティーヴン・キング50周年記念ラインナップ」で、第一弾・第三弾も読めるようになるので、ありがたいことです。特に「コロラド・キッド」は、日本では新潮文庫版『ダーク・タワー』の全巻購入特典でしか手に入らず、古書店等での市場価格は数万円だったので、どうしても読めなかった。50周年、様様ですね。

    10、『アウトサイダー』(文春文庫) 2018年

     キングのミステリー作品としては、〈ビル・ホッジズ〉三部作を欠かすことは出来ない――『ミスター・メルセデス』『ファインダーズ・キーパーズ』『任務の終わり』、いずれも素晴らしく、特に『ファインダーズ・キーパーズ』がお気に入りですが、やはり三部作で読んでほしい気持ちもあります――ですが、ここはあえて外して、『アウトサイダー』を。

     キング作品の特徴として、怪異・恐怖の世界へと足を踏み込む前段としての、「現実・リアルの描写の確かさ」を重んじることが挙げられると思います。描写されている世界が、私たちの世界と全く地続きの世界であることを、描写のリアルさ、確かさが保証してくれるだけに、その後に描かれる恐怖が際立つ――自分の生きている現実を、侵犯されている気分になるからでしょう。その一手法としてここで使われているのが、警察小説の骨法なのです。警察小説としての描写がリアルを保証し、ホラーへの飛躍をも可能にする。〈ビル・ホッジズ〉三部作とはそういうものだったと思いますし、『アウトサイダー』には、そちらでは三作かけてやったことを、一作の中で実現したような面白さがあります。

     事件の発生→捜査→検証のプロセスによって、「どこからどう見てもある人物が犯人であると考えられるにもかかわらず、同時に完璧なアリバイが成立している」という奇妙な現実を徹底的に描き、それを恐怖により解体する。この手際の巧さには感心するほかありません。下巻のチェンジ・オブ・ペースが素晴らしく、ここで「ある事実」を掘り出すことによって、ミステリー的に大きなヒントが与えられると同時に、「この事件ってもしかして……」という恐怖が襲い掛かってくるところが巧み。まあ、ヘンな小説であることは間違いないですし、本格ミステリーが読みたいとか思って読むと激怒しかねないですが、エンタメ作家・キングの力量を堪能するにはうってつけの一冊でしょう。

    〇まとめ

     ということで、新刊『ビリー・サマーズ』を入り口に、ホラーにとどまらない巨匠の魅力について好き勝手に書き散らしてみました。ビビリで怖がりの人間がこれほど楽しめているのだから、海外作品やホラーへの苦手意識がある人でも、楽しめるものが見つかるはず。今では、『ミザリー』の項で取り上げた『スティーヴン・キング大全』が初心者からマニアまで嬉しいガイドブックになっていますし(各作品について、証言録や作品を取り巻く状況、映画化作品のスチルなどをまとめているのもさることながら、キャッスルロック、デリーが舞台となる作品についてまとめたり、作家が主人公になっている作品をリスト化したりと、芸が細かい)、風間賢二『スティーヴン・キング論集成』の巻末についた「スティーヴン・キング全作品(1974~2020)紹介」も大いに参考になるでしょう(なお、ビリー・サマーズの原著刊行は2021年なので、こちらの紹介はなし)。そのリストでは、キングの全作品について、怖さ、難易度、お薦め度の三つのパラメータを使ってレビューされているのです。読むべき作品が分かるのも良いですし、何より、「怖さ」「難易度」という項目の立て方が良い。私のようなビビリは段階を上げて怖さに慣れることが出来るし、海外作品に尻込みしている読者には「難易度」が大いに参考になるはず(たとえば、メタフィクショナルな趣向が立ち過ぎた『ミザリー』は、もちろんお薦め度★5ながら、難易度の採点は★5になっています。『呪われた町』も同じくお薦め度は★5ですが、難易度は★3。入り口としては、こちらのほうがいいかもしれませんね)。作家活動50周年を迎えるキングだからこそ、今から追いかける人のためのケアも充実しているのです。

     さあ、しかし、何はともあれ『ビリー・サマーズ』です。なぜなら『ビリー・サマーズ』は物語を愛する全ての人のための本なのですから。

    (2024年4月)

第77回2024.03.22
ぼくの山形紀行 ~もはやただの旅行記録~

  • 松本清張『殺人行おくのほそ道』、書影

    松本清張
    『殺人行おくのほそ道』
    (光文社文庫、上下巻)

  • 〇雑誌の話題を少しだけ

    「小説宝石」2024年3月号からは、奥田英朗の新連載エッセイ「あなたと映画と音楽と」に注目。奥田が好きな映画と音楽について語るもので、第一回のテーマは「ニューヨーク」なのですが、「フレンチ・コネクション」「タクシー・ドライバー」「ホット・ロック」など往年のクライム・フィクションの名前が続々挙がり、楽しいことこの上ない。さらに嬉しいのは、末尾に「今月のプレイリスト」と称した音楽リストと、Spotifyに飛べる二次元コードがあることだ。こういうのは楽しいし、作者が奥田英朗というのもいい。

     新潮社から砂原浩太朗『夜露がたり』が刊行されました。著者初の「江戸市井もの」ですが、これがもうとても面白い。一編30ページほどの短い小説なのに、そこに人々の生活のありようと、胸を抉られるような心理描写が息づいています。「小説新潮」掲載時から、いつも短編を楽しみに読んでいたので、まとめて読めて大喜び。「帰ってきた」「幼なじみ」など、見事なツイストが決まった作品もあり、ミステリー好きも読み逃せない作品集。「小説新潮」2024年3月号は「春の歴史時代小説特集」で、酒井順子×砂原浩太朗による「「裏ごのみ」な私たち」という対談も掲載されている。『夜露がたり』に関するもので、特に、武家ものと市井ものの書き方の違いなどは、時代小説については門外漢なので勉強になりました。やっぱりいいなぁ、砂原浩太朗。一作ごとに、しみじみと好きになっていく。

    「小説新潮」誌上においては、酒井順子による「松本清張の女たち」もついに完結。今までにあまりなかった視点から描かれる清張像が面白く、毎月楽しみに読んでいたので、ちょっと喪失感がある。読んだ時、ただ嫌な味だけが口の中に残った「黒地の絵」について、ここまで腑に落ちる取り上げ方を見たのは初めてかも。

    〇ぼくの山形紀行編

     そんな清張の話から繋がって、今月の本は松本清張『殺人行おくのほそ道』(光文社文庫、上下巻)。2月に山形に行く事情があり、山形の酒田が出てくるという本書をチョイスし、旅に出ました。まあ、結論から言うと、松尾芭蕉の「おくのほそ道」がモチーフになった作品なので、別に山形旅行の時に限ることはまったくなく(なんなら、今回の旅行はイベント合わせで行ったので、山形駅周辺からほとんど離れることはなく、酒田に行くことも出来なかった)、全国どこに旅行に行く時も、お供として読めそうな作品でした。作品冒頭に掲載された地図を見ていただければ分かる通り、東北から北陸までしっかり行くし、地図にはないが、九州旅行の描写まであります。

     この『殺人行おくのほそ道』を読んだのには、先ほど取り上げた「松本清張の女たち」も絡んでいます。当該連載の中で議論された「お嬢さま探偵」というワードがやけに印象に残っていたのです。上流階級に生きる両親の娘が、自分ならではの視点で事件に首を突っ込んでしまう、というパターンが清張には多いという趣旨の指摘でした。

     そう思って読んでみると、確かに、そもそも取っ掛かりとなる謎は、「お嬢さま」である麻佐子が叔父との旅行中、所有していた山林を叔母が売却していたことが分かるが、その時の叔父の態度が不審だった……というもので、そりゃあ「お嬢さま」の視点からしか出てこない謎である。そのせいもあってか、どこかゆったりしたような空気が全編を覆っていて、それだけに、叔父と芭蕉ゆかりの名跡を巡る序盤の描写を読んでいるだけでも旅情気分に浸れるし、調査を進めていくうちに、少しずつ、叔母を巡る怪しげな人間関係が見えてくる手つきなども、どこか海外のオールドカントリーミステリーを読んでいるような味わいがあります。なので、謎解きの要素が薄いとはいえ、好ましいし、800ページの分厚さも不思議と苦になりません。

     今回、初めて乗った東北新幹線の車窓からの景色も堪能して、山形駅に到着。目的のイベントまでは時間があるので、少し町を散策します。霞城公園内にある山形城跡を見て、山形市立郷土館を見学。前に、「ミステリーの舞台みたいな館」という情報を見かけて、ちょっと気になっていたところです(文中に他の写真を挟んで、前に画面がおかしくなったことがあるので、写真は貼らずにおきます。検索してみてください)。ということで、試しに行ってみたところ……おお、本当だ。十二角形の塔のような形状をしていて、真ん中にはでかい中庭があり、螺旋階段がある。この館は、確かにミステリーに出てきそうだし、なんなら回転するでしょう。「昔は病院だった」というおまけつき。展示も見たのですが、もはや建物の方が記憶に残ってしまっている始末。反省。

     山形市立郷土館に置かれていたラックに、藤沢周平作品の朗読会の知らせがあり、そういえば、山形に行くなら藤沢周平を持ってくるのも良かったな、と後悔しました(藤沢周平は山形にゆかりがある)。私が好きなのは『暗殺の年輪』『闇の歯車』です。と思っていたのに、八文字屋という書店に着いた頃にはすっかり忘れて、西村京太郎『つばさ111号の殺人』(講談社文庫)を購入。旅をしたら、その土地の西村作品を買うのを習慣にしようかと思っていまして。ちなみに、この作品は山形からの帰り道に読んだのですが、東北新幹線に乗った後の方がピンとくるトリックが使われていて、やっぱり旅をしながら読むのにうってつけだなぁと思いました。作者の勘所は、むしろ殺人事件全体の構図の方な気がしますが。

     霞城公園の近くに香澄堂書店という古書店を見つけ、思わず店内へ(かすみ、で掛けているのかな)。その土地の古書店で思わぬ出会いを探すのも、旅の楽しみです。すると、店内には古めのミステリーや海外文学がたくさんあり、探していた作家のノベルスがごっそりと。二十冊ぐらいあるので、これを全部買ったら大変なことになるし、帰れなくなるな……と思い、泣く泣く冊数を絞ることに。試みに、買った本のリストを載せてみると、種村直樹『長浜鉄道記念館』、岩崎正吾『探偵の夏あるいは悪魔の子守唄』『探偵の秋あるいは狸の悲劇』(いずれも創元推理文庫)、辻真先『紺碧は殺しの色』(双葉社)、野坂昭如『三味線殺人事件』(講談社ノベルス)、大谷羊太郎『御神火殺人事件』(ベストブック社)、ジェイムズ・マクヴェイン『血の臭跡』(サンリオ)、アーウィン・ショー『ザ・ニューヨーカー・セレクション』(王国社)、マウリ・サリオラ『ヘルシンキ事件』(TBS出版会/ワールド・スーパーノヴェルズ)と全九冊。『紺碧は殺しの色』は既読・既所持ですが、入手困難となってしまっている傑作なので、一応布教用に購入。『ヘルシンキ事件』は帯付美本で1500円だったので、帯のために買い、所持している帯なしの『ヘルシンキ事件』は友達にあげる予定。あとは未読です。こんな買い方をしているとあっという間に本棚に入らなくなるから、皆さんは絶対にやめましょうね。

     目的のイベントを終え、運よく入れた日本酒バーで山形の芋煮や山形牛の炭火焼を堪能し(何を食ってもうまい!)、翌朝は早々に東京に帰るも、大満足の旅となりました。帰り道の読書では、長岡弘樹『血縁』(集英社文庫)を再読。作者が山形出身であることと、好きな短編集であるためにセレクト。「文字盤」のように、人の視線の動きに着目した推理の鮮やかさが映える作品もありますし(読んだ人は気付かれるかもしれませんが、『星詠師の記憶』の謎作りをする際に参照した作品です)、「オンブタイ」のように、かなりトリッキーな趣向が盛り込まれた作品まであって、本格ミステリーマニアにも強く薦められるノンシリーズ短編集になっています。

     そんなわけで、旅行感の少ない紀行編をお送りしました。この原稿が出る頃には、また次の旅に出て帰ってきているの、なんかペースがおかしい気がする。

    (2024年3月)

第76回2024.03.08
作家たちの忘れ物 ~芦辺拓、新たなる偉業~

  • 芦辺拓・江戸川乱歩『乱歩殺人事件 ―「悪霊」ふたたび』、書影

    芦辺拓・江戸川乱歩
    『乱歩殺人事件
    ―「悪霊」ふたたび』
    (KADOKAWA)

  • 〇またやってくれたぞ、芦辺拓!

     KADOKAWAから芦辺拓・江戸川乱歩『乱歩殺人事件 ―「悪霊」ふたたび』が刊行されました。恥ずかしながら、江戸川乱歩に「悪霊」という中絶作があるのは知っていたものの、テキストにあたったことはなく、どんな作品なのかも知らなかったので、今回初めて触れたことを最初に述べておきます。というのも、芦辺拓が「合作者の片割れによるあとがき」で述べている通り、「犯人が誰かはミステリファンの常識となるぐらい知れわたっているのに、それ以外のことはほぼ何もわからない」(同作、p.205)というのが、『乱歩殺人事件』が書かれる前の状況だったようなのですが、私はその「犯人が誰か」についても、全く知らないまま読むことが出来たからです。だから多分、すれっからしのマニアの人よりも、驚きのポイントが一つ多い、幸運な状態で読むことが出来ました。

    「ミステリファンの常識になっている」とまで言われたような状況を知るためには、例えば光文社文庫の江戸川乱歩全集第8巻『目羅博士の不思議な犯罪』に収められた、新保博久の解説を読むのが手っ取り早い。そこには、江戸川乱歩と横溝正史の「悪霊」をめぐる関係や、正史が犯人にまつわるキモの部分を乱歩から聞いており、それを都筑道夫との対談で明かしたことなどがまとめられています。そのうえで、当該人物が犯人だったとすると……という検討までさらりと書かれているという至れり尽くせり。とはいえ、この犯人に対するキモの部分は、それを聞いてしまうと、一切の驚きが損なわれるようなものなので、何も知らないのであれば、この解説を読むのは後回しにするのをオススメします。私は今回『乱歩殺人事件』を読むにあたり、「さすがに原文にいったんあたっておかないと」と思い、『目羅博士の不思議な犯罪』に収録された「悪霊」を読み、解説を一旦置いておき、すぐに『乱歩殺人事件』を手に取ったので、またまた運よく、ネタバレを免れたというわけ。

     とはいえ、『乱歩殺人事件』はそれ単体で楽しめるよう、見事に設計されています。私が言った「原文にあたっておかないと」みたいな心配も無用で、乱歩が書いた「悪霊」は全文がそのまま掲載されています(作中に、連載版の形式に揃えて掲載された「悪霊」の第三回までが乱歩で、最終回にあたる第四回は芦辺の手によるもの)。原文にあたっておくメリットを強いてあげれば、『乱歩殺人事件』に掲載された「悪霊」は総ルビかつ黒っぽい紙に印字されており、目が疲れるので、いったん白い紙で読めるのがありがたかったことくらいでしょうか。しかし、その程度のものです。

    『乱歩殺人事件』では、奇しくもネタバレされてしまった真犯人にまつわる趣向だけでなく、土蔵の密室殺人、現場に残された不可解な記号の謎、謎めいた形をした血痕など、種々の謎が丁寧に解かれています。その手つきだけでも、パスティーシュ・贋作をお手の物とする作者の面目躍如といったところですが、この作品がさらにすごいのは、「乱歩が「悪霊」を中絶した理由」にまで踏み込んでいくところ。そのため、連載「悪霊」の全三回分と、芦辺の書いた第四回は作中作になっており、作品の額縁部分では、乱歩が連載をしていた当時の時代が描かれます。一種のメタミステリーとして、「悪霊」が蘇っているのです。不可解な記号の謎をも絡め、さながら『孤島の鬼』の頃の乱歩のようなどこか耽美でねっとりとした企みの中に、作品全体がからめとられていくところは、妙な酩酊感もあり、絶妙の味わいです。

     全体が202ページに及ぶ中、乱歩のテキストは64ページ、残りの136ページは芦辺拓が書いたということになるので、6割以上を芦辺拓が補完したという形になります。今回の読書日記では、こうした「未完の作品」を他の作家が完結させた例を色々と探っていくのですが、やっぱり、「問題編」にあたる未完作品のテキストが長ければ長いほど、構想のヒントが多くなり、「解決編」の見通しが立ちやすくなるという特徴があると思います(『復員殺人事件』のように、むしろ解けない謎を抱え込む例もあるわけですが)。乱歩の「悪霊」を完成させようと思った時に、頭が痛いのは、テキスト全体が短いわりに構成要素が多く、しかも、その要素がどういう全体像をなすのか分からないという点です。おまけに、最も大きなパズルのピースであるはずの「犯人」が外部事情で明かされてしまっている。考えれば考えるほど、「悪霊」を一つの作品として完成させつつ、作品の成立事情の謎まで解こうとするという剛腕ぶりには頭が下がります。

     乱歩執筆部分の「悪霊」を含めて、わずか200ページほどの薄い体の中に、みちみちに筋肉が詰まったパワフルな快作になっています。「悪霊」のことが分からない、読んだことがない、という人でも大丈夫。ここに、「常識とされる」犯人を一切知らないまま、最高に楽しんでしまった人間がいます。芦辺拓の新たなる偉業、ぜひ見届けましょう。

     ちなみに、電子版では電子版特典として「芦辺拓+江戸川乱歩特別対談 ~「悪霊」の九十年ぶり完結を記念して~」という対談が収録されています。法月綸太郎の評論本などでみかける「架空対談」というやつですね。思わずクスッと笑わされてしまいました。

    〇せっかくなので、「未完の作品」を読み潰し ~国内編~

     さて『乱歩殺人事件』に大いに触発され、せっかくなので、本棚にある「書き継がれた」「未完の作品」を読んでしまおうと思い立ちました。やはり、その作家自身に強い興味や思い入れがあって、全部読破するくらいの勢いでないと、「未完作品」にまで手を出そうと思わないので、幾つも宿題が残っているのです。既読の中で印象に残っているのは、やはり、北森鴻の絶筆を公私にわたるパートナーであり自身も作家である浅野里沙子が書き継いだ『邪馬台』(新潮文庫)です。残された構想ノートをもとに完成させたもので、作中に登場する古文書の解読方法はメモがほとんどなかったようなのですが……そんな経緯が信じられないほどハイレベルに謎が解かれることに感動しました。〈蓮丈那智〉シリーズ、のみならず、北森作品全体の中でも最重要作とさえ思える完成度・充実度を誇る『邪馬台』を、完成させてくれたことに、とにかく感謝しかありません。

     そんなわけで未読作を本棚から探して、読んでいくのですが……ここで参考になるのが、前回も紹介した探偵小説研究会編『妄想アンソロジー式ミステリガイド』(書肆侃侃房)です(同作は第24回本格ミステリ大賞評論・研究部門にもノミネートされています)。こちらに収録された横井司「墓場へ持ちこまれた謎を解く」では、ミステリー作家が未完のまま終わらせたものの、他の作家が書き継いで完成させた例が幾つも紹介されているのです。このリストを参照しながら、未読を潰していきました。なお、作者名については「原作者&完成者」というような表記で統一しようと思います。

     まずは「悪霊」つながりで、小栗虫太郎&笹沢左保「悪霊」。こちらは扶桑社文庫〈昭和ミステリ秘宝〉版の小栗虫太郎『二十世紀鉄仮面』で読むことが出来ます。小栗虫太郎が長編として構想していた「悪霊」には、構想の一端を示すメモ書きがあり、そちらは海野十三の「遺作「悪霊」について」という文章の中でまとめられています(こちらも『二十世紀鉄仮面』に収録)。笹沢による解決編は、さすがに文体の点で虫太郎の迫力はないものの、読みやすい文章で、虫太郎らしく「顔のない死体」を二重に捻ったトリッキーなプロットと、戦争を通じて描かれる人物たちの悲喜劇を味わうことが出来るので、これはこれで面白く読めました。

     山村美紗&西村京太郎『在原業平殺人事件』(中公文庫)は、山村が一九九六年に急逝した際、途中で終わってしまった連載を、西村が書き継いだもの。同様の経緯で成立したものに、『龍野武者行列殺人事件』(ジョイ・ノベルス)がありますが、古書店で見つからなかったのでそのうち読むことにしました(Kindle版はあります)。『在原業平~』は全十二章の構成で、第九章までが山村の手によるものであり、第十章からは西村にバトンタッチしますが、第十章の冒頭には「未だに、明子には、今回の事件の性格が、はっきりしないのだ」という文章があり、そこから事件の整理が始まります。まるで、故人の遺した謎に挑む、西村の声がそのまま聞こえてくるかのようなパートです。実にスリリング。愛憎劇や在原業平についての学説まで広げた風呂敷を、手際よく畳んでみせています。

     続いて天藤真&草野唯雄『日曜日は殺しの日』(カドカワ・ノベルス)。こちらは、天藤真による同題の中編「日曜日は殺しの日」について(この中編は創元推理文庫『背が高くて東大出』などで読むことが出来ます)、天藤自身が長編化する構想があり、原稿も半分ほど出来ていたものの、作者逝去により完成が叶わなかったもの。天藤の遺言により、その親友である草野が作品の完成を請け負った、という経緯です。冒頭で示される「交換同時殺人」というハッタリの効いたアイディアが魅力的なサスペンスとなっています。日曜日に妻が病気になり、「近在の医師は全部休診、救急車をたのめばどんな医師に当るかわからず、不安と焦燥で一日を過ごした」(『背が高くて東大出』、p.267)天藤自身の暗い体験から生まれた作品であるだけに、シリアスな筆致になっているというのは、カドカワ・ノベルス「あとがき」における草野の言。それには違いないのですが、中編版には、解決編直前に刑事たちが事件にまつわる「三つの疑問」を傍点付きで挙げる場面があり、見逃していたポイントを掬い上げるその手つきには、パズラー作家らしい折り目正しさが感じられます(長編版にも同様の指摘はありますが、粒立てて強調はされず)。出来れば草野による長編完成版だけでなく、中編版も読み比べてほしい一作です。

     国内編の最後に坂口安吾&高木彬光『復員殺人事件』(高木彬光の続篇のタイトルは『樹のごときもの歩く』)。こちらは再読。色んな判型で手に入りますが、今一番手に入りやすいのは、2019年に刊行された河出文庫版でしょう。安吾の傑作『不連続殺人事件』でも活躍した巨勢博士が登場する本格編であり、堂々たる本格ミステリーの興奮を味わうことが出来ますが、新たな死体が登場した瞬間に安吾の作品が終わってしまい、なんとも寂しい気持ちになります。高木彬光による解決編は、一応ドラマの面では納得のいくもので、作者らしいケレン味は効いていて、神津恭介ものの水準作を読んだぐらいの満足感はあります。そういう意味で、個人的には大きな不満のある作品ではなかったのですが、高木彬光自身は「あとがき」で述べている通り、忸怩たる思いがあったよう。高木は安吾の逝去後、その妻に会って、彼女が聞いていた範囲の「構想」について四箇条のリストをまとめていますが、そのうちの一つについては「無理を通せば何とかならないことはないとしても、私の力では書きこなせそうにもなかった」と述懐しています。つまり、ある意味でこの「完結篇」は未完成だったといえるのです。

     今回私が『復員殺人事件』を再読したのは、とある事情で読み返したくなっており、タイミングをうかがっていたからでした。その事情というのが、「ジャーロ」誌上で連載している新保博久と法月綸太郎の両氏による往復書簡「死体置場で待ち合わせ」です。この二人による『復員殺人事件』の謎解きが、往復書簡内で試みられているのです。ジャーロNo.89に掲載の第7回に収録の第二十一信(新保→法月への手紙、二〇二三年六月十二日)からNo.91に掲載の第9回に収録の第二十七信(新保→法月への手紙、二〇二三年十月九日)まで、『復員殺人事件』の解決について論じていて、約四カ月の間、色んなアプローチでその真相に迫っています。『復員殺人事件』を再読してから読むと、とても楽しい往復書簡で、ぜひとも『復員殺人事件』と併読してほしい。ちなみに、ジャーロは小説の冒頭試し読みと評論の全文が読める「ジャーロDASH」というものを電子で無料販売しており、「死体置場で待ち合わせ」は、この「DASH」でも読めます。ちなみに、この往復書簡は現状の最新号であるNo.92で、ようやく「多重解決」にテーマを移しましたが、その俎上にあがったのはロナルド・A・ノックスの『陸橋殺人事件』。激渋ですね。この往復書簡もまた、奇妙な「合作」ということで、今回の特集に挙げておきたかった次第。

    〇「未完の作品」潰し 海外編

     お次は海外編、なのですが、他の仕事もしながらだったので、あまりテキストは手に入らず、読めたのは二作品のみでした。『エイプリル・ロビン殺人事件』も本棚から見つからない始末。どうなっているんだ、我が家は。「墓場へ持ち込まれた謎を解く」に挙げられている、コーネル・ウールリッチの遺作を戸川昌子が書き継いだ「負け犬」とかも、すごく興味があったのですが、二月中には古書店で見つけられませんでした。悔しい!

     まず読んだのはレイモンド・チャンドラー&ロバート・B・パーカー『プードル・スプリングス物語』(ハヤカワ文庫)。レイモンド・チャンドラーの手が入っているのは冒頭の四章のみで、あとはそれを素材にロバート・B・バーカーが膨らませたという経緯。『長いお別れ』で出会ったリンダ・ローリングと結婚して、プードル・スプリングスの豪邸に移り住むことになったフィリップ・マーロウを描写する最初の四章だけで、何か不思議な気分になってしまう作品なのですが、続く五章で依頼人が登場し、いつも通りのハードボイルドに。解説の権田萬治が「会話に知的な閃きが乏しい」とバッサリ切り捨てているのには、そこまで言わないであげてよ、と苦笑してしまうのだけれど、私があんまり気にならないのは、やっぱり根本的にチャンドラーのマニアじゃないからなのかな。

     コーネル・ウールリッチ&ローレンス・ブロック『夜の闇の中へ』(ハヤカワ・ミステリ文庫。私の手元にあるのは早川書房の「ミステリアス・プレス」版)は、コーネル・ウールリッチのタイプ原稿をもとに、欠落した箇所をローレンス・ブロックが補ったもの。併録されたフランシス・M・ネヴィンズJr. の解説に、元原稿の欠落箇所が丁寧に書いてありますが、ざっくり言うと、全体が300ページほどあるうち冒頭20ページと終盤3ページが欠落していて(ページ数はミステリアス・プレス版、つまり邦訳に準拠)、あとは中盤にぱらぱらと合わせて約20ページ分の欠落があったようです。要するに、ほとんどがウールリッチの作品、というわけです。この点を捉えて、訳者の稲葉明雄は、「ローレンス・ブロック=補綴」というクレジットの仕方をしています。

     拳銃自殺しようとしていた時に、誤って撃ち殺してしまった女性に執着し、やがて彼女のための復讐劇に身を投じていくという昏い情熱に満ちたプロットは、まさしくウールリッチそのもので、会話劇も「ならでは」のものを楽しむことが出来ます。誤って女性を撃ち殺し、その存在に執着していく過程を描いた冒頭20ページなどは、ウールリッチならもっと饒舌に、読者がのめり込んでしまうように(ついでに、めちゃくちゃ長く)書いたでしょうし、結末が甘すぎるというフランシス・M・ネヴィンズJr,の指摘も頷けますが、総じてウールリッチ作品として楽しめる一作。

     ではローレンス・ブロックの功績は少ないかといえば、そうではない、と言っておきたい。解説において、結末が甘すぎるといったフランシスは、タイプ原稿の消し忘れに、奇妙な記述があるのを発見し、それがウールリッチの勘違いではないとしたら、こういうダークなエンドが想像出来る、という趣旨のことを述べています(ネタバレになるので、圧縮して書いています)。しかし、ローレンス・ブロックはそちらの結末は採らず、やや御都合主義的すぎたとしても、主要登場人物二人が互いの罪を赦し合い、手を取り合うような、優しいラストを択び取ったのです。この選択を、ひとまず私はウールリッチという作家への愛と捉えたいですし、消し忘れたタイプ原稿という形で、ハッピーエンドの裏面に張り付くバッドエンドの陰を想像することは、それはそれでゾクゾクするではありませんか。

     そんなわけで、結論らしい結論もないまま、「未完の作品」読み潰し回を終わろうと思います。まあ、実作者として一つ気を付けることがあるとすれば、後世にこういう宿題を残さないように、精一杯仕事を終わらせて、少しでも長く生きることでしょうか。

    (2024年3月)

第75回2024.02.23
この罪だけは見逃せない ~ルー・バーニーの小説世界~

  • ルー・バーニー『7月のダークライド』、書影

    ルー・バーニー
    『7月のダークライド』
    (ハーパーコリンズ・ジャパン)

  • 〇告知関連

     2月15日に『黄土館の殺人』(講談社タイガ)が刊行されました。〈館四重奏〉の第三作にあたり、第一作が山火事、第二作が洪水をテーマにしておりましたが、今回は地震をテーマにしております。作品成立の経緯等につきましては、作品のあとがきにも詳しいことを書いておりますので、そちらを参照していただければと思います。3年も空いてしまって、すみません。

     2月25日に発売される「野性時代」において、連載「バーニング・ダンサー」が完結しました。特殊な能力を使える「コトダマ遣い」という存在がいる世界観で、警察小説のパロディーめいたことをやらせてもらった作品です。自分にとって初の長編連載ということもあり、悩むことも多かったですし、反省も多々ありますが、まずは走り切れて安心しています。単行本作業はこれから。

     ホッとしたのも束の間、2月27日に発売される「小説幻冬」において、次の長編連載「ルーカスのいうとおり」がスタートします。こちらは一応ホラー×本格ミステリーという触れ込みでプロットを書き、幻冬舎の担当さんに提出したものですが、どうなることやらといったところです。モチーフは映画「チャイルド・プレイ」美内すずえの漫画「人形の墓」など……というと、どんな話か想像がつきますね。こちらも頑張って走っていこうと思います。

     と、告知関係が溜まってしまい、駆け足での紹介になりました。諸々、何卒よろしくお願いいたします。

    〇評論本のトピック

     ここで少しだけ、評論本の話題に寄り道。大矢愽子『ミステリの女王の名作入門講座 クリスティを読む!』(東京創元社)は、クリスティの入門に最適の一冊。どのあたりがうってつけかといえば、作品の話や、クリスティを語るためのワード(「見立て」「回想の殺人」などのベタなミステリー用語から、海外もの読み始めの頃は私も知らなかった「メイヘム・パーヴァ」という言葉まで)を解説してくれるのはもちろん、作家の周辺情報も丁寧に拾ってくれるため。『スタイルズ荘の殺人』の図面に関する指摘などは、思ってもみなかったもので、思わず「おっ」と唸らされたりもします。

     白眉は「第5章 読者をいかにミスリードするか」で、ここではネタバレ解説を解禁し、クリスティのノンシリーズ作品『シタフォードの謎』『殺人は容易だ』の二作についてその「騙しのテクニック」を繙いています。霜月蒼による『アガサ・クリスティー完全攻略[決定版]』(ハヤカワ・ミステリ文庫)においては、五つ星を満点とした評価がついているのですが、『シタフォードの謎』『殺人は容易だ』は二作とも星三つ。霜月によれば「読んで損なし」のラインです(星二つになると「クリスティーが好きならば問題なし」と、ちょっと濁した言い方です)。『シタフォードの謎』や『殺人は容易だ』も、他の作家に比べれば一段、二段よく出来たウェルメイドな作品ですが、ハイクオリティなクリスティの作品群からするとアベレージな出来と評されるのも頷けます。ところが、その「アベレージな出来」の作品ですら、これほど堂々とした「騙しのテクニック」が盛り込まれているのです(ちなみに、私が解説を書き、その伏線をネタバレ解説で拾ってみた『雲をつかむ死[新装版]』も、霜月の評価では星三つでした)。傑作でなくても、評論の俎上に載せればこれだけの成果が見つかる。クリスティという作家の底知れなさを感じると同時に、そのテクニックを解説する著者の明朗な文体に胸がすくようです。

     評論本の話題に、もう一つ寄り道。探偵小説研究会編の『妄想アンソロジー式ミステリガイド』(書肆侃侃房)は、「ジャーロ」誌上に掲載されていた企画の書籍化。小鷹信光「続パパイラスの舟」のように、架空のアンソロジーを組み上げ、収録作品の内容や「編集意図」を語っていくという趣旨の企画で、それぞれの作品への偏愛ぶりやミステリーを読む視点の「角度」が窺われて、面白い内容でした。短編によるアンソロジーを構成したもの(巽昌章「死のカードあわせ――可動式アンソロジーのすすめ」や円堂都司昭「ベスト本格ミステリ21世紀」など)から、全〇巻の長編全集のような内容(千街晶之「戦争ミステリ傑作選」や諸岡卓真「『そして誰も』系ミステリの世界」など)まで、盛りだくさんの内容で楽しめます。法月綸太郎「パリンプセストの舟――メタハードボイルド全集(第一期)」は、元ネタ(元ネタ?)である小鷹信光を意識したようなタイトルでありながら、そこでは拾い切れなかったハードボイルド観を丁寧に拾っているアンソロジーですし、佳多山大地「鉄道ミステリー選集(二巻本)」や荒岸来穂「「陰謀論的想像力」とミステリ」のように、後の仕事のプロトタイプのような企画を読むことも出来ます(佳多山はこの後、双葉文庫から鉄道ミステリアンソロジーを三冊刊行し、作品セレクトは大部分が重なっていますし、荒岸は現在「ミステリマガジン」誌上において「陰謀論的探偵小説論」を連載しています)

     とはいえ、内容は全て妄想で、手に入らないので、見果てぬアンソロジーへの夢が膨らみ、実際に読んでみたくなるのも仕方のないところ。ということで、今私は、末國善己「歴史時代小説作家ミステリ傑作選【戦後篇】」に挙がった作品を探して読むことにしています。どういう作品が挙がっているかは、実際に読んでいただくしかないのですが、目次だけ引用してみます。

    〝第一巻『山本周五郎集』
    第二巻『柴田錬三郎集』
    第三巻『司馬遼太郎集』
    第四巻『平岩弓枝集』
    第五巻『ポスト隆慶一郎の時代集』
    第六巻『宇江佐真理とその後の作品集』
    第七巻『文庫書き下ろし傑作選』
    第八巻『酒見賢一・佐藤賢一集』
    第九巻『青山文平・岡田秀文・幡大介集』
    第一〇巻『二〇一〇年代デビュー新鋭集』〟(『妄想アンソロジー式ミステリガイド』、p.136)

     このうち、私は一巻・二巻・四巻は元々好きで読了済、第九巻・第十巻も時代小説に興味を持った頃以降の作品群なので読了済ということで、第五巻~第八巻がごっそり抜けてしまっている状況だったのです(ちなみに、第三巻の司馬遼太郎は、元々好きなのでかなり読んでいるのですが、選ばれたのが『豚に薔薇』『古寺炎上』なので読めていない! 二つとも古書価が高騰していて、まだ手に入れていないのです……)。つまり、既読の巻のラインナップから「あっ、絶対に自分が好きなやつだぞ」と確信できたのが大きく、今はこのガイドを指針に本を集めているところです(そうじゃなくても、創元推理文庫の選集が面白すぎて、アンソロジストとしての末國には信頼しかないですが……横溝正史『名月一夜狂言 人形佐七捕物帳ミステリ傑作選』〈創元推理文庫〉も素晴らしかった。この系列で特に好きなのは、笹沢佐保『流れ舟は帰らず 木枯し紋次郎ミステリ傑作選』柴田錬三郎『花嫁首 眠狂四郎ミステリ傑作選』〈いずれも創元推理文庫〉)。

     ひとまず一冊読んでみたのは、第六巻『宇江佐真理とその後の作品集』の中の一冊、澤田瞳子『与楽の飯 東大寺造仏所炊屋私記』(光文社文庫)。うわぁ、これは面白い! 奈良時代が舞台、東大寺の大仏造営事業がテーマというところで、お堅い作品なのかと思いきや、大仏造営という大事業に振り回される人間たちの悲喜こもごもと人間模様を、お食事ミステリーの形で(!?)紡ぎあげる、絶妙な時代ミステリー作品でした。大事業の中で、名前は残らないけれど偉大なことをした人々……という主題は、現代でも重なる気がしますし、一編一編がどうにも心に残るんですよね。一編目「山を削りて」で、主人公が「ある心理」に困惑する瞬間にもう心を掴まれましたし、二編目「与楽の飯」も巧すぎる。主人公が一旦探偵役を疑う流れが巧い。私のお気に入りは五編目「巨仏の涙」。幕切れの余韻に浸ってしまう。

     いやいや、先月の『本格ミステリ・エターナル300』(行舟文化)や『ミステリ・ライブラリ・インヴェスティゲーション 戦後翻訳ミステリ叢書探訪』(東京創元社)に引き続き、また面白い遊びを見つけてしまったという気分です。読む本が増えて大変だぁ……。

    〇ルー・バーニーが面白い!

     ルー・バーニーってどんな作家? と聞かれると、非常に答えるのが難しい。会話劇が魅力的な犯罪小説家だし、軽妙さの中でも熱を放つ文章が魅力的な人でもあります。

     女性キャラクターの魅力も素晴らしい。2014年に『ガットショット・ストレート』(イースト・プレス)が邦訳刊行された時、私が心掴まれたのは、ジーナという女性キャラが最高だったからですし、『11月に去りし者』(ハーパーコリンズ・ジャパン)のシャーロットの造形も素晴らしく、目を離すことが出来ませんでした。そうした、キャラクター描写の巧さにも、惹かれています。『11月に去りし者』は、追う者/追われる者の二つの視点に加えて、ごく普通の主婦であるシャーロットが配置され、この三つの視点を切り替えながら進む小説なのですが、どのキャラクターも絶妙に惹かれる造形なので、ページをめくる手が止まらなかったことを覚えています。ケネディ大統領暗殺について「あること」を知っているために追われることになるフランクももちろん、殺し屋であるポールの徹底的なまでの非情さにもシビれました。

     展開は型破りで、定型を知り尽くしているがゆえに、一切先が読めない。そうした驚きも、魅力の一つです。『ガットショット・ストレート』はギャング小説かと思いきや、〇〇を巡る秘宝の物語に姿を変えますし、『11月に去りし者』も視点人物三人のもつれ合いは予想を超えます。ケネディ大統領暗殺という史実の使い方も絶妙です。

     推せるポイントはこのように幾つも浮かびますが、「どういう作家」か一口で言おうとすると、悩んでしまいます。『ガットショット・ストレート』の杉江松恋による帯文や、『11月に去りし者』の加賀山卓朗による訳者あとがきでは、エルモア・レナードカール・ハイアセンといった先人の名前が挙がっています。私はどちらも、二、三作読んだだけでピンと来ず、数は読んでいないのですが、そのせいでルー・バーニーという存在がとてつもなく新鮮に感じられるのでしょうか。それも含めて、ルー・バーニーは私の中で、ずっと大きな宿題であり続けているような気がします。この作家を咀嚼しきるには、自分の中の何かがまだ足りていない、という感覚でしょうか。

     ただ、一つだけ確実に言えるのは、どの作品も圧倒的なまでに面白いということです。

     ルー・バーニーの新作『7月のダークライド』(ハーパーコリンズ・ジャパン)は、過去邦訳の二作とはまた違った世界を見せてくれる作品です。あらすじはこんな感じ。主人公である23歳の青年、ハードリーはある日、幼い姉弟の足首や襟元に、煙草の火傷跡があるのを発見してしまう。すぐさま母親が出てきて二人を急き立て、連れていってしまうが、ハードリーは彼らを見捨てることが出来なかった。当局に虐待を通報したり、ケースワーカーに事情を訴えたりもするが、助けてはもらえなかった。ハードリーは素人探偵まがいの調査を開始し、姉弟の父親のドス黒い裏の顔を探っていく……。

     後ろ盾がない弱い立場である主人公が、自分の生い立ちが理由で子供たちに執着し、調査行を繰り広げるプロットは、まさにハードボイルドのそれです(いわゆるタフガイではまったくありませんが)。ところが、バーニー独特の熱が籠もった文章や、圧倒的なカタストロフィになだれ込んでいく終盤の味わいは、徹底的なまでにノワールのそれ。この指摘さえ上滑りしていると感じてしまうほど、バーニーの作品世界はどうにも分類不能で、ただ圧倒的に面白い。どうしてこんなに執着してしまうんだろう、という疑問こそ湧いてくるのですが、使命感に突き動かされて、孤独な戦いを挑んでいくハードリーの姿はどうしようもなく感動的で、ページをめくる手が止まらないのです。

    〝ぼくが人生で有意義なことをしたのは、これが初めてなんです。ぼくが有意義になったのは、人生で初めてです。ぼくはいま、なりたかった人間になってる。(後略)」(同書、p.300)

     このセリフの、なんと熱く、爽やかなこと! こうした胸を打つセリフや、主人公が何をも持たない、等身大の青年であるがゆえに抱く懊悩――もう見て見ぬふりをするべきじゃないかとか、命の危険を冒してまでやるべきことなのかとか――が、この作品を見事な青春小説に高めています。

     目の前にいる女性を助けたい。その主題自体は、『ガットショット・ストレート』のジーナや、『11月に去りし者』のシャーロット相手に向けられた感情と同じものかもしれません。しかし、ジーナは助けられるようなタマではなかったし(ほんと、びっくりさせられるようなシーンばかりなのだ!)、シャーロットの夫も、酒浸りではあるけれども、今回の父親ほどの「ヤバさ」は感じさせません。『7月のダークライド』は、主題としてはこれまでのバーニー作品と重なりながらも、最も切実で、のっぴきならない事態を描いていると言えます。だからこそ展開から目を離せない。

     しかし、かと思えば、この主人公は事件が縁でエレノアという女性と出会い、恋に落ち、溺れたりする。こういうあたりの匙加減もアンバランスな気がします。社会的な主題を書いているようで、徹底的にこの小説は「ハードリー」という男の個人的なものでしかない。虐待に対する怒りも、恋人との性愛も、全て同列に描かれる。だからこそ訪れるラストシーンの鮮烈さには息を呑みます。

     もちろん、バーニー作品の例に漏れず、今回の展開も予想がつきません。終盤の展開を読み切れる人はいないんじゃないでしょうか。S・A・コスビーの『黒き荒野の果て』を読んだ時も、「犯罪小説への愛情がほとばしりすぎるあまり、全てを放り込んだうえで、崩落寸前でまとめあげた」という印象を持ったのですが、『7月のダークライド』を読んだ時の、最初の感情をなんとか言語化してみると、「ハードボイルドのプロットとノワールの熱の中で引き裂かれそうになるギリギリのところで作品が着地した」という感じ。うまく言えているかどうかは分からないのですが、そんな風に、破綻寸前の熱に満ち溢れた作品が私は好きなのだと思います。

     ハッキリ言うと、『11月に去りし者』の方が構築性・完成度が高いと思うのですが(ちなみにこちらの作品のラストシーンも震えるほど素晴らしい)、全編にみなぎる熱量と面白さ、そしてラストシーンのカタストロフ感では、やはり『7月のダークライド』に軍配が上がるという感じです。歪ではあるけれども、圧倒的に面白い。そんな小説だと思いました。

    (2024年2月)

第74回2024.02.09
歩き、踏みしめる確かな道 ~私の愛する土屋隆夫~

  • 土屋隆夫『推理小説作法 増補新版』、書影

    土屋隆夫
    『推理小説作法
    増補新版』
    (中公文庫)

  • 〇ポプラ社で新シリーズ、はじめます

     1月25日発行の「季刊asta」において、新シリーズを始めます。連作のタイトルは「失恋名探偵」。高校生の瀧花林と幣原隆一郎のコンビが謎に挑む連作ミステリーになっていますが、趣向としては、「この隆一郎という男が惚れた相手は全員犯人」というもので、TVドラマの「キミ犯人じゃないよね?」「うぬぼれ刑事」、ドラマ化もされた『婚活刑事』シリーズなどをモチーフに、これを名探偵の世界に持ち込もうとしたものです。花林は隆一郎の特異体質に気付き、高性能レーダーとして利用しているという設定。第一話「ライターは知っていた」では、学校で起きた殺人事件の謎に挑みます。「季刊asta」は、年四回、1・4・7・10月に発行予定なので、テンポよくいきたいですね。

     本当は「失恋探偵」という語感を最初に思いついた後、これって、何かあったな……と記憶を探ったら、岬鷺宮『失恋探偵ももせ』(電撃文庫、全三巻)なる傑作を思い出しました。ちょうど、私が大学生の頃の作品。懐かしい。こちらは「失恋の真相を探る」という設定のライトノベルシリーズであるため、もちろん趣向は違うのですが。

    〇土屋隆夫の創作指南

     1月の新刊案内を見ていた時、うわぁ、と声が出ました。土屋隆夫『推理小説作法 増補新版』(中公文庫)の文字を見つけたからです。うわぁ、と言ってしまったのは、本書は大学生時分からの私の宿題で、いつか通読しないといけないと思っていたため。

     というのも、この『推理小説作法』、創元ライブラリ版で所持しているのですが(その版は……今は手元にありません。書斎の膨大な山の中に埋もれていることでしょう)、大学時代に読んだ時は、一旦読むのをやめてしまったのです。というのも、「第四章 創作メモの活用」の部分が理由。土屋隆夫が書いた創作メモを示し、そのメモからこんな作品を書いた、というのを延々と示していくパートなのですが、ここで短編も含めて大量の作品のネタバレが行われているため、「あっ、こりゃあ色々読んでから戻ってくるべきだぞ」と思ったからです。『危険な童話』は高校生の時に読んだので、凶器消失トリックのネタバレは喰らわずに済みましたが、核心に触れているメモが載っているんですよね。

     あれから十年近く経って、幸い、全長編+創元推理文庫の「土屋隆夫推理小説集成」に収録された短編集+αくらいは読んだので、まあ、今回はいよいよ気にせずに読んでいいだろうと思い、手に取りました。そのうえで言えることは……ネタバレは、そんなに気にしなくて良さそうでしたよ、ということです。

     というのも、土屋隆夫の長編では、トリックがたった一つということはなく、複数のトリックが有機的に組み合わされて、それが水平的に解かれていくからです。この「水平的」というイメージは、確か、「土屋隆夫推理小説集成4 妻に捧げる犯罪/盲目の鴉」(創元推理文庫)に収録された麻耶雄嵩の土屋隆夫論「間断なき対決」で頭に植え付けられたものだと思います。麻耶の論の冒頭では、『盲目の鴉』既読者なら「ああ」と思わず声が漏れるような、しかし、未読者なら全くその意味には気付けないほど些細な伏線がポンと引用され、その伏線の佇まいを語っています。未読者がもしこの論から先に読んでしまっても、『盲目の鴉』の魅力が損なわれることはないでしょう。それは土屋隆夫の推理小説においては、一つの重要な鎖の輪ですが、言ってしまえば、一つの輪に過ぎないからです。

     だから、『推理小説作法』も同じように楽しめると思います。むしろここでは、作家がどのように日常生活からヒントを得て、メモを残し、それを実作にあてはめていくか、という実践のありようを観察するのがおすすめです。でも短編は一つネタが分かるだけで致命的じゃないの、と思う方もいるでしょう。ですが、きっと大丈夫。ここで読んだ短編の一ネタくらい、実際に作品にあたる時には忘れてしまっていると思います。それほど、土屋隆夫のメモは短いものなのです(解説の円居挽は、「あなたが新しい土屋隆夫になってみるのはどうだろうか?」と投げかけていますが、そのためのヒントになるのもこの第四章かもしれません。なぜなら、土屋隆夫が結局作品に使用しなかったメモまで引用されているからです。言語学にまつわるそのメモを読んで思い出したのは柄刀一『サタンの僧院』(原書房)なので、ハードルは高いかもしれない)。

     土屋隆夫の推理小説観を知るのにうってつけの一冊ですが、中でも白眉は「第七章 実作篇「三幕の喜劇」」。短編「三幕の喜劇」を素材として用い、どのようにこの短編の着想を得て、書いていったかを明かしていくパートです。第68回で取り上げた『都筑道夫の小説指南 増補完全版』(中央公論新社)でも、都筑の短編「風見鶏」の改稿過程を示したパートに興奮したことを示しましたが、やはりこうした実作込みの解説パートの味わいは無類です。なお、この第七章では、三幕ものの短編小説であるこの作品を分割し、間に解説を挿入するという形をとっているため、順番に通読しようとすると、頭に入りにくい。そこで、まずは「三幕の喜劇」だけを通読し、頭に戻って再度、第一幕→その解説→第二幕→その解説→……と読んでいったのですが、こちらの方がより味わえた気がしました。とりあえず、老婆心ながらのオススメということで。

    〇土屋隆夫の話 ~オススメ作品など~

     2020年から連載しているこの読書日記ですが、土屋隆夫の話をしたことはまだありません。第24回で、好きな昭和ミステリー作家として名前を挙げたくらい、でしょうか。まあ、それもそのはずで、作者は2011年に逝去していますし、新装版の刊行や復刊などもなかなかなく、言及する機会がなかったからです(正確には、2019年に行われた講談社の「発掘ミステリー」という企画で『影の告発』が復刊されています。この時、仁木悦子『猫は知っていた』泡坂妻夫『花火と銃声』などと共に書店に並んでいて、ウキウキしたのを覚えていますが、まだ読書日記の開始前でした)。正直に言って、最近言及している人も少ないと感じます。唯一強く覚えているのは、澤村伊智でしょうか。

     ここでちょっと寄り道すると、澤村は2019年に発表した『予言の島』(KADOKAWA→角川ホラー文庫)を、「白上矢太郎へ」という献辞で結んでおり、これは土屋隆夫『天狗の面』に登場した探偵役(作中では弁護士)の名前です。土俗の息づく島が舞台の『予言の島』では、登場人物の一人が「まさに三津田、まさに京極、まさに横溝獄門島」という露悪的なセリフを吐いており、土俗ホラーやそれを利用したミステリーをもてはやすマニア心理の気持ち悪さを抉っているように思えます。つまり『予言の島』という作品自体が、ミステリーの歴史を斜めに見るようなメタ性を有しているのですが、『天狗の面』もまた、似たような一面を持つ作品です。そこで早くもイジられているのは、「横溝正史的」なミステリーの骨格と登場人物たち。その感覚を明晰な言葉で語っているのが、『土屋隆夫推理小説集成1 天狗の面/天国は遠すぎる』における、飛鳥部勝則の土屋隆夫論「エロティックな船出」で、この論では『天狗の面』作中における「なつかしき人々」という言葉の引用が絶妙でした。土屋隆夫の時代で既に、横溝的な構造が「なつかしき」ものであることを抉ったセリフだったと思います。そこを捉えたうえで、作品そのものを「白上矢太郎へ」捧げてしまう澤村もさるものです。

     閑話休題。解説の円居挽は、学生だった2000年頃の推理研内での土屋作品の捉えられ方を振り返って、「鮎川作品のようないわゆる本格ミステリを好む会員からの評価は高かったが、熱心な読者が生まれるほどではなかった」(『推理小説作法 増補新版』解説、p.316)と述べていますが、私が学生だった2013年頃はもっとひどい状況で、そもそも新刊で手に入る土屋隆夫作品はなく、古本屋を巡って探すしかありませんでした。そんな中でもどうにか探して長編全作を読んだのは、2000年代前半に、光文社の新装版文庫や東京創元社の「土屋隆夫推理小説集成」が刊行されて、読むべき作品の交通整理が済んでいたからですし、何より、『針の誘い』が面白いと差し出してくれた先輩がいたからでした。だから、私が土屋隆夫を好きだというのは、世代的なものではなく、個人的な体験でしかありません。会内の同期に読んでいる会員はおらず、全日本大学ミステリ連合に出向いて、ようやく、土屋隆夫の話が出来る同期を見つけた記憶があります。

     なんでこんな経緯にもかかわらず、土屋隆夫が好きなのか……トリックの一つ一つは時にチープなことも多く、そのトリックを瓦解させるロジックの切れ味も、同種の本格ミステリーとしてなら鮎川哲也の方が学ぶことが多い気がする(『死のある風景』の〇〇とか、『黒い白鳥』の△△とか。どっちもたまたま二文字ですね)。それなのに、どうしてか、読んでみるとどうしようもなく面白い。誤解を恐れずに言うならば、私が土屋作品に惹きつけられるのは、作品世界のどこかヘンないびつさと、にもかかわらず、現実の足場を踏み固めていく足取りが堅実であるところなのです。

     この「ヘンな歪さ」について語るには、恐らく、私が土屋隆夫に大いにハマるキッカケになった『妻に捧げる犯罪』という作品の話をするのが良いでしょう。交通事故で男性機能を失い、妻に裏切られ、挙句にその妻に愛人と共に死なれてしまったという悲しい過去を持つ男が、イタズラ電話を夜ごとの楽しみにしている……というのが発端の作品です。既に、この設定がヘンではないですか。それも、イタズラ電話をかけて、その家の妻との不倫をほのめかしてみたり、小さい子供が電話に出ても、母親との情事を示唆するメモを書き取らせたり、といったどうしようもなさです。これを「夜の童話メルヘン」と彼は呼んでみせます。思わず苦笑してしまうのですが(このあたりの、「昭和」感のある描写が多いのも、人に薦めづらい理由です)、ある電話が状況を一変させます。この男、電話番号を記憶に留めると、「夜の童話」が損なわれるので、暗闇の中で、でたらめに番号を回すのですが、そうして適当にかけた電話が、殺人現場に繋がってしまうのです。共犯者と思しき男を現場で待っていた女性は、主人公からの電話を取り、謎めいたワードや、殺人を示唆するフレーズを発しますが、番号が分からないので、殺害現場すら不明なのです(この頃の電話には、まだリダイヤル機能がありません)。その内容に興味を持った主人公は、電話の会話の内容(わずか4ページほど!)を分析して、被害者も、殺害現場も不明なこの事件を推理によって解き明かそうとするのです。

     後半こそサスペンス風味の展開になだれこんでいくとはいえ、この設定のスリリングなこと! そして、会話の内容から少しずつ推理の輪を狭め、その現場へと一歩一歩足を進めていく過程は、やはり本格推理そのものなのです。その高揚と共に思わず忘れてしまうのです――「あれ、そういえば設定、ものすごくヘンじゃなかったか?」ということを。この頃には、「夜の童話」という言葉も素晴らしく感じられてきます。主人公が全てを喪った人物であることも、終盤のサスペンスに向けて効いてきます。ことここにいたって、「どうしてこんなにも歪なバランスで、全てが成り立っているんだろう」というところに、大いに惹かれてしまったのでした。とはいえ、これが凄まじくヘンな読み方であることは否定できないところ。だから『妻に捧げる犯罪』を最初の土屋隆夫体験にすることは、絶対にオススメしません。

     じゃあ、何がいいのということになると、一つの答えとして『針の誘い』を挙げておきます。誘拐事件を主軸に大小のトリックを見事に掛け合わせた作品で、300ページの間、常に緊迫感に満ちた逸品です。動機の着想も素晴らしい。もし、『妻に捧げる犯罪』の変態性に惹かれる場合は、推理作家が女性に監禁されるというシチュエーションの『ミレイの囚人』を薦めておきます。創元推理文庫の「土屋隆夫推理小説集成」の六巻にも収録されていますが、この六巻の挿画は飛鳥部勝則が担当しています。ちなみに、先に引き合いに出した飛鳥部の論「エロティックな船出」は、エロティックな描写に耽溺する作者の姿を強調したもので、これまでに読んだどの土屋に対する論よりもしっくりきました。これだけのために、創元推理文庫の集成の一巻を探して買った方がいいレベルです。ミステリーという枠だけでは捉えきれない土屋の姿を、飛鳥部は「エロティック」な描写からひもときましたが、私は同じようなところに「歪さ」を感じているから、しっくりきたのかもしれません(なお、土屋隆夫論としては、『土屋隆夫推理小説集成2 危険な童話/影の告発』に収録された巽昌章「肉体の報復」も出色です。これも、このためだけに2巻を買う価値があるレベル。しかし、土屋論そのものよりも、横溝正史『本陣殺人事件』に対する読み解きの方に痺れた記憶が強いです)。

    『妻に捧げる犯罪』から顕著に感じられた歪さは、例えば、週刊文春ミステリーベスト10において第一位を獲得した『不安な産声』という傑作にもあります。四部構成からなるこの長編は、第一部、第二部が犯人から探偵役である千草検事にあてた手紙になっており、第三部に至って千草検事がようやく登場。謎めいた強姦殺人と、容疑者が主張するアリバイの謎に挑む、という構成になっています。こうした構成自体は、倒叙ミステリーを読み慣れた読者にとっては珍しいものではなく、書簡体形式を採用するという手法も今となってはよくある型の一つになっている気がしますが、私が「歪」だと思っているのは、この手紙の内容。もちろん、『不安な産声』の最大の主題である動機の謎に深く絡んでくるから……なのですが、人工授精に対する議論と描写の量がえげつないんですよね。医大教授である犯人がラジオに呼ばれ、そこで人工授精について話をする箇所とかは、さすがの上手さを感じさせるのに、人工授精が絡んだ殺人事件の事例を書いたパートは、「ここまでやらなくても」と思わされるような生臭く、陰湿な描写に満ちています。男性のセリフが厭すぎるんですよね。しかし、その事例紹介そのものが、書簡体形式による、どことなくロマンチックで感傷的な文体に挟まれているので、なんだか酷く歪に思える。こんな手紙を書くこの犯人は、一体どんな奴なんだろうと思わされてしまう。

     それでも、現実を踏みしめる足並みは確かなのです。土屋隆夫作品を読んでいると、「歩く」という描写の上手さに惹かれます。

    〝そして、私はまた歩き出していました。あてもなく、行き先も定めず、私はただ歩きつづけました。どこまでも、地の果てまでも、私は歩いて行きたかったのです。(中略)
     私は殺人に向かって歩いていました。あなたは、事件に向かって歩いていたのでした。〝(『不安な産声 新装版』〈光文社文庫〉p.246-247、第二部より。犯人から探偵役である千草検事に宛てた手紙の一節)

    〝私は検事さんの足ですよ。これも、酒席で彼がよく口にすることばだった。検事の足であることを誇りにしている男、野本利三郎。
     現代の事件が複雑化し、捜査に科学や機械の力を借りるようになっても、犯罪の真相を見抜くのは人間の目であり、犯人に近よっていくのは、生きた人間の足であった。着実に大地を踏みしめて行く、動く人間の足であった。〟(『不安な産声 新装版』〈光文社文庫〉』p.307、第三部より)

    〝久野は歩き出した。心がおどった。足どりが早くなった。いつか走り出していた。オーバーの裾が、膝にまつわりついた。
     若松町の、信濃演芸館の前まで引き返したとき、息をハアハアさせていた。彼は、自分が、ゴールの前に立ったことを、ハッキリと知った。勝利の充足感で、心がふくらんでいた。〟(『天国は遠すぎる 新装版』〈光文社文庫〉p.181)

     よく「詩情」とか「ロマンチシズム」という言葉が土屋隆夫の解説やあらすじには書いてありますが、個人的には、そうした「詩情」を求める作風と、あくまでも泥臭く現実を描く堅実な足並みがもたらす生臭さとの間で鳴る軋みのような音に、どことなく惹かれているのだと思います。だから、「未来の土屋隆夫」にどうやったらなれるのかということは、全然分からない。同時代的な事柄に広くアンテナを張り巡らせ、メモを残し、そこから作品を紡ぐことによって、少しは肉薄出来るのでしょうか。

     今引用した『天国は遠すぎる』もまた、一個の自殺事件と一個の失踪事件の謎を、たゆまぬ推理によって一枚ずつ解きほぐしていく、推理の名品ですし、千草検事シリーズ(『影の告発』『赤の組曲』『針の誘い』『盲目の鴉』『不安な産声』)はどれも一定の水準を保った佳品揃いです。長編は全部で十四作という寡作ぶりですが、一作ハマれば、どれもある程度の水準は超えてくるという安心感もあります。短編集なら『粋理学入門』『九十九点の犯罪 ―あなたも探偵士になれる』がオススメでしょうか。

     とまあ、こんな風に長々と語ってきましたが、実は、この作家を愛するのはたった一つの理由によるのです。それは、『天国は遠すぎる』という長編第二作に寄せられた、作者による「初刊本あとがき」です。「―わが子へ―」という副題がついたこの文章の名調子に、私は惚れこんでしまい、以来、この作家を追いかけることを決めたのでした。最後にそれを引用し、この回を締めくくろうと思います。円居挽の言う通り、『推理小説作法』が、「未来の土屋隆夫」になるための足掛かりの一つになり得るのだとしたら、ここで呼びかけられている「わが子」という言葉の響きを、後進世代である自分への問いかけとして受け取ることも出来るのではないでしょうか?

    〝(……)推理小説が文学たり得るか否かについては、多くの議論がある。あるものは、謎の提出とその論理的解明のみが、この小説の使命であると称し、あるものは、それを児戯に類するとして、謎を生み出す人間心理の必然性をこそ、まず考えるべきであると主張する。
     トリックか。人間か。議論の高潮する所、一方は文学精神を無益なものとして排し、他方は文学を尊重するのあまり、謎の面白さを捨て去ろうとする。
     わが子よ。
     私は不遜にも、この両者の全き合一を求めて歩み出したのだ。常に、私の机辺を離れない江戸川乱歩先生の「随筆・探偵小説」の中にある「一人の芭蕉」と題する一文が、私の歩みを決定したといってもよい。
     もとより、私に、芭蕉の才を認めたからではない。ただ、その道が、先生の言われるように、至難であり、永遠の夢であるが故に、私の心を誘うのだ。(中略)
     わが子よ。
     お前達が大きくなった日に、私の歩んだ道の嶮しさを、理解してくれるだろうか。〟(『天国は遠すぎる 新装版』〈光文社文庫〉、p.450-451)

    (2024年2月)

第73回2024.01.26
評論を読もう! ~後半戦・海外ミステリー叢書の海に溺れる~

  • 川出正樹『ミステリ・ライブラリ・インヴェスティゲーション 戦後翻訳ミステリ叢書探訪』、書影

    川出正樹
    『ミステリ・ライブラリ・イン
    ヴェスティゲーション 戦後
    翻訳ミステリ叢書探訪』
    (東京創元社)

  • 〇アガサ・クリスティー評論本が目白押し

     なぜだか、2023年はアガサ・クリスティー関連の評論本が目白押し。7月にはサリー・クライン『アフター・アガサ・クリスティー 犯罪小説を書き継ぐ女性作家たち』(左右社)が邦訳刊行、12月だけでも、ルーシー・ワースリー『アガサ・クリスティー とらえどころのないミステリの女王』(原書房)、カーラ・ヴァレンタイン『殺人は容易ではない アガサ・クリスティーの法科学』(化学同人)の二冊が登場。どれも特徴が違うので色とりどり楽しめます。

    『アフター・アガサ・クリスティー~』はクリスティー以後の100年、犯罪小説を書き継いできた女性小説家に対するインタビューから、この100年の歩みを振り返ろうとする本ですが、一人一人にじっくり聞くというよりは、共通のトピックに対する複数の小説家の反応を切り貼りしていくという構成で、目当ての作家の情報を探すのはなかなか大変。とはいえ、いつか重要な情報を拾いに帰ってくることになりそうな気がする、何かオーラのある本です。

    『アガサ・クリスティー とらえどころのないミステリの女王』は、クリスティーの伝記ですが、今まであまり目を向けられてこなかった、「望まれた顔を演じてしまう一人の女性」アガサという肖像を紡ぎ、その本当の顔に迫ろうとする一作になっています。かなりスリリングな大部で、読み応えは抜群。二作目の作品の刊行を巡り、当時の一般的な見方として「家計を助けるために書いていた」という像を押し付けられてきたクリスティーについてまず描写したうえで、当時の手紙から「せっせと働きたがっていた」クリスティーの姿を描出するところなど、胸がすくようです。

    『殺人は容易ではない~』は、今まであまりなかった「マニア本」で、アガサ・クリスティーが法科学にも高い関心を持って、それに精通し、作品の中に取り入れてきたことを淡々と語る一冊。情報密度が他の二冊とはまるで別で、法科学の勉強本としても楽しめる本です。今は刑事ドラマでも当たり前と化している、「鑑識キットを持ち歩く探偵・捜査員」の描写を初めて行ったのがクリスティーであり(『スタイルズ荘の怪事件』のポアロ)、現実にも先駆けていたというくだりには驚き。こういうレベルの、普段は注目しない細部を延々と拾っていく作業がまるで鑑識作業のようで、楽しめる一冊です。

    〇『ミステリ・ライブラリ・インヴェスティゲーション』が面白い!

     昨年末に川出正樹『ミステリ・ライブラリ・インヴェスティゲーション 戦後翻訳ミステリ叢書探訪』(東京創元社)が刊行されました。以前から楽しみにしていた本なので、届くなり夢中になって読んでしまいました。「叢書」という宇宙に分け入っていくことで、戦後の翻訳ミステリーの受容史を辿るという一冊で、「クライム・クラブ」や「フランス長編ミステリー傑作選」など、なかなか全部集めるのは難しい叢書を辿ってくれるのはもちろん、「ゴマノベルス」や「イフ・ノベルス」など、なんだか手を出しにくくて出してこなかった叢書まで、とにかく概括的・徹底的に紹介してくれるのが面白い。翻訳ミステリーの紹介者や編纂者にもスポットライトを当てることで、「受容史」を繙いていくところが「プロフェッショナル」でも観ているかのようでユニーク。叢書について語ることは、本について語ることであると同時に、人について語ることでもある。この二面性を同時に捉えているところが、本書を類書のない、唯一無二の傑作にまで高めているといえます。道先案内人の川出正樹の語り口も、どこか胸に沁み込んでいくような名調子です。

     中でも白眉といえるのは、【世界秘密文庫】編。およそ聞いたことのない「世界秘密文庫」という叢書に対するレビューがなされるだけでも衝撃的なのですが、その内容たるや、昭和の作品ならではのグレーゾーン感満載で、抄訳だったり濡れ場ありの改変があったり原作者名のクレジットもなかったりといった無法地帯ぶり。もはや真面目に考える気さえなくしそうな叢書なのに、その特徴に着目したうえで、一作一作について、原作を突き止め、どこを改変したかを明らかにしていく過程が、まるで一編の探偵小説を読んでいるかのよう。叢書名探偵・川出ですら二作の宿題が残るという驚異の叢書。怖いもの見たさで探したくなってきました。

     ちなみに本書の冒頭には、紹介された叢書の背表紙がカラーページでずらっと並んでいます。すごい光景です。このカラーページは、「まえがきにかえて」の冒頭に書かれた「色」のイメージに繋がるもので、著者の原体験に読者を接続するための重要な役割を果たしていますが、古本者としては「背表紙」の情報が得られるのがこの上なく嬉しい。なぜなら、古書店で探すのは本棚にずらっと並んだ「背表紙」なので、この叢書の、狙っている巻の色が何かを覚えておくだけでも、本棚の視認性が格段に上昇するからです(案外、馬鹿にならないんですから! 好きな作家が講談社文庫では何色で光文社文庫では何色かを覚えておくようなもの。どこかでそういうクイズ大会開かれないかな)。そんなところまで含めて、何度も読み返したくなるような名著です。古本巡りをする時は、いつもカバンに忍ばせています。

     さて、本書の最も素晴らしいところは、その叢書や作者の作品を「読みたい」と思わせる紹介の妙。『ミステリ・ライブラリ・インヴェスティゲーション』に紹介されていた本を古書店で買い集め、12月後半に15冊読むことが出来たので、その中から、特におすすめの作品を紹介していきます。本を読みたくなるのは、良い本である証拠なのです。

    〇紹介された本を読んでいこう!

    ・『クライム・クラブ』から

     こちらからはカトリーヌ・アルレー『わらの女』(創元推理文庫)を読みました。2019年刊行の新訳版です。恥ずかしながら初読で、理由は、中学生の時に旧訳で読んで挫折して以来、再挑戦の機会を持たなかったから。今回は新訳版で読んだのですが……これはまた、なんとも面白い。ヒルデガルトが大富豪から出された「良縁求む」の新聞広告を見つけ、面接に赴き、そこで思わぬ計画を持ち掛けられる冒頭から、とあるアクシデントが起きて坂道を転げ落ち始める中盤、そしてやるせない終盤と、まさに巻を措く能わずといった面白さ。サスペンスとしては、当の大富豪の視点に切り替わり、彼の目から秘書の人物描写がされたところでニヤリとしました。人間関係が立体的に立ち上がってくるんですよね。そう思うと、秘書パートの記述なども実に堂々としていて、惚れ惚れとするようです。

    『ミステリ・ライブラリ~』では川出正樹オススメのアルレー作品が幾つか挙げられているので、それを参考に読み潰していくことに。カトリーヌ・アルレー『理想的な容疑者』(創元推理文庫)は、口論の果てにミシェルの妻が車から姿を消し、翌日、車で轢かれ顔の判別もつかない女性が死体で発見される……というあらすじで、主人公であるミシェルは一夜にして「理想的な容疑者」になってしまうのです。彼には一切心当たりがないのに、全ての状況証拠は彼が犯人だと示している……というあたりのシチュエーションや、ミシェル自身のやや露悪的な振る舞いはギリアン・フリン『ゴーン・ガール』の先取りを見るかのよう。中盤の意想外な展開も含め、読み逃すには惜しい一作だと思いました。

    ・『イフ・ノベルス』から

     こちらの叢書からはジョン・ブューアル『暴走族殺人事件』(イフ・ノベルス/番町書房)を読みました。というのも、以前からオススメされていたものなので、これを機に読まなければと思ったのです。主人公であるグラントが車に家族を乗せて高速道路を走っていると、三人組の暴走族に襲撃され、妻と娘を殺された……という悲しい事件から始まる本作は、平凡な幸せを踏みにじられた男が、復讐を決意するノワール……と進めばまだ爽快さがあるのかもしれませんが、ストレートには向かわないところがキモ。システムの中でしか人を救えない警察や、証拠がなければ助けてくれない裁判。作者はグラントを巡る現実をシビアに描きながら、とんでもないところまでグラントを追い込んでいきます。この過程が実に物悲しい。裁判後の衝撃の展開から、実に奇妙な味わいの「共同生活」が描かれるくだりは本書屈指の面白さ。寂しい風が心に吹き抜けるような読み心地がたまらない、犯罪小説の逸品でした。

    ・『ゴマノベルス』から

     ノベルスより背が高く、単行本よりも寸詰まっている不格好な「ゴマノベルス」。存在こそ知っていましたが、『ミステリ・ライブラリ~』を読むとちょっと持っていたくなるような叢書に。ゴマノベルスの四作は全て改題して創元推理文庫に収められているので、たとえばディーン・クーンツの『もう一つの最終レース』は創元推理文庫の『逃切』でもう読んでいるんですけどね。そんなわけで、今回は未読のものを選ぼうと、スティーヴ・ニックマイヤー『殺し屋はサルトルが好き』(ゴマノベルス/ごま書房・『ストレート』と改題して創元推理文庫)を購入。サルトルが好きな殺し屋とその相棒を、私立探偵コンビが追いかける私立探偵小説ですが、もうこの「サルトルが好き」をはじめとして、私立探偵の相棒も「女好きなのにいざ付き合うとストレスで胃が痛くなる色男」とか、めちゃくちゃヘンな奴らが揃っていて、このオフビートで笑える味わいが、フランク・グルーバーやら伊坂幸太郎やらを連想させて楽しい限り。私立探偵としての観察力を見せつける冒頭の「つかみ」もバッチリ決まっているし、真犯人指摘もかっこいいしね。ゴマノベルスには片岡義男の推薦文が載っていて、その名調子も楽しい限り。引用して終わりにします。

    〝本書は型破りなミステリーだ。サルトル、ニーチェを愛読し、チャイコフスキーに耳を傾けるという殺し屋から、ギャンブルに目のない私立探偵、暇さえあればテレビの修理に余念のない町長、はては密室の鍵をあけてのける黒猫まで、登場人物のだれ一人(一匹?)をとっても、型にはまった連中はいない。
    (中略)スコッチでもブランデーでもない、バーボンを飲みながら楽しむにうってつけのミステリーである。〟

    ・『フランスミステリー傑作選』から

     読売新聞社から発売の「フランスミステリー傑作選」からは、フレデリック・ダール『蝮のような女』(フランスミステリー傑作選/読売新聞社)を。ダールは心理サスペンス的なフランスミステリーの中でも、その心理描写の巧みさと、結末の衝撃度でお気に入りの作家なのですが(最近邦訳された『夜のエレベーター』も良いし、入手困難だけど『絶体絶命』がとにかく素晴らしい。どこか復刊してくれないものか)、『蝮のような女』でもその本領は発揮されています。車の中でたった一夜を共にした女性を追いかけて、ある姉妹に出会った男。あの夜を共にした女性はどちらなのか? 美しい謎に彩られた心理サスペンスは、最後の最後、唖然とするような容赦のない結末を迎えます。

     同叢書からはジョルジュ・シムノン『メグレと死体刑事』(フランスミステリー傑作選/読売新聞社)も読了。これも実に良い。中期メグレの傑作でしょう。田舎町で事件の捜査を依頼され、警察官としての後ろ盾がない状態で事件に挑まなければいけなくなる……という田舎ミステリー×メグレの読み味もさることながら、メグレが「死体刑事」というあだ名をもつ同僚の動きに着目するのがポイント。独特の存在感を持つこの「死体刑事」は、一体何を企んで、メグレの周りをうろつくのか? その謎が開けた瞬間、メグレは自分が何をするべきか決断する。驚いたのは、当時の帯文にほとんど全てのネタバレが書いてあること。これはひどい。今なら古本で探すでしょうから、帯まで揃っていることは稀かもしれませんが、どこかで新訳して出してくれないものか。

    ・『シリーズ 百年の物語』から
     瀬戸川猛資による同叢書からはデイヴィス・グラップ『狩人の夜』(創元推理文庫)を。こちらも名作ですが、恥ずかしながら未読だったものです。サイコスリラーの祖ともいえる作品です。左手に「H・A・T・E」(憎悪)、右手に「L・O・V・E」(愛)の刺青を掘った伝道師が、死刑囚が遺した財宝を巡って少年を追いかけて来る……というのが大体の筋ですが、この刺青の設定を見て、「ONE PIECE」のトラファルガー・ローじゃんと思ってしまいました(ローの右手の指には親指から順に一本ずつ「D・E・A・T・H」の刺青がある)し、左手と右手の闘争という独特の世界観による説話を何度も繰り返す辺りは、まるで「ジョジョの奇妙な冒険」の登場人物のよう。そのあたりの描写が視覚的・音声的に立ち上がってきて、怖がるよりもむしろ面白がってしまったというのが正直なところ。少年の視点から描かれているのも瑞々しく、今読んでもなお楽しい名作です。

    (2024年1月)

第72回2024.01.12
評論を読もう! ~前半戦・本格ミステリーの最前線~

  • 探偵小説研究会・編『本格ミステリ・エターナル300』、書影

    探偵小説研究会・編『本格
    ミステリ・エターナル300』
    (行舟文化)

  • 〇カッパ・ツー第三期が来たぞ!

     光文社の新人発掘プロジェクト「カッパ・ツー」から第三期作品が登場です。私が第一期としてデビューしたプロジェクトですね。第三期はお二人入選されているのですが、第一の刺客として放たれたのは、真門浩平『バイバイ、サンタクロース 麻坂家の双子探偵』(光文社)。12月に刊行された作品ですが、まさにクリスマスにうってつけの赤い表紙が目印。小学生の双子探偵を主人公にした連作短編集で、名探偵コナンも真っ青のロジック推理合戦をほぼ全編にわたって繰り広げる贅沢な作風です(コナンよりは、麻耶雄嵩『神様ゲーム』の鈴木君が推理を捏ねているという超然とした感じ……といったほうが近いですかね?)。二人の推理や人間に対するスタンスの違いから、解決が分岐する構成も見どころ。マイベストは「黒い密室」でしょうか。密室トリックに対するアプローチのひねくれ方が好み。子供の世界ならではの駆け引きが描かれる「誰が金魚を殺したのか」もユニークです。

     作者は東京創元社の「ミステリーズ!」新人賞を「ルナティック・レトリーバー」で受賞しており、東京創元社からはそちらを収録した短編集も出る見込みとのこと。こちらの受賞作も、人間心理の陥穽をついた逆転の発想が見所の作品で、単話でKindle販売もされているので、ぜひ注目してほしいところ。また、カッパ・ツー第三期ではもう一作、信国敦子『あなたに聞いて貰いたい七つの殺人』(入選時タイトル)も入選しているので、こちらについての続報も心待ちにしております。

    〇『本格ミステリ・エターナル300』の話

     2023年の末に探偵小説研究会・編『本格ミステリ・エターナル300』(行舟文化)が刊行されました。探偵小説研究会が刊行してきたガイド本シリーズで、『本格ミステリ・クロニクル300』(2002年刊行、原書房)、『本格ミステリ・ディケイド300』(2012年刊行、原書房)に続くシリーズ第三弾ということになるようです。一冊につき十数年の区切りを設け、その各年について本格ミステリーの注目作を丁寧に挙げ、ガイド本として紹介してくれるこのシリーズは、高校生・大学生の頃の私にとってかなりありがたい本でした。一作一作読み潰していくためのガイドとして有効に使っていたのです。遂にその第三弾が出て、しかも自分の作品が三つ(『名探偵は嘘をつかない』『透明人間は密室に潜む』『蒼海館の殺人』)も取り上げられているのですから、感無量というもの。

     映像作品、コミック、ゲームに関するコラムも充実していて、今回も非常に読み応えがあります。とはいえ、高校・大学の頃と違い、ガイド本に頼らなくても色々読むようになったので、かなり既読作が多かった印象。ということで、せっかくなので何冊読んでいるか数えてみました。すると……取り上げられていた300作品中、読んでいたのは242作品。8割は読めていますが、58作品は未読という計算になります。こういうのがガイド本の楽しみですね。

     せっかくなので読み潰そうと思い、12月前半に18冊を読んだのですが、今日はせっかくなので、その中からおすすめの作品を5作品選んで簡単に紹介します。

    〇おすすめ作品

    ・麻見和史『虚空の糸 警視庁殺人分析班』(講談社文庫)

     まずは人気警察小説シリーズから一作。刊行点数が多く、どこから読めばいいか二の足を踏んでいたので、こういう形で読めるのはありがたい。『虚空の糸』では、都民一千万人を人質に取り、一日一人ずつ殺していくと警視庁を脅迫する連続殺人鬼を描いています。犯人視点の記述を入れてサスペンス感を高めたり、細かな物証や発言から事件の構図がぐるっと反転してしまうあたりは、さながらジェフリー・ディーヴァーを思い出す仕上がり。中でも、犯人視点の記述に仕組まれた、堂々たるダブル・ミーニングに膝を打ちました。作者の会心の笑みが目に浮かぶよう。

     ジェフリー・ディーヴァー的といえば、佐藤青南『ヴィジュアル・クリフ 行動心理捜査官・楯岡絵麻』(宝島社文庫)にも言及しておきたいです。相手の仕草から嘘を見破る、行動心理学、キネクシスなどのキーワードから、ディーヴァーの〈キャサリン・ダンス〉シリーズを思い出す作品ですが、ダンスもまだやっていない、「主人公に行動心理学を手ほどきした『師匠』が敵」というシチュエーションで燃えます。

    ・家原英生『(仮)ヴィラ・アーク設計主旨』(書肆侃侃房)

     第62回江戸川乱歩賞最終候補作を書籍化したもの(佐藤究『QJKJQ』の年!)。一級建築士が書いた「館もの」ということで、冒頭の図版からしてものが違いますし、物語の舞台である「ヴィラ・アーク」を訪れてからは、普通の「館ミステリー」ではお目にかかれない専門用語と解説のラッシュ。それだけでも独自性がありますが、やはり最終的に立ち上がってくる「そんなの、あり?」と言いたくなるような「ビジョン」が強烈。見たことのない本格ミステリーが読みたい、という人には挑んでみてほしい一冊。

    ・浦賀和宏『デルタの悲劇』(角川文庫)

     読み逃していたのを恥じ入る傑作です……。この作品については多くを語ることが難しいのですが、著者独特の文体と展開、本文となる「デルタの悲劇 浦賀和宏」をプロローグ・エピローグにあたる二通の手紙と「解説」でサンドイッチしたメタフィクショナルな構造など(「解説」の後にエピローグがきていることからも分かる通り、「解説」も作者の仕掛けの一部)、あらゆる要素が収まるべきところに収まる快感が凄まじい。作中作「デルタの悲劇」は浦賀和宏の「遺作」として扱われますが、本作を発表した2019年の翌年に浦賀和宏は病死したため、今になって読んでみると、何か悲愴な覚悟のようなものを感じ、本の前に立ち尽くしてしまいます。

    ・鳴神響一『猿島六人殺し 多田文治郎推理帖』(幻冬舎文庫)

     恥ずかしながら本当にノーマークの作品だったので、慌てて購入して読んでみました。すると……なるほど! 探偵役の文治郎が猿島で起きたという連続殺人の現場に見分に向かうと、猿島に渡った六人が全員死んでおり、そのうちの一人が書いた手記が発見される……という冒頭で、これはアガサ・クリスティー『そして誰もいなくなった』の時代ミステリー版だと納得しました。『そし誰』型のミステリーは数多く書かれていますが、クローズド・サークルの内側にべったり入り込んでしまうパターンが多い気がするので、実地検分の形で「何が起こったか」を明らかにしていく読み味が快調です。思わぬ拾い物。

    ・藤崎翔『おしい刑事』(ポプラ文庫)

     ドラマ化もした連作短編集のようですが、ドラマも未見で、知らなかったのが恥ずかしい限り。推理力が優れてるのに、最後の最後で詰めが甘くて、手柄を横取りされてしまう「押井刑事」の物語で、様々なパターンで「間違える」名探偵のファルスを味わえます。「おしい刑事参上」で大体のパターンが分かるのですが、「おしい刑事のテスト」の「ミス」については「そんなのないよ」と言いたくなるほど細かいポイントから全てが瓦解してしまいますし、「安楽椅子おしい刑事」は安楽椅子探偵ならではの豪快な反転が面白い。個人的には某番組風の「密着・おしい刑事」にゲラゲラ笑ってしまいました。

    (2024年1月)

第71回2023.12.22
ぼくの福岡清張紀行 ~松本清張記念館に行ってきました~

  • 或る「小倉日記」伝、書影

    松本清張
    『或る「小倉日記」伝』
    (角川文庫)

  • 〇あの対談集の続編登場!

     11月に光文社から若林踏編『新世代ミステリ作家探訪 旋風篇』が発売されました。2021年に刊行された『新世代ミステリ作家探訪』の第二弾にあたる本です(第一弾では、私もインタビューしてもらいました)。第二弾では、2022年1~10月にオンラインで開催された全十回のイベントの模様が収録されており、対談作家は浅倉秋成、五十嵐律人、櫻田智也、日部星花、今村昌弘、紺野天龍、白井智之、坂上泉、井上真偽、潮谷験(収録順)の十名。ブラウン神父への敬愛を語った櫻田智也や、『バトル・ロワイヤル』で忘れられがちな要素を掬い上げて『スイッチ 悪意の実験』を書いたと語る潮谷験など、本格ミステリーの作家のインタビューもその創作理念を伺わせて面白い内容ですが、児童ミステリーの分野について掘り下げた日部星花と、警察小説の分野を語った坂上泉の回がかなり勉強になりました。特に坂上泉の『渚の螢火』佐々木譲『笑う警官』を意識しているというくだりには驚きましたし(同時に、なぜ気付かなかったのかとも思いました)、横山秀夫について語った部分が白眉でした。日部作品は小説の既刊を即座に全て購入。

    ○貴重な「文庫初収録」

     11月に光文社文庫から鮎川哲也『クライン氏の肖像 鮎川哲也「三番館」全集第4巻』が刊行されました。鮎川哲也の安楽椅子探偵シリーズである「三番館」シリーズを、光文社独自の編集で全集4巻に収めた文庫シリーズで、一巻から順に、『竜王氏の不吉な旅』『マーキュリーの靴』『人を呑む家』が刊行されました。発表年代順の編集も素敵でしたし、それぞれ「三番館」短編の原型となった作品を収めるなど、「オマケ」の部分も充実した全集になっていたと思います。「人を呑む家」などは、今までの「三番館」短編集で表題作になったことのない、一見地味な作品ですが、こうして年代順に通読してみると、「三番館」シリーズの中期・後期には「人間消失」テーマの短編が多く、その傾向を代表する作品として表題作に上り詰めても面白いのかも、と思いました。

     初めに「三番館」シリーズの話をしておくと、私がこのシリーズに触れたのは大学生の時、読んだのは創元推理文庫から刊行されていた全六巻の文庫でした(『太鼓叩きはなぜ笑う』『サムソンの犯罪』『ブロンズの使者』『材木座の殺人』『クイーンの色紙』『モーツァルトの子守唄』)。鮎川哲也の鬼貫ものを読み終わってしまい、鮎川作品に飢えていた時期に通読したのです。私立探偵による足の捜査と、推理によって事件をあっという間に解決する「三番館」のバーテンの頭脳、という役割分担の按配がツボで、鮎川哲也の推理小説はこうじゃないと……と大いに楽しんだのを覚えています。創元推理文庫版は解説も印象深く、エラリー・クイーンと鮎川哲也の手法について共通点を見出していく『クイーンの色紙』の飯城勇三もさることながら、『サムソンの犯罪』の霞流一解説は絶対に忘れられない。なぜなら、霞は解説で作中に出てくる料理の名前を列挙し、鮎川の食事描写の話を深く掘り下げていくからです。他の作品も含めて、「料理」だけを拾っていく鬼気迫る様子もたまらないし、霞自身の「美食描写」の源流を辿った感があって強烈な印象がありました(霞作品の美食描写は、それはもう、よだれが出るような素晴らしさで、『火の鶏』の焼き鳥やオムライス、『サル知恵の輪』の焼きうどんの描写などをぜひ見てほしい)。

     閑話休題。ここで光文社版の全集に話を戻すと、『クライン氏の肖像』の文庫を手に取った時、少し違和感があったのです。というのも、これまでの全集三巻に収録された分を除くと、収録作はあと九編のはずで、いずれも長い作品ではない。それなのに、ページは500ページ以上ある。どうしてこんなに分厚いんだろうと、上の空でレジに通し、家に持ち帰って帯を見て、初めて気付きました。なんと、この文庫には絶筆である「白樺荘事件」を収録しているというのです!

    「白樺荘事件」とは、ファンの間で長らく幻とされてきた未完長編で、鮎川哲也の作品『白の恐怖』を改稿しようとしたもの。2017年に論創社から刊行された『鮎川哲也探偵小説選』に『白の恐怖』「白樺荘事件」が併録された時に話題を集めましたが、それまで「白樺荘〜」は単行本未収録だったのです。今回はいよいよ文庫で読めてしまうということで、ありがたい限り(なお、『白の恐怖』も2018年に光文社文庫に入っていますので、比較的簡単に読むことが出来ます)。

    『白の恐怖』は遺産相続をテーマにしたクローズドサークルもので、主人公の弁護士「私」が書いた日記をもとに、鮎川のシリーズ探偵である星影龍三が快刀乱麻に全ての謎を解いてしまうという趣向ですが、中編のボリュームなので、確かに長編化出来そうな按配。「白樺荘事件」では、弁護士の代わりに、「三番館」でお馴染みの私立探偵が出馬しており、遺産相続の対象になる親族の数も膨れ上がっています。しかも、なかなかクローズドサークルには突入しないという形。バーテンによる推理はお預けなので、「白樺荘事件」の結末は夢想するしかありませんが、思わずニヤリとしてしまったのは、フィリップ・マクドナルド『ゲスリン最後の事件』(後に改題され『エイドリアン・メッセンジャーのリスト』)への言及があるところでした。飛行機事故で死んだ男が持っていたリストを唯一の手がかりに、徹底した推理によって真相に辿り着こうとするこの長編は、確かに鮎川哲也が好みそうなところですし、「白樺荘事件」のようなテーマの作品に、あえてネタバレをしてまでこの挿話を入れているところは、何かしら意味深長な感じがします。まあ、単に好きで言及したのかもしれませんが……(同じくだりで他にJ・J・コニントンとS・A・ステーマンに言及しているのも面白い)。

     とまあ、光文社文庫版の全集は、この嬉しいボーナストラックも含めて、他のバージョンで持っていても買い直す意味がある全集だと思いました。全編再読して相当楽しめたなあ。

    ○松本清張の話

     11月初旬。ある用事があって二泊三日、北九州の小倉まで行ってきました。小倉といえば松本清張、ということで、持っていく本は全て松本清張にしました。ライブが主目的なので、バタバタしながらにはなりますが、せっかく行くのだから松本清張も楽しみたい。

     一冊目に読んだのは『渡された場面』(新潮文庫)。四国と九州・博多が舞台だというので、ちょうどいいかと思ってセレクト。同人誌で原稿を書いている男が、プロ作家の原稿をひょんなことから盗作してしまい、それが同人誌の書評で取り上げられた。それを見た警察官は、男に目をつける。なぜなら、その原稿の風景描写が、ある殺人事件の被害者宅の周辺の様子に酷似していたからだ……というのが大まかなあらすじ。

     この「ひょんなこと」が大いにツボで、プロ作家が旅館に泊まっている時に、旅館の女中がその6枚分の原稿を書き写し、恋人である同人誌男に渡した、というプロセスなのです。そして、同人誌男は恋人の前では散々描写が古臭いだのなんだのこき下ろしたにもかかわらず、自作にその風景描写6枚を盗作する。これだけでもアイタタタ、といった感じなのに、同人誌の書評では、「この作品の内容は平凡というよりは水準にも達していないが、その中の六枚くらいの文章が実に美事である。荒筋は省いて、そこだけを引用する」と書かれてしまう始末。その引用箇所が、警察官の目に止まった、という次第なんですね。もちろん、盗作元であるプロ作家がどうも問題の殺人事件と関わっているのでは、と読者はわかっているのですが、同人誌男の方は、自分の都合で恋人を殺しているので、自分の殺人と盗作、二重の隠し事をしないといけないことになるのです。

     こうして、ズルズルと罠に落ち込んでいってしまう展開がたまらないし、問題の描写と実際の風景を比べて証拠を列挙していくところなどは鬼気迫るところがあります。また、書評欄の話などから当時の文芸誌や同人誌界隈の雰囲気などが窺えて、耳の痛いところもありつつ、かなり楽しめる一冊でした。

     と、一冊目を読んでいるうちに、飛行機が福岡空港に到着、昼飯はとにかく適当に入った店で水炊き定食を食べ(適当に入ったのに、なんでこんなに美味いんだ!)、そこから新幹線で博多―小倉間を行き、小倉に到着です。新幹線に乗っている間に、二冊目に切り替え。『或る「小倉日記」伝』(角川文庫)に。再読になります。やっぱり表題作を小倉で読みたいと思ったので。

     短編「或る「小倉日記」伝」は、田上耕作という男が、小倉に住んでいた時の森鴎外の十年分の足跡を辿る短編で、昭和二十六年に森鴎外の「小倉日記」が発見される前に年代を設定した一作。森鴎外の史伝小説『渋江抽斎』は、その書き振りが渋江抽斎その人に迫っていく推理小説のようにも読めると思っているのですが、森鴎外について辿っていく「或る「小倉日記」伝」もまた、足跡を辿っていく推理小説に違いないのです。ただ、再読してみると主人公である田上の人生、その屈託が厚みをもって描かれているのが注目されてきて、それゆえに結末の寂しさが胸に迫ってきました。慣れない土地で読んだから、余計にそう感じたのかも。

     森鴎外を巡る作品なので、森鴎外旧居なども訪れて、とにかく小倉を満喫する。この日はライブの一日目なので、荷物をホテルに置いたらライブへ。夜は友人と鉄鍋餃子の店を満喫して、ホテルに戻る。「或る「小倉日記」伝」を読んだらあまりに寂しくなったので、お笑い芸人のラジオを聞きながらベッドに横になりました。

     二日目も午後はライブだけれど、午前中は自由行動。友人が朝は部屋で休むというので、一人で小倉観光へ。西小倉の方まで歩いて、小倉城、八坂神社、そして松本清張記念館を見物する。二階建ての清張の家を再現した空間で、仕事場や応接間よりも長い時間、書斎の本棚を眺めてしまいました。芥川賞受賞時の火野葦平の手紙は、Xで伊吹亜門も言っていたけど、本当に良い手紙なので実際に目で見てほしいですね。特別企画展は「清張福岡紀行」というもので、清張作品に描かれた九州の描写をエリアごとにひたすら並べたもので、清張作品の描写が好きな私にはたまらない展示でした。当然、パンフレットも購入。

     松本清張記念館の売店は、おそらく現在流通している清張文庫は全部あるだろうなと思わせる品揃えでしたが、何よりも目を引いたのは、過去の企画展のバックナンバーでした。一番好きな長編である『時間の習俗』について、『時間の習俗展 「和布刈」発、ミステリーの旅』という企画展があるのを発見。昭和三十年代の風物や清張愛用のカメラなどを紹介するのみならず、犯人の供述に基づく「アリバイ」と、推理に基づく「実際の行動」を比較した見開きのページに目を惹かれ、迷わず購入しました。この企画展は1999年に行われたもののようで、こうした資料が今も手に入るのが嬉しいですし、お金と鞄のスペースが許せば全バックナンバーを買いたくなったほど。

     他に、『E・A・ポーと松本清張』の特別企画展パンフレットと、文庫からは『黒の様式』(新潮文庫)を購入。松本清張で「黒」とつく作品にはハズレがないという印象があるので(『黒い画集』『黒い福音』『日本の黒い霧』など)、選んでみました。これが旅行中の読書の三冊目。そうしたら、これもなんとも面白い! 『黒の様式』には「歯止め」「犯罪広告」「微笑の儀式」という三つの中編が収められているのですが、「黒の様式」というタイトルは作品の題名ではなく、1967年1月から1968年10月まで「週刊朝日」に連載された中短編のシリーズタイトルだというのです。つまり「黒い画集」と同じ経緯ですね。「黒い画集」連作には、清張短編のあらゆるパターンが含まれていると同時に、謎解きミステリーとしてもハイレベルな作品群であり(山岳ミステリーの傑作「遭難」や、意想外の仕掛けで最後まで読者を翻弄する「紐」など)、私の偏愛作であるだけに、『黒の様式』への期待も高まります。

     で、読んでみると、最初の一編目「歯止め」こそ、息子である男子中学生の性への目覚めに困惑する母親の描写が中心となるサスペンスですが、ほか二編は『黒い画集』を思い出すような堂々たる謎解き編。二編目「犯罪広告」は、冒頭から母親を義父に殺されたと告発するチラシが提示されて面食らいますが、母親の死体を探すために義父の家の床下を掘り返す段になっても、依然としてふてぶてしい態度を取り続ける義父の描写にたどり着くと、死体探しを巡るスリーピング・マーダーものとしての力強い骨組みが見えてくるという次第。トリックもちゃんとあります。三編目「微笑の儀式」は、仏像のアルカイック・スマイルを巡る講釈が古代史好きの清張らしい面白さですし、それを受けて、死体が微笑みながら死んでいるという不気味な謎が秀逸。こちらも謎解きに注力した作品です。

    「黒の様式」の連載は、この三編のほか、「二つの声」「弱気の蟲」「霧笛の街(改題・内海の輪)」と三つ続いたようです。このうち、「内海の輪」については、第69回の読書日記で広島旅行の際に読んだと書きました。その時は駆け足だったので細かく内容を書きませんでしたが、「内海の輪」は考古学助教授が兄嫁と不倫関係にあり、瀬戸内海の旅行中に妊娠を告げられたため、殺害を決意する、という筋立ての作品であり、徹頭徹尾身勝手な男の態度にヤキモキさせられる作品です。ただ、不倫関係がバレないように知人の前で咄嗟に他人のふりをするシーンなど、サスペンスとしての読み味は十分で、古代史関連の発掘シーンも読みごたえがあり、楽しめる作品でした。

     残りの二編については、東京に帰ってきてから、光文社文庫の松本清張プレミアム・ミステリーの一冊『弱気の蟲』を手にいれ、ようやく読めました。「二つの声」は俳句仲間と野鳥の声を録音しにいった先で起こる殺人事件の話で、俳句趣味も清張作品の特徴なので嬉しくなってしまいますが、何より素晴らしいのが、謎解きのポイントを録音された音声に絞ってみせたところ。どうしてもアリバイが崩せない、と思ったところに、シンプルながら効果絶大の謎解きが描かれて唸ります。「弱気の蟲」はどちらかというとサスペンスに振った作品で、公務員である主人公が麻雀仲間に連れられて麻雀にハマっていき、しかし弱いのでカモられてしまう、という状況をまず描き、彼が借金を抱えてからいよいよ殺人事件が起こるという筋立て。麻雀好きは身につまされるような話で、かなり嫌な後味の作品です。

     11月に光文社文庫に清張の新刊があったので、これもいい機会だと思い購入。時代ものの『紅刷り江戸噂』です。時代ものなので、そんなに謎解き要素は強くないのかなと思いきや、一編目「七草粥」で驚愕。これ、直球のミステリー短編集じゃないか! 「七草粥」は新年の大店で、通りにやって来たなずな売りから七草を買い、七草粥を作ったところ食べた者が苦しみだした。あのなずな売りから買った草の中に、「とりかぶと」が混ざっていたからではないかと思われる――という設定の作品で、帝銀事件や農薬コーラ事件など、昭和の犯罪を思わせるどこか陰惨な悪意を描いていてゾクゾクさせられます。事件の構図が分かってくるうちに、冒頭のさりげないシーンの冷たさが効いてきて、最後にはまるで本格ミステリーのようなトリックまで登場する作品。この一編ですっかり魅せられてしまい、残り五編も大いに楽しみました。サスペンスが横溢する「虎」なども見事ですが、なぜ首を斬られた死体の顔が穏やかなのか、という謎を扱った「術」は構成そのものがトリッキーな逸品ですし、短編集の中で最も短い「役者絵」は倒叙ミステリーで、ラスト、犯人が口を滑らせる仕掛けが鮮やかな一編。もちろん、時代小説らしく、季節ごとの江戸の風物の描き方も面白くて、「七草粥」でも、爪の剪り初めの際に、七草の余ったものを水に入れて、手をつけておくと、たとえ怪我をしても傷にならないという信仰があるとか、こういうさりげない描写がやけに心に残る作品です。

     そんなわけで、11月はほとんど清張漬けの日々を過ごしました。今月は清張作品の中でも偏愛の『ガラスの城』講談社文庫から新装版で刊行されて、何かと思えば、来年1月4日放映のドラマの原作だから復刊した模様。二夜連続企画で、第一夜は「顔」かあ。これも見ちゃうかもなあ。そうなると、来年も清張から始まることになりそうです。

    (2023年11月)

第70回2023.12.08
御無礼、32000字です ~『地雷グリコ』発売記念、ギャンブルミステリー試論~

  • 地雷グリコ、書影

    青崎有吾
    『地雷グリコ』
    (KADOKAWA)

  • 〇今年最高の新刊が出たぞ!

     さあ、まずはこの話をしないわけにはいきません。青崎有吾『地雷グリコ』(KADOKAWA)! ロジックの名手・青崎有吾が仕掛けた五つの頭脳戦。全てが子供の遊びをアレンジしたオリジナルゲームになっており、そのルールだけでもわくわくさせられますが(宮内悠介による帯文「ルールを聞くだけでわくわくする。それはきっと、いいゲームであることの証左」はまさに言い得て妙)、特筆すべきは、詰将棋の手順を一手一手解説するかのような、徹底したロジックによる絵解きです。ギャンブルものとしてのケレン味、ハッタリも十分。

     内容を簡単に紹介しましょう。第一話「地雷グリコ」では、高校生の射守矢真兎は、高校で行われる屋上の使用権を賭けた《愚煙試合》に挑みます。生徒会代表の椚先輩が対決する相手で、審判は江角先輩が務めるという構図。行われるゲーム「地雷グリコ」とは、じゃんけんを行い、勝った手(グー・チョキ・パー)に従って階段を上っていくゲーム「グリコ」に、オリジナルの要素を加えたもの。双方のプレイヤーはゲーム開始前に、任意の段を三つ指定し、「地雷」を仕掛けることが出来るのです。「地雷」を相手プレイヤーが踏むと、それが炸裂して十段下がることになる、というルール。

     このシンプルかつ強力なルールが面白いのです。作者の素晴らしいところは、このルールからプレイヤーが思いつくはずの「定石」を丁寧に書いて、それによる駆け引きを描いたうえで、読者と相手プレイヤーの予想を超える更なる「奥の手」を用意する、その手際の良さです。ギャンブル物に求める全ての魅力が、ここには備わっているといえます。「地雷グリコ」はシンプルなルールであるとはいえ、わずか45ページに収まっているというのも驚愕に値します。

     全体的な雰囲気は(この作品については後の特集で詳述しますが)漫画「嘘喰い」からの影響が多分に感じられます。大きな類似点としては、①プレイヤーの他に審判(「嘘喰い」においては「立会人」と呼ばれる)を立て、ルール説明、進行、裁定、賭けの結果の回収を行わせる。②双方のプレイヤーはルール説明から初めて聞くため、戦略の組み立てや実行もその場で全て行う必要がある。③実際にあるゲームや遊びをアレンジして、オリジナルのゲームを作っている。この三点に求められるでしょう。これらの特徴は、ギャンブルをテーマにした作品――「カイジ」や「LIAR GAME」などを見ていれば――当たり前に聞こえるかもしれませんが、実は重大な特徴になっています。このことはこの後の項「ギャンブルミステリー総論」で述べていこうと思います。

     ここで②の点から特異的といえるのは、第二話「坊主衰弱」です。ゲームのルールは百人一首の札を利用した「坊主めくり」と「神経衰弱」を掛け合わせたもので、③の特徴通りですが、ここでは真兎の相手となる「かるたカフェ」のマスター=胴元が仕掛けるゲームに挑むことになるのです。つまり、ゲームの理解度においてそもそも差がある状態であり、イカサマなどを仕掛けられる点において、そもそも出発点に開きがあるのです。これは「カイジ」シリーズで多用される構造であり、「胴元=敵の仕掛けたトリック(イカサマ)を見破り、その裏を取って勝つ」というギャンブル物の一つの王道をいく展開をみせてくれるのです。水も漏らさぬ行動によって築き上げられた真兎の仕掛けに唸る逸品。

     第三話「自由律ジャンケン」は、グー・チョキ・パーに加えて、双方のプレイヤーが指定する「独自手」を加えた、五種類の手で行うジャンケン。「独自手」の形は開示されますが、「効果」は開示されないため(効果というのは、例えば「グーには負けて、チョキには勝つ」など。ネタバレにならないように思いっきり馬鹿な例を挙げましたが)、これによって「読み合い」が深化することになります。「ジャンケン」でギャンブルをするとなれば、「ジョジョの奇妙な冒険」第四部「ダイヤモンドは砕けない」の中の1エピソード「ジャンケン小僧がやってきた!」を思い出しますが、あの作品にも通じる、熱量MAXのジャンケン描写の中に、怜悧な計算が潜んでいたことに気付かされる「解決編」が素晴らしい。

     第四話「だるまさんがかぞえた」は、「だるまさんがころんだ」に「入札」要素を追加したゲーム。「だるまさんがころんだ」は、鬼役が振り向いた時に、プレイヤーが動いていたら負け、というゲームですが、本作のゲームでは鬼役もプレイヤーも動きますし、さらに互いに歩く歩数を「入札」によって決めるという趣向。

     作者の巧妙なところは、このゲームが膠着状態になってしまうパターンをルールの追加によって潰して、ゲームバランスを整えたうえで、真兎が持ちかける「もう一つの条件」によって駆け引きの方向性を定めているところ。この二つのさりげない「逃げ道」潰しが、作者がギャンブル小説に本気である証拠。「振り向くことで相手を殺す」という要素は、後に語る漫画「嘘喰い」の最終章「ハンカチ落とし」編の構図を思わせますし、「だるまさんがころんだ」をモチーフに頭脳戦をやるという部分では、ドラマ「イカゲーム」で行われた「だるまさんがころんだ」ゲームが、ビジュアル的にはかなり面白いとはいえ、一皮むけばただのデスゲームに過ぎなかったことによる渇を癒された感じがします。

     ここまでの四話は、「小説屋sari-sari」「カドブンノベル」「小説 野性時代」掲載時から夢中になって読んだ作品ばかりだったので、私の期待は書き下ろしである第五話「フォールーム・ポーカー」に注がれていました。そして、その期待は一切裏切られなかった! 『地雷グリコ』連作の最高傑作であると同時に、青崎作品の最高傑作をも更新するような大傑作です。ざっくりいえば四つの部屋を巡ってカードを引き、自分の手を作るというポーカーなのですが、シリーズ最強の敵に対して、一手ごとにしのぎを削る展開がとにかく読ませますし、最終的な到達点にもため息が出ます。漫画「嘘喰い」には、「エア・ポーカー」編という、ポーカーを基盤にした素晴らしいオリジナルゲームがあり、全49巻にも及ぶ「嘘喰い」の中でも、そして全ギャンブル漫画の中でも最高到達点ともいえるような駆け引きが繰り広げられるのですが、「フォールーム・ポーカー」はそれにも比肩する充実した作品なのです。「エア・ポーカー」の話は、あとでじっくりしますよー。

     短編が一つ進むごとに、真兎を巡る状況や賭けの対象も変わっていくなど、連作短編集を読む楽しみはしっかりありますし、第五話の最終対決に向けてボルテージが高まっていく構成も見逃せないところ。ルールを理解し、定石を頭の中で組み立て、答え合わせをし、さらにその先の展開を読もうとし、裏切られる――350ページの間、ひたすらに頭を使い続ける凄まじいミステリーですが、読み通した後には、心地よい脳疲労がもたらされるでしょう。

     実を言えば、拙作『午後のチャイムが鳴るまでは』において、「消しゴムポーカー」なるオリジナルのゲームを使った「賭博師は恋に舞う」という中編を書いたのは、この『地雷グリコ』がキッカケでした。正確には、第一話「地雷グリコ」が2017年11月号の「小説屋sari-sari」に掲載されたことに端を発します。もともと、後に語る「カイジ」や「嘘喰い」には世代的な思い入れがあり、「ギャンブル物の面白さは、本格ミステリーにも通じる、だからこそ、自分でもそうした作品を作ってみたい」と思っていたのですが、小説で表現することの難しさを感じてもいました。そんな時に、「地雷グリコ」を読んで頭を殴られたわけです。もちろん、それまでもギャンブルをモチーフにした小説作品はいくつも書かれているのですが、感動したのは、学園ものとギャンブルを掛け合わせるその手際と、普通のギャンブル物にはない「清涼感」でした。ギャンブルの世界は、どうしても陰惨だったり、残酷だったり、とにかく暗い世界になりがちで、「負ければ底に堕ちる」という構造があるからこそ、物語が盛り上がります(負けた場合に何億もの借金を負うとか、指を切られるとか、ペナルティーも陰惨なものです)。だからこそ、そうした雰囲気の無いギャンブル物――いい意味で、勝負にただ熱中する「だけ」の、陰惨でないアプローチ――が出来ないだろうかと思っていたのですが、そこに現れたのが短編「地雷グリコ」だったといえば、衝撃の程は伝わると思います。もちろん、真兎にも賭けているものがあり、負けられない理由があるわけですが、全体が纏う雰囲気は怜悧でありつつポップであり、「明るい熱」なのです。

     というわけで、青崎有吾の最新にして最高傑作、おまけに「オリジナルゲームギャンブル本格ミステリー」の2023年版最高峰『地雷グリコ』。どうかお見逃しなきよう。

    〇ギャンブルミステリー総論 ~より公正に、より独自に~

     さあしかし、ここまでも「カイジ」「嘘喰い」の名前をたびたび出してきましたが、分からない人にとってはこのあたりの話が全然理解できないと思います。そこで、ここからは「ギャンブルミステリー特集」を組んでみたいと思います。まずは作品群全体の特徴を洗ってみたうえで、「小説編」「漫画編」「映像編」に分けて、それぞれの代表的な作例について語ってみたいと思います。

     この記事をまとめてみようと思ったのには理由があります。それはやはり、私自身が、こうした「ギャンブル」を取り入れた作品に学生時代から多く触れており、そこには本格ミステリーに通底する魅力がたくさんあると感じていたからです。これは何も私に限った話ではなくて、たとえば福井健太『本格ミステリ漫画ゼミ』(東京創元社)においては、「思考ゲームとしての漫画」という項において、頭脳戦・ギャンブルを扱った漫画が紹介されており、その冒頭では次のように述べられています。

    〝探偵や犯罪などの装置がなくとも、理知的なゲーム空間を築くことはできる。ルールを伴う頭脳戦を軸にしたエンタテインメントは、本格ミステリに通じるゲーム性を備えている。語弊を恐れずにいえば、型に嵌まった本格ミステリ以上に、柔軟かつ純粋なそれを扱いうる形式なのだ。〟(同書、「思考ゲームとしての漫画」より)

     ギャンブルを扱った本格ミステリー的作品に魅せられる、と同時に、自分でも中編一つ書いてみたことからも伝わるであろう通り、こういう作品を取り入れてみたいという欲が私にはずっとありました。少し世代を下ったり、あるいは上ったりすると「分からない」と思われるかもしれないこの「欲」が、なぜ生まれてきたかを記録に残すために、一旦全部書き出しておこうと思うのです。

     さて、まずはギャンブル物の特徴についてです。最初に見ていくのは、プレイヤー間の関係性です。ここには大きく分けて三つのモデルがあると思っていて、一つは「単純型」。二つ目は「カイジ型」。三つ目は「立会人型」です。①の「単純型」からいくと、全プレイヤーが対等であり、賭けの胴元はあくまでも賭博の「場」と「機会」を提供するのみというシンプルな構図です。麻雀漫画などは代表的にこの構図で、金の取り合いは当事者間でのみ発生します。この時互いに使えるのは「技」に近接したイカサマの数々です。阿佐田哲也の名作群はもちろんこの型ですし、多くのギャンブル作品はここに属することになります。こうしたギャンブル物は、阿佐田哲也の『麻雀放浪記』やそこから派生した傑作『ドサ健ばくち地獄』が「ピカレスク」と謳われる通り、基本的には、勝負の世界に生きる男たちを描く作品であり、ゲーム「そのもの」を描くことが目的にはなっていない印象があります(「コンゲーム」と呼ばれる作品群も同様です)。しかし、二つ目の型以降、ゲームのルールの部分に凝っていくことによって、時にはゲームに淫するような複雑なルールを課したギャンブル作品が数多く生まれていくことになります。

     ②の「カイジ型」では、基本的に胴元=敵という等式が出来上がっています。ゲーム(ギャンブル)を仕掛けるのは胴元側であり、プレイヤーはそれに挑んでいく、という構図です。もちろん、胴元側も組織ではなく、代表者を一人立てるわけですが、胴元側なのでゲームの内容もルールも全て知り抜いていますし、そのルールに応じたイカサマを行って「常勝の仕掛け」を作り上げています。この時、プレイヤー側が行うべきことは①相手の行っているイカサマを見抜くこと、②相手が絶対的な優位に油断している状況を利用して、そのイカサマの裏を取ること、の2つです。イカサマが分かってもすぐに告発せず、それをあえて利用するというところにポイントがあり、それによって①:胴元=犯人側のトリックと②:プレイヤー=探偵側の逆トリックの両方を味わえるのがこの型の特徴です。「カイジ」やその影響を受けた作品群の多くはこの型に属しています。絶対的な上位者を智略によって打ち負かし、その鼻を明かす――という成り上がり物語の構図をもっているからこそ、この型は書きやすいのでしょう。後に紹介する作品では、漫画「カイジ」シリーズだけでなく、福本伸行「銀と金」の誠京麻雀編や「賭博覇王伝 零 ギャン鬼編」の「100枚ポーカー」編、カミムラ晋作「マジャン ~畏村奇聞~」、円居挽『今出川ルヴォワール』などがこれに該当し、パーシヴァル・ワイルド『悪党どものお楽しみ』にもこの型の作品があります。胴元=敵でなくても、イカサマの解明→その逆用というパターンは青山広美「バード―砂漠の勝負師―」でもなぞられています。

     ただ、②の型には大きな問題点があります。胴元=敵である以上、プレイヤーが勝ったとしても、その「勝ちの回収」に大きな不安が残るのです。究極的に言えば、相手が実力行使に出てしまえば、殺されてしまう可能性もありますし、手に入れた金を奪われるかもしれません。もちろん、胴元側にも「フェアに見せかけなければいけない」という体面上の問題もあるとはいえ、です。「カイジ」ではこの問題を、敵の上位者に裁定させることによって無効化しています。ゲームをプレイする際、カイジ自身も実はこの不安から解き放たれることはないはずですが、シリーズ第一弾で帝愛のトップである兵藤と対峙してからは、「兵藤は勝ち負けの解釈はフェアだ」という信頼感をもって、この「勝ちの回収」の問題を巧妙に棚上げしています(ただし、シリーズ最新作「賭博堕天録カイジ 24億脱出編」〈現在25巻、連載中〉においてこの問題が再発生していることも言い添えておきます。兵藤和也とのワン・ポーカーギャンブルに勝ったカイジは、24億もの大金を抱え、帝愛から逃げ回らないといけないのです。今までカイジが棚上げにしてきた「勝ちの回収」という問題が、約20年越しに再燃したのです)。

     この「勝ちの回収」に目を向ければ、③「立会人型」の道が出てきます。この「立会人」というのは、漫画「嘘喰い」においてギャンブラー同士の戦いに立ち会い、ルール説明、ゲームの進行、勝敗の裁定、債権の回収までを行う存在を意味する用語ですが、「嘘喰い」に敬意を表してこの型は「立会人型」と名付けることにします。この型のポイントは、プレイヤー二人の他に中立な裁定者を配置する点です。これによってゲームへの中立性が保たれるだけでなく、「双方のプレイヤーが今、この時初めて、ゲームのルールを聞く」というスタートラインの同定も出来るのです。勝負としてかなりフェアな作りであることを強調することが出来ますし、互いのプレイヤーがしのぎを削り合う熱量も自然と高まっていきます。この型に属するのは漫画「嘘喰い」を代表として、「LIAR GAME」「ジャンケットバンク」、そして『地雷グリコ』になります。

     一見、「立会人」を置くことによって②で指摘した「勝ちの回収」の問題は解消されたようにみえます。立会人がきっちり裁定を行ったうえで、債権も回収してくれるのですから。事実、「LIAR GAME」ではルールによって暴力行為が排除されており、大金がかかったゲームであるにもかかわらず、静謐で怜悧な頭脳戦の世界を実現することに成功しました(付言すれば、「LIAR GAME」において敗者に課せられるペナルティーは負債のみ。しかし、借金の苛烈な取り立てなどの描写もないことから、その数字は無機質なデータのように動いていきます。言ってみれば、過去のギャンブル作品において、よく敗者の代償として描かれた「人体損壊」や「大事な女性の身柄」などの「血と色」が巧妙に排除されているのです。これが同書の想定読者層を広げたと思います)。

     しかし、「嘘喰い」ではあえて「勝ちの回収」という問題を「暴力」を描いたアクション漫画の形で先鋭化させました。一方「ジャンケットバンク」では、「勝ちの回収」の問題は「生死を分かつ罠」という「知」の領域で立ち上げました。どちらも問題を潰したうえで、独自の味をつけているのです。

     こうした三分類に加えて、ゲームそのものも分類してみましょう。これは「A:元からあるゲームのルールを変えずに行うギャンブル」「B:元からあるゲームにオリジナルのルールを追加するギャンブル」「C:オリジナルのゲームで行うギャンブル」の三つの型に大きく分類出来ます。

     は簡単ですね。麻雀漫画の多くはこのパターンに属し、ギャンブル要素として強く立ち上がってくるのは元のゲームが持つ「駆け引き」と、そのゲームにおいて現実でも行われる「イカサマ」の要素です。こうしたAのパターンでは、それぞれのプレイヤーによる技量・器として「イカサマ」が立ち上がってきます。つまり、ここでのイカサマとは、技と技とのぶつかり合いである、ということが出来ます。元からそのゲームのルールを知っていれば、その世界にすぐ入り込んでいけるのが特徴です。

     については、例えば福本伸行の麻雀漫画「天 ~天和通りの快男児~」における「二人麻雀」を代表例に挙げておきましょう。基となるルールは麻雀そのものですが、麻雀は通常四人、もしくは三人で行うものであり、二人で行うために作者が独自のルールを付け加えた……というものです。ここでは、「元のゲームのルール」+「追加されたルール」の二つを理解する必要があります。この特殊ルールにおける「定石」は、プレイヤーと共に、読者も読み解いていかなければなりません。

     の代表例は漫画「LIAR GAME」でしょう。現実には存在しないゲームのルールを一から作り上げ、その「定石」整理やゲームバランスの調整までを自分で行い、作品の形で供する。最もハードルが高いけれど、やりがいのある形です。しかし、ここではゲームそのものを「一から全て理解する」必要性が生じます。読者と作者の間にシミュレーション量のギャップが如実に出て来るわけです。

     そこで、このギャップを解消するためによく行われるのが「C―1、オリジナルゲームではあるが、現実にある遊びやゲームを基に作られている」です。BとC―1との差異は程度問題ということになってしまいますが、元々はギャンブルではない「グリコ」を、アレンジによって「地雷グリコ」というゲームに作り替えた……という経緯は、このC―1型の代表例と理解してもらえるのではないでしょうか。

     反面「C―2、どこから生えて来たのか分からない完全オリジナルゲーム」も存在します。「LIAR GAME」で扱われるうち、「密輸ゲーム」感染パンデミックゲーム」などはこの型に属するといっていいでしょう(なお、同じ「LIAR GAME」にもC-1の型に属する「17ポーカー」「回らないルーレット」「入札ポーカー」などがあります)。

     野球×頭脳戦漫画「ONE OUTS」と、オリジナルゲームによる頭脳戦漫画「LIAR GAME」をどちらも著した甲斐谷忍は、映画「LIAR GAME The final Stage」のパンフレットに掲載された原作者インタビューにおいて、「『LIAR GAME』という作品を書こうと思ったキッカケ」を問われ、次のように述べています。

    〝この作品の前に、やはり騙し合いの勝負を描いた「ONE OUTS」という漫画を描いていたのですが、野球漫画という形を取っていたために、野球のルールを知らない方にはなかなか読んでもらえませんでした。それで割と近いテイストで、創作したゲームで騙し合って戦うという話に挑戦してみたというのが、きっかけです。〟(同書、【原作】甲斐谷忍インタビューより)

     ある意味で現実のルールに即した型:①、Aの「ONE OUTS」(連載:1998~2006年)が、特殊なルールを導入した型:③、C―2の「LIAR GAME」(連載:2005~2015年)へと変遷する――この流れそのものを、本格ミステリーから「特殊設定ミステリー」への変遷と重ね合わせることも出来るかもしれません。ですがここでは、一つ大きなメッセ―ジを取り出してみましょう。すなわち、「AやBの型は読者の知識(そのゲームを知っているか、やったことがあるか)に依存してしまうが、Cの型は読者とプレイヤーの出発点を揃えることが出来る」ことです。Cの型は、複雑になりすぎると誰もついてこない可能性が出てきますが、絶妙なバランスを見付けさえすれば、AやBよりも広い読者層を獲得する道が見えてきます(事実、「LIAR GAME」はドラマ化・映画化までされ、2011年3月時点で累計500万部を突破しています)。そういう意味で、C―1のように、「誰もが子供の頃にやったことのあるゲームを、オリジナルゲームに改造する」という手法は、読者の知識・経験を利用したかなり上手い手です。

     では、ざっくり分類したところで、各論に移ります。この総論に述べたのは概略なので、細かい話は、作品の具体的な話をしながらまた掘り下げていきます。重複する個所もありますがご容赦を。

     注意事項としてここでは二つ。一つ目は用語についてです。この日記で扱うのは、麻雀やポーカーなど「実際にやったことがないとルールが分からない、難しい」と思われるゲームについて扱った作品がどうしても多くなります。そうした麻雀、ポーカーなどの用語については、適宜説明を加えようとは思いますが、説明が難しく(もしくは不必要に長くなるため)、そのまま使う場合も多々あります。ご容赦ください。ただ、その作品独自の語法や用語については丁寧に説明していこうと思います。

     二点目です。以下では、ゲームそのものへの興味も持っていただきつつ、ギャンブル作品の様々なパターンを掘り下げるために、極力、ゲームのルールについて詳しく書いていきます。「ゲームのルールそのもの」をネタバレと捉える人は少ないとは思いますが、ギャンブル作品において、独自ルールが開示される瞬間というのは得難いワクワク感があります。そうしたワクワク感は作品で味わいたい! という方は、ルール説明のくだりは適宜飛ばしながら読んでください。「ルールは以下の通り」「ルールはこんな感じ」という表現が頻出するのと改行が多いのはそのためなので、サクッとスクロールしてください。なお、こちらは既読者への注意ですが、未読者へのネタバレ(こちらは大ネタの方)を避けるため、あえてルールの細かい部分は避けて記述しています。あれがない! と思われることもあるかもしれませんが、ご容赦ください(対戦相手なども、漫画全体の展開を明かしてしまう恐れがあるので、適宜省いたりしています)。

     ではこれから、「小説編」「漫画編」「映像編」の三段階にわけて紹介します。……しかし、どうしても「漫画編」の厚みがすごくなるなぁ。大変な文字数だ。

    〇小説編

     まずは小説編から。冒頭に挙げるのは円居挽『今出川ルヴォワール』(講談社文庫。型:②、C―1)。著者による〈ルヴォワール〉シリーズの第三弾。ゲーム「逆転裁判」を思わせる丁々発止の法廷劇が見所の「双龍会」が魅力のシリーズですが、本書は前半の三分の一にあたる第一部で、この「双龍会」パートを終わらせてしまいます(もちろん、二転三転する推理の魅力はそのままで、このパートだけでも十分面白い)。では残りの三分の二は何をやるかといえば、オリジナルゲームによるギャンブルが行われるわけです。種目は「鳳」と呼ばれるもの。

     ルールを見ていきましょう。1~16までのカードを使い、親と子の間で勝負をするもの。数字の大きい方が基本的には勝ちますが、足して17になる組み合わせ(1と16、2と15など)が出来てしまった場合は、小さい数字が勝つ一発逆転が起こって、おまけに負けた方のポイントが全て相手に奪われてしまう「大取」というルールが追加されているのがミソ。

     このように、シンプルで、小説の形で描くにもやりやすい設定でありながら、大逆転を仕込むことも可能……というルールになっています。円居本格ならではの大掛かりなトリックや、漫画ネタのくすぐりなども含めて、自信をもってオススメ出来るギャンブル本格になっているといえるでしょう。

     円居作品には随所にギャンブルを思わせる要素が登場しますが、もう一つ明瞭に、ギャンブルの結構を備えた作品が短編「ペイルライダーに魅入られて」(『京都なぞとき四季報 町を歩いて不思議なバーへ』〈角川文庫〉収録。型:①、C―1)でしょう。シリーズそのものは、バー「三番館」を舞台にした「日常の謎」連作ですが(バーの名前は鮎川哲也を思わせますが、探偵役は「御神酒はいかが?」と口にするため、エドワード・D・ホックの〈サム・ホーソーン〉シリーズも連想させます)、第四話にあたる「ペイルライダー~」では、ある「賭け」が描かれます。

     ルールはこんな感じ。三杯のカクテルのうち、一杯がペイルライダーで二杯がペイルホースになっていて、この二つのカクテルは見た目では区別がつかない。これを二人のプレイヤーが飲むのですが、Aが先に一つ選び、この時点では飲まず、次にBが残った二つのうちからハズレだと思う方を除外する。そしてAは、最初に取ったものか、Bが残した方を選ぶ……というルール。

     この短編の冒頭でも示唆されている通り、数学の「モンティ・ホール問題」をモチーフにした作品で、確率論の裏をかく結末が印象的な一編となっています。

     同じように「モンティ・ホール問題」を鍵とした作品が、有栖川有栖「ロジカル・デスゲーム」(『長い廊下がある家』〈光文社文庫〉収録。型:①、C―1)。火村とある人物の賭けを描くこの作品では、三杯の盃のうち、一つに毒が入っているという設定。火村の編み出した必勝法とは? 文庫版で50ページ弱という短めの作品ではありますが、常識の枠をついた意外な手段が印象的な作品。

     優れたギャンブル小説を書き継いでいるのが宮内悠介。11月に文庫化された『黄色い夜』(集英社文庫。型:(ギャンブルによって異なる)、A)は、巨大なカジノ塔が聳え立つアフリカE国で、イタリア人のピアッサを相棒に、カジノ塔の最上階を目指す日本人ギャンブラー・ルイの活躍を描いた作品ですが、文庫で160ページという短さの中に、聖書のページ当て、セキュリティコンテスト、ポーカーなど幾つものギャンブルが凝縮された作品になっています。文庫版では短編「花であれ、玩具であれ」も収録されており、こちらもシャープな良作。

     宮内悠介には「スペース蜃気楼」(『スペース金融道』〈河出書房新社〉収録。型:②、A)というポーカー小説の傑作もあります。太陽系外の星、通称二番街で債権回収担当者として生きる「ぼく」が、アンドロイドから借金の取り立てをするという連作短編集なのですが、取り立てのためなら宇宙のどんなところでも行く! という主人公がこの短編で巻き込まれるのはカジノでのポーカーゲーム。自分の臓器さえチップとして賭ける極限の状況下で、「ぼく」はいかに勝利するか。経済小説的な大ボラまでキマって、抱腹絶倒の一編に仕上がっています。

     小説編の最後に紹介するのが、パーシヴァル・ワイルド『悪党どものお楽しみ』(ちくま文庫。短編によって異なるが基本的に型:②、A)という作品。こちらは1929年の作品ながら、改心した元ギャンブラーが、その知識や経験をもとに、イカサマ野郎たちが張り巡らせたイカサマの仕掛けを見破り、その仕掛けの裏を取って逆転する……という、後に紹介する「カイジ」などと全く同じ構造を持ったギャンブル本格ミステリーの逸品なのです。今でもそのまま成立しそうな仕掛けを使った「火の柱」や、負けないルーレットのトリックを見破る「赤と黒」など、名作が目白押しですが、ただ「イカサマのトリック」だけでなく、より探偵小説的な小技も効いた「ビギナーズ・ラック」などの好編もあり、隙のない作品集になっています。何より、元ギャンブラーで今は農夫として暮らすビル・パームリーと、彼に泣きついたり、ビル宛ての依頼を受けてしまい困り果てたりする「愛すべきワトソン役」トニー・クラグホーンとのコンビが素晴らしく、スイスイ読めてしまいます。ちくま文庫版には、『世界推理短編傑作選3』に収録されているために、国書刊行会のハードカバー版では削られていた名作「堕天使の冒険」を収録しており――こちらもブリッジをテーマにしたギャンブル小説の傑作で、フーダニット要素まで追加した隙のない逸品――今から探すなら断然、文庫版でしょう。

     海外編に目を向ければ、ロアルド・ダール「南から来た男」(『あなたに似た人』〈ハヤカワ・ミステリ文庫〉収録)やポーカー勝負のシーンが印象深いイアン・フレミング『007/カジノ・ロワイヤル』(創元推理文庫)なども見逃せないところですが、ギャンブラーの世界と師弟関係を描いた作品としてレナード・ワイズ『ギャンブラー』(早川書房)の名前も挙げておきます。とはいえ、オリジナルゲームなどを用いたものはやはり日本独自なのかも。

    〇漫画編

    *福本伸行の話から

     どうしても、ここの層は厚くなります。長くなりますが、ご容赦を。まず世代的に名前を挙げなければならないのは福本伸行。中学2年生の頃、2007年10月~2008年4月まで「賭博黙示録カイジ」(型:②、C―1)を原作にしたアニメが放映されていたこともあり、「カイジ」の名前は独特な絵柄と「ざわ……ざわ……」というエフェクト、ネットミームとして必須教養のようになっていて、それで見ていたというのが入り口(なお「アカギ」のアニメは2005年放映開始なので、こちらは大学生になってから見ました)。同世代の友人はみんなギャンブルものとして見たり、名言を真似したりというのが主な楽しみ方でしたが、その頃から一人だけ「これって本格ミステリーじゃん!」と一人孤独に言い続けていたのが私でした。この原稿で挙げたような全てのギャンブル物に興味を持つキッカケになったのが「カイジ」なので、福本伸行の影響力は絶大、というわけです。

     総論のところで、「カイジ」においては敵=イカサマの主体=胴元であるという構図の話をしましたが、これには「ゲームを知悉している敵」「一からゲームを理解し戦略を組み立てなければいけないカイジ」の不均衡があると述べました。〈カイジ〉シリーズでは、その「胴元」というのが帝愛グループという闇金融になっており、彼らが仕掛けるゲームや、彼らが運営するカジノに勝負を挑んでいくというストーリーになっています。シリーズ第一弾「賭博黙示録カイジ」(以下、「黙示録」と表記)の9巻から12巻まで展開される「Eカード」編でこの構造は確立しますし、シリーズ第三弾「賭博堕天録カイジ」(以下、「堕天録」と表記)も(当初は帝愛の関連施設とは分からないままですが)「通し」によるイカサマをしているカジノのオーナーに挑むことになります。

     一方で、プレイヤー同士の戦いを描くのがシリーズ第一弾の「黙示録」の冒頭、1~5巻で展開する「限定じゃんけん」編です。

     グー、チョキ、パーそれぞれ四枚のカードを支給され、そのカードを使ったじゃんけんを行う、というシンプルなルールながら、枚数が限られていることによる「読み」の要素が色濃くあり、「カイジ」の代名詞の一つといえるゲームになっています。

     ここでは未知のルールに対抗し、即興で戦略を組み立てていくプレイヤー同士は対等に見えますが、ここで「リピーター」という設定が重く効いてきます。「限定じゃんけん」を金儲けの機会と考え、何度も参加しているプレイヤーがいて、実際にカイジは、このリピーターの男に最初に騙されることになります。この「リピーター」という設定を読み直すと、策(イカサマ)を弄する敵(上位者)を倒す、という構造そのものを「カイジ」が徹底して貫いているのが分かってきます。

    「カイジ」には名品が多いので駆け足で紹介。まずは「黙示録」から。「限定じゃんけん」編は、相手の「手」のロジカルな一発特定や、枚数が限られていることを利用した戦略の面白さなど、プレイヤー同士の戦いだからこそ映える要素が幾つもあります。「Eカード」編は「皇帝」「市民」「奴隷」という三竦みのカードを使ったシンプルなゲームであるのに、そこにイカサマの仕掛けを加えることでドラマチックに演出された展開が何度読んでも見事です。福本は「血」の表現が素晴らしい。12~13巻で行われる「ティッシュくじ」編は、「Eカード」の後に行われるゲームとしてはかなり地味ながら、現在のところ、唯一カイジが相手に勝負を持ち掛けるゲームであり、それだけに対峙するラスボス・兵藤会長の手強さを裏付けるエピソードになっています(しかし、このラスボスは現在連載中の「24億脱出編」においては、息子・和也を想う子煩悩エピソードばかりが溜まっており、この時のリベンジをカイジが果たすことはもはや期待出来なさそうな気がします)。

     シリーズ第二弾「賭博破戒録カイジ」は、帝愛が経営する地下施設にカイジが放り込まれてしまった後の話で、地下施設内でのチンチロ賭博を描いた前半(1~4巻、型:②、A)と、チンチロで通貨(ペリカ)を貯め「一日外出券」を手に入れたカイジが外の世界で帝愛の運営するカジノが擁する一玉四千円のパチンコ「沼」に挑む後半(5~13巻、型:②、A)に大きく分かれます。ここでの白眉はなんといっても「沼」編。ここで紹介する漫画の中でも、唯一「パチンコ」を使ったギャンブル物というだけで価値がありますが、パチンコの当たりを阻む壁――敵サイドから見れば「常勝の仕掛け」――を「釘の森」「玉を弾く番人」「3段クルーン」の三つに分け、それぞれにトリックを仕掛ける丁寧な策略は、まさに「困難は分割せよ」を地で行くような「不可能犯罪」ものの謎解きにも似た興奮を味合わせてくれます。

    「堕天録」は全13巻がすべて、麻雀を使った特殊ゲーム「地雷ゲーム「17歩」」(型:②、B)の攻略にあてられたシリーズ第三弾。

     そのルールはこんな感じ。二人で行う麻雀として組み立てられたゲームで(通常、麻雀は四人、もしくは三人で行う)、一山34枚の牌を使い、13枚でテンパイ形の自分の手牌を作り、残り21牌を捨て牌候補として、それぞれが21牌から順に切っていくというゲーム。地雷原を踏破するようにして17牌を捨てる、という意味で「地雷ゲーム」と名付けられています。

     ここでは先に紹介した通り、胴元が部下を使って「通し」(相手の手を覗き、サインで味方に伝えること)のイカサマを行っており、その裏をいかにとるか、というところが見所になっています。一つのゲームに13巻使っている分、これまでのシリーズよりは間延びした印象が強くなってしまうとはいえ、最終的な決着の前、9~10巻に使われるトリックがとても好み。カイジが仕掛けたウルトラC的トリックだけでなく、それを見抜く「気付き」のロジックが綺麗です。

    *福本伸行の麻雀漫画(福本作品、まだ続きます)

    「堕天録」の名前が出たところで、福本伸行「天―天和通りの快男児」(全18巻、完結済・以下、「天」と表記。型:①、Aで「二人麻雀」のみB)の話をしておきましょう。主人公は天と彼に魅せられる井川ひろゆきですが、後にスピンオフ「アカギ」が描かれる天才・赤木の姿もここで初めて描かれます。「堕天録」における「地雷ゲーム「17歩」」は世にも変わった二人で行う麻雀ですが、「天」にも二人麻雀が存在します。こちらは単に「二人麻雀」という名前で、この漫画で行われた関東と関西勢の戦いである「東西戦」の最終局面となる12~15巻に収録されています。

     大まかなルールは以下の通り。大きく分けて二つのステージに分かれた麻雀で、Aステージでは通常通りに牌をツモっては切りテンパイを目指し(二人なのでチーは対面からも行えるとか、細かい取り決めはあり)、どちらかがテンパイを宣言するまでこれを行う。つまりテンパイ競争。その後のBステージでは、宣言した方がツモり続け、された方は相手の待ちと思われる牌を指定して防御し続けるというもの。防御側が二つ、牌を指定し、それが外れていた場合は攻撃側が五回ツモる権利を与えられます。

     この特殊ルールに基づいて、定石や策略を巡らせる序盤・中盤もさることながら、本格ミステリーの興奮を感じさせるのは、最終局である第17回戦。主人公側である東代表の天が満貫を達成しなければ勝てない、という状況下で、天がテンパイを宣言。西代表の原田は点数リードの状況なので、天のアガリ牌を突き止め、アガリを阻止すれば勝てるという状態です。ここで展開されるのは、「満貫条件」+「天は鳴き(チー)を入れている」+「天の捨て牌」という三重の縛りによる、徹底的な消去法推理。決着にあたる15巻では、ほぼ1冊丸々、この消去法推理が行われているのです。ひたすらロジックによって候補を絞っていき、最後の最後に残されたか細い光のような可能性。イカサマなどない、ただ純粋な勝負の世界だからこそ成立する、麻雀漫画ならではの本格ミステリー編といってもいいでしょう。

    「天」はミステリー読みの琴線に刺さるに違いない麻雀漫画であり、特に東西戦が本格的に開始する4巻からは、赤木をはじめ、ガン牌の達人・銀次(「ガン」とは牌に目印をつけ、伏せた状態でもどの牌か分かるようにすること)などといった強者たちがそれぞれの策やトリックを披露しあう、山田風太郎の忍法合戦のような面白さで(奇しくも赤木しげるが「まあ 忍法みたいなものさ 原田くん」と口にする場面もある)、特に銀次が披露する異例のガン牌トリック(8巻)とひろゆきが決勝の椅子を手にするに至った返し技(7巻)が好み。「天」16~18巻は赤木しげるの最期を描いたパートで、よく福本伸行漫画の名言として引用される箴言・格言は大体この三冊が出自ですが、このパートはギャンブル漫画から離れてしまいます(ただ、私はすごく好きですし、気持ちが弱くなるとこの三冊を読み直しにいきます)。

    「天」から派生した「アカギ—闇に降り立った天才」(全36巻、完結済。型;①、A)は後半に描かれた透明な牌を使う「鷲巣麻雀」が特に有名になりました。8~36巻まで描かれるこの凄絶な勝負は、終盤こそ引き延ばしが多く間延びした展開になったきらいはありますが、序盤はナイフのような鋭さの駆け引きが特徴でした。

     同書における白眉は4~6巻で描かれる「対浦部戦」。かなりのところを偶然に頼った最終盤までの展開は、赤木の才気に酔いしれるしかないところですが、最終局、赤木が浦部から満貫を討ち取らないと逆転しないという場面で、赤木は鳴きを繰り返し、自分の手牌が残り一牌(その牌の単騎待ちのみというこの状況を「ハダカ単騎」と呼びます)という状況になるとこう言います。

    〝決着はつくよ あのハダカ単騎には魔法がかけてある…… 浦部は手中の14牌から 必ず… この牌を選び… 振り込む……!〟(『アカギ』6巻、47話)

     ミステリー風にいえば「読者への挑戦状」とでもいうべき宣言です。つまりこの時アカギは、浦部の手の中を読み切ったうえで、彼の心理まで掌握していると宣言しているのです。なぜそんなことが言えるのか? その解明を行う48~50話では、赤木がどういう戦略を積み上げたのか、そのロジックが淡々と語られるのですが、このシーンはまるで本格ミステリーの「解決編」のよう。何度読み直しても惚れ惚れするような名シーンです。

    「銀と金」(全11巻、完結)はあらゆるタイプのギャンブルが満載された傑作で、3~4巻ではブローカーを相手にした絵画詐欺、4~5巻ではポーカー、そして10~11巻ではなんと競馬編が収録されていて、特に競馬編のトリックが好み。「なぜこんな気弱な青年を、手間のかかる仕掛けまで弄して仲間に引き込んだのか?」というホワイダニットが良い手掛かりとなっています。そして「銀と金」の麻雀編は、5~7巻で展開される「誠京麻雀」編(型:②、B)で、こちらも傑作。

     この麻雀は大企業・誠京が主宰するギャンブルで、牌を一つツモるごとに金を出し、最終的にトップを取るとその金を総取り出来るというルール。ツモる時の掛け金はアップが出来ますし、これに加えて、気に入らない牌を引いた時に、倍の金を出せば隣の牌をツモり直すことが出来る、というルールが入っています(引きたい牌を引くチャンスは二倍ですし、相手に振り込みたくない牌を引くリスクは二分の一に出来る)。

     つまり、金を持っている方が圧倒的に有利で、主催者側(胴元)はその点でも有利に立っているという、挑戦者からしてみればどうしようもなく不利なギャンブルです。このルールの中に潜む罠を突き、逆転を目論む森田たちの策略は、ギャンブル漫画ならではの熱量も備えていて、どうしようもなく読ませます。呆気に取られるようなラストの一コマの威力がピカイチ。大胆な「あらため」のふてぶてしさが見事。

     最後に短編も挙げておきましょう。短編集「銀ヤンマ」から短編「ガン辰」(型:①、A)です。ガンの名人であるガン辰が末期がんにかかってしまったが、息子を救うために最後の麻雀勝負に挑むという短編です。ガンを封じられているうえ、死期が近く視界がかすんできて、牌も指で触らないとどれがどれだか分からないという状況。この状況をいかに脱するのか。漫画という形だからこそ表現できる鮮やかなトリックと、ラストシーンの寂しさが素晴らしい逸品です。

    *オリジナルゲームの世界① ~LIAR GAME~

     オリジナルゲームをモチーフにしたギャンブル……その急先鋒であり、里程標ともいえる作品が甲斐谷忍「LIAR GAME」(全19巻、完結済。型:③、C―1ないしC―2)です。プレイヤーに一億円を貸し付け、プレイヤー同士をゲームで戦わせ、敗者は貸し付けられた金と負け分の負債を負うことになる……これが「騙し合いのゲーム」である「ライアーゲーム」の大まかな構造です。「バカ正直」なカンザキナオと、詐欺師としてマルチ集団を潰し、服役した経歴を持つ男アキヤマシンイチのタッグが活躍するのが特徴で、このアキヤマが「このゲームには必勝法がある」と喝破するところが一種のカタルシスになっています。序盤から2回戦「少数決ゲーム」2回戦敗者復活戦「リストラゲーム」など、オリジナルのルールを用いたゲームで楽しませてくれるのですが、いよいよ真価を発揮するのは3回戦「密輸ゲーム」(4~6巻収録。型:③、C―2)。個人戦からチーム戦に移行する最初のゲームになります。

     ルールはこんな感じ。「北の国」と「南の国」に分かれ、相手の国にあるATMから自分の資産を引き出し、自国まで密輸する……というのが大まかなルール。ここに、トランクの中に引き出した資金を入れて、相手チームの「取調官」と対峙するという要素が加わります。取調官は、密輸人がトランクの中に金を入れていると思ったら、「ダウト〇〇万円」とコールし、実際に入っている金額が〇〇円より下だったらダウト成功で資金ダッシュ、入っていなかったら慰謝料としてコールした金額の半額を密輸人に支払う、というルールです。

     オリジナルゲームはオリジナルであるがゆえに、ゲームバランスや定石などを丁寧に整理しておかないと、細かい取り決め(細則)ばかりが増えて大変なことになります。細則にもフェアなゲームだというニュアンスをにおわせないといけませんし、「ゲームを理解する難しさ」と「どんでん返しの快感」のバランスを上手く取らないといけないわけです。「密輸ゲーム」はルールこそ複雑であり、50回のタームを繰り返して1ゲームという驚異的な長さですが、今後の重要な敵役となるヨコヤを登場させ、「アキヤマVSヨコヤの頭脳戦」という構図を強く押し出し、情報整理を巧みに行ったことで、ダレることなく見事などんでん返しを演出しています。アキヤマが提示する「必勝法」のポイントを自分で気付けなかった時に、絶妙に「思いつけたはず! 悔しい!」となるのです。これは、良いギャンブル漫画の条件であると同時に、良い本格ミステリーの条件でもあります。

    「LIAR GAME」で他に好きなのは、4回戦予選の「感染パンデミックゲーム」(9~10巻、型:③、C-2)における意想外の展開とか、4回戦本選の「イス取りゲーム」(10~13巻、型:③、C―1)のつるべ打ちのようなどんでん返しです。特に「イス取りゲーム」は、広い島の中に隠された椅子に他のプレイヤーより早く座る……という、どう考えても体力勝負としか思えない勝負が、次第に頭脳戦としての形を明らかにし、意外な勢力の登場によって事態が急展開するなど驚きの連続。最終的な到達点については、ルールや定石が整理されていくごとに「もしや……」と気付いてしまったのですが、気付いただけに、その剛腕というべき着地点には頭が下がりました。

     なお、「LIAR GAME」は松田翔太、戸田恵梨香のW主演によりフジテレビ系列でドラマ化(2クール)、映画化(「LIAR GAME The final Stage」「LIAR GAME REBORN -再生-」)されており、ドラマで上記「感染ゲーム」までが映像化(ドラマでは名称がアレンジされ「天使と悪魔ゲーム」と命名されましたが、内容は一緒です)、映画の「final」はオリジナルですが、「REBORN」では「イス取りゲーム」編が映像化されています。ドラマが大ヒットを記録するなど、この複雑なルールや展開に多くの視聴者がついていっていた状況は圧巻ですが、ドラマは力の入った美術や劇伴によって映像的な快楽が強くなっていて、おまけに、簡略図などを利用したルールの説明などの手際が良かったため、放映当時も全くストレスなく家族みんなで楽しんでいたのを覚えています(第1期は2007年放映で、当時6歳だった妹まで覚えているのですから、相当なものです)。「REBORN」において、原作では大事な敵役であるカルト宗教の教祖・ハリモトのキャラ付けや、彼を嵌めるためのトリックが追加されるなど、細かい変更点は色々ありますが、アレンジしつつ原作をかなり高いレベルで再現しているという印象です。では、オリジナルの「final」は? ……これについては、実は超オススメ作品。詳しくは、本稿の最後「映像編」でお話ししましょう。

    *オリジナルゲームの世界② ~嘘喰い~

     今ギャンブル漫画を語るにおいて欠かせないのが、迫稔雄による漫画「嘘喰い」(全49巻、完結済。外伝に「嘘喰いと賭郎立会人」があり。型:③、C―1ないしC-2)。「総論」でも代表的作例として言及していますが、この作品の最大の特徴は「賭郎」というシステムにあります。ギャンブルのゲームを提供したうえで、その勝敗を見届ける立会人。進行、取り決め、取り立てを一手に担う立場です。零から百までの「號」が決められており、號の低い立会人は號の高い相手に「號奪戦」を仕掛けることも出来ます。勝負の裁定者であるのはもちろんですが、勝負を最も近い距離で見届けることが出来る「立会人」たちを巡るドラマが、本作の太いサブプロットになっているのは間違いないところです。

     また、「嘘喰い」の特徴的なところは、この「立会人」というシステムを含めて、多くのギャンブル漫画が棚上げにしてきた「勝ちの回収」の観点を前衛化させたところにあるのではないでしょうか。ただゲームに勝つだけではだめで、相手が実力行使に出てきた時に、自分が得た金品や自分の命を守れないと本来は意味がないわけです。

     たとえば「カイジ」では、胴元=敵という世界線で描かれているために、この「勝ちの回収」は困難なように思えますが、ゲームの勝利者が確定したタイミングで、必ず胴元側の帝愛の「上司」が現れ、「カイジの勝ちだ。お前がつけいる隙を与えたのが悪い」と裁定させる手順を経ています。「LIAR GAME」では、「これは騙し合いのゲームであり、暴力行為は厳禁。行った場合は罰金一億円」というルールが課されており、ギャンブルの世界であるにもかかわらず、どこか静謐な雰囲気が漂った作品になっています。

     ところが「嘘喰い」はどうかというと、よくSNSの感想などでも「「知」パートと「暴」パート」という言い方がされる通り、アクション・格闘シーンにも凄まじい筆力が割かれているのです(事実、作者の迫稔雄は、『嘘喰い』の完結後、カポエイラを題材とした『バトゥーキ』を連載中。こちらも滅法面白い)。例えば、19~24巻で展開される「業の櫓」というゲームは、ゲームそのものは、1~10の数字が書かれた珠を、双方のプレーヤーが二つずつ取り、二つの珠の合計値がそれぞれのパスワードになる。塔の頂上にある端末に、相手のパスワードを入力すれば勝ち……というものなのですが、ここで「暴力行為あり」という取り決めが追加されることで、智略と暴力が入り乱れる凄まじい攻防が展開されます。

     また、紙とペンを使用したボードゲームである「ラビリンス」を用いたギャンブル迷宮ラビリンス」(8~14巻収録)は、実際にあるゲームの通り、紙とペンで行う前半と、ボード上の光景を現実に再現した地下施設で行う後半に分かれており、前半は胴元=敵の仕掛けたイカサマを見抜いてその裏を取る、というシンプルな頭脳戦ですが、後半はまさに知×暴。たとえていうなら、前半が「基礎編」、後半が「応用編」のようになっているのも面白いところです。

     嘘喰い・斑目獏とマルコのペアと、対立する二人の敵、合計四人で行うチーム戦で、三十六個ある部屋のうち、それぞれのプレイヤーが別の場所から出発するという設定ですが、もし同じ部屋でかち合ってしまうと「Mタイム」というベットタイムが発動(Mはこのゲームにおけるポイントを指し、一部屋通過するごとに1Mが加算される)。このベットで負けてしまうと、30秒の間、一方的に蹂躙されることになります。

     嘘喰いとマルコは、そのまま「知」と「暴」をそれぞれ担当していますので、嘘喰いが相手プレイヤーとかち合うとその場で殺される可能性がある……という制約下で行われるゲームはスリル満点。紙の上の世界ではなく、地下のリアル世界で行うからこそ実現する大仕掛けが見所です。

    「嘘喰い」のもう一つ大きな特徴は、「実際にあるゲームをギャンブルにアレンジする巧さ」です。これは『地雷グリコ』にも直系で受け継がれている要素でしょう。前述の「ラビリンス」は、日本ではあまりなじみがないものの、実際にあるゲームですし、序盤で行われる「ハングマン」(4~7巻)は相手の考えた単語を当てる「ハングマン」というゲームに「ババ抜き」をミックスしたゲームになります。他にも、「四神包囲」(31~32巻)は「あっち向いてホイ」がベース、「矛盾遊戯」(34巻)は「たたいて・かぶって・ジャンケンポン」がベース、「ハンド・チョッパー」(36巻)は「割りばし」などいろいろな呼び名があるようですが、「両方の指を一本ずつ立てて、入れ替わりに相手の指を叩き、一本で叩かれたら自分の立てている指を一本増やす、二本で叩かれたら二本増やす、のようにして、五本指が立ったら負け」という子供の手遊びをモチーフにしたギャンブル。身近なもので、誰もがやったことのある遊びだけに、「どのように逆転するのか」という興味が一段と高まるのです。

     この傾向の最高傑作は、「嘘喰い」の最終ギャンブルである「ハンカチ落とし」編(45~49巻、型:③、C―1)でしょう。

     ルールは以下の通り。この「ハンカチ落とし」は二人で行うギャンブルで、プレイヤーはハンカチを落とす「D側」(Drop側)と、椅子に座って振り向く側「C側」(Check側)に分かれ、この役割を交互に入れ替えます。ルールは簡単で、一分間の制限時間の間に、Cが振り返った時、Dが落としたハンカチがあればCの勝ち、Cが振り返った時、Dがハンカチをまだ手に持っていたらCの負けです。一分間の間に、Dは必ずハンカチを落とし、Cは必ず振り向かなくてはなりません。この時、ハンカチを落として、発見されるまでの時間(秒数)が「座視の際」と呼ばれ、ゲームの行方を左右する重要な要素になります。すなわち、Cがチェックに失敗した時、これまでに溜めた「座視の際」の秒数+一分間分の臨死薬を体に注射、一度死ななければならないのです。この臨死薬は、五分を超えた場合、蘇生は困難になるという設定です。いかに長くハンカチを落としていられるか、いかに早くハンカチを見つけられるか。見慣れたゲームが、生死を賭けた「読み合い」に変貌してしまうこのスリルこそが「嘘喰い」の魅力です。

     プレイヤー二人もスーツなら、立会人もスーツということで、椅子に座った顔の良いスーツの男と、ハンカチを握った顔の良いスーツの男の対決を、顔の良いスーツの男が裁定するという、一種異様かつ贅沢な緊張感を持ったギャンブルです。誰がどう見ても、これで「殺し合っている」とは思えない、静謐で濃密な時間。登場人物と共にその時間を味わうという唯一無二の体験を与えてくれる傑作です。最終的な着地点も見事ですが、それまでの駆け引き・攻防がドラマチックに描かれているのも素晴らしく、まさにギャンブル漫画の最高到達点の一つ――といえるでしょう。

     一つ、と言ったのは、「嘘喰い」にはもう一つ「最高到達点」があるからです。それは40~43巻に展開される「エア・ポーカー」編(型:③、B)

     ルール……つまり、最初に開示されるルールは以下の通り。ベースとなっているのはタイトル通り「ポーカー」なのですが、二人のプレイヤーに配られるのは数字が書かれた5枚の鉄のカードのみ。全部で10枚だけで行われるポーカーで、勝負は5回戦。つまり、互いに出すカードは1枚ずつなのです。プレイヤーは中に水を満たしたガラス張りの部屋の中で、中に酸素の入ったボンベを「チップ」としながら、このポーカーを行います。この勝負に勝つには、そもそも、カードの数字の法則性を推理しなければならない、という状況です。

     このゲームが素晴らしいのは、段階的な謎解き・絵解きが行われることで、少しずつゲームの全貌が明らかになっていく、そのスリリングな過程です。最初に提示された謎は、今書いたように「カードの数字の法則性」ですが、この後も段階的に情報が提示されていき、少しずつ「謎」そのものが形を変えていくのです。最初に読んだ時最も感動したのは「駆け引きのすべてが分かる」ことでした。予想出来る、ということではありません。これだけ複雑な構造と、二枚も三枚も裏があるゲームだというのに、今必要な情報が何で、ここまで情報が明かされたからプレイヤーはこの行動を取っていて、そうなってくると次にはこの要素が気になってくる……という展開が、凄まじくクリアーに整理されているのです。最も感動するのは「天災」という事項の扱いです。ゲームのルール説明の際、「ある特殊な負け方をすると、「天災」が発生し、賭けたチップの倍額を支払わなければならない」というルールが明かされるのですが、その「ある特殊な負け方」はその時点では全く分かりません。しかし、ゲームが進んできた時、読者が「そういえばあれってなんだったんだろう」と思ったその瞬間に、見開きコマでその真相が開示されるのです。この情報提示のリズムが圧倒的に巧いからこそ、置いて行かれずについていける……何度読んでも惚れ惚れしてしまうような技術です。作者は読者の思考を制御する点において、アガサ・クリスティーに完全に比肩するといっていいでしょう(なんだその比喩は)。

    *オリジナルゲームの世界3 ~ジャンケットバンク~

     さて、次は現在連載中の漫画です。田中一行「ジャンケットバンク」(現在13巻まで。連載中。型:③、C―2)。カラス銀行中央支店は地下で「賭場」を経営しており、銀行員・御手洗暉は、ギャンブラー・真経津晨に魅せられ、ギャンブルの世界に足を踏み入れていく……というのが大まかな設定で、この「賭場」ではギャンブラーの戦績によって「ランク」が上昇するため、少しずつ敵が強くなっていくという仕掛け。胴元は銀行であり、銀行内のそれぞれの班がギャンブラーを擁し、互いのギャンブラーを戦わせるという構造で、これは「嘘喰い」と同様の「立会人モデル」といっていいでしょう。「嘘喰い」と異なるのは、大抵の場合、ゲームには「罠」が仕掛けられており、その「罠」を見抜かないと勝つことが出来ないという部分です。

     この「罠」ですが、実は作品によって扱いが違います。例えば「LIAR GAME」にも「罠」があり、主人公・カンザキナオはたびたびゲームの冒頭でそれを見抜くのですが、ここでいう「罠」とは「各人が利得を最優先すると、事務局(胴元)が得をする仕掛けになっている」というものなのです。たとえば10枚のチップをプレイヤーの2人で奪い合う時、プレイヤーの中で奪い合っていればそれはその中での「勝ち」「負け」ですが、このチップが「流れる」というルールがあって、この「流れ」があるとプレイヤーにわたるはずの金を胴元が得てしまうではないか――というようなもの(「LIAR GAME」における「24連装ロシアンルーレット」のシーン)。「LIAR GAME」でいう「罠」とは「ギャンブルは胴元が必ず儲かるように出来ている」という根本原理を突くもので、カンザキの信条である「プレイヤー同士団結しましょう」という主張に繋がる飛び石に過ぎません。「嘘喰い」ではどうか。「エア・ポーカー」編に顕著ですが、立会人はルール説明の段階で堂々と「このルールには罠(「天災」というルール)があります」と宣言します。彼らの態度は、徹底してフェアであり、「罠」もまたルールの一部に過ぎないのです。

     さて、では「ジャンケットバンク」はどうかというと――ここでいう「罠」は、その存在に気付けなければ命さえ失うような危険なものなのです。この構造が、実にスリリング。こうした「罠」の存在が盤面外の返し技のような鮮やかさで行われるのも、本作の魅力になっています。プレイヤーは説明されたルールだけでなく、その裏の裏まで完璧に読み切らなければ勝てないのです。先ほど説明したギャンブラーのランクは、賭ける命の度合いを示すもので、死なないまでもかなりのダメージを負う「1/2ライフ(ハーフライフ)」や、負けたら死亡必至の「ワンヘッド」などはかなり危険を伴うゲームです。漫画では3巻以降がこの「1/2ライフ」になっています。「嘘喰い」はギャンブルにおける「勝ちの回収」という側面をアクション漫画の「暴」として先鋭化させた――と指摘しましたが、「ジャンケットバンク」でも「勝ちの回収」という鍵が「罠」という形で現れています。そういう意味では、ここでは「勝ちの回収」まで含めて「知」の領域で表現されているといっていいでしょう。

     まず特筆すべき傑作として挙げたいのが、その3巻から4巻にかけて展開されるゲーム「ジャックポット・ジニー」

     ルールはこんな感じ。六枚のカードを使ったゲームで、カードの効果によって、プレイヤーの頭上の金貨が増えていくというものです。6枚中4枚は「黄金」。自らの金貨を4倍に増やす。1枚は「盗賊」。相手の金貨を半分奪います。1枚は「魔人」。これは守備のカードで、相手の「盗賊」を無効にしたうえで、相手の金貨を90%奪うものです。金貨は「黄金」によって等比級数的に増えていきますが、「魔人」の使い方を誤らなければ一発逆転が可能、というなかなか「そそる」ルールです。

     ゲームの展開は序盤から中盤にかけても意外なものですが、真経津に寄り添って読む読者からすると「拍子抜け」といった感じの意外さ。それに油断していると、終盤、予想外の方向から襲い掛かる――しかし主人公のパーソナリティーが見事に活かされた――とんでもない「罠」の正体には驚愕必至。それも、冒頭から完璧に伏線が張られているのです。

     また、「ライフ・イズ・オークショニア」(10~11巻)も素晴らしい。真経津のかつての敵であった村雨と獅子神のタッグが挑むゲームです。

     ルールは以下の通り。1~4の数字が書かれた札を使って競売を行い、重複した数字は無効とし、残った数字の中で最大数を提示したプレイヤーの勝利となりますが、勝利したプレイヤーは提示した数字の強さの電流を受けなければいけないというルール。提示額の合計が16を超えると死に至る、という設定です。

     いかにもシンプルなルールですが、このエピソードが素晴らしいのは、「理論上の勝ち」と「「罠」を利用した盤面外の勝ち」、二つの勝ちパターンをどちらも見せてくれることでしょう。特に「理論上の勝ち」が出てくる回は、連載を通勤前の朝の気怠い状態で読んでいたのですが、「見たい」と思っていた戦術があまりにも見事に決まったので、思わず立ち上がってしまったのを覚えています。

     現在完結済の12~13巻「シヴァリング・ファイア」は、ジャンケンによって室温を操作するというルールのゲームですが、史上最強の敵が真経津に立ちはだかる回で、最後まで結末を読ませない。結末を目にした時、思わず「マジで?」と声が出ました。

     また、田中一行には、「エンバンメイズ」(全6巻、完結済。型:③、B)という過去作があります。こちらは世にも珍しい、ダーツを主題にしたギャンブル漫画で、ルールはダーツの「カウントアップ」を基にしていますが(単純に点数を競うもので、20のトリプルである60点が一投で出せる最高点)、そこに様々なルールを掛け合わせてギャンブルにしています。2巻の「VS華原清六」編(もしくは「実験体と博士」ゲーム? 作中で正式な名前は提示されていません)では、毒ガスを使ったゲームに挑みます。

     ルールは以下の通り。このゲームには「博士の矢」と名付けられた白い矢と、「実験体の矢」という赤い矢の二本を使います。「博士の矢」で的を射てば、10点につき1分間、そのプレイヤーのいる部屋に入る毒ガスを止められます。「実験体の矢」を射てば、的に当てた点数をそのまま得ることが出来ますが、10点につき1分間分の毒ガスが追加で流れ込みます。この時、1080点を獲得するか、相手プレイヤーが死亡すれば勝ちになります。「エンバンメイズ」世界では、「絶対に狙ったところに射てる」という設定で行われるため、基本的には3投=180点の計算で話が進みますが、ルールはシンプルに見えるのに、二転三転の駆け引きがあって読ませます。

     私のフェイバリットは4巻における「VS志道都」編(もしくは「早投げカウントアップ」編)。1000個の的を使った「早投げ」勝負で、各プレイヤーは1000個の的を広い空間に配置し、相手を「迷路」に誘うことが出来ます。「エンバンメイズ」の主人公・烏丸煌は「迷宮の悪魔」と呼ばれているので、その悪魔が実際に作る迷路とはどんなものか――というのが、読者も気になる所ですが、まずここで作者は見事に読者の予想を外してきます。そのうえで、意外な展開と駆け引きを連鎖させ、最後には見事な返し技まで決まるという逸品。絵面としては完全にアクション漫画なので、ギャンブル物という文脈からはやや外れるかもしれませんが、心に残る名勝負の一つです。

    *スポーツ×ギャンブル?

     スポーツ漫画も実はギャンブルと相性が良い。これは何も、野球賭博とかサッカー賭博とかそういうグレーな話ではなく、「ド素人同然のプレイヤーが策略によっていかにしてプロプレイヤーに勝つか?」という見せ方が出来る、という意味です。この分野においても福本伸行に作例があり、「零」を主役にしたシリーズ第二弾の「賭博覇王伝 零 ギャン鬼編」の1~2巻には、零とプロプレイヤーによるゴルフ対決が描かれています(型:③、A)。1ホール(パー3)のみの勝負で、零が勝てたら、このプロの練習場建設のために立ち退きさせられようとしている高齢者たちをそのまま置いてやってほしい、という条件で行われる勝負。1ホールのみとはいえ、クラブも握ったことのないド素人の零が、一体どうやってプロに勝つのか? かなり狡い手を使いながらも、幾つもの仕掛けを打ってこの状況を逆転してしまう手数の多さが魅力です。

     スポーツ×ギャンブルの代表的作例は、先にも紹介した甲斐谷忍の「ONE OUTS」(全20巻、完結済。型:①、A)。沖縄で1ピッチのみの賭博野球を行っていた渡久地東亜は駆け引きのプロであり、賭博野球では負けなしだったが、プロである児島との勝負に負けて、リカオンズというチームのピッチャーとしてプロ野球の世界に足を踏み入れることになる。しかし、彼が投げられるのはストレートのみ。にもかかわらず、彼はリカオンズのオーナーと「ワンナウツ契約」という奇妙な取り決めを結ぶ。それは「試合でワンアウトを取るごとに500万円もらい、1失点するごとに5000万を支払う」というものだった。この無茶苦茶な契約を軸に、彼がいかにプロたちに勝っていくか、というのがストーリーの大枠。

     私自身は野球がすごく好きというわけではなく、ルールも詳しいところまではよく知らないのですが、この「ONE OUTS」はそんな私でもすごく面白く読めた漫画です。というか、たとえば4巻では、リカオンズが16失点してしまった試合で渡久地が「ウルトラC」を使い状況をひっくり返す、という展開なのですが、ここで行われるのは「野球マイナークソルール選手権」みたいな抱腹絶倒の泥仕合で、野球好きでもこんなの見たことないんじゃないの、という超展開が繰り広げられます。

     また、7~10巻においては、「ブルー・マーズ」という球団との連戦が描かれますが、ここでのテーマは「イカサマを使ってくる球団相手に、いかに立ち向かうか?」という「イカサマの解明→その逆用」という②の公式を大胆に使った騙し合い。渡久地はブルー・マーズの球場を「トリックスタジアム」だと喝破し、彼らが仕込んだトリックの数々に迫っていきます。まさに「詐欺師VS詐欺師」の頂上決戦ともいえる大一番。

     この後、ワンナウツ契約そのものの新展開に潜んだ少年漫画的「覚醒」エピソードの連鎖や、「なぜ80キロ~120キロ台のストレートしか投げられない渡久地の球を打てないのか」というそもそもの疑問に対する謎解きが行われ、その対策をする敵チームの姿が描かれる終盤など(漫画「巨人の星」における、星飛雄馬の「消える魔球」の謎を解明しようとする終盤の展開をなぞっているかのようです――あれだって、構造は本格ミステリーだもんなぁ!)、見所満載。野球が分からずとも楽しく読める野球漫画として、大いにオススメです。

     この傾向の作品で、今も続いているのが原作:渡辺ツルヤ、作画:西崎泰正による『神様のバレー』(既刊32巻、連載中)。「バレーの神」を自称する天才アナリスト・阿月は、相手の弱点を見つけ、それを突く「嫌がらせの天才」であるという設定で、彼が「万年1回戦負けのチームを全国優勝させる」という難題に挑む漫画となっています。ギャンブルというと大袈裟かもしれませんが、阿月が仕掛ける人を人とも思わないような(自分のチームに対してすら!)策略の数々は、ここに紹介した作品群に比肩する面白さを備えています。

     こうした「スポーツ×ギャンブル」ものの面白さは、それぞれで展開される策略はもちろん、「相手の心理の隙を突く」というギャンブル物のシンプルな魅力が、体を武器とするスポーツの世界に映えることだと思います。この特集の冒頭で取り上げた『地雷グリコ』においても、こうした「スポーツ×ギャンブル」の要素が一つだけあり、それは主人公である真兎が中学生の頃、「運動会のリレーで陸上部にいかに勝つか」という難題に答えたという作品冒頭のエピソードです。真兎の「勝負強さ」を読者に印象付けるためのいわゆる「つかみ」のエピソードですが、ここで真兎が用意した仕掛けは、まさに陸上部部員たちの「心理の隙」を突いたものといえるでしょう。

    *ポーカーの世界

     ポーカーをモチーフにした作品はこれまでも紹介してきました。青崎有吾「フォールーム・ポーカー」、「嘘喰い」の「エア・ポーカー」編、「銀と金」にもポーカー回、小説編の『悪党どもはお楽しみ』も大半がポーカー……ルールを覚えるのは大変ですが、一度覚えてしまえば楽しめるものです。しかし、実はポーカーもののギャンブルにおいて、イカサマを仕掛けている場合は、そのパターンはあまり多くありません。味方が裏から覗いてカードの内容を伝える「通し」や、カードに印をつける「ガン」など、使える手は限られてきます。だからこそ、そうした定石に縛られない、純粋な頭脳戦である「フォールーム・ポーカー」や「エア・ポーカー」が独自性を持って光り輝くのです。

     しかし、もう一つ、こうした定石に縛られないポーカーものがあります。それは福本伸行(またかよ!)の『賭博覇王伝 零 ギャン鬼編』の2~4巻で展開された「100枚ポーカー」(型;②、B)

     ルールは以下の通り。互いに52枚ワンセットのトランプを持ち、制限時間内に10セットポーカーの手役を作ります。この時、5枚×10セット×2人分のトランプを使うので「100枚ポーカー」というわけ。セットを作ったら伏せて置き、先攻から相手の好きなセットを指定して攻撃、開示したうえで、まず勝敗を判断、手役を構成するトランプのうち最も高い数字を勝者の得点としていく……という取り決めです。これだけならただの総力戦のポーカーですが、この後対戦相手のジュンコが仕掛ける「〇〇〇〇タイム」が効いています。資産の差があるので、主人公の零は絶対に負けられない状態で挑むのですが、ここで展開されるのは、まさに「ロジックの鬼」としか言いようのない鬼詰め(笑)。徹底的な読みによって次々に勝ちを挙げていく零のロジックが痛快です。

     また、この「100枚ポーカー」は、敵が提示した条件によって行われる前半パート(2~3巻)と、零が提示したもう一つのルールを追加して行われる後半パート(4巻)に分かれているのですが、この後半パートの面白さも無類です。ルールを聞いた時、「そのルールを追加した方がゲームとしては面白いんじゃ……」と思ったまさにそのルールを零が提示したので、嬉しくなってしまったのです(ジュンコとしては、「常勝」の仕掛けを作るために、自分の普段のゲームでは入れられないルールでした)。

    *麻雀漫画の世界

     麻雀漫画にはギャンブル物の名作が多く、どれを挙げるか迷ってしまいますが、あくまでも「本格ミステリーファン向け」のものを二作品挙げてみましょう。まずは青山広美による「バード ―砂漠の勝負師―」(全2巻、完結済。型;①、A)。「バード」シリーズはこの後も続いていますが、まずは入門編としてこの作品を取り上げます。ここで描かれるのは「全自動卓天和」という大トリック。天和とは、親が最初に配られた14枚の牌でアガリ形が成立していることをいい、役満の一種ですが、手積み麻雀の時代は「サイコロ振り」と「積み込み」の技術があればイカサマで達成できたものです(阿佐田哲也作品では、二つのサイコロで「2」と「2」を出し、その位置の配牌に必要な牌を積み込んでおく「2の2の天和」がよく描かれますし、それとは全く違う技ではありますが、「天」の主人公である天も当初はこの「天和」専門のサマ師として登場しました)。

     ところが、全て自動で牌を設置する全自動卓では絶対に積み込みやイカサマなど出来ないはず……その不可能を可能にしたのが、この「バード」というわけ。「全自動卓天和」を成し遂げるのは「蛇」と呼ばれた雀士で、対する主人公・バードはこのためにアメリカから連れてこられたマジシャン。果たして彼は、トリックを見破り勝負に勝つことが出来るのか? バードが「全自動卓天和」を目の当たりにした際の「ビューティフル…」という言葉は、美しいトリックを目にした時、思わず呟きたくなるような名台詞です。ちなみに、この「バード」はのちに山根和俊の作画により「バード 最凶雀士VS天才魔術師」としてリメイクされています。リメイクでは一部トリックが異なるのももちろんですが、青山オリジナル版はグロに、山根リメイク版はエロに寄っているという特徴もあり、読み比べるのもユニークな作品です。

     青山広美はもともとミステリーセンスが素晴らしい作者で、この〈バード〉シリーズもさることながら、「九連宝燈殺人事件」といった直球の本格ミステリーもありますし、世代的には「少年チャンピオン」にて連載された「GAMBLE FISH」(原作:青山広美、作画:山根和俊)も重要で、こちらは学園×ギャンブル物の傑作として、「賭ケグルイ」(原作:河本ほむら、作画:尚村透)やあるいは『地雷グリコ』に先立つものです。

     閑話休題。数ある麻雀漫画の中で、次に紹介するのはカミムラ晋作による麻雀漫画「マジャン ~畏村奇聞~」(全11巻、完結済。型:②、B)です。父の故郷を訪れた中学生・山里卓次は、村の掟により行われる「マジャン」という遊戯に巻き込まれる。「マジャン」とはつまり「麻雀」のことなのですが、通常の麻雀にはない特殊ルールが一つ追加される仕掛けになっています。しかし、村の住民は卓次のことを敵対視していますし、カモだと思っているので、当然そんな特殊ルールの内容を教えてはくれません。卓次が行うのは、①どんな特殊ルールが使われているかを推理により特定し、②そのルールを利用するか、あるいは裏を取って反撃する、という難題。プレイヤーの間にルールの知悉度という不均衡が生じているうえ、上位者としてのプレイヤーを打ち負かしていくという要素もあるので、「カイジ」型にかなり近い構造であるといっていいでしょう。

     この特殊ルールそのものが面白く、1~2巻で展開される取り決め「バンサン」や、4巻で行われる取り決め「牌叛」など、麻雀のゲームバランスの一部を弄るユニークなものもありますし、5~6巻の「聴用財神」では古の麻雀ルールを蘇らせるなど、バリエーションは多岐にわたっています。そうしたルールが産み出す意想外の「定石」を読むのも楽しく、勝負師として強くなっていく卓次の成長も見どころです。私のお気に入りは、出て来る数字を確かめるだけで頭が痛くなる7~8巻の取り決め「月無」です。いやあ恐ろしいルール過ぎる。絶対こんなので打っちゃダメですよ。

    〇映像編

     映像の世界でも、ギャンブル物の名作は作られています。しかし、ここまでに紹介した作品群に並べられるような、いわゆる「オリジナルゲームを用いた」「本格ミステリーにも通じる魅力を持った」ギャンブル物となると、かなり数は限られてきます。「コンゲーム」まで含めれば、「スティング」を含め数々の名作映画がありますし、日本でも「コンフィデンスマンJP」が傑作を連発していますが(映画「ロマンス編」「英雄編」は、多重どんでん返しと怒涛の伏線回収を備えた、本格ミステリーマニアも大満足の作品。「ロマンス編」なんかは回想の使い方が上手くて惚れ惚れとしてしまう)、「ギャンブル」それ自体が目的であるような作品は、やはり画が動かない分作りにくいのかもしれません。

     そんな中でも、「カイジ」「嘘喰い」は映画化、「LIAR GAME」はドラマ化・映画化されるなど、やはり需要は確かに存在します。中でも傑作として挙げたいのが、「LIAR GAME The final Stage」(2010年)。映画の一本目ですが、こちらは原作にはないオリジナルゲーム「エデンの園ゲーム」を扱った作品。ドラマ「LIAR GAME」は、細かいアレンジを除けばほとんど原作をなぞっており、第二期のラストで行われる「ゴールドラッシュゲーム」だけはドラマオリジナルですが、基となっているゲームは原作の「密輸ゲーム」であり、アレンジといって差し支えない範囲。完全オリジナルといえるのは、この映画における「エデンの園ゲーム」だけなのです。

     でも、邦画オリジナル展開なんて大丈夫なの――と不安になる方もいるでしょう。しかし、この映画には、ドラマ「謎解きはディナーのあとで」「貴族探偵」「ラストマン―全盲の捜査官―」などを書いた脚本家・黒岩勉が参加しており、彼の手によって徹底的にゲームが作りこまれているのです。原作にそのままあっても、不思議ではない程に。また、そもそもが映像作品に合わせて設計されたのもあってか、映像での演出に最適化するように作られている印象があり、見ていてめちゃくちゃ楽しいゲームに仕上がっているのです。

     ゲームのルール、そのあらましはこんな感じ。このゲームは十一名のプレイヤーで行い、「金リンゴ」「銀リンゴ」「赤リンゴ」の三つを使います。プレイヤーは投票室に入って、一つリンゴを選び、投票します。基本的には「多数決」で、結果は以下に整理するパターンのみです。

    ・「赤」が11名全員揃えば、全員が+1億円。
    ・「金」「銀」のみ投票されている場合、「多数派」が+1億円、「少数派」が-1億円。
    ・「金」「銀」のみ投票かつ片方の投票者が「1名」の場合、1名はボーナスで+2億円、残りは-1億円。
    ・「赤」と「金」または「銀」が投票されており、「赤」の票数が1でない場合、「金」「銀」の投票者は全員+1億円、「赤」の投票者は-1億円。
    ・「赤」と「金」または「銀」が投票されており、「赤」の票数が1の場合、「金」「銀」の投票者は+1億円、「赤」投票者は氏名公表の上、-10億円。

     少し長くなりましたが、全員が利得を得る条件が揃いながらも(赤11のケース)、「赤」投票には高い確率でマイナスのリスクがあり(最悪の場合-10億円)、「金」「銀」のみで勝つには多数派になり続ける必要がある――と、「ただリンゴを投票するだけ」のシンプルなルールでありながら、様々なパターンや展開が考えられるゲームになっています。他にもいろいろな細かい取り決めがあるのですが、後に回収する伏線は全て提示されるフェアプレイも見事ながら(投票時間を示す時計盤などなど、後の展開の手掛かりとなるものは全てカメラの画角にさりげなく収められているのが高ポイント)、さらに特筆すべきは「開票結果を提示するごとにどんでん返しがある」というキマった構成。ゲームは全部で13回戦に分かれるわけですが、第1回戦の「ああ、はいはい、カンザキが『みんなを信じましょう!』って言ういつものやつね」からの予定調和的どんでん返しから、全く予想もつかないところから飛んでくる裏切りまで、グラデーションをつけたどんでん返しが次々に連鎖するのです。この、贅沢な構成。しかも、本格ミステリー好きは驚くなかれ。中盤以降、このゲームにはアキヤマの敵となりうるような驚異のプレイヤー「X」が存在することが推理によって判明し――この「X」を、アキヤマが消去法推理によって導き出すのだ! まさにこの設定でしか出来ない堂々たる本格ミステリー。かなり駆け足の展開ながら、犯人を指摘出来る手がかりは十分に提示されているのです。「X」の正体が明らかになってからの、アキヤマ対Xの構図もしっかりまとめ上げていて、これぞ本物の傑作というべき出来栄え。

     ところで、この映画「The final Stage」とうたわれていますが、この時点では原作「LIAR GAME」は完結していません。そこで何をするかというと、映画の結末に至って、「ライアーゲームとはなんだったのか」を語る短いシーンが描かれ、ゲームの終幕が描かれているのです。この真相は、もちろん原作とは違うもの。胴元として金を集める、という目的を廃したうえで、「なぜこんな大掛かりなゲームを仕掛けるのか」という大疑問に挑んだ作品は、やはりスッキリと説明してくれるものは少ないですが(ゲーム「ダンガンロンパ」シリーズも同じ構造があり、そもそもデスゲームものが抱えている弱点であるともいえます)、原作における「ライアーゲーム」の真相は、終盤のヨコヤのハッタリにも効いてくるユニークなもので面白いと思います。なお、映画は「final」を謳いつつも、原作の「イス取りゲーム」を映像化した「再生 -REBORN」でちゃっかり復活。お約束ですね。

     映像編はほとんど「LIAR GAME」の紹介にあててしまいましたが、簡単にもう一作だけ。映画化作品、という枠組みでは「賭ケグルイ」の映画第一弾も見逃せないところです。ドラマに続くオリジナル・ストーリーとして構想された本作は、同作の世界観を生かしながら、「心理の足跡」による鮮やかな謎解きをみせた一作です。

    〇最後に ~ギャンブル物のヒューマニズム~

     以上のように、ギャンブルを扱った頭脳戦を描く作品は、本格ミステリーにも通じる知的快感を与えてくれるものです。だからこそ、ミステリーを中心に取り上げるこの読書日記において、こんなにもとんでもない文字数を使って紹介したわけですが……。

     ここまで書いてきた流れで言えば、ギャンブルミステリーの世界にも変遷があり、それは①単純型から③立会人型への先鋭化、A:現実にあるゲームからCオリジナルのゲームへの「奇妙な一般化」、と大雑把に言うことが出来るのかもしれません。しかし、それは一作ごとにそれぞれの作者が試行錯誤(「勝ちの回収」を「暴力」や「罠」の形で描く、あるいは、現実のゲームを基にオリジナルの物を作るなど)を加えてきたもので一概には言い尽くせない奥深さがあります。今はただ、一つでも多くの新たな傑作を読めることを願うばかりです。

    (2023年11月)

第69回2023.11.24
これがほんとの「読書日記」 ~10月に読んだ本を時系列順にざっくり紹介~

  • 古本屋探偵登場 古本屋探偵の事件簿、書影

    『古本屋探偵登場 
    古本屋探偵の事件簿』
    (創元推理文庫)

  • 〇評論本の話題から

     メフィスト・リーダーズ・クラブ(MRC)発信の書籍『ミステリースクール』(講談社)が昨月に刊行されました。十三名の書評家・評論家が参加したMRCのLINE企画の書籍化です。MRCのLINEを友達登録(+企画や対象書評家のお気に入り登録など)をしていると、毎週書評が配信されてくるという、ある意味贅沢な企画だったんですよね。十三名がそれぞれ違ったフィールドの作品を紹介していくというスタイルも面白く、執筆陣とその担当領域を列挙していくと、末國善己(古典)、佳多山大地(本格)、千街晶之(新本格)、円堂都司昭(社会派)、村上貴史(翻訳)、杉江松恋(特殊設定)、栗俣力也(現代/ライトノベル)、吉野仁(冒険)、瀧井朝世(一般文芸)、若林踏(警察小説)、吉田伸子(恋愛)、大森望(SF)、政宗九(短編)となっています。

     このように、ミステリーという共通項はあっても、ミステリーの中の様々なサブジャンルについて基本書・傑作を教えてくれる内容ですし、瀧井朝世の「一般文芸」、大森望の「SF」のように、「本来は別ジャンルの作品だけれど、ミステリー好きが読んでも楽しめる」という視点も提示してくれるのです。ちなみに、私の作品でいうと、短編「二〇二一年度入試問題という題の推理小説」(『入れ子細工の夜』)を、政宗九「短編」の項で取り上げてもらっています(他にも見逃していたら、ごめんなさい)。

     また、MRCのLINE企画では、アンケート機能も利用しています。読者の方にアンケート形式の質問を投げかけ(例えば「月に何冊くらい本を読みますか?」という質問があったら、「A 1~3冊、B 4~6冊……」のように選択肢があるというイメージ)、そのアンケート結果を見て楽しむ、という感じです。「本格」編を担当した佳多山大地は、アンケート機能を使い「次以降に作品紹介を希望する『形式』(クローズド・サークルや顔のない死体など)」を聞き取って選書をしています。そうした、読者とのコミュニケーションの様子を探るのも面白い本です。

     十三人の書評家が、それぞれ十五回の書評を担当したという関係上、500ページを超える大ボリュームの評論本となっていますが、独自の試みという点でも読み応えのある一冊になっていると思います。ちなみに、私は取り上げられた本のうち、36冊(全体は195冊)、未読のものがあったので、気になったものから読んでいこうと思います。

     これはいよいよ余談ですが、MRCでは、この「ミステリースクール」という企画の次に、作家五名が書評を配信する「ミステリーツアー」という企画が立ち上がっていて、参加メンバーは青崎有吾、伊吹亜門、似鳥鶏、真下みこと、私の五名となっています。私が今週配信したのが第13回なので、こちらも終盤ですが、選書にクセがあったり、作家の生活が時折滲んだりするので、読んでいて面白いです。伊吹亜門が小倉に行く用事があった際に、松本清張ゆかりの地だからと読んだ松本清張『球形の季節』(文春文庫)を紹介する回、良かったなぁ。

    〇10月の日記風本紹介

     さて、今回ですが、読書や執筆以外の用事で忙しかったり、季節の変わり目も相まってちょっと低空飛行の体調だったりしたので、いつものように一冊・一作家をじっくり取り上げるというのではなく、日記のように、10月に読んで印象に残った本をつらつらと綴っていこうと思います。これがほんとの「読書日記」ということで、どうか一つ。

     10月の頭は書店訪問で広島、大阪に行き(本当は京都と名古屋にも行く予定だったのですが、途中で体調が悪くなり、断念)、移動時間中にせっせと本を読んでいました。読めたのは①鮎川哲也『黒い白鳥』(創元推理文庫、再読)、②柚月裕子『孤狼の血』(角川文庫、初読)、③松本清張『内海の輪 新装版』(角川文庫、初読)、④西村京太郎『広島電鉄殺人事件』(新潮文庫、初読)、⑤高田崇文『QED 神器封殺』(講談社文庫、初読)、⑥東野圭吾『しのぶセンセにサヨナラ 新装版』(講談社文庫、再読)というラインナップ。①・⑤は日本全国を行き来する話なので、行脚旅行にうってつけとチョイス。②は広島の呉市に行く用事があるので、「呉原市」を舞台にしたこの作品を読むなら今しかないとセレクト。呉→広島間はJR呉線で30~40分ほどあったのですが、広島駅への帰り道に読む本がなくなったので、啓文社ゆめタウン呉店で現地調達したのが③・④。呉線からは瀬戸内海が臨めるので、ちょうど良いと思ったのが③で、書店訪問の時に使った広島電鉄が出て来るからと買ってみたのが④。⑥も現地調達で、こちらは紀伊国屋書店グランフロント大阪店で購入。大阪の雰囲気を味わえる本を選びたかったので。

     中でも感動したのは、鮎川哲也『黒い白鳥』の再読。高校生の頃、まだまだ鮎川哲也の楽しみ方が分からず、『黒いトランク』についていけなくてイマイチな気分で読み終えてしまった……という時、「鮎川哲也をいかに楽しむか」を指南してくれたのが、この創元推理文庫版『黒い白鳥』の有栖川有栖解説でした。鮎川哲也に関する「伝説的なエピソード」他、作品のポイントを14ページにもわたって詳らかにする、「静かな熱量」ともいうべき内容が面白かったからです(創元推理文庫版『死のある風景』の麻耶雄嵩解説も双璧で、こちらはロジックのポイントの美しさを簡明に語っていたので、「そうか、鮎川哲也ってそういう風に楽しめばいいのか」と分かったのでした)。

     有栖川解説を読んだおかげで、その後読んだ鮎川哲也作品はどれも面白く、再読した『黒いトランク』も見違えるほど面白く感じた……という次第。とはいえ、『黒い白鳥』そのものの再読は機会を逃し続けていたので、えいやっと、今回旅行に持って行ったのです。そうしたら、面白いのなんの。橋の上から落ちた死体が、電車の屋根の上に乗って移動し、やがて発見される、という発端からして面白いですし、容疑者が次第に炙り出されていく過程も読み応えがあります。アリバイトリックも二段構え、三段構えになっていて、後半は全編が解決編であるかのような、静かな興奮に満ち溢れています。

     最後のアリバイを突き崩す二つの鍵のうち、先に明かされる一つの方は、作中でも何度も強調されることもあり(章題にも「声優は何を知ったか」とうたわれているほど)、再読時にもはっきり覚えていて、伏線を確認することが出来たのですが、恥ずかしながら二つ目の方は忘れていました。そして、その手掛かりのあまりの鮮やかさに改めて感動してしまったのです。序盤からはっきりと手袋を投げている、その潔さと堂々とした態度にも感服してしまいます。何より新幹線の中で読むというのが良い。

     電車移動だから、という理由で楽しめたのは西村京太郎『広島電鉄殺人事件』(新潮文庫)も同じ。こちらは2018年が初刊なので、かなり新しめの作品ですが、実際に広島電鉄に乗った直後だと、各駅や線路の特徴、路面電車ならではの「あるある」などが巧みに作中に織り込まれていて、妙に楽しい。『広島電鉄殺人事件』で描かれる最初の謎は、運転士の行動を巡る謎で、「毎時40キロメートルの速度制限がある広島電鉄を、20キロオーバーの60キロで走らせてしまい、処分を受けた運転士がいて、彼はなぜそんなことをしたのか」というもの。この謎に対する解答は、中盤で十津川警部が出て来るとすぐ明かされてしまうわけですが、実際に自分が目で見てきた体験を基に解かれたので感動してしまいました。知り合いに一人、「旅行に行く時は、その時乗る路線の西村作品を探して持っていく」というやつがいたのですが、彼がそうしていた理由がよく分かります。こりゃあ楽しいわけだ。

    〇ここまでは元気! だったのですが……

     しかし、X(旧Twitter)をご覧いただいていた方はお分かりの通り、かなりぎゅうぎゅうのスケジュールで動いていたため、旅行三日目で急に体調が悪くなってしまい、その先のスケジュールを断念したという残念な状況に。まいったなぁと思いながら、執筆も一旦止めて、家で静養。昔読んだことのある本の再読しか出来ないぐらいの体調だったので、泡坂妻夫『奇術探偵 曽我佳城全集』(創元推理文庫・上下巻)を引っ張り出してきました。こちらは高校生以来の再読。創元推理文庫版は、発表年代順に収録されているので、一編一編味わうにはこちらの方が嬉しい(講談社で刊行された単行本も発表年代順だったんですが、講談社文庫で分冊文庫にされた時、配列が変わってしまったんですよね)。発表年代順に読むと、あの短編に出てきたキャラがここに出てきて、この店のエピソードはここに繋がっていて、という各編の繋がりがくっきりと見えてくるので良いですね。

     創元推理文庫版の米澤穂信解説にも既に指摘されているのですが、こうして再読すると、ミステリーのあらゆるパターンが総覧のように並んでいることに感じ入ります。上下巻全22編で、不可能犯罪もあれば、アリバイ崩し、顔のない死体、暗号もの、異常心理……「今後何か一冊だけしか本を読めないとしたら?」という質問を投げ掛けられたら、『奇術探偵 曽我佳城全集』がいいと言ってしまいそうです(上下巻はいいのか、と問われたら、講談社の単行本なら一冊だ、と言い返します)。それくらい、ここにはミステリーの愉しさのすべてが詰まっていると言えるのです。

     22編の短編を、体調が悪かったというのもあって、10日間かけてじっくりと読んでいったのですが、再読して特に感動したのは「ビルチューブ」という短編。冒頭のシーンから最後まで、あるアイテムの動きがずっと書き込まれていたことに、再読すると気付きますし、犯人の不自然な行動もめちゃくちゃあからさまに書いてある。あからさまに書いてあるのですが、その後の佳城のセリフでカバーされているので、初読時は全く気付かないんですよね。40ページくらいの中に、伏線と手掛かりが隙間なく埋まっていて……こういう美しさを味わうのが再読の愉しみなのです。あとは、初読時は著者の別シリーズである〈亜愛一郎〉シリーズを思わせるような、犯人の「奇妙な論理」だけが目についていた「白いハンカチーフ」という作品も、あえて戯曲形式を選択したことによる会話劇の妙を楽しめた気がします。また、回文趣味が現れた『喜劇悲喜劇』のような、言葉遊び、語呂合わせの愉しさに満ちた「とらんぷの歌」の面白さも、ゆっくり再読する方が味わえたかも。

     泡坂妻夫を読んで心の元気を取り戻すと、無性に出かけたくなってきましたが、まだまだ体の元気は戻ってきていないので、「出かけたい欲」を誤魔化すために旅がテーマの本を探しました。ユン・ゴウン『夜間旅行者』(ハヤカワ・ポケット・ミステリ)は、旅行は旅行でも、戦争や災害の跡を巡る「ダークツーリズム」を題材にした作品。それだけでもかなり珍しい作品ですが、この作品が恐ろしいのは中盤以降。主人公のヨナという女性が、半ば左遷の前段階みたいな状況で「休暇を取ってこい」と、あるツアーに参加することになり、そこで事件に巻き込まれ……ダークツーリズムをターゲットにした、ある恐ろしい計画に参加することになってしまうのです。これが明らかになる瞬間の、ゾワゾワという気持ち悪さといったら。去年でいうとエルヴェ・ル・テリエ『異常アノマリー』(ハヤカワ書房)みたいな、薄気味の悪い小説です。体調の悪い時に読む本じゃなかったかもしれませんが、まあ妙ちきりんな本は好物なので、これはこれで良し。

    〇古本屋に行きたくなった! 紀田順一郎作品の話

     今度は段々と古本屋を巡って品切本を集めたくなってきたので(探したい資料もいっぱいあるし……)、その欲を抑えるために、紀田順一郎作品に手を伸ばします。9・10月と連続で、紀田順一郎の作品が復刊・文庫化されたのです。①『古本屋探偵登場 古本屋探偵の事件簿』、②『夜の蔵書家 古本屋探偵の事件簿』、③『神保町の怪人』(いずれも創元推理文庫)がそれ。①・②は元々『古本屋探偵の事件簿』として一冊組だったのを、三つの中編を収めた①と長編サイズの『夜の蔵書家』を収めた②に分冊したもので、もとがかなり分厚かったので手に取りやすくなりました。③は2000年の刊行以来、初の文庫化となります。

     私自身は、紀田順一郎の評論は読んだことがあったのですが、『古本屋探偵の事件簿』の分厚さに尻込みしてなかなか読みだせずにいました。なので、このように分冊で復刊されて嬉しい限り。そして読み始めてみれば、古本屋や古本蒐集家たちのディティールが面白すぎて、一気に作品世界に引き込まれてしまいました。①の中編「書鬼」に出て来る、ステッキを持ち歩いている高齢者が、ステッキに引いた線の高さまで本を買わないと満足せず、時には女性誌まで買ってノルマをクリアしているという描写には鬼気迫るものを感じつつ、自分自身「リュックがいっぱいにならないと満足出来ない」と大学時代には思っていたなあと苦笑。②の『夜の蔵書家』では、京急デパートで行われる古本市を目掛けて、おじさんたちがデパートの開店と同時に疾走するという場面が描かれていて、抱腹絶倒すると同時に、自分にも思い出すフシがあってアイタタタ、と。

     池袋の西武で行われている古本市は、開場前の時間は、一階の非常階段のあたりから外に順番に並ばせて、開場が近くなったら店内に客を入れ、二階の会場の近くでまた列を形成して開場時間を待つ……という手順なのですが、あの時、二階の無印良品を眺めながら開場を待つ、なんともいえない時間のことを思い出してしまいました。意識してしまうと、なんだか恥ずかしいんですよね。それでいうと、作中に出て来る「古本を買いに行って、掘り出し物を手に入れる夢を見る」というのもめちゃくちゃ「あるある」で、あれは下手な悪夢よりも「なぜ私はあんな夢を……」という羞恥と無念に襲われる分、いやな夢です。

     閑話休題。というわけで、ここに紹介した紀田順一郎の作品群は、登場人物やエピソードのディティールが妙に心に残る良い小説で、じっくりと味わうのにうってつけと言えるのです。「読書の秋」にあえて復刊・文庫化したのはこれが狙いなのかも。①の巻末には、紀田順一郎と瀬戸川猛資による対談が掲載されていて、こうしたディティールを楽しそうに拾っていく瀬戸川の姿にもほっこりします。この対談が行われたのが山の上ホテルというのも良い。神保町を見下ろしながら話したんだろうなぁ、とニコニコしてしまいます(山の上ホテルは2024年2月から全館休館に入ってしまうようです。時代の流れを感じさせます)。

     こんな話をしていると、なかなかミステリー部分に触れられませんが、ミステリーとしてももちろん面白い作品群です。①の「書鬼」で、三つのバラバラに見えるエピソードが繋がり、意外な犯罪が現れ、カタストロフが訪れるところは何かミステリーのお手本を見ているかのようですし、オークションの世界を描いた「無用の人」も面白い。②の『夜の蔵書家』はハードボイルド・ミステリーで、禁書、いわゆるわいせつ文書を戦後期に出版していた人物を探し求める追跡行が読ませますし、主人公の視点をある地点でサッと切り上げて、あとはある人物の独白によって全てを描いてしまう潔さも良い。結末の余韻が素晴らしい。③は①・②で味わったエピソードの面白さを違った形で味わえるのも良いですが、三編目の「電網恢々事件」がインターネットによる電子検索・文献整理を扱っていて、その目の付け所がユニークなのでお気に入りの作品です。

     どうしても世代的に、「ビブリオ・ミステリー」というと、三上延『ビブリア古書堂の事件手帖』のシリーズを連想してしまい、舞台である鎌倉と、主人公である栞子さんの清浄なイメージをもって受け止めてしまうのですが……ここにあったのは、それとはまったく逆の、どちらかというとゴミゴミとした、しかし古本市の喧噪などを知っているとひどくリアルな世界。紀田順一郎の作品は、誤解を恐れずにいえば「本バカ・ミステリー」といった感じです。つまり、めちゃくちゃ好きでした(このくだりを読むとビブリアは嫌いなのかと思われそうですが、一巻丸ごと江戸川乱歩が題材だった『ビブリア古書堂の事件手帖4 〜栞子さんと二つの顔〜』〈メディアワークス文庫〉は今でも印象に残っていますし、最近では『百鬼園事件帖』〈KADOKAWA〉が内田百間を題材にした怪奇連作で面白いです。今は通常、百「閒」と表記していますが、内田が芥川龍之介や夏目漱石と出会う頃のエピソードなので、当初の百「間」を使うという心遣いも嬉しい)。

    『神保町の怪人』の帯にも引用されていますが、紀田作品には「本集めの極意はね、殺意です」という箴言が何回か出てきます。単なる熱意を越えた、鬼気迫るものが描かれているのです。古本屋に行きたい欲を鎮めるために読み始めたはずなのに、この言葉を読んだら、またあの「殺意」が飛び交う空間に行きたいような気分にさせられて、神保町が古本まつりをやっているうちに、一度は行こうと心に決めました。ここまで思えれば、もう元気、といっていいでしょう。

    (2023年11月)

第68回2023.11.10
書きたい人にも、読みたい人にも ~都筑流小説メソッド、再受講~

  • 都筑道夫の小説指南、書影

    都筑道夫
    『都筑道夫の小説指南』
    (中央公論新社)

  • 〇『レーエンデ国物語』の新刊が出た!

     さて、多崎礼の最新刊『レーエンデ国物語 喝采か沈黙か』(講談社)が刊行されました。『レーエンデ国物語』『レーエンデ国物語 月と太陽』(いずれも講談社)に続くシリーズ第三弾の刊行です。この読書日記では第59回に多崎礼特集を行い、『レーエンデ国物語』を取り上げ、第64回に『レーエンデ国物語 月と太陽』を取り上げています。このシリーズは、新刊が出るたびに感想を書くという約束でした。

     シリーズ第二弾『レーエンデ国物語 月と太陽』(以下、『月と太陽』と表記)は、本作のテーマである「革命」の物語がいよいよ本格化し、勇壮でありながら残酷でもある、ずっしりと心に重くのしかかってくるような作品でした。絶望の中にも力強さがある結末には、今思い出しても強烈な苦みが込み上げます。その絶望と共に、読者は「テッサ」の名前を脳裏に刻むことになったでしょう。

     そして第三弾『レーエンデ国物語 喝采か沈黙か』(以下、『喝采か沈黙か』と表記)では、それからさらに時代の下ったレーエンデが描かれます。自由が死んだ暗黒の時代に生きた一組の双子の物語、というだけでわくわくしてしまいますが、ここで演劇文化を主題として、これまでの二作とはガラッと変わったテーマを選択していることに驚かされました。

     双子の兄、リーアン・ランベールは劇作家であり、弟アーロウは俳優。彼らは、歴史から隠蔽された「テッサ」の物語を戯曲にするために、知らなかった歴史を知るための旅に出ることになる――というのが大体の筋ですが、「テッサ」とは『月と太陽』を既読の方はお分かりの通り、第二巻の主人公といえる存在でした。そう、第三巻では、テッサの歴史は葬られてしまっているのです。『月と太陽』で読者が600ページ以上もの間、テッサと共に過ごしたこと、そしてそれゆえに絶望した事実そのものが、第三巻では重く、重く響いてくる。これがもう大変に巧い。物語を隠蔽する国の理不尽への怒り、「語られ直す」テッサの物語への感動に、読者の心は否応なしに揺さぶられることでしょう。『喝采か沈黙か』は、『月と太陽』を読むことなしには、その最大の力を発揮しない、と言っても過言ではないでしょう(なので、必ず順番通り『月と太陽』→『喝采か沈黙か』と読むんですよ!)。

     そして、劇作家であるリーアンを主人公の一人としていることから明らかなように、ここには、なぜ書くのか、何を書くのか、という葛藤が描かれていきます。中盤のシーンですが、中でも心揺さぶられた一節を引用してみましょう。

    “「お前は書かなきゃならない。俺達を信じて秘密を打ち明けてくれた人達のために、弾圧に負けることなくテッサのことを語り継いできた人達のために、パン屋のマウロやレイルのリカルド、春陽亭のペネロペのように、絶望の暗闇の中、それでも夜は明けると信じて戦い続けている人達のために、お前はテッサの戯曲を書かなきゃならない。世界中の人間の心を揺さぶる戯曲を書いて、この世界の在り方を変える。それがお前の使命なんだ」”(『喝采か沈黙か』、p.230)

     この力強いセリフと、直後に続く、「この世界において、テッサの物語を紡ぐことにどんな困難があるか」を一言で表したゾッとするようなセリフに、『喝采か沈黙か』の面白さの全てが凝縮されているといっていいと思います。視点人物が弟のアーロウである理由は、後半のドラマに至っていよいよ際立ってきますし、幕間にそれぞれ挿入されている、戯曲を演じる人々の「第一幕」「第二幕」……の場面の意味も、結末に至って心に沁みてきます。構成まで含めて、完璧といっていい物語です。第一巻『レーエンデ国物語』で読者が気になったこともさりげなく説明されていますし、多崎礼の中には、一体どれだけの物語の沃野があるというのか。

    『レーエンデ国物語』は、2024年に第四巻『レーエンデ国物語 夜明け前』、第五巻『レーエンデ国物語 海へ』が刊行される予定のようです。こちらも引き続き楽しみですし、また新刊が出るたびに、こうして読書日記の冒頭で紹介させていただければと思います。あ、そういえば、多崎礼のデビュー作である『煌夜祭』(中央公論新社)が、11月10日(この日記の更新日ですね!)に決定版として単行本で刊行されますよ。おまけ短編も収録した決定版、ぜひゲットしましょう。私も買います。この作品集はミステリー好きにも大いにオススメです。詳しくは第59回の多崎礼全作レビューを見てください。

    〇3年ぶりの鮎川哲也賞正賞受賞作

     ミステリー好きとしては、第33回鮎川哲也賞を受賞した岡本好貴『帆船軍艦の殺人』は取り上げないわけにはいきません。3年ぶりの正賞受賞作というだけで嬉しくなりますし、しかも、その内容が18世紀を舞台にした海洋冒険小説×本格ミステリーだったのですから。

     主人公の一人である靴職人のネビルは、家族と平穏な生活を過ごしていたある日、強制徴募されて戦列艦ハルバード号に乗り込むことに。乗り込むことに、と書きましたが、その実態はもはや誘拐のようなもので、有無を言わせぬ強制的なもの、しかも脱走すれば家族まで追いかけるぞなんて脅されるものだから、たまりません。おまけに当時の航海は決して楽なものではありませんから、地獄のような生活を味わわされる羽目になります。

     この絶望的かつ危機的な状況を描き、主人公が少しずつ船の生活を知っていくパートが100ページ近くもあるわけですが、ここが既にとても面白いのです。キャラクターが生き生きとしていて、ディティールもくっきり際立っている。まだ殺人事件が起こっていないのに、こんなにも面白い。遂に事件が発生した時は、もっと面白いわけです。事件が起こるまでのテンポと、それが事件にもしっかり関わってくるあたりの緻密さは、同じく海洋冒険小説×本格ミステリーだったスチュアート・タートン『名探偵と海の悪魔』の堂々たる書きぶりを思い出します。

     三つの事件が絡み合う構成となっていますが、三つ目の事件もさることながら(トリックの強度はもちろん、原理がシンプルなのが美しいですよね)、個人的に好感を持ったのは、第一の事件のネタでした。ヴィジュアル的にも、構図的にも面白いネタですし、中盤で解き明かしておくことで事件の構図の見え方が変わってくるのも快い。フランス海軍との戦争もただの背景で終わらず、冒険小説の文脈で書き込まれて、ミステリー的にも生きるので嬉しい。

     単行本が刊行される前にプルーフで読んだのですが、そこには作者の好きな作家として〈フロスト警部〉シリーズのR・D・ウィングフィールドと、〈リンカーン・ライム〉シリーズのジェフリー・ディーヴァーの名前が上がり、参考文献にはジュリアン・ストックウィン『海の覇者トマス・キッド(一) 風雲の出帆』、セシル・スコット・フォレスター『海の男ホーンブロワーシリーズ(一) 海軍士官候補生』が上がるなど、読書傾向を見るのも面白く、なんだか嬉しい気分。いろんな形の本格ミステリーを読ませてほしい書き手が登場です。

     ちなみに、10月20日に共同通信社さんの主催で、青崎有吾さんと新刊『午後のチャイムが鳴るまでは』についてのトークイベントを行ったのですが、その時に出た「今年読んだミステリーのベストは?」という質問で、私と青崎さんが二人とも『帆船軍艦の殺人』を挙げ、かぶってしまいました。イベントでも、上に書いたような作品の話で大いに盛り上がりました。

    〇評論としてもエッセイとしても、面白すぎる小説指南!

     去る10月、都筑道夫『都筑道夫の小説指南 増補完全版』(中央公論新社)が刊行されました。同書は、1982年に講談社から刊行された『都筑道夫の小説指南』に、初書籍化のエッセイや対談など500枚以上を増補したもの。1990年に『都筑道夫のミステリイ指南』として文庫化されたものは、Kindleなど電子書籍で買うことが出来ますが、増補された部分の面白さが素晴らしいので、ぜひともこの「増補完全版」を手に入れてほしいところ。講談社文庫では「ミステリイ指南」とうたわれていますが、怪奇小説やSFなど、その話題が多岐にわたるのがこのテキスト群の特徴なので(冒頭に収録された「エンタテインメント小説の書き方を伝授しよう」は「SFイズム」に掲載されたものだったり、高橋克彦との対談は「SFアドベンチャー」が元の掲載紙だったりします。都筑の幅広い作風を考えれば当然のことではあるのですが、)、「小説指南」とタイトルが戻ったのも嬉しいですね。

     私は小説指南本などで、このやり方だけが絶対に正しい、自分のやり方だけが正義だ、という主張が強かったり、主張が強いわりに技術面の話が少ないものを読むと鼻白んでしまうタイプなのですが、本書では、冒頭に置かれた「エンタテインメント小説の書き方を伝授しよう」の第三講ではやくもこんなことを言っています。

    “僕はこの講座について、「そういった技術レベルのことは枝葉末節で、どうでもよいと思う。小説を書く上で大切なのは、技術テクニックより内容なのではないか」という意味の投書があったそうなので、今回はまずそれにお答えしましょう。
     確かにおっしゃる通り、小説というのは内容がおもしろければそれでいいんですけど、おもしろいストーリイを創る才能というのは、九〇パーセントまでが生まれつきであって、人が人に教えられるものではないんですね。
    (中略)
     極端なことを言えば、へたな絵をうまく見せかける技術とでもいうのかな、絵の方では下塗りの方法とか、日本画では絵の具をどうやって重ねていくかといった、細かい技術の問題がたくさんあるでしょう。小説にもそれがあって、そういうことしか教えられないから、僕は枝葉末節のことしか言わないわけね。
    (中略)
     中身だけでなく、外側も大切なわけです。それでその外側のところは、何とか経験者が未経験者に教えられる部分なんですね。だからそれだけのことしか言わない。言わないんじゃなくて、言えないのね。もしそれを言えるという人がいたら、それはインチキですよ。“(『都筑道夫の小説指南 増補完全版』p.21~23)

     序盤で既に、投書に対してこのハシゴの外しっぷりである。あまりの「らしさ」に苦笑してしまうのですが、この言葉を実践するように、本書には小説を書く際の技術的な側面にかなり多くの言及が割かれている印象です。「エンタテインメント小説の書き方を伝授しよう」第5講では「売れるショート・ショートを書くには」と題して、「添削式SF小説作法教室」への応募者の原稿を講評する都筑の姿を見ることが出来ますし、「都筑道夫の小説指南」パートの第3講「怪奇小説を書く」では、都筑が講師を務める「池袋コミュニティ・カレッジ」で出席者の書いた「首」という短編の二つのバージョンを読むことが出来ます。二段組なので、上段に第一稿、下段に都筑や他の受講者たちの意見を容れて修正を施した決定稿が掲載されているという体裁です。この二つを読み比べる作業だけでも面白いですし、「なぜこのように直してもらったか?」を技術的に淡々と、しかし明晰に語っていく都筑の語り口には、何か感動を呼び起こすものがあります。他にも、「わが小説術」の第14回「会話らしく」で、会話文の書き方と情報整理の仕方を、例を示しながら解説するところも参考になるでしょう。

     こうした実践的な話の中でも白眉は、「都筑道夫の小説指南」パートの第2講「怪奇小説を読む」でしょう。ここでは、都筑自身の作品について、3つの違ったバージョンを提示し、なぜこのように直していったかが語られていきます。題材となっているのは「風見鶏」という短編ですが、この作品はショート・ショート「夜の声」(読切連載「異論派ガルタ」の一編)→SF短編「電話の中の宇宙人」(福島正実・編『SFエロチックミステリ』収録)→怪奇短編「風見鶏」(『十七人目の死神』〈角川文庫〉などに収録)といった経緯を辿っており、そのたびに描写やアプローチが変わっています。しかし、根本のストーリーラインは変わっておらず、結末の薄ら寒い心理とか、展開の面白さといったところは、同じなのです。つまり、なぜ都筑がこのように直していったのかを考えていくことが、都筑のいう「細かい技術の問題」のニュアンスを正確に捉えることに繋がるというわけですね。

     この三編を読み返し、都筑自身の考えを読み込んでいく作業は実に刺激的。「風見鶏」の冒頭の描写の意味合いなどはなるほどと思わされますし、よりミステリーに近接した「風見鶏」の方が、女性がなぜ逃げられないか、いまどういう状況に置かれているかを慎重に検討しているので、緊張感をもって読むことが出来ました。「電話の中の宇宙人」の方も、相手の女が宇宙人だと言い始めるのが、ナンセンスで面白いんだけれども……。

     実はこの「風見鶏」の部分については、元版の『都筑道夫の小説指南』にもあるので、私は高校生の時に読んだことがあるんですね。そしてその時は、こう直すのか、こう考えて動くんだ、というのに刺激を受けはしたのですが、どうも根本のところで腑に落ちていなかった部分がありました。でも、曲がりなりにも6年間、作家としてなんとかやってきて、編集者に送る前に自分で直したり、編集者のアドバイスを容れてより良い直し方を考えたりするうちに、「風見鶏」のことが腑に落ちていったような気がします。話の骨格やアイディア、謎を生かしながら、手を入れられるところはいっぱいあるし、自分の作品なら、入れたくなるよな、というか。もちろん『小説指南』は面白い本なんですが、本当のところは、自分で手を動かしてみて分かってきた気がします。だから今の状態で立ち返ってみると、まだまだ全然自分が意識していないことがはっきり分かったりして、頭の痛くなるようなところがありました。また時間を置いて読み返してみたいですね。

     ちなみに「風見鶏」が収録されている『十七人目の死神』については、怪奇小説集なのですが、巻末近くに収録された高橋克彦との対談「ほんとうに怖い話が好きだ!」において、「あれには、怪奇小説のあらゆるパターンが入っている」(『都筑道夫の小説指南 増補完全版』、p.350)といって、各編の良いところを楽しそうに、しかもリスペクトに溢れた姿勢で語っていくので、めちゃくちゃ読みたくなりました。やっぱり時を経ても、こういう熱意に溢れたリスペクトって響きますねえ。

     そんなわけで、現在新刊で手に入らない『十七人目の死神』を、神保町古本まつりで探して読んでみました。一番ゾッときたのは「はだか川心中」という短編。温泉宿に泊まりに来たカップルが宿泊を断られるのですが、その宿から出てきた宿泊客に話を聞くと、部屋は空いているという。一体、どうして泊めてもらえないのか。二軒目、三軒目と巡ったところで、三軒目の宿の主人が、アッと驚くような解答を述べるわけです。現実的な解釈はもちろん出来るのですが、その一言がポンと出てきた時の気味の悪さは凄まじいですし、結末の味も良い。選集などにはたびたび採られている作品なので、どこかで読んだことはあるかもしれませんが、高橋対談を読んだ後だからこれほど印象が強いのかも。

     他には、手紙と録音テープのみで構成された「妖夢談」、章ごとに少しずつ物語の見え方が変わって、最後に薄気味悪さの残る「ハルピュイア」などがお気に入り。この短編集では、「寸断されたあとがき」が各編のあとに挿入されており(私たちは法月綸太郎『赤い部屋異聞』霧舎巧『新本格もどき』でこの手法に慣れている)、そこで、作品の舞台裏やねらいを自ら解説してくれるのも楽しい一冊でした。

     と、少し脱線してしまいましたが。『都筑道夫の小説指南』は最初に紹介したように、小説を実践的に書くための資料として使うのも良しですが、ざっくばらんな語り口の都筑エッセイを、肩の力を抜いて楽しむも吉。増補で追加された「わが小説術」は、実践集としてよりは、ショート・エッセイとして読んだ方が面白いですし、投書に対する容赦のない打ち返しなども味があります。先に名前を出した高橋克彦との対談の他、佐野洋、鏡明との対談、果てはエドガー・アラン・ポーとの架空対談(!)まで、おまけも充実しているので大満足の一冊です。

     この原稿を書いている10月下旬にはまだ手に入っていませんが、10月末にはフリースタイルから都筑道夫のエッセイ『二十世紀のツヅキです』も刊行される予定。1986年から1999年にわたる13年間のコラム連載を初めて書籍化したものということで、こちらも楽しみにしています。小説にも未読のものが残っているので、まだまだ楽しめるなぁ。

    (2023年11月)

第67回2023.10.27
疲れた時に沁みるもの ~「日本ハードボイルド全集」総括とクロフツの話(なぜ?)~

  • 鵼の碑、書影

    北上次郎・日下三蔵・
    杉江松恋編
    『日本ハードボイルド全集7 
    傑作集』
    (創元推理文庫)

  • 〇短編の告知から

     小学館の雑誌「STORY BOX」は今月発売の11月号より、WEB版に移行します。WEBなので、サイトから無料で読んでいただけるようになります。その11月号に、「特別養護老人ホーム・隅野苑」の第2話「熱室の死角」が掲載されます。紙版最終号となる9月号に、第1話「回廊の死角」を掲載した新シリーズで、紙→WEBの連動企画として、1・2話を続けて掲載するという試みでした。

    「熱室の死角」で殺人事件の舞台となるのは、なんとサウナ! 実は会社員時代の趣味で四、五年前からサウナに結構通っていたのですが、サウナを舞台にした事件のシチュエーションを思い付いてしまったので、安楽椅子探偵もので使ってみました。昔日の「サウナ」のイメージがこびりついてしまっている高齢者たちが、あーでもない、こーでもないと安楽椅子の中で事件をいじくり回す、という形式をとることで、サウナに馴染みのない人でも楽しめるバランスに出来たと思います。多分。もちろん2話からでも楽しめるように書きましたので、ご興味のある方はぜひ。

     ちなみに、「STORY BOX」で私が担当している書評欄「採れたて本!」の海外ミステリー編については、11月号から毎月更新になる予定です。今月はアンソニー・ホロヴィッツ『ナイフをひねれば』(創元推理文庫)で書きました。もう後押しの必要もないシリーズかもしれませんが、今回はイギリス演劇界の様子が見えてめちゃくちゃ良かったので。

    〇クロフツの話

     さて、この原稿は9月のうちに書いているわけですが……9月はとにかく新刊ラッシュで……読んでも読んでも終わらず……。前回の読書日記で『鵼の碑』について書き、他にも書きたい本、話題を拾っておきたい本は数え切れないほどなのですが、書評やコメント等で言及したものも多く、今回は思い切って違う視点で選書していきたいと思います。

     まずは、F・W・クロフツ『ギルフォードの犯罪』(創元推理文庫)です。クロフツは今年、読書日記の第57回(5月26日更新)でも読んでいますね。その時にも言いましたが、私にとってまだまだ未読の多い古典海外作家であるクロフツは、現実を忘れたい時の大切な癒し。第57回の内容からも分かると思いますが、そう、私は完全に疲れてしまったのです。

     ということで、これも未読の『ギルフォードの犯罪』を。冒頭3章じっくりかけて、ロンドンの宝石商である「ノーンズ商会」の役員たちの人間関係が描かれ、その中に、経理部長であるチャールズ・ミンターの死と、会社の金庫から紛失した宝石類の謎という、二つの事件が描かれています。ミンターの死は、当初事件性のないものとみられましたが、宝石類の盗難事件が発覚し、一転、きな臭くなっていく……というのが大体の筋。続く4章でおなじみフレンチが登場し、捜査が始まるという流れです。

     本作ではギルフォード市警署長のフェニングが登場し、フレンチの頼もしい議論相手になってくれるのが嬉しい限り。6章「市警登場」から行われる指紋についての議論からして、要領を得ていて鋭いですし、それに応えるフレンチの洞察も気持ちが良い。少しずつ事件を追いかけていき、もつれた糸をほぐしていく捜査行もいつもの安定した面白さがあります。

     ただ、本作で用意されたアリバイトリックは本当にちょっとしたものですし、後半2章の力点は、むしろサスペンス溢れる犯人との追跡劇にあると言えます。いわゆる本格ミステリーを期待すると、第57回で取り上げた『黄金の灰』と同様、クロフツの中ではBかB+程度の出来になるのではと思いました。ただ、追跡劇の点も含めて、「警察小説」として読むなら読み応えは十分で、やっぱりクロフツはいつ読んでも満足できるなあと思いました。今回も癒されたので、良しです。

    〇『日本ハードボイルド全集』について

     2023年9月、『日本ハードボイルド全集』が全七巻で完結を迎えました。ラインナップを見た時から楽しみでしたが、実際に読むのも楽しく、充実した時間を過ごすことが出来ました。まずはリストを以下に掲げます。いずれも、編者は北上次郎・日下三蔵・杉江松恋の三者で、出版社は東京創元社の創元推理文庫となります。

    ・生島治郎『日本ハードボイルド全集1 死者だけが血を流す/淋しがりやのキング』
    ・大藪春彦『日本ハードボイルド全集2 野獣死すべし/無法街の死』
    ・河野典生『日本ハードボイルド全集3 他人の城/憎悪のかたち』
    ・仁木悦子『日本ハードボイルド全集4 冷えきった街/緋の記憶』
    ・結城昌治『日本ハードボイルド全集5 幻の殺意/夜が暗いように』
    ・都筑道夫『日本ハードボイルド全集6 酔いどれ探偵/二日酔い広場』
    ・『日本ハードボイルド全集7 傑作集』

    『傑作集』を除く六作品については、第41回の読書日記において言及しております。結城昌治の第五巻の刊行に合わせて、駆け足でそれまでの六作品の紹介を行ったという経緯です(全集のナンバリングは必ずしも刊行順とは一致しておらず、1→6→2→3→4→5→7という順番でした。結城昌治の巻は2022年7月に刊行されていますので、『傑作集』を1年以上待った計算になります)。これまでの六巻を振り返ってみると、収録作品が全て既読だったのは仁木悦子のみで、ほとんどが初読の新鮮な体験になったと言えます。元々好きな作家である生島治郎、結城昌治、都筑道夫の三人についても、収録作については未読だったため(結城の短編パートはほとんど既読でしたが)、新鮮な気持ちで楽しめました。大藪春彦、河野典生についてはこれが初めての出会いとなり、作家名は知っていたのになかなか手を出す機会がなかったため、ありがたかったです。全集を読んで以来、大藪春彦は『蘇える金狼 野望篇/完結篇』(角川文庫)を読んで、今どき見られないほどの密度の濃いアウトロー小説ぶりに感嘆し、河野典生は光文社文庫の「昭和ミステリールネサンス」で読み逃していた『八月は残酷な月』を読んだり、古書店で『迷彩の森』などを買い集めて、その文章に浸っていました。

     そんなわけで、『傑作集』の刊行も心待ちにしていたというわけです。まずは作品リストを参照してみましょう。参考までに、「既読の作品」には◎を打っておきます。

    ◎大坪砂男「私刑リンチ
    ・山下諭一「おれだけのサヨナラ」
    ・多岐川恭「あたりや」
    ・石原慎太郎「待伏せ」
    ・稲見一良「凍土のなかから」
    ・三好徹「天使の罠」
    ◎藤原審爾「新宿その血の渇き」
    ・三浦浩「アイシス讃歌」
    ・高城高「骨の聖母」
    ◎笹沢左保「無縁仏に明日をみた」
    ◎小泉喜美子「暗いクラブで逢おう」
    ・阿佐田哲也「東一局五十二本場」
    ◎半村良「裏口の客」
    ◎片岡義男「時には星の下で眠る」
    ・谷恒生「彼岸花狩り」
    ・小鷹信光「春は殺人者」

     以上全十六編について、既読は六作品。好きな作家である多岐川恭、稲見一良、高城高、阿佐田哲也、小鷹信光も未読の作品が収録されていたので、個人的にはお得感満載でした。収録作品のうち、高城高「骨の聖母」は、創元推理文庫で全四巻の『高城高全集』から漏れてしまった作品の採録ですし(初出が「農業北海道」という聞いたこともない雑誌であることに驚かされます)、他、三浦浩「アイシス讃歌」、小鷹信光「春は殺人者」も書籍への収録は初となるようです(小鷹作品の方は、初出である「ミステリマガジン」1980年6月号のほか、2016年3月号の「小鷹信光追悼特集」においても再録されていますが)。稲見一良「凍土のなかから」も、光文社の『短編で読む推理小説傑作選50 上』で読むことが出来ましたが、著者の『ダブルオー・バック』(新潮文庫)最終話の原型作品という経緯があるため、こうしたアンソロジー等で読めるのは貴重なことです。そういう意味でも、好事家であれば買い逃すことは出来ない、大充実の巻ということが出来るでしょう。

     そして本作の感想ですが……もう、感無量といったところ。疲れ切った心に染み渡る、素晴らしい一冊でした。実はこの巻、とあるイベントのために名古屋に旅行する前日に届き、なんとなく鞄に詰めて出発したのですが、一編一編、絶妙の文体と語り口からもたらされるデトックス効果が半端ではなく、電車移動の合間でひたすら読み倒してしまったのです。東京へ帰る新幹線に乗る前に読み終わってしまったので、電子書籍で収録作家の別作品を購入し、ずっと読んでいました。それくらい、のめり込んでしまったということです。

     まずは「◎」をつけた既読作品について簡単にいきます。この中で特にオススメなのは藤原審爾「新宿その血の渇き」。これは『新宿警察』の中の一話で、このシリーズは現在比較的入手しやすい形態で言えば、双葉文庫で選集が全四巻、Kindleで全集が全十巻で刊行されていて、私は、双葉文庫分の四冊は全て読了し、今はKindle版をちびちびと読み進めているところです。新宿署の警察官たちが活躍する群像小説ですが、読むたびに、犯罪者たちの心情や、刑事として生きることへの懊悩がサッと滲んできて、ため息がこぼれるような作品群なのです。「新宿その血の渇き」は、町工場で働く男が通り魔をしている、という導入なのですが、捜査ものとしては呆気ない結末の中に、どうしようもない悲哀が滲んでいて、読むたびに心臓が締め付けられます。

     笹沢左保「無縁仏に明日をみた」は、同氏の代表的時代小説〈木枯らし紋次郎〉シリーズの一編。第四巻『暁の追分に立つ』(講談社等)の一編で、私が読んでいるのもちょうど四巻まででした。大学の先輩に「初期『紋次郎』にはミステリーとして切れ味の鋭いものがある」と聞いたので、四冊まで読んだのだと思います。いわゆる「ミステリーとして切れ味の鋭い」ものについては、『流れ舟は帰らず 木枯し紋次郎ミステリ傑作選』(創元推理文庫)で大体読むことが出来るので、今から読まれる方はそれを手に取ると良いでしょう。「赦免花は散った」とか「女人講の闇を裂く」とか素晴らしいのです。で、今回『傑作集』に収録された「無縁仏に明日をみた」は、そちらの『流れ舟は帰らず』の選集には採録されなかったエピソードです。読んでみるとそれも納得で、「無縁仏~」は、ある人物と身代わりに生き長らえた紋次郎を書いた小説で、このシチュエーションを三人称の描写によって淡々と、しかし迫力をもって紡いでいくところに味があるのです。『流れ舟~』の選集が本格ミステリーなら、こちらはちゃんとハードボイルド。

     小泉喜美子「暗いクラブで逢おう」は、店を経営する男・ジョーンジイの視点から描かれる「暗いクラブ」の描写と会話劇が読ませる作品です。作家志望の「友だち」にジョーンジイが声をかけるところなどは、何度読んでも身に詰まされるような気分になります。こちらが収録された作品集『暗いクラブで逢おう』は粒よりの短編集で、同作品集の中では、「日曜日は天国」という短編もお気に入りの一編です。《鉄腕》と呼ばれるボクサーが、息子と一年に一度だけ会える「日曜日」の日を描いた一編なのですが、このタイトルを見るたびに目頭が熱くなってしまうような展開が待ち受けています。息子との会話のシーンとか、もう絶妙に巧いんだよなあ。光文社文庫から刊行の『ミステリー作家は二度死ぬ』などでも読むことが出来ます。

    〇稲見一良について 「凍土のなかから」×「銃執るものの掟」

     特に良かったのが、最前も言及した稲見一良「凍土のなかから」です。『ダブルオー・バック』の第四話「銃執るものの掟」の原型短編ですが、読み比べてみると(この作業を、名古屋から東京へ帰る新幹線で延々とやっていました)、作中で起こる出来事はほとんど同じであるにもかかわらず、全く印象の違う作品になっているのが素晴らしいのです。基本的なストーリーラインは、雪山で犬と共に狩りを行っていた主人公が、雪山で行き会った「男」に犬を殺されてしまい、さらには「男」の逃亡の手助けをするように脅される、というもの。

     以下、「凍土」、「銃」と表記することにしますが、「凍土」は「私」を視点人物とするオーソドックスなハードボイルドの語り口であり、「銃」は「わし」を語り手として「事件が起こった後、『わし』が回想しながら誰かに話を聞かせている」という構成を取っています。「銃」はその語りによって、軽妙さとサスペンスを同時に引き出しているわけですが、反面、事件の後に「わし」が生存していることが明らかとなってしまっています。その分、暗中模索感というか、一寸先も見えない雪中行のサスペンスは「凍土」の方が強くなっているのです。

     もう一つの大きな相違点は、主人公が行き会う「男」の素性についてでしょう。「凍土」では刑務所の看守を殺して逃げてきた「二人の囚人」という設定であり、かなり一面的な「悪」として描かれますが、「銃」では、「男」は単独犯であり、彼自身も「ある組織」から逃げようとしている、という描写になっているのです。「銃」の方が、「男」のパーソナリティーを複雑に描いているということになります。「銃」において、「男」が主人公に料理を振る舞われて、きちんと礼を述べるという、さりげないシーンの巧さは素晴らしい。

     どちらのバージョンでも、「男」が主人公の犬を殺してしまうのは同じなのですが、その出来事の重みも違うものになっています。「男」に関する設定と、その描写の仕方の違いが、結末の違いをもたらしているのだと思います。これはどちらが良い、というものではなく、「凍土」と「銃」、それぞれの設定と語りから考えれば、どちらも必然の選択・結末に思えるというのが素晴らしいのです。作中で起こっている出来事がほぼ同じだけに、この感覚が面白くて、読み比べるのがとんでもなく楽しい作業でした。

     稲見一良については、ハードボイルドの語感があまりよく分からない中学生の時に一度『ダック・コール』(ハヤカワ文庫JA)を読んだのですが、中学生には少し早すぎたようで、そこから稲見作品に入れなかったというのが正直なところでした。そこで、今回「凍土のなかから」にいたく感動したということもあり、『ダック・コール』を再読したのですが……もう、沁みる沁みる。C・J・ボックスを経た後だと、自然描写の美しさだけでも感じ入ってしまいますし、語り口もスッと心に入って来て、スイスイ読めてしまいます。特に第二話「パッセンジャー」の結末の余韻と、第三話「密猟志願」の文章の密度が好きです。しばらくは稲見一良作品を掘っていこうと心に決めた読書体験でした。

    〇「繋がっていく」読書の話

    『傑作集』の中でもかなり好きだったのは、阿佐田哲也の短編「東一局五十二本場」。阿佐田哲也はとにかく『麻雀放浪記』が好きで、原作はもちろん『天牌』の嶺岸信明による漫画化も追いかけていますし、私の新刊『午後のチャイムが鳴るまでは』のオマージュ元にもなっているくらいなのですが、短編はカバー出来ていませんでした。「東一局五十二本場」は、傑作集の中でもとりわけ短い20ページほどの短編ですが、この短さの中に、積み上がる点棒の緊張感がムンムンに立ち込めていて、短編でもこれほど切れ味鋭い賭博小説を書いているのかとひっくり返りました。一体どう落とすのか、とヤキモキしながら読んで、これ以外ないというオチに辿り着くラストが凄まじい。これで惚れこんでしまい、名古屋旅行中に寄った古書店で『東一局五十二本場』(角川文庫)を購入し(旅行中にまで古書店を巡るな)、すぐさま読み始めてしまったほど。人を食ったタイトルと展開が好ましい「麻雀必敗法」や、凄絶な結末に息を呑む兄弟小説「雀ごろ心中」などが心に深く残りました。

     同じように、作家として面白いのは知っていたけど……枠だったのが、石原慎太郎「待伏せ」。戦場にやってきた記者の視点から、戦場の恐怖を描出する短編なのですが、氷の刃のような鋭い描写に感じ入りました。石原作品は、『本格ミステリ・フラッシュバック』というガイド本に掲載されている『断崖』のみ読んでいて、こちらは確かに謎解きミステリーとしても読みごたえのある作品だったのですが、それ以降はなかなか作品を追いかけられず、でした。杉江松恋による解題の中で「素晴らしい」と太鼓判を押されている短編「鴨」が掲載された『密航』(講談社)という作品集をKindleで買い、すぐさま読んだくらいには「待伏せ」に心動かされました(なお、『密航』はロマン・ブックスという叢書の一つで、同叢書は多くがKindle化されているため、こういう時にすぐに読めて嬉しい)。

    〇『傑作集』は解説も凄い!

     全短編に触れているととてもじゃないけど終わらないので、このくらいにしておきますが、『傑作集』の目玉はもう一つ。編者である日下三蔵・北上次郎・杉江松恋のリレーによって紡がれた、「日本ハードボイルド史」です。全部で50ページにもわたる分量もさることながら、圧倒的な書誌情報により[黎明期]の展開をまとめた日下三蔵、あくまでも個人的な体験から出発する議論が実に「らしい」[成長期]の北上次郎、冒頭の一文の切れ味から思わず「うわあっ」と声が出た[発展期]の杉江松恋と、それぞれのスタイルによって一連の「史学」を紡いでいく流れが面白いのです。リレーの良さがこれ以上ない形で出た解説になっていると思います。

     この解説も、「あれもこれも再読したい」となる充実した内容なのですが、実際に再読したのは今のところ、レイモンド・チャンドラーの短編「待っている」。北上次郎パートにおいて、大沢在昌がチャンドラーの「待っている」を褒めた文章が引用されているんですよね。元々チャンドラーに苦手意識があって、なかなか再読出来ていないので、これを機に読み直すか……と創元推理文庫の『待っている』を自宅から発掘(さりげなく書きましたが、発掘、としかいいようのない本の量なので……)。短い短編ですがあえてじっくりと読んで、会話劇や文体を噛み締めることにしたら、以前よりも分かった気がする、でも、まだ核心には辿り着いていない気もします。チャンドラー再読の旅はまだまだ先が長そうです。

    (2023年10月)

第66回2023.10.13
17年ぶり、その威容 ~〈百鬼夜行〉シリーズ長編再読記録~

  • 鵼の碑、書影

    京極夏彦
    『鵼の碑』
    (講談社ノベルス)
    ※単行本も同時発売。
    書影は講談社ノベルス

  • 〇ポケミス70周年の話

     早川書房の「ハヤカワ・ポケット・ミステリ」が70周年を迎えるということで、「ミステリマガジン」11月号は「ポケミス創刊70周年記念特大号」となっております。普段の倍の定価にはびっくりしますが、「ハヤカワ・ミステリ解説総目録」も収録された永久保存版とくれば、むべなるかなというもの。

     同誌の特集内で、「特別鼎談 ポケミス創刊70周年に寄せて」に参加しております。メンバーは翻訳家の平岡敦さん、評論家の杉江松恋さん、そして私の三人です。テーマはポケミスについて色々話すということで、「初めて読んだポケミス」や「初めて買ったポケミス」「ポケミス、この一冊」などなどのテーマに沿って、ポケミスの話を色々と語っております。

     なお、同誌ではもう一つ、日本推理作家協会の「翻訳小説部門」(プレ第一回)を受賞したニクラス・ナット・オ・ダーグさん『1794』『1795』について、著者への「受賞記念インタビュー」が掲載されておりまして、インタビュアーを務めております。といっても、メールで質問を出して、翻訳家のヘレンハルメ美穂さんに翻訳をお願いしたものなので、いわゆるインタビュアー的なことはほとんど出来ていませんが……。ともあれ、短いながら情報量が凄いので、同誌を手に取ったら、ぜひ読んでみてください。

     ポケミスもいよいよ70周年ということで、「2000番」のポケミスは2024年2月に刊行されるようです。2023年9月刊行の新刊、クリス・ハマー『渇きの地』(ハヤカワ・ポケット・ミステリ)から、「70周年」のロゴが帯に印字されており、70周年特集の第一弾ということになるようです。オーストラリアの作家の紹介であり、閉鎖的なコミュニティーにおける殺人と、オーストラリアの風土ならではの暑すぎる気候の描写などから、以前ポケミスから刊行されたジェイン・ハーパー『渇きと偽り』(ハヤカワ・ポケット・ミステリ、のちにハヤカワミステリ文庫)を思い出す質感だったのが嬉しい限りでした。

    〇〈百鬼夜行〉シリーズの新刊が出た!

     去る9月、京極夏彦の〈百鬼夜行〉シリーズの最新長編『鵼の碑』(講談社/講談社ノベルス)が刊行されました。前作『邪魅の雫』の刊行から17年ということで、当時からのファンは首を長くして待っていたことと思います。私自身は、2008年、中学2年生の時にこのシリーズにハマり、一気に通読して追いついたという経緯ですので、それでも15年待った、ということになるでしょうか。今回、朝日新聞における5段広告にコメントを寄せた関係で、『鵼の碑』の単行本版は献本でいただけたのですが、書店で講談社ノベルス版も購入してきました。「自分で働いたお金で」ノベルス版の〈百鬼夜行〉シリーズを買うのは、これが初めてだったからです。2008年の時点で、まだ『邪魅の雫』は文庫化されておらず、この時は親にねだってノベルス版を買ってもらったので、自分が働いて得たお金で買う――というのは全く別の意味合いを持っていたのです。

     そんな体験込みで追いかけてきたこのシリーズ。新刊の予告を見た時から、正直、気持ちが昂り過ぎていたので、8月頭から全作再読してしまいました。短編2本と長編連載2回と『午後のチャイムが鳴るまでは』の刊行に向けた仕込みをこなしながら、良い息抜きになったと思います。

     さて、そんなわけで、もはや恒例となった全作レビューをやっていきます。今回はあくまでもシリーズの長編に限って、となりますが、それぞれ再読した回数なども違うので、出来る限り、初読時と再読時、それぞれの感想の違いなども、丁寧に拾っていこうと思います。もちろん、ネタバレはなしです。私はこのシリーズについて、背景知識部分まで含めて全部解説出来るわけではありませんし、特定のキャラクターへの深い読みがあるわけでもなく、あくまでも、ただミステリーとして本作に興味がある一読者の視点しか提供出来ません。とはいえ、個人的な体験を書き綴ることに、この日記の意味があると思うので、今日もやっていこうと思います。しかし、今回も長いよ~。

     なお、シリーズ名については『姑獲鳥』『魍魎』のように、初出以降はなるべく妖怪名のみの表記にしていこうと思います。前作や関連作の言及をする必要があるたびにフルネームで引いていると煩わしいからです。サークルの部室で話す時も、大体妖怪名だけで話していたので、その感覚です。

    『姑獲鳥の夏』

     第一作『姑獲鳥の夏』を中学生で読んだ時の興奮、いえ、「困惑」は、未だによく覚えています(2008年のことですので、もちろん読んだのは講談社文庫版)。久遠寺医院の娘が妊娠二十カ月に達しており、その夫は密室状況から忽然と姿を消している。ミステリー的な謎と怪異がミックスされた状況に、わくわくしながら読み進めていくと、京極堂(中禅寺秋彦)による絵解き――「憑き物落とし」が行われる。その解決に、もっと言えば「密室」の部分に、私の「困惑」はあったのでした。そんな解決がまかり通るなら、もうなんでもありになっちゃうじゃないか……中学生の頃の私は、そんな素朴な思いからこのシリーズに出会いました。今から思うと、頭の固い本格信者だった当時の私らしい感想だなあと思いました。

     そこですぐに諦めずに、困惑する頭を捻りながら、「伏線って張ってあったのかな」と、ちゃんと密室の検証を行うシーンに行き、作家・関口巽と名探偵・榎木津礼二郎の会話を読み返しにいった中学生の頃の私を、本当に褒めてあげたい。そのシーンを読み直した私は雷に打たれたようになり(榎木津というキャラクターの能力の使い方、あるいはその「使い捨て」方に感動したからです)、すぐに、初読時は「早く本題に入らないのかな」と思いながら読んでいた1節の関口と京極堂の会話を読み直しにいったのです。すると全部書いてあった。全部書いてあった、というのは大げさにしても、人がどのように認識の陥穽に滑り落ちていくか、という過程の部分が克明に書いてあったのです。ここまで書かれていて分からなかったのだから、これは私が悪いだろう、とすがすがしい敗北感を味わったのでした。

     そんな体験もあって、初読と再読が近いタイミングで行われたのが『姑獲鳥の夏』で、それ以来も、夏になると読み返したくなる一冊です。古本屋「京極堂」に行くまでのだらだらとした坂道を上りたくなる時が、やっぱり夏なんですよねえ。また、600ページというコンパクトな分量も相まって(この文章が成立するのがおかしいんだよなあ)、「京極夏彦」の世界観に帰りたくなった時にちょうどよい一冊でもあります。

     今回の再読はおそらく通算で五回目になりますが、今までの再読では「密室」の部分にだけ意識を取られてきたところを、今回はその後段で明かされる「繰り返される死」への謎解きに快感を覚えました。「密室」のセンセーショナルさがようやく自分の中で薄れて、「繰り返しの構図」を成立させるための、この要素がこう働き、あの要素がこう作用し、だから悲劇が起きたのだ、という丁寧な絵合わせのような謎解きの繊細さに目が向くようになった、ということです。そこまでに五回かかってしまいました。修行のような気持ちです。

    『魍魎の匣』

     第二作『魍魎の匣』は、数多くのメディアミックスのことを考えると、一体何回ストーリーを味わったのか数えきれないほど。私が「京極堂シリーズ」にハマった直後、2008年の10~12月にアニメ化され、2007年から2010年にかけて刊行された志水アキのコミックスも何度も読みました。

     ちなみに、ここで一度脱線すれば、中学生の頃の映像体験というのは凄いもので、未だにこの『魍魎の匣』アニメには強烈な影響を受けている気がします。特に、京極作品を読んでいる時です。ナイトメアが担当していたOP「Lost in Blue」は未だに覚えていますし、京極作品を読んでいる時にいつも脳内で聞こえてくる音楽があって、「これなんだろう」と思って記憶を探ってみると、必ずと言っていいほどアニメの劇伴なのです。それほど耳に沁みついているということですね。まあ、アニメ版については関口と刑事の木場修太郎は美形すぎるので、そこは当時から注文をつけたいところでしたが。

     私は『魍魎』に登場する作家・久保竣公のことが本当に好きで……彼が書いた作中作「匣の中の娘」を読むたびに面白い(作品を読んだ京極堂が、これを評する言葉も面白い)。匣の中に入った娘、胸から上だけしかないのに生きていて、「ほう、」と喋る、という幻想的なイメージが、文字で、漫画で、アニメで、全てで悪夢のように反復し、脳に焼き付いてしまったのです。年齢を重ねるほど私も「何だか酷く男が羨ましくなつて」しまう……読み返すほどに羨ましくなるのは、なんでですかね。現実がひたすらつらい中で、やっぱり作中の「男」が満ち足りているように見えてくるからですかね。正直、心の疲れチェッカーみたいな接し方をしています、「匣の中の娘」。

     そんなわけで、『魍魎』については読み返しすぎ、ストーリーも何度も追いかけ直しているせいで、初読→再読の感慨の変化などを辿ることが難しいのです。少なくとも、アニメや漫画を比較検討する中で、初読の時には発見出来なかった伏線などを幾つも発見し、それも感動の要素だったことをよく覚えています。

    『狂骨の夢』

     ここからは中学2年の初読以来、初めての再読となります。初読の時にあまり楽しみきれなかったので、『狂骨の夢』は再読の折にもなかなか手が伸びなかったのです。四度夫を殺したという宇多川朱美という女性のイメージと、事件の舞台となる逗子の屋敷の異様な雰囲気だけは強烈に脳に残っていました。再読してみると、初読の時にあまり楽しめなかった理由もはっきりと分かり、それも面白い再読でした。

     まず「初読の時にあまり楽しめなかった理由」について説明すると、百鬼夜行シリーズの解決編(憑き物落とし)は大体200ページくらいの分量があって、すごくざっくりと分けてしまうと「妖怪周り・宗教周りの『絵解き』」と「作中現実で起きた事件の『謎解き』」に分かれると思うのです。ここの交通整理が毎回巧いのはもちろんなのですが、中学生の頃の私は、コテコテの本格ミステリーが好きだったので、後者の謎解きにしか興味がなかったんですよね。前者は少し流しながら読んでしまった。で、『狂骨の夢』は、後者の謎解きはすぐに見当のついてしまうもので、前者の絵解きの方が面白い作品だと思うのです。「この事件の真犯人は〇〇です」と京極堂が喝破するのですが、前者のような絵解きに興味のある人間なら、これだけで「えーっ!」と叫んでしまうような大ケレンなんですよ。

     中学から今までの間に、友人の影響で、高田崇史の〈QED〉シリーズを読んだことや、個人的に松本清張の古代史ものなどを読んだこともあって、ようやくこういった「前者の絵解き」に自然と興味が湧くようになって、今回はそこに面白さがあったので興奮できた、という感じです。再読って、初読時からこれまでの読書体験を判定されるというか、「さ、この10年あまり、君は何をやって来た?」と本に問われているような気がするのですが……こういう「前回よりも楽しく読めた」ところをサッと挙げられるだけで、良い再会が果たせたなあという思いになります。

    『鉄鼠の檻』

     冒頭のシーンでの「拙僧が殺めたのだ」の衝撃がやはり第一印象。死体があり、犯人による自白まで行われているのに、視点人物の尾島が盲目なので、誰が犯人かは分からない――という仕掛け。この冒頭は、初読の時にもすぐに読み返しに行ったのですが、ここにほぼすべてが書かれているという大胆不敵さには頭が上がりません。〈百鬼夜行〉シリーズは、この冒頭の引きも素晴らしいんですよね。

     さて、こちらも中学生の初読以来、全体は読み返しておらず、今回が再読になります。初読時点では、ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』(東京創元社)と近い時期に読んだこともあり、宗教×ミステリーの作品として、脳内で同じ枠にカテゴライズされていました。ここでエーコの話に脱線すれば、当時の私には『薔薇の名前』が本当によく分からず、とにかく気合で読み通したというのと、あとはせいぜい、読書家だったら絶対に嫌な毒殺トリックが心に残った程度で、世評よりも楽しめなくて不安を感じていました。

     翻って『鉄鼠』ですが、こちらは箱根を舞台に、禅の世界が描かれる作品ですが、『薔薇の名前』と同様、宗教的な説明はよく分からずに読み通しました。ただ、そこが『薔薇の名前』と違ったのですが、とにかく、『鉄鼠』には「なんだかかっこいいことがかっこよく語られている」という印象がしっかりあって、それが中学生の私レベルでもとても楽しく読めた要因になったのです。

     さて、そして再読です。今回、宗教的な説明や解説が全て分かったとは、やはりまだまだ全然言えません。間に15年もあったのに全然勉強していないし、見通しが良くなったわけでもない。ただ、説明の中に余念なく伏線が張られていて、初読時には顎が外れるほど驚いた犯人の犯行動機にも、今回は納得させられてしまいました。しかも、宗教対立、論争の丁々発止が巧みに描かれているのがよく分かって、思わずため息をついてしまいました。今回、本筋となる憑き物落としの前にある禅僧と議論を戦わせ、その人物の憑き物を落とす、というシーンがあるのですが、ここの面白さは無類です。これは『狂骨』で言った「絵解き」の面白さが分かるようになった、という話にも繋がる気がします。

    『絡新婦の理』

     これは偏愛作で、今回の再読で四回目になります。実は偏愛作なんです、と宮内悠介さんに言ったら、「そうじゃなかったら『蒼海館の殺人』なんて書かないでしょ」と言われて恥ずかしくなったのを覚えています。大学の同期にも『絡新婦の理』が偏愛作というやつがいて、やっぱり「操りの構図」が……という話をしようと思ったら、「俺は女学園ミステリーに目がないんだ」と返された思い出もあります。その視点を得たのは初めてだったなぁ。いや、彼が「好きな作品は『絡新婦』と綾辻行人の『緋色の囁き』です」って言ってきた時に気付かなかった私が悪いのかもしれないけど。

     閑話休題。今回のポイントは、冒頭のシーン「あなたが――蜘蛛だったのですね」でも仄めかされる「操りの構図」にあるといってもいいでしょう。作中の時系列では最後にあたる「絵解き」のシーンを冒頭に持って来るというだけでも大胆ですが、それを読んでいてもなお全然事件の真相が見通せない、という巧妙さが素晴らしい。最後まで予想を外され続けたのをよく覚えています。

     女学園で行われる儀式により人を殺すという「目潰し魔」と「絞殺魔」。二人の殺人犯を追うパートが交互に現れ、しかし、事件の全体像は読者の目にはなかなか見えてこない……という仕掛け。「操り」の構図が示されているだけに、一体誰がどのような意図で動いていて、あるいは動かされているのか、思考は常に要求されますが、それでも読まされてしまうのがすごいところ。今回なんて四回目なのに、それでも細部は忘れているので、ここはこうしていたのか、あそこはああなっていたのか、などの発見があるのが楽しい。巽昌章による解説も絶品で、何度も読み返してしまいます。

    『塗仏の宴 宴の支度』『塗仏の宴 宴の始末』

     二冊合わせて文庫本でも2000ページ超えという驚異の厚さ。その厚さに恐れをなした、ということもあり、今回の再読まで読み返しませんでした。『宴の支度』は六つの中編に分かれ、「ぬっぺっぼう」「うわん」「ひょうすべ」「わいら」「しょうけら」「おとろし」、各話の繋がりが見えないまま進行します。私は初読時、この『塗仏の宴』に入る前に『百鬼徒然袋』のシリーズを経由したこともあって、中編スタイルに抵抗はなく、むしろ、六つも中編を読んだ先に、それが繋がるのが保証されている(『宴の始末』)のだから贅沢じゃないか、というぐらいの気持ちで読み進めていった記憶があります。私は関口巽が大好きなので、今回の事件で彼が襲われるピンチには、「一体どうしてそんなところまで追い込んじゃうの」とヤキモキする思いもあって、それが読み進める原動力になりました。

     そして今回の再読ですが……いやあ、腰が重かった……。中学生の頃は「まだページ残ってるじゃん!」とむしろ陽気に受け止めていたので、こればかりは、エネルギー、バイタリティーの衰えを痛感するばかり。しかし、今回『鵼の碑』に合わせて行われた「ダ・ヴィンチ」の京極夏彦インタビューで、本作が「フラクタル構造」を意識して書かれたというのを読むと納得する思いがありました。フラクタル構造とは、部分が全体と同じ形になっている、というもので、それを企図したものであれば、『宴の支度』の六つの中編と、『宴の始末』で語られる「ことの真相」の立ち位置が分かります。面白いのは、六つも中編を読まされているのに、全体の構図を想像出来ない、という巧みさでしょうか。

    「陰謀論」的な想像力が、〈百鬼夜行〉シリーズの真骨頂だとするなら、それが極限にまで達し、崩落するギリギリでまとめあげられたのが『塗仏』ではないか……という気がします。崩落するギリギリ、とあえて言ったのは、2000ページも読まされた先にある真犯人の悪意が、きちんと驚ける強度と邪悪さに踏みとどまっているからです。それがやりたいなら、ここまでのことをするよね、と納得出来るレベル、というか。

    『陰摩羅鬼の瑕』

     白樺湖にそびえる洋館、そこに住む由良伯爵が関わる事件を描いたシリーズ第八作。この由良伯爵に嫁いだ女性が、次々と命を落としてしまうので、今回は護衛として探偵の榎木津と関口がやってきた……というのが大体の筋。初読時の印象は、「真相のかなりの部分が分かってしまい、そうじゃないといいなと期待しながら読み進めた」というものでした。なので、再読である今回の方が「そうである」と分かっている分、細部に目を配って楽しむことが出来ました。

     たとえば、本作には関口巽の小説「獨弔どくてう」が登場します。関口巽の小説が読める、というだけで、関口ファンとしては嬉しいですし、この小説が重要な伏線の役割を果たしているのが面白いところ。また、シリーズ中では珍しいことに、「本格探偵小説」に対する自己言及がなされるなか、江戸川乱歩、横溝正史の名前まで登場するのを、さっぱり忘れていたので驚きました。しかも、横溝正史は由良伯爵と会ったという設定で、これがミステリー上も伏線になっているのが面白いのです。再読で奥付を読み、気が付いたのですが、「獨弔どくてう」は『死の本 The Book of Death』に掲載されたもので、件の横溝正史が出て来る章の一部分は、『金田一耕助に捧ぐ九つの狂騒曲』に掲載されたものだったんですね。一度外部媒体に掲載された「使用済みの」、たとえていえば「死んだ」パーツから、この幹が立ったことを思えば、「剥製」が象徴的に登場する今作のテーマにも沿っているのもかもしれません。

     これも再読による発見ですが、京極堂が行うのは「謎解き」でも「解決」でもなく(この読書日記では便宜上そう呼んでいることもありますが)、あくまでも「憑き物落とし」なので、初読時に私が思っていたような「真相が分かった」という不満はそもそもお門違いのようなところがありました。今回で言うと、真相が分かったとしても、じゃあそれをどう明るみに出し、憑き物を祓い、秩序を回復するのか――ミステリーの用語で言えばその「演出」の部分にもこのシリーズの面白さがあり、再読ではそこも楽しんで読むことが出来ました。

    『邪魅の雫』

     再読するまでほとんど内容を思い出せなかったので、初読のような気持ちで読めたのが本作。どうして覚えていないのか、大体二つの理由があって、一つ目はこの作品の章・節の数です。大体〈百鬼夜行〉シリーズは100ページに1章のペースで進行するのですが、この作品はそれよりも短く節が切られていて、一つのシーンが長く続かないのです(前作『陰摩羅鬼』は13章構成、今回は28章で、『邪魅』の方が100ページほど長いとはいえ章の切れ目が細かいことが分かります)。このカット割りのペースが、今までのシリーズと比較しても早いので、リズムに馴染めなかったというのが一つ。

     二つ目は、この作品と近い時期に読んだ『ルー=ガルー2 インクブス×スクブス 相容れぬ夢魔』と記憶が混ざってしまったこと。私が『邪魅の雫』を手に取ったのは2008年のことで、『ルー=ガルー2』は2011年の刊行です。そして、この二作品が「毒」を巡る話であったために、細かいエピソードが頭の中で混じり合い、どちらがどちらだっけ、とこんがらがってしまったという次第。恥ずかしい限りです。

     ということで再読した『邪魅の雫』ですが、「得体の知れないものが跳梁している感じ」は初読の時よりも強く味わうことが出来、また、榎木津のパーソナリティーが語られる貴重な回という楽しさもあって、初読よりも面白く読むことが出来ました。『ルー=ガルー2』の記憶とも一旦距離を取ることが出来たので、そこで混乱することもありません。このシリーズは、これだけ長大な作品であるにもかかわらず、事件の構図の核となる部分だけはたった一言で言い表すことが出来る、という潔さがあると思うのですが、『邪魅』はそれが出来ないところに良さがある気がします。

     ところで、再読すると、7章で展開される「書評論」にどこか救われるような思いがあります。小説家になったから、余計にこの辺の議論に耳が痛くなって、同時に、京極堂の言葉がスッと心に入ってくるのでしょうね。関口と同じタイミングで私も、諒解したよ京極堂、と心の中で返答してしまいました。

    『鵼の碑』

     さて、長くなりましたがようやく最新刊です。今回は鵼という妖怪の見た目に合わせて「蛇」「虎」「狸」「猨」「鵺」という五つの章立てに分かれ、それぞれが六節の構成で進行していきます。それぞれの章に、関口巽、木場修太郎、榎木津礼二郎とその探偵事務所の探偵・益田、日光にやって来た京極堂、などが配され、それぞれの「事件」を追うことになります(京極堂の妹である記者、中禅寺敦子は今回お休みですが、それは『今昔百鬼拾遺 ―月』で語られた、「鬼」の事件に出馬しているからだそうです。あの作品で敦子成分はだいぶ摂取出来ましたが、ちょっと残念)。

     鵼という妖怪を選択したためか、今回は今まで以上に、事件の「捉えどころのなさ」が際立った作品となっています。これまでの九作は、それぞれの形で、「今、まさに、この瞬間、得体の知れないことが起こっている」という厭な感情を呼び起こしてくれる作品でした。例えば、『魍魎』のバラバラ殺人は現在進行形ですし、「匣」というキーワードが幾重にも響き合うところにも厭らしさがある。『陰摩羅鬼』も、殺人事件の発生までにはだいぶかかりますが、舞台を白樺湖のそばに立つ洋館一つにほぼ絞り込んで、そこに不気味な、異界めいた雰囲気を漂わせることでこの「厭な感情」を呼び起こしてくれると思います。

     翻って今回の『鵼の碑』ですが、作中で言及される「事件」の数々がほとんど過去のものということもあり、なかなかその「厭な感情」が起こるまでに(いつも以上に)時間がかかるところが、シリーズ読者としては不思議な感じでした。何か得体の知れないものが動いてい「た」のは分かるのだけれど、今この時ではないから、どう対処していいのか分からない、この「得体の知れなさ」「正体の分からなさ」が今回の事件のポイントだという気がします。しかし、そこに因果関係を見出し、隠された関係を見抜いてしまおうとするのが人間というもの――〈百鬼夜行〉シリーズで繰り返されてきた、「陰謀論」的な想像力の働きは、本作でも登場人物たちの間をゆっくり行き来しているように見えます。「何かあるのかもしれない」「何かありそうだ」。この想像力に対して、京極堂がいかに回答するか。ここにこそ本作の力点があり、2023年というこの「現代」に読まれる本として、本作が「あるもの」へのカウンターパンチとして書かれたことの意義があるのではないかと考えました。

     また、著者には『百鬼夜行――陰』『百鬼夜行――陽』という作品があり、これは、〈百鬼夜行〉シリーズの関係者たちが、「魔に魅入られた瞬間」を描いた短編集群で、これまでのシリーズ作品のサイドストーリーが描かれていたわけです。この『陽』のほうに、「墓の火」と「蛇帯じゃたい」という短編が二編あり、これはいずれも『鵼の碑』のサイドストーリーであることが明かされていました。「墓の火」では、日光を訪れた寒川秀巳が「光る石碑」を目撃してしまう。「蛇帯じゃたい」では、ホテルのメイドである桜田登和子が蛇を恐れ、それが異常であると指摘される。この二つのエピソードが先行して存在しており、しかも、繋がりがなさそうなエピソードであるからこそ、どのように使うのだろうという興味も搔き立てられました。

     しかし、このエピソード二つを事前に示されていても、何をするつもりなのかまるで分らないのがすごいところで、シリーズ屈指の捉えどころのなさです。『狂骨の夢』の節で言った『絵解き』の部分、今回は、鵼という妖怪についてのことですが、この部分は楽しめましたし、細かい事件の『謎解き』にもなるほどと思わされる箇所がありましたが、一番のポイントは、この小説が〇〇〇に言及した小説であることではないでしょうか。1950年代を舞台に設定した本シリーズでは、例えば『絡新婦』におけるR・A・A(進駐軍特殊慰安施設)に対する議論であるとか、『魍魎』や『邪魅』のように軍が開発した技術や兵器が引き起こす事件であったりとか、現実のものから陰謀論的なアイテムまで、戦争の罪に一つずつ言及していく側面がありました。その意味で、『鵼の碑』が〇〇〇についての小説だったことは必然と言えますし、書かれなければならなかったのだなぁという思いを新たにします。

     ……さて、こんな風に長々と語ってきましたが、実はこういった感情にようやく辿り着いたのは、本作を二回通読した後のこと。二回目は、「蛇」の章だけ(一)~(六)まで通読し、次は「虎」を一気に通読……というように、中編を五つ読んでから解決編を読む、という読み方をしてみました。そうすることで、この作品が『塗仏』の構造に見えてきて、あの作品がああいう作品だとすれば、今回は……と想像を膨らませていった結果、ようやく上記のような感情に辿り着いたという感じです。初読時は、京極堂が繰り返す言葉があまりにも意外で、感情の整理をつけるのが難しかったのです。

     一つだけ、特にこれは良かったなあという場面を挙げておくと、関口巽と久住による会話の場面で、関口がこれまで自分が巻き込まれた事件とそこでの役割を振り返って、「期待」というものにどう接するか、と口にするところです。これは色々な事件を経た関口にしか言えない言葉だと思うので、なんだか感慨深い思いに捉われてしまいました。

     そんなわけで、得難い体験となった、シリーズ最新刊でした。

    (2023年10月)

第65回2023.09.22
私の「神」が、私の「神」に挑む物語群 ~〈柄刀版・国名〉シリーズ、これにて終幕~

  • 或るスペイン岬の謎、書影

    柄刀一
    『或るスペイン岬の謎』
    (光文社)

  • 〇新刊が出ますよ!

     さて、昨日、9月21日に新刊『午後のチャイムが鳴るまでは』(実業之日本社)が刊行されました! 二年前に雑誌「THE FORWARD」において、第1話「RUN! ラーメン! RUN!」を掲載していただいた時から、この連作の最終形を見据えてずっと頭を動かし、心を燃やしていたわけですが、ようやくゴールに辿り着きました。「昼休み」をテーマに、全短編の事件を「昼休み」に起こすという超絶縛りプレイに挑んだ青春学園ミステリーです。どうかお手に取ってくださいませ。

     第1話は誰にもバレないようにラーメンを食いに行くという「完全犯罪」の物語で、ラーメンを食う描写は平山夢明『デブを捨てに』(文春文庫)にインスパイア。第2話は徹夜合宿を行った文芸部を襲う人間消失の物語、物語のノリははやみねかおる『復活‼ 虹北学園文芸部』(講談社)を意識。第3話は消しゴムを使ったポーカーというオリジナルゲームを楽しむ男子高校生たちによる騙し合い化かし合いを描いたコンゲーム、阿佐田哲也『麻雀放浪記』(文春文庫等)への熱い思いを形にしました。第4話は「星占いじゃ仕方がない。まして木曜日ならなおさらだ」という言葉から推論を展開する、ハリイ・ケメルマン「九マイルは遠すぎる」の本歌取り。米澤穂信「心あたりのある者は」他このタイプの後続作品の数々も意識しました。第5話は天文台からの人間消失という、ロマンあふれる謎に挑みます。オマージュ元はミシェル・ビュッシなんですけどね。

     今回の「あとがき」では、細かい作品の話はしないと自分でルールを設けたので、ここでまとめて紹介しておきました(笑)。もちろん、ここに挙げたような書名を知らなくても楽しめます。しかし、他の出版社でもまだやらせてもらっていないような、青春ミステリー全開の雰囲気を出しつつ、従来の青春ミステリーで自分が物足りないと思っていた部分を克服するようなものが作れたと思っているので、大いに満足しています。このシリーズは〈九十九ヶ丘学園〉シリーズと銘打って、既に第2弾のプロットは出してありますが、果たしてどうなることやら。

    〇数年後絶対忘れるので、書き残しておきたい「9月21日」の話

     それにしても、この9月21日ですが、同時に刊行された新刊が、伊坂幸太郎『777』(KADOKAWA)、東野圭吾『あなたが誰かを殺した』(講談社)、今村昌弘『でぃすぺる』(文藝春秋)と強豪揃い。数年前から「このミステリーがすごい!」の規定が変わり、奥付が「前年10月~今年9月末」までの本が対象になったので、年末ランキングを狙いたい本が9月に目掛けて出るようになった……という事情はあるにせよ、ちょっとこの重なり方はひどい。

     本当に泣きたい気分ですが、伊坂の〈殺し屋〉シリーズと東野の〈加賀恭一郎〉シリーズは、自分でも毎回楽しみにしているシリーズなので、多分今日にはうっきうきで読んでいると思いますよ(他人事なのは、私がこれを書いているのがまだ8月末であるため)。特に〈加賀恭一郎〉シリーズですが、私は『新参者』(講談社文庫)を読んで触発され、中学生の頃に人形町や水天宮前の界隈を歩き回ってあの世界に浸ったことがあるぐらい好きなのですが、『どちらかが彼女を殺した』『私が彼を殺した』(いずれも講談社文庫)は、当時一度読んだきりで、再読したことがなかったので、今回勇んで再読してみることに。どちらも結末が書かれていない(犯人が誰か明言されない)趣向の作品で、講談社ノベルスで発売された当初は問い合わせが殺到したという話もありますが、講談社文庫版にはいずれも西上心太による「推理の手引き《袋綴じ解説》」が付けられています。

     この二作、犯人当ての定石やら、論理的な考え方やらがまだよくわかっていない中学生の時期に読んでいるため、何が何やら分からず、「推理の手引き」を読んでも「分かったような分からないような……」とモヤモヤしたまま終わってしまっていました。しかし、あれから十五年を経て読み返してみると、描写の端々から「作者がどう解かせるつもりなのか」がくっきり見えてきたので、おお、自分も曲がりなりにも成長したんだなあと思いました。再読するのって、それ自体ももちろん楽しいんですが、「あの時より一つでも多くの要素を楽しめるか」「あの時よりも良い読みが出来るか」みたいなところで、それまでの読書経験を丸ごと裁かれるような気がして、緊張もするんですよね。そういう意味で、この二作品の再読は自分にとって貴重な経験でした。

     特に感動したのは『私が彼を殺した』。何に感動したかというと、解決編前に「では始めるとしましょう。アガサ・クリスティの世界をね」(同書、p.352)と加賀が宣言するんですよね。これは2ページ前に容疑者の一人が、容疑者を全員集めるなんて、クリスティの世界かよ、とあてこするのに応えての言葉です。これは再読するまで全く思い出さなかったセリフで、なぜなら、ここでいう「アガサ・クリスティ」というのは慣用句的なそれだろうと思っていたからなのです。有名な本格作家を代入出来る項にすぎなくて、ここがエラリー・クイーンでも横溝正史でも構わないのだろう、ぐらいに。

     ところが、この解決編、読み返してみるとなかなかどうしてクリスティなのです。三人の容疑者にはいずれも疑わしい行動や疑われる理由があるわけですが、その一つ一つに隠された意味を推理で明らかにしながら、それぞれの容疑者が「自分は犯人ではない」という「あらため」を行う。この手つきが、実にクリスティらしい。というのも、『ナイルに死す』『死との約束』におけるポアロの尋問は、「一度目が状況理解、手掛かり収集のフェーズ、二度目がそれぞれの疑惑を追及していく「あらため」のフェーズ、最後に全員集めて解決編」というシークエンスを取るのですが、『私が彼を殺した』において、「アガサ・クリスティの世界」を始めると宣言された後の解決編70ページは、この「あらため」のフェーズと解決編のフェーズをミックスしたような、圧倒的な面白さがあるのです。

     そして解決編の最後のピースを埋めるのは読者の仕事……となるわけですが、最後のページに登場した手掛かりをどう使うか、というのを考えると、作者が「どう解かせたいか」は分かりやすいと思います(そのあたりは袋綴じ解説に詳しいのでぜひ)。十五年越しに再読して「クリスティの世界」を初読時以上に楽しむことが出来たので大いに満足。ということで、『あなたが誰かを殺した』もとても楽しみ。

    〇「名探偵ポアロ」映画の話
    さて、「クリスティ」繋がりで、映画の話も入れさせてください(本題になかなか入らなくてごめんなさい)。9月15日に「名探偵ポアロ:ベネチアの亡霊」(2023)が公開されました(8月末に書いている原稿で映画の話が出来るのは、ディズニーより試写会に招待されたからです)。ケネス・ブラナーが監督・主演を務めるポアロ映画はこれで三作目。一作目は「オリエント急行殺人事件」(2017)、二作目は「ナイル殺人事件」(2022)で、それぞれ『オリエント急行の殺人』『ナイルに死す』を原作としていました。ここまではクリスティでもA級の作品を原作に、スーシェ版等々歴代のポアロ映像化とは違う「ケネス・ブラナー流」のポアロ解釈を示してきましたが、今回の原作はなんと『ハロウィーン・パーティ』

     もちろん、この作品もイギリスのハロウィーン・パーティの雰囲気を味わうことが出来、「あたし、前に人殺しを見たことがあるのよ」と口にした女の子が殺される、というクリスティらしい発端と謎解きを味わえる作品です。何より、ポアロ作品の愛すべき準レギュラーキャラ、女性作家のアリアドニ・オリヴァが登場する一作でもあります。とはいえ、『オリエント~』や『ナイル~』に比べれば、一枚か二枚落ちる作品であることは否定出来ないでしょう。だからこそ、ケネス・ブラナーがどのように料理するのか、映画を見るのが楽しみだったのです。

     結果……全然原作と違う! でも結構面白い。

     そもそもタイトルが「ベネチアの亡霊」で、舞台を水上都市ベネチアに移していますし、「この殺人事件の犯人は――人間か、亡霊か。」というキャッチコピー自体かなり不思議だったのですが、当然のように「死者の声を聴く」霊能者が登場し、殺人事件の被害者から証言を得るためにハロウィーン・パーティの日に「降霊会」が開かれるという筋立てが序盤で現れたので、これはむしろジョン・ディクスン・カー(カーター・ディクスン)の世界観では? と思ってしまった次第。正直、カーター・ディクスン『黒死荘の殺人』の映像化と言われても納得したと思います。撮り方や恐怖の演出も、ぶっちゃけかなりホラー寄り。

     第一の殺人からして内容がまるきり違います。リンゴ食い競争のためのバケツが使われるのは原作通りですが、標的が違います。この捻りも地味に上手い(第一の殺人を原作通りに映像化出来ないのは、13歳の少女が殺される、というシーンが今のコンプライアンスだと厳しいのかな、と思ったりもします)。第二・第三の殺人はオリジナルですし、そもそも降霊会のトリックや演出も独自のものということになります。ベネチアという舞台も、水上都市だからこそ生きる水位と恐怖の演出も、亡霊のシチュエーションから生じるポアロを苦しめる恐怖の数々も、全て原作読者が知らない光景です。

     しかし、クリスティの作品らしさは、きちんと全編に横溢しているのが不思議なところ。一人一人を尋問しながら秘密を暴いていき、真相に迫っていく確かな足取りは見事に再現されていますし、いくら画面がホラー映画のようでも、全関係者を集めて謎解きもちゃんとする。アリアドニ・オリヴァの使い方も面白いし、ラストの謎解きの余韻も快い。正直、ケネス・ブラナー版ポアロは、私にとって解釈違いで、「ナイル殺人事件」の口髭のエピソードは苦い顔をしながら見てしまったのですが(ただし、ポアロの口髭と関連する第三の殺人にまつわるアイディア、そのアレンジ自体は素晴らしいと思います)、今回は原作からかなり距離があったせいか、あまり気にせずに、パラレルな世界線のクリスティ映画として楽しむことが出来ました。

     個人的に好きだったポイントがもう一つ。今回、ポアロは隠遁生活に入っているという設定なので、「名探偵としては死んだ存在」という表現が映画の中でも使われており、「名探偵の復活」を描いた物語だといえるのです。そのうえ、刻一刻と水位が上がって、危機にさらされる屋敷の中で起こる殺人事件が描かれる……ということで、正直、他人事とは思えなかったというか(苦笑)。

    〇〈柄刀版・国名〉シリーズ、完結!

     いや~、遂に〈柄刀版・国名〉シリーズも、8月に刊行された柄刀一『或るスペイン岬の謎』(光文社)で完結となったわけです。2019年に『或るエジプト十字架の謎』(光文社/2022年に光文社文庫化)が刊行された時から――いや、正直な話、雑誌「ジャーロ」63号に、短編「或るエジプト十字架の謎」が掲載された時から――あのエラリー・クイーンに柄刀一が挑む! という興奮で、私は前のめりになっていたのでした。

     シリーズのリストと内容は以下の通り。

    ①『或るエジプト十字架の謎』(2019年5月刊行/2022年文庫化)・短編集
    収録作品:或るローマ帽子の謎/或るフランス白粉の謎/或るオランダ靴の謎/或るエジプト十字架の謎
    ②『或るギリシア棺の謎』(2021年2月刊行)・長編
    ③『或るアメリカ銃の謎』(2022年7月刊行)・中編集
    収録作品:或るアメリカ銃の謎/或るシャム双子の謎
    ④『或るスペイン岬の謎』(2023年8月刊行)・中編集
    収録作品:或るチャイナ橙の謎/或るスペイン岬の謎/或るニッポン樫鳥の謎

     このように見てみると、2018年に短編「或るエジプト十字架の謎」が「ジャーロ」に掲載されてから、足かけ5年で、柄刀一は〈柄刀版・国名〉シリーズを完結させたことになります。原典と違って全て長編というわけではないにせよ、なんという充実度とペース……。しかもドンドン完成度を増していくのですから、素晴らしいのなんの。

     柄刀一の魅力は大きく分けて三つあると思っています。「一、奇跡とさえ見紛う鮮やかなトリック」「二、端正かつ綺麗なロジックの鋭さ」「三、生真面目な文章から時折こぼれだす詩情」の三つです。このうち例えば「一」が強調されたのが、『奇蹟審問官アーサー 神の手の不可能殺人』(講談社ノベルス)における、まさに透明な神の手が首を絞めたとしか思えない鮮やか過ぎる不可能犯罪であったり、『fの魔弾』(光文社文庫)における、カーター・ディクスン『ユダの窓』を現代の住居で再現する、コロンブスの卵のような発想だったりするわけです。「一」と「三」が絡み合えば、SF的な世界観の中で詩情とトリックが絶妙に溶け合う、『アリア系銀河鉄道』『ゴーレムの檻』(いずれも光文社文庫)の〈三月宇佐見のお茶の会〉シリーズが生まれます。

     しかし、「二」のロジックの魅力も素晴らしいことを忘れてはなりません。〈柄刀版・国名〉シリーズでも主演を務める名探偵・南美希風のデビュー戦となった「イエローロード」(『OZの迷宮』〈光文社文庫〉収録)は、被害者のポケットに入っていた五十枚の十円玉という手掛かりから、論理だけで犯人に辿り着くロジック短編のマスターピースですし、『火の神アグニの熱い夏』(光文社文庫)は手掛かりを収束させる端正なロジックが魅力的な長編です(200ページ弱という長さも良い)。「見られていた密室」(『紳士ならざる者の心理学』〈祥伝社文庫〉収録)のように、「密室の中で被害者がダイイングメッセージを書いていることに犯人が気付いてしまったが、密室にしてしまったので入れない、どうするか?」というシチュエーションの中で、「見られていることを意識している被害者」と、「ダイイングメッセージの意味を推理したうえで探偵の解読を防ごうとする犯人」との心理戦を、ロジックだけで読み解いていく凄まじい作品もあります。これはダイイングメッセージ短編のオールタイムベスト。

     そんなわけで、ロジックにも並々ならぬこだわりを見せ、さらに高い完成度を誇る柄刀一が、エラリー・クイーンの〈国名〉シリーズに挑むというのは、私にとっては非常に納得のいくことだったのです。当然、新刊で出るたびに夢中になって読んでいましたが、今回はその完結を記念して、全作レビューを試みたいと思います。そしてこのシリーズ、クイーンの〈国名〉シリーズのどの部分をオマージュして、どこを外すか、という取捨選択が非常にユニークで面白いので、そういう部分の気付きも、ネタバレにならない程度に触れていきます。いずれクイーンと柄刀、両者のネタバレありで語れる場で、もっと精化してみたい気もしますが。以下で「原典」というのは、全て、エラリー・クイーンの〈国名〉シリーズのことを指すとお考え下さい。

    〇各作品の解題へ

    『或るエジプト十字架の謎』(2019年5月刊行/2022年文庫化)・短編集
    収録作品:或るローマ帽子の謎/或るフランス白粉の謎/或るオランダ靴の謎/或るエジプト十字架の謎

     第一弾です。「ジャーロ」での掲載順でいえば、原典の順番と逆に、エジプト→オランダ(64号)→フランス(67号)→ローマ(単行本刊行時に書き下ろし)と書かれていったのがちょっと面白いところ。

    「或るローマ帽子の謎」は、現場がトランクルームである時点で、劇場が舞台だった原典とはもちろん異なりますが、密室と帽子という取り合わせは原典通り。それどころか、帽子と頭部への執拗なこだわりは、原典よりも強烈かもしれません。最後に明かされる「なぜ?」の切れ味が好み。

    「或るフランス白粉の謎」は、白い粉が舞う殺人現場が舞台ですが、原典『フランス白粉の謎』を知っている人間は、恐らく開幕からニヤニヤすることになると思います。ちなみに原典『フランス白粉の謎』は、パートごとにエラリーの推理を少しずつ楽しむことが出来て、全編が楽しいので、クイーン作品の中でもかなり好きな一作です。

    「或るオランダ靴の謎」は、原典のように病院が舞台――というわけではありませんが、スニーカーや木靴、足跡などが入り乱れる点で、原典よりも「靴」に淫した作品であるといえるでしょう。原典『オランダ靴の謎』の魅力は、一足の靴の分析から犯人の属性を割り出してしまうロジックの鮮やかさと、第二の殺人にまつわる「ある物証」に基づく一発限定の鮮やかさにあると思いますが、「或るオランダ靴の謎」では、この段階で既に原典の『ギリシア棺の謎』のような趣向まで取り込んだうえで、かなりひねった一発限定ロジックを見せてくれるので嬉しくなってしまいます。「操りの構図」を作品内に取り入れてしまうと、推理の複雑さがインフレ化して、手掛かりが本物か偽物か判定するロジックを案出するのが難しくなってしまうのですが、この点で何度読んでも唸ってしまうのが麻耶雄嵩『隻眼の少女』(文春文庫)の最後の詰め。それとは別のアプローチで、しかし「操りの構図」における手掛かりの真贋判定の型のうち、有名かつ効果的なパターンを潰しているのが「或るオランダ靴」の靴だと思っています。細かく分類したらもっとあると思いますけど……。

    「或るエジプト十字架の謎」は、原典と同じように、被害者が「T」字型のエジプト十字架の姿勢を取っている、という謎が扱われていますが、その部分の処理については原典以上かもしれません。首の切断によって人を十字架にかけた時「T」の形になる……という点は原典と同じなのですが、原典では極論、首切りだけが必要であって、人を十字架に括り付ける部分は「演出」の一部であると言えます。ところが、「或るエジプト十字架の謎」は、なぜ死体が「T」の形であったか、という点に理屈をつけ、さらにそれをロジックに繋げてしまったのです。器用だなあ、こういうところ。

    『或るギリシア棺の謎』(2021年2月刊行)・長編

     本シリーズで唯一の長編作品。こんなにもレベルが高く、かつ、執拗なまでの論理的推理を構築する人間がまだいたとは……というのが『或るギリシア棺の謎』に対する率直な感想です。正直に言って、読み通すのは相当大変な一冊でした。一週間くらい、メモ取りながら少しずつ読み進めていった記憶があります。

     原典『ギリシア棺の謎』も、若きエラリーの事件、という特性がくっついていることもあり、エラリーが推理を構築し、それが瓦解し、また新しい展開が起こる……という流れを三回繰り返し、四回目にようやく真実に辿り着く「多重解決」の趣向を取り入れている作品でした。「操りの構図」や、それに伴う「真の手掛かり/偽の手掛かりをいかに判別するか?」という問題まで含めて、「後期クイーン問題」を取り扱う際に、必ずマイルストーンとなる一作であるわけです。

     しかし、『ギリシア棺の謎』は、推理の構築→瓦解の瞬間がいずれもダイナミックに描かれるため、なんというか、エラリーも派手にすっころびますし、「多重解決」というものに現代ミステリーのおかげでだいぶ慣れていた中学生時代の私でも、振り落とされずに楽しむことが出来た記憶があります。

     一方、『或るギリシア棺の謎』は推理とその瓦解、再構築がシームレスに、それも複雑に絡み合いながら行われるという印象が強く、それだけに、推理を丁寧に追いかける胆力が求められます。ただ、その構築性の高さから、粘り腰で丹念に追いかける価値のある一作だと思っています。

     それにしても、タイプライターまでオマージュとして登場するあたり、本当に柄刀一はクイーンが好きだなあ……。また、「白」と「黒」の伝承的な力によって、正義と悪、双方が生まれる一族という設定や、とあるものが視える少女・千理愛の設定などに、柄刀一の詩情が覗いている気がします。

    『或るアメリカ銃の謎』(2022年7月刊行)・中編集
    収録作品:或るアメリカ銃の謎/或るシャム双子の謎

     本書については、2022年8月に更新した第41回でも言及していますが、今回は特集なのでさらに突っ込んだことを書いておこうと思います。

    「或るアメリカ銃の謎」は、シチュエーションとして分かりやすい、原典における「ロデオ場での衆人環視下での殺人」であるとか、「二万人の容疑者からたった一人を特定するロジック」という方向性にはまったくいかず、愛知県のアメリカ領事私邸で起きた謎の射殺事件、という一見すると地味な道具立てになっています。しかし、原典『アメリカ銃の謎』の勘所を、「極小レベルの偶然をロジックに組み込む」という部分に求めるとするなら、柄刀のアプローチも、これを意想外の方向に膨らませたものといっていいでしょう。そこに日本が舞台であるからこそ組み込める、意外な手掛かりの妙を織り込んでいるのも面白いところ。

    「或るシャム双子の謎」は、原典における「山火事によって探偵も関係者も全員が危機に見舞われる」というプロットそのものと「ダイイングメッセージ」の要素を生かしています。原典『シャム双子の謎』は、私がクイーンで一番好きな作品で、あんな状況でも名探偵をするエラリーだったり、キレッキレのダイイングメッセージの趣向だったり、未だに何度読んでも面白い作品なのですが、「或るシャム双子の謎」では、クローズドサークルを琵琶湖周辺として、広く設定することによるドラマと、災害による悲劇の重さが強調されています。このクローズドサークルの設定自体が犯人当てにも生きてきますし、この「犯人の条件」の二回転半ひねりみたいな着想の巧さが好きです。原典との距離感と、オリジナリティの付与のバランスの意味では、やはりこの「或るシャム双子の謎」が一番好きかも。

     また、このあたりから顕著になってきますが、〈柄刀版・国名〉シリーズでは、その時々に題材としている原典(今回でいうと、アメリカ、シャム)以外の〈国名〉シリーズ作品の要素を、組み合わせながら巧く使っているという印象があります。このマッシュアップ、リミックスの部分も、どう作っていったのか想像しながら読むと楽しいです。

    『或るスペイン岬の謎』(2023年8月刊行)・中編集
    収録作品:或るチャイナ橙の謎/或るスペイン岬の謎/或るニッポン樫鳥の謎

     さて、最新刊です。最新刊にして最高傑作となっているのは、もうさすがとしか言いようがないでしょう。

     まず「或るチャイナ橙の謎」。原典との(明示された)類似点は、もちろん「部屋の中のものがさかさまにされている」という点と、現場が密室である点です。このうち「さかさま」の謎については、多くの後続ミステリーを生み出していて、法月綸太郎「中国蝸牛の謎」(『法月綸太郎の功績』〈講談社文庫〉収録)、東川篤哉「魔法使いとさかさまの部屋」(『魔法使いは完全犯罪の夢を見るか?』〈文春文庫〉収録)などがありますし、漫画では「名探偵コナン」の52巻にも同様のエピソードがあります(アニメ版のタイトルは「ひっくり返った結末」)。それぞれの作品が、「さかさまの部屋」の謎をアレンジして、「なぜさかさまにしたか?」という点に様々な必然性を付け加えているのですが、柄刀の作品もまた、別の方向性を希求しているのです。結末で殺人現場の謎が全て解き明かされた時に、このエピソードではもう一つ、「チャイナ」原典の本歌取りがなされていたことに、読者は初めて気付く――という仕掛け。粋です。

     次に「或るスペイン岬の謎」。原典の本歌取り箇所はもちろん、「被害者の衣服が全て脱がされていたのはなぜか」という謎です。日本での本歌取り例としてはとりあえず、有栖川有栖「菩提樹荘の殺人」(『菩提樹荘の殺人』〈文春文庫〉収録)、東川篤哉「南の島の殺人」(『中途半端な密室』〈光文社文庫〉収録)などが思い浮かぶところ(また東川作品だ……こうして考えると、やっぱり律儀に色々やってるなあ)。ドラマでは「古畑任三郎」「笑うカンガルー」も『スペイン岬』オマージュでしょう(陣内孝則が犯人の回)。「或るスペイン岬の謎」では、「被害者の衣服を奪う理由」の分類までなされているのがユニークですが、ここの部分の必然性は、原典にも匹敵するほど鮮やか。必然性があるのはもちろんなんですが、犯人当てとも直結しているので、余計に印象が良いんですよね。

     最後を飾るのは「或るニッポン樫鳥の謎」。原典である『ニッポン樫鳥の謎』は、原題では “The Door Between” であり、邦題が国名シリーズのようになっているだけなので、厳密には原典の国名シリーズは九作という向きもありますが(角川文庫の新訳の際には、『中途の家』を含めて〈国名シリーズプラスワン〉という惹句で復刊されました。『中途の家』は、たとえていうなら『スウェーデン燐寸マッチの謎』と名付けられるような、マッチのロジックが綺麗な作品なので、納得ではあります)、まあそういう経緯も込みで、日本人があえて「国名シリーズ」をやるのであれば、経緯込みで押さえておきたい書名の一つ。

     と、前置きが長くなりましたが、ここでは原典と、「或るニッポン樫鳥の謎」に共通するエピソードを丁寧に拾ってみたいと思います。柄刀作品の根本的なネタバレに踏み込むわけではないので、お許しを。

     さて、まずは原典から引用してきます。『ニッポン樫鳥の謎』の13節において、クイーンはある「実験」を行います。月曜日に石を放り込まれて窓が壊れたことが、事件に関連しているのかどうか。格子がついているのに、それをすり抜けて窓を割れるのかどうか。石を何度も投げて実験する、というくだりです。189~192ページが該当のシーンですが、一部を抜粋します。

    〝三たび、石ははねかえり、窓は壊れなかった。四度、五度……。
    「ちきしょう」と、テリーはいまいましそうにいった。「とうていやれないよ」
    「しかもなおかつ」と、エラリーは考えこむような口調でいった。「やれたのだ」
     テリーは上着をとりあげた。「だれかが、あの格子のあいだをくぐり抜けるようにねらって、石をほうったなんて、そんなことは、ぼくには信じられないよ。きみがいい出さなかったら、ぼくはやってもみなかったろう。二本の格子のあいだをうまく石がくぐり抜けるとしても、両側に半インチそこそこの余裕しか残らないものね」
    「そうだ」と、エラリーはいった。「きみのいうとおりだ」
    「大トレーンだって、できっこなしだ」
    「そうだ」と、エラリーはいった。「ジョンソン君にだって、できるとは思えない」
    「ティズにだってできない」
    「ディーン君にだって。そこでだ」と、エラリーはまゆをしかめながらいった。「この実験はあることを証明している」
    「そうさ」と、テリーは帽子をぐいとかぶりながらあざけるようにいった。「石は、こんどの殺人には、なんの関係もないことを証明している。ぼくは、月曜日の午後から知っていたよ」〟(『ニッポン樫鳥の謎』〈創元推理文庫〉、p.191~192)

    「大トレーン」から「ディーン君」までの名は、いずれも当時のメジャーリーガーの名前です。そういう人にだって、あの窓は意図的に割れたわけがない。だから偶然であり、事件とは無関係だ、という論理ですね。このどうってことないエピソードを、私がやたらと覚えていたのには、理由があります。この箇所は、有栖川有栖「四分間では短すぎる」(『江神二郎の洞察』〈創元推理文庫〉収録)において言及されているのです。

     有栖川の短編の主題は、ハリイ・ケメルマン「九マイルは遠すぎる」の本歌取りと、松本清張『点と線』における〈空白の四分間〉の謎に対する批評的な視点の提示にあると思われるのですが、〈空白の四分間〉は偶然に過ぎないだろう、不自然だ、という理屈を述べる前に、『ニッポン樫鳥』を引用するわけです。部員の一人、織田が一週間前に読んだ『ニッポン樫鳥』について、学生アリスや望月らと会話するパートです。エラリーが行う石投げの実験の結果はどうだった? とアリスが問われて、答える部分から、

    〝「なんぼやっても、はずれるんです。大リーグのエースが投げても当たるもんやない、というのが実験の結果でした」
    「正解。そこからエラリーが導いた結論は、〈犯人が意図してガラスを割った、ということはあり得ない。ガラスが割れたのは事件と無関係だ〉。実に論理的やな。万人を納得させるロジックや」〟(「四分間では短すぎる」より。『江神二郎の洞察』〈創元推理文庫〉p.204)

     このあと、織田たちはこの理屈を『点と線』にあてはめるわけですが、そこは『点と線』のネタバレにあたるので割愛。これを読んだのは『江神二郎の洞察』単行本刊行時の2012年、高校生の頃でしたが、原典を読むだけでは忘れがちなこの部分を、「実に論理的」と評しているのが妙に心に残って、未だに覚えているという次第。

     さて、ここでようやく、柄刀版『ニッポン』に話が戻ります。この話を踏まえると分かってもらえると思うのですが……実は柄刀版でも、この「石とガラス窓」のエピソードが印象的に登場するのです。

     しかし、その扱いと解釈は、有栖川のものとは真逆をいっているように思えます。「極小レベルの可能性は、偶然として無視して良い――これが論理である」と表現するのが有栖川の解釈であるなら、「極小レベルの可能性が眼前で行われたならば――それは奇蹟である」とするのが柄刀の解釈といえるでしょう。柄刀の魅力として挙げた三つの項目のうち、「生真面目な文章から時折こぼれだす詩情」の部分が、最後にこぼれてくるのです。

     森そのものに抱かれるような、詩情あふれる結末を含めて、これぞまさしく柄刀のロマン、という終わり方にはため息が漏れます。あ、もちろん、「或るニッポン樫鳥の謎」に出てくる密室トリックも、他で全く見たことがない構成要素によるものでとても面白いんですよ。その点も含めて、注目です。

    (2023年9月)

第64回2023.09.08
全員信用ならないなあ…… ~作家小説大豊作~

  • トゥルー・クライム・ストーリー、書影

    ジョセフ・ノックス
    『トゥルー・クライム・ストーリー』
    (新潮文庫)

  • 〇少し早めの告知から

     9月22日発売の「小説新潮10月号」に、シリーズ短編「そして誰にも共感出来なかった 迷探偵・夢見灯の読書会」が掲載される予定です。これは今年の「2月号」から始めたシリーズの第二弾ですね。大学生の夢見灯が読書会を開くと、その読書会の課題本に似た事件が起こる「夢」に取り込まれることになり、その事件の謎を解くまで夢から醒めることが出来ない……という設定のミステリー。

     第二弾の課題本は、タイトルで雰囲気が伝わるかもしれませんが、アガサ・クリスティー『そして誰もいなくなった』(ハヤカワ・ミステリ文庫)です。十人が孤島に行って全員死ぬ……という謎を、短編で再現する関係で四人に限定しましたが、それでもかなり慌ただしい殺人劇となってしまいました。このシリーズでは古典ミステリー等々のオマージュを色々実験していきたいので、引き続き頑張っていきます。

    〇『レーエンデ国物語』の話題から

     第59回で特集しました、多崎礼の新シリーズ『レーエンデ国物語』ですが、去る8月に第2巻『レーエンデ国物語 月と太陽』(講談社)が刊行されました。第59回でも、このシリーズは新刊が出るたびに感想を書く、と予告していましたので、公約通りまずはその感想を。

     第1作から時代はくだり、今回は名家の少年・ルチアーノと怪力無双の少女・テッサ、この二人の視点で物語が進んでいきます。ルチアーノは屋敷を襲撃され、村に流れ着き、そこでテッサをはじめ大切な人たちに出会うことになりますが、そこにも魔の手が忍び寄る。一方、テッサは戦場に出て、戦いの世界に身を投じていく。互いに深く思い合って、結婚の約束をしながらも、別の道を歩み始めた二人の人生が、ある事件をきっかけにまた交錯してしまうという、序盤の筋運びからして熟達の風格ですが、中盤~終盤にかけて、「革命」の物語が激しくなっていくところで私は大興奮。

     凄い話です。第1巻『レーエンデ国物語』が、苛烈な運命を描いた話でありながら、ファンタジー世界が内包する宝石のような美しさを宿した、いわば「過酷なおとぎ話」の輝きをたたえていたとすれば、第2巻『月と太陽』は真っ赤な色で塗りたくられた、「戦争」と「革命」の物語として、大きく舵を切っているのです(帯に「大人のための王道ファンタジー」と謳われているのは、これが理由でしょうか)。共通の世界観を持ちながら、その目指すところが全く違う。

     7月にMRC(メフィスト・リーダーズ・クラブ)で開催されたトークショーにおいて、著者は、昨今のウクライナ情勢を見ながら、第2巻の展開について思い悩んだことを話していましたが、その懊悩にも納得のいくような過激な展開を、『月と太陽』は見せていきます。本を読んでここまで暗澹たる気持ちになったのは久しぶりですが、それだけに、この先の物語をもっと見届けたいという気持ちも強くなりました。

     ……というか! もうここまできたら、早く次を読ませてくれッ! このままではあまりにつらすぎるよ!

    〇「作家小説」が揃いました

     さて、今月の新刊ですが、奇妙なことに「作家小説」が三冊も大集合。これも自分なりの用語ですが、「作家が作中に作家(自分の分身であったり、あるいは自分自身であったり)を登場させるメタフィクショナルな小説」という意味で使っています。この回では、現実の作者自身を指す場合は「著者」、作中に登場する小説家のキャラクターを指す場合は「作家」と呼んで区別していこうと思います。取り上げる作品三冊のリストを先に掲げておくと、

    ・ギヨーム・ミュッソ『人生は小説ロマン』(集英社文庫)
    ・最東対地『花怪壇』(光文社)
    ・ジョセフ・ノックス『トゥルー・クライム・ストーリー』(新潮文庫)

     ではまずは、ギヨーム・ミュッソ『人生は小説ロマン 』(集英社文庫)から。近年、集英社文庫から精力的に邦訳され、同社でのミュッソ紹介はこれが五作品目となります(以前、小学館文庫や潮文庫で訳されていたことがあります)。ミュッソは以前から、読者の鼻面を引きずり回すような語りの魅力が素晴らしく、あれよあれよと凄い地点まで連れていかれる『ブルックリンの少女』や、ラブコメ要素と美術ミステリーを追加した『パリのアパルトマン』など、面白い作品が目白押しでした。そして2020年に邦訳された『作家の秘められた人生』が、断筆宣言した作家の謎を巡るミステリーだったので、この人は「作家小説」も絶妙だなと思っていたのです。

     そして『人生は小説ロマン』もまた、「作家小説」の逸品なのです。本作に登場するのは、『迷宮ラビリンスにいる少女』という作品で一躍有名になり、フランツ・カフカ賞を受賞するに至った小説家、フローラ・コンウェイ。彼女は人前に出るのを好まず、対外的には「社会不安障害」を抱えていると説明をしている……という設定ですが、ニューヨークの自宅において彼女の娘が突如として姿を消し、誘拐疑惑が立ち上がるのが序盤の展開。その事件のカギを握るのは、パリに住むベストセラー作家、ロマン・オゾルスキ。しかし、なぜ、遠く離れた場所に住むロマンが、鍵を握っているのか? その趣向こそが、本書の最大のキモなのです。

    「メタフィクショナルな構造が、互いの尾を噛むウロボロスの蛇のように絡み合う逸品」――ということも出来ますし、「限りなく読者を馬鹿にし、煙に巻いた、最後の最後まで愉快なケッサク」ということも出来るのがこの作品です。個人的には大いにハマってしまって、ラストシーンにも妙な感動を覚えてしまったのが非常に悔しい。また、フローラ・コンウェイのパートにおいて、「ライター・ショップ」という、作家由来の品物や遺品を売る謎のショップが登場するのですが、その店の設定と、売られている品物のリストがめちゃくちゃ面白い。ウラジーミル・ナボコフのモルヒネ注射アンプルでしばらく笑っていました。誰が買うんだ。

     ミュッソには引用癖もあり、章の頭には必ずと言っていいほど引用句が取られていて、今作でもレイ・ブラッドベリや村上春樹(!?)など錚々たるメンツが登場するのですが(ただし、引用元の作品などは示されていないので、探すのは難しい。村上春樹だけは、『職業としての小説家』〈新潮文庫〉からの引用であると明かされています)、本作は最初の引用と最後の引用がジョルジュ・シムノンになっているというのが美しい。シムノンの言葉がラストの「謎の感動」に、また良い味を加えてくれるのです。

    〇「作家登場」ホラーミステリー、異形の進化形

     次に紹介するのは最東対地『花怪壇』(光文社)。恥ずかしながら著者の作品を読むのは初めてでしたが、趣向に淫したメタフィクショナルな試みに大満足しました。本作には、作家「最東対地」がその名前のまま登場し、大阪の夜凪を舞台にしたホラー小説を書こうと取材をしていきます。夜凪とは、大阪に五つある色街のことで、序盤は章ごとに「各夜凪の特徴を記した見開きのパート」「作家・最東対地による取材等のパート」「取材により収集した色街にまつわる怪談のパート」の三部構成を何度も反復していくことになります。この反復により、次第に虚実の境が曖昧になっていく読み味がまずたまらない。

     また、作家・最東対地パートでは、取材のシーンだけでなく、編集者との打ち合わせパートや友人作家との飲み会のパートなど、限りなく著者自身の現実に近いのかもしれない――と思わせるような会話劇が多く挿入され、なおさら虚実の境目を曖昧にしていきます。帯に推薦文を書いている今村昌弘、織守きょうや、清水朔、額賀澪らが、名前を改変されて登場するくだりなどは、悪い笑いが込み上げてきますね。

     そのように、ホラーや怪談というよりはブラックユーモアの気配すら感じながら読み進めていくと、ある部分で現実の底が抜け、輪をかけてメタフィクショナルな趣向と、薄ら寒い感覚を絶えず喚起される意外な展開が待ち受けます。ここのスリルが素晴らしい。そこまできたら、もういよいよページを捲る手は止められず、ラストまで一直線に楽しめます。

     日本では三津田信三の諸作、例えば『蛇棺葬』『百蛇堂 怪談作家の語る話』(いずれも講談社文庫)や、あるいは澤村伊智『恐怖小説キリカ』(講談社文庫)などで試みられていた、著者自身あるいは著者を投影した作家が作中に登場することで、作品現実と我々の現実の境目を曖昧にし、読者を恐怖に引きずり込むメタフィクショナルな趣向――その最新形が、『花怪壇』といえるのではないでしょうか。いやあ、めちゃくちゃいいですよ、これ。特に作家は全員読むべきですね。そして光文社と付き合いのある人間も読むべき。知ってる人が出て来るよ。

    〇いくところまでいっちゃった、究極形の「作家小説」

     そして今回のトリを飾るのは、ジョセフ・ノックス『トゥルー・クライム・ストーリー』(新潮文庫)です。2021年に邦訳された『スリーブウォーカー』の解説を書かせていただいた時、原書の情報だけを聞いていたので、ずっと期待しながら待っていたのですが、いやあ、期待を裏切らない……変な本だ!(笑)

     本作『トゥルー・クライム・ストーリー』は、ジョセフ・ノックス自身も登場する犯罪ノンフィクション――という「体」を取った、著者の最新作です。作中で描かれるのは、女子大学生ゾーイ・ノーランの失踪事件。ゾーイはなぜ失踪したのか、誰が関与しているのか、犯人は誰なのか。その謎を探るため、ジョセフ・ノックスの友人である作家イヴリン・ミッチェルは取材に乗り出します。本書は、「イヴリンが聴取した事件関係者のインタビュー」と「イヴリンとノックスによるメールのやり取り」、そして「ジョセフ・ノックスが読者に向けて書いたパート」などで構成されており、一見無味乾燥な記録のみから構成されるという点では、昨年集英社文庫から刊行された本格ミステリー、ジャニス・ハレット『ポピーのためにできること』を思い出させる作風です。

     しかし、『ポピーのためにできること』とは一つ、明瞭に違う点があります。『ポピーのためにできること』は、「事件が起こる前」のメールのやり取りにより構成されていましたが、『トゥルー・クライム・ストーリー』は「事件が起こった後」のインタビューによって構成されていることです。これはミステリーにおいては重要な意味を持ちます。「事件が起こる前」の出来事では、登場人物たちが嘘をつくはずがないからです(ただし例外はあり、見栄を張りたかったり、隠し事をしたいなどの理由があって、その人物が日常的に嘘をついている可能性はあります)。まだ事件は起きていないですし――まして、メールなどという個人的なものを後から覗かれるとは思わないわけですから――なおさら、変な噓をつく必要はありません。だからこそ、『ポピー~』の読み心地はむしろ、噓か本当かを見破っていくというよりも、無味乾燥な記録の中に読者が意味を見いだしていき、まだ見ぬ事件を想像し紡いでいくところにあります。積極的な態度が求められてしまうわけです。

     一方、『トゥルー・クライム・ストーリー』における「インタビュー」は、「事件が起こった後」に語られた話であり、登場人物たちは自分の正当性を主張するために、自分は間違っていなかったと納得するために、あるいは体裁を気にするがゆえに、インタビュアーに対して嘘をつきます。だからこそ読者は、情報のタペストリーを提示されながら、同時に「この人物が言っているのは本当なのか? 嘘なのか?」を絶えず考えることになります。

     普通なら、真偽の判別を含む点で、情報量としてはこちらの方が多く、脳負荷がかかるはずなのですが、そうはなりません。なぜなら、この形式を用いることによって、著者は読者の「予断」を自由に操作することが出来、その「予断」によって「読み味」を提示することが出来るからです。疑惑の濃淡や情報の繋がりによって、読者がこの記録をどう読めばいいか、誘導してしまう……これが巧いのです。『ポピーのためにできること』が「読み解く」体験だとするなら、『トゥルー・クライム・ストーリー』は「読まされてしまう」体験ということが出来るでしょう。

     とはいえ、これだけならこれまでのインタビュー小説と変わりません。インタビューの中から登場人物たちの関係性を起ち上げ、真相に迫っていく作品として、ヒラリー・ウォー『この町の誰かが』(創元推理文庫)、恩田陸『ユージニア』(角川文庫)『Q&A』(幻冬舎文庫)、近年ではホリー・ジャクソン『自由研究には向かない殺人』(創元推理文庫)などが挙げられますが、『トゥルー・クライム・ストーリー』がこれら先行作品に比べてよりスリリングなのは、作家であるジョセフ・ノックスですら信頼出来るかどうか分からない、という点です。『トゥルー・クライム・ストーリー』は、そもそもわれわれ読者が手にしている作品は「第二版」であり、「第一版」では省かれていた本件に対するジョセフ・ノックス氏の関わりについても描写を追加したものだ、と冒頭で宣言されるのです。しかも、この本を出した出版社が、もうこれを機にノックスとは仕事をしないと突っぱねるというおまけつき。このように、作家自身が事件に対する利害関係者であることが明かされることによって、そもそも正しい情報を作家が提供しているのかどうか、情報の取捨選択が行われているのではないか、という疑惑が絶えず惹起されるようになります。ジョセフとイヴリンのやり取りが、ジョセフによって一部が黒塗りされ、検閲の印象を与えるのもその疑惑を強めています。

     ただでさえ嘘をついている可能性が高い事件関係者たちと、一ミリも信用できない異常作家。そんな話を700ページ近く読まされて面白いのか? と思われるかもしれませんが、これが、面白いんですよねえ、たまらなく。疑惑の方向性を作者が絶えずいじくりまわして、失踪事件が起こる前の人間関係でも、不穏な事件をたくさん起こしてくれるので、飽きずに読み進めることが出来ますし、終盤できっちり意外な犯人も出て来るのでミステリーとしても満足度が高い。

     というわけで、本作、非常にオススメです。偏愛度だけでいえば、ギヨーム・ミュッソ『人生は小説ロマン』は今年のイチオシ偏愛作ですが、それにプラスして完成度も高いのがジョセフ・ノックス『トゥルー・クライム・ストーリー』という感じです。今年一番面白い小説は人によって割れそうな年ですが、今年一番好きな海外ミステリーはノックスになりそうな予感!

     ……それにしても、巻末の作品リストを見る限り、2021年に『トゥルー・クライム・ストーリー』の原書を発表して以来、ノックスは本国でも作品をまだ出していないようなのですが……この次はどうするつもりなんだろう。それとも、これが最後みたいな覚悟で書いているのかな……いやあ、でもジョセフ・ノックス、やっぱりビシバシミステリーセンスを感じる人だし、もっと読ませてほしいよ、ほんと……。

    (2023年9月)

第63回2023.08.25
翻訳ミステリー特集・2023年版 後半戦 ~シビれるような「名探偵」~

  • 処刑台広場の女、書影

    マーティン・エドワーズ
    『処刑台広場の女』
    (ハヤカワ・ミステリ文庫)

  • 〇宣伝から

     今月、小学館の雑誌「STORY BOX」が紙版最終号を迎えます。自分が初めて「書評」を依頼された媒体だけに、なんだかさみしい思いです。10月号を休刊とし、11月号からはWEBで再始動ということで、動向にも注目、ですね。

     そんな紙版最終号にどうにか間に合ったのが、新シリーズ〈特別養護老人ホーム・隅野苑〉の第一話「回廊の死角」。特別養護老人ホームに入居している由比等隴人ゆいとう・ろうじんという男は認知症を抱えているのですが、事件の謎を投げ掛けるやいなや、安楽椅子探偵に変貌するという趣向です。第一話では病院内で発生した殺人事件の謎を聞いただけで解き明かします。安楽椅子探偵をシリーズでやるのはこれが初めてですが、かなり難しいなあと悪戦苦闘しました。あと何話かは書かないといけないわけですが……。

    〇前置き

     今回は本題に入る前に、何作かメディア・ミステリーの話もしたいので、先にこちらで、メインで取り上げる作品のリストを掲載します。

    ・千街晶之『ミステリ映像の最前線 原作と映像の交叉光線クロスライト』(書肆侃侃房)/同 『原作と映像の交叉光線クロスライト ミステリ映像の現在形』(東京創元社)
    ・TVドラマ「ラストマン-全盲の捜査官-」(TBS系列)
    ・ゲーム「超探偵事件簿 レインコード」(スパイク・チュンソフト)
    ・蔡駿『忘却の河』(竹書房文庫)/同『幽霊ホテルからの手紙』(文藝春秋)
    ・スティーヴン・キング『異能機関』(文藝春秋)
    ・デイヴィッド・ギルマン『イングリッシュマン 復讐のロシア』(ハヤカワ文庫NV)
    ・マーティン・エドワーズ『処刑台広場の女』(ハヤカワ・ミステリ文庫)/同『探偵小説の黄金時代』(国書刊行会)

    〇メディアミステリーの話題から

     去る7月、千街晶之『ミステリ映像の最前線 原作と映像の交叉光線クロスライト』(書肆侃侃房)が刊行されました。2014年に刊行された千街晶之『原作と映像の交叉光線クロスライト ミステリ映像の現在形』(東京創元社)の続編にあたる作品です。第二作を『最前線』、第一作を『現在形』と以下では簡略化して表記します。

    『現在形』は「ミステリーズ!」vol.23~49に連載した評論に書き下ろしを加えたもので、2000年代以降の映像ミステリー作品に焦点を当て、その細部に注目した絵解きになっています。中でも、私自身、作品を見て大いに興奮したアニメ「UN-GO」(坂口安吾『明治開化 安吾捕物帖』だけでなく、短編「アンゴウ」「選挙殺人事件」「白痴」、未刊の長編『復員殺人事件』をも原案としている)について、その詳細な分析と魅力を解体しているのに興奮させられましたし、映画「告白」(湊かなえ『告白』が原作)のような、原作とあまりにかけ離れた作品でも、その意図を明確に読み解く姿勢に感動したのです。この『現在形』において、著者は自らの姿勢を次のように述べています。

    〝原作と映像を比較する際は、普通なら見落とされそうな細部に出来る限り注目することにした。細部の改変にこそ、映像化に関わったクリエイターたちの意図が籠められている可能性があると考えたからである。そして、そのような細部の改変の積み重ねから浮かび上がってくるものを、ミステリにおける探偵のように緻密に読み解いてゆきたい……というのが本書における私の挑戦である。〟(『原作と映像の交叉光線 ミステリ映像の現在形』「まえがき」、p.4~5より)

     もう、めちゃくちゃかっこよくないですか?(語彙の消失)

    ……というオタク的感想はさておき、この「細部」に注目するこだわりが、この一連の論考を刺激的なものにしているのだと思います。この姿勢は第二作『最前線』でも明瞭に受け継がれています。こちらは探偵小説研究会の同人誌「CRITICA」に掲載された原稿をまとめたものなので、まとめて読めるのが貴重で嬉しい限り(私も何号かは所持していますが、文学フリマに行けずに買い逃した号もあります)。

     第二作『最前線』の一つの目玉は、麻耶雄嵩『貴族探偵』『貴族探偵対女探偵』(集英社文庫)を原作とした「月9」ドラマ「貴族探偵」に関する論考「探偵と呼ばれる資格」でしょう。いま一番信頼出来るミステリー映像脚本家である黒岩勉が脚本家である時点で、私は大喜びで見ていたのですが、期待を全く裏切らない原作の換骨奪胎ぶりに舌を巻いていました。とはいえ、私の注目は短編「こうもり」と「幣もとりあへず」の映像化という「困難だろうなぁ」と思ったものにだけ向けられていたのも確か。ところがこの原稿では、全てのエピソードについて、追加された謎や手掛かりを明瞭に読み解いていくのです。

     同じような感動を覚えたところでいうと、「悪魔が来りて笛を吹く」について論じた「禁忌と境界」で書かれた「訛り」の手掛かりでしょうか。この部分、確かに映像で見た時に、あぁ、なるほどと思ったのですが、きっちり言語化出来ていなかったので、論考を読むまで思い出すことが出来ませんでした。『屍人荘の殺人』の映画で、映像だからこそ示せる手掛かりとして置かれたあるシーンの意図とか、改変だったと言われるまで全然気付いていなかったし……アニメ「ジョーカー・ゲーム」についても、柳広司の原作を読んでからだいぶ間が空いて視聴したので、「なんだか変な建付けのアニメだな」と一話で感じたのですが、その違和感の理由が説明されていて、過去の自分の感覚を謎解きしてもらった気分。アニメにも映像にも、とにかくミステリーにどっぷり浸かっている私にとって、これ以上ないほど面白い本ですし、紹介されている映像作品をどんどん見たくなってしまいます。「サスペリア」リメイクの改変についての論考は、他にどこにもないのでは……?

     と、そんなわけで、千街晶之の『現在形』『最前線』に大いに触発されて、以下ではまず、6月に完結、発売された、二つのメディアミステリーを紹介してみます。これらは原作付きじゃないので、ただ私が語りたいだけなんですけどね。

    〇TVドラマ「ラストマン-全盲の捜査官-」について

     本作は、全盲のFBI捜査官・皆実広見(演じるのは福山雅治)とそのアテンドを命じられた警察庁人材交流企画室の室長・護道心太朗(演じるのは大泉洋)のバディを描いたミステリー連作でした。ハンディキャップを抱えた名探偵と、それを補佐する助手役という構図がジェフリー・ディーヴァーの〈リンカーン・ライム〉シリーズを思わせ、おまけに脚本が黒岩勉ということで大注目していた作品であり、その期待を全く裏切られなかった傑作。各話ごとの見所の作り方と、シリーズを通した時の登場人物たちの成長と繋がりの描き方の按配が見事で、毎話ため息が漏れていました。

     ミステリー的な見どころは、皆実が大ファンである刑事ドラマの役者たちが事件に巻き込まれる3話のじっくりと腰を据えた消去法推理と、「エンタメ・どんでん返しの骨法全部盛り」といった風情の、立てこもり事件を描く6話あたりでしょうか。6話のどんでん返しって、ジェフリー・ディーヴァーの中編「トラブル・イン・マインド」をすごく思い出してそそられましたね。逆転の手法と、そのカギを画面の中にしっかり埋め込んでいるのが好きなんですよ。今田美桜演じる吾妻の過去に関わる、痴漢事件を扱った4話なども、現代を抉るミステリーとしての切れ味と、キャラクターを描く深度がぴったり一致していて素晴らしい。あとところどころ大泉洋が福山雅治のモノマネして笑かしてくるのやめて。

     連作としての白眉は、最終2話で解き明かされる、皆実と護道、二人の因縁にまつわる物語です。特に「なぜ階段の途中で二人の人物が揉み合っていたか?」という謎に対する解答はすごくスマートだと思うなあ。日本でも海外でも、あまたの「バディもの」が書かれてきた中で、こんな構図に辿り着いた作品が他にないという点でも、見逃すことが出来ない作品。私はもちろんBlu-rayを予約しました。

    〇ゲーム「超探偵事件簿 レインコード」について(どんな予断も持ちたくない人は、この節を飛ばしてください!)

     さて、蛇足ついでにもう一作。( )で書いておいたのは、まだ発売から2カ月ほどのゲームなので、自分でやりたくて、どんな種類の予断も持ちたくない人がいると思ったため。アドベンチャーゲームはどうしても時間かかりますからねー。ゲームシステムやキャストの情報はここでは割愛するので、各自公式サイトなどを参照してください。

     スパイク・チュンソフトの新作「超探偵事件簿 レインコード」は、〈ダンガンロンパ〉チームによる最新作。シナリオにはおなじみ小高和剛はもちろん、「ニューダンガンロンパV3 みんなのコロシアイ新学期」では「トリック協力」の立場だった北山猛邦の名が、「メインシナリオ」のライターとしてしっかりクレジットされています。誤解を恐れずに言うならば、「ダンガンロンパ」には元々、生徒たちの特殊能力=「超高校級の〇〇」を使った「飛び道具」的な発想の魅力が、基礎としてのロジカルな推理の上にきちんと乗っかっていて、それがサイコポップな世界観と絶妙にマッチしていたのですが、北山猛邦が参加した途端、そこに「北山の物理トリック」の豪快な味わいがプラスされたと思うのです。「ニューダンガンロンパV3」3話の「籠密室」の面白さは何度でも強調していきたいし、小説『ダンガンロンパ霧切2』(星海社FICTIONS)がマジで面白いことも何度でも言っていきたい。『霧切3』も好きだぞ。

     で、「レインコード」なのですが、本作も北山本格が好きな人はやってほしいと思うんですよ。各話のタイトルがその趣向を表していたりして、事件の方向性を示してしまうので、厳密なネタバレを避けるとそこも書けないのですが……このゲーム、0話始まりで、その次の1話が……なんとね、四連続密室殺人事件の話なんですよ。それぞれの密室トリックは初級編くらいの難易度なのですが、推理ゲームとしての面白さを担保しながら、バリエーションの違う密室トリックを四つもプレゼンテーション出来るこのチームの強さよ。あとねえ、美術館の密室は……めちゃくちゃ気持ちいい。動きがある密室トリックって気持ちいいですよね。

     2話や、とあるエピソードでは「謎迷宮」という本作の根幹設定を使ったエモーショナルな「謎解き」の趣向を見せつけてくれますし(どれとは言えねえが、今回もミステリーゲームベストエピソード級の作品があった! いいぞ! 性格悪くて! このチームはこうでなくっちゃな!!!)、いつも大ちゃぶ台返しを繰り出されて興醒めしていた最終話さえも、今回は作中世界の義をしっかり通す話になっていて、感動を受け取って帰ることが出来ました。町一つ使ったプロットになっているおかげで、いつも空虚を掻っ切っている「陰謀論」が、スケールを備えて着地したという感触です。普段付き合いのある年上の人ほど、「ゲームはやらん!」と拒絶されてしまうのですが、このチームの作品はゲームだからこそ出来るミステリーの表現と演出に注力しているので毎回好きですね。ミステリーだと聞けばドラマでも漫画でもゲームでもアニメでも舞台でも飛んでいくのが私です。どうかしている。

     また、このチームの特徴として、「この謎を解くことに意味があるのか」「犯人を追い詰めることに理由があるのか」などの青臭い青春ミステリー的な悩みをどっぷり描いてくれるところがあって、「ダンガンロンパ」シリーズでは最後に梯子を外される時も多いのですが、今作「レインコード」は、主人公ユーマ・ココヘッドの苦悩と成長の物語として、最後まで首尾一貫してくれたのも大いに大満足。今年の私的「名探偵概念」ナンバーワンは、このユーマ・ココヘッド、もしくは……以下の「翻訳ミステリー特集」で最後に紹介する、彼女、で決まりでしょう。

    〇翻訳ミステリー特集・後半戦へ突入!

     さて、後半戦では、竹書房文庫から蔡駿『忘却の河』(竹書房文庫)を大プッシュ。純粋に作品の面白さだけなら、本年度のベストを獲れる作品だと思っています。第一部では1995年、名門高校の教師・申明シェンミンは学校での殺人事件に巻き込まれ、何者かに殺されてしまいます。彼は来世に転生する際、前世の記憶を忘れることが出来る〈孟婆湯もうばとう〉を飲もうとしますが、口に入れた瞬間、気持ち悪くなって吐いてしまう。すると転生後の彼の記憶はどうなったか? 彼は前世の記憶と現世の人格がまだら模様の如く共存する、不思議な天才小学生になってしまった……というのが基本設定。

     実は蔡駿は今年、『幽霊ホテルからの手紙』(文藝春秋)という作品も邦訳されていますが、『幽霊ホテル~』が本国で2004年に刊行されたのに対し(邦訳に使用されたのは2018年刊行の新版のようです)、『忘却の河』は2013年に刊行されているのです(邦訳に使用されたのは2018年のフランス語版)。『幽霊ホテルの手紙』自体も、ホテルに泊まった作家から送られた12通の手紙を少しずつ読むごとに、出来事の構図が変わっていくメタ・ホラーの良作で、私はかなり楽しんだのですが(作中で森村誠一『野性の証明』に言及された時は驚きましたが)、『忘却の河』の出来は『幽霊ホテル~』を圧倒的に凌駕しています。輪廻転生という現象の面白さもさることながら、上に紹介したあらすじは全て「申明」の目を通したものですが、この五部構成の小説では、語り手を少しずつスライドしながら、それぞれの視点で真相に迫っていくのです。「申明」とその生まれ変わりの少年の存在は、絶妙に宙ぶらりんにされながら、プロットを駆動していくという仕組み。この匙加減が巧妙なのです。

     また、『忘却の河』がフランス語から重訳された――という事情も、日本においては、ちょっと変わった味付けとして機能したと思います。というのも、輪廻転生をしたために前世の記憶と現世の存在が同居するようになった――という設定は、フランス・ミステリーにおける、アイデンディティーのスクラッチングと非常に相性がいいからです。つまり、『忘却の河』というのは、フランス・ミステリーが持つある種の魅力をたたえている作品だというのが、この形で読んだから分かった、というか……国を基準に作風を語るのは空虚に陥る場合もありますが、この感覚はちょっと面白いと思ったので書き残しておく次第です。また、フランス語翻訳チームが訳したせいなのか、登場人物たちの中国語読みが、見開きごとに初出ルビで振られていたのも、気遣いとして読みやすさに寄与していた気がします。

     そんな蔡駿、実は本国では「中国のスティーヴン・キング」と呼ばれているのですが、本家(本家?)スティーヴン・キングも、今年は新作が邦訳されています。『異能機関』(文藝春秋)がそれ。

    『異能機関』の主人公は、抜群の頭脳を持つ「神童」ルーク。彼には頭の良さだけでなく、もう一つ特殊な能力があった。手を触れずに、小さなものを動かしてしまうのだ。他人に気付かれるほどでもない能力だったが、彼は突然、超能力少年少女を集める謎の機関〈研究所〉に誘拐されてしまう。同じ境遇の少年少女たちと共に、〈研究所〉の圧政に耐えるルークは逃亡計画を練り始めるが……。

     本作を読んで真っ先に思い出したのは、キングの作品『ファイアースターター』や、宮部みゆきの『クロスファイア』『鳩笛草』といった、超能力少年・少女たちを描いたSFサスペンス。こういった傑作群を懐かしく思い出すと同時に、そうか、特別な能力を持つがゆえの苦悩や事件という私の発想は、こういう作品群から来ているのかも……とか懐かしく考えた次第。

     閑話休題。『異能機関』を読んで久しぶりに興奮したのは、「敵」がちゃんとおっかないこと。マジで今回、「敵」が強いんですよ。もちろん〈研究所〉に勤める大人たちのことですが。彼ら彼女らの圧政の恐怖が描かれているからこそ、逃亡計画の「冒険」感も高まるし、舞台を町に移してからのサスペンスも引き締まるというもので、ああ、やっぱり「敵」を巡る演出って大事だなあと再認識したのでした。個人的には『ドクター・スリープ』(邦訳2013年)以来のクリーンヒットです。読むのに五日間じっくり掛けましたが、キングはそれくらいずっぷり読まないと面白くないもんなあ。スティーヴン・キングデビュー50周年ということで、色々企画もあるので注目すべし。特に文春e-booksの「デビュー50周年記念! スティーヴン・キングを50倍愉しむ本」は無料なのでみんなダウンロードしておくべきですよ。こういうガイド+対談+新作短編の冊子を、無料で出せるってどういうことなの。

     また、本命である早川書房のアレに行く前に、どこでも取り上げられることが出来ていなかったデイヴィッド・ギルマン『イングリッシュマン 復讐のロシア』(ハヤカワ文庫NV)にも言及しておきたい。個人的にはNV=冒険小説枠の今年の当たり。ロンドン金融街の銀行役員が誘拐され、その身柄を保護するべく、MI6高官から呼び出された〝イングリッシュマン〟ダン・ダグラスの活躍を描くスリラーなのですが、「人狩り(マンハント)」小説の良作に仕上がっていると思います(類例にはリチャード・スターク『悪党パーカー/人狩り』、ジョー・ゴアズ『マンハンター』など。とにかく追跡・追い詰める・断罪する、の構造に全力を注いでいる小説にそう名付けています)。なにせマンハントを極めるあまり、まるで容赦のない鬼ごっこの鬼のようにロンドンからロシアまで犯人を追いかけていくのですから。改行が少ない文章で繰り広げられる濃密なアクション描写もイチオシですし、私が大好きなのは、結末近く、54節で繰り広げられる会話劇。この会話の締めくくりに、仕事人としての矜持が覗くよね。

    〇誰よりも「黄金時代」を知る作家、渾身の力作

     そして大トリ、マーティン・エドワーズの『処刑台広場の女』(ハヤカワ・ミステリ文庫)でございます。この作品、個人的には大いに衝撃を感じた一作。というのも、エドワーズという作家は、日本ではまず「評論畑」の人として紹介されていたからです。その評論というのが『探偵小説の黄金時代』(国書刊行会)というもの。アメリカ探偵作家クラブ賞(評論評伝部門)を受賞した本作は、アガサ・クリスティー、ドロシー・L・セイヤーズ、アントニイ・バークリーといった英国探偵作家が参加していた親睦団体〈ディテクション・クラブ〉の草創期の歴史を繙くものでした。このクラブについては、ジョン・ディクスン・カーの評論「地上最高のゲーム」(『カー短編全集5/黒い塔の恐怖』〈創元推理文庫〉などに収録)などでも言及されており、クラシック・ミステリーのファンには有名な名前ですが、『探偵小説の黄金時代』の恐るべき点は、そのエピソード量と幅の広さ。作品の裏話を知ることが出来るだけでなく、作家群像劇としても読みごたえがあるのです。

     エドワーズが同クラブの公文書保管役に就任したからこそ出来た偉業、というのは間違いないにしても、黄金時代の本格ミステリーに深い敬愛がなければ、ここまでのことは出来ないだろうと感じさせる作品です。それだけに、彼の書いた小説『処刑台広場の女』が、1930年を舞台にしており、1919年のスペイン風邪流行がサブプロットとして走る……という話を聞いた段階で、ははあ、これは彼なりの黄金時代本格ミステリーに違いない、と思い込んでいました。早川書房からは4月にトム・ミード『死と奇術師』(ハヤカワ・ポケット・ミステリ)が刊行されており、そちらも1930年代を舞台に、クレイトン・ロースン『帽子から飛び出した死』のマーリニを彷彿とさせるような奇術師探偵が出てきたので、余計にその「思い込み」は補強されていました。

     ところが、その予想は良い意味で完全に裏切られたのです。確かに、『処刑台広場の女』には、さながらカーのような密室やエキセントリックな殺し方が盛り込まれてはいますし、時代の雰囲気もむんむんと漂っているのですが――それ以上に、現代ミステリーの技法を高いレベルで実現した犯罪小説だった、と言えるでしょう。「名探偵」レイチェル・サヴァナクは、果たして本当に「名探偵」なのか? それとも「悪魔」か? 第1節を読み終えた瞬間から、読者は記者ジェイコブと共に、宙ぶらりんのスリリングな問いに晒され続けることになります。この趣向が実に心憎い。おまけにこのレイチェルという女性が、とんでもなく魅力たっぷりなのです。あえて脱線するなら、第60回で言った、ノワールに出て来るファム・ファタールの条件として挙げた『「ああ、この女性になら破滅させられてもいいかも」という感覚を呼び起こす魅力的なセリフ一発、エピソード一撃』という条件は見事にクリアー……どころか、魅力的なセリフ七発、エピソード八撃みたいな女性です。あまりにも強すぎる。古典の時代を舞台にしつつ、現代の技法を見せつけるという点では、エドワーズの射程には、全時代の読者が存在しているということが出来るかもしれません。

     二つの視点と二つの時を行き来するにしたがって、事件の「形」がめまぐるしい勢いで変わっていく過程が面白いですし、いよいよ収集をつけられないだろうというほど盛り上がって来たところで、あるポイントからパタパタと作品が閉じていく、その手際も見事。もちろんこの時代を舞台にストレートなパズラーを書いても面白いタイプの作者だと思いますが、個人的には、こんなジェフリー・ディーヴァーみたいなエンターテインメントが出てきたので嬉しくなってしまいました。あと驚愕したんですが、これ、シリーズ展開しているの? え、一体どうやって? ちょっとこれは、本気で目が離せない。

     ところで、スチュアート・タートン『名探偵の海の悪魔』(文藝春秋)の「囚人名探偵」とかを読んでいても思うのですが……今の海外本格ミステリーの「名探偵概念」、どちゃくそに歪んでいて「癖(へき)」です。ちょうだいちょうだい、そういうのもっとちょうだい!

    〇まとめ

     さて、ということで前後編に分けて、「翻訳ミステリー特集・2023年版」をお送りしてきました。例年だと9月に行っているこの特集ですが、8月刊行の話題作2作、ピーター・スワンソン『8つの完璧な殺人』(創元推理文庫)とマーティン・エドワーズ『処刑台広場の女』がプルーフ(校正刷り)の形でいち早く読めたので、先にご紹介したという次第。

     もちろん、まだまだ8・9月にも未読の注目作が翻訳ミステリーには多く(新潮文庫のジョゼフ・ノックス『トゥルー・クライム・ストーリー』とか、文藝春秋から出るというジェフリー・ディーヴァーの新作とか、アンソニー・ホロヴィッツもこれから出るし……)、9月以降の読書日記で急いで紹介していく可能性もあるのですが、今の段階で私の贔屓を言うなら、やっぱり『処刑台広場の女』になるかなあ。『忘却の河』も「もっとこの人の作品を読みたい!」の気持ちを含めて、大いにプッシュしたいですね。

     ピーター・スワンソンは、今年の1月に『だからダスティンは死んだ』(創元推理文庫)を刊行していて、話題性や盛り込まれたネタの量からすると『8つの完璧な殺人』が創元の推し作なのは分かるのですが、模範的な作りのスリラーとして『だから~』もかなり好きなんですよね……。そんなわけで非常に悩ましい2023年。暑い夏を翻訳ミステリーと共に過ごしましょう。

    (2023年8月)

第62回2023.08.11
翻訳ミステリー特集・2023年版 前半戦 ~ブッキッシュ・オン・ブッキッシュ~

  • 8つの完璧な殺人、書影

    ピーター・スワンソン
    『8つの完璧な殺人』
    (東京創元社)

  • 〇宣伝から

     8月に実業之日本社文庫から辻真先『村でいちばんの首吊りの木』が復刊されます。なんとこれが初の文庫化となるようです。辻作品の中でも指折りの傑作、それも短編集ということで、未読の方はぜひ読んでみてほしいです。手紙のやり取りから立ち上がってくる真相の構図が素晴らしい表題作、語りのうねりが楽しい「街でいちばんの幸福な家族」、無生物たちが少しずつ事件のあらましを語ってくれる「島でいちばんの鳴き砂の浜」の全三編です。

     この巻末に、辻真先先生との対談を掲載していただいています。この作品のことのみならず、キャリア全体のことから、最新作の話題まで深堀したので、20ページ以上という大ボリュームに……。私が張り切って喋り過ぎてしまった感があり、反省しているのですが、辻先生のお人柄が見える、愉快で、情報密度の濃い対談になっていると思いますので、ぜひ併せて楽しんでいただければ幸いです。「村でいちばんの首吊りの木」の映画化の話題にも触れていますが、ここのくだりは、個人的に感動しました。

    〇今回も雑誌の話題を少し

    「小説宝石」8月号の特集は「「音楽」のある景色」。劈頭を飾る奥田英朗「春のはかりごと」は、ミュージシャンを巡る監禁・誘拐ミステリーの味付けかと思いきや、監禁犯が出してくるメシが美味いというあたりから、あれよあれよととんでもない方向へ連れていかれる短編でした。すごい発想だなぁ……これもまた、現実の中にファンタジーを覗かせる作者らしい一編と言えるかも。ところで、馳星周「飛越ジャンプ」の連載が第2回目なんですが、このタイトルで馬の話ということで、ディック・フランシスを大いに感じています。『黄金旅程』(集英社)も素晴らしかったもんなぁ……。

    「小説新潮」8月号の特集は「妖しの饗宴」。夏らしいホラー短編が並んでおりました。万城目学「カウンセリング・ウィズ・ヴァンパイア」は、『あの子とQ』(新潮社)のシリーズということになるのでしょうか。作者らしい語りの魅力満点で、あの愛おしい世界観が味わえるので大いに楽しい。タイトルの元ネタは『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』ですね。また、『禍』(新潮社)を刊行した小田雅久仁によるインタビューは、短編集の全短編を自ら解説するというもので、この充実ぶりは必読でしょう。『禍』について作者は「このジャンル(怪奇小説のこと)のひとつの金字塔、みたいな位置づけになればいいな」と語っていますが、もうこれはなるでしょう、ならざるを得ない。人間にとって一番不気味なものであるはずの、自らの「体」を題材にした怪奇小説と的を絞ったからこそ、磨き抜かれた怪奇短編が揃っているからです。マジで怖いですよ。怖すぎて……あの……表紙を遠目に見た時「名前も呼びたくないアレ」にしか見えなさ過ぎて、献本いただいたのですが、封筒から出てきた瞬間悲鳴をぶちかましました。この禍々しさも含めて雰囲気に合っていると思うのですが、家では背表紙しか見えないように、サッと棚に格納しました。怖いぜマジで。

    〇お待たせしました、翻訳ミステリー特集

     さてさて、今年もランキング投票の時期が迫って来て、今年の面白い翻訳ミステリーってなんなんだい、と気になってくる季節です。そんなわけで、今年の個人的な注目作を続々挙げて行くコーナーを今年も用意しました。2021年と2022年は、「もう注目作が目白押し!」という年で、私もこの時期の特集を「頂上決戦」と銘打ってリングインを盛り上げるリングアナよろしく、勝手に対立を煽りながら(苦笑)盛り上げていたわけですが、今年は静かに「これもいいですよ」と差し出したい作品が多い感じなので、肩の力を抜いて「特集」と名付けてみました。メインで取り上げる作品は以下の通り。

    ・ロバート・アーサー『ガラスの橋 ロバート・アーサー自選傑作集』(扶桑社文庫)
    ・チョン・ミョンソプ『記憶書店 殺人者を待つ空間』(講談社)
    ・ロス・トーマス『愚者の街』(新潮文庫)
    ・ピーター・スワンソン『8つの完璧な殺人』(創元推理文庫)

     まずは、既に読書日記等で取り上げたのでメインでは触れない本も総ざらいしていきます。集英社文庫からはミシェル・ビュッシ『恐るべき太陽』に注目。これは私が解説を書いた作品なので、詳しい内容はそちらを参照して欲しいですが、フランス・ミステリー随一の技巧派が『そして誰もいなくなった』に挑んだ意欲作となっています。他では絶対に見ることの出来ないトリックにご注目あれ。

     ハーパー・コリンズ・ジャパンからはドン・ウィンズロウ『陽炎の市』がイチオシ。これは第60回の読書日記のメインで取り上げています。映画業界とギャングを掛け合わせた、魅力あふれる犯罪小説です。S・A・コスビー『頬に哀しみを刻め』も読み逃してはいけない今年の名品。小学館文庫からはJ・L・ホルスト『疑念 警部ヴィスティング』がやはりイチオシで、これは第54回で、過去シリーズ作品も含めて分析の俎上に上げました。

     今回のメイン四冊のうち、まずは扶桑社文庫のロバート・アーサー『ガラスの橋 ロバート・アーサー自選傑作集』から。こちらは「STORY BOX」の書評「採れたて本!」でも紹介しているので、ここでは簡単にいきます。1950年代に活躍した作家、ロバート・アーサーによる、日本初のミステリー短編集で、これまでは短編「51番目の密室」(同題のハヤカワ・ポケット・ミステリの表題作)や、短編「ガラスの橋」(『北村薫の本格ミステリ・アンソロジー』〈角川文庫〉などに収録)で名のみ知られてきた作家でした。ここに挙げたようなタイトルが面白いので、日本のマニアは「いつかまとめて読んでみたいなあ」と思っていたわけです。私も含めて。その夢が叶った一冊で、さながらオー・ヘンリーの短編のような読み味の「マニング氏の金の木」や抱腹絶倒のホームズ・パスティーシュ「一つの足跡の冒険」など良い作品が揃っていると思います。マニアの蒐集欲も満たしてくれる一冊。

     マニア的な蒐集欲を満たし、名作を発掘したという点でいえば、ロス・トーマス『愚者の街』(新潮文庫)も今年は見逃せません。ロス・トーマスの作品は、1994年生まれの身からすると、ほとんどの作品が入手困難かつ古書でも高価で、一つ一つ集めるのが非常に大変でした。しかし、『クラシックな殺し屋たち』『ポークチョッパー:悪徳選挙屋』など、苦労して集めた甲斐のある作品が多いのです。自分なりの言葉に過ぎないのですが、パルプ・フィクションの題材を格調高く描ける人、というイメージがロス・トーマスにはあります。さながらジム・トンプソンのような元悪徳警官の話を、悪党だらけの諜報戦・コンゲームに仕立て上げた『愚者の街』も、その流れに則っているといえるのではないでしょうか。

     そういったマニアの蒐集欲絡みでいうと――ランキングに絡むような傑作ではないながら、チョン・ミョンソプ『記憶書店 殺人者を待つ空間』(講談社)は、ビブリオミステリー好きにそっと差し出しておきたい珍品。なぜかというと、この作品にはある種「究極の古本屋」が登場するからです。その古本屋のシステムというのは――「店主に向けて『なぜ自分がその本を欲しているか』をプレゼンし、それが店主に刺されば、タダで本をお持ち帰りできる」というもの。え、なにそれ。プレゼン仕込んで毎日行くんだが。ミステリーとしての見所を書いておくと、この書店は実は店主が15年前の殺人者を炙り出すために仕込んだ罠で(何を言ってるかわからねーと思うが、ありのまま起こったことを話しているぜ)、作品は後半、四人の客のうち誰が犯人かというフーダニットに変貌します。このフーダニットの甘さには目を瞑るとしても――ひとついちゃもんをつけるなら、韓国の古書の相場や作品背景が分からないので、挙がっている本に興奮出来なかったというポイントがあります。え、この設定で日本版、私にやらしてくれないか?

    〇ブッキッシュ過ぎるサスペンスにご注目

     さて、ピーター・スワンソンの新作です。最近コンスタントに作品が邦訳されていて、「読者を飽きさせないサスペンスの技法」と、「先行作へのオマージュ・目配せの匙加減の巧さ」で、毎回大いに楽しませてくれるのですが――今回の新作『8つの完璧な殺人』(創元推理文庫)は、その両方の魅力が遺憾なく発揮された作品となっています。

     タイトルの「8つの完璧な殺人」とは、古書店〈オールド・デヴィルズ・ブックストア〉店主、マルコム・カーショーが昔ブログに掲載したミステリー作品のリストで、作中で「絶対にバレない巧妙な手法」を編み出したミステリーを8作品挙げたものです。マルコムのもとを訪れたFBI捜査官グウェン・マルヴィは、「これらの作品の手口を模倣した殺人事件が巷で起きている」とマルコムに告げる……というのが序盤のあらすじ。

     本書が曲者なのは、作品の冒頭でこの「8つの作品」のリストとアガサ・クリスティ『アクロイド殺害事件』(別題『アクロイド殺し』)を加えたものを掲示し、「本書では下記の作品の内容や犯人について触れています。未読の方はご注意ください」と宣言されていること。全作既読で挑むのはかなりハードルが高くなっているのです。「8つの作品」のリストをここでも引用すると、

    〝『赤い館の秘密』A・A・ミルン
    『殺意』フランシス・アイルズ(アントニイ・バークリー)
    『ABC殺人事件』アガサ・クリスティ
    『殺人保険』ジェイムズ・M・ケイン
    『見知らぬ乗客』(小説、および一九五一年の映画)パトリシア・ハイスミス
    The Drowner(邦訳なし)ジョン・D・マクドナルド
    『死の罠』(戯曲、および一九八二年の映画『デストラップ 死の罠』)アイラ・レヴィン
    『シークレット・ヒストリー』(別邦題『黙約』)ドナ・タート〟(『8つの完璧な殺人』冒頭より)

     私はこのうち、The Drownerだけ未読、『死の罠』の戯曲は未確認で、あとは全て既読か視聴済です。ジョン・D・マクドナルドのこれは『8つの完璧な殺人』の元ネタだと知って、今年の1月にKindleで原書を購入したんですが、間に合わなかったですねー。

     さて、上記のリストですが、これが「ミステリーの傑作ベスト8」かというと、そうではないだろう、というリストになっています。もちろん、私自身好きな作品もありますが。このリストのポイントはあくまでも、「殺人手段だけを取り出した時に、その殺人手段が完璧なものかどうか、露見しにくいものであるかどうか」という点なのです。

     私は、このリストにはもう一つの意味があると思います。それは、主人公であるマルコムの「人物描写」です。このリストはブログに掲載されたものですが、そのように、「ミステリーを読んでいることを誇示したいマニアックな読書家」が作るリストとして、非常に解像度が高いリストになっているのです(これは大いに自戒を込めています!笑)。定石の踏まえ方、あるいは外し方。31~36ページに書かれた各作品の紹介文を読むと、なおさらその解像度が高まるという仕掛け。選書だけで「ひねくれたマニアだよこいつは」と表現することは、本を愛する作家にしか出来ない技巧だと思います。94ページに掲載された「雪の季節」に殺人が起こる作品のリストも、良い具合にマニアックですが、ここにアン・クリーヴスがちゃんと入っているのも嬉しい。

     さらに上記のリストの「ネタバレ」の問題について付言しますが、私は、必ずしも全作読んでから『8つの完璧な殺人』に臨む必要はないと思います。というのも、ネタバレは含まれているものの、そのネタバレの度合いには濃淡があり、致命的と言えるものから、「えっ、そんな脇道の話をバラすの」というものまであるからです。具体的に言うと、クリスティの二作『ABC殺人事件』『アクロイド殺害事件』あたりはやはり致命的と言えると思いますが、そもそも犯人が分かった状態で進行し、犯行計画も中盤までに描かれる『殺意』や『見知らぬ乗客』はダメージが少ないと言えるのではないでしょうか。もちろん、ここに掲げられた作品を家に積んでいて、「あ、読もうと思っていたんだった!」という場合には、この『8つの完璧な殺人』をキッカケに読むのは大いにアリでしょう。私も『赤い館の秘密』や『殺人保険』は大好きな作品です。でも、読むのを義務だと思わなきゃいけないほどではないかな、という感触です。

     例えばアイラ・レヴィンの戯曲を原作とする映画『死の罠 デストラップ』は傑作ですが、この作品で主にネタバレされているのは、「殺人手段」です。しかし、この映画の眼目はそこではなく、むしろ、攻守が絶えず入れ替わり、上映時間が経過するごとに物語の形がガラッと変わってしまう、そのスリリングなプロットにあるのです(私の作品を読んでいる人には、私の短編「入れ子細工の夜」の元ネタと言えば伝わるでしょうか)。その意味では、「殺人手段」だけを知らされたからといって、魅力が損なわれるわけではないということが出来るでしょう。

     しかし、このリストはもう一つ裏の使い方があるのではないかと思っています。ここから、作者の意図の深読みが出来るのではないか、と。実は『死の罠』の「殺人手段」そのものは、古典ミステリーにはありふれたアイディアで、それこそジョン・ディクスン・カーの短編(あれはラジオドラマだったかな?)に全く同じものが存在します。スワンソン自身がカーを好きでなかった可能性はありますが(38ページにはマルコムがカーに「のめり込めない」とこぼすシーンがあります)、そこに深読みの余地があります。つまり、むしろピーター・スワンソンは、『死の罠 デストラップ』のプロットにこそ、本作『8つの完璧な殺人』のインスピレーションを得たのではないか、と。だから本作は、このようなプロットを取っているのではないか……。

     ネタバレなしで触れられそうなのはこのポイントだけだったので、本稿ではここまでにしておきますが、マニアックに彩られたこのリストには、このように、無限の「読み」の可能性が内包されているように思います。肩まで浸かって、その魅力をどっぷり味わうもよし。片足だけつけて、この温泉、足湯としてもいいじゃないかと、むしろ周りの景色を楽しむもよし。様々な楽しみ方が出来る、良いサスペンスになっていると思います。しかしスワンソンよ、こんなオチを持ってくるかい?

    (2023年8月)

第61回2023.07.28
映画と小説のあいだ ~後編(国内編)~

  • エフェクトラ 紅門福助最厄の事件、書影

    霞流一
    『エフェクトラ
    紅門福助最厄の事件』
    (南雲堂)

  • 〇今月は珍しく新書の話題

     去る6月、早川書房から「ハヤカワ新書」が創刊されました。創刊月のラインナップ五点のうち、ミステリー好きにとっての最注目はなんといっても越前俊弥『名作ミステリで学ぶ英文読解』。全部で六作の海外名作ミステリーの原文を味わいながら、一流翻訳者の講義を受けることが出来るという、なんとも贅沢な一冊です。原文が十行程度載って、「〇行目のこの表現はどういう意味か」などの問題があり、その解説が載っている……とくれば、普通の英語のテキストと変わりないように思えるかもしれませんが、そこには「この作品のミステリーとしての勘所を捉えながらどう訳すか」「スラングをどう訳すか」などの実践的な話も数多く入っていて、「翻訳者とはこういう仕事をしているのか!」というのを、仕事部屋の入り口から覗き見させてもらっているような、実にワクワクする本です(翻訳のクラス生に訳させるとこの箇所を無視して訳すのですが……などの指摘箇所に、ものの見事に全て引っ掛かるという情けなさ! 翻訳者ってすごい!)。ちなみに、ネタバレ部分はきっちり切り分けられているので、未読作品についても安心して楽しめると思います。「英語の勉強をしたいけど、堅苦しい本を読むのはいやだ!」というミステリー好きにもオススメ出来ます。学生だと「勉強しなさい」と言われた時に「何言ってんだい! 勉強してらぁ!」とこの本の表紙を見せながら、こっそりクリスティーを楽しむ、なんてことが出来そう。

     六作の内訳はエラリイ・クイーン『Yの悲劇』『エジプト十字架の秘密』『災厄の町』、アガサ・クリスティー『アクロイド殺し』『パディントン発4時50分』、コナン・ドイル『恐怖の谷』で、特に『Yの悲劇』『アクロイド殺し』のネタバレ部分の読解などに唸らされました(「ああ、ここ原文だとこうなっているんだ」という気付きがありました)。『恐怖の谷』の「!」(エクスクラメーションマーク)に関するコラムにも、著者の読者としての実感が滲んでいて、なんだかため息が漏れました。ちなみに、クリスティーのコラムを大矢愽子、ドイルのコラムを駒月雅子が書いていて、翻訳ミステリー界のスマブラみたいな豪華な本になっています。

     ちなみに私、俎上に上がった六作のうち、唯一『パディントン発4時50分』は原文でも読んでいまして、それはなぜかというと、大学で「『パディントン~』をペーパーバックで毎週少しずつ読みながら、該当箇所のラジオドラマを少しずつ聞く」という英語の講義があったからなのです。そのため、私は『パディントン~』を短い時期に、原文、ラジオドラマ、(たまに分からない箇所もあるので)日本語版の三つのバージョンで摂取していて、だから体に沁み込んでいるのです。あの講義は本当に面白かったなあ。この本を読んで、そんな懐かしい思いも抱きました。

     新書の話題でもう一冊。6月には星海社新書から飯城勇三『密室ミステリガイド』が刊行されました。海外から20作品、国内から30作品の密室ミステリーを取り上げ、第一部「問題篇」ではストーリーやシチュエーション、図版、その作品を「密室ミステリー」として読み解いた時のポイントをネタバレなしで示し、第二部「解決篇」では解決とその解説がネタバレありで書かれています(なので、未読作のネタバレは読まないようにしてくださいね)。第一部は、有栖川有栖『有栖川有栖の密室大図鑑』(創元推理文庫等)などのように、「該当する作品には入っていない、密室の状況を解説した図面」が全て作られて入っているのが画期的ですし(幻想ミステリーであるスタンリイ・エリン『鏡よ、鏡』の「幻想シーンを除」いた時の密室状況の図とかは、初めて見た気がします)、第二部でネタバレを含めて解説することを前提にしているので、密室ミステリー「そのもの」が面白い作品はもちろんですが、それよりも「密室のネタを割ったうえで、そのネタがプロットや謎解き全体にどのような影響を及ぼしているか」を書ける作品を優先しているように見えるのが面白いです(著者は「トリックを明かして考察したい魅力を持つ作品」と表現しています)。たとえばエラリイ・クイーンは『チャイナ橙の謎』ではなく、『ニッポン樫鳥の謎』、ジョン・ディスクン・カーなら『三つの棺』ではなく『緑のカプセルの謎』とか。「コラム」として置かれた密室のハウダニット、ホワイダニットの分類では、著者の分類だけでなく、過去の作品内で小説家たちが行った分類も総覧のように並べられていて壮観です。

     密室ミステリーは、解決そのものやトリックもそうですが、別解をいかに潰すかという見せ方や、解決の中でそれがいかに機能するかに注力した作品こそ読み応えがあると思っていますが(だからネタバレ部分だけ読まないで、ちゃんと作品にあたってほしいところ)、その視点を力強く持った「トリック解説本」という感触です。最近の作品も数多く取り上げられているので、「あっ、この作品なら読んだことあるぞ」という作品が、一つ、二つは見つかると思います。そこを取っ掛かりに、このガイドがどういう本なのか、該当作品の部分だけでも読んでみて、「他のネタバレ解説も読みたいからこの作品を読もう!」をモチベーションにしていく――という読み方が理想的かもしれません。高校生の頃、私はこういう読み方を福井健太『本格ミステリ鑑賞術』(東京創元社)で実践しまして、かなり勉強になりました。ちなみに『密室ミステリガイド』ですが、ベスト100を選んだ際に追加される作品を短評で紹介するコラム「密室ミステリ・NEXT100」内において、私の短編「透明人間は密室に潜む」を挙げていただいています。こちらも大変、光栄です。

    〇新作映画のお話

     ということで、今回の本題へ。前回は「映画と小説のあいだ 海外編」と題しまして、映画監督自ら続編を書いた『ヒート2』や、映画監督の小説デビュー作である『その昔、ハリウッドで』などを取り上げましたが、今回はその国内編をお届けします。といっても、国内編は映画を一本と、映画の世界が題材になった小説を三作品紹介するという形で、海外編とは質感が違うかもしれませんが。

     以下が、取り上げる作品のリストです。今回はリストが短め。

    ・坂元裕二『怪物』(KADOKAWA)/映画「怪物」
    ・恩田陸『鈍色幻視行』/同『夜果つるところ』(どちらも集英社)
    ・霞流一『エフェクトラ 紅門福助最厄の事件』(南雲堂)

     監督・是枝裕和×脚本・坂元裕二×音楽・坂本龍一という夢の布陣で撮られた映画「怪物」を見てきました。あらすじについてはほとんど書けることがなく、何も知らない状態で見に行くのが最適の映画ですが、ミステリー好きにも見てみてほしい一作でした。連続ドラマのような構成によって、少しずつピースがハマっていく感覚が面白い作品なのです。マニア的に見ると、語り落として視聴者の想像に委ねたのか、それとも解答が用意されていないのか、判断がつかない箇所がまだら模様のようにあるので、厳しい評価の人もいると思いますが……多分、私が「この構成」の作品が好きすぎるんだろうな。繰り返し、同じ話を違う角度で描いていく、というような。あの主題を、坂元裕二ならではの肌感覚でしっかりと描いたのが上手いと思いました。中学生の頃、湊かなえ『告白』を読んだ時に凄まじい衝撃を受けたのですが、ある意味、それに通じるものがあった気がします(映画「告白」の方ではないです。「怪物」には映画「告白」のようなジェットコースター感はなかったし……映画「告白」、また見たくなってきた)。なぜ『告白』かというと、連作短編集的な構成が似ているのもそうですが、自分の心の底にある倫理観の根っこをガシッと掴んで揺らされた……というような感覚を、どちらの作品にも感じたからです。

     ただ、一つ確実に言えるのは、シナリオブックである坂元裕二『怪物』(KADOKAWA)もぜひ読んでみてほしいということです。映画ではカットされていたシーンに、さすが「花束みたいな恋をした」の脚本家……と言いたくなるような、ヒュッと喉が鳴ってしまうセリフや表現が散りばめられています。あそこはこうなっていたのか、ここはこうだったのか、という発見がたくさん。映画での役者の演技も素晴らしかったけれど、文字で読むとまた違った興奮が襲い掛かって来て、ああ、結局自分はどこまでいっても「文字」の人間なんだなあ、と思わされました。

     ちなみに、彩坂美月『向日葵を手折る』(実業之日本社文庫)も、この6月に文庫化されていまして、こちらの販促用パネルにコメントを使っていただいているのですが、その内容が「ここ数年の青春ミステリで一、二を争う傑作」というもの。これは、2020年9月に単行本が刊行された際のツイートから抜粋していただいたものですが、これを文庫化にあたり再使用するというので、担当編集さんから「その後お変わりないですか」と聞かれました。「え、どういうことですか」と問い返すと、「三年経ったので、『ここ数年』で『一、二を争う』に変動がないかと……」と聞かれ、ああ、それならないです、全然ないですと回答したのが5月末のことでした。「怪物」がミステリーとして語り落としもなく、全てのピースが本当にハマる映画だったら、一週間も経たないうちにランキングが変動してしまうところでした。そのくらい、好みの中核に刺さる映画だったということです。危ない、危ない。ということでシナリオブック『怪物』と『向日葵を手折る』を読むべし。どんなまとめ方だよ。

    〇恩田陸、新たなる実験作

     恩田陸の作品を読むたびに、小説の可能性に気付かされて、頬を張られるような思いがあります。第12回で『灰の劇場』を取り上げた時に、強くそれを感じました。

     今回の新刊『鈍色幻視行』/『夜果つるところ』(いずれも集英社)を読んで、またその感覚が蘇りました。これはある意味、小説好きの「夢」を叶える二冊であると言えるでしょう。まず5月に先んじて刊行された『鈍色幻視行』では、「呪われた」小説とその映像化を追いかける、小説家の蕗谷梢の取材行が描かれます。その小説を映画化しようとすると、その企画は必ず頓挫し、死者が出る。そんなオカルトめいた伝説はいかにして生まれたのか。その小説にひとかたならぬ思い入れがある登場人物たちは一体何を語るのか。謎を追いかけて、一人一人にインタビューしていくことで情報を集める――というプロットは、作者の傑作『Q&A』『ユージニア』などの構成を思わせます。

     さて、今あえて、その「呪われた」小説の名前を伏せました。そう、この小説こそが、作中の小説家、飯合梓が書いた小説『夜果つるところ』なのです。つまり、『鈍色幻視行』の作中作として存在した『夜果つるところ』が、恩田陸の手によって、独立した長編として描かれ、刊行されてしまったということになります(『鈍色幻視行』の第五章には、『夜~』の冒頭部分を梢が再読する、という描写があり、そこでも一部を味わうことは出来ますが、一冊まるまる別で書くとなると話が違います)。これが、私にとっては大きな衝撃でした。

     小説の中で言及されている「架空の小説」。それを読んでみたい。そう思ったことはないでしょうか? 例えば本格ミステリーでもよくあるパターンですが、作中に「本格ミステリーの小説家」が登場し、どういう作品を書いているか、その作品の事件の概要はどんなものか、駆け足で語っていくことがあるでしょう。あれは、あくまでも登場人物紹介の一環として行っていたり、あるいは実在作家のイメージと被らせる書名や設定を挙げることで、マニアへの目配せをしたり、という意図で置いてあるのに過ぎないので、実際に内容を考えることはほとんどありません(みんながしていたら、ごめん!)。ですが――ここで、意地悪なことを考えたことはないでしょうか? 「今読んでいるこの小説より、ここにあらすじだけ書かれているこっちの『架空の小説』の方が、ひょっとして面白いんじゃないの?」なんて。

     まあここまで意地悪に考えなかったとしても、小説の中に登場する架空の小説家、あるいはその作品は、やっぱり演出効果のために持ち上げられるものです。帯で煽られたり、書店で目が合ったりする、そういう、リアルに読書欲をそそられる体験とはまったく別のメカニズムで――それが架空の小説だからこそ、惹かれてしまうのです。矛盾した心理に聞こえるでしょうか? でも、これに深く頷いてくれる小説好きは、この世に結構いると信じています。読めないからこそ、読んでみたい。こう思ってしまったらもうおしまいで、人が二次創作を作る動機にもなります。

     それが、読める。それも、恩田陸の手によって。

     これが事件でなくてなんでしょうか。もう私は『鈍色幻視行』を読んでから一か月、楽しみで楽しみで仕方ありませんでした。なんなら、『鈍色幻視行』の第二十六章において、『夜~』の趣向を想起させる表現を見てしまったにもかかわらず、その期待がしぼむことは一切なかったのです。ネタとかじゃないんだ、もう。こうなったら、私はその小説を読まなければ、渇きが癒えないんだ。

     さあ、そこでここから、恩田陸『夜果つるところ』(集英社)の話です。まず奥付で連載時期を確認すると、「小説すばる」2010年1月号から2011年12月号の2年間で(著者の作品だと『夢違』の連載期間と重なりますね。『夢違』もとても好きな幻想小説です)、『夜果つるところ』の連載は完結しています。一方の『鈍色幻視行』は2007年10月~2012年3月にかけて集英WEB文芸「RENZABURO」で掲載、2013年4月から2022年7月にかけて雑誌「すばる」で掲載という経緯なので、『鈍色幻視行』を書いていく途中で『夜果つるところ』が独立して命を吹き込まれた――ということになります。

     こういう経緯からも明らかな通り、『夜果つるところ』は独立した長編としても成立しており、昭和初期の遊郭を描いた一編の幻想小説として、見事な完成度を誇っているのです。先に『鈍色幻視行』の項で言及したように、ミステリー好きにも刺さるであろう趣向が凝らされているのも素晴らしく、それが物語上大きな意味を持っているのもポイントです。「私」の「三人の母」の謎や、凄惨な惨劇が起こってしまった理由、数々の描写に隠された違和感、それらが繋がる瞬間の驚きは鮮烈です。しかも文章が凄い。恩田陸は幻想ミステリーを書いている時が一番輝いていると思いますが(『夏の名残りの薔薇』しかり、『麦の海に沈む果実』しかり……)、『夜果つるところ』はその最高峰に位置する長編ではないかと思います。もう、大興奮。

     ちなみにこの本、造本も非常に凝っていまして、リバーシブルカバーで、裏面に飯合梓『夜果つるところ』の表紙がありますし、扉も「恩田陸」の扉をめくると「飯合梓」の名前が現れるという仕掛け。奥付も二重。つまり、「恩田陸」名義の扉→「飯合梓」名義の扉→本編→「飯合梓」名義の奥付(発行年も1975年という設定。1975年ならこういう伝奇幻想小説はたくさん書かれていただろうしなあ)→「恩田陸」名義の奥付、という構成なのです。本格ミステリー好きなら、綾辻行人『迷路館の殺人』のような、造本そのものでも遊ぶ作品の存在を思い出すことでしょう。そういう意味でも、本好きならぜひとも持っておきたい一冊に仕上がっています。

     最後に、『鈍色幻視行』と『夜果つるところ』を読む順番ですが……これは、「どっちが先でも良い」と思います。私は5月に先んじて刊行された『鈍色幻視行』を読み、『夜果つるところ』への期待を膨らませましたが、これも楽しかったですし、先述した通り『夜果つるところ』が独立した長編としてかなりの完成度を誇っているので、先にそちらを読むのもありでしょう。そのうえで、これは自分がやったわけではないのでただの提案になるのですが――第三の読み方として、『鈍色幻視行』を読んでいる途中に『夜果つるところ』を読む、という方法を提唱しておきます。なぜかというと、『鈍色幻視行』を読み進めるごとに、『夜果つるところ』への興味は高まっていくはずだからです。梓が雅春に「読んでみて」と促すくだり(「二十六、アモイ」の章)まで来ると、例の『夜果つるところ』の趣向に軽く触れる箇所が出て来るので、その前に読むのがベスト、でしょうか(逆に、そのくだりを聞いたうえで読む雅春の気持ちになるのもアリですけどね)。

     そんなわけで、2冊合わせて4000円+税、900ページ超えという大部ながら、「本好き」の願いを叶える、圧倒的な傑作になっています。撮られざる傑作である「映画版・夜果つるところ」を脳内で想像する遊びもめちゃくちゃ楽しいですよ。ぜひ。

    〇おかえり! 紅門福助!

     さて、この長い長い「映画と小説のあいだ」回を締めくくるのは、霞流一『エフェクトラ 紅門福助最厄の事件』(南雲堂)です。というのも、この「紅門福助」は私立探偵なのですが、第一作『フォックスの死劇』(角川文庫)以来、映画絡みの事件にばかり巻き込まれるというキャラクターなのです。そのものずばり、『死写室 映画探偵・紅門福助の事件簿』(講談社ノベルス)というタイトルの短編集もあるくらい(この『死写室』については、読書日記第40回で取り上げております)。著者略歴にもある通り、霞流一は映画会社に勤務していた経歴があるので、映画業界ならではのエピソードや人物描写を、本格ミステリーに落とし込むのはお手の物、というわけです。

     今回の「裏」主人公と言えるのは、数多くの死に役を演じてきたことにより「ダイプレイヤー」と呼ばれた忍神健一。彼は役者生活四十周年を記念して、演じてきた死人たちを供養するセレモニーを企画していたが、彼の周辺で異様な事件が続発する。彼の実家兼セレモニー会場である報龍神社の鳥居に結わえられた卒塔婆、あるいは赤い雨……。その神社に設置されたアクターズスタジオのメンバー「ホリウッド・メイツ」は、遂に殺人事件に遭遇することになるが……。

     以上が大体のあらすじです。既にダジャレ満載の霞ワールドの雰囲気が出ているのではないでしょうか。今回はストレートに映画の話をする、というよりは、奇矯な性格の役者の卵たちを多数配置し、霞ワールドならではのエキセントリックな道具立てを助けている、というイメージです。霞本格は映画を題材にしたものが多いですが、地の文をも侵食する饒舌なギャグやダジャレの数々は、やはり文章で味わってこそという感じがします。この文体に、いつの間にか病みつきになってしまうのです。

     驚いたのはその解決編の密度。100ページ以上の分量を割いて丁寧に事件の構図を繙いていくその手つきもさることながら、霞本格の三大柱である「エラリー・クイーンばりのロジック」「思わずぶっ飛ぶバカトリック」「こだわりすぎの見立て殺人」の三つの要素について、それぞれ順番に分解して解いていく――という手法が素晴らしい。普通、解決編の流れの中で、第一の殺人なら第一の殺人の話をまずする、というように、その犯人指摘からトリックの解明からまとめてやってしまうことが多いと思うのですが、ここではむしろ問題を分離することで、事件の全体像が掴みやすくなっています。ロジックによる犯人指摘を先に済ませることで、トリックの絞り込みをスムーズにしたり、今回の「見立て殺人」はもはやホワイダニットの領域に属するものなので、後回しにしてもらうと納得度が高かったり……やっぱり本格ミステリーは努力だなあという思いを新たにします。

     今回は、「ぶっ飛び度」でいうと、トリックの点では他の霞作品に譲るかな、という感じなのですが、「見立て」にこだわりすぎる作者しか到達し得ないであろう、ひねくれた構図の妙には膝を打ちました。サブタイトルの意味が分かった瞬間にも、心地よくため息が漏れました。なんてこと考えるんだよ。紅門福助シリーズのある作品を思い出すエンディングに、思わず快哉、しかる後に爆笑、という次第。

     あんまりにも紅門福助が好きすぎるので、ここらで全作レビュー……といきたいところですが、今回は『エフェクトラ』解説の嵩平何が未収録短編まで含めた全作レビューを行っており、蛇足になってしまうので、よしておきましょう。駆け足でオススメ作だけ挙げておくと、『呪い亀』(原書房)は、著者の中でも見立てに異常なほどこだわった作品であり、また、作中で展開される奇観に爆笑出来るケッサクなのでぜひ文庫化して欲しいですし、『ミステリークラブ』(角川書店)も、霞作品のバカトリックの中でも屈指の傑作トリックが含まれた作品です(おまけに映像趣味がしっかり伏線になっている!)。入り口としては、やはり短編集『死写室』がイチオシ。二つの死体の首が切断され、入れ替えられているという魅力的な謎が素晴らしく、映画の世界ならではのオチもしっかり効いた「首切り監督」や、パズルのように事件の構図が解き明かされる感覚が素晴らしい「モンタージュ」、映画館ならではの空前のバカトリックを、スマートな伏線で丁寧に補強する表題作「死写室」など粒よりの作品集です。

     それにしても、この解説によれば、紅門福助ものの未収録短編は六本あることになります(「豚に心中」「牛去りてのち」「らくだ殺人事件」「わらう公家」「左手でバーベキュー」「堕ちた天狗」)。ここに、紅門福助シリーズ以外の未収録短編の傑作、たとえば、これも怪獣映画の撮影現場を舞台に、「タワーの上に突き刺さった死体、周囲に一切の足跡はない」という謎を描いた「タワーに死す」(『密室レシピ ミステリ・アンソロジーIII』〈角川スニーカー文庫〉収録、のちに『赤に捧げる殺意』〈角川文庫〉に収録)、や、金田一オマージュ短編の傑作「本人殺人事件」(『金田一耕助の新たな挑戦』〈角川文庫〉収録)なんかも加えて……作りたいなあ、それ……。

    (2023年7月)

第60回2023.07.14
映画と小説のあいだ ~前編(海外編)~

  • 陽炎の市、書影

    ドン・ウィンズロウ
    『陽炎の市』
    (ハーパーコリンズ・ジャパン
    〈ハーパーBOOKS〉)

  • 〇最近のお仕事情報

     第23回本格ミステリ大賞の授賞式及び、受賞記念トークショー(@芳林堂書店高田馬場店)が、去る6月24・25日に開かれました。この読書日記の第35回までを書籍化した『阿津川辰海 読書日記 ~かくしてミステリー作家は語る~《新鋭奮闘編》』で「評論・研究部門」を受賞させていただきました。第57回でも御礼申し上げましたが、重ね重ねありがとうございます。授賞式でたくさんのお祝いの言葉をいただいた作家・評論家・編集者の皆様、トークショーを聞きに来てくださった皆様、サイン会に来てくださった皆様、芳林堂書店の皆様、本当にありがとうございました。バタバタしていて全員には挨拶しに伺えなかったのですが……。

     授賞式後の二次会で、「私が尊敬する評論家」として千街晶之さんにスピーチをお願いしまして、お引き受けいただけたのがめちゃくちゃ嬉しかったです。千街さんから「(阿津川は)小説を書く時も評論家的な視点を入れて来るから、書こうとしたことを先回りされる」と言われた時は首をすくめていました。そう思っていても、千街さんは『透明人間は密室に潜む』(文庫版)に最高の解説をくださるんですから、本当にありがたいです。

     トークショーでは、白井智之さんと私が二人とも、かつて本格ミステリ大賞受賞記念のトークショーにお客さんとして参加し、抽選でサイン色紙を当てた経験があることが分かるなど、新事実が色々判明して面白かったです。バックヤードで白井さんが「(ホラー映画によく出て来る俳優の)アレックス・ウルフの顔が好きっておっしゃっていましたよね?」と、第27回の読書日記で私が書いたフレーズを拾ってくださったうえで、アレックス・ウルフは「ああ、もう駄目だ」と絶望する表情が上手い、あの表情がホラーの恐怖を高めるんだと盛り上がったのが印象的でした。もう一つ、弩級に嬉しい言葉を頂戴したのですが……これは、自分で書くと恥ずかしくなってしまうので、自分の心の中に大切にしまっておきます。サイン会はデビュー時のトークイベントで開かれたもの以来、六年ぶりで、めちゃくちゃ緊張していましたし、字も震えたりしてしまって、不手際が多く申し訳なかったのですが、同じくらい楽しいなあ、ありがたいなあという気持ちが強かったです。

     これでようやくホッと一息……かと思いきや、MRCの会員限定ですが、明日、7月15日(土)の20時から、作家の多崎礼さん、書評家の瀧井朝世さんと共にオンライントークイベントに登壇します。多崎さんについては、前回の読書日記において特集を組ませていただいたので、再びお目にかかれるのが嬉しいかぎり……。会員の方で、ご興味のある方はよろしくお願いいたします。多崎さんの作品を読みたくなるようなイベントを目指しているので、気軽に聞きに来てください。

    〇映画と小説の関連を辿る旅(ここからは敬称略で失礼します)

     小説が好きです。でも、映画も好きです。特に、フィルム・ノワールが盛んに撮られていた頃の、映画と原作小説の距離が近く、映画も「ならでは」の見せ方が巧かった時期の作品に強く惹かれます。アニメや映画を見て、そこから「ミステリー」の要素を感じられるものがないかをいつも探している身からすれば、原作と映像化の比較分析を徹底的に行った千街晶之『原作と映像の交叉光線クロスライト ミステリ映像の現在形』(東京創元社)のような本はまさしく垂涎の一冊です(7月20日頃に書肆侃侃房から千街晶之『ミステリ映像の最前線 原作と映像の交叉光線』も刊行されるので、これも超楽しみ)。

     ですが、心のどこかで、「ああ、やっぱり自分は小説の人間だなあ」と感じてしまう瞬間が 多々あります。映像に惹かれて、よく見るけれど、最後の最後は文章に浸りたい、書きたい、と思うような瞬間が。今月は、その感覚を呼び起こしてくれる、挑戦的で、刺激的な作品が多いように感じたので、まとめて取り上げてみようと思います。国内編についてはちょっとこじつけめいているかもしれませんが。

     今回は長くなりそうなので、ざっくり前後編に分けて、前編では海外作品、後編では国内作品を取り上げます。映画・映像は「 」で表記、小説は『 』(短編や雑誌名のみ「 」)で表記しています。それではまず、前編のリストから。

    ・ベンジャミン・ブラック『黒い瞳のブロンド』(ハヤカワ・ミステリ文庫)/「探偵マーロウ」(6月16日公開)
    ・マイケル・マン&メグ・ガーディナー『ヒート2』(ハーパーコリンズ・ジャパン〈ハーパーBOOKS〉)/「ヒート」
    ・クエンティン・タランティーノ『その昔、ハリウッドで』(文藝春秋)/「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」
    ・ドン・ウィンズロウ『陽炎の市』(ハーパーコリンズ・ジャパン〈ハーパーBOOKS〉)

    〇二人の「マーロウ」

     ベンジャミン・ブラック『黒い瞳のブロンド』(ハヤカワ・ミステリ文庫)は、2014年にハヤカワ・ポケット・ミステリから刊行された作品の文庫化で、「『ロング・グッドバイ』の公認続編」です。第38回の読書日記で、レイモンド・チャンドラー『ロング・グッドバイ』の新訳『長い別れ』(創元推理文庫)について取り上げながら、チャンドラーへの苦手意識があったことを打ち明けましたが、実はそんな理由もあって、2014年のポケミス刊行時にはスルーしていたのです、この一作。本当に申し訳ない。チャンドラーに元々苦手意識があるのに、「続編」などと言われれば、それはもう……眉に唾をつけざるを得ないというもので……いやもう、ポアロとかでどんだけ痛い目にあってきたか。

     とはいえ、実際に手に取って見れば、さすが小鷹信光訳ということもあって、どっぷりと文章の巧さに浸ることの出来る一作になっており、じっくり味わいながら読んでしまいました。ベンジャミン・ブラックは、ブッカー賞受賞作家のジョン・バンヴィルがミステリーを書く時の別名義なのですが、さすがブッカー賞受賞作家、文章が巧い……。なぜ愛人の死亡を知っていたのに、彼を探すようマーロウに依頼したのか、という序盤の謎もいいフックになってくれて、実に読ませます。思ったよりも「続編」としての色が濃かったのも印象的で、正直、一年前に『長い別れ』を読んでいなかったら、ついていけない箇所も多かっただろうと思います。登場人物の名前とか思い出せて良かった。

     で、この本、このタイミングで文庫化されたのは理由があります。日本では23年6月16日に公開となった映画「探偵マーロウ」の原作なのです。映画としての目玉は、なんといっても、名優リーアム・ニーソンがフィリップ・マーロウを演じる、というところでしょう。いやあ、これがもう、シビれるほどカッコいい! 「歴代最高齢」のマーロウとも言われていますが、それゆえの渋い魅力が満点で、特に依頼人の女性であるクレア・キャヴェンディッシュ役のダイアン・クルーガーと二人のシーンは実に絵になります。リーアム・ニーソンは映画「誘拐の掟」(原作はローレンス・ブロック『獣たちの墓』)で探偵マット・スカダーを演じているので、私が一番好きなハードボイルド探偵を演じた役者が、一番苦手意識のあったハードボイルド探偵を演じてくれた――という形で、マーロウのことがかなり好きになれたかも。これまでのところ、一番好きな映画のマーロウは、『大いなる眠り』を映像化した「三つ数えろ」におけるハンフリー・ボガートのマーロウだったんですが、更新した感があります。

     映画の最大のポイントは、『黒い瞳のブロンド』における「ロング・グッドバイの続編」要素をバッサリカットして脚色し直しているところ。そのおかげで、単独作品として、ハードボイルドのプロットをシンプルに味わえる構成になっています(この点、色々思うところのある原作ファンはいるでしょうが、私は肯定的です)。文章や表現に浸れるぶん、原作『黒い瞳のブロンド』は好きだけれど、シンプルに一本のミステリー作品として見たら映画「探偵マーロウ」の方が好きかもしれません。

    〇伝説の映画、その続編

     さて、5月には「映像の監督が小説の世界に乗り出してきた」作品が二本もありました。一本目、マイケル・マン&メグ・ガーディナー『ヒート2』(ハーパーコリンズ・ジャパン〈ハーパーBOOKS〉)は、名作映画「ヒート」の監督であるマイケル・マンが、MWA受賞作家であるメグ・ガーディナーとタッグを組んで、「ヒート」の続編を書いたというもの。まず「ヒート」の話を先にしましょう。こちらは1995年公開の映画なのですが、実は『ヒート2』が刊行されるまで名前も知らなかったので、友人の前で恥ずかしい思いをしました(公開当時、まだ1歳だったから……)。「とにかく銃撃戦が凄いから見てみろ」と言われ、見てみたところ……いやぁ、さすが、面白い。

     アル・パチーノがシカゴ市警の刑事、ヴィンセント・ハナを演じ、ロバート・デ・ニーロが強盗団の首領、ニール・マッコーリーを演じています。この二大名優それぞれの絵力がまずすごいし、追う者と追われる者、立場の違う二人であるにもかかわらず、どこか通じ合うところがあるという見せ方に何よりも惚れ惚れしてしまいました(また、この二人の「安易な」ツーショットがないという、緊張感のある画作りも良い)。また、伝説と語り草の「銃撃戦」も見事ですが、冒頭の輸送車襲撃のテキパキとした犯行シーンも良い。クライム・フィクションの常道あるいは倫理的な問題として、最後には犯人たちが破滅することになるとしても、「ダークナイト」の冒頭5分や、「ベイビー・ドライバー」の冒頭6分など、冒頭では非情なまでの「成功」を描いてその力を見せてほしい……という欲望があるのですが、「ヒート」はこの点でもお気に入りになりました。静かなシーンで繰り広げられる、ひりひりするような心理戦もお見事。約3時間あるので、疲れはしますが、面白かったです。

     そして『ヒート2』ですが、本作ではほぼ冒頭で「ヒート」の結末がほとんどネタバレされるので、知りたくない場合はやはり映画を見てから読むのを推奨します。とはいえ、この『ヒート2』は「ヒート」の「前日譚及び後日譚」というべき作品なので、前日譚にあたる1988年のパートでは、「ヒート」でも聞いたそれぞれの出自がさらに掘り下げられて語られるなど、随所で「ヒート」を思い出すような構成になっています。なので、昔「ヒート」は見たことがある、という方は、思い出しながら読み進められると思うので、再視聴必須、というほどではないでしょう。

     映画だとひりつくような静けさがあった場所に、密度の濃い文章が十重二十重に折り重なっているという小説であるため、小説として、読んでいて飽きません。過去でも現在でも重厚な犯罪計画が進行するので、770ページというとんでもない分量にも納得。それにしても、映画はどうするつもりなんだろう。「ヒート」も文章にしていたらこのくらいの分量があったのでしょうか。『ヒート2』の分量のまま映画にしたら6時間くらいになりそうだから、小説は小説、映画は映画としてうまいこと脚色して欲しいな……。

    〇名監督、小説家デビュー!

     しかし『ヒート2』は、マイケル・マンとメグ・ガーディナーの役割分担が定かではないので、文章が良いのはどっちの功績なのか、いまいち分からないというきらいがあります。ですが、クエンティン・タランティーノ『その昔、ハリウッドで』(文藝春秋)は、映画監督タランティーノの、初の小説作品です。名監督は、小説も巧かった。

     タイトルからも分かる通り、元となっているのはタランティーノによる2019年公開の映画「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」です。これは当時に一度見ました。タランティーノが1960年代のハリウッドを描き、また、実際の人物である映画監督ロマン・ポランスキーと俳優シャロン・テートを登場させたことも印象的な一作です。2017年にエド・サンダースによる犯罪ドキュメント『ファミリー シャロン・テート殺人事件』(草思社文庫)が文庫化されたのですが、そこで、チャールズ・マンソンを信仰するヒッピー集団によるシャロン・テート惨殺事件の概要について読んでいたので、シャロン・テートの登場シーンを見て、やけに衝撃を受けたことを覚えています。落ちぶれた俳優リック・ダルトンを演じたレオナルド・ディカプリオと、その付き人でありスタントマン、クリフ・ブースを演じたブラッド・ピットが印象的でした。リックが撮影現場でペーパーバックを読んでいるシーンとか、演技をトチり、一人酒を飲みながら暴れるシーンとかが好きです。今回、『その昔、ハリウッドで』を読むにあたって、Blu-rayで再度鑑賞した、という次第。

    『その昔、ハリウッドで』の刊行を知った瞬間の偽らざる心境は、「え、それ?」でした。タランティーノ作品だと「パルプ・フィクション」「キル・ビルVol1&2」などが好きなので、もう一度見る/読むとなったら、そっちがいいんだけどなあ、と思ったのです。だからいまひとつ食指が動かなかったのですが、小説の第二章を読んだ瞬間、頬を張られたような衝撃がありました。クリフが地の文で饒舌に映画について語り、映画論を展開し始めたからです。しかもそこには、黒澤映画の話題まであるのです。黒澤映画のベスト5を挙げたうえで、5位に「『悪い奴ほどよく眠る』(但しオープニングのシーンのみ)」(同書、p.45)とか書いてあるので、あまりの解像度の高さに笑ってしまう。このくだりを読んだ時には、どうも、これはそう単純な「ノベライズ」じゃないぞと興奮していました。映画をそのまま小説化した、などという甘っちょろいものではなく、作者自身によるリテーリング(語り直し)に匹敵する作業量だと思います。

     そう知って読むと、これがもう、面白い面白い。映画では奇妙な「間」に感じられたシーンを、監督がどう意図して作っていたかなんてことまで分かるし、さっき好きなシーンとして挙げた、「リックが撮影現場でペーパーバックを読んでいるシーン」だって、それがウェスタンのパルプ・フィクション(「安っぽい小説」が原義で、日本でいう「三文小説」の語感がありますが、ダシール・ハメット、ジム・トンプソン、ジョン・D・マクドナルドなど私の好きな作家の数々を生み出した文化であることを考えると、そのものの語感よりも、昔日への憧れが込み上げてくる複雑な言葉です。ちなみにここでリックは、よく読む作家の一人としてエルモア・レナードの名前を挙げています)であることや、彼の好み、心理まで克明に紡ぎ出されます(同書、p.208~210)。あるいは、映画では少し語られるのみだった、クリフが妻を殺したことがある、というエピソードの詳細も分かるのです。子役のミラベラとの対話シーンは、映画よりもいっそう印象的になっていて、年の離れたリックとミラベラが演劇論を交わすシーンは、小説屈指の名場面になっています。

     じゃあ、小説だけ読めばいいんじゃないの? と思うかもしれませんが、そうではありません。今、上に挙げたのは「小説にしかない要素」ですが、もちろん「映画にしかない要素」もあります。結末に至っては完璧に分岐しているのです。映画のクライマックスとして、タランティーノらしい暴力を描いて見せた映画と、あくまでも小説らしい語り口と饒舌さの中で「映画」を自らの口で語り、一人の役者の物語を紡いで見せた小説。どっちが優れているとか、物足りないとかいう話ではありません。これは映画と小説、二つで一つの物語である、と言えます。比較しながら読むのがこれほど楽しい作品も、他にありません。面白いなあ。

    〇ドン・ウィンズロウも、映画を描く

     さて、この海外編ラストを飾るのは、ドン・ウィンズロウ『陽炎のまち』(ハーパーコリンズ・ジャパン〈ハーパーBOOKS〉)です。これは作者の「新三部作」の第二作にあたる小説で、今回の読書日記で取り上げてきた作品と異なり、何か映像化されているというわけではありません(まだ)。ですが、これも意外なことに「映画」に関する物語だったのです。

     三部作の第一作となるのは、日本では昨年刊行された『業火のまち』(ハーパーコリンズ・ジャパン〈ハーパーBOOKS〉)。こちらでは、アイルランド系マフィアの一員であるダニー・ライアンと、イタリア系マフィアのパスコ・フェリ、ピーター・モレッティらとの熾烈なマフィア抗争が描かれます。千街晶之による同書の解説にもある通り、この小説全体が、ギリシア神話になぞらえられている、というのも一つのポイントで、まるで古代の戦争を思わせる、容赦のない死者の量と非情さに驚かされる一冊でした。別の三部作である『犬の力』『ザ・カルテル』(いずれも角川文庫)『ザ・ボーダー』(ハーパーコリンズ・ジャパン〈ハーパーBOOKS〉)でも、「もうやめてくれよ!」と悲鳴を上げそうになるくらい、容赦なく主要登場人物を殺してきたウィンズロウですが、それは今回の三部作でも引き継がれていると言えるでしょう。

     とはいえ、この『業火の市』、個人的にはちょっとした不満のある一冊でした。ないものねだり、ともいえるかもしれませんが。作中で起こる「戦争」のきっかけとなるのは、パムという女性でした。彼女は、イタリア系のポーリー・モレッティの恋人だったのですが、それを知らずに、アイルランド系マフィアであるダニーの義弟・リアムが横恋慕してしまったのです。イタリア系マフィアの方が、ずっと引き金を引く機会を窺っていて、これ幸いとばかり戦争を仕掛けた――という設定はきちんとあるのですが、形としては、ファム・ファタールが全てを破滅させる、というノワールや犯罪小説の王道に乗っているように思えます。

     私もファム・ファタールという存在は好きですし、魅力的な女性が全てを破滅させるというプロットのノワールは好きです(そうじゃなかったらフィルム・ノワールなんて言い出さないでしょう)。ですが、その前段には、「ああ、この女性になら破滅させられてもいいかも」という感覚が必要ではないかと思います。それは何も容姿ではなくて(特に小説の場合)、魅力的なセリフ一発、エピソード一撃で納得させてもらえればそれでいいのです。ところが、この肝心のパムと言う女性……作中の描写が、ほとんど容姿のことばかりで、おまけに胸のことばかり書いてあるのです。いやそりゃ、ビーチにパムがあがってくる描写はかなり印象的に書かれているんですが……それにしたって。

     ということで、パムにファム・ファタールらしい説得力をあまり感じられなかったことで、その先の展開にのめり込めなかったのでした。ギャング同士の駆け引きやウィンズロウらしい暴力描写、血を血で洗う抗争の描写自体は楽しんだのですが、出発点のところで小さな不満が残ってしまった、というか。

     そんなわけで第二作『陽炎の市』も、期待値はあまり上げないようにして臨んだのですが……おお! 今回はべらぼうに面白い。冒頭では、前作『業火の市』の展開が高速でダイジェストされます(なのでネタバレを気にされる場合は順番に読むことを推奨します、一応。誰が死ぬとかそういう意味のネタバレしかないですけどね……ダイジェストがしっかりしているので、前作を読んでいれば、今作を読むために再読する必要はありません)。そしてすぐさま、その後の状況が描かれるのですが、私がこの第二作に惹かれた大きな理由は、この小説が「全てを喪った者の敗戦処理」と、「試合に勝って勝負に負けた者の後悔」を描くことから始まるからだと思うのです。二つのマフィアがぶつかり、ひとまずの勝敗が分かれたわけですが、勝利した側も無傷ではいられず、敗北した側はふるさとに帰ることさえ出来ない。このナイーブな語りに、引き込まれたのです。

     そして物語が第二部に至れば、今度はさらにぐいっと引き込まれる展開が待ち受けています。そこに絡んでくるのが、ギャング映画というわけです。え、そんなのどう関係するの? と思うところですが、実に意外な絡ませ方、それも「現実にあり得る」絡ませ方で、この三部作でしか描けない「映画の物語」を見せてくれるのです。これが、実に刺激的。

     ネタバレにならないよう、ぼかしながら言うと……『陽炎の市』の第二部が真にスリリングなのは、この第二部において描かれる虚構と、第一作『業火の市』における作中現実が、二重写しになって存在することによって、それぞれの関係図が明瞭に立ち上ってくるところにあります。これが、実に巧い。主人公であるダニーの心理描写も、第二作を通じて、より深く味わうことが出来ました。第二部のラストシーンなんて、実にシビれる。ファム・ファタールには「ああ、この女性になら破滅させられてもいいかも」という感覚が必要だと、私は言いましたが、こちらで描かれる「彼女」との会話劇には、それが確かにあったと思います。

     今回の「海外編」で、あえて『陽炎の市』を最後に持ってきたのは、この第二部の時代設定が1989年になっており、『その昔、ハリウッドで』が描いた1969年から、「ヒート」が撮られた1995年の、ちょうど間を担う話になっているからです。テレビドラマ俳優から映画俳優への道が開けずに、苦しむリック・ダルトンの姿を描く、『その昔、ハリウッドで』の1969年。それから1972年に「ゴッドファーザー」三部作が始まり、80~90年代にはギャング映画の全盛期に突入します。その期間内の1995年に撮られた「ヒート」を巡る物語が今新たな発展をみせました。そして、その間隙にあった80年代に「あり得たかもしれない」ギャング映画の物語を咲かせてみせたドン・ウィンズロウ。

     三者三様、それぞれのアプローチから「映画」について書いた小説が、5・6月と立て続けに刊行されたことは面白いと思いますし、何より私が興奮させられました。なお、『陽炎の市』の紹介について韜晦とうかいしておくと、『陽炎~』のあらすじには「映画」の文言など一つもなく、映画ライターであるSYOの解説でも「映画」と本作の関わりについて深く語った部分は「読了後に読むように」と記されており、もしかしたら担当編集者は映画が関わってくるよ、という事実自体をネタバレだと捉えている可能性があるとは思ったのですが、私は『陽炎の市』に映画というパーツが登場することは、一つのアピールポイントになると思ったので、悩みつつ紹介させてもらったという次第です。一応、解説では「読了後」扱いになっている、「なぜこの話に突然映画が登場するのか? どういうかかわりが?」という部分はこの読書日記でも伏せるように心掛けました。その展開への持って行き方も、面白いんですよね。

     ところで『陽炎の市』の末尾には、来年の夏刊行予定の第三作『荒廃の市(仮)』の冒頭試し読みが収録されています……ど、どうやったら、こんなことが出来るの?

    (2023年6月)

第59回2023.06.23
多崎礼の話をしよう ~私を作った作家たち・2~

  • レーエンデ国物語、書影

    多崎礼
    『レーエンデ国物語』
    (講談社)

  • 〇最近のお仕事情報

     まずは解説案件三本から。スケジュールが重なってこんなことに……。澤村伊智『アウターQ 弱小ウェブマガジンの事件簿』(双葉文庫)は、ホラーの枠組みとミステリーの技法を自在に掛け合わせる作者による、現状唯一の「ミステリー短編集」というべき作品だと思います。作家としての軸足の置き方を振り返りつつ、ミステリーファンにもぜひ『アウターQ』を読んで欲しい理由について、思いの丈をしたためてみました。構成の妙と作者らしさが味わえる「歌うハンバーガー」とか、豪快なトリックが見られる「飛ぶストーカーと叫ぶアイドル」など、本当に良い短編集なんですよ。作者の作品を読むのは怖いけれど、作品について「語ること」にも緊張感が漲るようで、最近一番緊張した文庫解説でした。

     『本格王2023』(講談社文庫)は、本格ミステリ作家クラブによる、2022年に発表された本格ミステリー短編を集めたアンソロジー。今回の選考委員は、酒井貞道、廣澤吉泰、私の三人でした。私は解説も担当しています。アンソロジーの選考に携わるのはこれが初めてで、自分の力不足を痛感する場面もありましたが、面白いラインナップにはなったのではないかと思います。各編については解説で十分に書けた気がするので、ここでは短めに。

     池上永一『海神わだつみの島』(中公文庫)は、沖縄を舞台にした幻想小説・歴史小説・冒険小説を幅広く書き続ける名手による、最新の冒険小説の文庫化。「海神の秘宝」を追うことになった三姉妹たちの、知謀・陰謀・欲望(!?)が入り乱れる凄まじい小説です。2020年に元版を読んだ時から、センシティブな題材に踏み込みつつも、決して堅苦しくならない、あくまでも弩級のエンターテインメントであるその姿勢に惹かれていました。しかし同時に、当時からなぜか、「懐かしさ」を感じてもいたのです。それはなぜなのか、池上作品のどの作品を思い出してのことだったのか、自分の記憶にも迫ってみた解説になっています。池上作品への入り口としても大いに薦められる本作、ぜひ。

     また、今週の配信になると思いますが、電子雑誌「野性時代」7月号から、初の長編連載を始めさせていただきます。タイトルは「バーニング・ダンサー」。お前、ジェフリー・ディーヴァー好きなのも大概にしろよというタイトルですが、そのものずばり、自分でも噛み砕いてみたディーヴァーの方法論を実際に試みながら、ドラマ「SPEC 〜警視庁公安部公安第五課 未詳事件特別対策係事件簿〜」や漫画「金色のガッシュ!!」への憧れを煮詰めたような作品です。なんだそれは。とにかく走ってみます。

    〇雑誌等の話題をもう少し

     早川書房からジョルジュ・シムノン『サン=フォリアン教会の首吊り男〔新訳版〕』(ハヤカワ・ミステリ文庫)が刊行されました。〈メグレ警視〉シリーズの初期の代表作にして傑作、待望の復刊ですねー。新訳によって読みやすくなっているのも良いですし、なんと言っても圧巻なのは、ギチギチの字組と圧倒的な情報量で魅了してくれる瀬名秀明による解説でしょう。特に、『サン=フォリアン~』を「〇〇小説」として読み解く視点は目から鱗で、多角的にメグレものの魅力を掘り下げていく太刀筋に感嘆しました。解説にはネタバレを含んでいるので、本編読了が必須ですが、シムノンの良さがまだ分からないという人にこそ薦められる一冊に仕上がっていると思います。

    「野性時代」6月号には、貴志祐介の読切「くさびら」が掲載。作中でも言及される「キノコ小説」アンソロジー『FUNGI――菌類小説選集 第Iコロニー』『FUNGI――菌類小説選集 第IIコロニー』(いずれもPヴァイン)に並び立つ、「キノコホラー小説」の傑作です。刈り取っても次の日には再生し、家を埋め尽くしていくキノコ……まさに、THEキノコというべき、「増殖」と「再生」をモチーフにした作品で、キノコの名前が列挙されるパートなどが独特の酩酊感を誘うのもあって、実に恐ろしく、幻想的な作品になっていると思います。7月に『梅雨物語』がKADOKAWAから刊行予定で、そこに収録される模様。

    「小説新潮」6月号では、ラジオ好きとしては特集「読む芸人ラジオ」も読み逃せない特集でしたが(アルコ&ピースの対談が楽しかった)、小説好きが注目すべきは「生まれたての作家たち2023」でしょうか。藤つかさの「長方形の死角」が猫と密室を扱った軽妙にして技ありの一編で(猫が死ぬという意味では、愛猫家には胸が痛い?)、寺嶌曜てらしまようの「月と太陽」は奇妙な繋がりを持った双子のストーリーが面白く、同時に「芥子色のカーテン」の描写から始まり、カーテンの描写で終わるところなどは、中井英夫『虚無への供物』へのオマージュも入っているのかと妄想が膨らんでしまう一編でした。そして最も注目したのは、武石勝義「牌神」。麻雀小説であるというだけで、麻雀好きとしては頬が緩んでしまうのですが、この小説では卓の上だけのシンプルな事象であるはずの麻雀が、ひょんなことから世界と接続してしまう可笑しさが読みどころ。和了あがるととんでもないことが起きる、という趣向なのです。その描写一つ一つにくすぐられながら、主人公の一挙手一投足にある意味手に汗握ってしまうという、とても楽しい短編でした。好きだなあ、こういうの。日本ファンタジーノベル大賞2023を『神獣夢望伝』で受賞された方で、同書はこの日記が公開される頃に発売している模様です。読みます。

    〇骨太・最強のファンタジー大部、開幕!

     さて、ファンタジーという言葉から繋がって、ここからは――。

     多崎礼の話をしよう。

     今月はもうこの話をせざるを得ません。多崎礼の最新作『レーエンデ国物語』! 大好きな作家の最新刊とあっては、もう読まないわけにはいかないのです。いつも、練り込まれたハイファンタジーの世界観と、大いなる「語り」の魅力、登場人物を襲う運命のうねりの面白さで、どうしようもなく「物語読者」を魅了してくれる多崎礼の世界が、今回も炸裂しています。あまりにも素晴らしい。

     作品の話に入る前に、少し、思い出話をさせてください。今まで海外ミステリーの話、そうでなくてもミステリーの話がメインだったので、私が突然ファンタジーの話をし始めたのが不思議な人もいるでしょうから。私が本格的にミステリーを読むようになったのは中学二年生の頃で、それまでは、海外ファンタジー少年でした。以前、第33回の読書日記にも、小学生の頃に『ダレン・シャン』『デルトラ・クエスト』『ドラゴンラージャ』などに熱中していたと書きましたが、日本人作家のファンタジーも続々と読んでいく入り口となったのが、上橋菜穂子の『精霊の守り人』に始まる〈守り人〉シリーズと、多崎礼その人でした。

     初めに上橋菜穂子の話からしましょう。明確に覚えているのは、2006年に刊行された『獣の奏者 Ⅰ闘蛇編』と『獣の奏者 Ⅱ王獣編』が出会いだったことです(当時12歳)。エリンと王獣リランの交流(リランが竪琴の音に反応するシーンを今でも思い出す)と、エリンとリランを取り巻く人々の思惑とのギャップにハラハラワクワクしながら、夢中になって読みました。その翌年になると、『精霊の守り人』を皮切りに、〈守り人〉シリーズが続々と新潮文庫に入り、それを読み進めていったのです。当時、中学一年生だった私は、新潮文庫は「大人が手に取るもの」という、どこかハードルが高いイメージがあったこともあり、ファンタジーを読みながら、憧れだった新潮文庫を手に取れることを喜んでいました。

     そんな風に、ファンタジーに夢中だった時期だからこそ、多崎礼の『煌夜祭』(C★NOVELS→中公文庫)に出会った時の衝撃は、凄まじいものだったのです。『煌夜祭』では年に一度、冬至の晩に開かれる〈語り部〉たちの祭りが描かれるのですが、この〈語り部〉たちが語る七つの物語が、それぞれ短編として高い完成度を保っているのがまず素晴らしい。更には、「外枠」として「煌夜祭」の情景が描かれ、次第に七つの物語の裏に隠された真の姿が見えてくる……という趣向も備えているのです。ミステリー好きにも大いに薦められる傑作であることを、ここで強調しておきましょう。友人である斜線堂有紀とよく、「ノベルスという判型に出会ったのは、はやみねかおるの『虹北恭介の冒険』が最初だ」という話をするのですが、二番目は間違いなく多崎礼、それもC★NOVELSでした。

     とはいえ、この『煌夜祭』、自力で出会ったわけではありません。私は中高一貫の学校に通っており、文芸部に所属していたのですが、そこに熱狂的な多崎礼ファンがいたのです。というか、一年上の先輩全員が、熱狂的なファンだったのです。彼女たちが、こぞって多崎礼を薦めてきて、慌てて読んだというのが次第なのですが、この先輩女子たちのパワーはそれでは収まらず――なんと、学校にご本人をお招きして、講演会をしてもらったのです。

     キッカケは「オーサービジット」という、小説家の方などを招き、授業をしてもらう企画の一環だったと記憶しています。2007年10月には、はやみねかおるさんをお招きして、ミステリー小説の書き方や伏線の張り方などの講義を受けていたく感動し、『都会のトム&ソーヤ⑤ IN塀戸』の下巻にサインをいただきました。そして翌年、2008年10月に、多崎礼さんに来ていただいたのです。まさしく、私にとっては神々との対面。

     当時、『“本の姫”は謳う』全四巻が完結した直後だったと思います。サインをいただいたのは、『煌夜祭』のC★NOVELS版。お話は多岐にわたっていて、今から思うとあれは『八百万の神に問う』(C★NOVELS)の構想だったのだなあというエピソードを拝聴しましたし、その後文芸部誌の競作企画のネタにもなった「本の題名や帯から物語を想像する」という遊びを教えていただいたりもしました(ちなみに「文芸部誌の競作企画のネタ」としても使われていたと確かめられたのは、もちろん、当時の文芸部誌が家から発掘されたからですが……私もそうですが、先輩たちの名誉のためにも、これは表には出せなかろう)。

     そんな縁もあり、多崎礼の名前を見るだけで、当時からの記憶が一気に蘇ってくるのです。しかし、もしこうした縁がなかったとしても、多崎礼が作り上げる世界観は、少年少女時代に夢中になって「物語世界」に入り浸った、鮮烈な記憶を呼び覚ましてくれるでしょう。だからこそ、多崎作品を読む体験は、いつでも、いつまでも瑞々しく、そして愛おしい。

    〇最新作『レーエンデ国物語』の話

     自分の原体験と切っても切り離せない作家なので、思わず昔語りから入ってしまいましたが――それにしても、この『レーエンデ国物語』は凄い。

     今作の舞台は、「銀呪病」という病が存在する呪われた地、レーエンデ。「銀呪病」に罹患すると、体が銀呪に覆われ、運動機能が低下し、やがて死に至ります。そういう恐ろしい病です。英雄である父・ヘクトルと共に、このレーエンデにやって来た娘・ユリアは、琥珀の瞳を持つ寡黙な射手・トリスタンと出会います。ヘクトルがこの地に交易路を作ろうと奮闘する中、ユリアはこの地ではじめての友達をつくり、はじめての恋を経験する。しかし、建国の始祖の預言書が争乱を引き起こし、ユリアは帝国の存立を揺るがす戦いの渦中に巻き込まれていくのでした。

     上記が、かなり駆け足でのあらすじになりますが、作者の筆はゆっくりと、ユリア、ヘクトル、トリスタンの三人の、愛おしくも様々な思惑を秘めた関係性を描いていきます。ここの会話劇が全部良い。特に、ヘクトルの妻、ユリアの母であるレオノーラを巡るエピソードが好きです。英雄でありながら危うさを秘めたヘクトルにどう接したか、という部分に、彼女のしたたかさが滲んでいるのです。それがユリアの選択を巡る物語にも深い影響を与えてくるところなど、実に余念がない。

     また、舞台となるレーエンデの、古代樹の森の光景からして、グッと世界観に引き込まれます。古代樹の森そのものは、多彩な色彩を帯びていると描写されるのですが、やはり脳裏に強く焼き付くのは銀のイメージ――デビュー作である『煌夜祭』が、茜色、赤銅色、そして燃え盛る炎のイメージだったことを想うと、どこか好対照に感じます。

     登場人物たちを襲う宿痾、宿命の残酷さ、そしてそれによるストーリーの面白さは健在――それどころか、研ぎ澄まされている気さえします。互いに惹かれ合うにもかかわらず、様々な事情から思い切れないユリアとトリスタンに、思いもかけない試練が訪れるのですが、ここのドラマがとんでもなく良い。物語上の伏線を巧みに回収しながら、少しずつ状況が悪くなっていく、その過程も読みどころですし、ユリアとトリスタンがいかなる選択を下すか、それが気になって読む手が止まらない。寝食を忘れて一気読みとは、まさにこのこと。それにしても、トリスタンのあまりの誠実さには、思わず心を揺さぶられてしまいます。あまりに好き。

     多崎礼作品は冒頭の引きが尋常ではなく、毎回、開いたら最後、一気に読まされてしまいます。『レーエンデ国物語』も、冒頭2ページを開いてみてください。ここでは少しだけ引用させてください。

    〝革命の話をしよう。
     歴史のうねりの中に生まれ、信念のために戦った者達の
     夢を描き、未来を信じて死んでいった者達の
     革命の話をしよう。
    (中略)
     レーエンデが抱えた宿痾と宿命。
     そこに生きた者達の受難と苦闘。
     法王庁が隠蔽し続けてきた真実をここに記そう。
     革命の話をしよう。〟(同書、p.10~11)

     多崎作品は、毎回冒頭のカッコ良さが異常です(もう私が「多崎礼の話をしよう」と言った意味も分かりましたね?)。開いたら絶対に読むのをやめることは出来ない。歯切れよく、リズミカルな文章によって、作品全体のテーマと骨格をバーンと示してくれるからだと思います。著者が全作品を通じて大切にしている「語り」の技法が、読者へ語り掛ける文体によって遺憾なく発揮されているゆえですし、著者には本書だけでなく『夢の上』(C★NOVELS→中公文庫)など、「国の歴史」をモチーフにした作品が多く、だからこそ、重く、堅い大河小説の扉が開く、その瞬間の途方もない高揚感にも満ち溢れています。

     本作は、また新たなシリーズの幕開けとなります。しかし、そこは多崎礼。これ一作でも、話としてはきっちりまとまっています。と言っても、まだ物語としては大きな謎やフックを残しているので、今後どうなるか、期待が高まって仕方ありません。第2巻が8月、第3巻が10月と予告されており、この大部のファンタジーをかなりのハイペースで届けてくれるようです。この「読書日記」では、出来る限り、新刊が出るたびに追尾するように感想を書いていくつもりです。今回は『レーエンデ国物語』をメインの本として取り上げておりますが、第2巻以降は、メインが他の本になって(ミステリーランキングなども近付いてそちらの話題書も多そうですからね……)、前段で続々紹介していくという形になるかもしれません。ともあれ、お付き合いいただけますと幸いです。

     小説が好きなら絶対に読んでくれというくらい、物語の面白さと楽しさ、そして容赦のなさに満ちた、素晴らしい作品です。ぜひ読んで欲しい――と、ここで終わってもいいのですが、何せ、多崎礼は私を形作った最重要作家の一人。まだまだ語り足りないので、ここでせっかくならと、全作レビューを試みようと思います。大部の長編が多いため、駆け足の紹介になってしまうことを、ご容赦ください。

    〇多崎礼全作レビュー

    『煌夜祭』(C★NOVELSファンタジア→中公文庫)
     私的偏愛作その1。既に思い出話の中で述べてしまいましたが、これは、ミステリー好きにもオススメ出来るファンタジーの名品です。魔物が人を食べると言われる冬至の夜、年に一度開かれる語り部たちの宴「煌夜祭」。島主屋敷も廃墟となったさびれた島に、対峙する二人の語り部、トーテンコフ(頭蓋骨)とナイディンゲイル(小夜啼鳥)――。本書は、二人の語り部が語った話と、篝火を挟んで対面するこの二人の会話のパート、大きく分けてこの二つで構成されています。語り部の話の中には、更に小さな話が幾つも入った入れ子細工のような構成になっており、更に、語り部の話が一つ進むごとに、二人の会話によって、この世界にまつわる謎と、物語の大枠にまつわる疑問のピースが、一つずつ集まっていきます。

    「語り」によって物語が動き出し、「語り」が駆動しているところが、この作品が実に作者らしい傑作になっている理由だと思います。人が語りによって伝えようとするもの、人が語りに魅了されてしまう心理、それらを物語のギアとして巧みに用いながら、作中のドラマに読者を引きずり込んでいく。この手法は、先に引用した『レーエンデ国物語』の冒頭部にも恐らく関連してくる話ですし、『夢の上』という小説は、この『煌夜祭』の枠組みを三冊分の大部ファンタジーに使った豊かな実りだと思います。

     本書は、これ以上の予備知識なしに読み始めることが、最も良いでしょう。「第一話『ニセカワセミ』」の展開からして、まだ世界観を深く掘り下げていない段階だからこそ映える、劈頭の一話にふさわしい哀話であるからです。一つの小さな話と、それが作り出す大きな絵。パズルのピースを一つ一つ嵌めていく過程の面白さが、会話劇によって展開されるところが、ミステリー好きにもオススメ、と言った理由です。この本に関しては、もうこれで十回以上再読しており、思い入れの度合いが違います。中公文庫版には、必ず最後に読むべきボーナストラック「遍歴ピルグリム」が収められており、これもオススメですが、画像検索でもいいので、C★NOVELS版の表紙は一度見てほしいです。あまりにもカッコ良すぎる。

     本書の「文庫版あとがき」を久しぶりに開いたところ、なぜ私がこんなにも多崎礼作品に魅了されるのか、その答えがそのものずばり書いてあって、感銘に打たれたので、引用させてもらいましょう。

    〝私の物語に登場する人物達は理想と現実の間で葛藤し、決断を誤っては多くの過ちをおかし、後悔しては慚愧ざんきの涙を流す。そんなおろものばかりです。それでもまた立ち上がり、何かを選び、何かを夢見て、懸命に生きていこうとする。そんな諦めの悪い者達ばかりです。
     つまり、何が言いたいかというと――
     私が書きたいのは、そんな愚かで諦めの悪い人間達の物語なのだということです。
     それは昔も今も、そしてこの先も、変わることはないでしょう。〟(中公文庫版『煌夜祭』中「文庫版あとがき」、p.298)

     愚かで諦めが悪く、しかし、それゆえに人間臭い。そんな人々があがき、それでも生きる姿だからこそ、こんなにも、何度も胸を打つ。それはこの『煌夜祭』に描かれた人間たち――そして魔物たちも――にも流れる精神ですし、最新作『レーエンデ国物語』でも、「革命」というテーマの中で見事にそれが表現されています。だから私は、多崎礼の本を読むのだ。

    『〈本の姫〉は謳う』(C★NOVELSファンタジア、全四巻)
     先述した通り、中学生の頃に先輩たちから熱烈に薦められて手に取った作品であり、あまりの面白さにより一層夢中になった作品でもあります。「本」をモチーフにした作品であるという点では、後年の『叡智の図書館と十の謎』(中公文庫)に通ずるとも言えるでしょう。

     世界を蝕む邪悪な存在である文字スペルを回収する旅を続ける少年アンガスの物語(いわばロードムービーの骨格です。そして「文字禍」!)と、謎めいた語りで進行する「俺」の物語が並列で描かれていくのですが、大長編として構成されているがゆえに、この並列する物語の全貌が露になるのは最終巻までお預けになります。しかしそれが明らかになる瞬間の驚きが……素晴らしいんですよね……。二巻、三巻が「おいおい、こんなところで終わるのかよ!」というとんでもない引きで終わるために、どんどん続きを手に取ってしまったのをよく覚えています。キャラクターの中では、姫とセラの可愛さが異常です。未だに好き。超好き。

    これも冒頭が超痺れるので、ちょっと引用してみます。

    〝この世界は、言うなれば本のようなものだ。
     お前は本を読む時、まずは表紙を開き、最初のページから物語を読み進めていくだろう?
     世界もそれと同じだ。表紙をめくった瞬間に世界は始まり、ページをめくるにつれ、時間は流れる。今日は昨日になり、過去は歴史という物語になる。
     過去と現在と未来。それは本に書かれた物語と同じだ。一つの時間軸上において、それらは並列して存在する。まだ開いていないページに物語の続きが書かれているように、まだ見ぬ未来もすでに存在している。
     本の筋書きが最初から決まっているように、世界の終わりもすでに決まっている。ページの先を書き換えることが出来ないように、未来もまた変えることは出来ない。

     そう、お前に出来るのは、選ぶことだけ。〟(『〈本の姫〉は謳う1』、p.9)

     本当はもう一ページ分あるのですが、雰囲気は十分に伝わるでしょう。「お前」と呼びかける二人称小説が私の好み過ぎる、というのはあるのですが、多崎作品の冒頭の巧さは毎回凄まじくて、まさしく「ページを開いたが最後」なのです。もうページをめくる手を止めることは出来ない。なお、この引用部で書かれた「世界の終りもすでに決まっている」という終末論的な主題は、まさに本作の主題でもありますし、後年の作品でもさらに先鋭化された形で描かれていくことになります。そうした、シビアに構築された世界観も、私を魅了し続けてきた要素の一つです。

    『夢の上』(C★NOVELSファンタジアで全四巻→中公文庫で『夢の上 ―夜を統べる王と六つの輝晶』と改題して全三巻)
     私的偏愛作その2。多崎礼を代表する長編ファンタジーだと思っています。理由はシンプルで、デビュー作『煌夜祭』の項でも言及しましたが、『煌夜祭』にもみられた、「語り手によって複数のストーリーが一つずつ展開し、最後にはその語りがうねりをもって連なり、小説の幹となっていく」という手法が大長編の形で結実しているからです。本書は、「叶うことのなかった夢の結晶」である「彩輝晶」に閉じ込められた人々の夢を、「己の夢として」追体験しようとする王と、その王を相手に夢を見る手伝いをする「夢売り」の男との会話から幕を開けます。彩輝晶は全部で六つ。つまり、六つの中編小説が、一つの大長編を作っているという構成です。

    『夢の上 ―夜を統べる王と六つの輝晶1』(中公文庫)では、翠輝晶すいきしょう蒼輝晶そうきしょうの二つ、2巻では紅輝晶こうきしょう黄輝晶おうきしょう、3巻では光輝晶こうきしょう闇輝晶あんきしょうといったように、彩輝晶ごとに語り手を替え、この王国のありようとそれぞれの夢を描いていくのです。1巻では身を焦がすような恋のエピソード、それも質の違ったものを二つも読むことが出来て、特に「蒼輝晶」なんて大いにツボなのですが、私的大偏愛の理由は、なんといっても2巻の「紅輝晶」! C★NOVELS『夢の上2』の表紙に描かれた、ハウファ・アウニールという女性が主人公なのですが、彼女の「復讐譚」の物語が……私はもう、本当に好きすぎて。復讐譚の面白さは、淡々と計略を実行していく冷酷さか、その冷酷さが揺らぐ瞬間にこそあると思うのですが、ストーリーのネタバレを防ぐためどちらとは言いませんが、中盤に訪れるそのシーンの描き方が素晴らしく、さらに圧倒的な結末も良い。2011年1月の刊行なので、当時まだ高校1年生だったと思うのですが、しばらくこのアウニールには憑りつかれたなあ。大いにハマりました。

     3巻については、語れることは多くありません。なぜなら、二人の語り手が明らかになった瞬間、すでに、「ああ」というため息がこぼれるような小説だからです。特に、「闇輝晶」がすごい。この「語り」が始まった瞬間、ああそうだよな、この人なしでは、この小説は終われないよなという、深い納得と感動に打たれたのをよく覚えています。また、私はC★NOVELS版で読んだのですが、このノベルス版には各輝晶のブリッジにあたる「幕間」の部分にちょっとした仕掛けがあり、まるで空の無い王国の昏さを象徴するように、縁が黒くなっているのです。そしてこういうページ構成になっていた理由が、3巻の最後に明かされるのですが、これが絶妙の余韻を残してくれるのです。著者が出したアイデアか、編集者のものか分からないのですが、どちらにせよ、この小説を愛していないと出てこないアイデアであることは確かで、中公文庫化された今でもC★NOVELS版を手放さないのはそれが理由です。

     なお、C★NOVELS版では、4巻というか、外伝にあたる『夢の上 サウガ城の六騎将』が刊行されており、これはケータイサイト「yorimoba」で連載されていた五つの短編に書き下ろしを一編加えて書籍化したもので、本編でも登場した「ケナファ騎士団」の六人の英傑を巡る短編集になっています。一編の中で、この六英傑のうちの一人が「語り手」を務め、他の一人が「聞き手」になっており、次の一編では、前に「聞き手」だった人物が「語り手」にスライドするという構成になっています。ノベルスが完結した約1年後に刊行されたので、「まだまだあの世界に浸りたいなあ」という夢を叶えてくれるような短編集でした。お気に入りの短編は「あの日溜まりの中にいる」かなあ。猫ちゃん小説。

    『八百万の神に問う』(C★NOVELSファンタジア、全四巻)
     著者初の和風ファンタジー。その後『叡智の図書館と十の謎』の中に、和風の作品もありますが、それを除くと、唯一の長編ということになるのかもしれません。一切の武力行使が禁じられた土地「楽土」において、利害の対立が生じた時には、結論が出るまでとことん話し合う。それが『音討議』であり、その討論を担うのが「音導師」である――という設定から分かる通り、一種の法廷小説のような趣があるのが本シリーズ。音導師の言葉が、人の持つ八つの「オン」の共感を得た時、音叉が共鳴して結論がまとまる、という演出も実にロマンチックです。

     和風ファンタジーらしく、春・夏・秋・冬それぞれの季節を描き、出会いの『春』(1巻)、成長の『夏』(2巻)、実りの『秋』(3巻)、別れの『冬』(4巻)を紡ぎ出す四部作となっています。1巻に出てきた魅力的な登場人物一人一人にスポットライトが当たるような形で、各巻ごとに作品世界が大きく広がっていき、多角的になるような読み味となっていて、これぞ長編ファンタジーを読む楽しみ、と言えます。また、和風になったこともあってか、現代の言葉(ツンデレとかメタボとか)に昔の和風の音をあてはめるような言葉遊びが随所にちりばめられていて、そういう遊びも楽しい一作になっています。

     私のお気に入りは、1巻と3巻。1巻で主人公の一人となるサヨについて、1巻の後半に至って、実にしんどい類の因縁話が立ち上がって来て、結末の音討議に向けて盛り上がりを見せていく構成もたまりませんでしたし、3巻では、密かに「いいな」と思っていたキャラクターであるライアンにスポットライトが当たり、その意外な過去が明かされたうえで、結末に至るまで油断のならない展開が仕掛けられていて大満足。もちろん、全四巻、どっぷり浸るのにうってつけの傑作で、電子書籍限定で刊行されている短編集(「八百万の神に問う 外伝集」)も粒よりで素晴らしいです。もちろん短編集単体で読んでも面白いですが、シリーズの各巻との繋がりを辿っていくのが実に楽しい作品集です。ぜひ。

    『神殺しの救世主』(角川書店)
    「長編」としては、初の単巻完結――ということになるでしょうか。これこそまさに、『〈本の姫〉は謳う』で書いておいた、「終末」を描いたファンタジーの傑作。長年にわたる戦で荒廃した世界に伝わる「終末神話」について描かれたのがこの『神殺しの救世主』という一作です。神話には、「救世主」が五人の『守護者』と共に人々を新世界に導く、とあり、主人公である少女・ノトは、かつて「守護者」の責務から逃げた負い目を抱えながらも、運命に立ち向かうため、『守護者』たちを集めにいくのです(冒頭からしばらくは映画「七人の侍」のような、仲間たちが集まっていく作劇の楽しさがあります)。

     章を追うごとに、シビアに切り詰められていくダークな世界観が見所(単行本の黒を基調とした装丁が、この雰囲気に合っていて実に素晴らしい)。主人公を巡る状況や、作品世界内の治安の悪さも、この作品がトップクラスではないでしょうか。そしてこの小説は、なんといっても――SF好きに読んで欲しい多崎作品のナンバーワンかもしれません。『〈本の姫〉は謳う』の「本」や「文字」にまつわる設定も、SF的なガジェットとしての面白さがあったと思うのですが、『神殺しの救世主』で、世界の薄皮が剥がれていくごとに明らかになっていく、稀有壮大な世界の設定は、何よりもSF好きの心をくすぐるんじゃないかな、と思うのです。

     各章のエピソードの中には、ミステリー的な演出が光るものもあり、単巻完結ということも含めて、実はオールジャンルの読書好きをスナイプするのにうってつけの一作ではないでしょうか。これこそ文庫に入れてほしい。

    『血と霧1 常闇の王子』『血と霧2 無名の英雄』(ハヤカワ文庫JA)
     私的偏愛作その3。吸血鬼とは違う形で「血」の物語を描いた作品でもありますし、「残酷な運命を背負った子供」の物語が刺さってしまうので、読んだ時の感動は一言では言い表せません(ラストシーンの語りが、あまりに素晴らしいのです)。

     明度、彩度、色相によって血に価値が決められている世界で、「奇跡の血」と呼ばれる「明度Ⅹ」の血を持った少年ルークが失踪した。彼を探すために主人公ロイスが雇われる――というのが物語の冒頭にあたる第一話「Out of the Dark/常闇の王子」のあらすじなのですが、ここから二巻分、六話構成でそれぞれ違った角度からこの世界とキャラクター達を描いていきます。第三話の結末なんて、実に泣かせる。

     私が特に好きなのが第二話「Same Love/同じ愛」、第五話「This Woman`s Work/血の記憶」です。どちらも多崎作品ならでの、心に残る女性キャラクターが登場する話だからですね。第二話は、あまりにも残酷すぎるこの世界の「底」を描いたうえで、その残酷さの中でも決して折れないある人物の姿を描いており、胸をかき乱され、心揺さぶられるエピソードです。第五話は、最終盤へ向けたブリッジとなる話でもあるのですが(こういうチェンジ・オブ・ペースがカッコよすぎるんだ!)、ここで作中の重要人物・グローリアが深く掘り下げられることで、物語がうねりを上げて動き出す第六話の感動がさらに高まるようになっています。世界のピントが合うような読み心地、というか。しかし、この第五話で何よりも凄いのは、グローリアの描写はもちろんですが、ロイスとグローリアを引き裂こうとする相手役として設定されているリネットの書き方ではないかと思います。公正というか、たった一人も取りこぼさないというか、こういう小説の書き方に、私は何度でも、この作家に惚れ直すのです。

    『叡智の図書館と十の謎』(中公文庫)
     広大な砂漠に囲まれた、古今東西の知識が集まる図書館に辿り着いた旅人――この冒頭の情景からしてそそられます。守人の彫像から質問を投げ掛けられ、それを解くためのヒントとなるエピソードが旅人の手元の《魔法の石板》に映し出される、というミステリー仕立ての構造になっているのが特徴で、一つの質問が出され、答えが出るまでが長編小説の一章分にあたり(章立ては「第一問」「第二問」など)、それぞれの章は短編小説としても完結している、という趣向。入れ子細工のような趣向は、デビュー作である『煌夜祭』と相似形を描いていると言えます。

     一つ一つのエピソードも短編としての完成度が高く、ある種の犯罪小説としても読むことが出来る「第五問」と、登場人物を数字で管理し、文体も冒険小説風にキレがある中で突然現れる「アレ」にニヤリとしてしまう「第九問」がお気に入り。「第十問」を経て明かされる真相と、結末の余韻もたまりません。今回のあとがきでは、本編では記されない、各問題の短編としてのタイトルが表記されているのみならず、レイ・ブラッドベリやJ・L・ボルヘスの名前が挙がっているのも嬉しいところ。

     以上、これまでに刊行された作品について、駆け足ながら振り返っていきました。基本的に単著が刊行されているものに絞っているので、ファンからすれば「まだまだ足りないよ!」と私を叱りたい気分かもしれませんが、ご容赦ください。

     さて、ここまでは、その描写のカッコ良さや、シビアな世界観、キャラクターの描き方やその時の公正さなどを各作品に応じて語ってみましたが、実はもう一つ、重要な要素があると思っています。それは随所に覗くユーモアです。

     峻厳な世界観で、運命に抗って、自分たちの選択に時に悩み、苦しみ、それでも人間臭く生きる人間達のシリアスな讃歌でありながら、ふとしたシーンに、ユーモアが滲む。例えば『血と霧』では、第一話が凄まじくシリアスな話であったにもかかわらず、第二話の冒頭では思わず顔が綻ぶような会話劇が繰り広げられます。『八百万の神に問う』でも音討議のシーンはシリアスでも、洒落っ気のあるキャラクターたちが合間で一息つかせてくれる。こういう体験の一つ一つが、ただ真面目なだけの登場人物たちと相対するよりも、一歩深く、作品世界にのめり込ませてくれるのだと思います。

     多崎礼は、自分の選択から目を離さない、弱くて、しかし強い人たちを一貫して描き続けています。でも決して堅苦しいだけじゃありません。苦しみ、悶え、戦う人々にも、微笑みを交わすようなユーモアがあり、日常があると描いてくれるからこそ、読者はより一人一人の登場人物を身近に感じ、感情移入し、より深く作品世界に没入してしまうのです。だから私たちはまさしく、毛布にくるまって読み耽ったあの頃のように、その作品世界に浸ることが出来るのでしょう。

     トーテンコフ。ナイティンゲイル。アンガス。姫。セラ。ハウファ。サヨ。ライアン。ロイス。ルーク。ノト。グローリア。リネット。ここに挙げたあなたたちはみんな、私がこれまでの人生を共に生きた人々です。そしてここに、新たな名前が書き込まれました。レーエンデの国から、ユリア、ヘクトル、トリスタン、レオノーラが。これからも、彼ら彼女らを見守り続けます。祈るようにして。

    (2023年6月)

第58回2023.06.09
私たちを救うカナリアの声 ~私を作った作家たち・1~

  • コメンテーター、書影

    奥田英朗
    『コメンテーター』
    (文藝春秋)

  • 〇最近のお仕事情報

     大山誠一郎『仮面幻双曲』(小学館文庫)は、2006年に刊行された単行本版に大幅な改稿を加えた、完全改訂版ともいうべき一冊。こちらに文庫解説を書かせていただきました。長らく入手困難となっていたので、ファンにとっては待望の一冊になるのではないでしょうか。私自身、単行本版をなんとか手に入れて読み、メイントリックにいたく感動した一冊なのですが、作者はその後の読者からの反応に忸怩たる思いがあったようで、『本格ミステリ・ベスト10』の「作家の近況」欄や、Twitter等でも、改稿の必要性について語っていました。なので、依頼をいただいた時は大いに興奮して、ゲラが届いて即座に開いたのですが――いやもう、感動、の一言以外ありませんでした。単行本版を読んだことのある方は、あまりにも徹底した彫琢ぶりに驚くと思います。大山誠一郎はここまでやるのだ、という感動を解説に乗せるとともに、単行本版と文庫版を一行単位で比較したので、ネタバレなしで比較検討の成果も盛り込んであります。初読の方はもちろん、単行本で読んだ人も、文庫版を読むべし!

     小説では、5月下旬にweb J-novelにて「占いの館へおいで」が掲載されました。〈九十九ヶ丘高校〉シリーズの第四話です。タイトルは、はやみねかおる『都会のトム&ソーヤ』の『ぼくの家へおいで』をもじっていますが、テーマは『九マイルが遠すぎる』。占い研の女子生徒が聞いた、奇妙な一言から、推論を繰り広げる短編です。原稿用紙換算で50枚強と、このシリーズの中でもひときわ短い作品ですが、担当編集さんも気に入ってくれたようです。同シリーズは、書き下ろしの第五話を修正中で、書籍化を目指していますのでそちらも楽しみにしていただけるとありがたいです。

    〇今月の、雑誌の話題はちょっと長い

    「小説現代」6月号では、砂原浩太朗の〈神山藩〉シリーズ最新作『霜月記』が一挙掲載されています。シリーズ第一作高瀬庄左衛門御留書たかせしょうざえもんおとどめがきや第二作『黛家の兄弟』にも、時代小説の骨太な骨格の中に、ミステリーの技法が巧みに使われていましたが、最新作『霜月記』は失踪事件、暗号解読など、よりミステリー味が増しています。著者謹製の「神山藩データ&年表」(!)や、末國善己によるインタビューなども掲載されているので、大満足でした。同誌には青崎有吾『アンデッドガール・マーダーファルス』のアニメ化を記念した特集も組まれており(これは2号連続で、6月22日売りの7月号では青崎有吾、黒沢ともよ、矢代拓による鼎談が載っているようなので必見ですね)、新作短編「知られぬ日本の面影」を読むことが出来ます。なんと今回の題材は小泉八雲! タイトルを見た時からまさかとは思っていたのですが、冒頭のエピグラフが小泉八雲だったので、それだけでもう快哉を上げてしまい、バトルも謎解きも大充実の展開で、これが短編の満足度か? と不思議になるほど。青崎有吾が面白すぎる。本当に悔しい。

     同誌の個人的な目玉はもう一つあり、道尾秀介による〈きこえる〉シリーズの第四弾「死者の耳」も掲載されています。このシリーズは、作中のある部分に登場するQRコードを読み込んで、音声を聞くと真相が分かる、という趣向のシリーズです。今回は、冒頭にも結末にもQRコードが置かれているという状況で、本編の長さもこれまでで最長かと思われます。そして訪れた結末が……いやあ、第四弾まできて、こんな手まで使ってきますか。舌を巻くというかなんというか。ちなみに第三弾「小説現代」3月号に掲載された「にんげん玉」(実際には鏡文字で印刷されています)も、何度も聞き、読み返すごとに発見があった作品でした。体験によってミステリーが深化するという点で、ここでしか味わえない試みだと思います。

    「オール讀物」6月号の特集は「警察小説最前線」。長岡弘樹「嚙みついた沼」はカミツキガメを使ったアイデアが面白く(中核のアイデアも好きなのですが、その前段の、なぜそんなことをしたか? という疑問の出し方が楽しいです)、佐々木譲「弁解すれば」はPTSDを抱えた刑事の相談対応を描いた作品で、感情移入してしまうが故の苦悩の描き方が胸に迫ります。本格ミステリー好きの最注目作は、大山誠一郎の〈赤い博物館〉シリーズ最新短編「三十年目の自首」でしょう。とうに時効を迎えた犯罪について、なぜ自首してきたのか? という謎ですが、著者はTwitterにおいて、こうしたテーマを「不可解な自首」ものと命名し、横山秀夫『半落ち』、都筑道夫「遅れた犯行」(『退職刑事5』〈創元推理文庫〉収録)、法月綸太郎「ABCD包囲網」(『法月綸太郎の功績』〈講談社文庫〉収録)「殺さぬ先の自首」(『法月綸太郎の消息』〈講談社文庫〉収録)などの作品名を挙げ、その系譜を辿っています(作品名が多いので、全貌を見たい方はぜひ著者のTwitterを見に行ってください)。こうしたテーマを思い付いた際、系譜を丁寧にひもといていくのが作者の強みですし、それら先行作に勝るとも劣らない、「本来あり得ない事態」を成立させるための捻りが効いた短編になっていたと思います。

     個人的には、北村薫×有栖川有栖「清張の〈傑作短編〉ベスト12」対談にも興味津々。あえて12作、としたのは、『夏樹静子のゴールデン12ダズン』(文春文庫)に引っ掛けてのことなのかと思ったら、冒頭でいきなり違うと分かり、そのセレクトに目をみはりました。読んでいる短編でも、そういう視点からこの短編を選んだのか、と驚かされたり、本当に未読のものを差し出されて恥ずかしくなったり。まだまだ読めるなあ、清張作品。個人的に膝を打ったのは、清張作品のサスペンスを形作っているのは、犯人の〝よせばいいのに〟という行動だという指摘でした。熱にあてられて、持っていない短編集をまた二、三冊買ってしまいました。今読んだものだけから自分が選ぶなら、なんだろう。「遭難」(『黒い画集』〈新潮文庫〉等収録)、「顔」(『なぜ「星図」が開いていたか』〈新潮文庫〉等収録)、「奇妙な被告」(『火神被殺』〈文春文庫〉等収録)、「鴎外の婢」(『鴎外の婢』〈光文社文庫〉等収録)、「カルネアデスの舟板」(『張込み』〈新潮文庫〉等収録)、「黒地の絵」(『黒地の絵』〈新潮文庫〉等収録)になるかなあ。まだまだ読み込みが足りないので、お二人のような刺激のあるセレクトにならない……。

    〇5月の新刊が豊作すぎる

     さて、5月の新刊ですが、「この話は絶対にしておかないと!」という本と、「ここでしておかないとどこでも出来ないぞ!」という本が多く、例によって例のごとく、時評的に全て拾っていきます。駆け足になってしまいますが、ご容赦を。以下は、取り上げる作品のリストです。

    ・皆川愽子『風配図』(河出書房新社)
    ・ヴァシーム・カーン『チョプラ警部の思いがけない相続』(ハーパーコリンズ・ジャパン〈ハーパーBOOKS〉)
    ・アンデシュ・ルースルンド『三年間の陥穽』(ハヤカワ・ミステリ文庫)
    ・早坂吝『しおかぜ市一家殺害事件あるいは迷宮牢の殺人』(光文社)
    ・森川智喜『動くはずのない死体 森川智喜短編集』(光文社)
    ・奥田英朗『コメンテーター』(文藝春秋)

     まずは皆川愽子『風配図』(河出書房新社)を紹介。今なお精力的に新作を発表し、しかもこれほど高い質の作品を書くその筆力に、毎回ただただ頭が下がります。しかも今回は1160年のバルト海が舞台、それも描かれるのは決闘裁判だというのですから、もうたまりません。扱われた国と年代は違いますが、エリック・ジェイガー『最後の決闘裁判』(ハヤカワ文庫NF)というノンフィクションを最近読んで(映画にもなりましたね)、題材への興味が高まっていたのも、小説への没入感を高めた要因かもしれません。皆川愽子の歴史小説がとにかく好きで、『死の泉』はもちろんのこと、『伯林蝋人形館』『聖餐城』などが大好きなのですが、今作はその中でもかなり短めの作品ながら(本文が270ページまで)、その読み応えは過去の名作に匹敵するものとなっています。今回の最大の趣向は、詩歌や戯曲形式を交えて描いているところで、小説部分は濃密な描写にゆったりと浸かり、戯曲になると生き生きと物語が駆動するように感じられるという、独特の読書体験がデザインされていると思います。だからこそ、小説も、詩歌も、戯曲も、どの部分を読んでもそれぞれの読み心地があり、楽しく、どっぷりと浸れる作品になっているのではないかと思うのです。15歳の少女でありながら、決闘裁判に挑む少女・ヘルガの書きぶりも力強く、素晴らしいですが、彼女の身を案じる12歳の義妹・アグネの造形も良い……。帯に「新たな代表作、誕生。」とありますが、その看板に偽りなし、だと思います。

     ヴァシーム・カーン『チョプラ警部の思いがけない相続』(ハーパーコリンズ・ジャパン〈ハーパーBOOKS〉)は、退職の日に伯父から「子象」ガネーシャを相続した警部アシュウィン・チョプラの奮闘を描くミステリー。この子象が、信じられないほどかわいい(笑)。大都市ムンバイを元警部と子象が駆けずり回りながら、事故として放置されていた少年の水死体の事件を追いかけるのですが、子象を連れているがゆえにどこでも注目の的。私のお気に入りは、象と一緒にエスカレーターに乗ろうとするシーンですね。楽しみ方としては、赤川次郎の〈三毛猫ホームズ〉シリーズや、辻真先の〈迷犬ルパン〉シリーズに近いものがあると思います。可愛い動物に癒されながら、コミカルな捜査行を楽しむという点で。ちなみにこのシリーズ、「訳者あとがき」によれば〈ベィビー・ガネーシャ探偵事務所〉シリーズというようで、長編第二作では呪われたダイヤ「コ・イ・ヌール」が題材になるらしいので、こちらもぜひ読んでみたいところ。ところでこの作者、CWAヒストリカル・ダガー賞を受賞した『帝国の亡霊、そして殺人』(ハヤカワ・ポケット・ミステリ)も今年2月に邦訳されており、こちらは1949年を舞台に、未だ女性への偏見の激しいインドで奮闘するインド初の女性刑事ペルシス・ワディアと、ロンドン警視庁付き犯罪学者、アーチー・ブラックフィンチとのコンビの活躍を描いており、こちらも象ではないながら(笑)、アーチ―のキャラがめちゃくちゃ立っていて痛快でした。謎解きミステリーとしては『帝国の亡霊、そして殺人』の方が、一枚上手だった、かな。

     アンデシュ・ルースルンド『三年間の陥穽』(ハヤカワ・ミステリ文庫)は著者の代表シリーズである〈グレーンス警部〉シリーズの最新作。『三秒間の死角』以降、潜入捜査官ピート・ホフマンとのW主演となっているこのシリーズですが、前作で「もう潜入捜査しない/させない」という誓いを立てたはずの二人が、またしても卑劣な犯罪を前にしてタッグを組むことになります(前作『三日間の隔絶』については第39回で紹介しています。前々作『三時間の導線』も第17回に言及あり)。タッグどころか、今回はIT専門家のビエテを加えてトリオという感もあり(ほかにITの天才青年もいる)、潜入捜査とその役割分担が決まる瞬間の物語の躍動感はひときわ素晴らしいものになっています。『ボックス21』では人身売買、『地下道の少女』ではストリートチルドレンと、ミステリーの枠組みを用いて社会問題を抉ってきた作者が今回選んだ題材は、小児性愛者による虐待という卑劣な犯罪です。冒頭でグレーンスは、ある女性から娘の墓地に眠る「空の棺」の話を聞かされます。娘は失踪してしまい、失踪期間三年の時点で、行方不明者が死亡した可能性が高いと判断され、「親族の苦しみに配慮して」死亡とみなされたのです。葬儀は開かれましたが、死体も見つからないので、空の棺だけが墓に収められた。いなくなった子供を巡るこの悲惨な哀話がグレーンスの原動力となり、卑劣な犯罪者への対決に向かわせるわけですが、全編に漲る怒りが圧倒的なリーダビリティーを生み出していると言えるでしょう。ですが、今回はさすがに胸の悪くなる事件で、あまりにも卑劣な犯罪のありさまに気分が悪くなったのも事実。ルースルンドの筆は容赦がない。それでも毎回、この卑劣さから目を逸らしてはいけないと思わせるのは、カリン・スローターと同じように、ただ重苦しいだけでなく、スリラー小説としても圧倒的に面白いからでしょう。ツイストにより物語を駆動する巧さは健在ですが、謎解きミステリーとしての完成度は『三日間の隔絶』に譲るかなあ。読み物としての面白さは、前作に匹敵するかと思いますが。

     早坂吝『しおかぜ市一家殺害事件あるいは迷宮牢の殺人』(光文社)は、常に挑発的な趣向で読者を魅了してくれる作者の最新作です。今回は、「しおかぜ市一家殺害事件」という迷宮入り凶悪事件の顛末を描いたパートと、「六つの迷宮入り凶悪事件の犯人が集められ、殺し合いをさせられる」という事件が描かれる「迷宮牢の殺人」パートの二つが描かれ、これらがどう交錯するかが見所になります。帯に掲載された有栖川有栖によるコメントには、アガサ・クリスティ『そして誰もいなくなった』高見広春『バトル・ロワイアル』の名前が挙げられており、特に後者は、作中にもその名台詞が登場するほどですが、私がこの「殺人ゲーム」の設定を見て思い出したのは米澤穂信『インシテミル』でした。「迷宮牢の殺人」では、「六つの迷宮入り凶悪事件、その犯人の部屋それぞれに、その事件に対応した凶器が用意されている」という設定が使われていますが、『インシテミル』でもデスゲームに巻き込まれた各人の部屋に凶器が分配される設定になっていたからです。また、冒頭に掲示された「迷宮牢」の図面を見て、綾辻行人『迷路館の殺人』を思い出す方もいるでしょう。こうした先行作の数々をほのめかしてマニアをニヤリとさせながら、オマージュしつつ、別の使い方をしてみせる試みの一つ一つが刺激的な一作です。〈上木らいち〉シリーズはもちろんですが、光文社の早坂作品は『アリス・ザ・ワンダーキラー 少女探偵殺人事件』『殺人犯 対 殺人鬼』(いずれも光文社文庫)など、一作ごとに全然違うことをやっていて、すごく好きですね。

     森川智喜『動くはずのない死体 森川智喜短編集』(光文社)は、トリッキーでどこかリリカルな設定を書かせたら右に出る者はいない森川智喜による最新短編集。ジャーロ掲載の短編四本に、書き下ろしの短編「ロックトルーム・ブギーマン」を合わせた全五編です。ジャーロ掲載作の中では、兄が書いた犯人当ての「解決編」の原稿にコーヒーをぶっかけてしまい(!)、なんとか修復作業を試みるも、虫食いのようになってしまった原稿を、クロスワードパズルのように解いていく論理の曲芸が楽しめる「フーダニット・リセプション 名探偵粍島桁郎みりしまけたろう、虫に食われる」が大のお気に入り。あまりにもしんどい設定とトリックなので、成立させるのに自分なら立ち止まりそうな長編『スノーホワイト』『一つ屋根の下の探偵たち』(いずれも講談社文庫)や、「なぜなら雨が降ったから」という言葉で推理の決め手(出発点?)を統一しながら五つのバリエーションを見せる短編集『なぜなら雨が降ったから』(講談社)などのように、森川作品を読むと「脳が開かれる」というか、「こういうシチュエーションがあり得たか!」と唸ってしまうところがあって、その感覚が何物にも代え難いと思っています。そういう意味では書き下ろしの「ロックトルーム・ブギーマン」も凄い。犯人も探偵役の警察官も「ブギーマン」であり、地球の裏側にさえも(!)テレポーテーションが出来るという設定下で密室殺人が起こるのですが、本来なら絶対に論理的に解を絞り切れない状況を、ロジックでねじ伏せる剛腕が凄い。

    〇私を作った作家・その1

     さて、5月の新刊からはなんといっても、奥田英朗『コメンテーター』(文藝春秋)の話をしないわけにはいかないのです。〈精神科医・伊良部一郎〉シリーズの第四作、前作から17年ぶりの最新刊です。

     中学生の頃から、奥田英朗の作品が大好きでした。最初に読んだのは講談社文庫の『最悪』だったでしょうか。パンチの効いたタイトルに惹かれ、さらには当時背伸びして、馳星周や楡周平を読み始めていた時期だったので、あらすじの「犯罪小説」という言葉に吸い寄せられたと記憶しています。読んでみれば、600ページの厚さなど気にならないぐらいの一気読みで、それからは『ウランバーナの森』から順番に次々と読破していって、作風の広さに目を回したのでした。そして、そのどれもが魅力的で、読んでも読んでも飽きることがなかったのです。初めて自分のお小遣いで買った奥田作品は、中学2年生の時、2008年の『オリンピックの身代金』だったでしょうか(それまでは親に買ってもらったり、学校の図書室で借りたりという感じです)。

     その中でもとりわけハマったのが、『イン・ザ・プール』に始まる〈精神科医・伊良部一郎〉シリーズでした。名医なのかヤブ医者なのか分からない、天然ボケ全開の精神科医伊良部の姿に、患者も読者も、いつの間にか心をほぐされてしまう。リアルでありながらもファンタジックな読み心地に夢中になりました。しかも、伊良部だけでなく、各短編で(基本は)一回限り登場する患者たち一人一人も血肉を持って描かれていて、何度読んでも発見があったのです。特に、私が読んでいて惹かれたのは、患者の一人一人は確かにクセが強いし、気の滅入るような言動もしたりするけれども、あくまでも、真面目に生き過ぎるあまり、そうなってしまうという心理が克明に描かれていたからです。真面目過ぎるゆえに、この現代で生きづらくなってしまう。その孤独を掬い上げるファンタジックな筆さばきに、何より魅了されたのでした。

     当時一番感情移入したのは、ケータイ依存症の高校生を描いた「フレンズ」(『イン・ザ・プール』収録)でしょうか。あまりケータイを使いこなすタイプではなかったので、依存性そのものに感情移入したというよりは、友人たちとの距離感に悩む心理描写が沁みたのでしょう。子供心には、サーカスの空中ブランコ乗りを描いた「空中ブランコ」(『空中ブランコ』収録)もラストシーンがキラキラして映りましたし、同じ題材を前に書いていないかと気になりだすと、強迫症状に駆られて確認作業に明け暮れ嘔吐を繰り返す「女流作家」(『空中ブランコ』収録)は、産みの苦しみと喜びを凝縮したような作品で、今でも愛している一編です。

     そんな私にとって、〈伊良部〉シリーズ関連で一番衝撃だったのは、2009年、ノイタミナ枠で始まった全11話のアニメ「空中ブランコ」でした。当時刊行されていた3冊の作品集『イン・ザ・プール』『空中ブランコ』『町長選挙』を原作にして、原作ではバラバラの時期に起こっている各患者の相談を、12月16日から12月24日までの9日間の物語に再構成し直すという大胆な構成でした(結果的に、原作ではいつも閑古鳥が鳴いているように見える伊良部一郎の神経科が、アニメでは、短い時間軸の中で11人の登場人物が交錯しており、大繁盛しているということに。実写映画の「イン・ザ・プール」でも、5つの短編の事件を並行させていましたが、これは10編分、11人なのでそれ以上ということになります。しかも実写映画より数段緻密)。

     何よりも衝撃だったのは画作りでした。原色中心のポップな色遣い、声優の実写まで取り入れたアニメーション、突然画面にドリルで穴を開けて出て来てメンタルヘルスの現場から作品と現実の違いなどを教えてくれるアナウンサー(福井っち!)、熊の着ぐるみ・青年・少年と三パターン用意され自在に姿を変える伊良部一郎(!)などなど……。原作では「伊良部の趣味」として処理されるのみの「ビタミン注射」を打つと、患者がその症状を象徴する動物に姿を変える、なんて仕掛けまであって、こうした「何から何までがどうかしている」画作りに、もう夢中になってしまったわけです。おまけに、原作への愛が凄まじく深い。原作の良さを十全に活かしながら、セリフを一つスッと追加することで、キャラクターの造形をさらに深めていたりするのです(例えば、イップスのプロ野球選手を描いた「ホットコーナー」〈『空中ブランコ』収録〉を映像化した第4話では主人公の坂東とルーキー鈴木のタクシーでの会話が追加され、坂東役の声優・浪川大輔の優しく、絞り出すような一言が胸に沁みるし、先端恐怖症のヤクザを描いた「ハリネズミ」〈『空中ブランコ』収録〉を映像化した第7話では、夫婦の会話が最後に少し足されていて、それが実に温かい余韻をもたらしてくれます)。第10話の原作である「オーナー」(『町長選挙』収録)は、映像ならではの仕掛け(トリック、というには少し飛躍があるネタですが)が追加されて、忘れ難い余韻を残す作品にもなっています。全体的にも、個々の登場人物やアイテムが少しずつ交錯し、次第に9日間の全貌が明らかになっていくような作りになっていて、ミステリーファンとしての心理も満足させられる強度と内容だったのです。

     そして、何がすごいって、最終話である第11話「カナリア」です。『イン・ザ・プール』に収録されている先述の「フレンズ」は、第6話でアニメになっているのですが、第11話ではアニメオリジナルのエピソードとして、この第6話のケータイ依存症の高校生の父親である、伊良部総合病院の救命救急医のエピソードが描かれます(私見ですが、アニメ「空中ブランコ」がクリスマスの約一週間の物語として構成されたのは、放送が2009年10月で、最終話放映が12月24日だったという事情ももちろんあると思いますが、何よりも、この「フレンズ」を主軸に据えたからではないかと思います。「フレンズ」は原作でもクリスマス・ストーリーであり、「メリークリスマス」の言葉が印象的に響く逸品です)。この「カナリア」では、炭鉱にガスが溜まっていないか調べるために、真っ先に炭鉱の中に入り死んでいったカナリアのエピソードを交えながら、周りの何かがちょっとおかしくなった時に、誰よりも先に知らせてくれるカナリアの声に、我々は気が付かなきゃいけない、という強く、温かいメッセージが響きます。そしてカナリアを、「英雄」になぞらえるのです。

     これは、真面目に生き過ぎているがゆえに、様々な悩みを抱えてしまう〈精神科医・伊良部一郎〉シリーズの患者たち全てに宛てたメッセージだと言えるでしょう。アニメオリジナルのエピソードでありながら、原作に通底する主題を掬い上げた見事なものになっているのです。今でもたまに、この「カナリア」のラスト10分を見直すほどです。心の中に消えかけた暖かな灯を、もう一度灯しにいくために。

     さて、前置きが長くなりました。なぜ、奥田作品への思いだけでなく、アニメの話まであえて経由したのか――それは、この「カナリア」の話を通じて、最新作『コメンテーター』を読んでいきたいからです。なぜなら、現在進行形で、我々の世界がおかしくなってしまった「時」、つまりコロナ禍の話を、〈精神科医・伊良部一郎〉のフィルターを通して描いたのが、表題作「コメンテーター」という作品なのですから。

    〇最新作『コメンテーター』について

     さて、最新作『コメンテーター』ですが、収録作五編中、四編が2021年以降に書かれた短編であり、三編目の「うっかり億万長者」だけが2007年の発表です。作中に登場するアイテムこそ現代のものにあらためられていますが、この短編からは『町長選挙』の頃の雰囲気を感じ取れますし、今にも通じる密度で、ある種の人たちに襲い掛かる孤独を描出しているところは唸らされます。

     二編目「ラジオ体操第2」については、第51回の雑誌短編特集回で取り上げていますが、これはアンガーマネジメントを主題に、「適切に怒れない」人の悩みを描いて見せるのが出色の一編です。この短編には、「ハリネズミ」(『空中ブランコ』収録)に登場した元・先端恐怖症のヤクザ、猪野が再登場するのが嬉しいところ。彼のセリフに「先生を信じな。先生と一緒に遊んでもらっているうちに、神経症は治るんだよ。おれもそうだった。(後略)」(同書、p.93)とあり、このシリーズの本質を突いた言葉であると思いますし、「遊んで」という言葉選びが猪野らしくてニヤリとします。また、「適切に怒れない」という主題自体は、実は陰茎強直症を扱った「勃ちっ放し」(『イン・ザ・プール』収録)でも扱っているのですが、解決方法がまるで違うのにも注目です(なお、「勃ちっ放し」をアニメ化した先述のアニメ2話の解決方法もまた違ったアプローチで面白いことを、付言しておきます)。「勃ちっ放し」の解決がファルスの手法であったとするなら、「ラジオ体操第2」は、現代の隙間に覗いたファンタジーの軽やかさ、というべきでしょう。ラストシーンが鮮烈で、何度読んでも笑ってしまって、でも、涙腺が自然に緩んでしまうのです。

     四編目「ピアノ・レッスン」は広場恐怖症に患わされるピアニストの話。表現者の苦悩と、真面目過ぎるが故の堂々巡りを描かせると、もう右に出る者はいないですし、このラストシーンがとても暖かい。五編目「パレード」はコミュニケーションがうまく取れない大学生――それも、コロナ禍における大学生活を描いた一編になっていて、これが実に沁みる。中学生の男の子と一緒に「治療」されることになるわけですが、この中学生の男の子の描写もキューッと胸を締め付けられてしまいますし、二人が少しずつ歩み寄っていく心理描写の重ね方も見事です。

     そして、あえて最後に回した表題作、「コメンテーター」。この短編も、他の短編と同じように、一つの症例があり、一人の患者がいるわけですが、それ以上に、「この短編で治療されているのは私たち全員、なんなら全国民なんじゃないか」――そんな風に思わせるような作品なのです。ワイドショーのコメンテーターとして精神科医を呼べ。そう命令されたテレビマンの畑山圭介は、本来は伊良部を呼ぶはずじゃなかったのに、伊良部を出演させることになってしまう――この発端だけでもう、抱腹絶倒なわけですが、伊良部の奇天烈な言動を知っている往年の読者たちは、「おいおい、そんなの大丈夫なのか!?」と不安になることでしょう。そしてその不安は、裏切られません。コロナウイルスについても臆せず、いつも通りの子供のように自由な発想で回答し、スタッフをざわつかせ、世間を騒がせる。ですが、ふとその発言を読み直してみれば、あれ、案外まともなこと言っているかも、と思わせるのです。私たちが真面目過ぎて、しがらみにとらわれて、だから言えなかったことを、この人は自由に口にしてしまうのかも。こうした匙加減が絶妙で、しかも、シリーズファンにとっては実に嬉しい、シリーズキャラクターの「看護師・マユミちゃん」大活躍回でもあるのです。

     近年、奥田英朗がコロナを描いたもう一つの短編として、「コロナと潜水服」(『コロナと潜水服』収録)が挙げられます。これは「小説宝石」2020年7月号が初出であり、「オール讀物」2021年9・10月号が初出である「コメンテーター」に1年以上先駆けて発表されたものになります。もちろん、コロナを巡る情勢も、その約1年の間でさえ変化があったわけですが、この二編はいずれも、「日常に覗くファンタジー」を交えながら、コロナを描いた点で共通しています。「コロナと潜水服」は、五歳の息子がおばあちゃんに「今日は出掛けないで」と言った直後、おばあちゃんが参加するはずだったコーラス・サークルでクラスターが発生する……というシーンから始まります。こうした様々な出来事から「息子には新型コロナウイルスを感知する能力があるのでは?」と思い始めるという一編。ここには精神疾患の主題こそありませんが、この息子が上げる声は〈伊良部〉シリーズのそれとは違った意味で、「カナリア」の鳴き声であると言えないでしょうか。周りの異変を察知して、知らせる英雄。それこそが、窮屈な日常に風穴を開けて、一瞬のファンタジーを覗かせる、奥田英朗流の幻想の面白さなのではないでしょうか。

     対して「コメンテーター」では、ワイドショーの視聴者もスタッフたちも、自分たちが上げる「カナリア」の声に気付けないという状況でしょう。だからこそ、自由に振る舞い、後先なんて考えない伊良部の言動に、みんな心をほぐされて、いつの間にか、自分たちの声を聞けるようになる。苦しくて、窮屈だったこと、それを言えずにいたこと。決して、みんながみんな、それを爆発させて救われるのではない(だから、この小説は良い)。でも、いつの間にかほぐれて、自分の声が聞こえるようになっている。周りの声が聞こえるようになっている。

     だからこそ、私はこの「コメンテーター」の、ラストが大好きなのです。視点人物である圭介が、あることに気付いて、他人の「声」が「聞こえるようになって」、見事に小説が着地する。その瞬間、心にぽうっと灯が灯る。そして、ああ、この灯の暖かさが、伊良部一郎の魅力だったなと思い出すのです。

     しんどい時にまた来てくれて、ありがとう、伊良部先生。そう感謝しながら、私はそっと本を閉じるのでした。

    (2023年6月)

第57回2023.05.26
古典の効用 ~今を忘れ、今を想う~

  • 時計泥棒と悪人たち、書影

    夕木春央
    『時計泥棒と悪人たち』
    (講談社)

  • 〇このたびめでたく……

     なんと、この連載「阿津川辰海 読書日記」を本にまとめた『阿津川辰海 読書日記 かくしてミステリー作家は語る《新鋭奮闘編》』(光文社)が、「第23回本格ミステリ大賞 評論・研究部門」を受賞しました! 毎度毎度、好きな本の話を早口でまくし立てるのに、付き合っていただいて本当にありがとうございます。皆様の応援のおかげです。これからも「今日もミステリーが面白い!」を伝え続けて行こうと思います。

     ところで「第23回本格ミステリ大賞 小説部門」は白井智之の『名探偵のいけにえ 人民教会殺人事件』(新潮社)が受賞ですよ! おめでとうございます! 私はこの読書日記の第47回で、『名探偵のいけにえ』の話をしていますので、どんな作品なんだろう? と思った方は参考にしてみてください。めちゃくちゃ面白いですよ。本格ミステリーの感動ってなんだろう、と悩んだ時に、立ち返る一作になるんじゃないかと思います。本格ミステリーとは、この密度、この緻密さ、この熱量なのだと。第40回でも白井智之『そして誰も死ななかった』を取り上げていますし、どんだけ白井作品が好きなんだ私は。

    〇最近のお仕事情報

     さて、賞の話はそれくらいにして、最新刊の情報です。D・M・ディヴァイン愛好家の皆様! 長い長い旅がようやく終わりますよ。今月、D・M・ディヴァイン『すり替えられた誘拐』(創元推理文庫)が刊行されます。ディヴァイン最後の未訳作です。ついにここまで来たんですねえ、と感慨深い。私も第16回で前の邦訳作『運命の証人』刊行に合わせて、D・M・ディヴァインの全作レビューを勝手に行ってしまったほど、この作家のことが好きなのですが……あのレビューが担当の方の目に留まったようで、なんと『すり替えられた誘拐』の解説案件をいただきました。ありがとうございます! この小説、似たような要素がたびたび頻出するディヴァインの中でも、かなり特殊な位置づけの一作となっています。こういう一冊の解説を任された、というプレッシャーもあって、解説にはかなり力が入っています。なぜディヴァインがこういう作品を書いたのか、という点にアプローチしてみましたので、本編と合わせて楽しんでください。なお、邦題が拙作『録音された誘拐』と響きが似ているのは、私が提案したわけではもちろんないですし、編集さんも偶然つけたということでした。そんなことあります?(嬉しい笑み)

    〇今回も雑誌の話題を少し

    「メフィスト」VOL.7には、有栖川有栖の連載「日本扇にほんおうぎの謎」の第一回が掲載されました。エラリー・クイーンに挑戦する〈有栖川版国名〉シリーズの最新作ですが、今回はタイトルからして捻りが効いていて、冒頭からいきなり、このタイトルとクイーンとのかかわり、このタイトルから妄想出来るいくつかのストーリーを「作家アリス」の視点から書いていくので、マニア心をくすぐられます。事件そのものはまだまだ捉えどころがない状況で、それだけに引き込まれます。楽しみな連載が増えました。

     今号には「読み切り短編」二編と読者参加型謎解き企画〈推理の時間です〉二編が掲載されていて、四つも短編が読めたのも嬉しい限り。「読み切り短編」は、ウィスキーを題材にしたシャープな謎解きミステリーである周木律しゅうき・りつ「ウエアハウスの殺人 時と天使の館」と、引きこもりの高校生が不登校訪問カウンセラーから渡された「先生あのね」ノートが思わぬ展開を呼ぶクライム・ストーリーの良作、真下みこと「先生あのね」の二編。〈推理の時間です〉は、読者参加型の推理企画で、フー、ハウ、ホワイの問題編計六編を二人ずつ執筆し、解答編をメフィスト・リーダーズ・クラブのホームページで掲載するもの。フーは「メフィスト」VOL.6で、法月綸太郎と方丈貴恵が挑戦しましたが、今回は「挑戦状付きホワイダニット」に、我孫子武丸と田中啓文の二人が挑戦。我孫子武丸「幼すぎる目撃者」田中啓文「ペリーの墓」(こういう時も歴史ミステリーなのが作者らしい)。二人が挑戦状の中で述べている通り、ホワイダニットに挑戦状を付けるのは相当な難事だと思うのですが、問題編の時点で、二人のアプローチが全く違う気がして面白い体験でした。多分解いたと思う……けど。

    〇4月って……

     今年の4月は読書ニュースが目白押しだった気がします。本屋大賞の発表月だったのもそうですが、村上春樹が6年ぶりの新刊『街とその不確かな壁』(新潮社)を発表したのもあって、その名を書店で見ない日はなかったほど(ちなみに、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』が結局一番好きな私にとっては、格好の贈り物とも言える一冊で、そういう意味ではかなり楽しく読みました)。新生活が始まる時期というのもあって、毎日バタバタしていて、原稿も波のように押し寄せてきて、その結果……。

     限・界・だーッ!

     やってきました、早すぎる五月病。スイッチがバッツン切れて、急に気力がなくなったようになってしまい、色々身が入らず参りました。こうなってしまっては、出来ることは一つだけです。

     本を読みましょう。それも、古い本を。

     そんなわけで、カバンにF・W・クロフツ『黄金の灰』(創元推理文庫)を突っ込み、行きつけの喫茶店へ。カウンター席にロッキングチェアを置き、キンキンに冷えた水出しアイスコーヒーを提供してくれる店です。ここで本を読んで、ロッキングチェアに揺られていれば、現実を忘れられるというもの。それも、現代や自分と一ミリも関係のない古典ミステリーであれば、その効果もひとしおです。これを私は「古典の効用」と呼んでいます。エラリー・クイーン、アガサ・クリスティー、ジョン・ディクスン・カー(カーター・ディクスン)、ドロシー・L・セイヤーズあたりの作品は読み尽くしてしまったので、今ではクロフツを大切に一冊ずつ読んでいます。ちなみに鮎川哲也はもう全長編読んでしまいました。なんてもったいないことをしたのか。

     クロフツがこういう気分の時にうってつけなのは、クロフツの小説がひたすらに、現実を踏みしめて歩く小説だからです。しかも、歩くのは、現代日本人の自分とは一つも関係がない、昔の外国の風景です。これがとにかくデトックスになる。普段は浴びるほど新刊を読まないと落ち着かない私も、たまに、全部忘れてこういう作品に浸りたい気分の日が来ます。今がそれです。

     さて、この『黄金の灰』ですが、お世辞にもクロフツの中ではAランクに属さないというか、よくてBランクぐらいの作品なのですが、カーも鮎川哲也も、結局、やり口に慣れた時のBランク作品の方が、世間でAと言われている作品よりよっぽど面白いという時があります。これは、読者として最初に手に取るのは、みんなの薦めを聞いてAランクなんだけれども、体が慣れてきて、ようやくテンポが掴めて楽しくなるのは、Bランクの作品の山を崩す時だから、ですね。クロフツに限定して、私の体験を話すと、中学生の時、世評に惹かれて『樽』『クロイドン発12時30分』を手に取った時は全然楽しめなくて、高校の時、ふと気になって『二つの密室』を手に取ったら、今度はあまりにも面白くて一気読みしてしまったのです。

    『二つの密室』はタイトル通り密室殺人の話なのですが、まだアリバイものに慣れていない頃だったので、密室ものを通してフレンチ警部の捜査手法を理解できたことが、自分の中の「好き」を一気に高めたのでしょう。密室の中でガスを吸って死ぬ、という変死事件の謎を扱った作品ですが、このガス管の構造までフレンチ警部が調べて(図面も入っていた記憶があります)、しらみつぶしに可能性を検討していくので、不可能興味を否応なしにそそられるようになっているのです。密室ものの面白さは、可能性の検討によって高まるよな、と私が発見した作品でもあります(鮎川哲也の「赤い密室」も、トリックそのものより、可能性の検討や推理の面白さを追及した作品に思えます。アリバイ崩しが得意な作家は、実は密室も得意?)。この『二つの密室』をはじめ、ガスを使ったミステリーには傑作が多いと思います(日影丈吉『女の家』、ロナルド・A・ノックス『三つの栓』、飛鳥高「こわい眠り」〈『飛鳥高名作選 犯罪の場―本格ミステリコレクション〈1〉』(河出文庫)などに収録〉、大山誠一郎「彼女がペイシェンスを殺すはずがない」〈新・本格推理〈03〉 りら荘の相続人(光文社文庫)などに収録、単著未収録〉……)。これは、なんででしょうね。ガス管の構造を調べる過程や、現場に残っていたはずのガスの量を定量的に分析するパートなんかがある作品が多く、理屈的で攻めてくれるからでしょうか。ちなみにクロフツは、密室+ガスによる中毒死という謎を『シグニット号の死』でも扱っています。

     閑話休題。一方今回読んだ『黄金の灰』はクロフツの中ではBランクぐらいで、強く薦められない作品だとは思います。ですが、個人的には大いに楽しめた一冊でした。本書は二部構成の物語。屋敷と絵画を相続したサー・ジェフリーの家政婦となったベチーという女性の視点から描かれるのが第一部、ジェフリーの屋敷が全焼し、彼の家の絵画を鑑定した画家が行方不明になった事件を調べるフレンチの捜査を描くのが第二部。第一部のような、市井の人々から貴族の人々の生活を覗いていく筆致も良いですし、ここでの描写によって半ば読者には犯人が分かっている状態で、一転フレンチに視点を切り替えて、じっくりと犯人を追い詰めて、そのアリバイを崩して行く捜査の安心感も良い。フレンチがいつも通り歩き回っていたから楽しかったなあ。

     コーヒーも二杯飲んで、すっかり長居してしまいましたが、リフレッシュ効果は絶大。クロフツはこれからも、大事に一冊ずつ読んでいくことにします。

    〇夕木流大正ミステリー、待望の最新刊!

     さて、4月の忙しさにあてられて、そんな気分になっていたから――ではないのですが、現実を忘れたい時にうってつけの、嬉しい新刊が出たので紹介します。夕木春央『時計泥棒と悪人たち』(講談社)がそれです。

     作者については、昨年刊行された『方舟』(講談社)がミステリーランキングを席巻、本屋大賞にもノミネートされ、こちらは現代を舞台にした作品でした。もともと、デビュー長編と第二長編は、今回の新刊と同じく大正ミステリーで、現代ものでブレイクしたからそっちにいくのかなとも思っていたので、「時代物もまた読ませてくれるんだ!」と嬉しい限りです(著者の作品で現代を舞台にしたものは、『方舟』と、現状発表されている3編の短編小説、「墓穴」〈「メフィスト」VOL.4〉、「八月六日の生放送」〈「小説現代」2022年8月号〉、「今際の際の断崖から」〈「紙魚の手帖」vol.9〉のみです。短編はいずれもトリッキーな構成が光るものになっていて、特に墜落中の被害者の視点から事件を推理する「今際の際の~」がオススメ)。

     そもそも私は『絞首商會』(講談社文庫)が刊行された時から、知り合いの作家や編集者の前では、夕木春央がすごいと大はしゃぎしていた人間なので、『方舟』の推薦コメントを依頼され、ゲラで読んでもやはり面白く、大いに売れた時には「そうだろうそうだろう」と勝手に悦に入っていたのです。だからこそ、「作者の大正ものも読まれて欲しい!」という思いが膨れ上がっていたのでした。

     夕木大正ミステリー(と、ここであえて呼んでみますが)の良さは、大正時代のロマンや雰囲気を味わいつつ、現代ミステリー並みのロジックとトリックの強度を味わうことが出来る、その贅沢な読み心地だと思います。現代から切り離された時と空間で、現代にも通じるものを感得出来る、これこそ、日々の忙しさに目を回して、一息つきたかった私が、一番求めていたものかもしれません。クロフツを読んだ時に感じた「古典の効用」と同じ雰囲気を感じさせつつ、それ以上の満足感を与えてくれる、というべきでしょうか。

     大正時代はいわゆる本格ミステリーの型がまだまだ未発達で、この時代を舞台にした後世の作品も多くないので(江戸時代や明治時代のものはたくさんあるのに)、大正時代を舞台に、現代ばりの本格ミステリーを仕掛けてくれるというだけで、無暗に嬉しくなるのです。なぜ大正時代を舞台に本格ミステリーを書くかについては、作者が第二長編『サーカスから来た執達吏』(講談社)を刊行した際のtreeエッセイ(下記URL)にて語っているので、参照してみてください。江戸川乱歩、夢野久作、横溝正史、高木彬光、山田風太郎らの名前が挙がり、特に山田風太郎『妖異金瓶梅』『明治断頭台』の名前が挙がっているのに大いに納得させられました。山田風太郎のこの二作はまさに、それぞれ宋の時代の中国と明治を舞台にして、その時代ならではの風俗やロマンを取り入れながら、当時は存在しなかったレベルのロジックとトリックを構成し尽くした作品で、夕木大正ミステリーの美点と重なる作品だからです。特にもう、『妖異金瓶梅』のアイデア量がすごすぎて、何度読み返したことか。
    https://tree-novel.com/works/episode/900ae183954ba9cb1a9980826ebd6f3d.html

     今回の新刊『時計泥棒と悪人たち』は、第60回メフィスト賞を受賞したデビュー作『絞首商會』で活躍した探偵コンビ、油絵画家の井口と泥棒に転職した蓮野の前日譚を描いたものになります。全6編、合計524ページの分厚い本ですが、前日譚、しかも短編で、夕木ミステリーの真骨頂である「逆説」のエッセンスを凝縮して味わえるので、入門編にもうってつけの一冊と言えるでしょう。『方舟』で作者を知り、これから大正ものを読む、という方にとっては、『時計泥棒と悪人たち』→『絞首商會』と、刊行順では遡る順序で読むのも大いにアリではないでしょうか。

    加右衛門かえもん氏の美術館」では、井口の絵を買った美術蒐集家を巡る奇妙な顛末が描かれ、「悪人一家の密室」では、密室殺人に隠された意外な逆説に膝を打ちます。前後編とも言える「誘拐と大雪 誘拐の章」「誘拐と大雪 大雪の章」は、そのものずばり誘拐ミステリーの作品ですが、冒頭から早々に、誘拐と〇〇犯罪を組み合わせる取り合わせの妙にニヤリ。これ、十数年前にある国内作家が実現させているんですが、まだまだやりようがあると思っていたのです(著者がその作例を知ってか知らずか、まるで違う見せ方になっています。先例の方は書くとネタバレになるので伏せておきます)。

    晴海はるみ氏の外国手紙」は、これまでのどの夕木作品にもない雰囲気で、新たな扉を開けたと感じさせるホワイダニットの一編ですし、「宝石泥棒と置時計」は、「困難は分割せよ」という格言を地で行くようなハウダニットの手法に驚かされました。連作としての余韻も十分。個人的な偏愛作は、大正時代を舞台にした船上ミステリーの作品でありながら、異様な舞台装置を用いたフーダニットが味わえる「光川丸みつかわまるの妖しい晩餐ばんさん」です。

     以上、全六編。短編集というには骨太の分厚さと分量ですが、その分、大いに味わい尽くせる一冊でした。ぜひ、大正時代のロマンにどっぷり浸かる準備をして、読んでみてください。

     さて、ここで終わってもいいのですが、せっかく夕木大正ミステリーの話を始めたので、残り二作品も軽く紹介しておきましょう。

    『絞首商會』(講談社文庫)

     本書は、冒頭でG・K・チェスタトン『木曜日だった男 一つの悪夢』(光文社古典新訳文庫)が引用されていることからも分かる通り、「秘密結社」ミステリーの貴重な作例になっています。……という冗談はさておき、チェスタトンが引用されていて、逆説をテーマにしていることで、私は一気に夕木作品の虜になったのでした。

     本書は大正九年(1920年)を舞台にしており、ちょうどこの時期はG・K・チェスタトンの活動時期にあたりますが、ブラウン神父ものにひとまず限ると、1914年に第二作品集『ブラウン神父の知恵』を発表、26年に第三作品集『ブラウン神父の不信』を発表するその間は、まさしく「ブラウン神父の不在」期間と言えるのです。そもそも、大正時代(1912~1926年)が、その不在期間にほとんど収まっているわけで……。

     だからこそ、『絞首商會』で、銀行員を退職して泥棒に転身し、口を開けば逆説を吐く蓮野という名探偵を見た時、私はパラレルワールドのブラウン神父に遭遇したような、実に嬉しい驚きを覚えたのでした。なんなら、ブラウン神父の短編の一部で彼の助手を務めるのは、元泥棒のフランボウという男なので、蓮野はブラウンとフランボウを掛け合わせたキャラのように感じて嬉しくなったのです。

     このミステリーで何よりも凄いのは、ただでさえ成立させるのが難しい、容疑者たちの「〇〇合戦」という趣向を、容疑者一人一人に「逆説」を絡めて実現している、その手間暇かかったロジックの仕掛けにあります。読んでいる最中は、事件一つ一つが取り留めなく感じられてしまうほど込み入った状況で、だからこそ、一貫した構図のもとに、全てが裏返っていく解決編の驚きは並大抵のものではありません。これだけ複雑なミステリーなのに、真相の魅力である「核」の部分は、たった一行で言い表すことが出来ると思います。それほど、強力な意志によって作られた構図なのです。とんでもなく手間暇がかかっている。文庫版でも500ページ超えの分厚さなので、読み通すのは大変かもしれませんが、それだけの価値がある良作です。

    『サーカスから来た執達吏』(講談社)

     大正14年を舞台に、その14年前である明治44年に、名家の絹川家で起きた未解決事件に挑む作品ですが、こちらには『絞首商會』『時計泥棒と悪人たち』で登場した蓮野・井口のコンビは登場しません。こちらで主役を務めるのは、樺谷子爵家の三女・鞠子と、彼女の家に借金の取り立てにやって来た、サーカス出身の少女・ユリ子のコンビです。

     この二人組が、実に良い。先ほど、著者のtreeエッセイに言及しながら挙げた作家名と結びつけるなら、江戸川乱歩の〈少年探偵団〉シリーズや、山田風太郎の明治ものにあるような、冒険小説の味わいが『サーカスから来た執達吏』にはあるのです。ユリ子は、樺谷子爵家が作った莫大な借金の「担保」として、鞠子を連れて行くという、それだけ聞くと胃が痛くなるような経緯で登場するのですが、ユリ子はここで、借金を返すための手段として、財宝探しを提案するのです。つまり、作品全体が「宝探し」をテーマにした、少女二人の冒険小説となっているのです。特にもう、状況をぐいぐい引っ張っていって、鞠子の鼻面を引きずり回す、ユリ子の気風の良さが素晴らしく、この子の魅力だけでぐいぐい読んで行けます。冒険小説には絶対欲しいキャラですよねえ。

     もちろん、ミステリー部分にも余念はありません。14年前、絹川家では密室状況から財宝が消えており、その謎解きが、財宝探しへの最大のヒントになる……という設定なのです。宝探しがテーマのミステリーにつきものの、暗号ミステリーの趣向もきっちり用意されています。個人的に、暗号ミステリーは暗号自体がすごいというよりは、「解き筋」が綺麗に描かれているかどうかが好みの分かれ目になるのですが(だから泡坂妻夫の「掘出された童話」〈『亜愛一郎の狼狽』収録〉は好き)、ここに登場する暗号は、図面一発でおおっと納得させられたのもあって、かなり気に入っています。事件の見え方をがらりと変えてしまう、強烈な謎解きも素晴らしく、個人的には、この『サーカスから来た執達吏』が大偏愛作です。

     ということで、『方舟』ももちろん面白いけれど、夕木大正ミステリーもぜひ、という日記でした。

    (2023年5月)

第56回2023.05.12
「老い」を考え、「謎」に痺れる ~「探偵役」の使いどころ~

  • 灰色の家、書影

    深木章子
    『灰色の家』
    (光文社)

  • 〇最近のお仕事情報

     5月、ミシェル・ビュッシ『恐るべき太陽』(集英社文庫)が刊行されます。こちら、解説を担当しました。『彼女のいない飛行機』『黒い睡蓮』『時は殺人者』に続く、ビュッシの邦訳第四弾ですが、今回は……すっごいぞ! 何せ、アガサ・クリスティー『そして誰もいなくなった』への明確なオマージュ作品であり、冒頭近くで作者自身が書名を挙げている通り、もう一冊、クリスティーの「ある名作」に挑戦した一作なのですから。挑発的で、挑戦的。それこそミシェル・ビュッシのミステリーなのです。「トリッキー過ぎてアンフェアすれすれどころか、もはやアンフェアでは?」という域に達していた『黒い睡蓮』さえも凌駕する、どこでも見たことがない仕掛けが炸裂します。どこでも見たことねえし、もう誰もやらねえよ! こんなの! ぜひ。

    〇映画の話題から

     今月は映画の話題から。4月に、ダリオ・アルジェント十年ぶりの新作「ダークグラス」を見てきました。いやー、プロット自体はシンプルなストーカーサスペンスなんですが、変な映画だったなあという感じ(笑)。主人公と中国人少年の心の交流とか結構面白いのですが、申し訳程度のフーダニット要素がなんとも薄味。とはいえ、冒頭の暗示的なシーンや、〇〇に決着をつけさせるところなど、アルジェントらしさは味わえる映画だったので、まあこれはこれで良かったかな、という印象です。映画の公開に合わせて株式会社Pヴァインから「ダリオ・アルジェント『サスペリア』の衝撃」というムック本が出ていまして、新作のクロスレビューだけでなく、アルジェントの過去作のレビューや吉本ばななへのインタビュー、さらには「ジャッロ映画30選」も掲載されていて、楽しい限り。こちらの30選には、未見のものも多かったので、潰して行こうと思います。マリオ・パーヴァの「モデル殺人事件!」と「血みどろの入江」は確かに良い。

     もう一本、4月には「劇場版名探偵コナン 黒鉄の魚影サブマリン」が公開されました。年に一度名探偵コナンを見に行くのは、もうルーティーンですからね。コナンの「黒の組織」が出て来る映画って、根幹の設定に関わる話だけあって、もちろん話は前進しないし、コナンとジンは会わないように作劇されるし、いつも隔靴搔痒の気持ちで見ていたのですが、今年はもう、そんな不満を感じさせないくらいの大満足映画に仕上がっていましたねー。投入されたアイデア量とプロットの捻りが嬉しい限り。眠りの小五郎シーンを映画で久しぶりに見られたっていうのもそうだけど、今年はベッタベタなまでの「お約束」を全部見せてくれた感じがあって、それが楽しかったですね。櫻井武晴脚本の中でも珠玉の完成度だったと思います。ちょっと情報量は多かったですけど、ご愛敬、かな。楽しかったし、もう一回くらい見に行きたい。

    〇老境を見つめる犯罪小説

     北欧ミステリー作家、ヘニング・マンケル最後の作品である『スウェーディッシュ・ブーツ』(東京創元社)が邦訳刊行されました。マンケルは2015年に亡くなっており、まさしくその年に刊行された作品になります。2年前、読書日記の第19回で、〈クルト・ヴァランダー〉シリーズの最終作にしてボーナストラックの位置付けである『手/ヴァランダーの世界』が邦訳刊行された際、同シリーズの全作レビューを試み、その特徴を掘り下げました。同シリーズの完結編にあたる『苦悩する男』を読んだ時も、ヴァランダーの老境を描くマンケルの筆の冴えに感心しきりだったのですが、『スウェーディッシュ・ブーツ』ではさらに深いところまで踏み込んでいます。

     本作は、2019年に邦訳刊行された『イタリアン・シューズ』(2022年に創元推理文庫入り、原書刊行は2006年)の続編にあたる作品ですが、『イタリアン・シューズ』では66歳だった主人公・フレドリックが、その8年後と設定された『スウェーディッシュ・ブーツ』では70歳の想定で登場することから分かる通り、作者は「独立した作品」として発表したようです。なので、前作『イタリアン~』を踏まえて読むとより一層楽しめますが、本作『スウェーディッシュ~』だけ単独で読むのもアリです。

     前作『イタリアン・シューズ』から軽く紹介しておくと、こちらでは、元医師であり、今は誰も寄り付かない小島で孤独に住んでいる男・フレドリックの「巡礼の旅路」が描かれます。つまりロードムービーです。彼のもとを、不治の病に侵された元恋人が訪れた時から、物語は始まります。彼女は、森に広がる美しい湖に連れて行くと言った、あの過去の約束を果たしてほしいとフレドリックに要求し、彼はしぶしぶながら(当初はロマンチックな気分でもなんでもない、というのがフレドリックらしい)島をあとにします。彼が過去と向き合い、進んでいく過程が丹念に描かれた小説ですが、フレドリックが決して人好きのする人物ではないことが、小説に深みを与えています。これは、マンケルの〈クルト・ヴァランダー〉シリーズ一作目である『殺人者の顔』で、主役であるヴァランダーが、等身大の中年男性らしい理不尽な怒り癖や女性への無様なアプローチを繰り出してしまうシーンの描き方と似ていると思っていて、マンケルはもともと、人の「いやな部分」を省かず書くという傾向があるのでしょう。その強みが最大限に発揮されたのが、『イタリアン・シューズ』と言えます。ちなみに、『イタリアン~』は上記のあらすじからも分かる通り、本国では「究極の恋愛小説」とも呼ばれている小説で、いわゆる謎解きミステリーではありません。

     では、『スウェーディッシュ・ブーツ』はどうかというと、こちらは打って変わって、ストレートな謎解きミステリーの構造を使っているように――見えます。フレドリックの家が火事に見舞われてしまい、彼は全てを喪ってしまった……という発端からして衝撃的ですが、さらに、彼は放火の疑いをかけられてしまいます。同じような放火事件が近隣の島で連続して発生していて、犯人の目的は不明……ここまで聞くと、いかにも謎解きミステリーのように思えますし、事実、そのように着地しますが、その道行きはかなり蛇行しています。フレドリックの父を巡る回想が随所に挿入され、事件後に出会ったジャーナリストの女性、リーサ・モディーンへの思いがどんどん膨れ上がって行くので、「老境の恋」を描いた作品でもあるという。どことなく不安定な思いに駆られる読み味の小説ですが、それは、これが失われていくものへの不安を描いた小説であるからなのでしょう。作中で何度も何度も描かれる、老いへの恐怖がまさにそれを表していますし、「失われたもの」を象徴する存在として、タイトルにもある「ブーツ」が巧妙に使われています。

     前作『イタリアン・シューズ』においても、「靴」は象徴的なアイテムとして使われていました。15歳のフレドリックが父と会話する回想のシーンでは、〝父は、ウェイターとオペラ歌手の共通点は、仕事にはちゃんとした靴が必要だと認識していることだというのが口癖だった。〟(同書文庫版16ページ)、〝「お前はもう十五歳だ」父が言った。「将来のことを考えていい年だ。(……)世界を見るのもいいだろう。ただ、靴は絶対にいい靴でなければだめだということを憶えておけ」〟(同17ページ)と、父との思い出を巡る重要なキーアイテムとして靴が登場しますし、冒頭のエピグラフでは荘子の〝靴が足に合うとき、人は足のことを考えない。〟という言葉が引用されています。フレドリックは一歩一歩踏みしめるように物語の終着点へと進んでいくのであり、一方、彼に会いに来るかつての恋人は「歩行器」を使って歩いており、ラストシーンにも、靴が印象的に登場する。このシリーズにおいては「靴」が、ざっくりいうと、人生の歩みの確かさを象徴する存在として登場しているように思えます。

    『スウェーディッシュ・ブーツ』において、ブーツが最初に登場するのは、冒頭の火事で家から焼け出されたフレドリックが、元郵便配達人のヤンソンに、自分のいらなくなったブーツをあげよう、と話しかけられる場面です。フレドリックはこの時、両足に「左足のブーツ」を履いていたのです。つまり、ブーツは冒頭から失われた存在としてあり、しかも、そこにそうした形であること自体が気恥ずかしい存在として登場することになります(ここに老境の恋に関する、フレドリックの気恥ずかしい感情が重ね合わされているように見える……のは深読みかなあ)。そして、最後まで再登場しないのです。このさりげなさが、小説としての芯の強さになっていますし、マンケル、やっぱり小説が巧いなあ、とため息をついてしまう所以です。

     とはいえ、この二作については、まだまだ、読み込みが足りないなあというのが正直なところ。単行本の刊行から4年ぶりに『イタリアン・シューズ』を再読しただけでも、フレドリックという人物の見え方が違い、エピソードの味わいも違ったので、年を経て読み返すごとに、違った色を見せてくれる小説なのではないかと思いました。これはきっと再読するし、〈クルト・ヴァランダー〉シリーズも読み返したい。やはり、マンケル、良いなあ。

    〇トリッキーな推理小説にして、老人ホームを考える小説

     老境を見つめる犯罪小説とでもいうべき『スウェーディッシュ・ブーツ』が出た月に、これまた、老後のことを思わず考え込んでしまう傑作が現れたので、併せてご紹介します。それが深木章子『灰色の家』(光文社)です。

     実は、深木章子の本格ミステリーが好きです。デビュー作であり、島田荘司選第三回ばらのまち福山ミステリー文学新人賞を受賞した『鬼畜の家』(講談社文庫)を読んだ時から、オールドなファンをも満足させる構成の妙と、元弁護士ならではの視点の面白さで引き込まれたのですが、明瞭に、ああ、この人のミステリーは読んでいて楽しいんだな、ということに気付いたのが、『猫には推理がよく似合う』(角川文庫)という長編を読んだ時でした。それまでの作風から考えるとかなりコミカルな作風の作品です(当時は初期作品の印象が先行して、まだ「イヤミス」というパッケージで紹介されていた記憶があります)。「猫」という主題から、仁木悦子『猫は知っていた』イメージと重なったこともあり、深木作品は、構成のトリックはもちろんだけど、仁木作品と同じように、ロジックを味わう小説なんだと思ってから、より一層ハマりました。

     そして、『猫には推理がよく似合う』と同じように、コミカルな読み味で、深木作品の深みに私を引きずり込んだ作品が、『交換殺人はいかが?』(光文社文庫)という短編集でした。なぜこの話をするかというと、『交換殺人はいかが?』と、その続編『消えた断章』(光文社文庫)に登場する元刑事・君原継雄が、今回紹介する新刊『灰色の家』でも再登場するからです。じゃあ、この君原が名探偵なの? というと……いやいや、これが面白い。通常なら、シリーズものはレギュラーキャラクターによる「安心感」を求めて手に取るものですが、この三作に至っては、一作ごとの変化の付け方が素晴らしくて、毎回心を搔き乱されてしまうのです。だからこそ、『灰色の家』は、宣伝や帯でも「シリーズ」とは謳われていませんし、もちろん、独立した長編として十分楽しむことが出来ます。一切の先入観を持たず読んでみたいという方は、ここから先の文章は読まずに、さっそく『灰色の家』からいくのも大いにアリです。

     とはいえ、この三作の変化の付け方が、とてもユニークで面白いので、私個人の備忘録代わりに、以下では掘り下げて書いてみようと思います。もちろん、ネタバレはしません。

    『交換殺人はいかが?』

     さて、これぞ君原継雄が登場する最初の作品です。単行本刊行時には『交換殺人はいかが? じいじと樹来とミステリー』というタイトルだったことからも分かる通り、かなりユーモアに振り切った短編集になっています。君原は妻を亡くし、一人で暮らしていますが、孫の樹来が訪ねて来るのが何よりの楽しみ(ちなみに名前は七月生まれなのでJulyから取ったという由来)。この樹来はまだ小学六年生ながら、ミステリー作家になるのが夢なので、元刑事だった君原を訪ねて、刑事時代の事件を聞き出して将来のネタにしようという算段です。彼はミステリー小説のような事件を求めて、じいじ(君原)が昔担当した事件に、密室殺人はなかった? ダイイングメッセージはなかった? と詰め寄り、毎回、君原が過去に扱った事件を語る……というのが連作の枠組み。君原を視点人物として固定することで、かなり安定した読み味の連作になっています。

     君原が過去に扱った事件は、当然、捜査機関が入って十分に調べられた事件で、一応解決がついているものがほとんど。それなのに、話を聞き終わった樹来は、「僕は、そんなことじゃないと思うんだけどなあ」と口を開き、事件の裏に隠された真実を炙り出してしまう……。そう、これは子供が名探偵を務める連作であり、安楽椅子探偵ものなのです。歌野晶午『名探偵、初心者ですが 舞田ひとみの推理ノート』(角川文庫。『舞田ひとみ11歳、ダンスときどき探偵』を改題)、『名探偵は反抗期 舞田ひとみの推理ノート』(角川文庫、『舞田ひとみ14歳、放課後ときどき探偵』を改題)を思い出す趣向ですが、あちらは現在進行形の事件の話を、刑事が姪にぽろっと漏らす、という枠組みだったのに対し、『交換殺人はいかが?』では、一応は解決した事件をひっくり返す、という枠組みなので、「別の視点」を投げ掛ける樹来の推理の切れ味が際立っています。

     特に好きなのは、ダイイングメッセージテーマの「犯人は私だ!」。こちらはなんと、過去の殺人事件そのものは解決しているにもかかわらず、「ダイイングメッセージの意味だけは分からなかった」という、超トリッキーな出題の短編になっていて、これぞまさに、事件に「別の視点」を投げ掛ける樹来の名探偵としての推理の切れ味が生きる作品になっています。この短編集では各話冒頭にエピグラフが置かれているのですが、「犯人は私だ!」では作者自身が書いたと思われる「ダイイングメッセージ――/およそ意味不明なるものの代名詞/犯人が判明してからその謎が解ける/ダイイングメッセージに、/いったいどんな存在意義があるというのか」という言葉が置かれており、世に蔓延るダイイングメッセージものへの作者の不満が表明されているように見えます。その不満には実作で応えるというように、自作でユニークなアプローチを示しているのが見事な一編です。ダイイングメッセージでアンソロジー作るなら絶対に外さないもんな……。

     他にも、表題作となる「交換殺人はいかが?」では、本来アリバイ作りと動機の隠匿を行うために行うはずの「交換殺人」が、実に意外な形で冒頭から発生し、あれよあれよとめまぐるしい展開で一気に読まされてしまいます。双子テーマの「ふたりはひとり」の企みにも膝を打ちましたし、童謡殺人テーマの「天使の手毬唄」も短編らしからぬ密度。密室テーマの「天空のらせん階段」や幽霊テーマの「ざしき童子ぼっこは誰?」のように、いかにも子供らしい発想で事件がひっくり返されるのも面白いです。

     以上六編、充実した本格ミステリー短編集で、重いテーマの作品や、嫌な後味の作品はちょっと……と敬遠してしまう人にも、安心して勧められる作品になっています。過去の事件を語る「じいじ」と、その謎を鮮やかに解く「孫」……普通、このフォーマットを手に入れたら、このまま第二作品集も作ってしまいたくなるのが小説家のサガなんじゃないかと思いますが、そこは深木章子、そんなところでは落ち着きません。

     なんと、次作『消えた断章』では、読者は大学四年生の樹来と対面することになるのです。

    『消えた断章』

     さてここで、私的「深木ミステリー偏愛三作」の一角が登場です(ちなみにあと二作は、屈指の謎解きミステリー度と構成力の強さを誇る『殺意の構図 探偵の依頼人』〈光文社文庫〉と、一点から事件を鮮やかに突き崩すロジックのポイントが好きすぎる『敗者の告白』〈角川文庫〉)。

    『消えた断章』で描かれるのは、十年前に起きたという誘拐未遂事件。葛木夕夏という大学生の女性は、子供の頃、叔父に誘拐されたが、その間の記憶がないという。事件の後、夕夏は家に戻り、叔父は失踪。親族間のトラブルとして処理されたのだが、十年後の今になって刑事が接触してきた。最近見つかった男児の白骨遺体が関係しているようだが、どうしてそれが過去の誘拐と関係あるのかを彼女に問うと、彼女はこう答えた。「もしかしたら、私、その子を殺したかもしれないんです」。

     失われた記憶の謎と、十年前の誘拐事件と、謎の男児殺害事件の謎。めくるめく展開に翻弄されながら読み進めると、アッと驚く真相が待ち受けているという作品で、これこそまさに、プロットの巧妙さで読者を振り回す深木ミステリーの本領発揮と言える作品です。読み進めるごとに、勘の良い読者は事件の構図の一部を読み取ってしまうかもしれませんが、複雑に絡み合う因果を全て解きほぐすのは難しいのではないでしょうか。

     そして、ここで登場するのが、大学四年生になった樹来と、有料老人ホーム「山南涼水園」に入居した君原継雄です。『交換殺人はいかが?』の時点では独居とはいえ自立した生活を送っていた君原継雄が、老人ホームに入居している、という設定に触れた瞬間にびっくりしたのを憶えています。『交換殺人はいかが?』を安定したシリーズものの連作とするのではなく、「その先」を描くことを作者は選んだのだ、と思ったのです。その姿勢に敬服するとともに、読み始めた当初は、少し寂しく思ったのも事実でした。

     しかし、読み進めるうちにその寂しさは消えていき、最後まで読み終わると、むしろ、この設定を選んだことに感謝するような思いが込み上げました。樹来は小学六年生の時のように、無邪気に、まるでパズルでも解くように、事件を扱うわけにはいきません。彼は今回の事件の当事者である葛木夕夏から相談を受けている身であり、彼女の父親や、警察関係者を中心とした、かなり面倒な人間関係に巻き込まれていくことにもなります。彼は一人の人間として、事件に正対しないといけないのです。『交換殺人はいかが?』では君原が視点人物でしたが、こちらは樹来が視点人物であり、このあたりの内面ががっつり掘り下げられています。

     かなりユーモラスな連作として書かれた『交換殺人はいかが?』にも、実は、当時を振り返る君原が己の警察官としての正義を問う内面描写が、随所に描かれています。解決したはずの事件に裏の構図があったことを指摘されてしまう、という連作としての構造に関わるものでもありますが、この描写が君原の実直さを表してもいて、同時に、ユーモラスで明るいように見える連作に、ビターな苦みを添えてもいます。純粋な本格ミステリーとしては、カラッと割りきって、白く明るい世界を書く人もいるでしょうが、深木章子はそうしません。必ずどこかに、黒を滲ませ、灰の苦みを残しておく。

     己の歩みを振り返る老境の元刑事を描いた一作目と、その足跡の存在にようやく気付き、目で捉え、自分はどうするべきかを考える孫を描く二作目。この対比が面白いですし、だからこそこの二作はこのように書かれねばならなかったのだ、と思わされます。

     さて、『消えた断章』では今指摘したように、七転八倒しながら推理を組み立てていく樹来の道行に面白さがあり、君原はどんな役割を果たしているかというと、それはたとえていうと、作品全体の要石ということになるのだと思います。葛木夕夏が樹来の妹を通じて彼らに相談を持ち掛けたのは、元刑事が家族にいるからですし、全てを見通したように振る舞いながらそこにいる君原の存在は、樹来の支えにもなっています。読者にとっては、信頼関係のある「じいじ」と「孫」の関係性だからこそ、君原がいるという安心感が、二転三転する作品の展開を制御するものになっているように思うのです。

     では『灰色の家』ではどうか? ここでユニークなのが、深木章子は遂に、この「要石」を揺らすプロットを試みた、ということなのです。

    『灰色の家』

     前作『消えた断章』の段階では、君原継雄がそこにいる――というだけでほとんど書き込まれなかった有料老人ホーム「山南涼水園」について、その内情から、どういう施設であるのかという点まで、本作『灰色の家』では深く掘り下げています。というのも、今回の視点人物は君原でも樹来でもなく、この「山南涼水園」の常駐看護師・冬木栗子だからです。

     この老人ホームで、連続自殺事件が起きる……というのが事件のあらましです。一人の入居者が滝から飛び降り自殺をしたのをキッカケに、連鎖するように自殺事件が発生してしまいます。この事件についての調査を通じて、ホーム側の事情はもちろん、入居者同士の派閥争いや横恋慕、入居した高齢者と入居させた家族の間の確執などなど、老後のリアルと、高齢者施設の実態が深く書き込まれていくのですが、その一つ一つのエピソードに驚いたり呆れたり不安になったり、感情を振り回され通しでした。

     このように書くと、あんまり本格ミステリーのように見えないかもしれませんが、こうした描写の中にもしっかりと伏線が張られ、最後には鮮やかな謎解きミステリーに変貌するのがすごいところ。現場のシチュエーションを巧妙に利用した犯人特定のロジックが見事な作品で、特に、シンプルに犯人に辿り着くのではなく、「この条件なら事件はこう進行しているはずだがそうなっていない、なぜか」というような、燕返しのようなロジックが描かれているのが巧いのです(ネタバレにならないよう精一杯ぼかして書いているので分かりにくくなっていますが、すみません)。

     さて、先ほど書いた「要石」を揺らすということの意味は、まさに、本作における君原のポジショニングに関わっています。君原は『消えた断章』において、絶対的なアドバイザーとしての安心感を象徴する存在でしたが、それは、彼を信頼する孫の樹来の視点から描かれるために、そうなっていたのです。ところが、今回の主人公である冬木栗子にとって君原は、「ホームの入居者であって、元刑事らしい」という程度の前情報しかない存在です。元刑事だからとあてこんで、連続自殺事件の謎を彼に相談しに行きますが、そこには絶対的な信頼があるわけではありません。むしろ、「この人、本当に信頼出来るの? 推理能力はあるの?」と疑り深い目で見るような場面もあります。つまり、本作において君原は「要石」として存在出来ず、絶えず印象が揺れ動く対象なのです。だからこそ、『灰色の家』は、『交換殺人はいかが?』→『消えた断章』→本作の順で読んだ人と、本作からいきなり入った人では、見え方が変わってくる小説だと言えます。そういう意味で、面白い趣向なのです(極端な話、順番に読んでいる読者にとっても、今の君原の能力に昔ほど信頼がおけるかは分からないので、揺らぎは充分に機能していることは補足しておきます)。しかも、この趣向が、ちゃんとミステリーとしても生きてくるのですから、本当に作者の構成力には恐れ入るというか……。

     本書のタイトル『灰色の家』は、本書の大きなテーマである、生と死の間の灰色の位置に存在する老人ホームを象徴するものです。このことは、著者が「小説宝石」5・6月合併号に寄せたエッセイ「灰色の世界に生きる」において、「心身ともに生きる活力に溢れている白の世界と、もはや光も影もない黒の世界との間には、老後という灰色の世界が立ちはだかっていますが、そこをどう過ごすかはまさに百人百様。」(同誌281ページ)と述べていることからも明らかです。

    「灰色」という言葉に、法律でいうグレーゾーンのイメージというか、老人ホームは家族の負担を和らげるために存在するものだけれど、それが当事者である高齢者にとって良いかどうかは分からない、というニュアンスも響いているように思えます。そのようなことを考えさせられる、重厚な小説だからです。しかし、この「灰色」には、それだけでなく謎解きミステリーとしての本書の企みも表明されているのではないでしょうか。栗子の中で、名探偵としての白と、役に立たない相談相手としての黒との間で絶えず揺れる君原の存在は、まさしく最後の最後まで「灰色」の人なのですから。

     一作ごとに様々な手法で読者を翻弄し尽くしてくれる深木章子。重厚なテーマと謎解きミステリーの切れ味が同居する『灰色の家』、オススメです。

    (2023年5月)

第55回 特別編102023.04.28
極私的「時代・歴史小説が読みたい」 ~〈修道女フィデルマ〉シリーズ全作レビューもあるよ!~

  • 昏き聖母(上)、書影
    昏き聖母(下)、書影

    ピーター・トレメイン
    『昏き聖母〈上・下〉』
    (創元推理文庫)

  • 〇今月も雑誌の話題から

     最新号「ジャーロNo.87」には、「カッパ・ツー」第二期の犬飼ねこそぎによる短編「狐火の行方は知れない」が掲載。作者らしい多重解決趣味と推理の技を味わえる一編です。また日本推理作家協会賞短編部門に傑作短編「ファーストが裏切った」(「ジャーロNo.85」収録)がノミネートされた浅倉秋成「花嫁がもどらない」も素晴らしく、まさしく抱腹絶倒のブラックユーモア。いずれ、「花嫁」「ファースト」に加えて「そうだ、デスゲームを作ろう」(「ジャーロNo.83」収録)まで収録される短編集が作られると思うと、無限にワクワクするな! 日本ミステリー文学大賞のインタビュー特集では、新人賞を『60%』で受賞した柴田祐紀のインタビューが掲載。『60%』が実にシビれるノワールの快作だったので、インタビューもウキウキしながら読みに行ったら、本書を書くきっかけになった一作として髙村薫『太陽を曳く馬』が挙げられているのに大喜び。二作目も待ち遠しい……! 特別賞受賞の有栖川有栖インタビューも、感激がすごい。また新保博久法月綸太郎による往復書簡「死体置場で待ち合わせ」は、毎度毎度、本当に往復書簡なのか、というくらい両者暴走し始めるのが面白い企画なのですが、第五回では、〈リドル・ストーリーに答えはあるのか?〉という副題が示す通り、芥川龍之介「藪の中」をサンプルに、両者が丁々発止、博覧強記のやり取りを繰り広げるさまが最高にスリリング。面白すぎる、この往復書簡。

    「小説宝石」4月号では、平山夢明「弱き者、汝の名は女なり あたいが公園でペリカンから聴いたお話――そのⅡ」が出色。『俺が公園でペリカンにした話』のシリーズが、日本一周地獄めぐりみたいなシリーズだったわけで、こちらも「小説宝石」に掲載されるたびにウッキャッキャと喜んでしまう最高の短編群だったわけですが、「あたい」が主人公になってから、更に地獄巡りの酷さが増しているような気がする(もちろん、良い意味で!)。しかし、なんだか妙に笑えて、そして元気になる、この塩梅はもう実にたまらんのです。春日武彦と平山夢明の新書『「狂い」の調教 違和感を捨てない勇気が正気を保つ』(扶桑社新書)も、この二人は本当にいつもの空気感だなあと思いつつ、やはり妙にクスッときてしまう。

    〇「時代・歴史小説が読める!」

     今月は「あっ、時代・歴史小説が読みたいな」、もっと言えば「今なら読めるな!」と思ったので、今月は時代・歴史小説ばかり読んでいました。これは私だけなのかもしれませんが、時代・歴史小説と本格ミステリーってある意味似ていると思います。作品世界について明確な約束事があって、と同時に、そこはツッコむなよ、という「暗黙の了解」の領域が存在する。私は子供の頃からの読書傾向のせいで、本格ミステリーの「約束事」にはよく慣れ親しんでいるのですが、時代・歴史小説については、読めない日には全然読めないのです。一応言っておくと、好きなのは間違いないです。都筑道夫『血みどろ砂絵』に始まる〈なめくじ長屋捕物さわぎ〉シリーズや、泡坂妻夫『夢裡庵先生捕物帳』あるいは『夜光亭の一夜 宝引の辰捕者帳ミステリ傑作選』など、捕物帳がきっかけで読み始めましたが、今だと青山文平『半席』『遠縁の女』『泳ぐ者』『やっと訪れた春に』などミステリー好きも読むべき傑作多数)、木下昌輝『炯眼に候』が出た時ミステリー短編集だって騒いでたの身近で私だけだった……)、砂原浩太朗『高瀬庄左衛門御留書』はもちろん『黛家の兄弟』が好きすぎる)などを愛読しています。特に砂原作品は、藤沢周平の感動を思い出すところがたまりません(藤沢作品はノワール・犯罪小説の観点で読んでも素晴らしい傑作が目白押しで大好きですね。『暗殺の年輪』とか『闇の歯車』とか……!)

     と、これだけ好きな作家がいるにもかかわらず、読めない日はサッパリというのだから難儀です。ただ、何かのきっかけで、「あっ、今なら読める!」と、脳のチューニングが合う日が存在するのです。はっきり覚えているのは、大学生の時、泡坂妻夫の捕物帳を正月に開いてみたところ、それまで全然読み進められなかったのに、たまたま開いた一編がまさしく一月の話で、スッと小説世界に入り込めた……というエピソードでしょうか。こうなったらしめたもので、あとは放っておいてもどんどん作品世界に入っていけます。

     今回「脳のチューニングが合った」のは、恥ずかしながら、SEGAのゲーム「龍が如く 維新!」を触ったからです(笑)。同シリーズの主人公・桐生一馬に幕末の坂本龍馬の役を当て、幕末の動乱を描いたゲームですが、このゲームを少し遊んだ後、手代木正太郎『異人の守り手』(小学館時代小説文庫)を読んだところ、第一話「邪馬台国を掘る」がまさに同じ時代の横浜の話だったので、まさしく「脳のチューニングが合った」わけです。尊王攘夷の声が高まり、外国人への風当たりが強かった当時の日本で、陰ながら外国人たちを守る日本人、「異人の守り手」がいた、という設定の活劇小説なわけですが、第一話の「史実」の使い方の巧みさにはニヤリとしてしまいますし、第二話「慶応元年の心霊写真」はその手数とどんでん返しの技によって、著者の傑作ミステリー不死人アンデッドの検屍人 ロザリア・バーネットの検屍録 骸骨城連続殺人事件』を思い出して嬉しくなりました。

     この一冊がキッカケになり、「おお、今なら溜めていた時代小説が読めるぞ!」と思って、次々読んでいきました。先も名前を挙げた青山文平の新刊『本売る日々』(文藝春秋)は、学術書を行商して売り歩く本屋の視点から、江戸時代の暮らしぶりを描いた三つの短編を収めた作品集になっていて、これがもう、実に沁みる。その人が持っている本を描くことによって、人を描いてしまうような凄みがあると同時に、例えば二編目「鬼に喰われたひとの冒頭近くに書かれた、本好きと本屋の、ドライながらも、ほのかに温かい関係性には時代を超えて納得してしまう心理があります(古本屋で長いこと話し込んでしまうのって、こういう心理絶対あるよなぁ)。ちなみにこの二編目「鬼に喰われた女」には、思わず凍り付くようなホワイダニットの企みも用意されている気がします。装丁も素敵で、ぜひカバーを外して見てほしい。

     そして満を辞して手に取ったのは、永井紗耶子『木挽町のあだ討ち』(新潮社)。帯で「驚愕の真相」押しされていたので、これは読まねばなるまいと発売直後に買っていたのですが、先に書いたような事情で今になってしまいました。そして、読み終わってみれば、これがもう大傑作! ミステリーマニアも読み逃すなかれ。全六幕の構成で、木挽町で行われた仇討の真相を追いかける、という趣向なのですが、各幕は証言者のインタビュー形式となっていて、一人語りのように進行することになります。第一幕は芝居小屋の木戸役者(その日の公演がどんなものか、入り口で通行人に伝える役者)、第二幕は稽古場の男……というように、芝居小屋を取り巻く人々がそれぞれの視点から仇討について証言し、また、それぞれの来し方について語る、という構成になっています。幕が進むごとに、仇討を行った菊之助と、その父、父を殺した男・作兵衛との関係性も明らかになっていき、謎が深まっていくことになります。ミステリーマニアなら、中盤まで来れば真相の見当はつくかもしれません。しかし、一幕ごとに、異なる人生のありようを紡いでいき(私が特に好きなのは、やはり戯作者を描く第五幕と、劈頭を飾る第一幕)、最後に辿り着く真相がこれだからこそ、この小説は素晴らしいのです。それにしても、解決編直前となる第五幕ですが、この末尾のセリフが……あまりにカッコ良い! 解決編前の演出で、どれだけ興奮できるかってかなり大事だと思うんですが、今年の「解決編前演出大興奮ランキング」は今のところ『木挽町のあだ討ち』が首位独走です。あまりにもシビれました。

    〇王女、法廷弁護士、修道女。三つの顔を持つ女

     さて……ここまで、時代小説を三冊紹介してきましたが、私はここで思ったのです。ここまで日本の時代小説を読んできましたが、もしかして、ここまでどんどん読めたなら、海外の歴史ミステリーも読めるのでは? と。時代・歴史小説を読むと、普段と異なる世界にどっぷり浸かることもあって、自分の場合、かなりの脳負荷がかかるのですが、どうやらその脳負荷に耐えられる状態らしいな、と思ったのです(ちなみに、原稿をばりばり進めている時は、読者としては、全く関係のない世界の話を読みたい――という心理も手伝っているかもしれません)。

     そこで今回読んだのは、ピーター・トレメイン『昏き聖母〈上・下〉』(創元推理文庫)。王女にして法廷弁護士、修道女でもあるフィデルマの推理を描く、〈修道女フィデルマ〉シリーズの長編第九作の邦訳ですが、恥ずかしながら告白すれば、実は私、このシリーズの長編を初めて読みました。

     今までは、第二短編集『修道女フィデルマの洞察』を読んで、「紙魚の手帖」に掲載された短編「魚泥棒は誰だ」(のちに『修道女フィデルマの采配』に収録)を読んだことがあるのみでした(第26回の読書日記で少しだけ話していますね)。短編を読むたび、「あぁ、やはり面白そうだなぁ、このシリーズ」と思って、ずっと読んでみたいとは思っていたシリーズだったのですが、七世紀アイルランドを舞台にした歴史ミステリーということもあり、他のフィクションでも馴染みがない時代なので、読むのが大変なのではないか……と尻込みしていたのが理由です。これが最も大事なことなので、まず、今回初めて読んでどう思ったのかを一言で言うと――。

     

    めちゃくちゃ面白い。どうしてこんなシリーズを今まで読まずにおいたんだ私は。



     ということで、まずは冒頭で懺悔。読むのが遅くなってしまい、申し訳ありませんでした。ちなみに、なんで今回、あえてこんなことを最初に言おうと思ったかと言いますと、長期シリーズであればあるほど、どこから読めばいいか、悩む人も多いと思ったからです。私自身、新しいシリーズを追いかけ始める時には、「シリーズの文脈や系統を踏まえないと楽しめないのでは」と慌てて最初から読んだり、とにかく今出ている新刊が面白そうなので、えいやっと飛び込んで、楽しめる時もあるし、前作のネタバレを踏んでトホホという時もあります。なので、恥ずかしげもなく、「今作から読みましたが問題なくめちゃくちゃ楽しみました」と書いておくのも、満更無駄じゃないと思ったのです。

     閑話休題。今回、突然読んでみたいという気になったのは、まさに、本書のシチュエーションに惹かれてのことです。まずはここであらすじを見てみましょう。

     フィデルマは旅の途上、良き友であり、相棒とも言える修道士・エイダルフが殺人罪で捕らえられたとの知らせを受ける。彼を助けるため、急ぎラーハン王国に向かうが、ラーハンは、フィデルマの兄が治める地域であるモアン王国と諍いが絶えない。到着したフィデルマを迎えたのは、エイダルフの裁判が既に終わったという事実、そして、処刑は翌朝に予定されているという、絶体絶命の状況だった……。

     そう、まさにこれでした。この、あまりにも絶体絶命な設定に、大いにそそられたのです。しかもこの裁判、フィデルマが情報を集めれば集めるほど、真っ黒な裁判で、目撃証言をした証人の少女は失踪しているというし、事件当日の夜警は事故死をしていて、おまけに、事件現場周辺で、エイダルフが殺したとされている少女や、前述の夜警も含めて、三人もの人が死んでいると分かります。エイダルフはどんな罠に落ちてしまったのか……この状況が、実に興味をそそるのです。

     法廷ミステリーは、絶体絶命なほど良い……これはゲーム〈逆転裁判〉シリーズで植え付けられた、私の金科玉条ですが、『昏き聖母』はこの欲求を見事に叶えてくれました。しかも、この作品が面白いのは、法廷ミステリーとしては序盤、アンチクライマックス的で――何せ、フィデルマが到着した時点で裁判は「終了」しているのですから!――序盤は「いかにして突破口を開くか」という法廷外の戦いを強いられるところです。情報は教えてくれるもののあやふやだったり、老獪な前修道院長などの妨害に絶えず晒されながら、逆転への糸口を探らなければならない。フィデルマが若い女性というのもあって、かなり舐めた態度で接してくる相手もいて、こうした状況を撥ね退けながら、少しずつ前に進み、相棒の身の証しを立てようとする冒険が見事です。

     しかも、シリーズとしても、実に重大な展開が用意されています。この点を踏まえると、確かに『昏き聖母』から読み始めたのは失敗と言えるかもしれないのですが……それでも、この一作分だけでも感動を味わえましたし、この第九作でこういう展開を迎えると知って遡ると、また面白いと思うので、それはそれでよしとします。いやー、良い。このラストシーンはあまりに良いよ。

     上巻の最後の方になると、事態は大きく動き出し、さらに冒険活劇小説やサスペンスの要素が強くなります。ここが実に良い(下巻の帯にさらっと書かれているので本当はバラしてもいいのかもしれませんが、とりあえず伏せておきます)。上述した「三人の死」や、証人となった少女の失踪も含めて、どんな陰謀が張り巡らされていたのか。全ての構図を暴き出すフィデルマの冒険は実に痛快です。また、これはシリーズ通しての特徴と言えそうですが、七世紀アイルランドを舞台にしており、歴史ミステリーならではのアイテムや歴史的事実はプロットの中で効果的に用いられるとはいえ、謎解きのポイントは複数の事件の構図や繋がり、といったポイントに絞り込んでいるのが、このシリーズが古びない理由だと思います。

     今、シリーズ通しての特徴、と言いましたが――いや、このシリーズ、ここから読み始めたんでしょう? というツッコミが聞こえてきそうです。その通り、ここから読み始めました。そして、あんまりにも『昏き聖母』が冒険活劇×法廷ミステリーとして面白くて、己の不明を恥じたので、次回の新刊が出る時には万全の態勢で迎えようと、この一か月の間にシリーズを全作読んで追いついておいたのです(一応言っておくと、他に、解説のために読まないといけない本は読んでいますし、他の新刊も読んでいますし、ちゃんと長編の原稿も三月に第一稿が完成しました。仕事はしています、ご心配なく。……むしろ、なんでこんなに読んでいて完成したんだ?)。

     今、恐らく私の正気が疑われているところでしょう。何はともあれ、この「読書日記」をいつも読んでいる皆様なら、この後の流れを察したと思います。

     僭越ながら、全作レビューを始めます。

    〇〈修道女フィデルマ〉シリーズ全作レビュー

     初めに言った通り、『昏き聖母』は単独で読み始めても十分に楽しめる良作ですが、やはりシリーズを追いたい! という人や、シリーズの中でどれが特に面白いのか知りたい! という人向けに書いてみます。シリーズ既読者には当たり前のことしか書いていないかもしれませんが、その場合は、備忘録代わりにでも使ってくれると嬉しいですね。ちなみに、私には、歴史小説としてどの程度優れているかとか、アイルランドがきっちり描写されているかとかは正直分かりません。私にあるのは、謎解きミステリーとしてどうかとか、冒険ミステリーとして面白いか、とかの尺度だけです。あしからず。

     実際の邦訳順は違うのですが、後追いで読める立場なので、シリーズを順に追っていきました。まず本国での第一短編集 ”Hemlock at Vespers” にあたる日本版短編集の第一弾~第三弾を読み、長編を第一作から順番に読みながら第八作に追いつき、その過程に日本版の第四・第五短編集を読んだという経緯です。この読書日記では、まず日本版短編集五冊の紹介から始め、長編八作を後から紹介する、という順でいきます。

     短編集から始めるのは、理由が三つあります。一つ目は、本国では、長編第一作の刊行よりも前に、短編が発表されているためです。フィデルマの相棒・エイダルフは長編の第一作(『死をもちて赦されん』)に登場するため、短編集はフィデルマ単独の冒険譚になっています。二つ目の理由は、フィデルマの短編集は、このシリーズへの入門編にうってつけだからです。登場人物が限定された中でのフーダニットやハウダニットなど、謎の構成がシンプルになっていますし、そのために、初読者が面食らう要因になっている七世紀アイルランドの文化の描写も、押さえるべきポイントが限られてきます。要するに、読みやすいのです。最後の理由は、単純に、謎解きミステリーのファンには、短編集の方がオススメだからです(一方で、歴史冒険ミステリーとしての沃野は長編にあり、とも言えるので、一長一短ではありますが)。

     それではいきましょう。全て創元推理文庫から出ているので、版元の表記は省きます。また、◎と〇に分かれているのは、「◎」が特にオススメ、という意味合いです。アン・クリーヴスの全作レビュー(仮)などと同じように、作品数が多いので、せめてもの指標にと置いておきます。

    ・短編集
    『修道女フィデルマの叡智』
     日本オリジナル編集の短編集第一弾。本国の ”Hemlock at Vespers” には全十五編が収録されていますが、日本ではこの十五編を、先述した通り、短編集第一・二・三弾に五編ずつ振り分けているわけです。解説は村上貴史。『叡智』の収録作品は以下の通り。

    「聖餐式の毒杯」
    「ホロフェルネスの幕舎」
    「旅籠の幽霊」
    「大王の剣」
    「大王廟の悲鳴」

     本書では劈頭を飾る「聖餐式の毒杯」が出色。ローマ教会で、聖餐式のワインを飲んだ若者が突然死を遂げた、という毒殺ものの一編ですが、ハウダニットに着目したシンプルなフーダニットになっているのもさることながら、動機に異形の論理がさりげなく使われているのが好印象。歴史ミステリーの描写がきっちり生きています。どんでん返しのキレ味が、逆説を飛ばしている時のブラウン神父並みにキレていて良いのが「ホロフェルネスの幕舎」(ところで、日本の短編集のタイトルが「~の叡智」「~の洞察」のように、『ブラウン神父の童心』や『亜愛一郎の狼狽』方式になっているの、めっちゃ良くないですか? ブラウン神父、亜愛一郎と同じく、五冊揃えて本棚に並べて置きたくなる)。千五百年にわたって封印されていたアイルランド代々王の墳墓から悲鳴が聞こえてきたという、明らかにヘンな謎作りにくすぐられてしまう「大王廟の悲鳴」にもニヤリ。それにしても「旅籠の幽霊」のオチは……いいのか、これで?

    『修道女フィデルマの洞察』
     解説は川出正樹。収録作は以下の通り。

    「毒殺への誘い」
    「まどろみの中の殺人」
    「名馬の死」
    「奇蹟ゆえの死」
    晩祷ばんとう毒人参ヘムロック

     第二短編集まで読むと、〈修道女フィデルマ〉シリーズとは、意外にもホワイダニットの短編集だな、という思いを新たにします。2000年代以降の国内ミステリーに、主体と客体の価値を転倒させることによって生じるホワイダニット――勝手に「主客転倒型」と呼んでいるのですが――が頻出するようになってから(端的には、殺人行為そのものより、それによって生じた現象の方に意味があったとするもの)、この手のものには食傷している気持ちも正直あります。そして、このホワイダニットの登場と軌を一にするように、外国や田舎ならこういう論理も成り立ちうるのでは、といったような「異化」作用を備えたミステリーが多くあったように思うのです(極端な話、「特殊設定」ミステリーの前にあらゆる意味での「異世界」ミステリーがあったような気がしているのです。こういったものへのカウンターパンチとしても澤村伊智『ばくうどの悪夢』は読むことが出来て、そんなことは関係なく凄まじく面白い)。

     そういう意味で、七世紀の価値観を詳らかに描写することで、一種奇妙な動機を描く〈修道女フィデルマ〉シリーズにも、同じような抵抗を感じて良い――はずなのですが、不思議とすんなりと呑み込めてしまうのが不思議なところ。歴史ミステリーとしての足腰がしっかりしているゆえなのでしょうか。『叡智』でいうと「聖餐式の毒杯」、『洞察』でいうと、「毒殺への誘い」「まどろみの中の殺人」の、どうかしているとしか思えない動機に上記のような感じを覚えるのですが、それでも抵抗を感じないのは、根底のところに人間臭さを感じる、からでしょうか。

     さて、今述べたような文脈とは関係なく、『洞察』の中で好きなのは「晩祷の毒人参」。フィデルマの、名探偵として貫くべき法の中の正義と、人間の中の正義――その思いの相克を描いた一編だからです。事件の構図そのものも二転三転して見事ですが、この相克が描出する苦さこそイチオシのポイント。また、「名馬の死」も世にも珍しい「七世紀競馬ミステリー」と言えるでしょう。

    『修道女フィデルマの探求』
     今回は訳者あとがきのみ。収録作は以下の通り。

    「ゲルトルーディスの聖なる血」
    けがれた光輪ヘイロウ
    「不吉なる僧院」
    「道にまどいて」
    「ウルフスタンへの頌歌カンティクル

     この五編をもって、”Hemlock at Vespers” の十五編がすべて邦訳されたことになります。そのうえで十五編を概観して思うのは、この短編集、いくらなんでもアベレージが高くはないかい? ということ。『探求』までくると、飛び抜けた出来のものはないのですが、それでもキレの良い短編を読ませてくれます。

     今回の注目は「ウルフスタンへの頌歌」でしょうか。なんといっても、七世紀を舞台とした「密室殺人」ミステリーで、ゴリゴリの機械トリックが用意されているのも嬉しい。証拠品の些細な矛盾から事件の裏の構図を読み解いていくあたりのスマートさは、フィデルマならではのもの。また、「不吉なる僧院」は、暴虐の限りを尽くす大人と、それに耐える子供たち……という、現代ミステリーでも見られるような構図を、歴史ミステリーならではの価値観で成立させた、まさしく「不吉な」雰囲気が横溢したサスペンスに仕上がっていて、こちらが本短編集でのマイベスト。こちらの逆転劇は鮮やかです。それにしても、十五編のものを五編ずつに分けて収録した……という事情にもよるのかもしれませんが、連続している二編の犯人指摘のロジックがほとんど同じだったのは、ちょっと残念に思いました。よく使われる型なので、仕方ないとは思いますが。

    『修道女フィデルマの挑戦』
     今回の解説は大矢愽子。収録作は以下の通り。

    「化粧ポウチ」
    あざ
    「死者のささやき」
    「バンシー」
    「消えた鷲」
    くらい月 昇る夜」

     粒揃いのフィデルマ短編集ではありますが、これこそ傑作短編集の風格。最大のポイントは、各六編が全く違う魅力でミステリーの面白さを体現していることでしょう。冒頭の「化粧ポウチ」は「フィデルマ最初の事件」であり、ある種の青春ミステリーの味があります。二編目「痣」はこれも学生時代の事件ですが、こちらのテーマは安楽椅子探偵、三編目「死者の囁き」は一つの死体を巡って推理を積み重ねていく手法がホームズやドロシー・L・セイヤーズの『誰の死体?』を思わせる、ストレートでしなやかなパズラー、四編目「バンシー」は伝承を描いたオカルトミステリーです。五編目「消えた鷲」は五百年前の古文書から鷲の像のありかを探そうとする……という、これもまた安楽椅子探偵風ですが、題材の扱いでいうとジョセフィン・テイ『時の娘』鯨統一郎『邪馬台国はどこですか?』などを思わせる歴史安楽椅子探偵の雰囲気。六編目「昏い月 昇る夜」はまさしく法廷ミステリーの一編で、短編のサイズで丁々発止の法廷戦術を味わえます。

     このように、六編とも違うアプローチでミステリーを書いているので、短編集全体を通じて飽きずに楽しめるのが大きな美点ですし、各短編のアベレージもかなり高くなっています。特に「死者の囁き」は、フィデルマベスト短編に推したいくらい痛快な一編です。やはり、ダロウの修道院長である、ラズローンが登場する短編は良いんですよね。「名馬の死」(『洞察』収録)、「ウルフスタンへの頌歌」(『探求』収録)、「魚泥棒は誰だ」(『采配』収録)などがそれにあたりますが、ラズローンがかなり筋の良いワトソン役をするので、ミステリー短編としての風通しが良くなるのだと思います(フィデルマに舐めた対応をする男たちの鼻を明かす……という展開ばかりだと正直疲れますしね)。「死者の囁き」は、ワトソン役の劣った推理→フィデルマの鮮やかな推理という流れが綺麗に守られていて、それがケレン味にもなっているので読んでいてすごく楽しい。死体の素性を巡る推理とか、実に見事。

     他にも「消えた鷲」のどんでん返しと、その手掛かりの隠し方は鮮やかですし、日本版短編集では初めて、長編シリーズで相棒となっているエイダルフが登場するのも嬉しい。「化粧ポウチ」は同室者の先輩と初対面からぶつかり合ってしまう、「あぁ、フィデルマだなあ」というエピソードが面白いですし、ぬけぬけとした真相もたまりません。総じて、非常にレベルが高く、安心して薦められる傑作短編集です。

    〇『修道女フィデルマの采配』
     解説は石井千湖。収録作は以下の通り。

    「みずからの殺害を予言した占星術師」
    「魚泥棒は誰だ」
    「養い親」
    「「狼だ!」」
    「法定推定相続人」

     冒頭の一編は別題にて『ホロスコープは死を招く』(ヴィレッジブックス)に邦訳されています。同書は占星術をモチーフにした作品を集めたアンソロジーで、アン・ペリー「青い蠍」ピーター・ラヴゼイ「星に魅せられて」ローレンス・ブロック「ケラーのホロスコープ」などが収録された良作品集ですが、トレメインの「みずからの殺害を予言した占星術師」も負けていない。占星術で自ら占った通りに亡くなった修道士、という謎を合理的に解決していく好編ですし、十七世紀頃まで使われていたホラリー占星術を描いた珍しい短編でもあります。「魚泥棒は誰だ」はぬけぬけとしたオチが楽しい作品ですし、犯人指摘のロジックもシンプルで良い。「養い親」「法廷推定相続人」などの法廷ミステリーとしてのひねりも面白い。

    ・長編
    『死をもちて赦されん』
     邦訳刊行では四番目となった、〈修道女フィデルマ〉シリーズの長編第一作。邦訳が後に回された事情については、本書の、甲斐萬里江による「訳者あとがき」に詳しく書かれています。曰く、「第一作は大ブリテン島のノーサンブリア王国で展開する物語、第二作もローマにおける事件。/いずれもフィデルマが母国アイルランドを後にして出掛けてきた異国での出来事」(同書「訳者あとがき」、p.451)であり、「我々日本人には、カトリック内部の教義論争は、いささか取りつきにくいテーマです。そこで、順序を少し乱して、まず初めに、アイルランドの文化、社会、風物などが十分に描かれているものを初期の作品の中から数点ご紹介」(同、p.452)したということ。

     先走って、邦訳第一弾になった『蜘蛛の巣』のことを考えてみると、この手法は成功だったと言えると思います。確かに、ジェフリー・ディーヴァーの〈リンカーン・ライム〉シリーズも、出張編は第十作(『ゴースト・スナイパー』)ですし、かなり早くても、マイ・シューヴァル&ペール・ヴァールーの〈刑事マルティン・ベック〉シリーズで第二作(『煙に消えた男』)、ヘニング・マンケルの〈クルト・ヴァランダー〉シリーズも第二作(『リガの犬たち』)ですからね。一作目からホームの外に出ているのは珍しいです。

     とはいえ、『死をもちて赦されん』が面白くないというわけでは一切ありません。むしろ、前掲の「訳者あとがき」では懸念材料として挙げられている、宗教論争、神学論争のパートに私は大興奮。〈矢吹駆〉シリーズを通った身としては、物語の流れが停滞してでも、このあたりがじっくり掘り下げられているとテンションが上がってしまう。おまけにそれが、フィデルマとエイダルフの出会いにも繋がってくるのだから面白い。本書では、アイオナ派とローマ派の対立が描かれており、事件はアイオナ派の一人が殺されたというものなのですが、フィデルマはこちらに属するので、「調査の公平観を期するため」、ローマ派の一人であるエイダルフを相棒として傍におく、という出会いなのです。

     出会いのシーンはやはり運命的に描かれていますし、事件の展開も、宗教論争を交えながら二転三転、道行きはなかなか読ませるのですが、事件解決のポイントは長編サイズとしては拍子抜けするほどシンプルに感じられます(短編まで含めると、何回使っているんだ、このタイプの「人間関係の隠匿」……)。

    『サクソンの司教冠ミトラ
     長編第二作は、フィデルマ&エイダルフのコンビが再びアイルランドの外で冒険を繰り広げます。舞台はなんとローマ! 法王のお膝元での殺人事件ということもあって、めちゃくちゃテンションが上がります(冒頭からいきなり、ローマとアイルランドの宗教対立が司教とフィデルマの間で炸裂しているのが面白すぎる)。

     事件の調査も安定の面白さですが、むしろローマや過去のアレキサンドリア、ビブリオ・ミステリー的な要素など、書きこまれた背景の方に面白さがあります。謎解きとしては、この設定ならではの誤解のテクニックがさりげなく使われているのが好印象。そして結末が良い。フィデルマとエイダルフの関係性を追っているだけでも、十分にお釣りがくるシリーズだなあ。解説は若竹七海で、長編に挫折した経緯やら、夫が短編にケラケラ笑っているのを見たのがキッカケで読み直した経緯などが綴られていて笑えます。あと若竹七海をもってしても長編に一度挫折しているという事実に一安心。

    『幼き子らよ、我がもとへ〈上・下〉』
     いやー、面白い。本書は長編第三弾、邦訳順では二番目の作品にあたりますが、あえて二番手になったことからも分かる通り、かなり身の詰まった傑作になっています。前二作で海外出張を経て故郷に戻ったフィデルマは、兄に乞われ、モアン王国内の修道院で、隣国の尊者ダカーンが殺された事件を調べることになる……というのがおおまかな筋ですが、前二作が宗教対立をベースとしたミステリーだったとするなら、今回はアイルランド五王国の政治的な対立も濃厚に絡んでくる作品です(外国人が自国内で殺された状況に近いですが、七世紀なので領土がどうみたいな話も絡んでくるのが面白い)。

     冒頭からいきなり、雷鳴の光る中をフィデルマが行き、老婆から「向こうの宮殿には死が居座っているぞ!」的な脅し文句を吐かれるなど、いっそ清々しいほどのベタベタエンターテインメント要素で楽しませてくれますが、ダカーンの身辺を調べ、孤児院経営の実態を探るうちに、別の物語が浮かび上がってくる構成がお見事。さらに、本書は裁判ものとしても圧倒的なクライマックスが用意された傑作になっています。どっしり構えた解決編の楽しさもあって、シリーズ中でもかなりのオススメ作になっているのではないでしょうか。

     それにしても、第八作『憐れみをなす者』で旅に出て、第九作『昏き聖母』で戻ってきたらエイダルフが殺人罪で捕まっていたわけだし……フィデルマが外に行くと、ろくなことにならないのね。

    『蛇、もっとも禍し〈上・下〉』
     ヘニング・マンケルの全作レビューを行った際(第19回)、犯行にも「不気味さ」が欲しい、だけど、くだくだと独白をしてほしくはない、ビザールな犯罪を見せてほしいという意味で、「連続殺人鬼は独白ではなく、犯行現場と死体で語れ」と書いたことがあります。本書『蛇、もっとも禍し』は、現状邦訳されている中では、この要求に一番応えてくれる作品と言えるかもしれません。首なし死体、腕に結びつけられた木片にはオガム文字(『蜘蛛の巣』の項で詳述)、掌には十字架――宗教的背景も踏まえながら、非常に不気味な死体が現れているのです。

     本格ミステリーファンとしては、必然性の薄い死体装飾であったことは残念に思いますが、本書の魅力はむしろ、事件現場に向かうフィデルマが海上で見つけた、〈メアリー・セレスト号〉のように船員全員がかき消えた船の謎や、シリーズキャラクターであるエイダルフの扱いなど、細かな謎やフックを長編全体の中でうねりを持たせて処理していることでしょう。のちに『憐れみをなす者』で一編まるまる海上ミステリーをやりますが、ここでも海上の事件の扱いが上手いのです。

    『蜘蛛の巣〈上・下〉』
     日本では邦訳第一弾となった、長編第五作です。殺人現場で捕らえられた男が第一容疑者となり、彼の無実を証明するためにフィデルマは奮闘する……というのが大筋ですが、この第一容疑者であるモーエンが、視覚・聴覚・発話に障害を抱えているというシチュエーションが難物。自ら身の証しを立てることが出来ず、おまけに、七世紀アイルランドの強い差別意識も相まって、およそ人とは思えない扱いを受けていて、非常に胸が痛い(ただ、このシーンの後、ケルトの信仰を踏まえながら人と神について議論するパートは、歴史小説として読み応えがあります)。

     こうした、モーエンを巡る差別の状況についても、その改善を訴えて喝破していくフィデルマの魅力は、この『蜘蛛の巣』でも十分に炸裂しています。七世紀アイルランドの描写がミステリーとしても生きてくるところもこのシリーズの魅力ですが、本作は、オガム文字という、この本以外では聞いたこともなかった文字が登場します。これが使われるシーンが実に素晴らしい。シーン自体の爽快感と、事態が大きく動き出すミステリーとしての高揚が一体となっていて、シリーズ屈指の名シーンになっています。

     第一容疑者が、視覚・聴覚・発話に障害を抱えている……このシチュエーションそのものが、ギ・デ・カールの力作『破戒法廷』を思い出させますが、証言パートを厚く書きこむことで、容疑者とそれを取り巻く人々の人生を描くことに注力した『破戒法廷』とは異なり、『蜘蛛の巣』は続発する殺人事件やトリッキーな展開を交え、冒険活劇小説としての読み味が濃くなっています。これが実に熱く、面白い。最後の法廷パートで、事件の真実と共に、タイトルの意味が明らかになる構成も心憎い。日本で最初に邦訳されたのも納得の雄編です。

    『翳深き谷〈上・下〉』
     おっも……。重い、重苦しい。上下巻の分厚さという意味では、毎巻ガッツリと重いのですが、そうではなくて、『翳深き谷』は話が重い。

     古の神々を進行する「禁忌の谷」に赴き、キリスト教の学問所を設立する折衝をしてほしいと、兄・コルグーはフィデルマとエイダルフに任を与える。谷で彼らを待っていたのは、刺殺・絞殺・撲殺の三つの殺害方法で三回ずつ殺された三十三人の若者の死体だった。何かの生贄にしか見えない、儀式めいた殺人が、この旅の困難さを暗示しているかのようだった……。

     ね? もう書いているだけで気が滅入って来るんですよ。この重苦しいテーマにきっちり見合うような小説的な満足感と、下巻に待ち受ける大ピンチとエイダルフの見せ場など、シリーズの見所は十分なのですが、こういうのも挟まって来るか、と驚きました。あの『蜘蛛の巣』ですら現代に近い価値観で被疑者をかばったフィデルマさえも、古の神々を重んじている人々には偏見全開だし。

     とはいえ、私はこの『翳深き谷』をトレメインが書いていてくれて良かったなあと思いました。〈修道女フィデルマ〉シリーズで、フィデルマが奉じている古代アイルランドの文化は、現代の価値観に通じるものがあります。そのため、それより古い価値観や外国の価値観に染まった偏見まみれの男性修道士・法律家たちを、フィデルマが正論で叩きのめしていくさまには、いわば「異世界転生もの」における「現代倫理観無双」に通じる、ある種の楽天主義が覗いてしまう瞬間があります(転生先の異世界は多くが中世ヨーロッパの人権意識に基づいているため、現代の倫理観を持った主人公がそこに行くだけで、正論で相手を叩きのめせるというもの。実際にそう出来るかはさておき)。恐らくこのあたりが、歴代の解説者たちがよく述べているフィデルマというキャラクターの「とっつきにくさ」に繋がっているのだと思いますが、やはり彼女といえど完璧でなく、崩落する歴史の影はこの世界にきっちりと忍び寄っていることを示してくれたのが、この『翳深き谷』だと思います。

    『消えた修道士〈上・下〉』
     いっやー、これはすごい。フィデルマものの良さが、全て面白い方向に出ている傑作。まず、大族長がモアン王国を訪れた際、大族長とモアン国王が同時に矢で襲われる、という発端のシチュエーション(謀略小説としてのスリル)。この謎の襲撃者を求めて、エイダルフと共に駆けずり回るプロットの面白さ(冒険小説としてのアクションと面白さ)。そして、こういった謎を全て繋げて、最後に意外な構図を明らかにするフィデルマの推理の面白さ(本格ミステリーとしての魅力)。全てが高いレベルで結実している傑作と言えます。解決編でフィデルマがある言葉を言った瞬間、あまりにもすごすぎて、快哉を上げてしまいました。

     何がいいって、場面転換の豊富さによる、プロットの楽しさです。第一作『死をもちて赦されん』や第六作『翳深き谷』では、国際謀略の部分が、むしろ重苦しく出てしまっているのが気になったのですが、それはシーンの変化があまりないことも寄与していたと思うのです。今回は場面転換のテンポによって、これまでの作品と同じようにスリリングで、ピンチの状況を描きつつも、「軽妙さ」が滲み出てくるような書きぶりになっている気がしました。このシリーズ、意外とシリーズとしての脈絡があり、本書でも、第四作『蛇、もっとも禍し』の文脈を踏まえて、フィデルマが皮肉を漏らす箇所があったりするのですが、そういうのを一切気にしなければ、今から初めて読むという方は、これを長編への入り口にするというのもありなのでは、と思いました。日本で一番最初に訳された『蜘蛛の巣』とかは、さすがに当時ならではの差別意識がキツかったりしますし……。

    『憐れみをなす者〈上・下〉』
     第四作『蛇、もっとも禍し』などでも当時の「船旅」は描かれてきましたが、本作『憐れみをなす者』では、ほぼ全編が船上を舞台とした「船上ミステリー」になっているのが最大の特徴と言えるでしょう。「船上ミステリー」と言っても、アガサ・クリスティー『ナイルに死す』のような、風光明媚な土地への、豪華絢爛な旅をイメージしてはいけません。一歩間違えれば死へ真っ逆さま、女性といえど入浴さえ自由には出来ない、過酷な過酷な船の旅――それこそ「当時」のリアルなのです。下巻に入浴……というより水浴びをするシーンがあるのですが、ここの怖さとかめちゃくちゃ良い。

     上巻の170ページを過ぎてようやく事件が起こるというスローペースな長編ですが、あまりにも俗っぽい動機に塗れた修道士たちの描写や、フィデルマの過去を知るブラザー・キアンの登場なども相まって(フィデルマの若かりし頃が少し描かれますが、現在の完璧超人のような姿とは違うのが印象的)、ぐいぐい読んでいくことが出来ます。血のついた衣だけを残し、消えた修道士……という謎をフックに用いながら、解決編までの約400ページ、二転三転の展開を仕掛けてくるあたりが見事です。エイダルフがいない中の事件ということで、エイダルフファンとしてはやきもきしてしまいますが、船の給仕係の少年、ウェンブリットのキャラクターが良く、渇きを癒してくれます。

     それにしても、この最後の一行……これを読んでから、シリーズファンは二年待っていたわけですねえ。すごい……。

     ということで、時代・歴史小説を読みたい! を出発点に、〈修道女フィデルマ〉全作レビューをお届けしました。どうかしているよ。少し間を開けてから、『アイルランド幻想』を楽しみに読むことにしよう……。また歴史ミステリーが読みたくなったら、今度は積んでいるエリス・ピーターズの〈修道士カドフェル〉シリーズか、ポール・ドハティー〈アセルスタン修道士〉シリーズを読みます。前者は『死体が多すぎる』(光文社文庫)を、後者は『毒杯のさえずり』(創元推理文庫)を読んだきりで止まってしまっているのです。……あれ? 全部修道士だな?

    (2023年4月)

第54回2023.04.14
解かれぬ事件に潜むもの ~〈コールドケース四部作〉、堂々完結!~

  • ヨルン・リーエル・ホルスト、書影

    ヨルン・リーエル・ホルスト
    『警部ヴィスティング 疑念』
    (小学館文庫)

  • 〇最近の仕事情報から

     4月は私が参加しているアンソロジーが2冊出ています。1つ目が、光文社文庫から刊行の『Jミステリー2023 SPRING』。こちらは昨年から春・秋の季刊で刊行されている「全編新作アンソロジー」の第三弾で、メンバーは、東野圭吾、結城真一郎、真梨幸子、白井智之、近藤史恵(敬称略にて失礼します。掲載順)、私の六名です。私は「拾った男」という短編で参加しています。ある深夜、横浜でタクシー運転手が「拾った」男は、「ミステリーはお好きですか?」と問いかけ、「最近読んだ、懸賞金付き犯人当て小説の犯人がわからない」と雑談がてらの相談を始める……という発端の短編です。タイトルのネタ元はチャールズ・ウィルフォード『拾った女』から(傑作ノワール!)。これで阿津川の短編を初めて読むという人もいると思ったので、単体で楽しめるように設計していますが、ファンにはもう一つお土産があるかも。ぜひ。

     2つ目は、『斬新 THE どんでん返し』(双葉文庫)。同文庫から刊行されている〈どんでん返し〉シリーズの最新刊ですが、こちらには「小説推理」に掲載された〈どんでん返し〉短編五編が収録されています。メンバーは、芦沢央、伊吹亜門、斜線堂有紀、白井智之、私の五名。私の短編は「おれ以外のやつが」という殺し屋小説です。ローレンス・ブロック『殺し屋』伊坂幸太郎『グラスホッパー』をやりたい気持ちが暴走して起ち上げたシリーズですが、中身はきちんと本格、それも〈どんでん返し〉を意識しました。こちらもぜひ。

     続いて書評企画の紹介。MRC(メフィスト・リーダーズ・クラブ)のLINE企画「ミステリー・ツアー」において、青崎有吾、伊吹亜門、似鳥鶏、真下みこと、私の五人が、最近面白かったミステリーの話をする書評企画が、3月28日(火)からスタートしています。毎週火・木の配信で、五人で回していくので、2~3週間に1回配信される感じです。私はこの読書日記と差別化も図らないといけないので、「LINEのアンケート機能を使って『次に阿津川に読んで欲しい本を決めてもらう』」という趣向を盛り込みました。みんなで作る書評欄を目指します。こちらはMRCの有料会員(月額550円)限定で、メフィストとのLINE連携も必須のようです。私の第2回は4月18日(火)の配信なので今なら間に合いますし、第1回もアーカイブがMRCサイト内に残るようです。

     また、帯文ですが、実業之日本社から刊行の西村京太郎『殺しの双曲線 愛蔵版』に帯文を寄せています。「新本格」ハマりたての中学生の頃に読んで、あまりの面白さにひっくり返った本だったので、二つ返事で引き受け、意気揚々とゲラで再読したのですが、やっぱり何度読んでも面白い。冒頭の挑戦にもあるように、双子トリックを使った小説ではあるのですが、そのほかにも謎とトリックの乱打といった構成なんですよね。初読時は動機にも驚きました。ちなみに、今回の再読で最もスリリングだったのは、「結末を覚えていなかった」ことで、残りページ数が少なくなるごとに、記憶しているトリックの全てが出てきただけに、「えっ、どう締めるの?」と思ったらそこで……あの瞬間の衝撃と余韻は、正直再読の方が噛み締められた気がします。ちなみにこの余韻を、本格ミステリー的な言葉で言ってみたのが私で、私が本当に言いたかった語感は斜線堂有紀の帯文が捕えてくれていると思います。読了後に読み比べてみてください。

    〇3月の新刊から

     さて、本日の本題はJ・L・ホルストなのですが、ホルストを含め、3月の新刊で良かったものを5冊だけ紹介。他の媒体で取り上げられなさそうなので、ここにまとめて持ってきます。以下がリストです。

    ・麻耶雄嵩『化石少女と七つの冒険』(徳間書店)
    ・ジーン・ハンフ・コレリッツ『盗作小説』(ハヤカワ・ポケット・ミステリ)
    ・ライリー・セイガー『夜を生き延びろ』(集英社文庫)
    ・大場正明『サバービアの憂鬱 「郊外」の誕生とその爆発的発展の過程』(角川新書)
    ・ヨルン・リーエル・ホルスト『警部ヴィスティング 疑念』(小学館文庫)

     麻耶雄嵩『化石少女と七つの冒険』(徳間書店)は、前作『化石少女』(徳間文庫)に続くシリーズ第二弾。前作では、古生物部の神舞まりあと、彼女の「従僕」である一年生男子・桑島彰が巻き込まれる六つの事件を描き、本格ミステリーではタブー視されがちな「偶然」をむしろ積極的に組み込んで、陰謀論めいた推理の構築と破壊を見せてくれましたが、今作ではその魅力がさらにアップデート。第一弾の真相を前提としながら(ちなみに、第二弾は早々に第一弾のネタバレをするので、順番に読むことを推奨します)、ますますスリリングな水面下の争いを描いていて、おまけに早々にパターンを崩してくるので「えっ、何が起こっているの?」とゾクゾクしながら読むことが出来ました(前作に関しては、結末まで読んで狙いを理解するまでは趣旨が掴めず、再読してより楽しめたという記憶がありますが、今回は最初からのめり込めました)。特にもう「禁じられた遊び」が素晴らしいのなんの。青春ものって、「変わっていくこと」と「変わらないこと」の按配が大事だと思っています。前者が苦さを、後者が安心を提供していて、アニメで見るのは後者が重視されたものが多い気がします(原作の漫画も含めて)。だからこそ自分もここにいたいなーという馴れ合いのような、ぬるま湯のような安定感があって浸りやすいのだと思うのですが、たまに「変わっていくこと」でボロクソになるまでめちゃくちゃにされたいという心理が働くんですよね。この二つのバランスがいつもすごいから米澤穂信は神なんだと思っていて……というのはさておき、これを念頭に置いて〈化石少女〉シリーズ二作を振り返ると、この「変わっていくこと」と「変わらないこと」のシーソーゲームを「推理」と「犯罪」のみによって達成した絶好の二作ではと思って無限に興奮します。大好き。

     ジーン・ハンフ・コレリッツ『盗作小説』(ハヤカワ・ポケット・ミステリ)は、スランプに陥ったベストセラー作家・ジェイコブが犯してしまった、プロットの「盗作」をめぐる「倒錯」めいたサスペンス。この表現からピンときた方もいると思いますが、本作は、折原一『倒錯のロンド』『螺旋館の奇想』などを彷彿させるような、めくるめく展開とどんでん返しに翻弄される優れたサスペンスになっています。プロットを盗んだ相手は、小説創作講座の受講生であるエヴァンという男。このエヴァンが死んだ後に、ジェイコブは「お前はエヴァンの作品を盗んだ」という旨の脅迫メールを受け取る……という謎が迷宮への入り口になっていて、読者はこの後、ジェイコブが脅迫者を突き止めようと捜査を進めていくパートと、ジェイコブが盗作して書いた小説『クリブ』のパートを交互に読むことになります。エヴァンという男の像が明らかになっていき、『クリブ』の展開が進むごとに謎は混迷を極める、という次第。これは本当にオチが良い小説で、真相もさることながら、ぬけぬけとしたエピローグに黒い笑いを誘われるような作品です。それにしても、小説家ならだれでも、これを読むと、共感性羞恥で体が痒くなると思うんですが、どうでしょう?(みんな盗作しているとかそういうわけじゃなくて、小説家講座に通っている小説家の卵についての描写とか、「アーッ! アーッ!」と辛くなって仕方がないという話です)。

     ライリー・セイガー『夜を生き延びろ』(集英社文庫)は、映画オタクの女子大学生・チャーリーが、謎めいた男との深夜のドライブをしており、この男が親友を殺した連続殺人犯ではないかと疑っている……というフェイドインのシーンから始まるサスペンス。セイガーは2021年に『すべてのドアを鎖せ』が邦訳されており、これもアイラ・レヴィン原作の映画「ローズマリーの赤ちゃん」を彷彿とさせるような展開が盛り込まれたサスペンスの佳作だったのですが、本作ではもうその映画オタクっぷりが、爆発(笑)。何せ冒頭から「物語は終わりから始まる。フィルム・ノワールの傑作と同じように。」(同書、p.8)と、こうです。そもそも「チャーリー」という名前からして、アルフレッド・ヒッチコック「疑惑の影」の登場人物から名付けられた、という設定なのですよ。年代設定が1991年なので、ヒッチコックやフィルム・ノワールへの言及が多いのも嬉しい限り。で、それがただの饒舌なオタク語りにとどまらず、スリリングな展開にも一役買っています。最後の最後まで、一切油断出来ない傑作サスペンスに仕上がっています。昔の映画の吹替版で好きな声優を思い出しながら、脳内でアテレコすると楽しいですね。私が謎の男・ジョシュを辻谷耕史で脳内アテレコしていたのは、もしかしてヒッチコックの「サイコ」のノーマン・ベイツのせいか? それにしても、この『夜を生き延びろ』も、『盗作小説』も、訳者が鈴木恵だと気付いてびっくり……良い仕事しすぎ!

     大場正明『サバービアの憂鬱 「郊外」の誕生とその爆発的発展の過程』(角川新書)は、スティーヴン・スピルバーグの映画などフィクションを切り口に50年代~80年代のアメリカの郊外文化を論じたもので、1993年に東京書籍で刊行された名著です。今回のこれが30年ぶりの復刊ということになります。サバービア(suburbia)とは、郊外住宅地(suburb)やその住民の生活様式・風俗・文化を意味する言葉です。日本においても、ビジネスや社会学の面から重要な要素として「郊外」が語られ続け、高校でも「スプロール現象」とか「ドーナツ化現象」など郊外化を論じたキーワードを勉強させられるわけですが、アメリカではこの「サバービア」という言葉が、国民感情と結びつく形で大きく発展し、明確なイメージを持って定着してきた……というのがこの本のメインメッセージです。そして、そのアメリカの国民感情と、アメリカ人たちの明確な「サバービア」のイメージを、フィクションから炙り出そうというのが、この評論の狙いなわけです。そう、本書をあえてこの連載で取り上げたいのは、これは郊外文化論に惹かれる人だけでなく、この年代のアメリカの小説が好きな人も絶対に読むべき本だからです。スティーヴン・スピルバーグなどの映画だけでなく、例えば、ジョン・チーヴァー(第7章)、ジョイス・キャロル・オーツ(第9章)、レイモンド・カーヴァー(第13章)、スティーヴン・キング(第15章)、フィリップ・K・ディック(第17章)などの小説からサバービアの描かれ方とその変遷をたどっていくのです。ここに挙げられた作家たちの作品について、サバービアというレンズを通して、作品の解像度が上がったような気がしただけでなく、ヒラリー・ウォーなどの作品世界の理解も深まりました(新書版あとがきには、ギリアン・フリン『ゴーン・ガール』の名前も挙がっており、これまた、頭の中で回路が繋がって、だからああいう設定だったのかと納得する思いでした)。これはもう、折に触れて読み返す一冊になると思います。面白かったぁ。

    〇〈コールドケース四部作〉、堂々完結!

     最後に取り上げるのは、ヨルン・リーエル・ホルスト『警部ヴィスティング 疑念』(小学館文庫)。本書は、本国では2023年3月時点で17作まで刊行されている〈警部ヴィスティング〉シリーズのうち、未解決事件の解決に焦点を当てた〈コールドケース四部作〉と言われるシリーズ内シリーズの第四作にあたる一冊です(以下では、シリーズ名の「警部ヴィスティング」の部分を抜いた形で表記します)。この四部作は、第一作『カタリーナ・コード』、第二作『鍵穴』、第三作『悪意』がこれまでに刊行されており、第一・第二作については読書日記第13回で、第三作については第36回で取り上げていますので、参考にしてください。

     このシリーズ、どれも傑作・良作揃いなのが素晴らしく、〈警部ヴィスティング〉シリーズに通奏低音として流れる静謐な雰囲気の中に、未解決だった事件が動き出すダイナミズムが加わり、おまけに謎解きミステリーとしても毎回面白い展開を見せてくれるのです。本作『疑念』でも、その魅力はいかんなく発揮されています。

     あらすじはこうです。休暇中のヴィスティングは差出人不明の郵便物を受け取る。中にあったのは、「12―1569/99」という数字だけが書かれた謎の紙片。それは昔の事件番号の付け方だった。ヴィスティングは、何者かが、自分に1999年の事件を掘り起こさせたいのだ、と確信する。1999年に起きたその事件では、十七歳の少女、トーネ・ヴァーテランが行方不明となり、二日後に絞殺体で発見されていた。元恋人の男が捕まり、十七年の禁固刑に服している。この事件に、他の真相があったというのだろうか?

     〈コールドケース四部作〉は、未解決事件を捜査する――という点は共通していますが、事件の幕開けについては、毎回異なる手法を用いています。このシリーズの特徴については、各作品の解説において、杉江松恋、三橋暁、吉野仁、池上冬樹がそれぞれの立場から魅力的なフレーズで論じており、更に『疑念』では「訳者あとがき」において中谷友紀子も実に心に沁みる表現で語っています。なので、この読書日記では、あえて謎解きミステリーの文脈に引き寄せて語ってみましょう。

     何年の前の未解決事件を捜査する――というプロットを謎解きミステリーが用いる場合、そこには超えるべきハードルが二つあると思います。①なぜその事件を「今」解くのか(なぜこれまで動きがなかったのに急に今動き出したのか)、②なぜその事件は「今まで」解かれなかったのか。

     まず②について先に言えば、〈コールドケース四部作〉は、このハードルを常に高いレベルで達成しています。ヴィスティングの警官ならではの視点と、名探偵さながらの「別の視点」を投げ掛ける推理によって、今まで事件に関わっていた捜査官が解けなかったのも無理はない、と納得出来る説得力を備えているからです。『カタリーナ・コード』の中盤で明らかになる、些細な物証から読み取れる心理の綾や、『悪意』における新たな物証を手繰り寄せることで現れる共犯者「アザー・ワン」の正体などがそうです。

     そして①については、必然性の問題と言い換えてもいい気がしますが、今動き出したことに積極的な意味がないと、謎解き小説として見た時にご都合的に見えるということです(大山誠一郎の〈赤い博物館〉シリーズのように、未解決事件の証拠品にラベル付けして保管する博物館を設定し、ラベル付け作業の中で名探偵が矛盾点を見いだした事件を拾い上げるという手法で、そもそも①のような疑問を生じさせない構造の作品もあり得るでしょう。大山誠一郎が②の点にも余念がないのはもちろんです)。〈コールドケース四部作〉では、毎回、違った形でこの点にアプローチしています。未解決事件を捜査する際には、捜査官の内的要因でその事件をずっと追い続けている、というのでない限り、何かが掘り起こされるなど、外的要因から捜査を始めることが大半ですが、その手続きが毎回工夫されているのです。

    『カタリーナ・コード』においては、24年前のカタリーナ・ハウゲン失踪事件はヴィスティング自身が追いかけていた事件であり、事件のあった十月十日は毎年、その夫・マッティンの元を訪ねていた(内的要因)。そして24年後の日、夫は異例のことながら留守にしており、その直後、国家犯罪捜査局のアドリアン・スティレルが現れて、26年前の事件の再捜査を行い、その被疑者としてマッティンの名前を挙げる(外的要因A:情報を持つ人物の登場)。この本では、容疑者と警察官の間柄でありながら、旧友のような交歓を持っているヴィスティング―マッティンと、捜査官同士の駆け引きを繰り広げるヴィスティング―スティレルとの二重のシーソーゲームが描かれます。ここで「内的要因」といったのは、捜査官自身の中に、まるでビンの底の澱のように、その事件が残り続けている、という意味合いです。外的要因で動かされるよりも、こういった事件を巧く描けた方が抒情は深まります。

    『鍵穴』では、大物政治家が心臓発作で急逝し、その別荘を訪れたところ、外国紙幣が大量に詰まった段ボールを発見してしまう(外的要因B:何者かが隠していたものが死後に発見される)。汚職に繋がる可能性もある品物だったため、ヴィスティングは極秘捜査を命じられることになる、というプロットです。ここに前作のスティレルも加えながら、更に外的要因として、この別荘が放火に遭い(外的要因C:新たな事件が発生する)、政治家の周囲で起きていた失踪事件が掘り起こされることになります。ここでは、明確な悪意をもって、「今、まさに」動いている他者がいる(外的要因D)、という点が、未解決事件を「今」捜査する積極的な動機付けとなり、プロットの加速化にも作用しています。

    『悪意』は、最もセンセーショナルな幕開けといっていいでしょう。四年前に二人の女性に対する暴行・殺人・死体遺棄の罪で服役したトム・ケルが、三件目の殺人を告白し、「死体を遺棄した場所を教える代わりに、世界一人道的とされる刑務所に身柄を移せ」と要求する。ヴィスティングたちが死体遺棄現場において警戒態勢を敷く中、一瞬の隙をついてトムは走り出し、次いで爆発が起き、トムは逃亡する(外的要因C:新たな事件が発生する)。Cを使っているのは『鍵穴』と同じかもしれませんが、『鍵穴』と異なり、逃亡するトムとの追跡劇が用意されているのが面白いですし、この事件によって、「トムに共犯者がいたのでは」という当時からの疑惑がいよいよ強まり、再捜査の動機付けになっています。外的要因Cを使う場合、①の必然性が犯人の立場からクリアーされているか――要するに、このタイミングで事件を起こす意味はあるのか――などは解決編に至るまで分かりませんが、見事にクリアーされています。

     ここまで、過去三作について振り返る中で、外的要因をA~Dに分類してみました。『疑念』はこのうち、外的要因A(情報を持つ人物の登場)と外的要因D(今まさに、悪意をもって動いている他者がいる)の融合と言えるでしょう。冒頭、ヴィスティングに届けられる謎の紙片――「匿名の手紙」が全ての起点になっているからです。『疑念』の発端がスリリングなのはこの手紙を寄越した人物が、Aのような情報提供者の立場なのか、Dのような悪意を持つ人物なのかが分からない、という据わりの悪さにあります。

     というより、本書は実のところ、この四部作の異色作ではないかと思いました。読み始めた瞬間から違和感があったのです。この匿名の手紙によって未解決事件が動き出すのは確かなのですが、その登場も唐突な気がしますし、過去三作を通じて見事な活躍を見せたヴィスティングの娘でありフリージャーナリスト、リーネが登場するシーンも少ない。そして、1999年の事件について、過去の関係者それぞれの視点から事件の経過を描いたパートが挿入されるのですが、これもこれまでの三作にはなかった特徴です。このシリーズはあくまでも、ヴィスティングの視点から過去を見つめ、関係者から過去を聞き出すことに重きが置かれていて、過去のシーンを直接的には書いてこなかったからです。

     リーネのシーンが減り、過去を直接的に描いた結果、この『疑念』は、明らかに外的な要因によって動き出した事件にもかかわらず、ヴィスティングの内省的な面が強調されているような気がしました。その感覚が正しかったことは、かなり序盤の展開で明らかになりました。あらすじでも伏せられているので詳しくは書きませんが、この後もう一つの事件が絡んでくるのです。そしてその事件は、ヴィスティング自身の「内的要因」に関わる事件でした。つまり、この『疑念』は、内的要因→外的要因Aの順で事件を膨らませた『カタリーナ・コード』の裏返しのような小説(外的要因A・D→内的要因)です。だから異色のような雰囲気がするのだろうか、とそれでも居心地の悪さを覚えながら読み進め、事件の展開と、終盤に用意されたアクションシーンや謎解きそのものには大いに興奮しながら、最後までしこりが残ったような気分でした。しかし、そうでありながら、妙に感動したのです。このないまぜになった感情はなんなのだろう……。謎が解けたのは、最後、「訳者あとがき」に目を通した瞬間です。

    「訳者あとがき」には、『疑念』で描かれる「1999年の事件」は、著者、ヨルン・リーエル・ホルストが刑事だった時代に関わった事件がモデルになっていると書かれていたのです。まさしく1999年に起き、膿んで癒えることのない心の傷になったと著者自身が語る事件なのだ、と(事件そのものは2015年にDNA鑑定により解決している)。

     この情報を読んだ時、「匿名の手紙」に感じた据わりの悪さの正体が分かったのです。「匿名の手紙」の送り主については、『疑念』の作中で明確に解決されますが(この解決も実に良い)、ある意味、あの手紙は、ヨルン・リーエル・ホルストから警部ヴィスティングへの手紙だったのではないでしょうか。自分の中に澱として溜まった事件を、自分の創った刑事に解いてもらうために、出した手紙なのではないかと。それが性急に感じられた理由だし、外から動かされているにもかかわらず、ヴィスティングの行動が冒頭から内省的に感じられた理由でもあるのでしょう。これは「ヴィスティング自身の事件」であると同時に、どうしようもなく、「ヨルン・リーエル・ホルスト自身の事件」でもあるのです。つまり、『疑念』においては、コールドケースを解くことが、ヴィスティングが事件の裏に隠された人の声を掘り出す意味を持っているだけでなく、ヨルン・リーエル・ホルスト自身の自己回復の物語としても機能していることになります。だからこそ、この結末がこんなにも胸を打つのです。

     楽しみにしている新刊については、帯・あらすじ・あとがきに先に目を通すことなく、まっさらな気持ちで読むことにしているので、これが著者自身の経験に基づいているということを読み終わるまで知らずに読みました。究極のところ、著者の個人的なことなんて読者は知らなくてもいいと思うし、著者も全部を語らなくてもいいと思っているのですが、こればっかりは、「訳者あとがき」のエピソードを読んだ瞬間に、「ああっ!」と腑に落ちる思いがあったので、無粋かとは思いながら、こういう切り口で書いてみました。

     このシリーズ、〈コールドケース四部作〉に含まれない邦訳作『猟犬』(ハヤカワ・ポケット・ミステリ)も面白かったので、今後もぜひとも邦訳して欲しいところです。警部ヴィスティングの、心に沁みるミステリーを、まだまだ堪能したい!

    (2023年4月)

第53回2023.03.24
新ミステリーの「女王」、新たなる羽ばたき ~マシュー・ヴェンの冒険、のっけから最高潮~

  • アン・クリーヴス、書影

    アン・クリーヴス
    『哀惜』
    (ハヤカワ・ミステリ文庫)

  • 〇今回も雑誌の話題を少し

    「小説宝石」3月号の特集「話題作家が描く「お金と人」」からは、エピソードの積み重ね方と、登場人物たちの会話劇、お金に対する浅ましい気持ちをしっかり書きながら突き放しはしない筆致が好きだった一穂ミチ「特別縁故者」と(なんだか無性に雑煮が食べたくなるところとかめちゃくちゃ良い。あと冒頭の麻雀アプリの広告の描写)、作中で「未来の自分が復讐しにやってくる」と怯えていた少年が語った意外な理由から、タイムトラベルのパラドックスに対する解答まで、軽妙なテンポで描かれた松崎有理「未来人観光客がいっこうにやってこない50の理由」が特にお気に入りです。生々しい特集名なのに、ホッとするような短編が入っていたのが嬉しかった。

    「小説新潮」3月号の特集は「SNSのある時代」。SNSをテーマにした各種短編が並びますが、かなりバリエーションに富んでおり、それぞれが心の柔らかいところを抉って来る短編だったので一冊丸ごと楽しく読めました。特に好きなのは、VTuberの熱愛疑惑をきっかけに起きた殺人事件を描き、Vの世界ならではの痛みを抉り出しながら、悪意に満ちた構成を仕込んだ浅倉秋成「かわうそをかぶる」と、「ラーメン評論家」(!)を題材として、ラーメン小説として抜群の読み応えを見せながら、SNSのある時代特有の閉塞感と生きづらさを照射してくれる柚木麻子「めんや 評論家おことわり」。ちなみに「小説新潮」では現在、酒井順子の評論「松本清張の女たち」の連載が行われていて、今まであまり強調されてこなかった、松本清張が描いてきた女性像についての分析が克明に行われています。今回も『人間水域』に関する指摘が素晴らしいです。清張ファンはご注目を。

    〇観劇の話も少し

     先日、「特殊ミステリー歌劇「心霊探偵八雲」-思考のバイアス-」を観劇してきました(2023年3月2日~3月21日、池袋のMixalive TOKYO Theater Mixaにて)。原作者である神永学先生のご招待だったのですが……中学生の頃、クラスで〈心霊探偵八雲〉シリーズを布教していた人間だったので、私からすると殿上人の一人ということで、緊張しきりでした。とまれ、劇のほうは、神永ミステリーの代表シリーズ二つ、〈心霊探偵八雲〉と〈確率捜査官〉シリーズのクロスオーバーがなされた『心霊探偵八雲 INITIAL FILE 魂の素数』を原作にしたもので(ちなみにこのクロスオーバー第二作『心霊探偵八雲 INITIAL FILE 幽霊の定理』に帯文を書かせてもらっています)、ミステリー的なアイテムや展開は踏襲しつつ、歌やダンスを大胆に投入した作品になっていました。劇場に入った瞬間から驚かされた、原稿用紙の升目を象ったような立方体状のオブジェが、舞台の展開に従って開かれ、畳まれ、舞台装置として機能していくところには、実に奇妙な緊張感が漂っていて、舞台って立体なんだなあという思いを新たにしました。歌劇ということで、俳優陣の歌の上手さもすごかったですし(刑事たち三人がめちゃくちゃ強い)、八雲が「いや、このまま放っておくと歌いそうだから」とメタなツッコミを繰り出すところなんかもクスッときました。普段なかなか劇を観に行かないので、面白い機会だったなあと思い、記憶に留めておこうと筆を執りました。

    〇〈マシュー・ヴェン〉シリーズ、最初から最高潮!

     さてさて、前置きが長くなりました。

     第50回で、アン・クリーヴスの〈シェトランド四重奏〉シリーズの全8作レビューをしたとき、「アン・クリーヴス邦訳全作レビュー(仮)」と銘打っておきました。(仮)としたのは、嬉しいことに、3月に早くも新たな邦訳作『哀惜』(ハヤカワ・ミステリ文庫)が出るという情報を目にしていたからです。

    『哀惜』の原書刊行年は2019年。〈シェトランド四重奏〉の最終作『炎の爪痕』の原書刊行が2018年です。つまり『哀惜』は、〈シェトランド四重奏〉で現代ミステリーの様々な可能性に挑戦してきた彼女の技術を全て積載した、新たな傑作シリーズの幕開けとなっているのです。

     本書の舞台はノース・デヴォン。本書冒頭に置かれた「親愛なる読者へ」によれば、著者が子供時代の大半を過ごした土地であるという。かつてのふるさとである美しい地で、彼女はどんな物語を紡いだのか。その期待に応えるかのように、著者は海岸で発見された死体と、その海岸で啼く鳥の声――原題通りの “The Long Call” の情景から物語の幕を開けます。

    〝沼地に着くと空が開け、マシューの気分も上向いた。いつもそうだ。もしマシューがいまも全能なる神を信じていたなら、こうした空間や光への自分の反応を宗教的な体験と思ったことだろう。先の冬は雨が多かったため、水路も貯水池も満水で、カモメやしょうきんるいを引き寄せていた。平地はまだ冬の色彩――灰色、茶色、オリーブ色――のままだった。ここから海は見えないが、車を降りればにおいを感じることはできる。嵐が来ていれば音も聞こえる。ソーントンの村へつながる何キロもの海岸で砕ける波の音が。〟(『哀惜』、19ページ)
    〝マシューはうなずき、車を進めた。窓をあけたままにしておいたので、今度こそほんとうに打ち寄せる波の音が聞こえた。セグロカモメの啼き声も。博物学者が〝長鳴き〟と呼ぶ声で、言葉にならない苦痛のうなりのように聞こえると、マシューはいつも思っていた。故郷ならではのノイズだった。〟(『哀惜』、21ページ)

     第50回でもお気に入りの表現を引用してさんざん語ったのですが、やはりもう、冒頭から情景描写が良すぎるわけです。著者と同じようにマシューの故郷をノース・デヴォンに設定したことで、ノスタルジックな色まで全編に漂っていて、これがまたなんともいえない魅力になっています。また、〝長鳴き〟に関する「言葉にならない苦痛の唸りのように聞こえる」というさりげなくも不吉な描写が、本書の通奏低音になっているのも見逃せないでしょう。

     本書で描かれるのは、一言で言えば、マイノリティーの物語です。冒頭から早々にマシュー・ヴェンの顔見せを済ませた作者は、続く2章で、モーリス・ブラディックとルーシーの親子を紹介します。ルーシーはダウン症を抱えた三十歳の女性で、モーリスは八十歳。ソーシャルワーカーからは、ルーシーを自立させなければならないと言われている。障害を抱える子供を育てる親の苦悩を描いているのです。そして、このルーシーが、いつもバスで会う男の人がいなかったとモーリスに語ったあたりから、この謎の男に対する興味が生まれ始めます。この静かな事件の起ち上げ方も、なんと巧いことか。

     知的障害を抱えたまま、大人になった女性。社会は残酷で、そうした人々を悪人や性犯罪者が食い物にしようとする。彼女たちの周囲で、次なる事件が起こってから、事態は急変します。マシュー・ヴェンもある理由で窮地に立たされ、彼と共に捜査を進める女性刑事のジェンも、静かな怒りを蓄えていくことになります。知的障害を抱えた人物を重要人物として配することは、著者が既に『大鴉の啼く冬』で試みた趣向ですが、『大鴉~』では、その人物の視点に入っていって、彼の心理を柔らかに紡ぎつつ、「信頼できない語り手」の物語に仕立てていたのに対し、『哀惜』では老境の親の視点から描くことで、より社会派ミステリーの味わいが際立ったと言えます。

     そして、モーリスとルーシーを巡る物語の裏面には、アン・クリーヴスが〈シェトランド四重奏〉シリーズで一貫してこだわり続けた、「被害者の物語」がぴったり張り付いています。調べれば調べるほど、焦点がぼやけていくような気さえする、被害者の男の物語。彼は何を思い、何を考え、何をしようとし、死に至ったのか。「被害者の物語」を解き明かすことによって、事件の霧も少しずつ晴れていくのです。いわゆる本格ミステリーとしては、〈シェトランド四重奏〉シリーズに軍配が上がるかもしれません。しかし、謎解きも全く手が抜かれているわけではありません。事件の背後に隠れていた真実が少しずつ明らかになっていくたびに、事件の様相が変わっていくクライマックスはたまりません。邪悪なものに立ち向かうという意味で、警察小説としての強度が〈シェトランド四重奏〉シリーズより格段に増していると言えます。

     それよりも、本書の最大の美点は、アン・クリーヴス独特の静けさや、抑制の効いた描写によって、マシュー・ヴェンという男の肌触りを徹底的に作り上げてきたことによって生み出される、後半の落差にあるでしょう。たとえていうなら、今まで、乾ききっていた男の肌に、サッと青筋が浮き、その怒りの脈動をひしひしと感じられるような、そんな展開が待ち受けているのです。これが、捜査小説としてのダイナミズムとも完璧に連動しているので、思わずのめり込んでしまいます。あまりにも素晴らしい。これほどまでに、世の非情に、やるせなさに、怒る男の呼吸が聞こえる小説を読んだのは久しぶりです。ヒラリー・ウォーの『失踪当時の服装は』の中盤、姿を消した女性のパーソナリティーが明らかになるごとに、主人公たちの怒りのボルテージが上がっていき、捜査に活が入るシーンに、鮮烈な感動を覚えたことを、ひしひしと思い出しました。

     本書を「マイノリティーの物語」と言ったのには、もう一つ理由があります。本書はLGBTの物語でもあるからです。マシュー・ヴェンはジョナサンというパートナーがおり、彼とのライフイベントが、シリーズ第一作にしてかなりのウェイトで描かれていきます。〈シェトランド四重奏〉シリーズでは、事件そのものの展開と、ジミー・ペレスの物語の重ね合わせは第四作の『青雷の光る秋』で頂点を迎えた感がありましたが、新シリーズとなる『哀惜』では、第一作からフルスロットルなのです。ここまでやっちゃって、いいの? というくらい。

     アン・クリーヴス、またしても、楽しみで仕方がないシリーズを始めてくれました。これからの動向にも期待しかありません。やっぱり、大好きだ!

    (2023年3月)

第52回2023.03.10
大いなる山に捧ぐ情熱 ~山岳ミステリー小特集~

  • 岩井圭也、書影

    岩井圭也
    『完全なる白銀』
    (小学館)

  • 〇雑誌の話題

     3/7頃発売の「本の雑誌4月号」にて、「図書カード三万円分使い放題!」の企画に参加させていただいております。「本の雑誌」に頼まれてもいないのに、本屋で三万円分本を買い続けるやつをやっていたら、本当に依頼をいただいて嬉しくなりました。本を買わせていただいたのは、神保町の東京堂書店。中高が神保町の近くにあったので、中学の頃からこの町に入り浸りだったのです。ミステリーから純文学まで、色んな本を買わせていただいたので、選書リストはぜひ雑誌でお確かめください。この企画の原稿を書く前に、過去の「図書カード三万円分使い放題!」の原稿を色々読み直したのですが、やはりミステリー者には有栖川有栖や米澤穂信の原稿がアツいですね。個人的にめちゃくちゃ嬉しかったのは青柳碧人回で、ランドル・ギャレット『魔術師を探せ!〔新訳版〕』を私の帯がきっかけで買ってくださっていたからです。こういうのってめちゃくちゃ嬉しい……。

     ここで前回予告した通り、ちょっと雑誌短編の話を。「メフィストVOL.6」では、推理公募企画の「推理の時間です」がスタート。六名の作家が二名ずつ、フー、ハウ、ホワイの謎を作り、それをMRC(メフィスト・リーダーズ・クラブ)の会員が解いて応募するという趣向です。初回はフーダニットで、法月綸太郎「被疑者死亡により」と方丈貴恵「封谷館の殺人」が収録されています(ちなみに、問題編のみが雑誌に収録、解答編は2月中旬にMRCの会員サイト内にアップロードされました)。

     前者はご存知法月綸太郎の冒険譚で、今回のテーマは交換殺人。『キングを探せ』「宿命の交わる城で」(『犯罪ホロスコープⅡ』収録)など、交換殺人テーマの法月作品にはとかく傑作が多いので今回も期待して読み、その期待は裏切られませんでした。挑戦状前に綸太郎が発する質問で、アッ、とすべての謎がほどけていって、気持ちよく解くことが出来ました。後者は膨大な手掛かりと意味深長な挑戦状の文言にニヤリとするフーダニットで、私は一つ手掛かりの解釈を埋められず、結局解答を提出出来なかったので、悔しい思いをしました。手数の多さが楽しい一編です。今回はフーダニットということで、解答も作りやすかったですが、ハウとホワイはどのようにプレゼンテーションされるのか。今から読むのが楽しみな企画です。

    〇そこに「何」があるのか?

     突然ですが、山を描いた小説を読むのが好きです。理由は三つあって、一つ目は、自分では絶対に登れないから。体のこともあるので、体験は出来ないにしても、小説を読めばその興奮や恐怖を少しでも味わえる気がするのです。二つ目は、ノンフィクションのドニー・アイカー『死に山 世界一不気味な遭難事故《ディアトロフ峠事件》の真相』(河出書房新社)のように、山を舞台にした事件や事故の話には心をゾクゾクさせるものが多いからです。それゆえに、山岳ミステリーにも傑作・良作が多い。

     もう一つの理由ですが、奇しくも、先月刊行されたばかりのノンフィクションに、私の感覚に近い表現が出てきたので、参照してみましょう。これはマーク・シノッド『第三の極地 エヴェレスト、その夢と死と謎』(亜紀書房)という本で、1924年、エヴェレストを目指して二度と戻らなかったジョージ・マロリーとアンドリュー・アーヴィンの謎を描いています。マロリーの死体は1999年、エレヴェスト北面の急斜面から発見され、冷凍保存されて75年前の姿そのままで発見されました。アーヴィンはどうなったのか。それこそが最後に残った謎で、ジャーナリスト・冒険家・登山家である著者は、アーヴィンの遺体捜索チームに参加し、エレヴェストに登っていくことになります。

     引用するのは、マーク・シノッド本人が書いた部分ではなく、訳者である古屋美登里が書いた「訳者あとがき」です(ちなみに本書を手に取ったのは、亜紀書房×古屋美登里訳のノンフィクションは、デイヴィッド・フィンケル『帰還兵はなぜ自殺するのか』『兵士は戦場で何を見たのか』、カール・ホフマン『人喰い ロックフェラー失踪事件』など、どれも傑作で、絶対にハズレがないからです)。

    “のっけから過酷な自然の猛威に襲われる登山家たちの姿が描かれる。それから後の展開を、私は寝食を忘れて読み耽った。登山家たちがなぜ危険を承知でエヴェレストという最高峰に登りたがるのか、なぜそこまでこの山に惹かれるのか、初めて読んだとき、山に疎い訳者には戸惑うことが多かった。それなのにこのノンフィクションを訳したいと思ったのは、地上とはまったく異なる環境条件のなかで、自分の命を担保にしてまでも高い山へのぼうろとする人々の動機やその理由を知りたかったからだ。かの有名な「そこに山があるから」という答えではとても納得できなかった。
     孤独のなかで強大な自然と抜き差しならない対決をする人が、いったいどんなことを考えているのか知りたかったからである。”(同書「訳者あとがき」、p.534)

     まさに、登山する人々が考えていることを「知りた」い。これこそが三つ目の理由です。果敢な挑戦に挑む人々を尊敬するからこそ、「そこに『何』があるのか」を知りたい。

     マーク・シノッド『第三の極地』は、その欲求を大いに満たしてくれる、骨太のノンフィクションです。山を舞台にしたミステリーでは、少数のグループ、あるいは一人か二人で山に挑むプロットが多くなりがちですが、『第三の極地』で描かれるのは、遺体の「捜索隊」です。大勢のグループであるがゆえに起こる山での問題、百年前の歴史的事件を扱うがゆえに起こる国際的な問題。様々な問題を網の目のように描くシノッドの筆致は冴え冴えとしながらも、山に関わる全ての人々への愛情に満ちています。

     1924年のマロリー、アーヴィンたちと現在の自分たちを交互に描きながら、エレヴェストに惹かれる人々の謎を描いていくのが面白く、特に心揺さぶられたのは、第二部から第三部への展開でした。エピソードによって、人物像が変わっていく瞬間の、哀しくも冷たい肌触りに、また一つ、本を通じて登山家のことを知ることが出来た気がしました。

    〇山岳冒険小説の新たなる雄!

     さて、そんな話から始めたのは、岩井圭也『完全なる白銀』(小学館)に触発されてのことです。雑誌「STORY BOX」での連載時から、山岳小説だと注目していたのですが、これはまとめて読みたいと思って、単行本化を心待ちにしていたのでした。

     あらすじはこうです。登山家リタ・ウルラクは、「山頂で〈完全なる白銀〉を見た」という言葉を遺して、冬季デナリ(北米最高峰の山)に姿を消した。しかし、彼女が撮影した写真が理由となって、「リタは登頂していないのではないか」「彼女は〈冬の女王〉ではなく〈詐称の女王〉だ」と、リタはマスコミに誹謗中傷を受けることになった。日本人のカメラマンである藤谷緑里は、リタの幼馴染のシーラと共に、リタの身の証しを立てるためにデナリに挑む。

     このあらすじを見て、栗城史多のことを思い出す人もいるでしょう。「七大陸最高峰単独無酸素登頂」を目指した登山家で、エヴェレスト登頂をインターネット中継するとして注目を集めた方ですが、2018年5月21日に滑落死を遂げてしまいます。メディアを利用した「エヴェレスト劇場」を展開した、ということもあり、メディアと登山の関係性を考える時には必ず思い出される名前です。

     ここで、挙げたい書名があります。2020年11月に刊行された、河野啓『デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場』です(2023年1月に文庫化〈集英社文庫〉)。第18回開高健ノンフィクション賞を受賞した作品で、栗城がなぜ登るのか、どういう人物だったのか、という謎をクローズアップした傑作です。ここでこの書名を挙げたのは、この本が『完全なる白銀』の「主要参考文献」に入っており、インタビューにおいても、『デス・ゾーン』との「出会い」が語られているからです。

    “この本(※『デス・ゾーン』のこと)は登山家について書かれたものでありながら登山シーンは限定的で、その代わりに〝栗城さんは何物だったのか?〟という謎を巡る文章で埋め尽くされていました。そうか、こういう書き方もあるんだ、とインスピレーションをもらったんです。これまでの山岳小説は登山シーンや山岳アクションがメインで、なぜ登るのかという動機や、登る中で何を考えているのかといった心情描写はサブの要素とされがちでした。そのバランスを、逆転させる。”(「STORY BOX」2023年3月号、p.75。「熱血新刊インタビュー第116回 なぜ登るのか 岩井圭也×『完全なる白銀』」より)

     この言に、『完全なる白銀』の美点が全て現れています。ここでは、山に登る、という行動に、ロマンや憧れと言った感情だけでなく、友の真実を明らかにするという、明確な動機が重ね合わせられているのです。読者にリタという人物像を明らかにしていき、リタの登頂の真偽に揺れる緑里とシーラの心理を克明に描写することで、山中行の一歩一歩に、濃厚なエモーションが乗っているのです。『完全なる白銀』と時を同じくして、「なぜ山に登るのか」を克明に描くという共通の志を持ったマーク・シノッドの『第三の極地』を読むことが出来たのは、かなり面白い体験でした。

     では、「これまでの山岳小説」のような「登山シーンや山岳アクション」は楽しむことが出来ないのか? いや、決してそうではありません。描写の一つ一つが、徹底したリアリズムに基づいていることにも嘆息します。まさに一歩一歩踏みしめるような読み心地です。ピンチの描写も手に汗握ります。中でも、地球温暖化と絡めて、登山中の排泄物の問題などにさりげなく触れてみせるところなどは、山岳小説でも、あまり例のないシーンなのではないでしょうか。

     山岳小説を初めて読む、という人も、のめり込んで読むことが出来ると思います。これほど熱い山岳小説であるにもかかわらず、300ページ台という、引き締まった長さなので、一気呵成に読んでしまいました。

     特に好きなのは、主人公がカメラマンであり、その師匠である柏木とのシーンでの会話劇や、カメラマンだからこそ抱ける直感の描写が素晴らしいこと。この設定がラストシーンまでしっかりと生きてくる。シーラが温暖化で消えつつある村、サウニケの出身であることも、山岳との対比で明瞭に生きていて、設定の一つ一つが余念なく配置されていると感じられました。

     なぜ山に登るのか。頂上に何があるのか。それを知りたいという思いにも、小説の力で応えてくれるような作品でした。それにしても、あの大傑作『神々の山嶺』夢枕獏から推薦文をもらっているのが素晴らしすぎる。「STORY BOX」3月号に、北上次郎による書評が載っているというのも、胸を熱くさせます。山岳冒険小説の新たなる雄として、最初の一冊としても素晴らしい『完全なる白銀』。私は岩井作品では『文身』『水よ踊れ』『竜血の山』が特に好きでしたが、『完全なる白銀』は、早くも新たな代表作になる予感がしています。ぜひ。

    〇蛇足ながらの「山岳ミステリー小特集」

     ここで『完全なる白銀』に触発されたのもあって、「山岳ミステリー小特集」を組んでみようと思います。まあ、私が好きな作品を続々挙げるだけです。

     まずは松本清張「遭難」(『黒い画集』収録)。最初からクライマックスなのですが、もうとにかく山岳ミステリーではこれが一番好き。北アルプスの鹿島槍ヶ岳に三人で登り、遭難し、一人が亡くなる。その家族が生存者のもとを訪れ、「遭難現場を訪れたい」と申し出る……という筋の、200ページほどの中編なのですが、読者自身も山に登っているような気持ちになり、息苦しくなるような、緊密な描写が素晴らしい逸品。この描写が、行動を淡々と積み重ねていくことによって、心理の綾を浮かび上がらせるようになっていて、山の空気の中に、殺意と悪意が静かに染みわたっていく感じがたまりません。この小説は展開そのものが面白い作品なので、これ以上の前情報を入れずに読んでみてください。

     次に挙げるのは、その「遭難」を書くために、松本清張が意見を求めたという登山家が書いた小説です。それが、加藤薫の短編小説「遭難」。自らの命を賭けて山に登っていた作者だからこそ書ける、遭難の生存者の心理が胸に迫る作品です(加藤薫の小説をこれで気に入ってしまい、スキー小説である『雪煙』(文藝春秋)も古本屋で探してしまいました)。加藤薫の「遭難」は現在、アンソロジー『闇冥 山岳ミステリ・アンソロジー』(ヤマケイ文庫)で読むことが出来、同書の収録作は、松本清張「遭難」、加藤薫「遭難」の他、新田次郎「錆びたピッケル」森村誠一「垂直の陥穽」。新田次郎は測量の世界を描いた『劒岳〈点の記〉』(文春文庫)が好きです(これだけミステリーからは外れますが)。森村誠一は『密閉山脈』(光文社文庫)なども素晴らしく、やはり山岳ミステリーの名手ですよねえ。なんて充実した顔ぶれのアンソロジー。

     この『闇冥』の四編を選出したのは、自らも山岳小説の名作を生み出している馳星周。そんな著者の作品から、ここでは『蒼き山嶺』(光文社文庫)をピックアップ。これはA地点からB地点に辿り着くことが物語の背骨となる、冒険小説の骨法を山岳で描いたうえ、警察から追われる公安刑事をメインキャラクターに据えることで、見事なサスペンスを生み出す傑作。極厚で圧倒的な山岳小説……例えば『神々の山嶺』を、大きく、たくましい体を持つ熊に相対した畏れを感じるような小説だとすれば、研ぎ澄まされた構成で魅せてくれる『蒼き山嶺』は、引き締まった狼の体の美しさに惚れ惚れとするような小説です。ちなみにもう一冊欲張って馳星周の山岳小説を挙げるなら、霊山を舞台にしたノワールである神奈備かむなび』(集英社文庫)もオススメ。

     大倉崇裕の名も挙げざるを得ません。『聖域』(創元推理文庫)『凍雨』(徳間文庫)など、謎解きに注力した良作から、山岳アクションが充実した逸品まで、多くの山岳小説を発表している作者ですが、ここであえて挙げたいのが「未完の頂上ピーク」(『福家警部補の追及』〈創元推理文庫〉収録)です。著者の代表作であり、「刑事コロンボ」式の倒叙ミステリーを追及し続けてくれる〈福家警部補〉シリーズの一編ですが、こちらは登山家が犯人となる中編です。つまり、山岳ミステリーの名手である著者の手によって書かれた、登山家による犯罪を描いた倒叙ミステリー。面白くないわけがないのです。ディティールの細かい物証や証言から犯人を追い詰めていくいつもの手際も見事ながら、「未完の頂上」で最も素晴らしいのは、最後の決め手です。容赦なく、しかし惚れ惚れとするような投了図。

     高村薫『マークスの山』(新潮文庫)真保裕一『ホワイトアウト』(新潮文庫)といった言わずと知れた名作なども読み逃せませんし、なんと傑作が多い分野であることか……(詠嘆)。ヤマケイ文庫も、阿部幹雄『生と死のミニャ・コンガ』、羽根田治『ドキュメント 単独行遭難』などなど、サークルの先輩の薦めで読んで、ある種、ミステリー的な欲求を満たすことが出来た本が多くあります。ちなみにそのサークルの先輩は、吉村昭が大好きなのです。彼がヤマケイ文庫にハマるの、めちゃくちゃ分かる。

    (2023年3月)

第51回2023.02.24
新刊詰め合わせ ~それと、誰得すぎる2022年雑誌短編傑作選~

  • アン・クリーヴス、書影

    カトリアナ・ウォード
    『ニードレス通りの果ての家』
    (早川書房)

  • 〇最近の仕事情報

     実業之日本社の雑誌「FORWARD Vol.6」(2月27日頃発売予定)に、中編「賭博師は恋に舞う」の前半が掲載されます。この中編、あまりに長くなりすぎて、後半はweb J-novelに分割掲載されるということになってしまいました(後半の掲載は3月中旬を予定しているようです)。同誌でコツコツと書いていた、〈九十九ヶ丘学園〉シリーズの第三作で(第一作は「RUN! ラーメン RUN!」、第二話は「いつになったら入稿完了?」)、今回は円居挽の〈ルヴォワール〉シリーズや、青崎有吾が「野生時代」で連載している「地雷グリコ」のシリーズに憧れを抱いて、いよいよギャンブル物を書いてみました。消しゴムで作ったトランプ(!?)を使って、昼休みにポーカーに勤しむおバカな男子高校生たちのバトルを描いたコンゲームです。駆け引きにはこだわりましたが、バカです(笑)。

    〇ここ三カ月の新刊紹介

     しばらく読書日記で最近の新刊の話が出来ていなかったので、2022年11月~2023年1月の間の新刊を、ピックアップして紹介しておこうと思います。絞りに絞って7冊。以下がリストです。

    ・エレノア・キャトン『ルミナリーズ』(岩波書店)
    ・ロビン・スティーヴンス(著)&シヴォーン・ダウド(原案)『グッゲンハイムの謎』(東京創元社)
    ・ステイシー・ウィリンガム『すべての罪は沼地に眠る』(ハヤカワ・ミステリ文庫)
    ・アマンダ・ブロック『父から娘への7つのおとぎ話』(東京創元社)
    ・チャック・パラニューク『インヴェンション・オブ・サウンド』(早川書房)
    ・ピーター・スワンソン『だからダスティンは死んだ』(創元推理文庫)
    ・カトリアナ・ウォード『ニードレス通りの果ての家』(早川書房)
     では、いきます。

     エレノア・キャトン『ルミナリーズ』(岩波書店)は700ページ二段組という超重量級の佇まいに思わず慄いてしまう、2013年ブッカー賞受賞作となったミステリー作品(ちなみに佇まいだけでなく値段も凄い)。19世紀ニュージーランドが舞台になっていることもあり、どこか大時代的な、のったりとしたテンポに浸れる本です。ウィルキー・コリンズの『月長石』を思わせるのは、時代設定が理由でしょうか。中盤に用意された法廷劇には思わず手に汗握ります。とはいえ、ミステリーというよりは、現代文学の味が濃い作品であり、帯文にある「ラスト2頁に全ての運命が収束する」という言葉も、ミステリー的な衝撃というよりは、登場人物たちに思いを馳せる感動の意味合いの方が大きいです。ちなみにこのラスト2ページだけ手っ取り早く読んで、読んだふりをしよう! とか思ったとしても、あの2ページだけ読んでも全く意味が分からないというシロモノなので、あしからず(笑)。

     ロビン・スティーヴンス(著)&シヴォーン・ダウド(原案)『グッゲンハイムの謎』(東京創元社)は、2022年に刊行された『ロンドン・アイの謎』の続編にあたる作品ですが、作者・ダウドの逝去により、ロビン・スティーヴンスが書き継いだ、という形(このあたりの事情は「作者あとがき」に詳しい)。とはいえ、他者が書き継いだとはとても信じられないほど、テッドたちの言動は生き生きと、しっかりと『ロンドン・アイ』と地続きに描かれていて、また彼らの冒険に立ち会える興奮を味わえる一冊でした。青系統の表紙である『ロンドン・アイ』と赤系統の『グッゲンハイム』と、対照的な装丁も素晴らしく、並べて持っておきたくなる作品。

     ステイシー・ウィリンガム『すべての罪は沼地に眠る』(ハヤカワ・ミステリ文庫)は、父が犯したとされる20年前の連続殺人が、現代によみがえって……という筋立てのサスペンス。ここまではありがちですが、冒頭の描写も含めて、女性がこの社会で生きる上で常に感じている恐怖にフォーカスを合わせ、そこをしっかり掘り下げているのが好印象。しっとりしたカリン・スローターといった読み心地。なぜ過去の殺人が「今」蘇ったのか、という理由づけもしっかりしていますし、真相隠しのテクニックにも思わずニヤリ。中盤、主人公がある理由で警察官に全然信じてもらえないのですが、このあたりのエピソードのイヤさもツボでした。

     アマンダ・ブロック『父から娘への7つのおとぎ話』(東京創元社)は、父親がかつて書いた7編のおとぎ話が収められた本を手掛かりに、幼い頃家を出ていってしまった父親を探す……という物語。この「7編のおとぎ話」は、各編が6ページくらいの短いファンタジーなのですが、この7編がそもそもショートショートとして良く出来ていますし、これらが当時の父親の心情を鏡のように映したり、父親探しの手掛かりになったりしていくなど、展開も工夫されていて読む手が止められない。第二部から第三部の展開には思わず「おおっ」と声が漏れましたし、第三部の会話劇にはグッと引き込まれました。ファンタジーもミステリーも好きな人、最近だと、フランシス・ハーディングが好きな人にオススメ。

     チャック・パラニューク『インヴェンション・オブ・サウンド』(早川書房)は、実に18年ぶりとなる著者の邦訳新刊! 言わずと知れた名作『ファイト・クラブ』、ノンストップで破滅に向けて堕ちる『サバイバー』、死の歌を描いた『ララバイ』など、とかく傑作揃いのパラニュークですが、最新作も凄いぜ。音響効果技師のミッツィと失踪した娘を探し続けるゲイツ。それぞれにクセがありすぎる語りを繰り出すこの二人の人生が交差した時、も~とにかく酷いことがハリウッドに起こる。本当に酷い。読者を切りつけてくるような切れ味のある文体は健在ですし、250ページを一気に読み通してしまうグルーヴ感も最高。訳者あとがきには短編集 “Haunted” の刊行が予告されていますが、これには「はらわた ――聖ガット・フリー語る」(ミステリマガジン2005年6月号収録)が収録されているはず。朗読ツアーで音読されると何人もの失神者が出たことで知られるヤバい短編です。ハッハッハ。ちなみに私は読んだ後、あまりに気分が悪くなって、しばらく「あるもの」が食えなくなった。男性諸君は必ずそうなる。いや、男性でなくてもそうなる。

     ピーター・スワンソン『だからダスティンは死んだ』(創元推理文庫)は、現代サスペンスの旗手であるスワンソンの邦訳五作目。いい刊行ペースで紹介されるので実に楽しい。今回は、ホームパーティーに誘われたヘンと、招待主であるマシューの二視点を行き来するサスペンスで、ヘンがマシューの家で、二年半前に起きた殺人事件の証拠を見つけてしまう冒頭もさることながら、次いで第二章で早くもマシューの視点を投入し、緊迫感を高めていく手法が効いています。スワンソンの作品では『そしてミランダを殺す』に匹敵するほど楽しませてもらった一作ですし、序盤・中盤・終盤と、サスペンスのツボを押さえたシーソーゲームが実にスリリング。2023年夏に邦訳刊行が予告されている ”Eight Perfect Murders” も実に楽しみ。スワンソンは、今作でも『大聖堂』や『時の娘』など過去の名作にさりげなく言及していますし、『アリスが語らないことは』では古書店が出てきてその傾向が深まるなど、過去作品への目配せや、そういうタイトルの忍ばせ方が上手い作家です。そんな作者が、フランシス・アイルズやアイラ・レヴィンなどの名作八作をモチーフに書くミステリーなのですから、これは面白くないわけがないでしょう。

    〇恐ろしく、そして哀切な……

     カトリアナ・ウォード『ニードレス通りの果ての家』(早川書房)は、英国幻想文学大賞、ホラー部門オーガスト・ダーレス賞などを受賞した幻想ホラー作品ですが、ヘンなミステリーが好きな人にもぜひ勧めたい逸品。とはいえ、解説で千街晶之が指摘している通り、非情に紹介が難しいタイプの作品なのは間違いありません。

     語り手の一人目はテッド・バナーマンという青年。彼は娘のローレンと猫のオリヴィアと共に暮らしてくるのですが、11年前に起きた「アイスキャンディの女の子」の失踪事件以来、不穏な生活を送っている男。何せ、天井裏に「緑色の少年たち」がいるとか言い出すし、カウンセラーのことは「虫男」とか呼び出す。もうどう読んでもヤバい。

     語り手の二人目はディーという女性。彼女は11年前に失踪した娘の姉です。彼女はある理由からテッドを犯人ではないかと怪しむようになり、周辺をつきまとうようになる……のですが、この女性も読み進めれば読み進めるほどヤバい。せめて信頼させてくれ、と思うくらいには不安になる。

     三人目……いや、三匹目? にあたるのが、テッドの家に暮らす、猫のオリヴィア。いや、猫が語るのは全然いいのだ。こちとら小学生時代から、財布が語り手を務める宮部みゆき『長い長い殺人』で鍛えられとるんじゃい。でもこのオリヴィアも、途端に聖書を引用しだしたりして、どうもヤバい。なんじゃ、このヤバい語り手しかいないヤバい小説は。

     ……と、自在な表現や、言葉から喚起される豊富なイメージ、そして不安を惹起される語りに酔いしれていると、中盤以降、サスペンスとしても俄然面白くなってきます。テッドが自分のための記録として、ボイスレコーダーに語り掛ける、という設定も効いていて、幾層にも折り重なる語りが、少しずつ混迷と解明を生んでいくのです。この読み味が実に素晴らしい。

     そして、真相の衝撃と、見事なエピローグ。ネタバレにならないように気を付けて言えば、これは、ミステリーでもホラーでももはや定番となってしまった「あるモチーフ」を、最も切実に描いた小説なのです。作者として、あるいは読者として反省することの一つに、物語の都合によって「お化け屋敷」にされてしまった現実の物事への申し訳なさがあります。作者が「このテーマなら君らこういうものが読みたいんでしょ」と露悪的なものを差し出し、読者としてもそれを楽しんでしまう、というような。カトリアナ・ウォードは、現実の体験を軸に、その現状に反旗を翻したのではないか、と思いました。この上なく美しい展開と文章、そしてイメージの力で。

     このあたりの事情は、作者自身が「あとがき」に詳しく書いているので、本編読了後に読んでください。ネタバレ全開なので、必ず、読了後に読むように。

     というわけで、その自在な語りだけでなく、作者の強いこだわりが垣間見えるネタの扱いに打たれ、早くも2023年の大偏愛作となった『ニードレス通りの果ての家』でした。騙されたと思って読んでみてください。訳者の中谷友紀子はC・J・チューダーも訳されていて、これからもこの訳者のホラーは積極的に摂取していきたい(ちなみに中谷訳で一番好きな作品はジェニファー・イーガン『マンハッタン・ビーチ』です。これはホラーではありませんが)。

    〇2022年の雑誌短編の話(誰得?)

     さて、本来ならここで終わってもいいのですが。

     とある事情で、2022年は雑誌短編を読みに読みました。どんな事情だったかは、まあ、早々に明らかになると思いますが(明らかになった瞬間、「そうだったとしても、そこまで読む必要はなかったのでは?」と言われてしまいそうなのが私っぽい)、せっかくなので、その記録も残しておきたいと思った次第。ちなみに、とある事情に関わる短編は抜いてあるので、ここに書くのはミステリー以外が多めですが、ミステリーも相当あります。

     毎号雑誌で短編を読むようになったのは、光文社からデビューしてすぐに、「短編の勉強になると思うから」と毎号「小説宝石」を送ってもらえるようになってからでした。それからは、通勤する時に何かしら雑誌を一冊持って行くか、もしくは時間のある時に喫茶店に入って、読み切り短編からエッセイまで、隅から隅まで楽しむようにしていました。大学生の時は、お金がなかったのもあって、「単行本になってからにしよう。二回読むことになっちゃうし」と思って雑誌はあまり買わなかったのですが、雑誌を読むようになると、面白いもので、雑誌で読んだ短編に単行本で行き会った時、昔馴染みに会ったような、嬉しい気持ちになるのです。一方で、単行本で読んでいる時は、「あれ、似たような話を読んだことがあるな」と思って読み進めていたら、奥付で改題と分かる、とか。そういう一個一個の出会いやら再会やらが、どうにも楽しくなってきました。

     そんなこともあって、2022年に読んだ短編小説でお気に入りのものについて、何かしら記録を残しておくのも面白いかもしれない、と思ったのです。あとで作品集にまとまった時「そうそう、アレだ」と思い出せるように。なのでこれは、私のための備忘録です。

     以下は取り上げる短編のリストです。リスト中では雑誌名を「 」なしで表記、文中では「 」ありで表記します。また、短編の初出時は太字で表記します。

    ・長江俊和「撮影現場」(小説新潮2022年2月号)
    ・町田そのこ「ドヴォルザークの檻より」(小説宝石2022年3月号)
    ・平山夢明「チンワクとアイロニックラブンずの巻」(小説宝石2022年3月号)
    ・北山猛邦「神の光」(紙魚の手帖vol.4)
    ・伊吹亜門「遣唐使船は西へ」(小説推理5月号)
    ・柄刀一「或るチャイナ橙の謎」(ジャーロNo.82)
    ・佐原ひかり「一角獣の背に乗って」(小説新潮2022年6月号)
    ・浅倉秋成「そうだ、デスゲームを作ろう」(ジャーロNo.83)
    ・方丈貴恵「一見さんお断り」(ジャーロNo.83)
    ・奥田英朗「ラジオ体操第2」(オール讀物2022年7月号)
    ・柳月美智子「さえずり」(小説宝石2022年7月号)
    ・斜線堂有紀「奈辺」(SFマガジン2022年8月号)
    ・石持浅海「夫の罪と妻の罪 犯罪相談員〈2〉」(紙魚の手帖vol.6)
    ・夕木春央「墓穴」(メフィストVOL.4)
    ・岩井圭也「捏造カンパニー」(ジャーロvol.84)
    ・佐々木愛「授乳室荒らしの夢」(小説推理2022年9月号)
    ・榊林銘「『昭和ふしぎ探訪』愛蔵版に寄せて」(紙魚の手帖vol.7)
    ・行成薫「子供部屋おじさんはハグがしたい」(小説宝石2022年11月号)
    ・逸木裕「炎を作った夏」(小説宝石2022年12月号)
    ・一條次郎「ビーチで海にかじられて」(小説新潮2022年12月号)
    ・米澤穂信「それから千万回の晩飯」(小説野生時代特別編集2022年冬号)

     長江俊和「撮影現場」(小説新潮2022年2月号)は「ミステリ特集」の中の一編。大学生の頃ドラマシリーズ「放送禁止」のハードな謎解きに熱中した身からすると、長江俊和の新作小説が続々読める今の環境は嬉しい限り。孤島に辿り着いた難破船の乗客たちを描く心理劇の映画を撮っている時に……というシチュエーションや、撮影現場で起こるトラブルの数々の裏に仕込まれた裏の構図など、「放送禁止」ファンの心もくすぐる作品。

     町田そのこ「ドヴォルザークの檻より」(小説宝石2022年3月号)は「小説宝石」の「胸キュン」小説特集の中の一編。一行目の「担任の先生のセックスを見たことがある」から胸を抉られる小説で、廃校になることが決定した小学校に集った卒業生たちの痛みと郷愁を描いていて、終盤の畳みかけにグッと胸を掴まれました。「小説宝石」7月号の「イマジナリー」、10月号「クロコンドルの集落は」も好きで、短編集にまとまるのが楽しみ。

     平山夢明「チンワクとアイロニックラブンずの巻」(小説宝石2022年3月号)も、その「胸キュン」小説特集の中の一編なのですが、これがこう、どうして「胸キュン」がこうなった、と言いたくなるような地獄巡りの短編であると同時に、なかなかどうして、実に「胸キュン」なのです(何を言っているんだ)。こちらは短編集『俺が公園でペリカンにした話』(光文社)にまとまっており、平山夢明流の地獄度MAXロードムービーを味わうことが出来ます。ぜひ。

     北山猛邦「神の光」(紙魚の手帖vol.4)は、実は読書日記第37回で既に取り上げた一編。1955年のネバダで一攫千金を夢見て訪れたカジノは、一夜にして姿を消した……という、大胆な「消失」ものの一編。タイトルからしてエラリー・クイーンの家屋消失ものの名品「神の灯」を思わせますが、稀有壮大なトリックの構図を目にしたとき、顎が外れるほど驚くこと請け合い。著者の作品だと「一九四一年のモーゼル」(ミステリーズ! extra 《ミステリ・フロンティア特集》)や「廃線上のアリア」(ファウストVol.4)などの未収録短編を思わせる、豪快さとロマンを両立した作品です。

     伊吹亜門「遣唐使船は西へ」(小説推理5月号)は「小説推理」の企画「どんでん返し」中の一編。著者らしい歴史ミステリーの設定を使った作品ですが、歴史ミステリー「ならでは」の企みが、フー・ハウ・ホワイ三拍子揃えて襲い掛かる構図の妙に舌鼓。幕切れがまたたまりません。謎解きや論理を超えた、大いなるものを立ち上がらせて終わっているところが。分量の短さも随一で、それゆえの切れ味の鋭さも光っています。

     柄刀一「或るチャイナ橙の謎」(ジャーロNo.82)は、〈柄刀版国名シリーズ〉の一編。2022年刊行のシリーズ第三弾『或るアメリカ銃の謎』には、表題作の他「或るシャム双子の謎」が書き下ろしで収められた形なので、この「或るチャイナ橙」は第四弾の短編集に収まるということでしょう。原典のエラリー・クイーン『チャイナ橙の謎』の「ある特徴」をパズラーの中に放り込みつつ、ロジックの要請の中で、異様な構図を立ち上げていく手法に快哉。今後のシリーズの行方も楽しみなうえ、『本格ミステリ・ベスト10』のインタビューでは〈柄刀版カー〉という胸躍る言葉も飛び出しています。くうう、やはり好きだ、柄刀本格。

     佐原ひかり「一角獣の背に乗って」(小説新潮2022年6月号)は一角獣が実在する世界での世話女たちの物語で、「叔母が死んだ。一角獣に蹴り殺されたそうだ。」という冒頭の一行からして鮮烈。『ブラザース・ブラジャー』や「そういうことなら」(『スカートのアンソロジー』収録)などでもジェンダーをテーマにした作品で魅せてくれ、『ペーパー・リリイ』ではロードムービーの型の中で展開される想像力に夢中になったのですが、「一角獣~」はめくるめく展開と胸の中を風が通り抜けていくような爽快感がたまらない。著者のことばにある「短篇の閃光めいたところが好きです。」という一節に、思わずニヤリ。

     浅倉秋成「そうだ、デスゲームを作ろう」(ジャーロNo.83)は今青春ミステリーでブイブイ言わせている作者のブラックな一面を体験できる怪作。そのものずばり、デスゲームを作る話です。にっくきパワハラ上司に復讐するため、デスゲームを作ってやるぜという設定からしてブラックな笑いが込み上げますが、試行錯誤を重ねて完成したデスゲームの――そのオチを見た瞬間、思わず抱腹絶倒。いやいや、まさに自在。「ジャーロ」での浅倉作品はvol.81「傘がない」「木道」、vol.85「ファーストが裏切った」など、粒よりの作品が集まっていて、これこそ、短編集でまとまるのが楽しみです。

     短編集でまとまるのが楽しみと言えば、方丈貴恵「一見さんお断り」(ジャーロNo.83)も楽しみ。これは犯罪者が宿泊するホテルを描いた〈アミュレット・ホテル〉シリーズの三編目で、半ば出オチ感のあるこの設定を使い倒しながら、うわっ、まだその手があったか、という驚きを演出してくれるのが楽しい。何よりも、この本格ミステリーの「楽しさ」が横溢しているところが、著者の作品の魅力です。

     奥田英朗「ラジオ体操第2」(オール讀物2022年7月号)は精神科医・伊良部一郎を描いた〈伊良部〉シリーズの短編。奇天烈な精神科医が、患者のお悩みを解決していく痛快なシリーズで、中学の時大ハマりしたのですが、久しぶりに読んでも温かく出迎えてくれる伊良部の姿にまずうるっと来て、のちに爆笑。今回のテーマは「アンガーマネジメント」ということで、主人公が「適切に怒れない」悩みを伊良部流の滅茶苦茶なやり方で解決するのですが、それがどう、タイトルの「ラジオ体操第2」に繋がるのか、というところで、このラストシーンに、窮屈な現代の中に一瞬のファンタジーを覗かせてもらった気がして、どうしようもなく心が温かくなるのでした。心の中の柔らかいところに触れてくるんですよね、〈伊良部〉シリーズ。

     柳月美智子「さえずり」(小説宝石2022年7月号)は、老人のリコーダー教室を描いた一編なのですが、この時の雑誌テーマは「「学校」に集う人々」。他の参加者が子供や卒業生、先生、保護者といった素材を選択する中、着眼点に唸りましたし、リコーダーがなかった世代が生涯学習教室でリコーダーを練習する、という設定にもくすぐられます。そしてまた、この老人たちと先生の悲喜こもごもの人間関係が、良い。「きらきら星」のメロディーに乗せて描かれていく、どこかやるせない展開がお気に入り。

     斜線堂有紀「奈辺」(SFマガジン2022年8月号)は1741年のニューヨークを舞台に、黒人、白人、宇宙人(!?)の三者のファーストコンタクトを描く逸品。斜線堂有紀はとにかく書き出しで掴む作家なのですが、この短編の二人の処刑死体を巡る情景が既に見事です。1741年の居酒屋での一幕など、細かな描写にもため息が漏れますし、ラストに至っては思わず快哉。今年作者は「SFマガジン」6月号の「骨刻」、『2084年のSF』の「BTTF葬送」、『ifの世界線』の「一一六二年のlovin' life」、「SFマガジン」12月号の「不滅」と、次々とSFの傑作を送り出していて、とにかく頭が下がります。凄すぎる。早くSF短編集で賞を取ってくれ。とりあえず「SFマガジン」のやつは来月(2023年3月)に早川書房から発売の『回樹』にまとまるはずだからみんな読もう。

     石持浅海「夫の罪と妻の罪 犯罪相談員〈2〉」(紙魚の手帖vol.6)は、殺人を考えている人々が「相談」に訪れるNPO法人、という、ねじくれにねじくれた設定が生きた倒叙ミステリーシリーズの二編目。この「犯罪相談員」は、「紙魚の手帖vol.5」内の「倒叙ミステリ特集」内で始動し、現在、2023年2月売りのvol.9で最終となる五話まで掲載されています。相談を聞いて思いとどまらせる……というのが一応の設定ですが、一筋縄ではいかないのが石持浅海流。この連作の素晴らしいところは、設定を生かしたどんでん返しを、様々なパターンで繰り出してくれるバリエーションの豊かさです。中でも、ブラックなオチが際立った「夫の罪と妻の罪」がお気に入り。この作品集、まとまったらすごいことになりますよ。

     夕木春央「墓穴」(メフィストVOL.4)は、2022年に『方舟』でブレイクした作者のノンシリーズ短編。それこそ、昔の「EQMM」や「ヒッチコック・マガジン」に載っていそうな、切れ味の鋭いクライム・ストーリーに仕上がっていて大いに好み。著者はこの「墓穴」を発表したのとほぼ同時期に、「小説現代」2022年8月号で「四月六日の生放送」という短編も発表しており、実に精力的です。『方舟』とここに挙げた短編二編はいずれも現代が舞台で、入り口にもうってつけの作品になっていますが、著者はもともと、『絞首商會』『サーカスから来た執達吏』で大正時代を舞台にした密度の濃い本格ミステリーを書いてきました(特に『サーカス~』はまるで山田風太郎の明治ものを読んでいるかのような爽快な冒険味も加わっていて、無類の読み心地)。現代劇ももちろん、また時代ものも、読んでみたいところ。

     岩井圭也「捏造カンパニー」(ジャーロNo.84)は著者の作品の中でもミステリー色が濃い、抱腹絶倒の一編。主人公たちが作った偽物の会社に、税務調査が入ることになった。やり過ごすには、「マジで」会社を作るしかない! この設定だけでも笑わされてしまうのですが、いよいよ税務調査が始まって、税務調査員と主人公たち三人の心理戦が始まると、密室劇の味わいが濃くなります。オチにもニヤリ。ちょっとブラックで自在な岩井ミステリーワールドは、ジャーロ掲載の「極楽」(ジャーロNo.82)などでも展開中。本にまとまるのが楽しみ。

     佐々木愛「授乳室荒らしの夢」(小説推理2022年9月号)は、今密かに好きでたまらない作者の一作で、もうタイトルから強烈だと思うのですが、これだけじゃなくて、「ブラ男の告白」(小説推理2022年8月号)、「EあるいはF」(小説推理2022年10月号)と、タイトルから鷲掴み。「授乳室荒らしの夢」は……そのものずばり、「授乳室荒らし」の話なのですが(笑)、この小説のポイントは、「わたし」が「あなた」に語り掛けるという、二人称小説の形式を取り入れていることだと思います。これが本編のテーマである、共感や、自分が「偽物」であるという悩みに繋がっていて、こうしたテーマや、二人称を取っていたことの意味、「授乳室荒らし」という存在が、パチッとハマったラストの会話劇に、思わずじーんとしてしまうのです。くそう、ずるいずるい。好きで仕方ない。

     榊林銘「『昭和ふしぎ探訪』愛蔵版に寄せて」(紙魚の手帖vol.7)は「奇跡の少女」を巡る物語であり、タイトル通り、この『昭和ふしぎ探訪』という作中作について、あとがき、単行本のあとがき……というように作者が何度も解釈を提示し、入れ子細工のように、あるいはタマネギのように、少しずつ様々な展開を見せる怪作。いわば「一人時間差多重解決」というべきシロモノになっています。この趣向にはくすぐられました。著者は「自殺相談」(紙魚の手帖vol.3)でも、Twitterの画面を紙面に取り入れた謎解きに挑んでいて、一編読むごとに驚かされるばかり。

     行成薫「子供部屋おじさんはハグがしたい」(小説宝石2022年11月号)は、同誌の特集「今いちばん主役になりにくい人たちの深いドラマ 「おじさんたち」の葛藤と小さな気づき」に寄せられた一編。このチャレンジングな企画名からして驚きますが、「子供部屋~」は、タイトルに殴られました。子供の頃思い描いていた「月並みな幸せ」すら得られなかったおじさんが、渋谷の街でフリーハグをしているという冒頭の光景にもノックアウト。それでいて、この話、ダンレボ小説なのですよ。ダンレボというのはゲームセンターにあるダンスゲーム「ダンスダンスレボリューション」のことなのですが(作中では「ダンレボ」ではなく「ダンジェネ」)、ダンス描写がアツいし、対戦相手の女性とのやり取りがシビれるし、作中の女性と同じタイミングで笑ってしまって、思わず頬が緩んだ。世界に向けて両手を広げる、優しくて、可笑しい小説。

     逸木裕「炎を作った夏」(小説宝石2022年12月号)は、海外ミステリーでよく描かれる「ガールズ・アンド・ガン」の主題を描いた短編ミステリー。少女たちと、そのドス黒い望みを叶えるために、その手中に与えられた無骨な武器。そのアンビバレントな取り合わせは、でもやはりどこかしっくりきていて、何度読んでも飽きることがありません。本編では、コロナ禍で閉業した父親の工場を利用し、銃を作る少女の姿が描かれます。拳銃を作る過程そのものが面白く、ありがちなところにすんなりとはオチない、強靭な足腰に感嘆の一作。作者は同月発売の「小説野生時代特別編集2022年冬号」に、『五つの季節に探偵は』のシリーズとなる「陸橋の向こう側」も発表していて、こちらも実に素晴らしい。

     一條次郎「ビーチで海にかじられて」(小説新潮2022年12月号)は、幻想世界に浸れる一編で、こう、感覚的すぎて申し訳ないのですが、とにかく可愛いんですよね。著者とは、伊坂幸太郎編のアンソロジー『小説の惑星 ノーザンブルーベリー篇』に収められた「ヘルメット・オブ・アイアン」で初邂逅を果たし、以来その作品世界の虜なのですが、もちろん寓話的な面白さもあって……でもそれ以上に、可愛い。『チェレンコフの眠り』のアザラシにもにまにましてしまったし、今回の「ビーチで海にかじられて」も、タキシードっぽいサメがやけに可愛くて……。一條作品を読むと、頭がほぐれるという意味でも、リフレッシュになるので好きです。

     この長い小特集もトリになりました。米澤穂信「それから千万回の晩飯」(小説野生時代特別編集2022年冬号)は、山田風太郎受賞作家である「私」(米澤穂信)に届いた一枚の葉書から、謎を紐解いていく、私小説風の仕上がり。山田風太郎から山田信次に宛てて送られたその葉書に書かれている「原稿」とは何か、当時の二人の関係性は。資料を紐解きながら、当時の彼らの姿を素描していく手法は、さながら北村薫の名シリーズ『いとま申して』を思わせます(北村薫の父が残した日記を基に、当時の折口信夫らの姿を描いていく傑作で、『いとま申して 『童話』の人びと』『慶應本科と折口信夫 いとま申して2』『小萩のかんざし いとま申して3』の全三巻)。タイトルは山田風太郎のエッセイ『あと千回の晩飯』のもじりですが、そこに込められた著者の想いを知った時、思わず心を揺さぶられる名品です。

     というわけで、誰得、って感じなのですが、2022年の好きな短編をまとめてみました。これからはちょくちょく書いていけば、こんな長大な原稿になることはないんですよね。反省します。

    (2023年2月)

第50回2023.02.10
現代英国の新たなる「女王」! ~アン・クリーヴス全作レビュー(仮)~

  • アン・クリーヴス、書影

    アン・クリーヴス
    『炎の爪痕』
    (創元推理文庫)

  • 〇最近のお仕事情報

    「小説新潮2月号」に短編「第三の短剣 ~迷探偵・夢見灯の読書会~」が掲載されました。古本屋店主の娘にして、読書サークルの読書会担当、夢見灯と、彼女に振り回される新入生、獏田格を主人公にした新シリーズの開幕です。設定は、読書会中にうとうと眠ってしまうと、夢見の不思議な力によって、夢の世界で読書会の課題本そっくりの事件に巻き込まれる……というトンデモ系の設定ですが、謎解きはシンプルなパズラーを目指すようにしてみました。シチュエーションだけが異常。あと、獏田君がかわいそう。可愛い羊も出てきます。第一回の課題本は、カーター・ディクスン『第三の銃弾〔完全版〕』! 色々パロディーしたい作品をやっていこうと思います。

     二月はまず、文庫解説が二件出ます。一作目は、辻真先『赤い鳥、死んだ』(実業之日本社文庫)。同文庫から文庫化された『夜明け前の殺人』『殺人の多い料理店』と本作『赤い鳥、死んだ』をあわせて、文学と本格ミステリーを掛け合わせた「三部作」となるようです。『夜明け前の殺人』の題材は島崎藤村、『殺人の多い料理店』は宮沢賢治、そして『赤い鳥、死んだ』は北原白秋。冒頭に「第五章」を配置して順番の入れ替えで目を惹いて見せるところや、各章冒頭に北原白秋の詩・童謡を配し、事件の展開もそれに重ねてみせるところなど、辻真先ミステリーの技巧の粋が結集された一作となっています。掛け値なしに、辻真先ミステリー中の重要作だと思います。ぜひ。

     二作目は、梶龍雄『清里高原殺人別荘ビラ 梶龍雄驚愕ミステリ大発掘コレクション2』(徳間文庫)。〈トクマの特選!〉の一冊ですね。『龍神池の小さな死体』『リア王密室に死す』と、梶龍雄作品の中でも脂の乗った傑作を続々復刊して来た〈トクマの特選!〉ですが、本作『清里高原~』も、衝撃の点では負けておりません。『龍神池~』の解説は三津田信三、『リア王~』の解説は大山誠一郎という並びなので、恐縮しながらお引き受けしたのですが、お二人が現役で梶龍雄に触れていた世代なのに対し、私はプレミア価のついた梶龍雄作品を後追いで追いかけた世代……ということで、そのあたりの世代的な思い出話も、解説に書かせていただきました。梶龍雄の他のオススメ作品もたくさん挙げておいたので、トクマの編集にもテコ入れになっているといいな……。

     ということで、『赤い鳥、死んだ』と『清里高原殺人別荘』、どちらもおすすめですのでぜひ!

    〇新ミステリーの「女王」、アン・クリーヴス

     私が翻訳ミステリーの新刊を積極的に読むようになったのは、中学三年生、ジェフリー・ディーヴァーの『ウォッチメイカー』の単行本を学校の図書室から借りて読んだ瞬間からです。もちろん、海外作品は高く、中高生のうちはなかなか手が伸びなかったので、本格的に自分で買って読むようになったのは、大学に入ってからですが。

     そんなわけで、かれこれ、翻訳ミステリーの新刊を漁り続けて十三年が経つわけですが、この間、「この人の新刊がコンスタントに出てくれたおかげで、翻訳ミステリーをずっと楽しんでいられたな」と思える作家が何人かいます。さっき名前を挙げたジェフリー・ディーヴァー。あるいはジャック・カーリイ。サラ・ウォーターズ。ミネット・ウォルターズ。アンデシュ・ルースルンド(ベリエ・ヘルストレムとの共著である〈グレーンス警部〉シリーズや、ステファン・トゥンベリとの共著『熊と踊れ』も含めて)。最近で言えば、アンソニー・ホロヴィッツはその筆頭です。ヘニング・マンケルは、第19回で書いたように、一年で読み通してしまいましたが、そうでなければ、この作家群に含めることが出来たでしょう。

     そうした作家、つまり、コンスタントに良作を生み出し、共通のトーンを持ちつつも、あの手この手で楽しませてくれる作家――。こういう作家が数年に一回、あるいはそれ以上のペースで読める、つまり翻訳されることで、豊かな土壌が築かれて、その中でぬくぬくと自分は育った……という実感があります。翻訳ミステリーだと、賞を取るとか、凄まじく評判の良い一作だけが訳されて、山のように「初めましての人」を読まないと行けなかったりするので(それはそれで楽しいんですけど)、安心出来る作家が何人もいるというだけで全然気持ちが違うんですよね。例えば最近だと、『だからダスティンは死んだ』でまたもクリーンヒットを飛ばしてくれたピーター・スワンソンや、女性の痛みを書きながらスリラーとしても絶好球を打ち続けるカリン・スローター、一作ごとに警察官の人生の物語を噛み締めさせてくれる、『レイン・ドッグズ』などのエイドリアン・マッキンティが、このポジションの作家です。

     そして、私にとって、これら「安心出来る作家」の筆頭であり続けてきたのがアン・クリーヴスだったわけです。もしかすると、私の偏愛度に限って言えば、先に挙げた作家を全員凌駕するかもしれません。警察小説としての捜査の面白さと、本格ミステリーとしてのフーダニットの精妙さ、どろどろにこじれた小コミュニティーを描く英国ミステリー独特の香気。こういった特徴は、部分的に、コリン・デクスターの〈モース警部〉シリーズ、ピーター・ラヴゼイの〈ダイヤモンド警視〉シリーズ、P・D・ジェイムズの〈アダム・ダルグリッシュ警視〉シリーズに重なり合っています。好きな作家の魅力を引き継いでいるように感じられることも、アン・クリーヴスという作家への安心感が生まれる原因になっているかもしれません。

     創元推理文庫で翻訳されてきた〈シェトランド四重奏〉シリーズは、2022年12月に刊行された『炎の爪痕』で最終作を迎えました。今回は、その刊行を記念して、アン・クリーヴス邦訳全作レビューをしてみようと思います。

    〇作品リストと概要

     まず、〈シェトランド四重奏〉のリストを挙げてみましょう。この〈四重奏〉には前半四部作と後半四部作が存在し、物語的にも大きな転換点がありますし、作品のモチーフも前半と後半で大きく異なることになります。〇と◎に分けたのは、◎が特におすすめの作品、という感じです。とはいえ、アン・クリーヴスの作品のクオリティーは総じて高く、全てが良作以上なので、〇と◎の間に大きな差があるわけではないのですが……。

     前半 四季と黒白赤青の四色がモチーフ
    〇『大鴉の啼く冬』 Raven Black
    ◎『白夜に惑う夏』 White Nights
    ◎『野兎を悼む春』 Red Bones
    〇『青雷の光る秋』 Blue Lightning

     後半 四元素がモチーフ
    〇『水の葬送』 Dead Water
    〇『空の幻像』 Thin Air
    ◎『地の告発』 Cold Earth
    〇『炎の爪痕』 Wild Fire

     イギリス最北端の地、シェトランドを舞台に、小さなコミュニティーの中での犯罪を描くのが、このシリーズ最大の特徴です。誰もが顔見知りであるがゆえに、強固な偏見が生み出されたり、色眼鏡で相手を見てしまったりする。このシリーズでは、警察関係者と事件の関係者たち、複数の視点から事件を叙述しており(大抵は四つの視点)、それぞれのカメラ・アイが持つ偏見や色眼鏡が、巧みに犯人を覆い隠してしまう。このあたりが、フーダニットとしての絶妙な巧さに繋がってきます。

     言ってみれば「地味」な作品群です。派手な展開はなく、ジミー・ペレス警部が一歩一歩着実に、事件の核心に分け入っていく手つきを味わい、シェトランドの風景描写や、人間心理の緻密な描写を、ゆっくりと、ゆっくりと味わうべき作品です。以前読書日記でも話したことがありますが、私は「地味」という言葉を、褒め言葉として使っています。センセーショナルに流れず、堅実さを重んじるがゆえに生まれる「地味」さは、謎と捜査の世界に耽溺するために、最も重要なものです。それほど元気がない時も、「地味」な作品なら肌に合い、読み進めることも出来ます。

     そもそも、一作目『大鴉の啼く冬』でさえ、ジミー・ペレスの初登場は48ページが初めてなのです。なんというペース。その記念すべき初登場シーンを引用してみましょう。画家のフラン・ハンター(彼女もシリーズの超重要人物です)の視点で描かれたシーンです。

    “男の顔が見えた。印象派の画家が描いたような顔。窓ガラスの水滴と汚れで、ぼやけている。ぼさぼさの黒い髪、力強い鉤鼻、黒い眉毛。よそ者だ。あたしより、もっと遠くからきた人間。地中海、いや、北アフリカの出身かもしれない。そのとき、男がふたたび口をひらき、教育を受けて弱められているものの、そのアクセントがシェトランド人のものであることがわかった。
    (中略)
    「ペレスといいます」男がいった。「警部です。質問にこたえられますか?」“(『大鴉の啼く冬』、p.48~p.49)

     ここの描写だけでも、アン・クリーヴスの筆力が伝わると思いますが、肝心なのは、さりげなく、しかし鋭く置かれた「よそ者だ」という言葉でしょう。誰もが顔見知りであるシェトランドでは、「よそ者」、アウトサイダーに対する本能的な拒否反応がある。このシーンでは、フランが「なぜこの男は自分の名前を知っているのか」と不審がっていることもあり、やや不安めいた響きが強調されています。その直後に、「そのアクセントがシェトランド人のものであることがわかった」と書き、ペレスがフェア島の出身であることをさりげなく印象付けています(フェア島はシェトランド諸島とオークニー諸島の間にあり、地理的には近い立地です)。この後に記述がある通り、名前にもスペイン風の響きがあるというのもあって、気質としてはシェトランドに近いところで育っているにもかかわらず、幾重にも「よそ者」として区別された存在として、ペレスは登場するのです。

     ジミー・ペレスという男は、口数少なく、相対していると相手のほうが沈黙に耐えかねて話し始めてしまうような男です。彼は事件にまつわる謎と、関係者のことを、じっと見つめてひたすらに理解しようとする。そんな彼だからこそ、複数の視点の陰に隠れた犯人の姿を、常に捉えることが出来るのでしょう。

     彼のライフイベントを追いかけることも、〈シェトランド四重奏〉の最大の愉しみです。今引用したフラン・ハンターとの出会いが既に、重大な出会いになっているのですが、彼女の娘であるキャシーや、新米の巡査であるサンディ・ウィルソン、あるいは後半四部作で登場する女性警部のウィロー・リーヴズ。彼らがペレスの人生にどのように絡み、ぺレスの人生はどのように展開していくのか。こればかりはネタバレできませんので、これからの全作レビューでもぼかしていきます。

    〇全作レビュー開始!

    1、『大鴉の啼く冬』

     新年。孤独な老人、マグナス・テイトは誰かが家を訪れてくれるのを待っていた。彼のもとに二人の少女が訪れた四日後、そのうちの一人、キャサリン・ロスが雪原で死んでいた。誰が、なぜ、彼女を殺したのか。捜査を進めていくと、八年前にも似たような少女失踪事件が起こり、その時もマグナスが疑われたことが分かるが……。

     さあ、まずは第一作です。この一作目からして、「視点の不確実さ」を冒頭から見事に突き付けてくれます。マグナス・テイトの視点から描かれた「新年の訪問」は、どう見ても、浮かれた気分の日ならではの小さな幸福の話であるにもかかわらず、次いで高校生サリー・ヘンリーの視点を読むと、彼女たちは「肝試し」のために、気味の悪いマグナスの家に行ったことが明かされます。わずか20ページのうちに、マグナスは「信頼出来ない語り手」の地位に転落するのです。

     マグナスは知的障害があり、母の庇護のもとで育ってきたが、今は母を喪って一人である……という設定なこともあって、一人きりの孤独な老人であるマグナスの記述は、過去と現在が奇妙に溶け合っており、ますます不安にさせられます。

     彼はこの事件に関わっているのか。関わっているとして、どのような関わりなのか。一人の女子高生の死が島に波紋をもたらしていくありさまを、ペレスは静かに観察しながら、真相に迫っていきます。『大鴉の啼く冬』は、真犯人指摘の演出だけ取り出せば、シリーズ一、二を争う見事なものになっており、そこも読みどころになっています。

    2、『白夜に惑う夏』

     白夜の季節、観光客は浮足立ってこのシェトランドを訪れる。ペレスが絵画展で出会った男は、次の日、道化師の仮面をつけて、首吊り死体となって発見された。彼は一体何者なのか。誰が、なぜ殺したのか。本土インヴァネス署の警部、テイラーとペレスはタッグを組み、本土と島を股に掛けた捜査を行うが……。

     読みどころの多い一作です。順番にいきましょう。第一は「白夜」。なんといっても白夜です。北欧ミステリーの「夏」を描く専売特許であるこの現象を、イギリス最北端の地シェトランドでは、英国ミステリーの世界に組み込むことが出来るのです。ひゃっほう。

    “一年のこの時季は誰もがすこし頭がおかしくなる、とペレスは考えていた。光のせいだ。昼間はぎらぎらと降りそそぎ、夜になっても消えない光。太陽は決して完全には地平線の向こうには沈まず、そのため真夜中でも、外で読書ができる。冬があまりにも暗くて厳しいので、夏になると人々は一種の躁状態におちいり、ひたすら活動しつづける。”(『白夜に惑う夏』、p.24)

     この現象があるからこそ、観光客も集まるのです。誰もが活動的で、イライラもする季節に、身元不明の男の死体という異様な事件が起こる。これだけでも不気味なのですが、重要なのは、観光客という形で「よそ者」がこの地にもたらされることです。あまりにも完璧なプロローグの3ページとか、本屋で見かけたら読んでみてほしい。

     さてさて読みどころの第二。その「よそ者」を代表するが如く、一作目に引き続き登場する、本土インヴァネス署の主任警部、ロイ・テイラーです。前作でも活躍しているのですが、今回は大活躍。もうのっけからこんな感じです。

    “ジミー・ペレスが迎えにきていた。彼とは前回の捜査で協力しあい、上手くいっていたが、それはおたがいの流儀がまったくちがっているからかもしれなかった。ペレスが彼のチームの正規のメンバーだったら、テイラーはその風変わりな取り組み方、長い髪、緊迫感の欠如に、いらだっていただろう。だが、ここシェトランドでは、ペレスのゆったりとしたやり方が功を奏するようだった。”(『白夜に惑う夏』、p.165)

     本土のやり方と、島のやり方。ある種、対立する「ライバル」として活躍するのがこのテイラーなのですが、前作ではサブに甘んじた感のある彼が、本作では実に良い味を出してくれるのです。また良いのが、ペレスもテイラーも、白夜の気候のせいでイライラしていること。彼とペレスのラストシーンとか、とてもいいんだよなあ。

     最後はもちろん、フーダニット。今回は、シリーズ読者が前作のイメージをダブらせることによって生じる演出のうまさなどもあり、一段と磨きがかかっています。

    3、『野兎を悼む春』

     春。シェトランド署のサンディ・ウィルソン刑事は、ウォルセイ島に帰省する。家族はウサギ狩りに出かけ、近くでは発掘作業が行われている。そんな状況で、ウサギ狩りの誤射で死んだとみられる、祖母の死体をサンディは発見してしまう。それは、ただの誤射事故のはずだったが……。

     あ~っ、これこれ、これなんですよ。事故なのか事件なのか分からないギリギリの線で起こった事件、という、このスーパーウルトラ「地味」な事件。最高過ぎませんか? 最高過ぎですね。

     本書の最大の魅力は、これまで脇役に徹してきた、しかし、これからシリーズ中の重要人物になっていくサンディ・ウィルソンの「家族」の物語に踏み込むことです。彼の祖母、ジェマイマは、死体となって早々に事件から退場するにもかかわらず、作中で最も強烈な印象を残す登場人物になっていて、「被害者の物語」を丹念に紡いでいくことが、このシリーズのキモなのだということを再確認させられます。

     謎解きの点でも、本書はシリーズトップクラスの精密さを誇っています。錯綜した家族の人間関係と、発掘現場の人々の関わり。その裏に隠された真相が一つ、また一つと明らかになるたびに、事件の様相が大きく変わっていく。これこそ、本格ミステリーの面白さと言いたくなるような一作です。何か一作だけオススメするなら、『白夜』『地』としばらく悩んだ末、この『野兎』を差し出すのではないかと思います。

    4、『青雷の光る秋』

     ペレスは婚約者のフランを両親に紹介するため、故郷、フェア島を訪れていた。しかし婚約祝いの席になるはずだった旅行は、フェア島が嵐で孤立し、島のフィールドセンターの職員が殺害されたことで、ペレスの単独捜査の舞台に変貌する。ひとりきりで捜査する彼が、遂に辿り着く真相とは?

    〈シェトランド四重奏〉、その前半のラストを飾る話です。そのせいもあってか、嵐の孤島というセンセーショナルな舞台が選択され、孤軍奮闘であるがゆえに、捜査小説らしいきびきびした読み味があるというわけでもありません。「よそ者」の物語である〈シェトランド四重奏〉において、外に出るというだけでも、いつもと違います。はっきり言って異色作ですし、ここが本作の評価を分ける最大のポイントになると思います。

     さて、本作はシリーズにとっての転換点にあたる作品であるため、なるべくネタバレにならないように書かなければならないのですが、本作のミステリーとしての最大の魅力は、「ジミー・ペレスが『理解出来ない』犯人に遭遇すること」だと思います。ペレスという男は、ゆったりとしたやり方で、目の前の事件を、人を、徹底的に『理解』して謎を解く男でした。そんな男が、聞いて、聞いて、『理解』しようと努め抜いたにもかかわらず、『理解出来ない』。シリーズ上の大転換となる作品に、ミステリーとしても、こういう仕掛けの事件を配して見せるあたりも、やはりクリーヴスは巧者だと感じさせられます。

    おまけ:「運転代行人」(「ミステリーズ!vol.24」収録)

     全作レビューをうたうからには、未収録短編も一つ拾っておきましょう。これはクリーヴスが『大鴉の啼く冬』の原書を刊行する以前、本国では2001年に刊行されたアンソロジーに収録された短編です。「ミステリーズ!」の紙面でわずか10ページという短い作品ながら、切れ味鋭いサスペンスに仕上がっています。指定の場所まで運転して届ける職業である「運転代行」を務める男と、ヒッチハイクをする女、この二人の「密室劇」とでもいうべき作品です。

     シェトランドの寒いイメージと違い、七月のイギリス東海岸、熱い盛り、陽炎の揺らめく中……というシチュエーションを扱っているのも新鮮な一編。これを機会にピックアップしてみました。

    5、『水の葬送』

     小船にのせられて外海に出ようとしていた、若い新聞記者の死体。記者は、島にある石油ターミナルについての取材で帰省していたらしい。インヴァネス署の新任の女性警部、ウィロー・リーヴズが事件の捜査にあたるが、錯綜する人間関係を紐解くには、病気休養中のペレス警部の協力が欠かせない。ペレス、再起なるか――。

     さあ、第二部の一作です。第二部の特徴となるのは、なんといっても新キャラクター、ウィロー・リーヴズです。ペレスとタッグを組みつつも、時に意見の衝突を起こしたり、時に分かり合ったり、時に男女としても接近していくこの警部の存在が、第二部自体に、これまでと違った雰囲気をもたらしています。

     また、『水の葬送』では、複数の殺人事件を巡って、きびきびとした捜査小説の味わいが強調されている感があります。現場間の移動の描写がわりあい多めなのとか、エネルギー問題がテーマになっているのもあって、俄然警察小説風味になっているのも魅力といえるかもしれません。

    6、『空の幻像』

     失踪する前日、エレノアは言った。「浜辺で踊る白い服の女の子を見た」。それは1930年に溺死した「小さなリジー」の亡霊だったのか? 夫や友人たちと島を訪れていたエレノアの周辺で、一体何があったのか。

     来ました、イギリス流、ゴースト・ストーリーの一編です。イギリスと来れば幽霊譚はつきもの。いわゆる超自然のものとして作品に組み込み、幻想譚として演出するパターンもありますし、合理的に解体しきってしまう時もありますが、イギリスのゴースト・ストーリーは前者のほうが多い印象。その系譜を汲んでか、怪異としての謂れはしっかりと描かれつつ、現実のものと解釈する場合も不可解な点が残る……という、奇妙に宙吊りにされた処理の仕方が見事です。

     メインとなる登場人物たちが、そもそもシェトランドを訪れたアウトサイダーだというのもあって、ある意味これも、異色編といえる読み味になっています。また、本作はフーダニットの点でも、綱渡りのような犯人当てが炸裂する雄編になっています。初読の時に、思わず、ほうっとため息が漏れたことをよく覚えています。同作は、この点を捉えて、「2010年代ベスト海外本格ミステリ座談会」(「ジャーロ」77号掲載)でも私が推薦した作品でした。

    7、『地の告発』

     ペレスはマグナス・テイトの葬儀に参列していた。しかし、その時、墓地や近くの農場が巻き込まれる地滑りが発生。その土砂が直撃した家から、赤いドレスの死者が見つかる。彼女は一体誰なのか。身元不明の死体を巡る捜査の旅路の果てに、たった一人で立っている、その犯人とは。

     長期シリーズのこういうところがずるいと思うのです。マグナス・テイトとは、言うまでもなく、第一作『大鴉の啼く冬』の主要人物だった彼です。その葬儀のシーンが描かれるというだけでも、じーんと来てしまうのですが、何よりも凄いのは、地滑りという自然災害を書きながらも、決してセンセーショナルに流れない、その堅実な書きぶりです。地滑りは、ある種偶然に、隠されていた秘密を明らかにしただけでなく、その被害の光景だけで否応なしに人の不安を煽り立ててもくる……そういう「現象」として、ドライに、しかし効果的に描かれています。

     身元不明の女性の謎を追う、中盤までの「被害者探し」の旅路は、著者が『白夜に惑う夏』や『野兎を悼む春』で試みてきた、「被害者を描く小説としての本格ミステリー」の総決算とでもいうべき内容になっています。シリーズならではのピンチの演出もスリリングで、実に読ませる一冊です。

    8、『炎の爪痕』

     フレミング一家が引っ越してきたシェトランド本島の家は、前の持ち主が首吊り自殺を遂げたというかどで悪評の立っている家だった。何者かが敷地に侵入しては、ハングマン(首吊り男)のイラストが描かれた紙片をばらまき、フレミング一家は中傷に苦しめられるが、同じ納屋で第二の首吊り死体が発見される……。

     最後を飾る作品ですが、驚くほど、いつも通りです。それこそがこのシリーズ最大の魅力と言えるかもしれません。「ハングマン」の紙片は、イギリスミステリーにたびたび登場する「中傷の手紙」と似たような効果を持っていて、生々しい人の悪意を象徴する小道具として、実に巧く使われています。また、犯人当ての点でも、本作の狙いは見事。特に、読了後冒頭を読み返した時に、アン・クリーヴスの緻密に計算された狙いに気付かされるでしょう。

     複数の家族にまつわる物語というポイントに、綺麗にフォーカスしているのも、ミステリーとしての美点。複数の視点の死角に巧みに隠された犯人……という特徴は、〈シェトランド四重奏〉の最終章となる本作にもきっちりと現れています。『地の告発』での登場人物の危機が尾を引いているのもあって、スリリングなラストシーンに仕上がっているのも好ましい。

     フランとの出会い、キャシーとの出会い、ウィローとの出会い。ペレスの人生に幾つも巻き起こって来たライフイベントも、本作で総決算が迎えられ、一歩一歩、確かな足取りで、自分の人生に降りかかるトラブル対処し、決断してきたペレスが、最後に辿り着く景色は、決して派手ではありませんが、確かな感動をもたらすものです。

    〇まとめ

     さて、ここまで、アン・クリーヴスの傑作ミステリーシリーズである〈シェトランド四重奏〉の全作を紹介してまいりました。もちろん、『大鴉の啼く冬』から行くのが常道ではあるのですが、気になった作品から手を出してみるのもアリでしょう。ただ、『青雷の光る秋』の前後で、決定的な転換が起こってしまうので、(前半三作順不同)→『青雷の光る秋』→『水の葬送』→(後半三作順不同)の順番は、なるべく守るようにしたほうがいいかもしれません。

     アン・クリーヴスの確かな描写力と筆致は、ゆっくりと、かみしめるように読むのに適しています。これほど豊饒なシリーズが途中で途切れることなく、全八作、全てが邦訳されたのが本当に喜ばしいです。このシリーズを読み続けることによって、一段と翻訳ミステリー好きに育てたと思っています。

     ところで、冒頭で「アン・クリーヴス邦訳全作レビュー(仮)」としておいたのは、早川書房の2023年刊行予告によれば、アン・クリーヴスの〈マシュー・ヴェン〉シリーズの邦訳が始まるからです。3月に刊行の『哀惜』(原題 ”The Long Call”)がそれのようです。

     なので、これは来月までの短い間のみ通用する「邦訳全作レビュー」になるのです。その意味での、カッコカリ。まあ、3月下旬の刊行に合わせて、『哀惜』のレビューも書こうと思っていますが。

     あとはアン・クリーヴスの有名シリーズ、〈ヴェラ・スタンホープ〉のシリーズをどこかで訳してくれないものか。だってもう、これだけ読んでも、まだ読み足りないんだもの。

    (2023年2月)

第49回2022.12.23
クリスマスには仁木悦子を! ~江戸川乱歩賞受賞の傑作、三回目の再読~

  • 仁木悦子、書影

    仁木悦子
    『猫は知っていた 新装版』
    (講談社文庫)

  • 〇クリスマスには……?

     クリスマスに出す原稿は今まで、第5回にはクリスマスを描いたマイ・シューヴァル&ペール・ヴァールー『笑う警官』の精読記事(?)を挙げて、第29回には我が「聖典」ということで法月綸太郎の評論集の特集を組んだりしたところ。今回は、クリスマスの更新というわけではないのですが、私にとっての「クリスマス」のイメージがある作家を取り上げたいと思い、仁木悦子回を持ってきました。

     理由は色々あるのですが、今回の日記を書くきっかけとなったのは、仁木悦子のデビュー作である『猫は知っていた 新装版』(講談社文庫)が10月14日に刊行され(入院の直前)、これを機に三度目の再読をしようかと思い立ったこと。そして再読した結果、旧版から再録の大内茂男の解説は好きだけれども、どうせなら新装版の解説が欲しかったなあと思ったので(帯に有栖川有栖の推薦文はありますが、やはり解説も欲しい)、北上次郎の『勝手に! 文庫解説』の向こうを張るわけではもちろんないですが、何か自分なりに思っていることを書き留めておこうかな、と思ったということです。

     2019年に世田谷文学館で「仁木悦子の肖像」展が開かれた時、寺山修司との書簡のやり取りや、仁木悦子の創作ノートやプロット表などを見て、大いに刺激を受けたことを今でも覚えています。創作の方法については、ポプラ文庫ピュアフル版『林の中の家 仁木兄妹の事件簿』に収録された「悠久のむかしのはなし ――「林の中の家」――」と題された仁木悦子によるエッセイにも書かれていた「カード方式」や「時間のグラフ」の方法が展示されていたのです。「時間のグラフ」というのは、登場人物たちの動きを示したものですが、「カード方式」というのは、作中で起こる出来事の順序を決めたり、表面に現れた事実と作者だけが知っている真相とを整理したりするために、出来事を書いたカードを作って、配置したり入れ替えたりするというものです。この方法には大いに刺激を受け、私自身、登場人物が多くなった『録音された誘拐』という作品でこの「カード方式」を取り入れました。

     そのくらい、仁木悦子は好きな推理作家で、大いに影響を受けているのですが……『猫は知っていた』との出会いは、今から思い返すと、幸福なものではなかったかもしれません。今日は、名作と再読に関わる話から始めてみようと思います。

    〇『猫は知っていた』について

     まずは、この記事を書くきっかけになった『猫は知っていた』の話をしましょう。本作は仁木雄太郎・仁木悦子兄妹の活躍を描いていて、作中の登場人物と作者の名前が同じという、エラリー・クイーンの趣向を地で行った形。妹の悦子の冴え渡る直感と、頭脳派の兄・雄太郎のロジックとの掛け合わせで、犯人を追い詰めていく痛快な作品です。『猫は知っていた』の時点では、悦子も雄太郎も学生ですが、後の長編『林の中の家』『刺のある樹』などでは、それぞれ成長した姿を見せてくれて、特に雄太郎が口うるさい植物学者になっているあたりがツボなのですが、この植物の知識が謎解きに生きてくる作品もあるので、油断なりません。悦子と雄太郎の溌溂とした会話劇と、快刀乱麻を断つような推理、縦横無尽に張り巡らされた伏線、そして全体に満ち溢れる健康的な雰囲気が、この〈仁木兄妹〉シリーズの魅力と言えます。

     と、いうのが概要なのですが、私はこうした『猫は知っていた』の良さを、初読時には何も掴み取っていませんでした。読んだきっかけは、2010年に、ポプラ文庫ピュアフルから中村佑介表紙で『猫は知っていた』が復刊されたからです(当時は森見登美彦作品に大ハマりしていて、中村佑介のイラストに目がなかったのです。ポプラ文庫ピュアフルからはこのほかに、先にも登場した長編『林の中の家』『刺のある樹』と、オリジナル短編集『私の大好きな探偵』『子供たちの長い放課後』が刊行)。とはいえ、当時は中学三年生。脂ぎったトリックや、目を回すようなロジック、もしくは、陰鬱とした心理描写などを求めてやまなかった時期です。そういう時期に読んだからか、もしくは、「名作だ」「傑作だ」と煽られ続けたからか、『猫は知っていた』が薄味に感じられて、あんまり楽しめなかったのです。友人の斜線堂有紀にも、「阿津川辰海は兄妹の話は好き」と確定診断を食らっているほどで、その趣味は当時から変わっていないはずなのに、なぜ、と首を捻るばかり。

     こんなことを書くのは、名作と呼ばれるものに挑んだ時の素直な気持ちを、一つでも多く書き残しておきたいなあと思う故ですし、第38回でレイモンド・チャンドラー『長い別れ』の再読遍歴を晒したところ、身近な人から結構反響があったので、「あえてこういうことを書いておくと、誰かの安心になるかもしれないな」と思うので、書いておきます(ちなみに、次の段落を読めば分かるように、私は仁木悦子のことが大好きなのであしからず……。しばらく私の昔の苦闘にお付き合いください)。

     しかし、大学二年の時に状況は変わります。仁木悦子に大ハマりしたのです。きっかけになったのは、『冷えきった街』という作品でした。私立探偵・三影潤を主人公としたハードボイルド小説で、クールな筆致そのものにシビれましたし、苦み走った結末にも、当時ハマっていたロス・マクドナルドの作風を思い出し、大いに魅了されたのです。『緋の記憶』『夢魔の爪』など、三影潤の登場作品を収集するところから始めて、仁木悦子のパズラーの魅力に少しずつ開眼していったのです(三影潤の登場作品は、長編『冷えきった街』を含めて、創元推理文庫の『冷えきった街/緋の記憶 日本ハードボイルド全集4』で美味しいところが読めるので超おすすめです)。

     特に好きなのは、複雑な構図を読者にも分かりやすくプレゼンテーションする技術に舌を巻いた『殺人配線図』『二つの陰画』や、『冷えきった街』にもあった苦みを味わえる、私立探偵・砂村朝人ものの『青じろい季節』。また、子供を視点に据えた作品にはとにかくはずれがなく、「かあちゃんは犯人じゃない」『粘土の犬』収録)、「穴」『穴』収録)などなど、短編に宝の山が眠っていました。少し脱線すれば、短編集には本当にはずれがなく、最近新刊で出た中公文庫の『粘土の犬』、ちくま文庫の『赤い猫』、光文社文庫の『死の花の咲く家』あたりから読み始めるのもアリです。この中だと『粘土の犬』がイチオシでしょうか。「かあちゃんは犯人じゃない」もいいですし、仁木兄弟ものの「弾丸は飛び出した」が好き。おまけにこの中公文庫版『粘土の犬』には、仁木悦子の短編の中からえりすぐりの物が揃った『赤い痕』の四編も同時収録されています(「赤い痕」「みずほ荘殺人事件」「おたね」「罪なきものまず石をなげうて」)。

     ……と、早口で語ってしまうようになるほど、大学二年時点の私は、仁木悦子に大ハマり。その時私は、再読……二度目の『猫は知っていた』に挑むことになるのです。これはミステリー読みによくある現象で、「名作・代表作バイアス」と私が勝手に名付けているものだ、と。つまり、名作だ代表作だと煽られれば煽られるほど、期待が高まってしまって楽しめず、逆に身構えずに読んだ名作・代表作以外の二作目・三作目のほうが楽しめるという……。私の体験で言うと、松本清張の『点と線』であるとか(その後に読んだ『眼の壁』や『ガラスの城』で楽しめるように)、鮎川哲也の『黒いトランク』であるとか(その後に読んだ『鍵孔のない扉』と『ペトロフ事件』で楽しさが分かり、今では全作品好き)、ああいう類の不幸な出会いだったんだ、と。

     そんな気持ちで臨んだ『猫は知っていた』の再読……しかし、結論から書いてしまえば、私はこの二回目でも、『猫は知っていた』の楽しさに開眼できなかったのです。なんたる恥知らず……。その理由は単純で、他の仁木悦子作品を、この時期大量に読んでいたからです。仁木兄妹の長編は、この後『林の中の家』『刺のある樹』『黒いリボン』と続くのですが、特に『林の中の家』が傑作で、縦横無尽に張り巡らされた伏線の量と、その伏線から推理を導き出していく手つきの確かさと言ったら、思わず唸ってしまうほど美しいのです。そういう印象が手伝ってか、「仁木悦子で一作と言われたら、『猫』ではないな」という思いが先立ってしまった、という形です。良さは分かるけれど……ぐらいの気持ち。再読した時はちょうど大学生で、他の作品で、大人になった仁木兄妹を見ていたこともあり、「なんだか危なっかしい捜査行だなあ」と別のところで心配してしまったのも、原因の一つだったのかもしれません。

     そんなわけで、仁木悦子は大好きなのだけど、『猫は知っていた』にはいろいろと思うところがあり……という思い入れで迎えたのが、2022年の10月14日『猫は知っていた 新装版』の発売だったのです。現在、28歳。新装版の発売を機に、三度目の再読に挑もう、と思い、読み始めたのですが……。

     

    いやあもう全ページ面白い。べらぼうに面白い。



     ここまでの脈絡を断ち切るような感想に驚いた人も多いと思いますが、私も驚いています。本当に驚いたのは、今の年齢になってみて、『猫は知っていた』の文章が、「水のように飲める」ほど居心地の良い文章だと感じられたことです。カクシャクとして、キビキビとした、仁木悦子と雄太郎の会話劇と捜査行の、楽しいこと楽しいこと。大学生の頃は無駄に心配してしまった、犯人との対決を描いたピンチの描写も、「お約束」として楽しめたし……。

     トリックの面でも、「いかにもミステリー」と思わせる、秘密の抜け穴だとか、蛇毒を塗ったナイフという古めかしい道具立てが、ロジックの要請の中で綺麗にパズルのピースに組み込まれていく律義さも、今となっては新鮮に感じられたのです。とんでもなく折り目正しい……。香箱座りをした猫のような、こじんまりとまとまりつつも、風格があって、洗練されたものを感じたのでした。くっきりとトリックを味わえたことで、後年のある作家の作品に、本作の「猫」にまつわるトリックをアレンジしたものがあることにも思い至ったのですが、オリジナルである『猫は知っていた』にもオリジナルならではの、発想の脇を固める工夫があり、後年のその作家の作品も、「猫」の趣向に別のジャンルの発想を掛け合わせて違うバリエーションを生み出していることに気付くなど、そういう時代を超えた応答も見出して楽しむ余裕も出てきました(後年の作家の作品を伏せているので、なにがなんだか分かりませんね。私が想定しているのは国内作家Kの短編集中の一作です)

     その思いには、私がミステリーに期待するものが時を経て変わって来たとか、ちょうど心身ともに疲れていて、登場人物の懊悩に取り込まれたりしない健全で明るい読み物が読みたいタイミングだったとか、色んな背景があるのだと思います。とにもかくにも、三回目の再読で、ようやく本書の魅力を十全に味わいつくした気がして、個人的に嬉しくなってしまった、という話でした。

    〇仁木悦子とクリスマス?

     さて、長い長い『猫は知っていた』読書遍歴を終えて、いよいよ、なぜ「クリスマスには仁木悦子」かという話になるのですが、理由の一つはもちろん、仁木悦子が「日本のクリスティー」と呼ばれており、クリスティーのクリスマスのイメージを重ね合わせたことです。ですがそれ以上に、私が仁木悦子にクリスマスのイメージを持っているのは、「聖い夜の中で」『聖い夜の中で』収録)という短編があるからです。この短編集は「仁木悦子最後の短編集」として刊行されたもので、〈三影潤〉シリーズからも「数列と人魚」などが収録されています。中でも、「聖い夜の中で」は仁木悦子の絶筆です。

     クリスマスはミステリーの舞台にふさわしい……と言われるのは、クリスマスの煌びやかなイメージが殺人の舞台として映えることや、サンタクロースやトナカイといった道具立てが小道具として使いやすいこと、海外ミステリーではなおさら、家族団欒の描写として日常風景として描かれることなど、様々な理由があると思います。その中でも私は、「誰もが誰ものサンタクロースになれるというこの夜の甘さが、犯罪の苦みを引き立てるから」という理由を強調してみようと思います。

     そんな持論の証左となる一作が、「聖い夜の中で」という短編です。念のため言えば、これは謎解きミステリーではありません。ジャンルをあてはめるとすれば、犯罪小説ということになるでしょう。刑務所を脱走した殺人犯・岩野と、母子家庭で育つ少年・ひろむがクリスマスの夜に出会い、岩野がサンタクロースの扮装をしていたせいで、ひろむは「サンタさんが来たのだと思い込む」という趣向の短編です。

     徹頭徹尾、冷たい現実を書き連ねる岩野の視点と、瑞々しい感覚で綴られたひろむの視点。二人の会話は延々と平行線をたどりますが、結末に至り、この甘いクリスマスの夜に、サンタクロースの幻想と、苦い犯罪の現実をクロスさせ、ファンタジックで温かなシーンを紡いでみせる。少年の視点から描いた、切なくも優しいラストシーンを読むたびに、思わず目頭が熱くなります。最高のクリスマス・ストーリーで短編集を編めと言われたら、絶対に外さない一編です。

     仁木悦子の子供と言えば、仁木兄妹の溌溂とした活躍や、母親の無実を信じて一人奮闘する「かあちゃんは犯人じゃない」など、「自分の頭で考えて、頑張る少年少女たち」が思い出されます。子供ならではの壁にぶち当たることもあるけれど、誰も彼も、たくましいのです。その中では、「聖い夜の中で」に描かれたひろむは、幼稚園に通う程度の年齢です。そうした幼さゆえの思い込み……という短編でもあるのですが、たくましく戦う少年少女たちの姿を描いてきた仁木悦子が最後に描いたのが、母の胸にひしと抱きしめられる、幼い少年の姿だったというところも、胸を熱くさせます。

     ということで、「聖い夜の中で」、クリスマスに読むのにおすすめです。短編なのでクリスマスが忙しい皆様にもフィットする手軽さ。

     私は今年のクリスマス読書、どうしようかな。原稿を書いている時には未来の話だけど、原稿が出るころには東京創元社から『英国クリスマス幽霊譚傑作選』が刊行されているはずなので、それにしようかしら。クリスマスと言えばゴースト・ストーリーだもんなあ(あれ。さっきと言っていること違くない?)。

第48回2022.12.09
極・私的『SFが読みたい……』2022年版 ~韓国SFから古典まで~

  • ニール・スティーヴンスン、書影

    ニール・スティーヴンスン
    『スノウ・クラッシュ』
    (ハヤカワ文庫SF)

  • 〇今年もこの季節がやってまいりました

     毎年恒例、「海外ミステリーのランキング投票まで、信じられない量の翻訳ミステリーを読むことになる反動で、SFが読みたくなる」の季節です。なのですが、今年は体の不調が祟って入院をする期間が発生したので、10月中旬に入院する前に読めた本だけで打線を組んで、入院前に原稿を突っ込んでおきました(編集部注:作者は既に退院済とのこと)。あれもこれも読んでおきたかったなあ、と思うのですが。

     それでは、以下が取り上げる本リストです。

    ・宮部みゆき『さよならの儀式』(河出書房新社→河出文庫)
    ・澤村伊智『ファミリーランド』(角川ホラー文庫)
    ・佐々木譲『裂けた明日』(新潮社)
    ・劉慈欣『老神介護』『流浪地球』『火守』(いずれもKADOKAWA)
    ・サラ・ピンスカー『いずれすべては海の中に』(竹書房文庫)
    ・ガイ・モーパス『デスパーク』(ハヤカワ文庫SF)
    ・チャン・ガンミョン『極めて私的な超能力』(新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)
    ・ニール・スティーヴンスン『スノウ・クラッシュ(上・下)』(ハヤカワ文庫SF)

     では、テンポ良く行きましょう。

     宮部みゆき『さよならの儀式』(河出書房新社→河出文庫)は文庫化の報を機に積読してしまっていた単行本をあわてて読んだというパターン。大森望責任編集のSFアンソロジー『NOVA』(河出文庫)に発表した作品を中心に編まれた著者初のSF短編集。SFの設定によって抉り出される、時代を超えて変わらない家族や人間の生々しい感情に圧倒されます。冒頭の「母の法律」からして、「マザー法」によって虐待児が保護されるようになった社会において、「母」を探し求める女性の話なのですが、このラストシーンは絶句するほど強烈です。表題作「さよならの儀式」はロボットが浸透した社会で、ロボットとお別れする「廃棄手続きの窓口」にて交わされる、ある利用者と技師のやり取りを描いた作品で、この技師の心理描写の巧さに打ちのめされてしまいます。私立探偵小説のプロットに凄まじいアイデアを投入した「聖痕」もお気に入りで、大充実の短編集です。

     SF設定を経由して、時代を通じて変わらない家族の歪みを描く、という点で響き合ったのが、澤村伊智『ファミリーランド』(角川ホラー文庫)。単行本版は早川書房から、SF押しで売り出された覚えがあるのですが、今回はホラー文庫としてお召し替え。文庫の帯にある「近未来のテクノロジーでも解決できない、家族という呪い」という文言がとにかくぴったりで、全六編、手を替え品を替え放たれる、SF設定の妙と、ショッキングなどんでん返しの技に、思わず唸ってしまいます。私のお気に入りはデザイナベイビーが当たり前になった社会を描いた「翼の折れた金魚」で、序盤では隠されていたピースが明らかになるたび、剝き出しの感情が次々露になっていく展開が怖かった。

     国内作家からはもう一冊、佐々木譲『裂けた明日』(新潮社)を。佐々木譲は今年出した新刊のうち三冊がSFの範疇に属するようで(『偽装同盟』、本書、11月発売の『闇の聖域』。この原稿を書いている時は、まだ『闇の聖域』は読めていませんが)、今もっともチャレンジングにSFに取り組んでいる作家の一人と言えそうです。『裂けた明日』は近未来に内戦が起きた日本という設定を用いており、元公務員の男が、追われる母娘を安全な場所まで送り届けるというのがメインプロット。著者の得意とするハードボイルドの枠組みでSF設定を生かした作品となっています。男の贖罪と、母娘の安全を祈るような巡礼の旅路が、ようやく交錯するラストシーンに、思わず目頭が熱くなりました。これは良い……。

     ここからは海外編。劉慈欣『老神介護』『流浪地球』『火守』(いずれもKADOKAWA)をまとめ読みしました。『老神介護』『流浪地球』は2022年の9月に同時刊行された短編集二冊で、大森望・古市雅子によるあとがきによれば、KADOKAWAが翻訳権を得た短編十一編について、二分冊で刊行したというもの。『三体』を読んだ時から、劉作品には、「壮大なホラ話、そこにちょっぴりのロマンチシズム」という意味での、昔のSFの良さがあるなあ、となんとなく感じていたのですが、その良さが横溢した短編集がこの二冊と言えます。『老神介護』の表題作での、老いた神たちが地球の家族に扶養されるために降りてきて、段々疎まれていく流れだけでも笑えますし、『流浪地球』中の「呪い5・0」に至っては自虐ネタまで盛り込んで抱腹絶倒のバカSFをやらかす。かと思えば、『流浪地球』の表題作では、地球を太陽系から脱出させるという壮大なアイデアの先に、思わずうるっとくるような結末を用意していたりするのですから、もうたまらない。これを機に、一年くらい積んでしまっていた、劉慈欣作の童話の翻訳『火守』も読みました。絵本風のイラストも良いし、心の中に温かい火が灯るような文章も良いし……これも実に素晴らしい。作品自体は短編くらいの長さなのですが、何度も読み返す作品になりそうです。子供にも読ませたい一冊。

     最近実は推している作家、という繋がりだと、竹書房文庫から『いずれすべては海の中に』が刊行されたサラ・ピンスカーは、早くも推し作家の仲間入り。2021年に刊行された歌手と聞き手の物語としてとても胸を熱くさせる傑作音楽SF『新しい時代への歌』に続く二冊目ですが、今回は短編集ということで、その筆致の静謐さや幻想的なイメージの良さがより伝わる一冊になっていると思います。集中の短編では「孤独な船乗りはだれ一人」や「イッカク」あたりが好きです(私は海が出てくるSFに異様に弱い説があるな。マイクル・コーニイのせいだろうか?)。かと思えば、並行世界のサラ・ピンスカーたちが集まる「サラコン」の会場で起きた殺人事件を描く、冗談みたいなSFミステリーの中編「そして(Nマイナス1)人しかいなくなった」なんかもあって、本当に油断ならない。タイトルはクリスティーの『そして誰もいなくなった』(And Then There Were None)のもじりなのですが、英語だとサラ・ピンスカーのタイトルはAnd Then There Were (N-one)となるので、この遊び心にニヤニヤしてしまうのです。

     SFミステリーらしい話題を出したので、ここでガイ・モーバス『デスパーク』(ハヤカワ文庫SF)を。寿命が短くなった者たちが、一人の体を五人で共有し、ゲームで寿命を増やすことが出来る……そんなゲームパークにおいて、五人のうちの一人が「殺される」という筋立てで、さながら西澤保彦『人格転移の殺人』を思わせるSFミステリーになっています。一人の体を共有しているので、持ち時間が決まっているのですが、これが登場人物表にも書かれているのも思わず笑ってしまいますし、この持ち時間の設定を生かして、五人の性格描写やせめぎ合いを描くのも面白い。本格ミステリーとして落とす、というよりは、半歩外した位置に着地した感がある作品ですが、ミステリー好きで読み逃していたら、一読の価値あり、という作品です。

     早川繋がりでチャン・ガンミョン『極めて私的な超能力』(新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)も紹介。これまで文芸作品が何冊か翻訳された韓国の作家による短編集で、SFのものが邦訳されるのは初とのこと。設定の転がし方が好みで、人の記憶を移植できる〈体験機械〉によって、アドルフ・アイヒマンを裁くという「アラスカのアイヒマン」からして、歴史とSF設定の掛け合わせの妙に唸ってしまいましたし、冒頭に元素表を置いて、な、なんだこれは? と思わせてからサバイバル・ゲームの世界に引きずり込まれる「アスタチン」などなど、一編一編に振り回されました。それにしても、「アスタチン」の著者あとがきに、サバイバル・ゲームの作品例として、スティーヴン・キング『バトルランナー』あたりはいいとして、高見広春『バトル・ロワイアル』が並んでいるのにびっくり。

     そして大トリを飾るのは、ニール・スティーヴンスン『スノウ・クラッシュ(上・下)』(ハヤカワ文庫SF)。今更読んだのか、と言われかねない古典タイトルですが、2022年1月に新装版が刊行されたのをきっかけに、読んでみようと思い立ちました。「メタヴァース」「アヴァター」の語を生んだ傑作として有名ですが、いやもう、アホほど面白い……。あらゆるテクノロジーが海外流出したせいで、アメリカの誇れるものが「音楽・映画・マイクロコード・高速ピザ配達」の四つだけになったという設定だけでくすぐられてしまったのですが、この高速ピザ配達人のピンチを描く導入だけでもう面白いのに、謎のドラッグ「スノウ・クラッシュ」が出てきて、あまつさえ古代シュメール人の歴史を紐解くことになるなど、あれよあれよと凄い展開に。特にもう、歴史の話好きなので、シュメール人の話しているくだりは大興奮でした……。

     それにしても『スノウ・クラッシュ』新装版の帯には、「世界のリーダーはSFを読んでいる」と題したフェアの作品一覧が載っているのですが、錚々たるメンツがル・グウィンやハインラインを読んでいるという事実に驚きます。この帯にはなぜだか悔しくなってしまう。ミステリーもそんな感じになればいいのに……。

    (2022年10月)

第47回2022.11.25
驚愕と奇想のミステリー集成! ~9月・10月新刊つめあわせ~

  • 名探偵のいけにえ 人民教会殺人事件、書影

    白井智之
    『名探偵のいけにえ 
    人民教会殺人事件』
    (新潮社)

  • 〇9・10月は新刊が豊作!

     毎年のことなのですが、この時期はミステリー・ランキングや年末を見据えてか、新刊が豊作なので、良かったものについてバンバン書いていこうと思います。この時期に、カッパ・ワン第一期生である四名の新刊がほぼ同時に刊行されました。石持浅海『高島太一を殺したい五人』(光文社)、加賀美雅之『加賀美雅之未収録作品集』(光文社)、林泰広『魔物が書いた理屈っぽいラヴレター』(光文社)、東川篤哉『仕掛島』(東京創元社)がそれなのですが、これらについては、とある場所で「読書日記・出張版」として原稿を書きましたので、ここでは言及を控えておきましょう。

     講談社からは潮谷験『あらゆる薔薇のために』がイチオシ。架空の難病「オスロ昏睡病」と、その難病に関わる「薔薇」がテーマとなるSFミステリーなのですが、この「薔薇」を巡る思索と、その背景が分かってくる過程にSFのセンス・オブ・ワンダーを感じ取って興奮しました。そうした展開が異形の動機を導く展開にも唸ります。特殊設定ミステリーって言葉は、潮谷験と方丈貴恵のために存在していると、一作読むごとに思います。本気で。

     東京創元社からは二冊。一冊目は鵜林伸也『秘境駅のクローズドサークル』。私は鵜林さんの長編『ネクスト・ギグ』のしなやかで強いパズラーの足腰が大好きだったのですが、今作も軽妙な足取りのパズラー作品集になっていて、語り口に心をほぐされると同時に謎解きの快感に膝を打たされる短編集です。中でも「宇宙倶楽部へようこそ」のロマンと、「夢も死体も湧き出る温泉」と表題作のスマートな解決提示と別解潰しのさりげなさがお気に入り。

     東京創元社の二冊目は倉知淳『世界の望む静謐』。倒叙ミステリーの〈乙姫警部〉シリーズの第二弾なのですが、第一作『皇帝と拳銃と』トークショー&サイン会の時に聞いた、「タロットカードモチーフの連作なのはもちろんだけど、イメージにもう一つ、『ジョジョの奇妙な冒険』の第三部がある」という話が印象に残っていて、だから、皇帝であり、拳銃なんだな(ジョジョで「皇帝」というスタンドを使う敵キャラがホル・ホースといって拳銃使い)と妙に納得したのを覚えています。で、本作はラスボスDIOの「世界(ザ・ワールド)」モチーフの中編があるので、さあどうなるか、と思っていたら、異形の能力で犯人が詰められたので思わず笑ってしまいました。

     集英社からは奥田英朗『リバー』をご紹介。私は奥田英朗の書く犯罪小説が昔から大好きで、『最悪』『邪魔』『オリンピックの身代金』『罪の轍』などが大いにツボなのですが、『リバー』はそうした「奥田犯罪群像劇」の系譜に連なる新たな傑作でした。十年前の事件が再度動き出し、様々な人々の人生が交錯していく模様が描かれた静かで力強い、まさに川の流れのような小説です。終盤のシーン、全部良い……。頭の中で日本の俳優をキャスティングするのも楽しいです。ちなみに最近、「オール讀物」で精神科医の〈伊良部一郎〉シリーズの短編も掲載されていて、また短編集が読めるのかな、と楽しみです。「ラジオ体操第2」、心がささくれ立っていた時期に雑誌で読んで、すごく心洗われたんです。最近の短編集『コロナと潜水艦』も良かったし、やっぱりいいなあ、奥田英朗。

     文藝春秋からは笠井潔『煉獄の時』が刊行。往年の『バイバイ、エンジェル』『サマーアポカリプス』を思わせるシリーズ屈指の謎解き編になっているうえ、37年前の事件と現在の事件が見事に繋がる点やテーマなどから「『哲学者の密室』のもう一つの顔」とも言える構図になっているのが感動的な傑作になっています。これはシビれる……。また、プロットの構造を見た時から想起はしていましたが、終盤のナディアのセリフで、全体の構造が『ルコック探偵』のそれ、というのも回収されたのでニヤリとしてしまいました。これを読んでから笠井熱が高まって、また『バイバイ、エンジェル』を再読したり、実はまだチェックできていなかった『天啓の宴』『天啓の器』を読んだりしています。

     行舟文化からは芦辺拓『森江春策の災難 日本一地味な探偵の華麗な事件簿』が刊行。いやあ、これは素晴らしいです。今までいろんな雑誌やアンソロジーに入ったきり、なかなか簡単に読めなかった作品群が集成されているのですから。見どころとしては、まず、犯人当てアンソロジーにそれぞれ寄稿された「森江春策の災難」(『探偵Xからの挑戦状!』収録。余談ですが、これ本当にいい企画でしたよね。ドラマ、見てました)、「読者よ欺かれておくれ」(『あなたが名探偵』収録)の企みに満ちたフーダニット。あるいは、雑誌「つんどく!」で二編だけ書かれた倒叙ミステリーの良作「告げ口時計」「うぬぼれた物真似鳥」。最大の目玉は、劇団フーダニットで上演された演劇の脚本「探偵が来なけりゃ始まらない――森江春策、嵐の孤島へ行く」です。これがもう、またニヤニヤさせられるような快作です。『名探偵は誰だ』のあとがきで、島田一男の名前を出して「探偵が来なけりゃ始まらない」の話をするくだりを読んで以来、いつかなんとしてでも脚本を読ませてもらわねば……と思っていたのですが、こんな形で願いが叶って嬉しいです。

    〇またこんな高みに……驚異のカルト本格!

     さて、大トリは新潮社から、白井智之『名探偵のいけにえ 人民教会殺人事件』! 第40回でも『そして誰も死ななかった』に大いに興奮した話をしたのですが、一体この人はどこまでいくんだと、また『名探偵のいけにえ』で驚かされてしまいました。

     この作の姉妹編となる『名探偵のはらわた』は連作中編集で、冒頭に実際の事件をモチーフにした凶悪犯のプロフィールや事件の概要が書かれている通り(たとえば阿部定事件や津山三十人殺しなどをモチーフにした事件のリストがある)、とある設定を導入することで、現実との奇想のかすがいとして実際の事件を用い、それを連作の中で自在に操るという超絶技巧の作品集になっていました。その自在さに舌を巻いていたので、姉妹編が、長編で出るということで興味津々だったのです。

     本作はジョーデンタウンというカルト教団の信者たちが集う「楽園」を舞台にした本格推理なのですが、果たして奇蹟は実在するのか? という主題をテーマに据えながら、奇蹟のトリックを暴く推理と、奇蹟の賜物としか思えない不可能犯罪の乱舞の対決……とくれば、ここまではどこかで見た「カルト・ミステリー」のフォーマット。私が世代的にドラマ「TRICK」に慣れ親しんでいるせいか、この時点では、少しパロディーめいた雰囲気さえ感じてしまいます。探偵の語り口もあるのかもしれませんが。

     しかし、本書の真価は帯にも堂々と銘打たれた「圧巻の解決編150ページ」にあります。白井智之は書く作品で多重解決のロジックに異様なまでのこだわりを見せている作家なのですが、この多重解決へのこだわりが、異形の構図に結実するのです。この構図は本当にどこでも見たことがなくて、しかもテーマと密接にかかわってドラマを生むというのが実に感動的なのです。謎解きの興奮とドラマの感動が同時に襲い掛かってくるという点でも出色でした。

     また、私にとって白井智之は、名探偵の扱い方が好きな作家です。デビュー作他いくつかの作品では、「いやいや! お前が解くのかよ!」と思わずツッコミを入れたくなるほど意外な展開もありますし、今作でも、「この環境で名探偵に何が出来るのか?」という、いわゆる苦悩的なサブテーマを導入しているのですが、その使い方が実に軽やか。ドラマとしてはしっかり見せつつ、作中の歯車としてドライに取り扱っている、というべきでしょうか。

     いやあ、『名探偵のいけにえ』、大いに楽しまされました。グロテスク性が控えめになっているので、これまで、グロイ展開が苦手で白井本格を避けてきた人にも、今回は薦められます。解決と名探偵に淫した本格ミステリーのエッジ、あなたも体験してみませんか? ということで、どうか一つ。

    (2022年10月)

第46回2022.11.11
これまでのアメリカ、これからのアメリカ ~心に染み入るロード・ムービー~

  • このやさしき大地、書影

    ウィリアム・ケント・クルーガー
    『このやさしき大地』
    (早川書房)

  • 〇クルーガー、最長にして最高の傑作

     今月の一冊はウィリアム・ケント・クルーガー『このやさしき大地』(早川書房)。二段組で500ページ、価格は税抜きで3,000円という重量級の一冊ながら、全ての道行が読書の楽しみに奉仕するような、「物語」の温かみに満ちた長編となっています。

     この作品は、2013年にクルーガーがノン・シリーズ長編として刊行した『ありふれた祈り』(ハヤカワ・ミステリ文庫)の姉妹編にあたります。『ありふれた祈り』はアメリカ探偵作家クラブ賞(エドガー賞)最優秀長篇賞、バリー賞、マカヴィティ賞、アンソニー賞とあらゆるミステリー賞を総なめにした作品で、内容も素晴らしいのです。1961年、ミネソタ州の家で家族と共に暮らす13歳の少年フランクを主人公にした作品なのですが、情景描写や一人一人の登場人物の描写も心のひだに分け入ってくるような、優しく、静かな作品です。このフランクが牧師の息子なのですが、これが小説上実に効いていて、この印象的なタイトルや、結末の余韻にも見事に繋がってくるのです。文庫化もしているので、これはぜひ手に取ってほしい作品。『ありふれた祈り』があまりに良すぎて、それ以来数年、海外ミステリーで『ありふれた祈り』に似た作品を探し求めていたほど。

     そんな作品の姉妹編だということで、本作『このやさしき大地』にも期待していました。今回の舞台は1932年のミネソタ。主人公の12歳の少年オディは、ある事件をきっかけに、虐待が常習化したリンカーン救護院から抜け出し、兄のアルバート、スー族のモーズ、孤児のエミーと共に逃亡することに。彼ら四人は、オディとアルバートのおばが住んでいるセントポールを目指して、ミシシッピ川を目指す……。

     とくれば、これが『ハックルベリー・フィンの冒険』のアップデートなのは明らかなのですが、ここに六部構成による、各部での分厚いドラマを重ねてくるのがクルーガーの腕の見せ所。私が好きなのはリバイバル集会を描いた第三部と、大恐慌の主題が覆いかぶさってくる第四部でしょうか。オディの成長小説というプロットが一貫して描かれた作品なのですが、その意味でも、第三部・第四部には大いに心動かされました。また、スー族のモーズ周りのエピソードが全部良くて、彼に投げかけられる言葉の中に、いくつもいくつも、心に沁みる名セリフがあります。

     ロード・ムービーとして絶妙のドラマを見せてくれる一作なのですが、そりゃあ『ありふれた祈り』で端役の登場人物まであれだけ魅力的に書けたクルーガーが、ロード・ムービーを書いたら無敵だろういう出来栄えで……読み通すにはかなり時間がかかり、私も十日ほどかけてじっくり読んだのですが、それだけの価値がある雄編でした。

     また、内容があまりにも「アメリカ」というか、トウェインでありフォークナーでもありスタインベックでもあり……という作品だったので、この作品の解説は諏訪部浩一以外いないだろうと思って解説を開いたら諏訪部浩一解説だったので、あまりに嬉しくなりました。著者あとがきではディケンズへの言及もあって満面の笑み。当代一流のミステリー作家が英米の古典を咀嚼し尽くして得た大いなる果実をこうして味わえることが、とんでもなく嬉しいという、そういう笑みです。

     ただ、この諏訪部解説に書かれている、クルーガーの〈コーク・オコナー〉シリーズの第九作“Heaven's Keep”で衝撃の展開が起こる、という記述があまりにも気になって地団太を踏んでいます。よ、読みたい。〈コーク・オコナー〉シリーズでは『煉獄の丘』『二度死んだ少女』『血の咆哮』あたりが好きです。『血の咆哮』で〈コーク・オコナー〉シリーズの邦訳が途絶したことを考えるとノンシリーズの『このやさしき大地』が8年ぶりの邦訳なのか……。その第九作というの、原書で買おうかな……。

    (2022年10月)

第45回2022.10.28
現代英国本格の新たなる旗手、さらなる覚醒! ~イギリスの「ディーヴァー」~

  • キュレーターの殺人、書影

    M・W・クレイヴン
    『キュレーターの殺人』
    (ハヤカワ・ミステリ文庫)

  • 〇心優しい私立探偵

     九月の翻訳ミステリーからまずは一冊。マイクル・Z・リューイン『父親たちにまつわる疑問』(ハヤカワ・ミステリ文庫)は、著者一流の会話劇で、宇宙人の父とサンタクロースの母から生まれた謎の男を巡る四つの中編を紡いでいます。「ハヤカワミステリマガジン」のリューイン特集にも参加させていただいたのですが、実はリューインが大好きでして。『沈黙のセールスマン』『消えた女』『季節の終り』あたりが三大傑作だと思っているのですが、読むたびに、うーん、どれもいいですね、となってしまうほどメロメロ。会話劇と、全編に溢れるどことない温かさがたまらないんですよね。

     本作『父親たちにまつわる疑問』でも、その「温かさ」が滲んでいます。依頼人となる謎の男が、毎回実際の神童の名前を名乗って現れるという設定だけでもうツボなのですが(たとえば一編目は、NBA選手のレブロン・ジェイムズの名前を名乗ります)、二編目で、彼が自分でシェルターを作り、弱い人々をかくまっているという状況でトラブルに巻き込まれる事件を扱うに至って、これは「人と『少し違う』ことで取り残される人々」を優しく描いていく短編集なのだと気付いた次第。個人的には、痩せるための努力をしていないのに痩せていく……という奇妙な事件を扱った第三編と、依頼人を巡る冒険が遂にサムスン自身にも関わってくる第四話がお気に入り。オススメですよ、これ。

    〇クレイヴン、新たな傑作

     さて、更にもう一冊、今回取り上げておきたいのはM・W・クレイヴン『キュレーターの殺人』(ハヤカワ・ミステリ文庫)です。二冊ともハヤカワになってしまった。癒着か? まあ、それは冗談として、9・10月の国内ミステリーの注目作は来月用にストックしていますので、それも楽しみにしておいてください。

     閑話休題。本作『キュレーターの殺人』は、『ストーンサークルの殺人』『ブラックサマーの殺人』に続く第三弾で、刑事ワシントン・ポーと分析課官ティリー・ブラッドショーの新たな冒険を描きます。このシリーズは、トリッキーなプロットに、刑事ワシントン・ポー自身の物語を有機的に絡めたシリーズであり、『ストーンサークルの殺人』ではミッシングリンクの謎で、『ブラックサマーの殺人』では二重三重に張り巡らされた不可能犯罪の興味で読ませてくれました。

     今回はクリスマスの英国カンブリア州で切断された人間の指が次々発見されるという事件で、更に現場には「#BSC6」という謎の文字が残されています。犠牲者たちの身元捜しや、被害者の共通点を探っていくプロットからは、『ストーンサークルの殺人』のミッシングリンクの謎も思い出しますが、本作がより素晴らしいのは、事件の構図が分かる瞬間の鮮烈な驚きです。「いやいやいや、そんなには上手く行かないだろ!」と反射的にツッコミそうになってしまうのですが、謎解きの手掛かりはシンプルながら効果的なこともあり、最終的にはノックアウトされてしまいます。

     この犯人の絶対性と、それによって支えられたとんでもない事件の構図から思い出したのは、結局、ジェフリー・ディーヴァーの存在でした。前回に続けて、またその話するの? という感じなのですが、アンソニー・ホロヴィッツ、リチャード・オスマン、アン・クリーヴス、エリー・グリフィスなどを見ても分かる通り、クリスティー流のクラシカルな謎解きミステリーの伝統を引き継ぐイギリスにおいて、あえてディーヴァーの犯罪小説の文脈を切り開いているのがM・W・クレイヴンなのではないか、という思いを新たにしました。だって、この犯人の設定の盛り方って、やっぱりディーヴァーだと思うんだよなあ。

     謎解きミステリーとして更なる高みに上った感のある本作もぜひどうぞ。

    (2022年10月)

第44回 特別編92022.10.14
ジェフリー・ディーヴァー試論 ~その「どんでん返し」の正体、あるいは偽手掛かりと名探偵への現代米国アプローチ~

  • 真夜中の密室、書影

    ジェフリー・ディーヴァー
    『真夜中の密室』
    (文藝春秋)

  • 〇柳本格の真髄たる一作、再文庫化!

     10月に幻冬舎文庫より刊行された「柳広司『はじまりの島』の解説を担当しました。同作は2002年に朝日新聞社にて刊行されたのち、2006年に創元推理文庫入り、今回が二度目の文庫化となります。創元推理文庫入りした時には、『はじまりの島』『黄金の灰』『饗宴シュンポシオン ソクラテス最後の事件』の三作が同文庫から連続刊行され、柳本格の初期傑作を集成したような感があり、興奮したものです。この三作は私にとって柳作品のベスト級の三作で、ここに『吾輩は猫である』のイベントを日常の謎に組み替えるアクロバットを楽しめる文学の冒険『漱石先生の事件簿 猫の巻』、誰もが知る「山月記」の「李徴子が虎になった」というエピソードを論理によって解体してしまうヤングアダルト・ミステリーのケッサク『虎と月』を加えてマイ・ベスト5としたいですね。

     そんなベスト5の一角にして、本格ミステリー度としては中でも屈指の『はじまりの島』の解説をいただけて大喜びでした。これはダーウィンがガラパゴス諸島で連続殺人の謎に挑んでいた! というIF設定の歴史本格ミステリーで、フー・ハウ・ホワイ、いずれにも凄まじい工夫が凝らされた傑作です。ダーウィン先生がブラウン神父のような逆説的な言動を繰り返すことにより生まれる、黄金時代本格のような香気が漂っているのもポイント。解説では、このあたりの評価ポイントに加えて、中学時代の柳作品原体験を引っ張り出してきて、柳広司作品の魅力の根源について考えてみました。書店でお見かけの際は、ぜひ。『はじまりの島』、面白いですよ。

    〇ジェフリー・ディーヴァー試論

     さて、今回はジェフリー・ディーヴァー最新作にして、〈リンカーン・ライム〉シリーズ最新作である『真夜中の密室』の刊行を記念して……〈リンカーン・ライム〉シリーズ全十五作品のレビューを行います!

     記念すべき、十五、という切りのいい数字にあやかったのもありますが、このタイミングで、私がディーヴァーについて考えていることをアウトプットしておこうと思ったというのが大きいです。『紅蓮館の殺人』『蒼海館の殺人』『録音された誘拐』という長編や、これから色々考えている企画のいくつかにも、ここで述べるような、「ディーヴァーの『どんでん返し』ってなんなんだろう?」という思考が深く関わっているからです。自作について、編集さんから「こんなのどこで思いついてきたんですか?」と聞かれるたびに、「クリスティーとディーヴァーです」と答えています(もちろん、個々のテーマに沿って、他にも大量の参考文献があるわけですが、核となる発想や演出法は、という意味です)。クリスティーについてはオマージュを明確にしていることと、シーン単位で「ここは〇〇を意識して……」と言うと分かってもらえるのですが、ディーヴァーについては首を傾げられることが多いのです。

     それが悔しいから、というわけではないのですが、ディーヴァーを謎解きミステリーの文脈で掘り下げる、それを精緻化して行う、というのを、誰かが整理してやっておくことは無駄にはならないのではないかと思ったので、やることにしました。これは今までの私の長編を書く中でも、ある程度生かされてきたものなので、ファンの方は、私の脳の中を覗く機会とでも思ってください。

     私にとって、ジェフリー・ディーヴァーの〈リンカーン・ライム〉シリーズを受容する時にずっと悩まされてきたのは、『ウォッチメイカー』あたりまでで盛んに言われていた、「ジェフリー・ディーヴァーはどんでん返しを一作ごとに変化させている」という議論でした。私はこれがいつまで経っても感覚的に掴めず、といって、何がどう違うのか、というところまで精緻に議論しようとするとネタバレに踏み込まざるを得ず、しかし全十五作のネタを正確に把握しながら話せる人はいない、というジレンマで足踏みしてきたのです。

     というわけで、今から私は、「1、『どんでん返し』という言葉を使用せず、ディーヴァーの真相の作り方を分析し」「2、〈リンカーン・ライム〉諸作品のネタバレを一切行わない」ことで、謎解きミステリーとしての〈リンカーン・ライム〉の魅力に迫っていこうと思います。2は不可能ではないか、と思われるかもしれないですが、実は、シリーズの真相が「一作ごとに変化して」見えるのは、題材配置や、その特徴、前作との設定の差異から来る必然と言えるため、設定について議論するだけで、「どんでん返しの変化」についても結果的に言及できると思います。

    〇総論

     まず、以下に今回の議論の前提およびアウトラインとして、〈リンカーン・ライム〉シリーズ十五作品のタイトルと、私が考える期間の区分けを書きます。
    (① ~⑬は文春文庫。⑭⑮は文芸春秋単行本)

    〈確立の第一期〉
    ① ボーン・コレクター
    ② コフィン・ダンサー
    ③ エンプティー・チェア
    ④ 石の猿
    魔術師イリュージョニスト
    ⑥ 12番目のカード
    ⑦ ウォッチメイカー
    〈変化の第二期〉
    ⑧ ソウル・コレクター
    ⑨ バーニング・ワイヤー
    ⑩ ゴースト・スナイパー
    ⑪ スキン・コレクター
    ⑫ スティール・キス
    〈跳躍の第三期〉
    ⑬ ブラック・スクリーム
    ⑭ カッティング・エッジ
    ⑮ 真夜中の密室

     ここからは、それぞれのシリーズを番号で表記する場合がありますので、参照ください。

     さて、まず、ディーヴァーの真相の作り方について整理します。ここで、私はあえて大胆に議論を進めますが、ディーヴァーのいわゆる「どんでん返し」には二つのタイプしかありません。第一期・第二期・第三期において少しずつこの二つの比率が変わり、あるいは取り混ぜながら使っているのです。

    〇総論1、「スイッチ」と「トラップ」

     一つ目。これを「スイッチ」(Aの真相)と呼称します。これは単純に言えば「Xだと思っていた話が実はYだった」というものです。「スイッチ」とは、列車のポイント切り替えのイメージから、私があてがった言葉です。すごい速度で進んでいく列車の窓から、別の線路が見え、それが無関係だと思っていたらいつの間にかポイントが切り替えられ、本線にすり替わってしまう、あるいは切り替わる。この「入れ替え」のイメージと、「窓から見える」というところからフェア性を想起してください。

     この「スイッチ」は、作者が読者に仕掛けるトリックであり、究極的には叙述トリックに近接します。ただ、叙述トリックとイコールになるわけではありません。この「スイッチ」を自家薬籠中の物として使用する、マイクル・コナリーやリー・チャイルドという作家が映像化と親和性が高いことも、その証拠と言えます。

    「スイッチ」は、ディーヴァーが主に短編において先鋭化させた手法であり、読者の足元から地面さえ消してしまうような、凄まじいものになっています。その格好のサンプルと言えるのが、「三角関係」(『クリスマス・プレゼント』収録)です。霜月蒼による『アガサ・クリスティー完全攻略』において、「クリスティーの核の核」と言われるほど、クリスティーの技法を凝縮していると紹介された短編が「砂にかかれた三角形」(『死人の鏡』収録)も「三角」をタイトルに含む話でしたが、人と人、物と物の関係性に誤導を仕掛けるという点で、「三角」がクリスティーとディーヴァーの本質だと言えるのかもしれません。この二人に共通する特徴は、「読者に『この話はこういう話だ』という予断を抱かせる技術」がとんでもなく優れていることです。この技術をものにするには、様々な物語のパターンに精通し、物語のパブリックイメージに接続し、読者の意識を操らないといけません。そして、その技術を凝縮した技法が、「スイッチ」というわけです。

     ここで二つ目です。二つ目の技法は、「トラップ」(Bの真相)と呼称します。これは「真犯人が名探偵に対して仕掛ける誤導の罠」を指し、作者から読者に仕掛けるという意味で作品外の技法である「スイッチ」とは別の層、つまり作品内部で仕掛けられるものになります。

     先走って言えば、この「トラップ」という手法は、名探偵vs.怪人の趣向を現代的に追及していた〈リンカーン・ライム〉シリーズが①の頃から持っていた手法でしたが、②~④で違う形の冒険に挑み(ここで形を変えていくつかの「スイッチ」を試す)、⑤で「トラップ」を先鋭化、⑦で完成するという流れになっています。⑦による完成とはつまり、名犯人・ウォッチメイカーの出現です。ウォッチメイカーとは、ディーヴァーが頭の中で考えたすべての欺きと逆転を、ライムの喉元に突きつけるために創造された「絶対的な犯人」なのです。犯人の設定を盛ることで、あれだけの高みに達したとさえ言えます。

     この「トラップ」はお察しの通り、偽の手掛かり問題と親和性が高いネタになります。本物の証拠と偽物の証拠をいかに判別するか。この問題について、エラリー・クイーンは『ギリシア棺』以降、頭を悩ませることになりますが、ディーヴァーはプロットの要請の中で軽やかに扱っています。これを掘り下げるために、「手掛かり」と「名探偵」の二つの要素から、さらに総論を広げてみましょう。

    〇総論2、「手掛かり」の射程とその真贋について

    〈リンカーン・ライム〉シリーズにおいて「手掛かり」とは、グリッド捜索(碁盤目捜索)によって、犯行現場と準犯行現場(殺人等は起きていないが、犯人が訪れた可能性がある場所)において発見された、全ての「微細証拠物件」を指します。この「微細証拠物件」については、このように述べられています。

    “微細証拠物件はライムの好物だった。ときには顕微鏡でなければ見えないほど小さな、かけらや破片。犯人がそれとは気づかずに犯行現場に落としたもの、あるいは犯行現場から持ち帰ったもの。どんなに抜け目ない犯罪者でも手を加えたりわざと置いたりしようなどまでは考えず、どんなに手間を惜しまない犯罪者でも完全に始末することのできない証拠が、微細証拠物件だった。”(『コフィン・ダンサー』、上巻p.205より)

     つまり、この時点で〈リンカーン・ライム〉シリーズには二つの手掛かりの層があります。

    通常の手掛かり=『真夜中の密室』では〈ロックスミス〉が現場に残す新聞紙など。これには偽装を施す余地がある(偽証拠の可能性あり
    微細証拠物件=犯人が手を加えようとすら思わないもの。たとえばこれは『真夜中~』のネタではありませんが、新聞紙に犯人の家近くの砂粒が付着していればそれが微細証拠物件にあたる(偽証拠の可能性なし

     厳密にはこの通りにならない事件もあるのですが、おおざっぱに言って、こういう区分けがされています。これはシャーロック・ホームズの時代を考えると分かりやすく、こういう科学検査でこういう証拠が発見される、という知識がまだ一般的でない時代に、ホームズが様々な技術で犯人を追い詰める時に、そもそも犯人がそこまで調べられると知らないから偽装を施す余地がない……それを、現代の技術でやっているのが〈リンカーン・ライム〉シリーズなのだということは、もはや言い尽くされた議論でしょう。日本ではこの方向性のものはドラマ「科捜研の女」が代表例ですし、近年では岩井圭也『最後の鑑定人』が、鑑定結果によって人の情を炙り出すという趣向で意欲的な連作短編集をものしています。ただ、「科捜研の女」が基本的に一時間枠で、「面白い最新技術による鑑定→犯人・構図に直結」となるものがほとんどであることからも分かる通り、鑑定技術をメインに据える場合、どうしても鑑定と真相の距離が近くなってしまいます。ディーヴァーではそれを大長編のサスペンスに仕立てるために、犯人との対決性を重視し、謎解きの方向性を構図そのものの解きほぐし(ホワットダニット・ホワイダニット)に向けるようにしているのです。

     このとき、「手掛かりから真相に至る道筋」は、大きく分けて、二つほどの道があります。あとで回収するため、「A:スイッチ」「B:トラップ」に続けて、以下のようにアルファベットを振っておきます。

    C:「新現場」の発見
    D:手掛かりの解釈ミス

     C:「新現場」の発見は、新たな事件が起こる場合もありますが、ライムは、犯人と一瞬だけ接触した目撃者の車椅子や、犯人は取り逃したが共犯者の身柄だけは確保した時の共犯者、などからも証拠を得ることがあります。共犯者の場合、証拠だけでなく、情報を得ることもあり、この「情報」の部分については真犯人の罠が仕掛けられている、なんてこともありますが。

     D:手掛かりの解釈ミス、は、手掛かり自体はずっと目の前にあるのに、その解釈を読み間違えている場合、などを指します。近年でもっともこの類型にあてはまるのは、『ブラック・スクリーム』における現場汚染の手掛かりです。エルコレ・ベネッリという、グリッド捜索を行ったり、ライムの元で証拠を扱ったりする経験がないため、いかにもミスをしそうな人物の行動を介することで、ライムに手がかりの解釈を誤らせるのです。それは犯人の意図ではないのですが、結果的に解決を遅延することに成功しています。先ほどの「通常の手掛かり/微細証拠物件」という区分けと合わせれば、犯人の身元に繋がる決定的な微細証拠物件が目の前にずっとある(ディーヴァーお得意の「ホワイトボード」に書かれている)にもかかわらず、ライムが手掛かりの解釈を読み違える、というパターンが最も多くなることになります。

     このDには、「あるべきはずなのに、存在しない手掛かり」というネガティブな手掛かりも含めていいかもしれません。この手掛かりのパターンは、後述するある理由で、ディーヴァーがたびたび利用するロジックになっています。

    〇総論3、「名探偵」ライムの効用

     さて、今出した「効用」という不思議な語ですが、これは都筑道夫による『黄色い部屋はいかに改装されたか?』に収録された文章から持ってきました。佐野洋の「名探偵不要論」と対立した都筑の「名探偵必要論」の要諦をなす文章で、少し長いですが引いてみましょう。刑事ドラマ「アイアンサイド」について語った文章です。

    “ところで、これが名警部シリーズの一篇でなかったとしたら、どうでしょう。うまいどんでん返しだ、やられたな、と思えば思うほど、ひとつの疑問が出てくるはずです。なるほど、青年の計画はよく考えてある。自分の素性も、狙った相手も、推理できるように仕組んである。けれども、推理は簡単じゃない。ただの警部が、そこまで読んでくれるだろうか?
     手がかりを正しく読んでくれなかったら、この計画はなんにもならないのです。よく考えてみると、この話は不自然だよ、ということになってきます。そうじゃありませんか?
     でも、これは「アイアンサイド」の一篇でした。視聴者はこれまでに、アイアンサイドがおどろくほどの記憶力を持ち、観察が細かく、とっさのうちにも鋭い推理をめぐらす能力があって、しかもエネルギッシュな人物だ、ということを知っています。視聴者が知っているくらいだから、犯人が知っているのは、当然でしょう。“(同書の増補版(フリースタイル版)、p.109)

     都筑はこれを「名探偵の効用」と述べます。要するに、犯人と探偵の知的ゲームを成立させるための要件として、名探偵の能力を説得力に用いるということでしょう。都筑の頃にはまだ、「名探偵のことを『読者が』知っている」に重きが置かれていると思います。『犯人も』知っているだろう、については、当時は曖昧な処理になっていると言えるのではないでしょうか。

      ところが、時代は下って、「犯人が名探偵のことを知っている」という部分の処理も丁寧になされる作品が出てくるようになりました。それを執拗に行なっている作品の一つが、この〈リンカーン・ライム〉シリーズです。なぜそう言えるのか。理由は単純です。
    ライムは『証拠物件』を著した物証分析の有名人であり、犯人もそれを知ってライムに挑んでくるからです。
    これは恐ろしいことに『ボーン・コレクター』の時期からすでにそうで、犯人は『証拠物件』を学習したうえで、現場にアフターシェイブローションを撒き、微細証拠物件の収集を妨害するのです。この『証拠物件』を読んだ犯人との対決というパターンは、近年の短編集『フルスロットル』に収録された短編「教科書どおりの犯罪」でさえ踏襲されます。

     そう、ここで「総論2」の「手掛かり」に立ち返りますが、「微細証拠物件」には本質的には手を加えられないけれども、代わりに、その収集を妨害することは出来るのです。勤勉な犯人は、それが出来ます。

     しかし、それが出来るのは、犯人がリンカーン・ライムの介入を予測している場合に限ります。犯人がライムのことを知らない、あるいは興味さえないという場合には、この「名探偵の効用」も意味をなさない――果たして、本当にそうか? ここで立ち止まらなかったのがこのシリーズの凄いところであり、これが、②からの快進撃、あるいは〈第三期〉にあたる⑬~⑮の飛躍に繋がっているのです。

     まず、犯人がライムの介入を予期している/いないについて、こうアルファベットを振ります。

    E:犯人がライムの介入を予見している=『証拠物件』を読み、誤導・対策が可能
    F:犯人がライムの介入を予見していない=誤導・対策は本来的には不可能

     しかし、Fには次のようなパターンがあります。

    F―1、元々犯人が基本的な証拠を残さないことについて慎重:殺し屋、鍵師など
    F―2、犯人と真犯人が別であり、真犯人はEに属する

     このようにすれば、犯人がライムの介入を予見していない場合でも、長編を作ることが可能なのです。考えてみれば分かる通り、犯人をEパターンでのみ作った場合、自信家で傲慢、狡猾なタイプの犯罪者が多くなってしまいます。もちろんそれはそれで大歓迎ですが、〈リンカーン・ライム〉シリーズは犯人の視点パートにかなりの枚数を割き、犯人vs.探偵のサスペンスを高める手法を取っていますので、タイプの似た犯人が増えてしまうと、長期シリーズとしてのマンネリズムに陥ることになります。ですが、Fパターンが使えれば、偏執狂的で自分の世界に閉じこもった犯人や情けない犯人、あるいは真意が読めない少年なども、犯人のパターンとして作り出すことが出来るのです。プロットの立て方の点でも、Fを使えば、第一の現場で事件が発覚、ライムが迫って来て第二の現場ではギリギリまで迫られ、ライムのことを犯人も知り、本格対決へ、という見せ方が可能になります。ほぼ自動的に長編のプロットの枠組みが完成することになるのです。Eはもちろんとして、このFの層を用意したことで、ディーヴァーはこれだけの長期シリーズを、手を替え品を替え実現させたことになります。

    〇総論の総括

     変なタイトルですが、ここで総論1~3で話したことをまとめます。それぞれの項で二つに分類したことから分かった通り、ディーヴァーのいわゆる『どんでん返し』が一作ごとに変わっている――少なくともそう『見える』理由はシンプルで、A・B、C・D、E・Fのこの三つのメニューの選び方が毎回変わっているからです。単純に考えて、三つのメニューからそれぞれAかB、などを選択していけば、八通りのパターンが生まれることになります。

     どういうことか。たとえば、「A:スイッチ」を選んだ時、これと親和的なのは、実は「F:犯人がライムの介入を予見していない」です。なぜなら、犯人が初めからライムにトリックを仕掛けない以上、作者が読者に対して仕掛けるトリックの層が厚くなるからです。また手掛かりの面においては、もちろん「C:「新現場」の発見」も使えますが、「D:手がかりの解釈」のうち「あるはずなのに、存在しない証拠」のネタによく馴染みます。犯人がライムの存在を意識せずに自然に行動しても、残ってしまうタイプの証拠であると同時に、ライムの解決が遅延する(メタ的に言えば、長編化する)説得力にもなるからです。

     あるいは、「B:トラップ」を選んだ場合には、必ずといっていいほど「E:犯人がライムの介入を予見している」ことになります。手掛かりXと繋がる偽証拠Yを撒くことで、「D:手掛かりの解釈」を誤らせるよう仕向けることになります。

     つまり、ディーヴァーのいわゆる『どんでん返し』の分析は、真相のタイプや犯人の配置・設定などを分析するだけでも八割行うことが出来、各作品のネタバレを避けながら各論に踏み入ることが出来ると考えています。ただ、各作品の真相の傾向について、予断を持たせる可能性は否定できません。なので、各作品について、一切の予断を持ちたくないという人は、今日はここでブラウザを閉じたほうがいいかもしれません。念のため繰り返しますが、以下、十五作品のネタバレは行わず、レビューを行います。また、以下のレビューでは、もちろん、こういう大上段に構えた議論に関わる部分だけでなく、シリーズ読者としての読みどころとか、ここが良かったよね~みたいな話もしていくので、お付き合いください。

     今、AとBパターンをざっくり区分けしてみましたが、もちろん、ディーヴァーは各作品において、二つのトリックを組み合わせたり、配分を変えたりして使っています。以下の議論では、シリーズの各作品について、A・B、C・D、E・Fのあてはめを試みますが、これらは「どちらの手法が主流と考えられるか、どちらの手法が決定的な場面で使われているか」を基準に選んでいます。ざっくりとしたものではありますが、何かの参考にはなると思うので、あてはめていく、という感じです。

     では各論に入る前に総論の締めくくりを。以下、ここからの議論のアウトラインを示せば、「ディーヴァーはスイッチの技法を〈確立の第一期〉において極め、それは②~④、⑥で一つの達成を迎えるが、一方でトラップの技法に関わる「絶対者としての犯人」への思索を⑤・⑦で試み、⑦の犯人・ウォッチメイカーにおいて結実する。〈変節の第二期〉においては、〈第一期〉で得た十分すぎる実りを使って、スイッチ・トラップの技法の更なる実験に挑む(⑨や⑩)。この〈第二期〉における⑪が発火点となり、⑬以降、〈跳躍の第三期〉とも言える、原点回帰と複雑性を志向した新たなフェーズに突入した」ということになります。

    〇各論:各作品レビュー

    〈確立の第一期〉
    ボーン・コレクター B―D―E
     さあ、『ボーン・コレクター』、記念すべき一作目です。今改めて読み返すと、この時点で謎解きミステリーとしてこれほどまでの高みに登っていることに驚かされます。なぜなら、これは科学鑑定を主たる武器とするリンカーン・ライムに、犯人が真っ向から挑んだ作品であるからです。犯人はライムの著した『証拠物件』を読み込んで対策し、現場にアフターシェイブローションを撒いてグリッド捜索を妨害する……という手法をとっているのです。最初の一作の段階から、「名探偵vs.知能犯」のフォーマットを確立し、さらにエッジの効いた解決を用意しています。

     つまり、類型から言えば「E:ライムの介入を予期している」形で、ネタとしても「B:トラップ」の類型があてはまることになります。手がかりについても「D:手がかりの解釈ミス」を利用したダイナミックな展開を作っています。なお、ここから、ライムシリーズにおいて「原点回帰」という言葉が使われる作品は、このB―D―Eのパターンが多くなります。要するに「ライムの介入を前提とした知能犯がライムに罠を仕掛けながら勝負に挑む」という頭脳戦を中心に据えた作品です。

     この作品では、障害者であることにいまだ屈託があるライムとサックスの論戦が読ませます。その論戦と二人の感情の動き自体が、プロットのダイナミズムをも作り上げています。同時に、この時点でディーヴァーが、名探偵に執着する犯人を描くためには、名探偵の、人間としての苦悩を話の主軸に据え、名探偵そのものをプロットに組み込むドラマが適合的だと発見していることにも驚かされます。この「名探偵そのもの」をプロットに組み込む、という手法は、実はディーヴァー以後にディーヴァーを意識していると思われる作家でも導入しているのは少数です。ディーヴァー流をやりつつ、この点にも意識的な作家の例を挙げれば、イギリス作家のM・W・クレイヴンでしょうか。

    コフィン・ダンサー A―D―(F-1)
     〈リンカーン・ライム〉シリーズが二十五年間続く人気シリーズとなったのは、この一作の発明が大きかったのではないかと思います。なぜならこの『コフィン・ダンサー』では、①と正反対の仕掛けである「A:スイッチ」の手法を大々的に導入することにより、様々な犯人を書けるようになったからです。

     職業的殺し屋を導入したことも、本作の強み。この殺し屋という職業は、今後も④、⑥、⑩などで導入されるのですが、最大のポイントは「職業的に、ライムの介入を想定せずとも、一般的なレベルで証拠を残さない対策を施せる」ことです。これを利用することで、「F:ライムの介入を想定していない」場合であっても、決定的な証拠をライムに掴ませないことが両立出来ます。また、第一の現場ではライムを意識していないが、それ以降、ライムを意識して行動する……というように、F→Eへ漸次的に駒を進めながらプロットを構築出来るのです。

     本作では、殺し屋が証人を一人一人消そうとする……というシンプルなプロットに、スティーヴン・ケイルの独特な語りを載せることで、ディーヴァーによる一流の「スイッチ」を堪能することが出来ます。飛行機アクションシーンもあって、『シャドー81』などの航空冒険小説の趣向を思い出すのも面白い。上下巻あわせて600ページ台というのも嬉しいところ。

     また、この作品では、尋問や心理を重視しないライムがコフィン・ダンサーと対峙することを願っている、というシリーズとしての謎もフックに使われており、その理由が明らかになる結末には清冽な感動があります。このシーンの良さもあってか、この後、望むにせよ望まないにせよ、ライムが一対一で犯人と対峙するシーンがある作品は、それだけで傑作度が高まるような気がしています。間接対決を繰り返して、最後の最後に直接対決するの……オタクが一番好きな構図だからな……。

    エンプティー・チェア A―C―F
     昆虫少年ギャレット・ハンロンを描く本作では、「A:スイッチ」の技法を用いつつ、これまでも作品の要素としては存在した「ライム:物証を重視」vs.「サックス:心理を重視」という対立項をプロットの中心に据えた作品になります。ギャレットの無実を信じるサックスが、一度捕まったギャレットと逃避行に及び、ライムがそれを追跡するのです。

     ディーヴァーはこの時、「ライム:物証を重視」vs.「サックス:心理を重視」という対立の構図を、②で上手くいきかけたライムとサックスの仲を引き裂く、恋愛ものとしての文脈で導入したようにも見えますが(④なども完全にその流れに乗っています)、ライムと正反対の意見を持つ捜査官を登場させ、その二項対立を展開の中でうまく捌く手法は、この後のディーヴァー作品のひな型になります。具体的には、④における中国思想との対立や、⑥の歴史との対立、そして⑦において、尋問術(キネクシス)を武器とする、キャサリン・ダンスとの対決を通じて完成を迎えます。

     閑話休題。本作で特徴的なのは、「ギャレット・ハンロンは本当に犯人なのかどうか?」という点を宙吊りにして書くことで、では「犯人」側の視点はどのように入れているかというと、ギャレットに誘拐された女性の視点から書いているのです。この視点の使い方は、以後、様々な作品で繰り返されることになります。たとえば⑦では、ウォッチメイカーの共犯者とされる男からウォッチメイカーを描くシーンから幕を開けます。

     今、先走って見た通り、一作ごとに試みて行った「ひな形」を、「絶対的な犯人」を描くという目的に収斂させていったのが、⑦ということになります。だから⑦は第一期の終わりにふさわしい作品なのです。

     そして、③の効用はもう一つあって、それはここで「オタクな『犯人』」を創出したことです(もちろん、③では最後までギャレットが犯人かどうか分かりませんが、序盤から繰り返される、ギャレットのこだわりの強さの描写は、それ自体が魅力にあふれています)。これによってディーヴァーの描く犯人像のパターンは飛躍的に広がったのです。と同時に、真にライムの介入を想定していない状況からも、頭脳戦を書くことが可能であることを、③は立証してみせたのです。この実りは大きく、これが⑧・⑬・⑮などに繋がっていくのです。

    石の猿 A―無―(F―1)
     シリーズ中の隠れた良作だと思っています。ライムが中国の密航船を追いかけていたところ、密航船が爆発し、船が沈没。何人かの密航者は命からがら上陸するが、殺し屋「ゴースト」が彼らを追い始める……というプロットは、さながら②の再現のよう。これは偶然ではなく、「殺し屋が証人を追う」という②のメインプロットをなぞりつつ、②で空を舞台にしたのと対照的に、④では海洋冒険小説の文脈を用いていることから、読者に②を想起させたうえで、その変化を楽しんでもらうように作ったことは明らかです。

     この「変化」を意欲的に騙しの技巧に重ねたところが見事ですし、手掛かりの部分を「無」とあえてしたように、「手掛かりは十分であるのに真相が解けない」という荒業に挑んだ作品にもなっています(これ自体はライムのセリフで回収されるのでご注目)。手掛かりの件でいえば、ここでは「あるべきなのに、存在しない手掛かり」というロジックを用いているところが特徴と言えます。

     また、中国公安局刑事、ソニー・リーのキャラが大変に良い。物証を重視するライムと、中国思想を重視するリーという対立の使い方も上手いですし、ライムを「孫悟空」に見立て、その障害について意見を述べるパートは非常に胸熱くなる、感動的シーンです。ディーヴァーの作品って、オチももちろんなんですが、こういう、熱の籠った対話パートが一番読ませたりするですよね。

     この作品は、献辞も重要です。

    “二〇〇一年九月十一日にアメリカが失った人々に捧ぐ
     ――彼らが犯したたった一つの罪は、寛容と自由を愛したことだけだった。
     彼らは私たちの心に永遠に生き続けるだろう。“(『石の猿』上巻、p.3)

     ここに世界同時多発テロへの言及がある通り、これ以降、〈リンカーン・ライム〉シリーズの一側面として、テロルとの戦いが如実に書かれていきます。思想によって世界を害するという目的を描けるようになったことが、この後のシリーズの「誤導の真相」を描く際にも大きな変化に繋がっていると思います。と同時に、④では中国からの不法移民の問題を扱ったように、テーマを一作ごとに扱うという形式のターニングポイントにもなったのではないでしょうか。

    魔術師 B―D―E
     そう、ここで、「B―D―E」という、①のパターンが再登場したことに気付かれたでしょう。これこそがまさに「原点回帰」の一作であり、同時に「絶対的な犯人」であるウォッチメイカーへと至る最大のジャンピングボードとなる一作なのです。

     ニューヨークの音楽学校で殺人事件が発生し、人質を取って立てこもる犯人。警官隊が現場を包囲するが、犯人は人質と一緒にかき消えた。その後も、奇術のテクニックを生かして跳梁跋扈する犯人に挑むべく、ライムは女性奇術師カーラにレッスンを受ける――。

     まさしく、「怪人vs.名探偵」のフォーマットを現代流にアップデートした物語であると同時に、ライムと対立する意見を持つ捜査協力者(③・④のフォーマット)、ライムの推理を想定しながら積極的に罠を張る犯人の存在(①)、犯人による語りの効果的利用(②)など、それまでの作品で試みてきた冒険を一度結実させた作品でもあります。ライムの介入そのものを想定しているかどうか、実は微妙ですが、警察側の動きを自分の計画に組み込んでいる点から、全体的に見て「E」と見ていいと思っています。

     ここでの最大のポイントは、「誤導(ミスディレクション)」という概念を、奇術を通じて、ライムシリーズに導入したことです。ライムの推理を外させるため、真相とは別の大胆な構図を用意する……という犯人像が、これによって用意できることになるのです。もうお気づきの通り、この文脈を拡大し、進化させたのがウォッチメイカーということになります。

     あと、これはただの萌え語りですが……解説、法月綸太郎ですよ! 最高ですね。

    12番目のカード A―C―(F―1)
     第一期最大の異色編。とある女学生が襲われそうになった強姦未遂事件が、140年前の解放奴隷を巡る陰謀に繋がってくる……という意想外のプロットを使った作品です。タロットカードが小道具として使われており、その使い方自体はシンプルなのですが、犯人の正体を巡る考察が面白い作品になっています。

     140年前の解放奴隷については、当時の黒人奴隷の立場を表した「五分の三の人間」という言葉をライムの前に突きつけることから生じるドラマも読みどころです。歴史の謎に立ち向かっていくところは唐突に思えますが、分野の違う相手とライムの対立を描く、というシリーズのひな型を考えれば、物的証拠が存在しないはずの歴史に挑ませる趣向はここから出て来たとも言えそうですし、100年前の文書を巡る騒動を描いた〈コルター・ショウ〉シリーズの近作『ファイナル・ツイスト』を思えば、ディーヴァー自身がこういう話が好きなのではないかという気もします。

    ウォッチメイカー B―D―E
     第一期の終わりを飾る、傑作中の傑作。ビザールな悪を描くには、犯人自身の不気味な独白による趣向もありますが、私はそれよりも、殺人現場そのもの、死体に加えられた工作そのもので人間への悪意を感じさせる趣向を好みます。連続殺人犯は、犯行現場と死体で語れ。だからこそ、⑦の犯行現場の悪意に満ちたカッコ良さにはいちいちシビれますし(「時」というモチーフの選択も完璧である!)、序盤~中盤はウォッチメイカーの内面を直接描くことなく、その共犯者の目からウォッチメイカーの不気味な言動を描いていくのも好みに合っています。

     つまりここでは、
    ・ライムの介入を想定した(E)知能犯との対決(①)
    ・解釈の誤りを誘い、事件そのものの構図を誤導する罠(B)を仕掛ける知能犯(⑤)
    ・ライムと対立する捜査官の出現(③以降)
    ・犯人の傍にいる人物から犯人のことを描く(③)
    ・テロリズムの原理に基づいた動機(誤導を含む)の創出(④)
     というように、第一期の各作品で試みた冒険の一つ一つが、効果的に再利用・アップデートされていると言えます。

     そして、逆に言えば、この壮大な構想を用いるために用意されたのが、ウォッチメイカーという「絶対的な犯人」です。ディーヴァーが頭の中で考え出した壮大な構想、偽の真相が多すぎてプロットの破綻さえ引き起こしてしまうのではないかというほど壮大な「それ」を、破綻を起こすことなく作品世界で実現させるために生まれた天才。それこそがウォッチメイカーであり、彼が〈リンカーン・ライム〉シリーズの飛躍を決定づけたと言えます。「この犯人ならそれだけのことをやりかねない」と思わせる圧倒的な説得力を備えた魅力溢れる悪の天才を作り上げるためには、設定を盛ると同時に、引き算も大事なのだと感じさせます。

     また、これはシリーズを通しての特徴ですが、この「説得力」を感じさせるために、犯人にコードネーム(コフィン・ダンサー、ゴーストなど)や「未詳〇〇号」などの記号を与え、序盤から犯人の存在性を強調するのも効果的な手法です。これはある意味、漫画『金田一少年の事件簿』などにも通じるものです。

     これはこの後のシリーズの一つの特徴でもあるのですが、その人物の内面が書かれる瞬間というのが、イコール構図の暴露に繋がってくるようになってきて、これは少年漫画にありがちな「回想入りは負けフラグ」と同じ構造になっています。このあたりのテンポが良いので切り回しが巧く感じるのではないかと思います。

     ビザールで、魅力溢れる悪の天才の創出。それが第一期の最大の実りでした。

    〈変化の第二期〉
    ソウル・コレクター A―C―(F―1)
    「コレクター」が副題につく作品としては『ボーン・コレクター』以来になります。情報化社会、個人情報をテーマにした本作は、他人の人生を剝奪することに快感を覚える新たなタイプの「敵」を描いており、ある意味で、これまでのシリーズになかった敵の登場といえます。『ボーン』を肉体的恐怖とするなら、『ソウル』は社会的・精神的恐怖と言えるでしょう。

     ライムのいとこが殺人容疑で逮捕される……という発端から、これは「リンカーン・ライム自身の事件」ではないかと思わせるのですが、そう簡単には読者の思惑通りに展開しないのがディーヴァーの曲者なところ。次第にスケールアップする敵の行動に翻弄されてしまいます。ある種、「誤導する」という目的だけを自動化された犯人なので、ウォッチメイカーで確立した犯人像だけを駆動した一作とも言えますが、ライムの介入を想定しておらず、序盤で早々に重大な証拠品を落としてしまうことで、犯人としては情けなさも感じさせます。

     中盤以降、ある会社の人間に容疑を絞り込むことで、スクウェアなフーダニットに落とし込んでしまうのが、ディーヴァー流のサスペンスとしては窮屈さを感じさせるところ。とはいえ、中盤で登場する、陰謀論にとらわれた被害者の描写なども忘れ難い印象を残しますし、シリーズ中の異色作と言えるでしょう。

    バーニング・ワイヤー A/B―D―E
     電力をテーマとした作品で、電力を操る敵との対決が描かれる作品です。これこそが④で献辞に掲げたテロリズムとの戦いを正面から書いた作品と言えます。電力による爆発や殺人を繰り返す犯人の行動は、これまでの名犯人たちに負けず劣らず凶悪なものになっていますし、他の作品に比して、犯人視点での独白がグッと少なくなっていることで、その不気味さが際立っているのも特徴と言えます。⑦でも語りましたが、犯人はその行動のみを書かれるほうが不気味に見えることもあり、不思議なものです。一方、ライムはメキシコに登場したウォッチメイカー逮捕作戦の指揮も執らねばならず、矢継ぎ早に起こる事件にめまいがするようです。

     本作の凄さは、ダミー推理からその否定、そして真相に至るまでの推理の脱構築のテンポがいつも以上に速いことと、その「推理→否定→再推理」のすべてのステップのために膨大な伏線が張られているところです。かなり飛び幅のある真相を成立させる必要があったためか、推理がかなり手厚いんですよね。

     おまけに、本書には二箇所、とても感動的な会話劇が用意されています。一つは、リンカーン・ライムが他の障害者に会い、意見を交わすくだり。ライムの心理を描いた地の文も素晴らしいのですが、一歩一歩、歩み寄るように会話をして、ライムが自らの未来に思いを馳せる描写に胸打たれます。もう一つは、ライムと真犯人の対決パート。今回は特にここがアツい。私は、名探偵と名犯人の出会いというのは、互いにとって、互いを理解出来る存在との代えがたい出会いであると思うのですが(時に名探偵のほうには頼れるパートナーがいて、名犯人にはいないというのがつらい)、それを象徴するかのようなシーンになっていると思います。今回の犯人、いいですよお……。

     A/Bと表記したのは、この作品には二つの側面がミックスされているからです。知能犯との対決と、モジュラー形式の使用を効果的に組み合わせることにより、構図そのものをスライドパズルのように組み合わせる、ディーヴァー随一のスイッチの技術も味わることが出来るのです。

    ゴースト・スナイパー A―D―(F―1)
     リンカーン・ライム海外出張編その①。前作の影響もあってか、ライムが自ら外に出て、自分から犯罪捜査に繰り出したいと願う話が増えることが、この「第二期」の特徴と言えるでしょうか。とはいえ、「第二部」まではライムがアメリカに留まりながら、バハマで起きた暗殺事件を捜査するというプロットで、諜報機関の妨害も受け、地元警察は協力的でないという、かなりストレスが溜まる展開になっています。ライムが物的証拠を得ることさえ出来ず、捜査が停滞し続けるのですから。それゆえに、第三部でライムがバハマに出張してからの解放感が素晴らしく、地元警察にも良いキャラがいて嬉しくなってしまうという。長期シリーズのこういう変化球って、なんだか嬉しくなってしまうんですよねえ。ちなみに、ライムの証拠収集自体を妨害して、その推理能力にデバフをかけ、ストレスを与えるという展開は、③でディーヴァーが試みたひな形です。こうしてみると、③って結構重要作。

     シリーズ十作目にして「vs.諜報機関」を打ち出してきたのは、前作『バーニング・ワイヤー』を2010年に刊行して、本書を2013年に刊行するまでの間に、ディーヴァーがジェームズ・ボンドの“続編”『007 白紙委任状』を書いていることが大きいといえるでしょう。陰謀渦巻くスパイ・アクションの文脈に、もし四肢麻痺を抱えた名探偵が迷い込んだら? という実験的なサスペンスになっているのです。それゆえ、事件は「いかにして2000メートルもの距離から長距離狙撃を成功させたか?」というハウダニットの謎と、事件の構図の謎(ホワットダニット)のみに絞って、シンプルな見せ方になっています。これもまた異色編と言えそうです。

     ライムの介入を想定していないこともあって、ここでは「あるべきはずなのに、存在しない手掛かり」というロジックを用いているのですが、その使い方はシリーズの中でも随一と言えそうです(長距離射撃の謎とも密接に絡んでいます)。

     さて、「変化の第二期」を象徴するような本作ですが、「海外出張編その①」と銘打った通り、「その②」も存在します。そして、その②ではこの作品を踏み台に、更なる変化に挑んでいるのです。それはまた出てきた時に。

    スキン・コレクター A/B―D―(F―2)
     一作目『ボーン』→七作目『ウォッチ』の間には明確な水脈があることは先に指摘した通り、そしてその水脈はここ、『スキン・コレクター』に繋がっています。一作目のモチーフが骨だったのに対し、ここでは皮を選択しているのも、その水脈のありかを示すため、いえ――読者に『ボーン』『ウォッチ』の真相を意識してもらったうえで、そこから意図的にズラすという仕掛けを企むためです。

     この「意図的にズラす」という箇所が、「A:スイッチ」に該当します。ディーヴァーは読者を相手取って誤導を仕掛けるのです。と同時に、犯人はライムにも複数の罠を仕掛けており、「B:トラップ」も効果的に使われています。

     そして、ここで登場するのが「F―2」の形です。極論すれば「操りの構図」といっていいもので、〈リンカーン・ライム〉シリーズは今後、この類型を追及していくことになります。この類型の最大の効用は、操り手である頭脳派の犯人と、表立って悪意を振りまく偏執的な犯人を一つの作品の中で同時に描くことが出来ることです。この構造の最大の弱点は、解決編まで読むと、どちらかの印象が大きく下がってしまうことで、読者が序盤~終盤直前まで慣れ親しむのは表立った犯人のほうであり、最後に出てくる操り手は印象に深く残らず、結局衝撃自体も薄れてしまう可能性が高くなります。せっかくの最終的なオチを、読者にすぐ忘れ去られる可能性があるということですね。

     しかし⑪が出色なのは、この落とし穴に陥らず、魅力的な結末を導いたことになります。結果として、壮大なテロルの構図(④)の面白さと、ビザールな悪の創出(⑦)を同時に成し得ているのです。また、読者の眼前に提示された地図に、手掛かりがしっかり描き込まれているところなども、実に謎解きミステリーファンの心をくすぐられるところです。

    スティール・キス A―C―F
     このパターンは、第一期でよく見たパターンです。ライムが市警を離れ、サックスと別々に動くという設定上、①の「B―D―E」を指す「原点回帰」とは別の意味で、これも第一期への「回帰」を思わせる一作になっています。③・④・⑥あたりの良さなんですよね、⑫って。

     製造物責任のロジックを通じて、電気製品を操るIoTテロの文脈が書かれた作品で、同じくIoTテロを扱った『劇場版名探偵コナン ゼロの執行人』がほぼ同年だったので驚いた記憶があります。本作のポイントは、まさしくこの「製造物責任」で、ライムは民事裁判に協力することになるのですが、刑事裁判とは違ったロジックに物証を重視するライムがどう挑むか、というのが見所の一つになっています(③以降のひな型)。ディーヴァーの弁護士経験が生かされた一作、と言えるでしょうか。市警を離れ大学教授になったライムが授業するシーンが見られるのも、ファン的には嬉しいところ。

    〈跳躍の第三期〉
    ブラック・スクリーム A/B―D―(F-2)
     これがライム出張編の②であり、同時に、〈跳躍の第三期〉の始まりを告げる一作です。二期・三期の区切りについては悩んだのですが、⑪での実りを手にしたディーヴァーが好んで似た構図を利用し続けるようになるので、ここにしました。要するに「操りの構図」なのですが、複雑な真相を志向し、驚愕を追及することで、「操り」に辿り着くという構造は、ある意味エラリー・クイーンの後期作をも思わせます。

     音にこだわりを抱く犯人「コンポーザー」との対決を一度ニューヨークで行い、その後、対決の舞台をコンポーザーが逃げたイタリアに移す……という構造を取っていることで、ライムたちの顔見せを冒頭で効果的に行ったうえで、「当初犯人はライムの介入を想定していなかったが、最初の現場で迫られたことで、ライムとの対決を意識する」という流れが描けるようになっています。そのため、この作品では、作者が読者に仕掛けるトリックと、犯人がライムに仕掛ける誤導を同時に味わえることになっています。

     舞台を移し、心機一転、グリッド捜索に慣れていない森林捜査官エルコレ・ベネッリをサポート役に据えることで、初期アメリア・サックスのような試行錯誤の面白さを演出すると同時に、手掛かりを汚損してしまうシーンなどに効果的に仕掛けを忍ばせてもいます。このあたりのトリッキーさが、ディーヴァーの柔軟さと言えるのでしょう。また、コンポーザーのキャラ造形が良く、彼とライムが対峙するシーンがかなり好きです。

     文庫版にはボーナストラックとなる短編「誓い」が収録されており、新婚旅行先でも事件を解いてしまうライム&サックスの姿にほほえましくなります。

    カッティング・エッジ B―D―(F―2)
     ダイヤに妄執を抱く犯人「プロミサー」との対決を抱く本作は、知能犯との対決をメインに据えた点で、「原点回帰」の一作といえるものになっています。⑦以降顕著となった、テロリズム的なスケールの大きい犯罪との闘いになっているのも、「原点回帰」性を強く感じさせる点でしょうか。

     切り回しの良い展開で次々と意外な展開を繰り出す作品で、特に、中盤で明かされる事件のアウトラインには顎が外れる思いがありました。これ系の構図の中でも、かなり大胆な発想なこともあって、こんなことまで考えるのか、ディーヴァー、と舌を巻く思いでした。

     また、やたらと印象に残るゲストキャラという意味では、ダイヤモンド加工職人の師弟のパートがなかなか良いです。これも〈コルター・ショウ〉シリーズに繋がっていると言えるかも。⑭は、今年の11月に文庫化予定のようです。

    真夜中の密室 ?―?―?
     さて、まだ出たばかりの新刊ですから、分類を書くのはやめましょう。おそらく、ここまで読んできた方なら、作品を読めば当てはめが出来ると信じて。

     本書で出てくる犯人は〈ロックスミス〉。最初の事件は、鍵を開けて室内に入って来て、女性が寝ているその室内で、スリッパの位置を変え、クッキーを食べ、「因果応報」と書かれた新聞記事を残して去っていく……というもの。殺人や傷害などを伴わないだけに、その不気味さが際立ちます。この不気味さから思い出したのは、江戸川乱歩の「屋根裏の散歩者」や、フィル・ホーガンの『見張る男』でした。

     前者について言えば、これまでの犯人――たとえば⑤や⑦では、「怪人二十面相」風の「怪人」との知恵比べが書かれていたのに対して、ここでの対決は変態的な、偏執狂的な犯人が描かれることで、タイプの違うものが実現されているのです。また、後者は恐らくマイナーなタイトルなのですが、開錠を得意とする少年の青春恋愛小説として出色の出来だったスティーヴ・ハミルトン『解錠師』の翌年に出たせいで、「ダーク版『解錠師』」として記憶していた作です。『見張る男』は不動産業者の男が、自分の貸している物件の合鍵を持っているため、時折貸した家に侵入して、その人の生活を追体験する――コーヒーをリビングで飲んだり、テレビを見るなどして痕跡を消して帰るのみ、という変態――というもので、窃視の欲望をストレートに表現した、気持ち悪い(ある意味誉め言葉!)スリラーでした。

    『真夜中の密室』に登場する〈ロックスミス〉からは、こうした不気味な魅力を存分に感じます。これは、内面描写を排してその恐怖を演出した⑦のウォッチメイカーと正反対の構図で、徹底的に内面を書き、その過去まで全て掘り下げていくことで、首尾一貫した不気味な論理を書くというものになっているのです(⑧、⑫、⑬などにも共通)。この犯人像が、『真夜中の密室』の読みどころの一つでしょう。

     本文中には、ロックスミスをウォッチメイカーに擬して、ライムがこんなことを言うくだりがあります。

    “「この二人は似た者同士だ。どちらも利口で、戦術に優れている。いわば闇の芸術家と呼べる点も似ている。それにどちらも機械式の装置に妄執を抱いている。一時代前のツールに」”(『真夜中の密室』。P.331)

     ウォッチメイカーを思わせるシーンをあえて入れたり、過去作の真相を仄めかしたりすることで、ディーヴァーは読者を巧みに誤導しようとしています。このあたりの匙加減も実に巧くて、最後まで翻弄されてしまいました。

     また本作は「1、ライムが巻き込まれた暗黒街の大物に関わる裁判」「2、ライムが他に抱えている案件である、アレコス・グレゴリウス殺人事件」「3、ロックスミス事件」という三つの事件によって絶えずサスペンスを掻き立てる作品になっています。特に感心したのは「1」の使い方で、これまでのシリーズの信念を真っ向から否定するような展開にも早々に驚かされるのですが、ライムの証拠収集能力自体にデバフをかけて、序盤~中盤のサスペンス感を高めるという点では、③や出張編である⑩・⑬にかなり近いのですが、こんな手法でも出来るのか……
    と舌を巻く思いでした。それがシリーズとしてのくすぐりにもなっているのは、さすがに芸達者。

     ②のところでも語ったのですが、ライムと犯人の直接対決が描かれる作品はそれだけで嬉しくなってしまうので、『真夜中の密室』も実に心揺さぶられる一作に仕上がっていました。いいですよお、これ。ライム三年ぶりの新刊ですが、大いに楽しみました。大満足の一冊です。

    〇まとめ
     さて、長い長い総論・各論を経て、少しでもディーヴァーの見方が深まったら幸いです。参考としていただくため、なるべく、自分で作った類型へのあてはめを行いましたが、先に述べた通り、実際にはAとBのテクニックの比率を変えて混ぜたり、手掛かりもCとDが混交したり、ということが多いです。完璧な分類でないことは承知していますが、頭の体操の一助となれば幸いです。

     最後になりますが、個人的なベスト5を掲げておきます。

    一位 ウォッチメイカー
    二位 コフィン・ダンサー
    三位 バーニング・ワイヤー
    四位 スキン・コレクター
    五位 真夜中の密室

     うーん。こうしてみると、犯人との直接対決がある作品ばかりだなあ。相当好きらしいです、そういうシーン。異常でこだわりの強い犯人を、名探偵だけが理解出来る、っていうのは、異常なエモ構図だと思うんですよねえ。二位は逆にそこが……というのが最大に燃えました。『魔術師』も好きなんですけど、五作からあえて落としたのは、魔術師はライムというより警察を見ているからかなあ、と。『真夜中の密室』はその点、ライムに対峙したロックスミスが言うセリフがめちゃくちゃ良くて、それも好きな理由なんですよね。

     と、いうことで、長い長い旅がこれにて終了しました。あくまでも試論なので、これは経過報告ですが、これからも現代海外ミステリーを読みこんで、自作を磨いていこうと思います。

    (2022年10月)

第43回 特別編8-22022.09.23
翻訳ミステリー頂上決戦・2022年版! 後半戦 ~壮大なる物語の迷宮の先に、辿り着いた景色とは?~

  • 精霊たちの迷宮(上)、書影
    精霊たちの迷宮(下)、書影

    カルロス・ルイス・サフォン
    『精霊たちの迷宮(上・下)』
    (集英社文庫)

  • 〇「夏の出版社イチオシ祭り」作品全部読む! 後半戦

     さて、今月の前半に更新した第42回に続き、今日も「翻訳ミステリーの2022年注目作」総ざらい企画として、「夏の出版社イチオシ祭り」で取り上げられた、各出版社の注目作についてバシバシ紹介していきますよー。まずは復習がてら、対象作品のリストから。

    前半戦 9/9更新分、第42回
    〇小学館 ニクラス・ナット・オ・ダーグ『1794』『1795』
    〇扶桑社 フレデリック・ダール『夜のエレベーター』
    〇ハーパーコリンズ・ジャパン 周浩暉『邪悪催眠師』
    〇二見書房 ニタ・プローズ『メイドの秘密とホテルの死体』
    〇早川書房 クリス・ウィタカー『われら闇より天を見る』

    後半 本日の更新分
    〇東京創元社 ホリー・ジャクソン『優等生は探偵に向かない』
    〇新潮社 ポール・ベンジャミン『スクイズ・プレー』
    〇KADOKAWA トーヴェ・アルステルダール『忘れたとは言わせない』
    〇文藝春秋 ジェローム・ルブリ『魔王の島』
    ※ここで他出版社の注目作もご紹介
     講談社 リー・チャイルド『奪還(上・下)』
     竹書房 A・J・カジンスキー、トーマス・リュダール『被疑者アンデルセンの逃亡(上・下)』
    〇集英社 カルロス・ルイス・サフォン『精霊たちの迷宮(上・下)』

     ではでは、本日もいきましょう。まずは東京創元社から!

    ◯東京創元社から

     東京創元社から登場したのは、ホリー・ジャクソン『優等生は探偵に向かない』(創元推理文庫)! 何を隠そう、解説を務めさせていただきました。第一作『自由研究には向かない殺人』では、五年前に容疑者となった青年の無実を明かすべく、一人「自由研究」に乗り出したピップですが、本作では『自由研究には向かない殺人』の余波を受けて、ポッドキャスト配信で一躍「探偵」として名を馳せたピップの活躍が描かれます。前作が清冽な読み味の中にほろっと苦みが走る絶妙な塩梅の青春小説だったとするなら、本作はいよいよヤングアダルト小説独特の苦みが強くなってきて、ミステリーとしても一段の進化を遂げた感があります。特に私、悔しかったのが、短編「入れ子細工の夜」でも、なんなら最近の短編「おれ以外のやつが」(『小説推理』10月号)でも取り入れているスマートウォッチを、とんでもなく巧い使い方で使われたことで、「こんなに魅力的な手掛かりの使い方、先に思いついていたら使いたかった!」と地団太を踏んでしまいました(スマートウォッチが決め手になるわけじゃないので、ネタバレではないですよ)。

     解説ではそのあたりの謎解きミステリーとしての側面と、犯罪小説としての美点をじっくりと書いてみましたので、これは解説も参考にしてみてほしいです(解説で書きたいことを全部書いたので、どうしても紹介が短くなってしまう……!)。ここでも再度注意喚起したいのは、『優等生は探偵に向かない』は、続編というか、前作を第一部としたときの「第二部」というくらい密接に繋がっている作品なので、最大限楽しむためには前作から楽しんでおいたほうがいいということです。もちろん単独でも読めるようにしてありますし、より肝要な点として、ダイジェストパートがあるので、『自由研究~』既読者が、このためにあえて全部再読する必要はない、という程度にはしてあります。まあ、新作が出るたびに前の巻を全部読み返すのが何よりの楽しみ! という人もいるでしょうし、そこは好き好きですが。

     ところで、解説には書けないノリなのでここに書くんですけど、『自由研究には向かない殺人』で、正義感が強く、まっすぐに世の中の偏見を見つめるピップの姿に危なっかしさを感じつつも、やはり眩しさを覚えた身としては、やはり『優等生は探偵に向かない』の展開は衝撃的でした。SNSの使い方一つとってもそうですし、ピップという少女の危うさが、こういう形で発露したか、というところにも驚きが。ある意味、こういう話がしっかりとヤングアダルトミステリーの形で書かれているというところに力強さを感じます。でも、それよりなにより……三部作の最後で、ピップは一体、どうなっちゃうの~~~……? それだけが私は心配ですよ……元気に生きて……。

     さて、以下に、この読書日記でこれまでに取り上げた東京創元社作品のリストを掲げます。

    第36回
    ジョエル・ディケール『ゴールドマン家の悲劇』
    第38回
    レイモンド・チャンドラー『長い別れ』
    第41回
    アーナルデュル・インドリダソン『印』
    エドワード・ケアリー『呑み込まれた男』
    シヴォーン・ダウド『ロンドン・アイの謎』
    G・G・バイロン、J・W・ポリドリほか『吸血鬼ラスヴァン 英米古典吸血鬼小説傑作集』
    C・J・ボックス『嵐の地平』
    S・J・ローザン『南の子供たち』

     この中では、やはりジュブナイル・ミステリーの雄『ロンドン・アイの謎』がオススメ。少年による他者理解の物語でもありますし、謎解きミステリーとしての勘所もバッチリ。『嵐の地平』もC・J・ボックスの最高傑作の一つに数えられる出来栄えだと思います。シリーズの途中ですが、どこからでも入れるのが、ボックスの良いところです。

     八月以降に刊行された注目作も、ザッと浚っておきましょう。エリー・グリフィス『窓辺の愛書家』は、ビブリオ・ミステリーを謎解きの骨組みに巧く取り入れる作家の第二弾。第一弾は怪奇短編作家の見立て殺人を描いた『見知らぬ人』ですね。『窓辺の愛書家』では、90歳のおばあちゃんが亡くなって、彼女の遺品を整理したら、どの蔵書の本にも、献辞に彼女の名前が掲げられている……という発端が実に魅力的。サイン会で件の作家に接触したり、過去に書かれた一冊の本が現代の謎解きに繋がるかも……という見せ方などに、アンソニー・ホロヴィッツ『その裁きは死』や『ヨルガオ殺人事件』のプロットに呼応するものを感じ、本国でも影響力が大きいのかなあと邪推したりも。前作『見知らぬ人』は伏線から導き出された犯人像がかなりそれまでの落ち着いたスタイルと乖離していて、『窓辺の愛書家』は実に折り目正しく、嬉しくなってしまいました。

     アンソニー・ホロヴィッツ『殺しへのライン』もやはり注目。元刑事の名探偵ホーソーンと作者と同名の視点人物アンソニー・ホロヴィッツのコンビの活躍を描く〈ホーソーン&ホロヴィッツ〉シリーズの最新作。昨年、第23回の「海外本格ミステリー頂上決戦」で同作者の『ヨルガオ殺人事件』を取り上げさせていただき、ホロヴィッツのほぼ全作解説のような形になりましたが、そこでは“ホロヴィッツの魅力の核心は「演出」にある”と述べていました。手掛かりそのものや、フェアプレイももちろんですが、そうした手掛かりから真相を導くときの「演出」、ここから全てが解き明かされるというその高揚感の「演出」が素晴らしいのです。そして今回の『殺しへのライン』もその期待を全く裏切りませんでした。それどころか、探偵の魅力という点で、さらに大きな飛躍を見せた作品だと思います。少し紙幅を取って掘り下げてみましょう。

     本作はオルダニー島での文芸フェスを舞台にしており、旅行に来た面々の前で殺人が起こるという結構は、さながらアガサ・クリスティーの『死との約束』『白昼の悪魔』などの本歌取りのようです。『殺しへのライン』はさらに、「殺人前のドラマ」をじっくりと描いた作品で、具体的なページ数を明示するのは控えますが、第一の殺人まで100ページほど、たっぷりと紙幅を取って、文芸フェスの個性豊かな参加者や、フェスの主催者である夫婦やその後援者であるカジノ経営者など、秘密を抱えた人間関係をじっくりと紡いでいきます。この中に、「いかにも殺されそうなやつ」がいて、その人物を中心に人物関係が配置されているように見える点もまた、『死との約束』を思わせる特徴です。

     謎解き面に関して言えば、私が元からホロヴィッツに感じていた「伏線の組み合わせ方、配置の巧さ」という特徴がさらに生きる形が用いられています。今回はある意味で、一つ一つの伏線の射程が短いのですが、代わりに、有機的な手掛かりの組み合わせで場を駆動するようになっているのです。「伏線の射程」というのは私なりの語感で、「ある伏線が示唆する真相との距離」といったぐらいのニュアンスなのですが、たとえば、Aという伏線があったとして、この伏線がある人物のBという特徴を意味し、Bという特徴は現場の凶器Cに繋がり、したがって犯人はXと言える、という伏線A~Cの張り方があった時に、多くの謎解きミステリーは真相を隠すため、このように複数の伏線を経由するようにしているのですが、『殺しへのライン』は、ほぼ、AがXに直結するようになっているんですね。これが、伏線の射程が短い、という時の意味。ただ、これはXから手掛かりBを得るためにこう作っているのであって、決して弱点というわけではありません。そして、これはクリスティーが『ナイルに死す』『死との約束』あたりで先鋭化させた手法だと思うのです。Xから手掛かりBを得ることで別の伏線Cと連鎖させたり、別の人物Yに繋げたり、最終的には、射程の長い伏線の先にいる真犯人Zに繋がるように作っていくというわけですね。射程の短い伏線は、あえて晒している、という感じ(今、私の作品を思い出した人もいるのではないかと。こうして手の内を晒すと自分の首を絞めることになりますね)。

     こうした構図を用いる場合、読者が全てのデータを得ることが出来る時点はどんどん後ろ倒しになっていくので、そういうのもあって、今回、フェアプレイという点では前作に比べ物足りないと感じる人もいるかもしれません。ただ、個人的には、いわゆるクリスティー流の本歌取りを、現代的なテンポで実現している好例として、地団太を踏むほど悔しくなれて好きです。こういうミステリーが今書かれているって思うだけで元気になります。これは細かいポイントですが、シリーズ前二作では嫌味なだけの警官が多かったのに対し、今回の警官は、にこやかなのに曲者といういいキャラ造形で、これも個人的にはポイントでした。

     そして、ただクリスティーの本歌取りで終わっていないのが、先述した探偵自身のドラマです。ホーソーンの過去に何があったのか? というシリーズの大きな謎については、第一作『メインテーマは殺人』と第二作『その裁きは死』では仄めかされる程度だったのですが、今作ではホーソーンの過去を知る人物の登場で、大きな動きを見せることになります。実はこれまで、私にとってホーソーンは、傍若無人な振る舞いや、ホロヴィッツのことを邪険にするその態度、ナチュラルに差別主義者であることなど、嫌いな理由のほうが多いキャラクターだったのですが、今作で過去を知る男に対して怒りをあらわにし、暗い影を覗かせたホーソーンの姿には、思わずグッと心を鷲掴みにされてしまいました。本作で全てが解決されるわけではないですし、まだまだ引っ張るのですが、私もいよいよ、ホーソーンの過去とこれからに興味津々となってしまいました。あ、念のため言っておきますが、最悪傍若無人ムーブはまだまだ残っていて、1章から人の秘密を明け透けにバンバン言い当てます。ホーソーン、君、そういうとこだよ…………。

    ◯新潮社から

     新潮文庫からはポール・ベンジャミン『スクイズ・プレー』が挙がりました。ポール・オースターがオースターになる前に別名義で書いていた「幻のデビュー長篇」にあたるのが本作です。前回取り上げた『黒き荒野の果て』(ハーパーBOOKS)について、いわゆるノワールに求める要素を満載した作品という意味で、あえて大文字で「THE NOIR」(あるいは「LE NOIR」)と表記したいと言いましたが、それを言うなら『スクイズ・プレー』はまさしくあざといまでの「THE HARD-BOILED」。ここまであざといと、「ほらほら、男の子ってこういうのが好きなんでしょう~?」って言われている気がして、好きと認めるのが悔しくなるのですが……でも、こんなに完璧なハードボイルドは他にそうそうないよ……。若島正の『殺しの時間』で名前を見かけて以来、「あのオースターがハードボイルドを!?」とずっと読みたくてたまらなかったのですが、まさかこんな形で読めて、それもこれほどの傑作だなんて。

     とにかくのっけから語り口がたまらない。私立探偵、マックス・クライン。一作限りの主演にしておくにはもったいないほどのキャラクターです。何度もくすくす笑わされ、目が離せなくなって、やがてマックスと共に事件の渦の中に飲み込まれていく。ユーモア、トラブル、苦い結末。ここにはアメリカン・ハードボイルドに求める全てがあります。なんなら、タイトルが示している通りの野球の描写だって、アメリカのハードボイルドに無意識に求めてしまう要素でもあります。それはローレンス・ブロックの「ケラーの指名打者」(『殺しのパレード』収録)とかの影響が自分の中では大きいのかな……。

    “野球場のホットドッグというのは野球体験の一部なのだろう。何十ヤードも離れたところにいて、聞こえるはずもない選手に向かって、わかったような指示を叫んでいるファンの声や、一向に気にしたふうのないピッチャーに対するブーイングを聞いたり、見ず知らずの男にからかわれたりするのと同様。すべてが偉大なるアメリカの娯楽というわけだ。”(「ケラーの指名打者」より、『殺しのパレード』〈二見文庫〉p.11)

     ブロックの描写は思わず笑わされるくらいシニカルなのですが、『スクイズ・プレー』19章における野球の描写は、それ自体に耽溺しているとさえ思ってしまうほど長いんですよね。もちろんタイトルにもなっている通りの「スクイズ・プレー」にかかわる描写で、ミステリー的にも重要なシーンなのですが、それでもここにあえて野球観戦のシーンを持ってくるあたりが、実にアメリカ的というか。そういうところも含めて楽しめました。オースターの〈ニューヨーク三部作〉の裏面をなぞる、これも一つの、オースターが描く「ニューヨーカー」の物語だったと言えそうです。

     これまでオースターといえば『ガラスの街』『幽霊たち』『鍵のかかった部屋』の〈ニューヨーク三部作〉と、『幻影の書』『オラクル・ナイト』あたりでマイ・ベスト5だったのですが、これからはどれかを泣く泣く外して『スクイズ・プレー』を入れるかも。あと、解説の池上冬樹が指摘していた、日本の文学者が別名義でミステリーを書く時は本格を書くが、海外の文学者の場合ハードボイルドを書くという指摘に首がもげるほど頷きました。別名義のダン・キャヴァナーで『顔役を撃て』などのハードボイルドを書いていた文学者のジュリアン・バーンズが、バーンズ名義のほうで著している『終わりの感覚』(新潮クレスト・ブックス)はその年のミステリーベスト1というのにもめちゃくちゃ同意です。バーンズ名義だからと、海外文学好きだけに読まれているのはもったいない。マジで『終わりの感覚』は読みましょう。

     新潮文庫では、ポール・ベンジャミンをはじめとする「海外名作発掘」のシリーズが始動したことで、古典名作かつ今まで未訳だった作品がピックアップされているのが嬉しいところ。第38回で取り上げたライオネル・ホワイト『気狂いピエロ』は、ノワールの中でも珍しいタイプのファム・ファタール像が印象に残る佳品でしたし、ドナルド・E・ウェストレイク『ギャンブラーが多すぎる』は著者の作品にしては長いのが玉に瑕ですが、著者らしいユーモラスな語り口とドタバタ劇にノセられて、軽快な気分で読めるクライム・コメディでした。今後も「海外名作発掘」には期待大です。

     また、新潮社の新潮クレスト・ブックスからは、エマ・ストーネクス『光を灯す男たち』という作品が八月に登場、これも味わい深い海外文学の傑作です。コーンウォールの絶海に建つ灯台から、1972年に三人の男たちが忽然と姿を消した、という発端から、1972年に男たちに何があったかを詳らかにしていく過去パートと、1992年、男たちに残された灯台守の妻たちのところを海洋冒険小説家のダン・シャープが訪ね、過去の事件を探ろうとする現在パートに分かれて展開します。ミステリー的なプロットは取っ掛かりに過ぎないのですが、非常に魅力的な引きになっていますし、何より文章や描写力、シーンの美しさが素晴らしい。「灯台」は作品の舞台であると同時に、作品全体を貫通する暗喩にもなっているのです。終盤の描写の巧さたるや、素晴らしいもので、実に味わい深いエピローグも見事です。私が薦めたということでミステリーを過度に期待されると違うかもしれませんが、実に心に沁みる海外文学として、2022年の収穫に数えたい一冊です。「灯台小説」としても一級品です。三津田信三『白魔の塔』を受けて杉江松恋が常々言っていた「灯台守は女にもてる」という格言が、エマ・ストーネクスの手によって再度実証されましたね。……と、いう冗談はさておき、去ってしまった男たちの視点だけでなく、残された女たちの視点も取り入れ、両面から描いたことが、この作品の芯の強さにも繋がっていると思います。

    ◯KADOKAWAから

     KADOKAWAからはトーヴェ・アルステルダール『忘れたとは言わせない』が刊行。同作者は2017年に創元推理文庫からデビュー作『海岸の女たち』が邦訳されており、これは移民問題を主軸に据えた社会派ミステリーの良作でした。デビュー作にして見事な完成度を誇る作品でしたが、中でもとりわけ私が好きだったのは、主人公自身のルーツ、アイデンティティー探しが巧みなサブプロットとして走り、本筋と繋がってくるところでした。

     では本作『忘れたとは言わせない』はどうでしょうか。本作で主人公を務めるのはエイラ・シェディンという女性警察官。初期認知症を抱える母と、放浪癖がある兄を家族に持ち、「地元に関する知識」を持っていることから捜査に加えられる。その私生活をじっくりと描き上げていくところは、マイ・シューヴァル&ペール・ヴァールー〈刑事マルティン・ベック〉シリーズなどの北欧ミステリーの伝統を思わせます。おまけに、それが警察小説としてのメインプロットにも関連してくるというところは、やはりデビュー作で垣間見えたアルステルダールの美点がしっかりと生きていると言えるでしょう。

     23年前の事件によって、秘密を抱え、過去に囚われた人々。当時14歳で凶悪事件を自白し、保護施設で育ったウーロフが実家に帰ると、父は自宅で亡くなっていた。ウーロフは犯人と疑われ、エイラは警察官として否応なく事件に巻き込まれていく。あの時何があったのか。今、何が起こっているのか。過去と現在を繋ぐ一つの線が見えた時、ほう、とため息が漏れるような犯罪小説です。シリーズの続きに期待したいところ。

     個人的には、『シェトランド』のドラマをエイラの母親が見るシーンがやけに印象的に書かれていたのがツボでした。『シェトランド』はアン・クリーヴスの『大鴉の啼く冬』(創元推理文庫)に始まる〈シェトランド四重奏〉を原作としたミステリードラマです。最近、創元推理文庫から出たC・A・ラーマー『マーダー・ミステリ・ブッククラブ』でも、アン・クリーヴスのもう一つのロングラン・シリーズ、〈女警部ヴェラ〉シリーズ(未訳)を楽し気に読むシーンがあって、やっぱり海外ではアン・クリーヴスって人気なんだなあと羨ましくなりました。アン・クリーヴス、現代で一番好きな謎解きミステリー作家です。“Wild Fire”が邦訳されたら全作レビューしようかな。

     また角川文庫から出たS・J・ベネット『エリザベス女王の事件簿 ウィンザー城の殺人』にも注目。エリザベス女王を主人公にしたミステリーは他にもあるとはいえ、この作品では、「高貴であるがゆえに自分では謎を解かず、人を操り、その人に自分から真相を気付かせる」という、麻耶雄嵩の〈貴族探偵〉シリーズのような「操りの構図」を取り入れた点がキモ。それがいわゆる本格ミステリーでいう「操り」の発想からではなく、「ヴィクトリア女王が急に動いたり質問したりしたら、周りが気を回して大騒ぎになるもんね」という小説上の発想から生まれているのが笑えます。キュートでキッチュな謎解きミステリーとして名前を挙げておきたい。

    ◯文藝春秋から

     文春文庫からはジェローム・ルブリ『魔王の島』が参戦、とんでもなく挑発的なサイコ・サスペンスが登場です。こいつは凄まじいですよ。驚愕度では今年トップクラスかもしれない。ただ、この「驚愕度」にはいろいろなニュアンスがあって……精緻に組み上げられた騙しの構図に欺かれ、驚愕するタイプの本格ミステリーは、後から伏線や誤導を検討すると「あぁ、これは確かに騙されるなあ」「くそっ、気付けたはずなのに!」などと感嘆するのですが、『魔王の島』はどうかというと、たとえていうなら、遊園地のホラーハウスを進んでいたら、外から脱線したジェットコースターが突っ込んできたみたいな「驚愕」なんですよね。モロ突然死。確かにその可能性もあるんだけど、いやいやいや、と思わず笑ってしまうような塩梅で、ミステリーには「驚愕」を何よりも求めるという人には堪え難い一作でしょう。

     帯文からして挑発的で、「彼女のはなしは信じるな。」と、『魔王の島』が「信頼できない語り手」ミステリーの一種であることを半ば明かしているのですが、この作品の本当に凄いところは、こんなもの明かされたところで痛くも痒くもないというところ。有栖川有栖がよく言う「犯人だけ当てられても、痛くも痒くもない」というのと同じです(同じか?)。

     祖母の訃報を受け取ったサンドリーヌは、ある孤島に向かうことに。ナチスドイツ時代のトーチカが不気味にそびえ立つその島では、かつて子供たちに怖れられた「魔王」がいたという。子供たちはその後、全員が死んだ……。この島で何が起こったのか? この島で何が起こっているのか? 息もつかせぬノンストップ・サスペンスの果てに、読者の眼前に広がる景色とは?

     ……というのが若干煽り気味に作ってみた本書のあらすじ。視点の配置の仕方が巧く、読者の鼻面を引き回すような展開の乱打がたまりません。フランス・ミステリーは、こういうのが良いんですよねえ。ゲーテの『魔王』が印象的なモチーフとして全編を覆っているのも、「第一の道しるべ 島」というような一風変わった部のタイトルも興味をそそり、一気呵成に読まされました。そして驚愕。顎が外れるような衝撃、という言葉を久しぶりに思い出すような作品でした。帯裏には「『その女アレックス』のルメートル、『黒い睡蓮』のビュッシ、『パリのアパルトマン』のミュッソに続くフランスの刺客ジェローム・ルブリ」とありますが、これら三作家の要素をそれぞれ感じさせるのも面白いところ。ルメートルの残虐さ、ビュッシの世界そのものを壊すような驚愕性、ミュッソのプロット構築のスケールのデカさ。とはいえ、ビュッシやミュッソって、驚愕の果てに、「最後の最後には、この作家は人間を信じているんだなあ」と思わせる景色に辿り着いてくれるのですが………………ルブリさん、あんたって人はよォ……。

     文藝春秋からは他にも、注目作が続々刊行。カミラ・レックバリ/ヘンリック・フェキセウス『魔術師の匣』(文春文庫、上・下)は、スウェーデンのベストセラー作家レックバリによる新シリーズで、共著者にメンタリストを迎え、メンタリストと刑事のバディが猟奇殺人に挑みます。この猟奇殺人というのが、ステージマジックで、箱の中に入ったアシスタントが剣で箱ごと刺されるが無傷……という「剣刺し箱」の手口で殺されているのです。つまり、魔術のモチーフが全編を覆っている。ここで思い出すのがジェフリー・ディーヴァーの作品『魔術師』。そしてメンタリストの手法にはディーヴァーの創造した名探偵、キャサリン・ダンスの「キネクシス」という心理分析にも通じるところがあり……。そんな要素から濃厚な「文春印海外本格」のにおいを嗅ぎ取った『魔術師の匣』ですが、上巻はややサスペンスとして散漫な印象があるものの、下巻からは興奮の展開の連続、犯人との対決を描くクライマックスまで一気呵成に読ませます。特に、真犯人の正体を巡る伏線もさることながら、クライマックスのピンチのために張られた伏線が、良い。レックバリって盛り上げ上手! 新シリーズの第二弾は早くも来年刊行予定、こちらにも期待が高まります。

     スチュアート・タートンの『名探偵と海の悪魔』は第35回で取り上げました。18世紀の海洋冒険ロマンに、怪奇小説のエッセンスと魅力溢れる名探偵を満載した「ひとつなぎの本格ざいほう」。やりすぎお兄ちゃんの面目躍如たる傑作ですし、『イヴリン嬢は七回殺される』以上にベタな魅力のキャラクターたちが入り乱れる活劇としても楽しみます。今年の海外ミステリーの中ではイチオシの「名探偵」本格ミステリー。

     また、文藝春秋では一年に四冊もディーヴァーが刊行。短編集の分冊『フルスロットル トラブル・イン・マインドⅠ』と『死亡告示 トラブル・イン・マインドⅡ』に加え、長編二冊『ファイナル・ツイスト』『真夜中の密室』というラインナップ。どうかしてるぜ。短編集は中編「フルスロットル」「バンプ」「カウンセラー」「永遠」あたりがお気に入りですが(第39回で取り上げました)、注目はやはり『ファイナル・ツイスト』の鮮やかな大ボラと冒険小説の妙味でしょうか(第41回で取り上げました)。なお、『真夜中の密室』はまだ読めていないので、次回にお話ししようと思います。原稿の途中ですが予告をすると、来月は〈リンカーン・ライム〉シリーズ全作レビューやります。逃げ場がなくなるように太字で表記してもらいましたよー。

    〇講談社・竹書房文庫からも

     Youtubeライブに参戦の10社以外からも、面白かったものをピックアップ。講談社からはリー・チャイルド『奪還』(講談社文庫、上・下)を紹介。リー・チャイルドのとにかくえらいところは、常にどこから読んでもいいようにしているところと、その圧倒的なリーダビリティー。『奪還』は2006年に本国で刊行された作品で、〈ジャック・リーチャー〉シリーズの第十作目にあたるのですが、これが驚くことに、シリーズベスト級の一冊なのです。リーチャーがカフェでコーヒーを飲んでいると声をかけられ、それが民間軍事会社を経営するレインという男の部下なのですが、レインはリーチャーにこう告げる――すなわち、レインの妻子が拉致され、犯人の車をリーチャーが目撃した可能性がある。何か知らないか? と。かくしてリーチャーは妻子拉致事件に巻き込まれ、身代金受け渡しに居合わせ、過去の事件の謎などに挑むことになる、というのが大体の筋。

     リー・チャイルドのどんでん返しが上手いのは、読者に「これはこういう物語だな」という予断を無理なく抱かせるところ。それをある地点で、「あッ、そっち!?」と方向転換するのが巧みなのですが、私はこの技術をあえて「スイッチ」と呼んでみます。列車をある線路から別の線路へ切り替える、というイメージですね。リー・チャイルドが中盤で読者を誘う「線路」は、確かに窓の向こうに見えていたもの、しかし、意識していなかった方向性です。でも見えていたがゆえに、凄まじい説得力で納得させられてしまう。今回の『奪還』もそれが巧みで、ここまでならいつものリー・チャイルドなのですが、本作はこの「スイッチ」を導く推理の部分が面白いのが良い。現場の中に仕込まれていた違和感から、しっかりロジックが繰り出されるんですよ。ぶっちゃけ完全にクイーン流。シリーズ屈指の謎解き度と言っても過言ではありません。面白かった。

     ちなみにこの「スイッチ」という技術を90年代から先鋭化させてきたアメリカの作家があと二人いて、それがマイクル・コナリーとジェフリー・ディーヴァーです。前者は今年も『潔白の法則 リンカーン弁護士』(講談社文庫、上・下)が邦訳され、これはリンカーン弁護士が殺人犯として疑われ、裁判にかけられ、自らを弁護するという大興奮のサスペンス。これも「スイッチ」の使い方が魅力です。そしてディーヴァーはといえば……これは来月行う〈リンカーン・ライム〉シリーズ全作レビューで詳しく見ていきましょう(どんだけ引っ張るんだよ)。

     竹書房文庫は基本的にSFが中心とはいえ、A・J・カジンスキー/トーマス・リュダール『被疑者アンデルセンの逃亡』(上・下)は歴史ミステリーの拾い物。アンデルセンがつけていた日記には一年間の空白があり、その一年の間に何があったのか? という取っ掛かりから生まれた歴史ミステリーになっているのですが、19世紀前半のデンマークの苛烈で不衛生な状況を丹念に紡ぐ描写力と(この点は前回取り上げた『1793』『1794』『1795』三部作とも共通しています)、アンデルセンを探偵役に据えたことにより生じる終盤のドラマがポイントになっています。アンデルセンがなぜ人魚姫を書いたか、マッチ売りの少女を書いたか、なぜアンデルセンの童話は残酷なのか? そういったメタレヴェルの謎を巧みに織り上げ、19世紀デンマークの「女性」を巡る哀しい犯罪絵巻と、性差への怒りを照射してみせる。苛烈な状況を描いていて、死体のシーンもかなりグロいのですが、信じられないほどリーダビリティーが高いのも推しポイント。シーンが映像的で、すんなり読んでいけます。

    ◯集英社から

     集英社からはカルロス・ルイス・サフォン『精霊たちの迷宮』(集英社文庫、上・下)がイチオシ作に挙がりましたが、これを最後に取り上げるために他の注目作に言及しておきましょう。第41回でも取り上げましたが、ジャニス・ハレット『ポピーのためにできること』がそれです。これだけ注目作が挙がってきてなお、私の中での評価は揺らぎません。すなわち、「今年の翻訳本格ミステリーナンバーワン」という評価です。メールやSNSのやり取りのみで700ページを構成し、それだけで人間関係の網を作り上げていく過程には感動してしまうのですが、ラストの200ページ、犯人当て、被害者当て、人物当てを複雑に絡ませながら、その中心に巨大な秘密を置いて見せる。この大ネタが非常にクリスティー的。クリスティー的というのは、たとえば『アクロイド殺し』とか『オリエント急行殺人事件』などの飛び道具とは違って、他の様々な作品に通底している、「人間関係の中に仕込んだ陥穽の妙と、真相提示によって浮かび上がる嫌な人物像」といったあたりです。いいですよお、これ。

    ◯〈忘れられた本の墓場〉四部作、その魅力溢れる迷宮の中へ

     さあ、〈忘れられた本の墓場〉四部作の話です。もしかしたら私の傾向から察しているかもしれませんが、ここから全作レビューです(あなたっていつもそう……)。いきますよ。

    〈忘れられた本の墓場〉の魅力を一言で言い表すならば、「読書家のために用意された最高に面白い物語」です。子供の頃に触れたファンタジー小説や、あるいは壮大な構想を持った大長編漫画、古典で言えばディケンズなど、「全ての登場人物が魅力的で、どんな脇筋も面白くて、あらゆるプロットの中に放置された謎が中心のストーリーへの訴求力を絶えず搔き立てる」という特徴を、〈忘れられた本の墓場〉は全て兼ね備えているのです。個人的にはディケンズの『荒涼館』などの「意外な登場人物が意外な形で繋がって、面白えええ!」と叫んでしまう楽しさを思い起こします。伝わらないかもしれないという危険を冒しつつ言ってみると、〈忘れられた本の墓場〉は「読書家のための『ONE PIECE』」です。そもそも『ONE PIECE』の、意外な人物(あるいは伏線)が意外な形で意外な場所に現れて繋がっていく、という面白さって、それ自体はディケンズの『荒涼館』に通じると思うんですよね(もちろん、これは両作品の面白さの一側面に過ぎませんが)。19世紀のデカい世界文学の面白さというか。サフォンにはそれを思い出させる懐の深い魅力があるのです。

     では、それぞれのあらすじと魅力の解説に移ってみましょう。ちなみに、作者が言っている通り、この「四つの作品」=「四つの迷宮」の入り口は、どこから入ってもいいように構成されています。特に一作目~三作目にあたる『風の影』~『天国の囚人』は本当にどこからいってもアリです。ただ、『精霊たちの迷宮』のラストについては、これまでの三作品の記憶を持っているからこそ、感慨もひとしおという側面があると思うので、どの順番で読んだとしても、ゴールは『精霊たちの迷宮』にするのがいいんじゃないかな、と思っています。

    『風の影』(集英社文庫、上・下)
     1945年のバルセロナを舞台にした作品で、この後も物語の中心人物となるダニエル少年やフェルミンといった魅力的な登場人物たちと、「センペーレと息子書店」や「忘れられた本の墓場」などの魅力的な舞台が総動員された作品です。謎の作家、フリアン・カラックスが書いた小説『風の影』が中心となるロマン・ミステリーで、ダニエルが父に連れられて行った「忘れられた本の墓場」で、この『風の影』に出会ってしまうところから運命が動き始めます。フリアン・カラックスとは何者か? その過去に何があったのか? そしてフリアンの『風の影』を追う男も現れて……というのが筋で、フリアンの過去やバルセロナという都市の過去の姿を絡めて展開する、見事なゴシック・ミステリーに仕上がっています。

     もう、この『風の影』は、「原点にして頂点」みたいな本で、この本に出会った感動をずっと忘れられないからこそ、私はこの16年間、サフォンの背中を追い続けてきたわけです。私は自分が中学生の頃に読んだというのも非常に良くて、これはダニエル少年の青春恋愛小説でもあるんですよね。だからあるシーンでは胸が苦しくなるほど痛みを覚えたし、あるシーンでは見てはならないものを覗くようなドキドキを覚えました。この情熱もスペイン小説の良さなのかなあ。いいんですよねえ。愛を語るフェルミンの言葉も全部良いし、最後の伏線回収も全部良い。

     折り目正しく、そして大胆に織り上げられた、読書家のためのエンターテインメント。誰にでも薦められるマスターピースが、『風の影』です。

    『天使のゲーム』(集英社文庫、上・下)
     私的偏愛作。なぜなら、小説家を書いた小説が私は大好物で、ここに出てくるダビット・マルティンという作家が私は大好きだからです。もう好きなシーン多すぎるんですけど、ちょっと何個か見てくれませんか?

    “作家というのは、自分の書いた物語とひきかえに、わずかな金や賛辞をはじめてもらったときのことを、けっして忘れない。甘い毒にも似たうぬぼれをはじめて血に感じ、その瞬間に、まず思う。これで才能のなさを他人ひとに見ぬかれさえしなければ、自分も物書きとしての夢を見つづけながら、屋根のある場所に住め、一日の終わりに温かいものが食べられ、しかも最大の望みだって実現する、つまり本人がこの世から消えても、つまらぬ紙っぺらに印刷された自分の名前はきっと生き残ってくれるだろうと。”(『天使のゲーム』、p.10)

    “「(前略)副詞と形容詞を、むやみやたらに使いまくることについて、きみはどう考えるかね?」 「それは恥ずべきことであり、刑法の適用に値すべきものです」(中略) 「よろしい、マルティン、なにがたいせつか、きみは、はっきりわかっているようだ」”(『天使のゲーム』、p.15)

    “こんなひとつかみの紙のなかに、世界じゅうの魔法と光があるように思えたのは、そう昔のことではない。”(『天使のゲーム』、p.97)

     どうですか? 後半の良い表現は、うっかり引いてくるとネタバレになりそうなので、第一部を中心に引いてきましたが、サフォンの地の文の語りと表現、そして会話……素晴らしいでしょう? ユーモアとロマンあふれる語り、そして小説への、本への愛。ここには優れた文芸ミステリーに求めたい全てが入っているわけです。

     そんな筆致で今まさに小説家として羽ばたこうとしている若い才能、ダビット・マルティンを描き(彼が書こうとしているのがグラン・ギニョールだというのが、また良いんだよなあ!)、しかも旧市街の「塔の館」に住んだダビットに襲い来る怪異の正体に迫るべく、前の住人の不審な死について探る……という「館が主役のゴシック・ミステリー」で読みたいベタ中のベタを(誉めているんですよ!)読ませてくれるのですから、たまらないという他ありません。そしてもう、この小説はラストが凄まじくて、正直、分かるのです、評価が割れるのは。でもこのあざといまでの感動が私は好きで、もちろん小説としての完成度は『風の影』のほうが上、シリーズとしてみたら最高傑作は間違いなく『精霊たちの迷宮』なのですが、それでも「いやぁ、やっぱり『天使のゲーム』が好きだな」と立ち返ってしまうのです。どうしようもなく、ダビットのことが好きなのだ。

    『天国の囚人』(集英社文庫)
     他が上下巻の分厚い本なだけに、この薄さにまずびっくりします。単巻で370ページ。立ち位置としては、『風の影』と『天使のゲーム』を完全に合流させ、『精霊たちの迷宮』に向けて伏線をバラ撒くというという感じ。では、これ単体では面白くないのか、と聞かれそうですが……な、なんと、面白い…………。化け物かよ……サフォン……。

     本書は1939年の監獄で出会ったフェルミンとマルティンのドラマと、1957年のバルセロナに現れた、『モンテ・クリスト伯』の希少な版を買い求め、謎めいたメッセージを残した男の謎が描かれます。1930年代当時のスペインの独裁体制の闇にいよいよ踏み込んでいくその序章となる物語であり、監獄サスペンスとしても忘れ難い印象を残します。サフォンがシリーズの全巻に冒頭で掲げている通り、〈忘れられた本の墓場〉四部作はどこから読んでもいい、とするなら、一番薄い『天国の囚人』から入るというのも十分アリではないでしょうか(個人的には『風の影』か『天使のゲーム』にどーんと挑んでほしいところですが)。

     さて、本書の刊行は2014年。私が大学サークルに在籍していた当時に刊行されていたことになるのですが、『天国の囚人』を読んだ当初から、ここに貼られた未回収の伏線の数々が気になり、「一体サフォンはどうこの物語を畳むつもりなんだッ!?」とサークルでも話題になっていました(単巻としての『天国の囚人』の評価は、やはり最終巻に向けた前振りの比率が多いゆえに割れていた記憶があります)。そして2016年、シリーズ第四弾が本国で刊行されたと聞きつけ、この時、サークルの面々とこんなことを話していました。「いや、これは結末が気になりすぎる。今出てる翻訳ミステリーで、一番続きが気になる。もし訳されなくても、絶対に四作目を原書で読むよ。10年……10年待っても訳されていなかったら、原書で読む」

     今思えば、10年という数字に明確な意味はありませんでした。ただ、今すぐにでも結末を見届けたいという想いと、「私たちは木村裕美訳のサフォンに浸って来たのだから、願わくば、木村裕美訳のサフォンで結末が読みたい」という願いとのせめぎ合いだったのでしょう。そして2022年。その公約の実現を待たずして、集英社と木村裕美さんのおかげで、『精霊たちの迷宮』を読むことが叶ったわけです(普段、敬称略で統一している読書日記ですが、ここはやはり「木村裕美さん」です。本当に、本当にありがとうございます)。

    『精霊たちの迷宮』(集英社文庫、上・下)
     今ここに、最後の迷宮の扉が開かれ、これまで読者が迷い込んだ三つの迷宮すべてと繋がり、壮大なフィナーレを迎える。これはそういう本です。『精霊たちの迷宮』はもう…………素晴らしい。それ以外の言葉は、この凄まじい傑作の前では無用なのではないかとすら感じます。

     これまでの三作品に登場したヒーローもヴィランもすべて登場、それぞれがそれぞれの決着をつけるというのですから、その豪華さたるや尋常ではありません。上下巻で約1300ページの分量を誇るのも納得です。加えて、本書のメインの謎となるのは、失踪した大臣、マウリシオ・バウスの私邸で見つかった一冊の本『精霊たちの迷宮』を巡る謎で、彼がなぜ失踪したかを追いかけるのがメインプロットの一つになるのですが、この捜査をするアリシア・グリスという捜査官がたまらなくカッコいい。これまでの悪役たちに挑むのに十分たる説得力を具えた良キャラクターですし、彼女が「センペーレと息子書店」で穏やかな時間を過ごすパートなども全てが愛おしい。今回から登場なのに、一作目から親しんできたダニエルやフェルミンに匹敵するくらい好きなキャラクターになりました。登場人物表に「フリアン・カラックス 『風の影』著者」「ダビット・マルティン 『呪われた者たちのまちシリーズ著者』」「ビクトル・マタイス 『精霊たちの迷宮』シリーズ著者」と並んで表示されているだけでも無限に興奮してしまうし、このシリーズはずるい。

     本書はマウリシオ・バルスの失踪から始まる、ハードボイルドのプロットの典型をなぞった話ですが、そこに『精霊たちの迷宮』の作者を巡る過去が絡んできます。物語に物語を被せて重奏させていくのは、入れ子細工の構造を特色とした本シリーズの面目躍如。意外な事実の提示や丹念な調査、回想の語りによって、モザイク模様のパズルが少しずつ埋まっていくさまを堪能することが出来ます。

     特に今回感心したのは、シリーズ前三作で放り出しておいた伏線――こうして振り返ってみると、特に『天国の囚人』は今回の最終巻のために伏線を置くために書かれたとさえ思える作品でしたが――をきっちり回収しつつ、読者が知りたかった「最後の環」を最も効果的に提示してみせるその演出でした。「その人物」から、「その視点」から「あの時」が語られれば、全てが繋がる。それが読者にもハッキリ分かる形で、カッコよく登場するんですよ。ここの演出にとにかくシビれました。締めくくりのシーンの美しさも見事で、完璧すぎる幕引きには思わず滂沱の涙を流しました。自らの生涯をかけて、この壮大な〈忘れられた本の墓場〉の迷宮を完成させ、これ以上ない形で幕を引いたカルロス・ルイス・サフォンという作家への限りない尊敬の念も、その涙には含まれていました。

     さて、ここからは筆が滑ってしまいますが、少し個人的な感慨を書き残しておこうと思います。私はよく「読むのが早い」と人から言われることが多く、といって早く読むことにも多く読むことにも、それ自体に価値があるとは思っていないのですが(だからこうやって面白かった本を紹介できる場が出来て、本当に良かったと思います)、『精霊たちの迷宮』については、あえてゆっくり、ゆっくり読むことにしていました。実は七月中旬から、『風の影』『天使のゲーム』『天国の囚人』の再読も、ゆっくりゆっくり進めて、『精霊たちの迷宮』の発売日当日を迎えたのです。実際に手にしてからも、「ようやく続きが読める」という想いと、「これを読んだら、終わってしまうのか」という寂しさが混じりあって、なかなかページをめくることが出来ませんでした。下巻に入って、あまりの面白さにどんどん続きが読みたくなっても、意識的に手と目の速度を落としていました。終わってほしくなかったからです。この迷宮から、抜け出したくなかったからです。

     しかし、サフォンはそんな私の未練を断ち切るように、これ以上ないほど完璧な締めくくりと、そこまで読んだら決して続きを読むのを止められないような、カッコいい「最後の環」の演出を用意してくれました。それでようやく、「ああ、これで最後を見届けなければ、嘘だな」と思って、読み終わることが出来たのです。それは寂しくて、温かくて、圧倒的な、決して忘れられない読書体験でした。大いなる物語に身を浸すことの歓びを、サフォンは思い出させてくれるのです。

     2022年という年は、私にとって、サフォンの『精霊たちの迷宮』を読めた年として記憶されることになると思います。そして、またいつの日か、この魅惑的で、果てしない物語の迷宮に、帰ってくることになるでしょう。これは、そんな一冊です。

    (2022年9月)

第42回 特別編8-12022.09.09
翻訳ミステリー頂上決戦・2022年版! 前半戦 ~無法者の少女と懐かしきアメリカ、そして謎解き~

  • われら闇より天を見る、書影

    クリス・ウィタカー
    『われら闇より天を見る』
    (早川書房)

  • 〇2022年の翻訳ミステリーは面白い!

      今年もこの季節がやって来た。年末ミステリーランキングは、『このミステリーがすごい!』と「ハヤカワミステリマガジン」の『ミステリが読みたい!』が奥付9月末までの本が対象、『本格ミステリ・ベスト10』と『週刊文春ミステリーベスト10』が奥付10月末までの本が対象となっています。この季節になると、妙に血が騒ぐのは、この奥付対象期間めがけて、各出版社が剛速球を投げ始めるからです。

     昨年は読書日記の第23回において、「海外本格ミステリー頂上決戦」と題して、アンソニー・ホロヴィッツ『ヨルガオ殺人事件』(創元推理文庫)vs. リチャード・オスマン『木曜殺人クラブ』(ハヤカワ・ポケット・ミステリ)のクリスティー・オマージュ対決について、私が勝手にレフェリーを務めてその読みどころと魅力を紹介したのですが、この試合にとんでもないルーキーが乱入し、試合自体をかっさらっていったという展開でした(私の中では!)。ホリー・ジャクソン『自由研究には向かない殺人』(創元推理文庫)がそのルーキーで、実際に、昨年のランキングでは『ミステリが読みたい!』の一位を取っていました。

     その第23回の末尾で、ホロヴィッツ、オスマン、ジャクソンの三者について、来年も新刊が出ると知ったので、「来年もやるんですか!?」とオチをつけて締めたのですが……。今年は少し事情が違い。というのも、ホリー・ジャクソン『優等生は探偵に向かない』(創元推理文庫)の解説を務めさせていただいたのです。あの暑苦しいレフェリーぶりが、どうもバッチリ担当編集の目に入ったようでして、仕事に繋がって大喜び。でも一方で、今年同じ試合をやったら、判官びいきになりそうだな、と。リチャード・オスマンも、どうも9月までの刊行予告に載っていないので、今年は今年でも11月か12月な気がします。

     ですが、予告したからには、今年も何か「祭り」をやりたいと思った時に、こんな告知が飛び込んできました。全国翻訳ミステリー読書会YouTubeライブ企画の「夏の出版社イチオシ祭」! 8月7日にオンライン上で開催され、各出版社がイチオシの作品を熱くプレゼンするという企画。いずれも熱気の伝わってくるプレゼンぶりで、いやぁ、いいなあいいなあと見ていた時……。

     ……そうだ! これを全作読ませてもらって、紹介しよう!

     こう思いついたというわけです。ということで、9月も前後編でお送りいたします。結果的には第23回よりスケールアップしたことになるのですが、まあ読書日記はエスカレートするものと相場が決まっていますからね。各出版社のイチオシ作はもちろん、その出版社ではこれも最高だったとか、他の出版社にもオススメがあるとか、2022年の翻訳ミステリーを総ざらいする企画にするつもりです。

     さて、では「夏の出版社イチオシ祭」で取り上げられた作品のリストと、前後編の構成を掲げます。

    前半戦 今日の更新分
    〇小学館 ニクラス・ナット・オ・ダーグ『1794』『1795』
    〇扶桑社 フレデリック・ダール『夜のエレベーター』
    〇ハーパーコリンズ・ジャパン 周浩暉『邪悪催眠師』
    〇二見書房 ニタ・プローズ『メイドの秘密とホテルの死体』
    〇早川書房 クリス・ウィタカー『われら闇より天を見る』

    後半 9月23日更新分
    〇東京創元社 ホリー・ジャクソン『優等生は探偵に向かない』
    〇新潮社 ポール・ベンジャミン『スクイズ・プレー』
    〇KADOKAWA トーヴェ・アルステルダール『忘れたとは言わせない』
    〇文藝春秋 ジェローム・ルブリ『魔王の島』
    【大トリの前に他出版社の注目作も紹介予定】
    〇集英社 カルロス・ルイス・サフォン『精霊たちの迷宮(上・下)』

    ◯小学館から

     まず小学館から二クラス・ナット・オ・ダーク『1794』『1795』をご紹介。それぞれ9月、10月の小学館文庫の新刊なのですが、なんと後者『1795』の解説を務めております。この作品は2019年に同じく小学館から刊行された『1793』に続いて、三部作を構成する、圧巻の歴史ミステリー。

     結核を患ったセーシル・ヴィンケと、隻腕の"引っ立て屋"ミッケル・カルデルのコンビが、惨殺死体の謎に挑むという筋で、「宮廷文化」ばかりが取り沙汰される煌びやかな18世紀スウェーデンのイメージを刷新するような、汚辱と悪に満ちた都市の描写が胸に迫る歴史小説になっています。『1793』では果物売りで生計を立て、それから紡績所という名の強制労働施設で働かされるアンナ・スティーナ・クナップという女性が登場するのですが、不合理と不正義に満ちた世界で、彼女が己の生き方を貫く姿が素晴らしい。ミステリーとしての美点は、ビザールな巨悪との対決が描かれることでした。特に被害者の奇妙な行動から手がかりが導き出される瞬間には、謎解きミステリーの快感も宿っていたと思います。

     そして『1794』『1795』は、これに続く上下巻のような構成で、より巨大な悪との対決に挑むことになります。謎解きミステリーよりも、冒険小説・歴史小説のウェイトを増した読み心地なのですが、リーダビリティーは高まっていて、あれよあれよと読まされる。『1794』では第一部に農民の女性との恋や当時の黒人奴隷を巡る情勢の苛烈さを書き上げるある人物の手記が挿入され、第二部でカルデルにバトンタッチ、その人物を巡る謎に迫っていくという筋なのですが、ここで明かされる本書の「続編」としてのアイデアに私は参ってしまいました。名探偵に置いていかれた者、それを継がねばならないもの。細かい話なので解説には書きませんでしたが、この三部作の試みに近いのはウィリアム・モールの「キャソン・デューカー三部作」(『ハマースミスのうじ虫』『さよならの値打ちもない』"Skin Trap")や、齋藤肇の「思い三部作」(『思い通りにエンドマーク』『思いがけないアンコール』『思いあがりのエピローグ』)ではないかと思います。『1793』三部作は本格ミステリーではないので、この喩えを持ち出すこと自体変かもしれませんが……でも、感慨には近いものがあると思うのです。三部作を順に読まないと辿り着けない大部であり、読むのには根気がいる作品ですが、それだけの強度を備えた作品世界だと思います。『1795』の結末を読んだときは、しばらく何も出来ず、立ち尽くしてしまいました。

     ちなみに『1793』『1794』『1795』は、実に並べたくなる装丁で文庫が揃う予定です。『1795』の帯には、私が解説で一番自信のあるフレーズを使ってもらえる予定だとか。楽しみです。『1794』は9/6頃から発売中、『1795』は来月、10/6頃発売予定です。書店でお見かけの際はぜひ!

     小学館では他に、ヨルン・リーエル・ホルスト『警部ヴィスティング 悪意』が忘れがたいです(第36回で紹介)。小学館で刊行中の〈未解決事件四部作〉シリーズの第三弾で、過去の殺人が爆発事件からの脱獄によって音を立てて動き出すダイナミズムと、真犯人の動機に迫るワンカットの演出のうまさが素晴らしい。今年のフーダニット・ミステリーでは読み逃せない一冊。

    ◯扶桑社から

     扶桑社からはフレデリック・ダール『夜のエレベーター』(扶桑社文庫)が挙がりました。これは第41回で既に取り上げましたが、フランスらしい、心理に比重を置いたサスペンスの佳品で、中盤以降一寸先も見通せない展開の乱打が楽しい。心に残るクリスマス・ストーリーでもあります。フレデリック・ダールという作家は、絶妙の語り口で読者をサスペンスの中に引きずり込み、最後に至って驚愕させるという点では「いわゆるフランス・ミステリー作家」のイメージ通りの作家なのですが、ダールが巧いのは、視点人物の取捨選択や物語としての構築性などを、驚愕を生み出すために考え抜いている点だと思います。『夜のエレベーター』はわずか200ページの小品なのですが、サラッと読めるのにその完成度はかなりのものです。ダールの邦訳自体が久しぶりなので、それ自体にも嬉しさがある長編でした。

     扶桑社文庫からは他に、第38回で取り上げた『レオ・ブルース短編全集』や、『レヴィンソン&リンク劇場 突然の奈落』などの短編集が刊行。前者は全世界初書籍化となる短編も収録した、小気味の良いパズル・ストーリーを集めた作品集で、後者は第一弾『皮肉な終幕』に続き、技ありのオチで攻める良質なクライム・ストーリーを集めた作品集でした。また、現代作家では第41回で取り上げたアレックス・ベール『狼たちの宴』がシリアルキラー・サスペンスの良作です。カットバックを利用した冒頭の引きから、ナチスの前で自分の正体であるユダヤ人の素性を隠さなければならないというサスペンスまで動員して、抜群のリーダビリティーで牽引してくれます。犯人と名探偵の対決が良いんですよ。

    ◯ハーパーコリンズ・ジャパンから

     ハーパーコリンズ・ジャパンからは周浩暉『邪悪催眠師』が刊行。こちらはハヤカワ・ポケット・ミステリから『死亡通知書 暗黒者』として刊行された作品の前日譚であり、邪悪催眠師を敵とした三部作の一作目。前日譚というのは、羅飛ルオ・フェイという探偵役の過去を描くからで、この三部作では催眠術師の凌明鼎リン・ミンディンがレギュラーキャラクターになるよう。『死亡通知書』はサスペンスフルなプロットの作品でしたが、『邪悪催眠師』は催眠をメインプロットに据えた大胆な展開がミソ。催眠をミステリーに取り入れる際、これまであった方向性を三つに分けると、①胡乱な可能性としてダミー解決等に用いる、②ガジェットとして用いる、③催眠療法としての視点を取り入れる、があると思います。②の方向性は尋問術としての言及が多くなり、催眠を使って過去の記憶=事件の証言を掘り起こす、というドラマの演出に使われます。この方向性での傑作を挙げるなら、ドナルド・A・スタンウッド『エヴァ・ライカーの記憶』、マイクル・コナリー『わが心臓の痛み』あたりになるでしょう。

     本作『邪悪催眠師』は、この②と③の中間に当たるのではないかと思います。本作はわりあいきっちりと医術的な観点としての催眠術の限界と可能性に着目した上で、「催眠師大会」で催眠を巡る議論を展開するパートを作ったり、終盤では、催眠療法と人の幸せについて言及したりします。ですが、一方で、「催眠ではその人の倫理に反したことまではさせられないから、催眠で人を殺させることは出来ないよ」という定説に対して、序盤で「このようにすれば殺せる可能性がある」と早々に提示してみせます。催眠を謎解きミステリーのガジェットとして用いることで、「操り」のルール化に挑んだ作品と言えるかもしれません。うーん……不思議なバランス……。気軽に肩の力を抜いて楽しむには良いサスペンスで、この〈邪悪催眠師〉三部作は、残り二作も含めて日本での刊行が決定済とのこと。

     ハーパーコリンズ・ジャパンからは他にS・A・コスビー『黒き荒野の果て』に大注目。およそアメリカン・ノワールに求める全ての要素――父と子、愛とすれ違い、"最後の仕事"、希望と破局――を満載しているのです。ノワールというパブリック・イメージにかなりの度合いで接続しているという点で、あえて大文字で「THE NOIR」と表記したくなる作品(本来Noirはフランス語なので「LE NOIR」と言うべきかもしれませんが)。キレのある文体で場面を切り回し、エモーショナルな結末に辿り着いて見せた剛腕に圧倒されました。他の作品も刊行してほしい……! ノワールという点では、この『黒き荒野の果て』が今年の一位だと思います。

    ◯二見書房から

     二見文庫からはニタ・プローズ『メイドの秘密とホテルの死体』が挙がりました。これはすごいですよ。可愛らしい顔をして、油断のならないサスペンス。二見文庫というレーベルの色と、コージーミステリー風の表紙に騙されるなかれ。読み逃してはならない良品です。

     モーリー・グレイは清掃に関しては右に出るもののいない、ホテルの客室メイド。ただし、人の感情を読むのは苦手で、人と軋轢を生んでしまうことも。そんな彼女が、清掃に入った客室で死体を発見してしまう。性格も災いして疑われてしまうモーリーだが、仲間たちの助けを借りて状況をひっくり返すべく奔走する……。

     という筋なのですが、このモーリーが最高のキャラクター。ややズレた掛け合いにいちいち笑わされますし、掃除についての描写はキビキビしていてまさしくプロの仕事。地の文を追いかけているだけで楽しいんですよね。メイドとして死体を見つけただけで疑われるという、胃の痛くなる展開ながら、重苦しくならないのはこのモーリーの語りのおかげ。そしてモーリーの祖母! 彼女のキャラクターがまた素晴らしい(良いおばあちゃんが出てくる小説、あなたもお好きでしょ?)。祖母と共にクリスティーや『刑事コロンボ』に触れた時間がモーリーを作っているという設定も良いですし、祖母の残す格言がまた素敵。

     そしてミステリー部分は、一言で言うならば……「うっちゃり(笑)」。相撲の用語で、土俵際まで追い詰められた力士が、腰を落として体を捻り、その勢いで相手を外に投げる技なのですが、この結末の勢いはなんだかこの言葉が似合います。ついでに、なんだか(笑)をつけたくなる、見事なうっちゃり(笑)。あらすじに「奇妙な味のミステリー」と書かれているのを見た時は少し違和感があったのですが、最後まで読んでみると納得です。いやぁぁ、楽しませてもらいました。

     二見文庫からは他に、マッケンジー・リー『美徳と悪徳を知る紳士のためのガイドブック』がオススメです。18世紀、学校教育を終えた上流階級の若者がヨーロッパの主要な都市を巡る「グランド・ツアー」という贅沢があったのですが、これに、密かな思いを寄せる親友パーシーと共に出かけたモンティの冒険を描くヒストリカル・ロードムービーです。語りが抜群に上手くてノリノリで読めてしまいます。次から次へとトラブルに巻き込まれるので600ページの厚さも気になりません。性的マイノリティの悩みを描きつつもユーモアを忘れないエンターテイメントが読みたい人にも、海外旅行に行きたい気持ちを持て余している人にもオススメです。私はもう、エピローグの部分の手紙が大好きで、ここでも大いに笑わされて、ちょっとほろりとしてしまいました。

    ◯早川書房から

     早川書房からはクリス・ウィタカー『われら闇より天を見る』が登場したのですが、これについてはガッツリ掘り下げたいので、まずは早川書房の他の注目作を取り上げてしまいましょう。まず、この読書日記で、今まで取り上げた2022年刊行作は以下の通り。詳しくは各回を見てください。

    第30回
    アンドレアス・エシュバッハ『NSA』
    第31回
    R・A・ラファティ『とうもろこし倉の幽霊』
    アンディ・ウィアー『プロジェクト・ヘイル・メアリー』
    第34回
    アビール・ムカジー『阿片窟の死』
    第38回
    シルヴィア・モレノ=ガルシア『メキシカン・ゴシック』
    グレイディ・ヘンドリクス『吸血鬼ハンターたちの読書会』
    第39回
    アンデシュ・ルースルンド『三日間の隔絶』
    第41回
    エイドリアン・マッキンティ『ポリス・アット・ザ・ステーション』
    マイクル・Z・リューイン『祖父の祈り』
    デイヴィッド・ヘスカ・ワンブリ・ワイデン『喪失の冬を刻む』

     このラインナップの中では特に、『三日間の隔絶』と『ポリス・アット・ザ・ステーション』に注目。どちらもシリーズの最新作でありながら最高傑作、そしてどちらもここから読めます。前者は「怒り」によって駆動されたサスペンスフルなプロットと、心に残る意外な犯人、そして胸を熱くさせるラストシーンが素晴らしい。後者はキビキビとしたチーム捜査を描く警察小説として、ショーン・ダフィの語りを堪能するハードボイルドとして、ダフィの私生活を味わう「家族小説」として、いずれも一級品の味わいになっています。SFですが、『プロジェクト・ヘイル・メアリー』も大いにオススメ。

    ◯クリス・ウィタカーについて

      さて、ここで『われら闇より天を見る』……の話なのですが、まずは同作者、クリス・ウィタカーの『消えた子供 トールオークスの秘密』(集英社文庫)の話から始めましょう。これは2018年に邦訳されたもので、ヒラリー・ウォーの『この町の誰かが』や、クリスティーの描いた〈セント・メアリ・ミード〉という村、最近なら、それこそ次回取り上げるホリー・ジャクソンの『自由研究には向かない殺人』『優等生は探偵に向かない』などの「村・町が主役となるミステリー」の系譜に連なる小説でした。

    『消えた子供』の舞台となるのは、トールオークスという小さな町。誰もが顔見知りというこの小さな町で、三歳の子供、ハリーが消えた。警察署長ジム・ヤングは懸命の捜索に励むが、手掛かり一つ得られない。ハリーの母親、ジェスは深く傷つき、次第に酒におぼれるようになる……。

     重く、ゆったりと進んでいく物語です。この、警察署長が視点人物を務めるというあたりも、ウォーの〈フェローズ署長〉シリーズを思い出します。署長も立場に関係なく、町に生きる一人なのだ、という書き方をするのです。ハリーが消えた時、何があったのか? ゆったりと進む物語は、やがてトールオークスの住民たちの秘密を暴いていきます。そして辿り着く、やるせない真犯人像。これが実に哀しく、忘れ難い。

     とはいえ、『消えた子供』はギアがかかるまでが非常に長く(72ページの描写など、ゾッとさせる奥行きの描き方は魅力なのですが)、ついていけない、という人もいるだろうと思っていました。重ね重ね言いますが、もちろん、良い作品なんですよ。

     では、新作『われら闇より天を見る』はどうか。読み始めた時は『消えた子供』のセルフパロディーのように思えた作品だったのですが、しかし、全くそうではなかった。ある三つの要素を加えることで『消えた子供』から長足の進化を遂げた傑作、それが『われら闇より天を見る』です。なお、『消えた子供』の原書刊行年は2016年、『われら闇より天を見る』の原書刊行年は2020年。男子三日会わざれば刮目して見よ、いわんや四年をや、という感じ。

     あらすじはこうです。アメリカの海沿いの町、ケープ・ヘイヴンで、30年前に少女が命を落とした。その痛みから立ち直れないスター・ラドリーは飲んだくれ、親友を逮捕させるに至った証言をした警察署長のウォークは過去を悔い、事件の刑期を終えた男、ヴィンセントは帰って来た。忘れられない痛みが口を開く時、もう一度悲劇の幕は開く。

     あれ? と思われた読者もいるでしょう。そうなのです。「過去を抱えた町」、「痛みに囚われた母親」と「過去の事件を悔やむ署長」というパーツは、ウィタカーが『消えた子供』で試みた題材と同じなのです。では焼き直しなのか? そうではない。決してそうではないことは、読者が第一部まで読み終えた瞬間にハッキリするでしょうし、もっと前から明示されています。

     ここで「三つの要素」にいよいよ触れていきましょう。一つ目にして最大のポイントは「子供の視点」です。これが『消えた子供』に欠けていたもの――いえ、原理的に書くことは不可能だったのですが――でした。『われら闇より天を見る』最高の主演は、ダッチェス・デイ・ラドリー、十三歳の少女で「無法者」、飲んだくれの母親(スター)と、まだまだ幼い弟(ロビン)を抱えて、この小さな町を力強く生き抜く少女です。不幸を跳ね飛ばし、母への偏見を憎みながら、小さな弟を大切に守る。孤独な戦いです。第一部、辛い環境下に置かれた彼女の境遇を読むたびに、キリキリと胃の痛みさえ感じました。ですが、過去に囚われた大人たちと対照的な人物像として、このダッチェスを主演に置いたことで、ウィタカーのプロットは鮮やかに色づき出したと言っても過言ではありません。なぜなら、『われら闇より天を見る』の魅力とは、そのものずばり、このダッチェスの魅力なのですから。

     さて、二つ目のポイントですが、これは「過去を抱えた町」というパーツの扱いについてです。『消えた子供』ではただ舞台としてそこにあったものが、今作では複層化しているのです。これによって、圧倒的に「小説」としての魅力が深まっているのです。まずは、ここまで読んだら絶対に引き返すことは出来ないだろうというくらい、完璧な冒頭を引用してみましょう。

    "何かが見えたら手をあげてくれ。
     煙草の巻紙でもソーダの空き缶でもかまわない。
     何かが見えたら手をあげてくれ。“(『われら闇より天を見る』、p.7)

     映画やドラマで、どこかで見た風景。行方不明の少女を探すために、隊列を組んで行進する町の男たちの姿。遠いノスタルジーに接続しながら、どうしようもなく不吉なイメージを惹起する冒頭の一行。完璧な開幕といっていいでしょう。さらに感嘆したのは、このプロローグに視点人物がいるとすれば、同7ページの最後から四行目に登場する、当時十五歳のウォークなのですが、冒頭からウォークの名前を見つけるまでの間、まるで町がその光景を眼差しているような、不思議な感覚に襲われたことです。「ケープ・ヘイヴン」という町の名前が登場するのは本編に入った後、14ページでのことなのですが、プロローグの光景を見た瞬間から既に、私はその背景に町の姿を見たのです。

     町の描写という点でも、『消えた子供』から深化を遂げています。読者はこの初めて訪れるケープ・ヘイヴンという町を、今知ったのに、前から知っていたような気にさせられる。ひとえに、ウィタカーの小説が巧いからです。この「町」の描写が「複層化」するという点は、第二部に突入すれば分かってもらえると思います。まったく別の形のノスタルジーを経由することで、より魅力的な舞台を描き、その中に生きるダッチェス達のドラマに引きずり込む。ここで、この小説は「家族小説」としても多面的な魅力を見せ始めることになります。ダッチェスの祖父が出てくるのですが、このおじいちゃんがまた、良いんだ……。

    『消えた子供』の頃よりも、読者のノスタルジーに接続して感動を惹起するウィタカーの技術は進化しており、ここに描かれた「アメリカ」の姿は、誰の心をも打つと思います。ここにはあなたがどこかで見た「アメリカ」の姿があり、あなたの故郷がある。……こう、これだけ書いておくのを許してほしいのですけど……歌のシーンは……歌のシーンはあまりにもずるくないか……?

     そして三つ目のポイントは、「謎解きミステリー」としての完成度です。あえてこれを三つ目に持って来てしまうのが、本格ミステリー作家の病膏肓という感じですが、『われら闇より天を見る』はここも手を抜いていません。『消えた子供』の頃から、描写を慎重に行うことにかけては並々ならぬこだわりを感じたのですが、『われら闇より天を見る』でも真相に関わる部分には細心の注意が払われていますし、謎解きを行う役割をウォークにしっかり与えたことで、謎解きシーンの深みも増し、小説としても動きが滑らかになっているのが素晴らしい。ダッチェスのシーンは彼女の魅力溢れる語りと彼女の道行きに集中させ、ウォークが出て来たら、おっ、そういえばこれはミステリーだったな……と襟を正すという塩梅になっていると思うのです。情報整理の手つきにもこの役割の明瞭性があわられている気がします。

     以上三つの点、「子供の視点」「町の描写の複層化」「謎解きミステリー」の点で小説家として長足の進化を遂げた感があるクリス・ウィタカーの最新作『われら闇より天を見る』。間違いなく本年の翻訳ミステリーの台風の目であり、個人的にもベスト級の一冊でした。超おすすめです。このダッチェスという少女の道行を、一人でも多くの人に読んで欲しいです。エピローグは何回読んでも号泣してしまう。あと、私はプルーフで先に読ませてもらっていたのですが、単行本版を見て、まず熱意溢れる川出正樹解説の良さに胸打たれ、次に登場人物表が載ったしおりに驚きました。これがもう、「この担当編集者、本当にこの本が大好きなんだな」とニヤリとしてしまう代物で、嬉しい贈り物をもらった気持ちにさせられました。しおりを見ただけではピンと来ないと思うので、読み終わった後に、この記述に帰って来てもらうといいかもしれません。

     さて、そんな感じで過去作との比較もしてみたクリス・ウィタカーですが、『われら闇より天を見る』にはこんな献辞が捧げられています。

    “わたしとともにトールオークスとグレイスを、そしてこんどはケープ・ヘイヴンを訪れてくれた読者に。わたしがもがいているとき、みなさんは絶えずわたしを奮起させてくれた。”(『われら闇より天を見る』、p.3)

     読書日記をここまで読んできた方はお分かりの通り、トールオークスは『消えた子供』の舞台、ケープ・ヘイヴンは『われら闇より天を見る』の舞台です(こうして献辞に掲げるほどですから、作者がやはりこの町の描写に自信を持っているのが窺えます)。そしてもう一つ「グレイス」ですが、これは2017年に刊行された “All The Wicked Girls” の舞台です。これだけ魅力溢れる町と登場人物を描けるウィタカーのこと、これもきっと面白いんでしょう。いつの日か、日本でも、「グレイス」を訪ねることが出来る日が来ると信じて、読書日記「翻訳ミステリー頂上決戦・2022年版!」の前半を締めくくらせていただきます。

    (2022年9月)

第41回 特別編7-22022.08.26
まだまだ阿津川辰海は語る ~新刊乱読編~

  • 吞み込まれた男、書影

    エドワード・ケアリー
    『吞み込まれた男』
    (東京創元社)

  • 〇まだまだ語るぞ! 新刊編

     さて、二週間前にお送りした「旧刊再読編」に続き、今日は「新刊乱読編」と称して、新刊を紹介していきます。この読書日記は、大体先月の新刊を紹介するスパンでやってきて、六・七月とお休みをいただきましたので、五~七月の新刊については語っていないことになります。今回は五~七月の新刊から、海外十五冊、国内十冊をセレクトしてご紹介します。まだ語りたい作品もありましたが、第40回・第41回の狙いは、第一集『阿津川辰海読書日記 かくしてミステリー作家は語る《新鋭奮闘編》』から漏れてしまった好きな作家の話を掘り下げること。そのため、新刊のセレクトも、「《新鋭奮闘編》」を補完出来る作品を中心に選んでいます。

     また、このセレクトからは、ホリー・ジャクソン『優等生は探偵に向かない』(創元推理文庫)が漏れていますが、これは、同作の文庫解説を私が務めているからです。ホリーの前作『自由研究には向かない殺人』は爽やかな味わいが際立ったミステリーでしたが、本作ではビターな味わいも増し、謎解きミステリーとしても更なる進化を遂げた感があります。解説ではそのあたりの感慨を、じっくりとしたためてみましたので、ぜひ本編と合わせて読んでください。

     最近だとスチュアート・タートン『イヴリン嬢は七回殺される』(文春文庫)の文庫解説を担当しており、こちらは、単行本版が出た当初、友人たちと感想戦をしている時も「複雑すぎる」「結局、なんだったのか?」という感想が絶えなかったので、「分かった、じゃあ私がネタバレ込みで解説しよう」と挑んでみた作品になります。紙面が限られているため、設定の特色や、それが孕む問題、タートンがそこをいかに解消したか、などを駆け足で綴ったものになりますが、単行本を読んで疑問があった人にも、文庫で初めて通読する人にも、手に取ってみてほしいです。

     さて、ではここから新刊紹介。一応ファミリー・ネームの五十音順というスタイルは「旧刊再読編」を踏襲しますが、新刊なので、出版社名の表記は復活させます。

     まず、今回取り上げるリストは以下の通り。
    26、アーナルデュル・インドリダソン『サイン』(東京創元社)
    27、エドワード・ケアリー『呑み込まれた男』(東京創元社)
    28、ジョルジュ・シムノン『運河の家/人殺し』(幻戯書房〈ルリユール叢書〉)
    29、カリン・スローター『偽りの眼』(ハーパーコリンズ・ジャパン〈ハーパーBOOKS〉)
    30、フレデリック・ダール『夜のエレベーター』(扶桑社文庫)
    31、シヴォーン・ダウド『ロンドン・アイの謎』(東京創元社)
    32、ジェフリー・ディーヴァー『ファイナル・ツイスト』(文藝春秋)
    33、G・G・バイロン、J・W・ポリドリほか『吸血鬼ラスヴァン 英米古典吸血鬼小説傑作集』(東京創元社)
    34、ジャニス・ハレット『ポピーのためにできること』(集英社文庫)
    35、アレックス・ベール『狼たちの宴』(扶桑社文庫)
    36、C・J・ボックス『嵐の地平』(創元推理文庫)
    37、エイドリアン・マッキンティ『ポリス・アット・ザ・ステーション』(ハヤカワ・ミステリ文庫)
    38、マイクル・Z・リューイン『祖父の祈り』(ハヤカワ・ポケット・ミステリ)
    39、S・J・ローザン『南の子供たち』(創元推理文庫)
    40、デイヴィッド・ヘスカ・ワンブリ・ワイデン『喪失の冬を刻む』(ハヤカワ・ミステリ文庫)
    41、北山猛邦『月灯館殺人事件』(星海社)
    42、澤村伊智『怪談小説という名の小説怪談』(新潮社)
    43、柄刀一『或るアメリカ銃の謎』(光文社)
    44、辻真先『馬鹿みたいな話! 昭和36年のミステリ』(東京創元社)
    45、恒川光太郎『箱庭の巡礼者たち』(角川書店)
    46、長浦京『プリンシパル』(新潮社)
    47、前川裕『ギニー・ファウル』(光文社)
    48、松本清張『松本清張推理評論集 1957-1988』(中央公論新社)
    49、結城昌治『日本ハードボイルド全集5 幻の殺意/夜が暗いように』(創元推理文庫)
    50、詠坂雄二『5A73』(光文社)

    〇それではいくぞ! 海外ミステリー15冊

     26、アーナルデュル・インドリダソン『印』(東京創元社)は、アイスランドの狭い国土における「犯罪小説」を追及し続けてきた、〈エーレンデュル捜査官〉シリーズの邦訳第六作です。死後の世界から送られた合図という、オカルティックな導入に面食らうかもしれませんが、人と人のすれ違いの哀しみを描く点では、これまでのインドリダソンの小説と通底するものがあります。また、謎解きミステリーとしても、意外な角度から謎が氷解するという点で、かなり特異な構成をとった作品といえるでしょう。個人的な好みとしては、『厳寒の町』や『湖の男』の方にベストは譲りますが、『印』もまた、アイスランドならではの犯罪小説です。

     27、エドワード・ケアリー『呑み込まれた男』(東京創元社)は、クリエイティブの極致を行く鬼才、ケアリーによる最新傑作。ピノッキオが題材となった作品なのですが、ストレートにピノッキオを扱うのではなく、彼を作った大工、ジュゼッペに焦点を当て、彼が巨大な魚に飲み込まれて過ごした二年間を描いているあたりが、実に作者らしい。ジュゼッペは正気を保つために、日記を記し、乾パンから作った粘土を用いて作品を作るのですが、これは『望楼館追想』から『おちび』、短編集『飢渇の人』まで一貫して作者が描いてきた「物を愛する人」「物に対するフェティシズム」に繋がってくると思います。そして『吞み込まれた男』ではそこをさらに一歩進め、「物を作ることにより自分の人生の意義を保とうとする人」を強烈に描いてみせます。作中に挿入される粘土で作った人形や、木のカケラに描いた絵などは、古屋美登里の「訳者あとがき」によると、ケアリーがピノッキオ公園で開催した展覧会「鯨の腹のなか」で実際に展示した作品たちとのこと。「作ったもの」によって否応なしに読者を作品世界に引きずり込むケアリーの才気には、感服するほかありません。また、本作はsane/insaneの境目で揺れ動く主人公が日記をしたためていくという構成なのもあって、中盤以降、ニューロティック・スリラーのような読み味でも楽しませてくれます。実に不安を掻き立てられる良い演出で、しかもその「仕掛け方」がブッキッシュ。多彩で、いつもクリエイティビティに溢れるケアリーが、私は大好きです。ちなみに、訳者あとがきを読んで、ケアリーによるスケッチ集 “B: A Year in Plagues and Pencils” も思わず注文してしまいました。コロナ禍を反映したと思しきイラストもあって、ちょっとした時に眺めるだけでも楽しいです。

     28、ジョルジュ・シムノン『運河の家/人殺し』(幻戯書房〈ルリユール叢書〉)はシムノン自身が「硬い小説(ロマン・デュール)」として著した長編二冊の合わせ技。風物描写や心理描写の奥行きが楽しめる小説で、特に「運河の家」は主人公である女性、エドメの語りに引き込まれること請け合いですが……凄いのはラストシーン。シムノンの小説って、ラストの余韻がいつも素晴らしいんですけど、この『運河の家』は中でも桁違いではないかというくらい。忘れ難い作品ですし、シムノンのいう「硬い小説」の書きぶりが、ある種の犯罪小説に接近していく読み味が何とも言えません。ちなみに『運河の家/人殺し』が凄いのは、瀬名秀明による50ページに及ぶ解説がついていること。日本で受容されてきた「シムノンのイメージ」を切り崩していくのが面白い。「翻訳ミステリーシンジケート」で未訳シムノンを紹介していることもあり、まさに現代日本のシムノン研究の第一人者ともいえそう。シムノン、もっと出してほしい。私が好きなシムノンをついでに話しておくと、『死んだギャレ氏』『サン・フォリアン寺院の首吊人』『メグレと深夜の十字路』『モンマルトルのメグレ』『仕立て屋の恋』『ドナデュの遺書』『ビセートルの環』あたりです。「EQ」掲載の中短編ですが「メグレと奇妙な女中の謎」も好き。河出書房新社から出たものに未読が多めなので読んでいきたい。ちなみに蛇足ながら付け加えると、私の作品ではよく「どっしり構えて、相手が口を開くのをいつまでも待っている刑事」という造形のキャラを出してしまうのですが、これはメグレ警視とアン・クリーヴスのジミー・ペレス警部をイメージしたものです。

     29、カリン・スローター『偽りの眼』(ハーパーコリンズ・ジャパン〈ハーパーBOOKS〉)は、女性に対する性暴力への怒りを、スリラーの形で一貫して訴え続ける作家による、ノンシリーズ長編。『偽りの眼』あとがきでは、訳者・鈴木美朋が、コロナウイルス流行の中、“こんな時代にフィクションというエンターテイメントにどれほどの力があるのだろうかという悲観が、いつもわたしの頭のどこかにあった”(『偽りの眼』下巻、訳者あとがき、p.354)と述べたうえで、読者の方に発売前に『偽りの眼』を読んでもらった機会において、“ある方が、長い文章の締めくくりに、スローターの作品がもっと読まれるようになれば、“社会が良くなると本気で信じている”と書いてくださった”(同、p.357)ことを書き記しています。私は、この感覚こそがスローターを「リアルな」犯罪小説として読むことの意義であると思っています。だからこそ、どんなに辛くても目は逸らさない。この本を手にしている間だけでもそう出来ないなら、きっと日常でも寄り添えない人になるから。……ここまで読んだ人は、スローターって辛気臭い作家なのかな、と思われるかもしれません。しかし、スリラーとして抜群に完成度が高く、信じられないほどのページターナーでもあるというのが、スローターの凄みなのです。だからこそ現代スリラーの第一人者たり得ている。本作『偽りの眼』では、23年前に二人で協力してある男を殺した姉妹が、2021年の現在において、卑劣な事件に巻き込まれます。姉は弁護士になっているのですが、彼女が担当したレイプ事件の被疑者が、23年前の殺人を知っている、というのです。明らかな凶悪犯なのに、秘密を守るために言うことを聞かざるを得ない。このデッドロックの状況を巧みに転がしながら、スローターは姉妹の過去と「それから」の人生を紡いでいきます。読み始めたら、途中下車不可能。今回も一気呵成に読まされました。

     30、フレデリック・ダール『夜のエレベーター』(扶桑社文庫)は八月頭の新刊ですが、大変良かったのでフライング気味で取り上げたい。ダールはさっぱりとした語りの中に宿る哀しみと、超絶技巧の展開に毎回唸ってしまうフランス・ミステリーの名手として記憶していまして、1980年代に文庫でパラパラと刊行されていたのを、すっかり後追いで、高校時代に古本で探したのが懐かしいです。まさか新刊が読めるとは。本作『夜のエレベーター』は、かつて愛した人に似た女性に出会った「ぼく」が巻き込まれる事件を綴る作品で、序盤から一切予断を許さない展開の妙味で楽しませてくれます。おまけに、クリスマス・ストーリーだというのが良い。結末も良いのですが、途中のスリリングな語りがたまらない。長島良三の翻訳でダールが読めるというのは本当に幸せなことで、先に挙げたシムノンが好きなのも、長島良三のおかげなのですよ。他に好きなダール作品は『生きていたおまえ…』『絶体絶命』など。『絶体絶命』は特に、中盤の心理サスペンスが素晴らしすぎる傑作です。

     31、シヴォーン・ダウド『ロンドン・アイの謎』(東京創元社)は、「全国の小中学校に置いて欲しい海外児童ミステリー」ナンバーワンです。閉ざされた観覧車(ロンドン・アイ)に入ったいとこの姿を見送り、そのカプセルが一周して地上に着いた時には、いとこの姿は消えていた。この人間消失の謎を、「人の感情を読むのが苦手で、頭の仕組みが人と違う少年」テッドと、「“歩く災害”と呼ばれる超行動派の姉」カットのコンビが解き明かします。作中では巧妙にその語を避けますが、テッドはアスペルガー症候群を抱えており、家族ともすれ違ってしまうことがあるのですが、天気図を読んだり、天気の仕組みを考えるのはとても得意。そんな彼の気持ちを、飄々と明るく受け止めてくれる、いとことの会話のパートだけでも沁みますが、姉との推理・冒険を通じ、一人の少年が成長していく物語としても好ましい。謎解きミステリーとしても、人間消失の謎について、八つの仮説を立てて可能性を絞り込んでいくという書きぶりで、透徹した論理で一歩一歩真相に迫っていく、その堅実さが嬉しいのですよ。伏線の配置の仕方も実に巧い。読んでいる間中、幸せな気持ちに包まれる本でした。大好きです。10代のあなたが、初めて手に取る翻訳ミステリーになるかもしれません。

     32、ジェフリー・ディーヴァー『ファイナル・ツイスト』(文藝春秋)は、『ネヴァー・ゲーム』『魔の山』に続く〈コルター・ショウ〉シリーズの第三作。これにて、本シリーズは三部作を構成して、第一期が終了になる模様。本国では第二期の開始が予定されているらしく、大いに楽しみ。本シリーズについては、それぞれ第2回、第24回で前二作を取り上げ、『魔の山』について語る中で、「本シリーズは冒険小説がやりたかったのでは」と書いておりました。そして本作『ファイナル・ツイスト』は、第一期の主題である「父・アシュトンは何を追い求め、亡くなったのか?」が明かされる物語であり、遂に敵組織への潜入を果たすという点で、スパイ・アクション風の味付けにもなっています。私が何より今回ハマったのは、家族小説としての読み味で、これまで小出しにされてきた父との確執や、兄・ラッセルとの物語が、いよいよ音を立てて動き出し、ショウが家族に対して抱く複雑な感情を綴ってくれます。この兄がまた、いいんだ。過去にまつわるエピソードも、人を助けるためにショウが雪崩に飛び込んでいくシーン(!?)とかたまらない。ミステリーとしてもイキのいいネタが盛ってあり、それが「父が死ぬ原因になった、『世界を破滅させる』100年前の文書」なのですが、この文書が現れた時の興奮たるや。三部作のオチをつけるに見合う大ネタになっています。大胆な大法螺に拍手喝采です。ディーヴァーは今年の九月にリンカーン・ライムシリーズの新作”The Midnight Lock” も刊行予定とのこと。『フルスロットル』『死亡告示』『ファイナル・ツイスト』そしてライム新作、一年に四冊もディーヴァーが読めていいんですか?

     33、G・G・バイロン、J・W・ポリドリほか『吸血鬼ラスヴァン 英米古典吸血鬼小説傑作集』(東京創元社)は主に19世紀の吸血鬼小説――あのブラム・ストーカーより前の――に焦点を当てたアンソロジー。十編中七編が本邦初訳ということで、資料性も高いアンソロジーですが(それに夏来健次の訳で吸血鬼小説が読めるというだけで、私はよだれが出る)、個々の作品も実験的で面白い。「黒い吸血鬼――サント・ドミンゴの伝説」などは「吸血鬼ラスヴァン」と同年に書かれた作品にもかかわらず、異化作用という文脈から生まれた吸血鬼について、黒人を絡めた短編になっていて、しかもそのイジり方が1819年に書かれたとは思えないほど先駆的。他にも「吸血鬼ラスヴァン」の最初の頃の作品ならではの素朴で基礎の全てが詰まった味わいや、「食人樹」の淡々とした書きぶりや、「カンパーニャの怪」のシンプルに強いストーリーテリングや、「魔王の館」の吸血鬼小説と芸術家小説の魔合体のような読み味など、読みどころは満載です。そしてこの作品集で特に感嘆したのは、作品の翻訳も五編手掛けている平戸懐古による、30ページ越えの解説です。解説中の文章からすると、大学の関係者で英米文学が専門というのは分かるのですが、その経歴を生かしてか、吸血鬼小説の系譜やその響き合いを語るのみならず、英米文学の系譜もしっかりと辿った、足腰の強い書き味に感動してしまったのです。読みながら何度も頷きました。文学フリマで怪奇短編の邦訳をされていたのは知っていて、元から翻訳も肌に合うと感じていたのですが、解説もここまで素晴らしいとなると、早くもファンになってしまいそうです。東京創元社でガンガンこういう企画に携わったり、どこかで連載持ってくれたりしないかな。

     34、ジャニス・ハレット『ポピーのためにできること』(集英社文庫)は、どえらい傑作。本年度の翻訳本格ミステリーの暫定ナンバーワンだと思っています。メール等の文書記録のみで構成された実験的な推理小説で、メールのやり取りしか書かれていないのに、次第に登場人物たちの人間関係が立体的に浮かび上がってくる、その構成が素晴らしい。端的にメールを返す人、だらだら返す人、それぞれの個性が出ていて面白いんですよね。また、100ページほどで、難病の娘の治療費を集めるためのチャリティー・パーティーが開かれるのですが、このパーティー当日の描写は一切ない、というのがまた良い。要するに、メールのみで構成しているので、パーティー中にはみんなメールなんてしてないんですよね。パーティーのシーンなんて、いくらでも意味深に書けるだろうに。そのあたりを容赦なく切るあたりの思い切りもニヤリとします。これらメールの記録は、ある事件に関わる記録である、というのは冒頭に提示され、その事件の真相を推理するべく二人の司法実務修習生がSNSで推理合戦をする……というのが大まかな枠組みで、この枠組みを生かし、犯人当てのみならず、被害者当てから人物当てなどが複雑に絡み合ってくるのが面白い。おまけに、中心にあるのは、飛び切り残酷なアイデア。とはいえ、読むのは骨が折れるので、読者は……かなり選ぶでしょうけど。でも、それだけの甲斐がある作品ではないかと。だってどえらい傑作なんだもん……。

     35、アレックス・ベール『狼たちの宴』(扶桑社文庫)は、『狼たちの城』に続くシリーズ第二弾。ユダヤ人の古書店主イザーク・ルビンシュタインが、ひょんなことから、ゲシュタポの犯罪捜査官、アドルフ・ヴァイスマンの名を騙る羽目になり(この「ひょんなこと」は一作目『城』に語られるのですが、経緯そのものが既に面白いので伏せておきます)、このヴァイスマンが名探偵として名高い男であるため、敵だらけのゲシュタポの中で名探偵を演じることに……というのが設定の大枠。一作目『城』では古城の密室殺人に挑んだのですが、本作『狼たちの宴』の敵は連続絞殺魔。シリアルキラー・サスペンスとしてテンポの良い良作に仕上がっていますし、四面楚歌の中で自分の身元を欺かなければならないスリルは前作より増しています。そして今回凄いのは、イザークと犯人との対決です。冒頭からカットバックを用い、これが見事なクリフハンガーになっているのですが、いよいよ犯人の正体が分かると、実にアツい小説に変貌するのです。このバランス感覚は実に不思議で、なんとも読まされてしまう。続編の刊行も大いに期待しています。

     36、C・J・ボックス『嵐の地平』(創元推理文庫)は、〈猟区管理官ジョー・ピケット〉シリーズの最新作。ジョーの養女であるエイプリルが殴打事件に巻き込まれ、意識不明の重体で発見されたという発端から、「ジョー・ピケット自身の事件」と言うことも出来る傑作です。このエイプリルと駆け落ちしたロデオ・カウボーイ、ダラスが第一容疑者となり、ジョーは彼に接触しようとするのですが、立ちはだかる壁=ダラスの家族がそうさせない。この家族、一体何なんだ? と想像を掻き立てていく構成が良い。また、本シリーズの名助演男優である鷹匠・ネイトをプロットの中でどう生かすかという点に、職業作家としてのボックスの凄みを感じます。オフビートな結末が良いんです。個人的には、『ゼロ以下の死』『鷹の王』に匹敵する、本シリーズのベスト作に推したいところ。某海外古典ミステリー短編のネタが、ユニークな形で使われているのにも感心しました。この方向で生かした作例は、恐らくない(そんな読み方をするのは私しかいなさそうなので、ヒントだけ出しておくと、車の動きが問題になるのです)。

     37、エイドリアン・マッキンティ『ポリス・アット・ザ・ステーション』(ハヤカワ・ミステリ文庫)は〈ショーン・ダフィ〉シリーズの第六作。ここまでくると、いよいよこのシリーズは無敵ではと思わされてしまいます。ダフィにも子供が出来、家族が出来たのですが、そうした人生の転換点に、更に大いなる事件に巻き込まれることになるのです。守るべきものが出来たダフィの奮闘と、ハードボイルド×警察小説としての感動が同時に襲い掛かってくる雄編で、特にプロローグの巧さには参りました。このプロローグを読まされて、続きを読まない人、いる? また、本作は法月綸太郎による解説がついていて、私はひとつ前の第五作『レイン・ドッグズ』で解説を書いたのですが、法月解説を読んで、一言……「敵わねえ~!」。これは悲観して言っているのでも、悔しがっているのでもなく、満面の笑みで、その素晴らしい仕事に敬意を表して、言っています。これまでの邦訳六作を通じた、法月ならではの語り口による魅力の読み解きも良いのですが、末尾で第一作『コールド・コールド・グラウンド』との「ある対比」を見いだすパートには、天を仰いでしまいました。私には逆立ちしても、こういうことが出来ない。法月ファンには、この解説だけでもとにかく読んで欲しい。法月ファンが高じすぎて作家をやってる私が言うんだ、信じてくれ。

     38、マイクル・Z・リューイン『祖父の祈り』(ハヤカワ・ポケット・ミステリ)は、リューイン久々の長編にしてノンシリーズ作品。パンデミックで荒廃した世界で、家族を守りながら生きていく老人の姿が心に残る、200ページほどの小品で、リューイン特有のユーモラスで優しい筆致はそのままに、「悪いこと」をしなければ生きていけない人々の苛烈な状況を書いています。冒頭のシーンの切り回しの巧さなどに、やはりリューインは良いなぁとの思いを新たにします。この『祖父の祈り』は、早川書房による「リューイン祭り」の第一弾のようで、八月には『沈黙のセールスマン〔新版〕』が刊行されましたし(傑作です。〈アルバート・サムスン〉シリーズ未読者は、ここからでも十分読めますので、ぜひ読んで欲しいです)、九月にはサムスン最新作となる連作短編集『父親たちにまつわる疑問(仮)』が刊行予定とのこと。まさに祭りです。

     さらに、「ハヤカワミステリマガジン」九月号では、「マイクル・Z・リューイン 生誕80周年記念特集」が組まれており、〈リーロイ・パウダー警部補〉シリーズの本邦初訳短編「配られたカードで」掲載の他、短編集に未収録のリューイン短編「子猫よ、子猫」「アルバートのリスト」の再録、リューインによる「日本の読者の皆さんへ」というメッセージなど、盛りだくさんの内容となっています。「配られたカードで」はパウダーとサムスンの娘の共演がアツい短編でオススメ。特に田口俊樹による「リューインさんのお人柄」と題されたエッセイは、思わずくすりとくる語りがたまりません(パートナーであるリザ・コディはもちろん、ピーター・ラヴゼイ夫妻まで出てくるぞ!)。エッセイ「わたしとリューイン」では、私の他に、小路幸也、堂場瞬一、米澤穂信がリューインへの思いを綴っています。このメンツの中に私が並んでいいのか? と思いつつ、宮部みゆきから逆向きにリューインへ辿っていき、ここまでハマった若手の証言が載るのも、それはそれで良かったのでは、と思っています。リューイン著作リストがあるのもGOOD。私のオススメのリューイン作品については、エッセイに書きましたので、ぜひ「ハヤカワミステリマガジン」を手に取ってみてください。

     39、S・J・ローザン『南の子供たち』(創元推理文庫)は〈リディア&ビル〉シリーズ、なんと八年ぶりの邦訳刊行。私立探偵であるリディアが母から、「ミシシッピへ行って、父殺しの容疑で逮捕された親戚、ジェファーソンを救いなさい」と命じられる発端からして大いにくすぐられるのですが(この母、リディアの探偵活動にずっと否定的だったのです。だからこそ、このやり取り自体がユーモラス)、いざミシシッピに行ってみると、ジェファーソンを巡るサスペンスだけでなく、中国系アメリカ人であるリディアのルーツを探る物語まで展開していくのが本書のキモ。軽妙洒脱な会話劇にノリながら、一気呵成に読める良作です。ローザンでは『冬そして夜』『春を待つ谷間で』が好きですね。それにしても、〈リディア&ビル〉シリーズは、作品によって語り手が交互に変わるのが特徴的なハードボイルド・シリーズなのですが、解説の大矢愽子による、女性はリディアものが好きで、男性はビルものが好きな傾向にあるという指摘は、これまでの読書会の思い出とか、友達と交わした感想を思い返しても、思い当たるフシがありすぎました。そういう意味でも、For everyoneなハードボイルド・シリーズと言えるのではないでしょうか。もちろん、『南の子供たち』から読むのもOKですよ。

     40、デイヴィッド・ヘスカ・ワンブリ・ワイデン『喪失の冬を刻む』(ハヤカワ・ミステリ文庫)は、先住民族をテーマにしたアメリカン・ハードボイルド。先住民族の処罰屋であるヴァージルは、卑劣な事件を起こす輩をその腕っぷしでぶちのめしてきたのですが、管区内でヘロインを売ろうとしている男がいると聞き、若者たちを守るため行動を開始する……という筋で、吉野弘人訳によるパリッとした文体のハードボイルドに仕上がっています。事件の真相もさることながら、結末の余韻が忘れ難い。また、杉江松恋による解説からは、淡々とした書評の視点提示や書誌情報の提示の中に、静かな熱意を感じる瞬間があって、結末の余韻の後、更に『喪失の~』の世界を深く味わえました。こういう解説を読むと、自分も頑張ろう、と前向きになります。

    〇ここから国内10冊! 50冊達成へのカウントダウン

     41、北山猛邦『月灯館殺人事件』(星海社)は「七つの大罪」を問われたミステリー作家たちが次々殺されていく、北山印の物理トリックが満載の作品。作家の懊悩を書いた地の文が妙に心地よく、サクサク読んでしまったのですが、テンポ良く繰り出されるトリックのアイデア量ににんまり。星海社による「令和の新本格カーニバル」の一冊として刊行されただけあり、新本格へのオマージュと警句が込められた本格でもあります。他に好きな北山作品は『『アリスミラー城』殺人事件』『『ギロチン城』殺人事件』『少年検閲官』『オルゴーリェンヌ』『密室から黒猫を取り出す方法 名探偵音野順の事件簿』『猫柳十一弦の失敗 探偵助手五箇条』『ダンガンロンパ霧切2』『ダンガンロンパ霧切3』等。短編単位では「廃線上のアリア」「磔アリエッタ」「一九四一年のモーゼル」「神の光」が好きです。ちなみに前回再読編には取り上げませんでしたが、最近『『ギロチン城』殺人事件』も再読していて、他に誰もやろうと思わなかった「例の」トリックの完成度にまた驚いてしまいました。こんなの一読じゃ解読できないって。好きですね。ベストを挙げろと言われたら『オルゴーリェンヌ』と答えるのですが、偏愛作を挙げろと言われたら、迷わず『ギロチン城』を挙げます。

     42、澤村伊智『怪談小説という名の小説怪談』(新潮社)は著者による粒ぞろいのホラー短編集の中でもひときわ面白い傑作集。『ひとんち』の表題作や「夢の行く先」、「宮本くんの手」は深夜に読んだら後悔しましたし、『怖ガラセ屋サン』は一部の短編のオチに笑い転げてしまったりして、その多彩さが大好きなのですが、『怪談小説~』は今までの短編集をまた凌駕したのではと思わされました。怪談が連鎖していく「高速怪談」(高速道路で車を走らせながら怪談を話す……というシチュエーションもいい!)や、モキュメンタリー形式でテキストを集めていく「苦々陀の仮面」など、形式のバリエーションが豊富なのも特徴です。私の偏愛作は「涸れ井戸の声」。優れたホラー小説は、恐怖の対象となるその「コト」を体験した人の話を経由することで、なかなか恐怖の対象そのものを読者の目の前で展開せず、想像して怖がらせる……そういう、空洞がぽっかり空いた、ドーナツのような形をしていると思うのですが(ラヴクラフトなんて「伝聞の伝聞」まで使う)、「涸れ井戸の声」は話題の中心となる怪談短編を一切読ませないことで、恐怖を掻き立てる構成になっています。短編集のタイトルの元ネタになっている、都筑道夫の名前が出てくるくだりにもニヤリ。やっぱりいいなあ、澤村ホラー。他には『ずうのめ人形』『うるはしみにくし あなたのともだち』が好きですが、未読も多いのでどんどん読んでいきます。

     43、柄刀一『或るアメリカ銃の謎』(光文社)はエラリー・クイーンによる〈国名〉シリーズ」を柄刀一が本歌取りした〈柄刀版国名〉シリーズの第三弾。今回は中編二つ、「或るアメリカ銃の謎」「或るシャム双子の謎」を収録しており、それぞれエラリー・クイーンの『アメリカ銃の謎』『シャム双子の謎』の本歌取りになっています。〈柄刀版国名〉シリーズの特徴は、事件のパーツやテーマをそのまま本歌取るというより、〈国名〉シリーズ各作品の本質を直観したような題材の選び方や、表題となっている作以外の他の〈国名〉シリーズの要素をマッシュアップするチューニングのうまさにあると思っています。そして、前回の読書日記に取り上げた通り、クイーンの『アメリカ銃の謎』を再読し、その本質は「〇〇に〇〇の〇〇を〇〇に組み込むこと」(念のため伏字)だと思ったのですが、柄刀の「或るアメリカ銃の謎」もその発展形と言える真相になっており、一読感嘆しました。論理と奇跡の融合を読みたかったら、柄刀本格なのですよ。「或るシャム双子の謎」も、原典の「山火事」と「ダイイングメッセージ」の要素を生かしながら、更に発展させた運命の慟哭を見せてくれます。この犯人の条件、巧すぎると思うし、これも原典『シャム双子』を犯人当てとして捉えた時の本質だと思うんだよな……。いやぁ、好きですねえ。

     他に好きな柄刀作品は『OZの迷宮』『400年の遺言』『アリア系銀河鉄道』『ゴーレムの檻』『ペガサスと一角獣薬局』『レイニー・レイニー・ブルー』『サタンの僧院』『奇蹟審問官アーサー 神の手の不可能殺人』『翼のある依頼人』『消失島RPGマーダー』『紳士ならざる者の心理学』『fの魔弾』『システィーナ・スカル』など。好きな作品が多すぎる。初めてなら短編集がオススメなので、『ゴーレムの檻』とか『紳士ならざる者の心理学』がオススメ、前者は表題作とその現代版となる「太陽殿のイシス」の合わせ技が最高、後者の収録作「見られていた密室」はダイイングメッセージ物の傑作で、シチュエーションだけで面白すぎて鼻血が出ます。長編なら『奇蹟審問官アーサー 神の手の不可能殺人』の最後の殺人が……美しいんですよねえ……。これぞ柄刀本格のロマンティシズム。ちなみに、柄刀一は「ジャーロvol.82」において「或るチャイナ橙の謎」を既に発表しており、原典『チャイナ』の代名詞とも言える「全てが裏返しになった部屋」=あべこべの謎をアレンジしただけでなく、もう一つ巧みなモチーフを加えることで、ロジカルでパラドキシカルな本格推理を作り上げていました。〈柄刀版国名〉シリーズ、第四作を早くも期待してしまう……ニッポンは? ニッポンはやってくださるんですかッ?

     44、辻真先『馬鹿みたいな話! 昭和36年のミステリ』(東京創元社)は、著者による〈昭和ミステリ〉シリーズの三冊目。テレビ局のスタジオで起きる殺人、というテーマから、著者の『なつかしの殺人の日々』を思い出すのが嬉しく、軽妙な読み味にも舌鼓を打ちます。前作『たかが殺人じゃないか 昭和24年の推理小説』の圧倒的な結末とどうしても比べてしまいますが、『馬鹿みたいな話!』で書かれた昭和の像はまた一味違って、『深夜の博覧会』『たかが殺人じゃないか』そして本作と並べてみると、題材の奥行きが感じられます。他に好きな辻作品は『改訂・受験殺人事件』『SLブーム殺人事件』『宇宙戦艦富嶽殺人事件』『ローカル線に紅い血が散る』『紺碧スカイブルーは殺しの色』『アリスの国の殺人』『ピーター・パンの殺人』『白雪姫の殺人』『旅路 村でいちばんの首吊りの木』『天使の殺人〔完全版〕』『赤い鳥、死んだ』『悪魔は天使である』『にぎやかな落葉たち』『義経号、北溟を疾る』等。著作が多いのでどうしてもここが長くなりますね。特に『ピーター・パンの殺人』は著者の戦争体験も如実に反映された本格の雄編なので(『たかが殺人じゃないか』が刺さった人には刺さるのでは?)、どこかで文庫にしてほしい。『にぎやかな落葉たち』で老人ホームが舞台の本格ミステリーを書かれた時にも、この人は最強だなと思わされました。

     45、恒川光太郎『箱庭の巡礼者たち』(角川書店)は雑誌「怪と幽」で発表された六つの短編が、書き下ろし部分のブリッジによって一つに接続されてしまうという壮大な構成の連作集。2008年、中学二年生の時に、ちょうど文庫になった『夜市』を読んだ時から、ファンタジー色強めの怪奇譚に浸りたいときには、いつも恒川作品に返っているのです。今回の『箱庭の巡礼者たち』も、冒頭に置かれた「箱のなかの王国」が素晴らしくて、箱の中に自分だけに見える「王国」があり、それを観察する少年の視点から紡いだ物語なのですが、最後に立ち現れる少年の心理に胸打たれました。ここを起点に世界が接続していく感覚が楽しい傑作集でした。他に好きな恒川作品は『雷の季節の終わりに』『南の子供が夜いくところ』『竜が最後に帰る場所』『無貌の神』『滅びの園』『白昼夢の森の少女』など。特に『滅びの園』は通勤電車で読むのにうってつけの素晴らしい作品ですよ。あまりに面白すぎて、その日は会社に行けなくなりそうでした。

     46、長浦京『プリンシパル』(新潮社)は2022年を席巻するのではないかというくらいの激アツ犯罪小説。敗戦間もない東京を舞台に、ヤクザの娘が全てを焼き尽くす謀略の中に飛び込んでいく長編で、近い読み味の作品を挙げれば池上永一の『テンペスト』になるのではないでしょうか。女性の一代記であり、その背後に死屍累々と骸が横たわっているという点で。……そして何より、最大の共通点は、「抜群に面白い」こと。まさに一気読みの面白さで、ラストシーンの凄絶さには拍手喝采してしまいました。一年に一回、こういうものが読めると本当に嬉しいですね。好きな長浦京作品は『リボルバー・リリー』『アンダードッグス』です。どの作品を読んでもどんどんページをめくらされてしまいます。

     47、前川裕『ギニー・ファウル』(光文社)はマルチ商法をテーマにした犯罪小説で、小説宝石7月号のエッセイでも語っている通り「最大の肝はやはり犯人の意外性」といえる技ありのミステリーでもあります。前川犯罪小説は、いい意味で時代から逆行しているのがたまらなくて、〈クリーピー〉シリーズでは大学教授の高倉の立ち位置が、毎回凄い勢いで変わりますし、短編集では江戸川乱歩の短編集かというくらい、エログロに倒錯した世界観の中でトリッキーな連作を見せてくれます(なので『クリーピー クリミナルズ』『クリーピー ラバーズ』が大いにオススメ。ここから読める)。で、『ギニー・ファウル』は、そんな作者の作品の中でも、コロナ禍を背景として、現代のマルチ商法ビジネスを標的にしている……と思いきや、過去の未解決事件が絡んでくるというところが、実に作者の作品らしくてツボでした。

     48、松本清張『松本清張推理評論集 1957-1988』(中央公論新社)は、清張没後30周年記念出版として、今まで松本清張の評論集としては『黒い手帳』が名高かったところを、そこに収録されていないものまで全38編収めた貴重な一冊。清張は「リアリティー」と「アイデア」の両輪を大切にしていて、清張を「社会派」を標榜する作家として捉える史観からはこのうち「アイデア」の視点が抜けがちなのですが、38編を通読していくと、清張にとっての「アイデア」の語感が感じ取れてくるのもスリリングな読み味。先月『絢爛たる流離』が復刊されましたが、これも、ダイヤの流離を追いながら、その宝石を持った人々が次々事件に巻き込まれるという連作短編の構成で(要するに清張版『月長石』ですね)、第一話・第二話の鮮やかさを見るだけでも清張の「トリックメイカー」ぶりが伝わると思うのですよ。不思議な作家です。また、リアリティーの部分についても、当時流行だった翻訳ミステリーとの比較から(流行だった!? そんな時代があるのか――羨ましい! 翻訳ミステリー、バカ売れしろ!!!)、外国なら少し不自然でも気にならないが、自国のものであれば書かれた文章と自分の現実との差異を感じてしまうと……という視点から出てきていたのが面白く感じました。各作品の裏話やら、フランスで開催された「世界推理作家会議」でのインタビューなど、読みどころ満載。個人的には、清張が「零の焦点」(『ゼロの焦点』の連載時のタイトル)の原稿を落としたことで急遽組まれた、乱歩との対談がツボでした。

     さて、そんな清張評論を読んで触発され、何冊か清張を読みました。『鷗外の婢』は、森鴎外が「小倉日記」に書いた女中のその後を追いかけるルポが、いつの間にか古代史と接続してしまうという、清張小説に頻出する鴎外と古代史の主題が正面衝突した佳品でした。同時収録の「書道教授」も、罪の重さがずっしりとのしかかってくるような倒叙もので面白い。『表象詩人』は収録された中編二ついずれもが、サマセット・モームの話から始まるのに笑わされますが、「表象詩人」は詩論の論争と殺人の取り合わせが面白く、忘れ難い作品です。また、文春文庫から復刊の『絢爛たる流離』は既に取り上げましたが、新潮文庫からも『なぜ「星図」が開いていたか』が復刊され、これも掛け値なしの傑作短編集なので、どこから清張を読んだらいいか迷っている人は、ズバリこれだと思います。「顔」「張込み」「声」といったベスト短編も、私の偏愛作である表題作も入っていて、充実の一冊。「張込み」のラストの、どこか妙な味がする畏敬の念って、清張が書いた女性像の核心だと思うんですよね。最後に私の清張オススメは、『時間の習俗』(←和布刈神社の描写と、フィルムのアリバイトリックがいい!)、『眼の壁』『影の地帯』『ゼロの焦点』『梅雨と西洋風呂』『喪失の儀礼』『波の塔』『球形の荒野』『火と汐』『ガラスの城』、古代史ものから『火神被殺』『巨人の磯』など。短編集では『黒い画集』、特にその中の「遭難」がイチオシ。新潮文庫の『傑作短編集(一)~(六)』はいずれも読み逃せない作品集ですが、ミステリーマニアは『張込み(五)』から読むと凄さが伝わりやすいかもしれません。

     49、結城昌治『日本ハードボイルド全集5 幻の殺意/夜が暗いように』(創元推理文庫)は東京創元社から刊行の〈日本ハードボイルド全集〉の一冊。結城昌治は、研ぎ澄まされたナイフのような文体と、哀しい人々を静かに眼差すような書きぶりが好きなのですが、『幻の殺意』という長編はこの美点が全て現れた傑作で、一読嘆息しました。息子が殺人を犯したとは信じられない……という想いから始まる調査行が、イレギュラーバウンドのように探り出してしまった真相の哀しさ。実にやるせない作品です。短編集もレベルが高く、私の偏愛短編集『死んだ夜明けに』から、私立探偵・真木が登場する三編を全て収録していますし、私が「危険な賭け ~私立探偵・若槻晴海~」を書いた時、密かに目標にしていた逸品「すべてを賭けて」も収録されています。そして、結城作品に通底する「目」について静かな文体で書いた、霜月蒼による解説が素晴らしかった。

     ここで脱線して、残すは「傑作集」の刊行を残すのみとなった〈日本ハードボイルド全集〉を総ざらい(以下、「日本ハードボイルド全集」の表記は取った形で各巻を表記)。一巻は生島治郎『死者だけが血を流す/淋しがりやのキング』で、粒ぞろいの短篇集が印象に残りました。傑作『黄土の奔流』で描かれた風物描写と通底するものを感じましたし、何より一巻で良かったのは大沢在昌のエッセイ。作者と読者の幸福な関係性に涙がこぼれる逸品ですよ。二巻は大藪春彦『野獣死すべし/無法街の死』で、実はこの時大藪春彦を初めて読みました。長編『無法街の死』の暴力描写が衝撃で、そして杉江松恋による解説がとんでもなく素晴らしかった。三巻は河野典生『他人の城/憎悪のかたち』は著者の「〈失踪〉こそハードボイルドの正統」という主張そのものも面白くて、更に『他人の城』の結末の余韻が素晴らしかったので一発で虜に。それ以来、河野作品を集めています。四巻は仁木悦子『冷えきった街/緋の記憶』。私立探偵・三影潤が主人公を務める『冷えきった街』は私的仁木作品のベストというくらい好きですし、三影潤短編がまとめて読めるのも実に贅沢。ハードボイルドの乾いた筆致と、謎解きミステリーの論理の美しさを同時に味わえるんですよね。仁木作品の論理は、最小の力で最大の効果を生むように作られているような気がして、そのスマートさが好きです。『二つの陰画』『殺人配線図』『粘土の犬』などが特に好きですが、仁木作品は全部好きかも。五巻は結城昌治で(発売順は巻数通りではありませんでした)、六巻は都筑道夫『酔いどれ探偵/二日酔い広場』で、カート・キャノン(エド・マクベインの別名義)『酔いどれ探偵街を行く』を都筑道夫が翻訳し、そのべらんめえ口調での訳が好評だったため(“The Beatings”という原題の短編が、都筑の手にかかれば「街には拳固の雨が降る」という邦題になるんですから、もう無敵ですよね)、都筑がパスティーシュとして書き継いだのが『酔いどれ探偵』。謎解き要素も交えつつ、軽妙洒脱なハードボイルド世界を構築しているのが素晴らしい短編集です。そして『二日酔い広場』は初読みでしたが、こちらは苦みも添えて、より奥行きのあるハードボイルドが読めたので大満足でした。「風に揺れるぶらんこ」という短編が素晴らしくて……。

     50、詠坂雄二『5A73』(光文社)は挑発的で捩れた構造のミステリーを書き続けている作者の最新作。私も今変換できないので、ここに書けないのですが、表紙にも使われている、「日」と「非」を合わせたような幽霊文字がテーマとなる作品で、「5A73」というのは、序文で作者が語っている通り、その幽霊文字に割り振られたJISコードだといいます。あえて直接題名にするのを避けることが「忌むべきもの」を思わせて、ホラーとしての読み味も感じたのが大いにツボでした(もちろん、序文にいう、変換不可能な文字を題名にするのは出版戦略上……という事情もあるにせよ)。謎めいた存在を目にしたときに、推理を繰り返してしまう読者の心理さえも、詠坂は標的に据えているような気がしました。ラストが実に見事で、ああ、これぞ詠坂小説だ、と満足感に浸れる一冊でした。好きな詠坂作品は……参ったな、全部好きなんですが、特に、で挙げると、『遠海事件 佐藤誠はなぜ首を切断したのか?』『電氣人間の虞』『インサート・コイン(ズ)』『乾いた屍体は蛆も湧かない』『人ノ町』『君待秋ラは透きとおる』です。特に、って言ったのに六冊も……。大学時代は『電氣人間の虞』を人に布教しまくっていました。作中の「電氣人間」にまつわる噂に「語ると現れる」というものがあるのですが、サークル内での私はそれこそ「詠坂の話をすると現れる」奴でした。布教マン。偏愛作は『人ノ町』で、ファンタジックな設定と、その町の成り立ちや隠された真実を突き止める謎解きの妙味が両方たっぷり味わえて好き。てかもう、詠坂の文体が大好き。

     ……ということで、無事に50冊紹介、完走です! 達成感がどうこうというより、これから編集さん・校閲さんにかける苦労を想って顔が青ざめています。

     こんな感じで、暑苦しく、深く広く、ミステリーについて語った読書日記がまとまったのが、『阿津川辰海読書日記 かくしてミステリー作家は語る《新鋭奮闘編》』です! 加筆修正を加えていますので、ぜひ買ってね、読んでね。よろしくお願いいたします。

    (2022年8月)

第40回 特別編7-12022.08.12
まだまだ阿津川辰海は語る ~旧刊再読編~

  • 死写室 映画探偵・紅門福助の事件簿、書影

    霞 流一
    『死写室 映画探偵・紅門福助
    の事件簿』
    (講談社ノベルス)

  • 〇ただいま、読書日記です

     二カ月の間お休みをいただきまして、ただいま帰ってまいりました、阿津川辰海です。待っていた人も、待っていなかった人も、今日はミステリーの話にお付き合いください。

     さて、八月に光文社から二冊、本が出ます。一冊目は長編『録音された誘拐』。短編集『透明人間は密室に潜む』の中の一編「盗聴された殺人」に出てきたコンビ、耳が良い探偵・山口美々香と、彼女の得たデータを基に名推理を繰り出す探偵・大野糺が登場する長編です(なお『透明人間~』も九月に文庫化します!)。『録音された誘拐』のテーマは誘拐、ということで、法月綸太郎『一の悲劇』や土屋隆夫『針の誘い』などなど、私の大好きな誘拐ミステリーたちにオマージュを捧げつつ、本格ミステリーとしても新たなステップに挑んだ作品です。これまでの〈館四重奏〉を始め、一つの場所に窮屈に留まる長編が多かったので、今回は外に繰り出して、動きの大きい作品を書いてみようというのが第一の狙いです。『蒼海館の殺人』と同時並行で進めていたので、約三年かかっていますし、苦労も大きかったですが、書いていて楽しいシーンも多かったです。他の狙いについては……まあ、何かの機会に聞かれるのを待ちましょう。面白いので読んでください。

     そして二冊目は、この連載、『阿津川辰海読書日記』が本になります。タイトルは『阿津川辰海読書日記 かくしてミステリー作家は語る《新鋭奮闘編》』となっていまして、この読書日記でいうと第35回、スチュアート・タートン『名探偵と海の悪魔』の回まで収録しています。更にボーナストラックとして、解説を十一本と、エッセイを収録して、計400ページ越え。デビューから5年の作家が溜める「小説以外」の原稿量とは思えません。この本には私のわがままで索引を作ってもらいまして、なんと、300以上の作家、1000以上の作品に言及しているとのこと……。

     この読書日記の索引を見て、自分で原稿を読み直して、気付いたことがあります。

     ……足りないなぁ。

     好きな作家も多分真剣に数えたら1,000人くらいいると思うし、10,000作品くらい語りたい作品があるはず。何せ、毎月読書日記を書くたびに、その月に読んだ面白本のなかからメインの二冊を選んで、他の本を泣く泣く削っているのですから(泣く泣く削らず全部紹介した回もありますが)。

     この休んでいた二カ月、本を読んでいなかったわけではありませんし、新作への充填期間ということもあって、関連するテーマや、この中にヒントがあると直感した本を大量に再読していました(このヒントになる、というのは、自分がやりたいテーマについて他の作品のアプローチを再確認して刺激にする……というニュアンスです)。新刊もいつも通り読んでいました。

     ということで、8月の読書日記は前後編でお送りし、前半を「旧刊再読編」、後半を「新刊乱読編」と題し、読書日記の書籍化『新鋭奮闘編』を補完する試みをお送りいたします。前後編を合計して、取り上げる作品の数を発表します。

     ……50作です!

     万が一、第一回の読書日記書籍化が好評を持って迎えられ、第二回の編集をする必要が生じた時、編集さんを、校閲さんを、そして未来の私をチェック作業によって苦しめるのはこの回です(先に謝っておく――ゴメン!!)。ただまあ、我々が苦しめば苦しむほど、読み物としては面白いはずなので、そこはそれ、でいきましょう。

     ちなみに、再読するってことは忘れているの? という疑問もあると思いますが、やはり大筋の真相やトリック、ロジックは覚えていても、細かいことは忘れていることが多いです。トリックは覚えている作品も、より明確に作者の手つきが見え、伏線を発見出来るのが再読の醍醐味ですし、私には再読する理由がもう一つあります。それはモチベーションです。ざっくり言うと、「面白い作品を再読すると、『よっしゃ、私もやるぞー!』という気分になる」ということです。私が精神的・肉体的に落ち込んだ時に再読するのは、実は、このモチベーションアップの意味が大きいかもしれません。

     この読書日記では初めて取り上げる好きな作家の話もするので、その作家の好きな他の作品の話なども駆け足でしていきますが、「50作」カウントする作品には冒頭に番号を付します。また、再読したものについては、書名の後ろに(再)と書きます(これらは新作のヒントを得るために色んな目的で再読した本で、こういう本は、実は今まで「読書日記」の場ではお話ししてきませんでした。取り上げたい新刊の話のほうが、いつも優先だからです。日記である以上、時評性を優先したい。新作は間が空くと思うので、ここに挙げた作品から、私がこの当時何を考えていたかを推理するのも面白いかもしれません)。逆に(再)の印がないものは、今回初めて読んだ作品になります。また、いつも取り上げるのは新刊なので、出版社名を付していますが、復刊・再刊があり煩雑なので、今回は省くことにしました。

     まず、以下に作品のリストを挙げます。今回の原稿は長すぎるので、読みたい・気になる作品に飛んでいただけるように、という意味合いです。飛ぶといっても、番号を参考にスクロールしていただくしかないですが……。

    1、芦辺拓『殺人喜劇の13人』(再)
    2、有栖川有栖『らんの島』(再)
    3、歌野晶午『密室殺人ゲーム2.0』(再)
    4、折原一『叔父殺人事件 グッドバイ』。
    5、霞流一『死写室 映画探偵・くれないもんふくすけの事件簿』(再)
    6、貴志祐介『硝子のハンマー』(再)
    7、霧舎巧『名探偵はどこにいる』(再)
    8、久住四季『星読島に星は流れた』(再)
    9、白井智之『そして誰も死ななかった』
    10、城平京「飢えた天使」(鮎川哲也・編『本格推理⑩』収録、再)
    11、高木彬光『初稿・刺青殺人事件 昭和ミステリ秘宝』(再)
    12、はやみねかおる『機巧館のかぞえ歌 名探偵夢水清志郎事件ノート』(再)
    13、日影丈吉『内部の真実』(再)
    14、道尾秀介『骸の爪』(再)
    15、柳広司『饗宴 ソクラテス最後の事件』(再)
    16、スタンリイ・エリン『第八の地獄』(再)
    17、エラリー・クイーン『アメリカ銃の秘密』(再)
    18、エドマンド・クリスピン『大聖堂は大騒ぎ』
    19、マイクル・コーニイ『ハローサマー、グッドバイ』(再)
    20、P・D・ジェイムズ『神学校の死』
    21、レックス・スタウト『腰ぬけ連盟』(再)
    22、カーター・ディクスン『第三の銃弾〔完全版〕』(再)
    23、クリスチアナ・ブランド『暗闇の薔薇』(再)
    24、エドワード・D・ホック『サム・ホーソーンの事件簿Ⅰ~Ⅵ』(再)
    25、パーシヴァル・ワイルド『悪党どものお楽しみ』(再)

    〇では国内編15冊

     1、芦辺拓『殺人喜劇の13人』(再)は芦辺拓のデビュー作。4月刊行の『名探偵は誰だ』を第38回で取り上げたので、第二巻刊行時には絶対に索引に名前が載るのですが、『殺人喜劇~』を再読したところ、その闊達な語りが印象に残ったのでここにメモしておきたいのです。この「語り」については、選評の中島河太郎も「文体が溌溂として小気味」(同書講談社文庫版、p.453)よくと書いているのですが、中学生の自分にはまだピンと来ていなかったのだなと感じます。トリックを満載する芦辺長編の例に洩れず、連続殺人の環の中に、誘拐事件が組み込まれているのも、実は忘れていたので驚きました。他に好きな芦辺作品は『地底獣国ロスト・ワールドの殺人』『時の誘拐』『紅楼夢の殺人』『異次元の館の殺人』『鶴屋南北の殺人』『大鞠家殺人事件』。中でも『紅楼夢の殺人』は、トリックと幻想の融合という点でも、趣向の豪奢さという点でも、本当に偏愛している作品です。

     2、有栖川有栖『乱鴉の島』(再)。新作『捜査線上の夕映え』の「特殊設定ミステリ」云々のくだりで書かれていた「私は、〈ミステリはこの世にあるものだけで書かれたファンタジー〉と捉えている」(『捜査線上の夕映え』、p.8)という言葉を、『乱鴉の島』で既にやっていたことに再読で発見しました。この主張自体は、作者が一貫して主張しているものなので、もっと早く気付いても良かったのですが、現実で無暗に「特殊設定」が流行ってしまったがゆえに、その反動で有栖川作品の手つきがより明確に見えたのです。要するに、『乱鴉の島』では、SFでも特殊設定ミステリーでも定番になった「アレ」を、現実と地続きの舞台だからこそ出来る「夢と願い、そして喪失の物語」の装置として使っているんですよね。これは実際に「出来てしまう」世界だと上手く機能しない心理で、私たちと現実を共有している世界だからこそ、登場人物たちの哀切が際立って来る。火村・有栖を排除しようとする島の人々と、子供たちの心の動きとか、サスペンスの部分も再読するとビシバシ狙いが伝わって来てスリリングでした。中心のネタの一つが、エドワード・D・ホックの某短編に似ていることに気付けたのも再読の収穫。好きな有栖川作品は『双頭の悪魔』『女王国の城』『白い兎が逃げる』『妃は船を沈める』『怪しい店』、ちなみにこの休みの期間に『マレー鉄道の謎』『虹果て村の秘密』も好きなので再読しました。特に『女王国の城』は、作品の構成要素からロジック、結末まで全てが美しくて、大好きな一冊です。

     3、歌野晶午『密室殺人ゲーム2.0』(再)。とにかくハウダニットに飢えているので再読しました。オンラインにより繋がる殺人ゲームのメンバー、というのが、いつの間にか現代を思わせるようになってしまった。とはいえ、コンプライアンス的な意味では……凄かった。「良識」ある人々に読ませたら怒り出しそうな、鬼畜・無慈悲なトリックと構図のオンパレード。むしろ嬉しくなる再読でした。お気に入りはやはり「切り裂きジャック・三十分の孤独」。初読時にはインパクト抜群の密室トリックに目が行ってしまいましたが、再読では、別解潰しのスマートさに舌鼓。好きな歌野作品は『ROMMY 越境者の夢』『安達ヶ原の鬼密室』『ジェシカが駆け抜けた七年間について』『女王様と私』『誘拐リフレイン 舞田ひとみの推理ノート』『ずっとあなたが好きでした』です。特に『女王様と私』は、何をどうしたらこんな作品が書けるか分からないので、なんか異様に好きなんですよ。

     4、折原一『叔父殺人事件 グッドバイ』は、未読の折原作品の中から一冊読みたくなり、これを。『叔母殺人事件 偽りの館』は読んでいたのですが、これは大事に取っておいたのです。この世でただ一人、「叙述トリック」と明かしてもネタバレにならない作家が折原一ですが、『叔父殺人事件』では、リチャード・ハルの原典『伯母殺人事件』を巧妙にイジりながら、ザッと数えただけでも、〇つの類型の叙述トリックが効果的に組み合わせてあって(数を書いてもネタバレにならないと思いますが、念のため伏せますね)、その語り=騙りの魔術にまた感じ入ってしまいました。好きな折原作品は『倒錯の死角アングル 201号室の女』『耳すます部屋』『異人たちの館』『冤罪者』『双生児』『グランドマンション』。特に『グランドマンション』はひっくり返るから読んでください。

     5、霞流一『死写室』(再)。トリックに行き詰ったなら、やっぱり霞御大ですよ。動物見立ての執拗さ、バカトリックの豪快さ、そしてロジックのスマートさ、この三つが完全に同居した作家なんて、霞流一しかいないんですから(『羊の秘』ノベルス版の帯の法月綸太郎のコメント「ふくらむぞドリーム! 燃え尽きるほどフレーム! 響け、地底のスクリーム!」は最高だ!)。特にロジックは凄いんですぜ。毎回毎回、「なぜこの犯行が単独犯と断定できるのか」のロジックをしっかり組み立てている律儀な本格者なんて、今じゃ霞御大くらいなんだから。そんな霞流一が自分の経歴ゆえに自家薬籠中の物としている「映画業界」を舞台に、トリックとロジックのオンパレードを見せたのがこの『死写室』です。ノベルス版で最高の登場人物紹介がつき、映画祭モチーフがより際立ったので、ぜひ読んで。表題作の密室トリックとか、「モンタージュ」の玉突きのような論理の鮮やかさとか、充実ぶり半端じゃないので。「タワーで死す」「本人殺人事件」とか、霞短編にはまだまだ良作・傑作あるから、どこかでまとめてくれないだろうか。好きな霞作品は『フォックスの死劇』『オクトパスキラー8号 赤と黒の殺意』『首断ち六地蔵』『呪い亀』『火の鶏』『ウサギの乱』『夕陽はかえる』『スパイダーZ』『パズラクション』等々(等々???)。特に『火の鶏』はミステリー史上で何度も擦られている某ネタを唖然とする方法でアレンジした傑作ですし、『夕陽はかえる』はドン詰まり本格版『なめくじに聞いてみろ』と言いたくなる……殺し屋本格のドリームだッ!

     6、貴志祐介『硝子のハンマー』(再)。この世で一番美しい現代密室ミステリーだと思っています。それはもちろん、トリックそのものの鮮やかさでもあるのですが、「ヒント」となるシーンの鮮烈さも素晴らしいんです。島田荘司『占星術殺人事件』のあの「ヒント」に比肩する。本格ファンの友人とは、犯人視点から描いた「第二部」のパートの評価が分かれることが多いのですが、私はむしろ、「貴志印の密室ミステリーを読みながら、『青の炎』並みの犯罪小説も読めるんだから二度美味しくない?」と思っています。〈防犯探偵・榎本〉シリーズ大好き。大野智のドラマも良かった。佐藤浩市の三枚目っぷりが良かった。さて、ここで問題です。どうして中学生の私は、『硝子のハンマー』を手に取ったでしょうか? ……はい編集さん早かった! ……「法月綸太郎との対談が文庫のおまけに載っていたから」。大正解!!! 他に好きな貴志裕介作品は『クリムゾンの迷宮』『天使の囀り』『新世界より』です。特に『新世界より』は何度も読んでいて、未だに「新世界より」の曲を聞くと、あの寂しくも美しいシーンを思い出して涙ぐむほど。

     7、霧舎巧『名探偵はどこにいる』(再)。いやあ、もうね、「名探偵に憧れ、その憧れに身を焼かれる人間」を書かせたら、霧舎巧の右に出る者はいないと思うのです。もちろん、ラブコメ本格を書かせても右に出る者はいない。で、『名探偵はもういない』『名探偵はどこにいる』の二冊は、一種の恋愛小説でもあると思うのです(ラブコメと区別する意味で)。『名探偵はどこにいる』は双子を巡る過去の事件の構図を少しずつ紐解いていく「ホワットダニット」ものの本格ミステリーなのですが、過去への回想によって紡がれていく、登場人物たちの感情のタペストリーが再読ではっきり見えてきて、初読時以上に感じ入りました。好きですねえ。ロジック無双という点では『名探偵はもういない』もぜひ推したい。好きな霧舎作品は『ラグナロク洞 《あかずの扉》研究会影郎沼へ』『新本格もどき』、〈私立霧舎学園ミステリ白書〉シリーズからは『六月はイニシャルトークDE連続誘拐』『七月は織姫と彦星の交換殺人』『八月は一夜限りの心霊探偵』です。特に『八月~』は絶対にあれでしか読めない伏線のアクロバットが楽しめるからおすすめです(電子化も不可能!)。なるべく順番に読んで欲しいですが、難しければせめて『七月~』とセットで読むようにしてください。

     8、久住四季『星読島に星は流れた』(再)。一切の夾雑物がない、星と論理の輝きに彩られた「美しい」本格ミステリーです。あることを再確認したくて再読した作品なのですが、目的を忘れてのめり込んでしまいました。もちろん構図や真相は覚えていたのですが(それ自体に美しさがある真相というのは、時が経っても忘れない)、再読して感じ入るのは、エピソードや暗喩の配置の周到さでした。こうして読み返すと、「殺人前のドラマ」の大事さが分かります(本作は「殺人前のドラマ」に100ページ以上の紙幅を取っているのです)。隕石が登場する本格ミステリーといえば、泡坂妻夫『乱れからくり』も思い出されるところで、セットで再読しました。こちらも真相の構図が美しく、覚えていましたが、「その真相ってどうやって成り立たせていたんだっけ」という細かい部分はうろ覚えだったので、一つ一つ確認するたびにスリリングでした。

     ちなみに、久住四季作品の影響は私の中で結構大きく、「魔術師」が登場する学園ミステリー〈トリックスターズ〉シリーズが大好きで、中でも『トリックスターズD』は最高級の特殊設定×クローズドサークル本格だと思っています。『トリックスターズM』は未来予知の映像から未来の事件を予測し、止めようとする話なのですが、これは拙作『星詠師の記憶』の未来視のイメージを形作るのに、大いに参考にさせていただいておりました。

     9、白井智之『そして誰も死ななかった』。書評家・若林踏による「新世代ミステリ作家探訪 シーズン2」という企画で、七月に白井智之が登壇したため、触発されて読みました(シーズン1には私も登壇しています。『新世代ミステリ作家探訪』として本になっているので読んでください)。なぜ今まで未読だったかというと、この本が出たのが拙作『紅蓮館の殺人』が出た直後で……本格と名の付くものから……距離を置いて…………。

     というのはさておき、『そして誰も死ななかった』、読んでひっくり返りました。鬼畜系ハード特殊設定パズラーの申し子である白井智之のことですから、もうちょっとやそっとのことでは驚かないのですが、この設定とシチュエーションは凄い。あらすじの都合上、何も書けないのがもどかしいのですが、中盤も過ぎてくると、ある種の「不可能状況」が立ち上がるミステリーでもあるのです。エッ! じゃあどうなるの!? と本気でびっくりし、しかも、その不可能を可能とする超絶技巧があったので身悶えてしまいました。最高だ……。他に好きな作品は『東京結合人間』『おやすみ人面瘡』『名探偵のはらわた』『ミステリー・オーバードーズ』です。

     10、城平京「飢えた天使」(『本格推理⑩』収録、再)。これも「新世代ミステリ作家探訪 シーズン2」に触発されたもの。『かんなぎうろ最後の事件』を刊行した紺野天龍が登壇した回で、城平京『虚構推理』の話が出て、その話がかなり感動的だったので(これは若林踏の原稿に譲りたいので、私は伏せましょう)、大好きな城平作品を読みたくなった次第。自分の名探偵観に間違いなく『名探偵に薔薇を』は影響を与えていると思いますし、漫画も全て読んでいますし(特に好きなのは『ヴァンパイア十字界』!)、〈小説スパイラル 推理の絆〉シリーズは全巻大好きなんです。そのなかでも『ソードマスターの犯罪』はコンゲームにも似た心理戦の極致を、剣道をテーマにやってしまうのが技あり一本な良作ですし、『鋼鉄番長の密室』は名探偵の幸福論と多重解決の魅力に溢れています。私の大偏愛作『幸福の終わり、終わりの幸福』で現出するような、捩れた論理も城平作品の魅力の一つ。で、「飢えた天使」という作品は、それが如実に表れた一編だと思うのです。餓死がテーマになっているというだけで、ロナルド・A・ノックス「密室の行者」と並ぶ珍しい作品ですが、その状況を解き明かす論理と、最後に現れる「塔」にまつわる心理にグッときます。

     ちなみに、今流れで名前を挙げた『本格推理』というのは、鮎川哲也が編集長を務め、原稿用紙規定上限50枚の短編を公募で集め、入選した作を載せていたアンソロジーです。鮎川哲也が編集長の『本格推理』が全十五巻、二楷堂黎人が編集長の『新・本格推理』が全九巻。私が『本格推理マガジン』の別冊だった『絢爛たる殺人』や『硝子の家』を愛読していたのは、読書日記の第20回でも語った通りなのですが、結構この雑誌(文庫判型)、好きで読んでいたんですよねえ。東川篤哉、石持浅海、三津田信三、柄刀一など、私が大好きな作家の短編が載っていたのもありますし。しかも四者とも、それぞれ、『中途半端な密室』『顔のない敵』『作者不詳 ミステリ作家の読む本』『OZの迷宮』と、私が各人の短編集でベスト級に好きな作品集が、ここからまとまっています。大山誠一郎「聖ディオニシウスのパズル」(『新・本格推理03』)、黒田研二「そして誰もいなくなった……のか?」(『本格推理⑧』)、七河迦南「あやかしの家」「暗黒の海を漂う黄金の林檎」(それぞれ、『新・本格推理06』と『07』)、加賀美雅之「聖アレキサンドラ寺院の惨劇」(『新・本格推理 特別編』)などは、それぞれの作者のファンにはぜひ読んで欲しい作品です。小貫風樹「とむらい鉄道」(『新・本格推理03』)や、園田修一郎「ドルリー・レーンからのメール」「シュレーディンガーの雪密室」(それぞれ、『本格推理⑭』と『新・本格推理08』)とかも好きだったなあ。あと『本格推理⑩』には、霧舎巧が前の名義・砂能七行で「手首を持ち歩く男」を投稿していて、その著者コメントに「ぎゅうぎゅう詰めのお弁当が好きです。食べはじめたらそのおかずの多さに、次から次へと口に運んでしまう、気がついたら一度も箸を休めずに食べ終わっていた――そんなお弁当(推理小説)が好きです」(同書、p.10)と書かれていて、このスピリットが初志貫徹されているのに嬉しくなってしまいます。

     11、高木彬光『初稿・刺青殺人事件』(再)。トリックに行き詰っているから、やっぱりトリックが好きな作品に手を伸ばしがち。「昭和ミステリ秘宝」の一冊として刊行されたこの本は、高木彬光短編集の中でも屈指の傑作集だと思います。「影なき女」「妖婦の宿」が一堂に会しているのはもちろん、隠れた傑作「鼠の贄」「原子病患者」まで収めている。おまけに「初校・刺青殺人事件」も、凝りに凝ったトリックと技巧を味わうという点では、本編をスリムに味わえる分、本編より好みだというひともいるのではないかと。『刺青~』を何回読んでも、東大の研究室に刺青を入れた皮が吊るしてあるシーンはゾーッとしてしまう。好きな高木彬光作品は、『黒白の囮』『人形はなぜ殺される』『能面殺人事件』『白昼の死角』『誘拐』『わが一高時代の犯罪』『仮面よ、さらば』あたりです。特に『誘拐』は、実際にあった誘拐事件の公判を犯人が聞きに行く……というシーンから始まるトリッキーな誘拐小説で(つまりその公判を参考にして、事件を起こす、という筋)、その企みに唸らされる作品です。

     12、はやみねかおる『機巧館のかぞえ歌』(再)。子供の頃から数えて、もう何回目の再読になるのか分かりませんが、「ふるさと」に帰りたくなったらやはり、はやみねかおるなのです。今回再読して、本編である「第二部 機巧館のかぞえ歌」の後に収められた「第三部 さよなら天使エンゼル」は、夢水清志郎のいう「名探偵とは、事件を解いて人を幸せにする人」という信念を最も明確に打ち出したエピソードなのではないかと考えて、涙ぐんでいました。おそらく、真相の類型が国内作家Kの「日常の謎」短編と同じなのも、意図的にやっているんですよね。だからこそ、処理の違いが際立って来る。「第二部」のどろどろに煮詰めた赤い夢の中を潜り抜けて、「第三部」があることの意味が、初読時から17年、ようやく身に染みたというお話でした。だから、良い本は何度読んだっていいんですよ。好きなはやみね作品は……実際、全部なのですが、特に何度も読み返しているのを挙げると、〈名探偵夢水清志郎事件ノート〉シリーズでは『魔女の隠れ里』『ミステリーの「館」へ、ようこそ』『卒業 ~開かずの教室を開けるとき~』が特に好きですし、他には『怪盗クイーンの優雅な休暇バカンス』『都会のトム&ソーヤ⑤ IN塀戸』『少年名探偵 虹来恭助の冒険 フランス陽炎村事件』『怪盗道化師ピエロ』『ぼくと未来屋の夏』『僕と先輩のマジカル・ライフ』『帰天城の謎 TRICK 青春版』等々でしょうか。漢字名義(勇嶺薫)の『赤い夢の迷宮』ももちろん好き。六月には「怪盗クイーンはサーカスがお好き」の映画が見られて幸せでしたね。はやみねファンが求めていた景色がここにあるよ、と。ワインの瓶を手刀で開けて怒られるクイーンが見られて私は嬉しい。

     13、日影丈吉『内部の真実』(再)。一番好きな昭和ミステリー作家は? と聞かれたら、迷った末に日影丈吉の名前を挙げます。『内部の真実』は250ページの中に真相の脱構築が凄まじい密度で繰り返される作品で、何度読み返しても味わい深く、ミステリーのプロットだけ取り出せば、この後挙げるカーター・ディクスン『第三の銃弾』に限りなく近いのですが、それだけでは済まない要素もあるんですよね。日影丈吉の長編は全て300ページ以内というのも良くて、その短さで幻惑と論理のマリアージュに浸れるのも素晴らしいのです。他に好きな作品は『女の家』『孤独の罠』『夕潮』『地獄時計』『善の決算』『幻想博物誌』など。『善の決算』は完全版まで含めると今は全集でしか読めないから、どこかで文庫化してくれないかな(全集はもちろん所有しています)。河出文庫から二冊短編集が出ている(『日影丈吉傑作館』『日影丈吉 幻影の城館』)のですが、これはガチの傑作短編集なので、短編を読みたい人は押さえてほしい本です。短編「吉備津の釜」のクライマックスの緊迫感は、ちょっとこれに比肩する作品を思い出せないレベル。

     14、道尾秀介『骸の爪』(再)。こちらも「新世代ミステリ作家探訪 シーズン2」の白井智之回で、白井の好きな作家として名前が挙がり、特に〈真備〉シリーズが好きだというので再読したくなった次第。道尾秀介は、誤解と誤読のミスディレクション、すれ違いの悲劇を書かせたら、現代で右に出る者はいない作家だと思っていて、その技巧の粋が分かりやすい形で現れたのが『骸の爪』ではないかと。つるべ打ちのような真相の見せ方には、何度読んでもため息。好きな道尾作品は『ラットマン』『シャドウ』『向日葵の咲かない夏』『花と流れ星』『鬼の跫音』『カササギたちの四季』『風神の手』『N』。でも私、ミステリーを入り口に道尾作品を読み始めましたけど、何よりその文章と世界観の虜になったので、『光媒の花』『鏡の花』が最大の偏愛作かもしれません。『光媒の花』は初めて書店で買った道尾作品というのもあって(刊行が中学二年の時で、「初めて読んだ道尾作品」は学校の図書室の司書さんが貸してくれたのです)、あのハードカバー装の質感と共に印象に残っています。

     15、柳広司『饗宴 ソクラテス最後の事件』(再)。とある事情で仕込みが必要になり――まあ、近日中に明らかになります――柳作品の再読をしこたましていました。私の高校時代の勉強を豊かにした作家は、やはり柳広司だったと思います。〈ジョーカー・ゲーム〉シリーズがヒットしていた時代で、友達はそれに夢中だったのですが、私は一人、柳広司の歴史もの・文学ものの良さを伝道していました。この『饗宴』は、ソクラテスが探偵役を務める長編で、衆人環視での死から、怪しげな教団、バラバラ死体の謎まで、ソクラテスが解き明かす物語なのですが、そこに劇作家、アイスキュロスが絡んでくるのがたまらないんですよ。論理を論理で、物語を物語で塗り替えるダイナミズムが、この本格長編には溢れているわけです。史実を換骨奪胎して変えているので、「勉強の参考にはならないのでは?」という声も聞こえてきそうですが、むしろ、勉強することによって「どこを変えたか」がくっきり見えるのですから、それを修正する過程で二倍・三倍、世界史や国語の勉強にのめり込めたと思います。中島敦「山月記」の「虎になった李徴」の謎を合理的に解き明かしてしまう『虎と月』とかハマりましたし、夏目漱石『吾輩は猫である』に描かれた尻切れトンボのエピソードの数々を「日常の謎」として再解釈し、漱石先生に解かせてしまう鮮やかな文学実験『漱石先生の事件簿 猫の巻』とか大好きでした。何より、学校で授業に退屈した時も、世界史・国語の教科書・資料集のページが、違ったように鮮やかに見えるというのは、何事にも代えがたい瞬間でした。もはや蛇足ですが、他に好きな柳作品を列挙すると『黄金の灰』『贋作『坊っちゃん』殺人事件』『はじまりの島』『百万のマルコ』『ザビエルの首』『新世界』『パラダイス・ロスト』『アンブレイカブル』です。

    〇ここから海外編10冊!

     既に原稿の長さにげんなりしている皆さん、本当にごめん。でも海外編の話もしなくっちゃあ、いつもの私らしくないのでやらせてください。あと十冊の辛抱だ!

     16、スタンリイ・エリン『第八の地獄』(再)。この世で最も完璧なハードボイルド長編を挙げろと言われたら、この作品と、北方謙三の『棒の哀しみ』を挙げます。先に『棒の哀しみ』の話をすれば、これは文体の研ぎ澄まし方がえげつない作品で、他に好きな北方作品もあるのですが、どうしても『棒の哀しみ』の話をしたくなってしまう。凄まじい実験小説でもあります。そして『第八の地獄』はといえば、小笠原豊樹による訳文が素晴らしいのはもちろんですが、このタイトルに象徴される「都市の生活・人々」の描き方やエピソード配置、そして周到に計算された三部構成など、一冊のハードボイルドとしての構築性が素晴らしく高いんですね。謎解きミステリーの要素さえある。どこかで復刊して欲しいものです。そしてまあ、『第八の地獄』や『棒の哀しみ』を私が読み返す時は、こういうことをまた何か出来ないかと考える時です。スタンリイ・エリンで他に好きな作品は『特別料理』などに代表される短編はもちろんですが(エリンが生涯に遺した全41編を、雑誌まで拾い集めて全部読破したくらい好きですが、「決断の時」のシビれるような味わいは何物にも代え難い)、『断崖』『鏡よ、鏡』あたりも良いですね。

     17、エラリー・クイーン『アメリカ銃の秘密』(再)。角川新訳にて。本格ミステリーの面白さに迷うようになると、クイーンを一冊、気ままに再読することにしています。なぜ『アメリカ~』かというと、いつも気ままに手に取っていたら、これだけ再読回数が少ないことに気付いたのと、次回話しますが、柄刀一『或るアメリカ銃の謎』が出るので、ちょっと復習しておこうと思った次第。再読回数が少ないからといって悪い作品だというわけではなく、フェアプレイを実現するために配置された数々の工夫は再読して唸ってしまいますし、冒頭の「スペクトル分析」の意味がずーっと分かっていなかったのが、十数年越しにようやく分かったりして、面白く読みました。次はどれがいいかな……『ダブル・ダブル』の新訳版が出るから、それにしましょうか。ちなみに、『エラリー・クイーンの冒険』『エラリー・クイーンの新冒険』が中村有希による新訳で生まれ変わり、こちらも大変素晴らしかったですが、『エラリー・クイーンの事件簿1』『2』もかなり良い作品が読める(2冊合わせて中編4つも読める)ので、いずれ再刊したりしないかな……復刊フェアに期待ですかね……。

     18、エドマンド・クリスピン『大聖堂は大騒ぎ』。クリスピンのミステリーはいつも賑やかで楽しいんですよね。『お楽しみの埋葬』では名探偵、ジャーヴァス・フェンの選挙活動(!?)と同時に進行する殺人喜劇を楽しめますし、『列車に御用心』は質の高い本格ミステリー短編の乱打を味わえます。作品数が少ないので、年一くらいのペースで積ん読から読んでいて、この『大聖堂は大騒ぎ』がラストだったのですが、いやいやどうして面白い。いつもの賑やかな雰囲気に加えて、思わずクスっときてしまうバカトリックまで炸裂するのですから。クリスピン、これにて邦訳作を一周してしまったわけですが、クリスピンの楽しみ方を分かっていなかった時に『消えた玩具屋』を読んでしまったという悔恨があるので、来年はそれを再読しようかなと。

     19、マイクル・コーニイ『ハローサマー、グッドバイ』(再)。好きなSF作家ナンバーワン。この長編は夏に読むのが効くのです。普段はミステリーばかり読んでいる私も、『ハロサマ』を前にすると、「これが世界で一番面白い小説でいいよ!」という気分にさせられます(ちなみに『ハロサマ』というのは、私の大学サークルで流行っていた略称です)。その理由は、冒頭で作者が述べる通り、”これは恋愛小説であり、戦争小説であり、SF小説であり、さらにもっとほかの多くのものでもある“(同書「作者より」、p.3)からです。夏休暇を過ごすために港町パラークシに家族と向かう少年ドローヴと、彼が再会を果たした少女ブラウンアイズとの恋愛要素が主軸となるのですが、世界観が孕む奇妙な謎が心を絶妙にざわつかせて、甘酸っぱいと同時にスリリングな読書体験を与えてくれるのです。そして結末は……シビれる。カッコ良い。この結末の旨味は、読んで味わっていただくほかない。ちなみに、『ハロサマ』の続編『パラークシの記憶』は私イチオシのSFミステリーで、前世代の記憶を引き継ぐ世界において――つまり、先祖の犯した罪も次の世代が知ってしまうという状況下で起きた殺人事件を描いた良作です(人を殺せば必ず誰かに知られる、という不可能状況!)。大好き。でも一番好きなのは『カリスマ』『ブロントメク!』かも。コーニイの作品に共通して流れるノスタルジーがたまらないんですよ。あと帆船趣味。

     20、P・D・ジェイムズ『神学校の死』は今回が初読。私は体調を思いっきり崩すとP・D・ジェイムズを読むことにしていて、積ん読から刊行順に崩しているのです。『神学校の死』はP・Dの〈アダム・ダルグリッシュ〉シリーズの邦訳十一作目で、遂にここまで来たか、という感慨があります(残りは『殺人展示室』『灯台』『秘密』。あと三回体調を思いっきり崩すと終わる計算ですね)。ちなみに体調が悪くなると読んでいる理由は、病床の中の重く暗い気持ちに、P・Dのグルームな語り口が実に合うからです。通勤電車であくせくしながら読むには向かないんですよね。で、本作『神学校の死』は、神学の問題が複雑に絡むのもさることながら(ニケーア公会議なんて文字列見たの、高校の頃の世界史以来では?)、ダルグリッシュが昔ここを訪れたという設定があることで、「見知った人たちの中のフーダニット」という読み味が生まれているのがツボ。まあ、大体の作品で、ダルグリッシュは知り合いのことを調べていますが。真犯人の正体については可もなく不可もなく、ですが、本作ではダルグリッシュの初恋エピソードとその回収があまりに良かったので満面の笑みになりました。好きなP・D作品は『ナイチンゲールの屍衣』『黒い塔』『わが職業は死』『死の味』『罪なき血』あたりで、実は〈コーデリア・グレイ〉シリーズはそんなに好きではない。『黒い塔』は難病患者が集まった施設を舞台にして、ダルグリッシュが「生きる」ための戦いを繰り広げるラスト100ページの対決が、荘厳で感動的。P・Dの中で最も生きる希望が湧く長編で、あまりに好きすぎて原書でも所有しています。『罪なき血』は復讐劇の顛末をオフビートに綴った作品で、ノンシリーズの中では一番好きです。

     21、レックス・スタウト『腰ぬけ連盟』(再)も、体調が悪い時に読んだ作品。スタウトを体調が悪くなると読む理由は、「病床での私と同じく、ネロ・ウルフも動かないから」。ネロ・ウルフという美食家探偵は本当に動かなくて、『腰ぬけ連盟』でも、少し指を動かして返事をしたくらいで、助手のアーチー・グッドウィンに、(ウルフにしては動いてるなあ)と地の文で弄られるほど動かないのです。実は『腰ぬけ連盟』、法月綸太郎が『法月綸太郎の本格ミステリ・アンソロジー』の中で「海外クラシック・ベスト20」に挙げられているのを見て、中学生の頃に読んだのですが、当時は面白さが分からなかった。他の19作は面白かったのに、『腰ぬけ連盟』だけ全然楽しめなかったんです。それが悔しかったのを思い出したので、今回再読した次第。今の視点で読むなら、ウルフに振り回されるアーチーを、メルカトル鮎にぶん回される美袋くんみたいな気持ちで読むと結構楽しめました。アーチーは美袋よりはアクティブにやり返しますけど。ある作家に苦しめられる人々が組んだ連盟を巡る殺人事件の謎で、連盟の加入者のキャラが立ってくると俄然面白くなってきて、どんでん返しにニヤリ、という感じ。この、キャラが立ってくると……というところが重要で、スタウトの長編って大体キャラが二十人くらいいて、やっぱり翻訳に慣れてなかった、私の中学生時代には厳しかったんだなーと思いました。この二十人くらいをグループごとに区別しながら、ドタバタする動きが見えてくると、途端に笑えて来るんですよね。現代でちゃんと上手い訳者がついて、ユーモラスに新訳されたら、イメージが刷新されるような気がしました。原書でも読んでみようと思って、色々買ってみたりしています。好きなスタウト作品は『マクベス夫人症の男』『編集者を殺せ』『シーザーの埋葬』あたり。

     22、カーター・ディクスン『第三の銃弾〔完全版〕』(再)は、私が本格ミステリーに行き詰ると立ち返る作品。『妖魔の森の家』に収録された中編版の「第三の銃弾」でも可。なぜこの作を選ぶかというと、この作には「プロットによって転がすタイプの本格ミステリーの面白さ」が凝縮して詰まっているからです。密室の中に容疑者と死体。容疑者の手の中には拳銃があった。当然この容疑者が撃ったと思われるが、死体の中の銃弾を取り出してみると、容疑者の持っていた拳銃とは線条痕が合わなかった。つまり、別の拳銃――第二の拳銃があったということか? ……というのが序盤のあらましですが、このように「銃弾―拳銃」が発見されるたびに、状況と疑わしい人物がめまぐるしく変わるプロセスが、本格ミステリーの面白さだと思うのです。最終的な解決については「うーん……そうか!」と思わなくもないのですが、プロットの切り回しが巧いので、総合的な満足度が勝ってしまうんですよね。先に挙げた日影丈吉の『内部の真実』もこの状況に似ていますし(解決はまた違います)、ゲーム「大逆転裁判」の五話「語られない物語の冒險」もカーが源流ではないかと思っています(ちなみに「大逆転裁判」「大逆転裁判2」には、他にも、カーの長編や短編だけでなく、チェスタトンやジェラルド・カーシュの作品を思わせるシチュエーションが散りばめられていて好きです)。で、全部好き。そのうち「『第三の銃弾』のシチュエーションで一番面白いやつを書いたやつが勝ちコンテスト」とかしたいくらい。

     好きなカーター・ディクスン=ジョン・ディクスン・カーの作品を挙げだすときりがないので改行しましたが、試みに挙げていくと、有名すぎる目張り密室のトリックだけでなくH・Mの解決編の行動がカッコ良い『爬虫類館の殺人』、何度読んでも爆笑してしまうトリックとドタバタ劇が好きな『魔女が笑う夜』、真相のシンプルさと強烈さを兼ね備えた美しい本格ミステリーでありながら、「らしい」ドタバタ劇まで展開してしまう『貴婦人として死す』、「なんかよくわからんけど密室の中で盃ちょっと動いてね?」という世界で最もくだらない「日常の謎」を書いてしかもちゃんと面白い『騎士の盃』、「泊まると必ず死ぬ部屋」という大ベタなネタですが百五十年の来歴を語るパートのノリにノッた感じがたまらない『赤後家の殺人』、やっぱり薄幸の美人が好きなので吸血鬼が出てくるオカルトムードもにっこり笑って許しちゃう『囁く影』、こんなネタ、やろうと思っても実際やるのはあなただけですよッ! と喝采した『四つの凶器』、有名な毒殺講義が含まれている作品ですが、それよりも映像を何度もリプレイしながら矛盾を探っていくプロセスに「逆転裁判」のような妙味を感じた『緑のカプセルの謎』、剣戟で「また俺何か、やっちゃいました?」を地で行く痛快タイムスリップ小説でありながら本格としても着地する『ビロードの悪魔』、偉人が出てくるタイプのミステリーで最も周到な企みに満ちていると思わせる『喉切り隊長』……ベタなところを外してセレクトしたのにもう十作になったから、この辺でやめときます?

     23、クリスチアナ・ブランド『暗闇の薔薇』(再)。ブランド、大好きなんですよねえ。シャープな剃刀のような文体で、限られた容疑者の中で多重解決を繰りだしたりするので、一読で全て理解するのは難しいほどなのですが、どの作品も、読み終えた後に凄まじい充足感を得られるというか。女帝の本格を読んだ、という気分ですかね。もちろんミステリーの女王といったらアガサ・クリスティーなのですが、あちらが初心者からマニアまでみんなに愛される女王だとしたら、ブランドは「本格という牙城の頂点まで一人で上り詰めた絶対者」みたいな強さがあるんですよ(なんか語弊があるかもしれないが、伝わってほしい)。それで「女帝」と言ってみた次第。『緑は危険』とか、ハヤカワ・ミステリ文庫で300ページしかないのに、初めて読んだ時すぐに二回目読んだもんな……濃密すぎて。「二度読み必至」というと、今は特定のネタを想起させてしまうフレーズになっていますが、ブランドは正しい意味で「二回読んだほうが良い」タイプというか。それだけに、何回も読めて楽しい作家でもあります。『暗闇の薔薇』は、倒木により立ち往生してしまった二つの車のドライバーが、倒木で隔てられた道のこちら側とあちら側にいるのですが、互いに急ぎの用があるので、「車を交換しよう」というシーンから始まる物語。車は倒木を越えていけないけど、人は身を屈めていけば通れる、という設定なんですね。これが偶然なのか? 必然なのか? という問いがプロットの要諦を成しているのですが、このあやふやな状況を二転三転させる筆さばきが大好きなんですよねえ。ブランドの作品は、何度読んでも発見があります。最終的な解決は覚えていても、多重解決の途中の解を読んで、「おっ、こっちも面白いじゃん!」と再発見したりもありますし、逆に最終的な解決だけ覚えていなくて驚くことも。他に好きなブランドの作品は、法廷ミステリーとしても最高の『疑惑の霧』、フィニッシングストロークの威力だけでなく、見たことがないほどカッコ良い解決編の演出が大好きな『自宅にて急逝』、フーダニット・ミステリーとして高いレベルのアクロバットがなされた『はなれわざ』あたりでしょうか。

     24、エドワード・D・ホック『サム・ホーソーンの事件簿Ⅰ~Ⅵ』(再)。田舎医師のサム・ホーソーンが解いた事件を描く全六巻、七十二編の短編小説集で、驚異的なのは、全ての短編が「不可能犯罪」を扱っていることです。密室殺人だけでなく、アリバイや、人間消失、物の消失など、扱うバリエーションは多岐にわたりますし、ハウダニットの謎を前面に押し出しておいて、実は眼目はホワイダニットにある作品も多いのですが、それでも七十二編も不可能犯罪に挑んだ職人気質には驚かされます。再読してみると、ホックがトリックを使うために、二つの異なる題材を悪魔合体させてシチュエーションを生み出していたり、むしろハウダニットよりもぎゅうぎゅうに詰められた伏線のほうが魅力ではと思わされたりするのも面白い。また、初読時には意識しなかったのですが、冒頭の語りで、必ず年号とその頃のアメリカの状況が書いてあり、それがしっかり事件にも絡んできたりするので、クロニクルとしても味わいがあることに驚きました。他に好きなホックの作品は、レオポルド警部の「モダン・ディテクティヴ・ストーリイ」はだしの推理譚をまとめた『こちら殺人課! レオポルド警部の事件簿』(レオポルドものは佳品・良品ばかりで、「レオポルド警部の密室」や「レオポルド警部、故郷に帰る」など、アンソロジー等で読む短編も面白い)、変わったものを盗むことを生業にする怪盗の冒険&推理譚『怪盗ニック全仕事』(全六巻)、ホックの珍しい連作短編集であり、ユニークな趣向がたまらない『狐火殺人事件』(別名義「ミスターX」で、ハヤカワミステリマガジン1974年9月号(No.221)-1975年2月号(No.226)に掲載)など。

     25、パーシヴァル・ワイルド『悪党どものお楽しみ』(再)。古典ミステリーの作家で誰が一番好きですか、と問われたら、その日の気分によって回答が変わりそうですが、クイーンか、カーか、クリスティーか、はたまたブランドか、と呻吟した挙句、ワイルドの名を答える日もあります。つまり、これら巨匠の名に匹敵するほどワイルドが好きなのです。ユーモラスで洒脱な語り口だけでなく、「この時代から、もうそんなことやっていたの!?」と思わせるくらい、今読んでも面白い作品ばかりなんですよね。『悪党どものお楽しみ』はなにせ、ギャンブラーの騙し合いです。コンゲームです。『嘘喰い』や『カイジ』が好きな読者こそ楽しめるのではないかと。カードやトランプを使ったイカサマを見抜き、それを利用した逆トリックで相手を欺くという基本構造は、まさしく『カイジ』に通じますし。浜辺で水着姿のままカードをするという、イカサマの余地がなさそうな状況で繰り出されるユニークなトリックにニヤリとする「火の柱」や、印のついたカードを巡る騒動が二転三転して見事なフーダニットになる「堕天使の冒険」など、見どころ満載ですが、今回の再読の目的は冒頭に置かれた「シンボル」だったりします。この「シンボル」という短編は説明が難しい短編で、「短編集の冒頭に置かないと意味がない」作品なのです。それが不思議な感慨をもたらすところでもあり、ギャンブル推しで本作を薦める一つのハードルでもあるのですが、それでも私はこの「シンボル」が、好きなんだよなあ。ワイルドに関しては刊行された作品全部が好きで、「通信教育の探偵講座」を受講した主人公があちらこちらで騒ぎを起こすドタバタ劇『探偵術教えます』や、注によるツッコミ芸とか評議と真相の境目とか、やってることのユニークさとミステリーとしての完成度が同居した『検死審問 ―インクエストー』『検死審問ふたたび』、ミステリー・ツアーを巡る手記のリレーが意外な結末を導く『ミステリ・ウィークエンド』……本当にどれもはずれがない。未訳作“Design for Murder”なんて今でいう「人狼ゲーム」をやってるんですよ? 凄いんです、パーシヴァル・ワイルド。

    (2022年8月)

第39回2022.05.27
全ページ興奮の本格×冒険小説、待望の最新刊 ~進化するアンデシュ・ルースルンド~

  • 三日間の隔絶(上・下)、書影

    アンデシュ・ルースルンド
    『三日間の隔絶(上・下)』
    (ハヤカワ・ミステリ文庫)

  • 〇先月に予告していたので……

     四月、五月は、文春文庫からジェフリー・ディーヴァーがなんと連続刊行。『クリスマス・プレゼント(原題“Twisted”)』『ポーカー・レッスン(原題“More Twisted”)』に続く第三短編集“Trouble in Mind”が、『フルスロットル トラブル・イン・マインドⅠ』『死亡告示 トラブル・イン・マインドⅡ』(以下、『Ⅰ』、『Ⅱ』と表記します)に分冊されて刊行されました。ディーヴァーの短編はやはり面白いのですが、原題の変化からも分かる通り、短編のスタイルも変化があったように思います。『クリスマス・プレゼント』の伝説的どんでん返し短編「三角関係」や、『ポーカー・レッスン』の表題作、「通勤列車」など、ディーヴァーの短編には、読者に足払いをかけてくるというか、もっと言えば、地面だと信じていたものが突然消えてすっころぶような、容赦のない驚きがあるのです。読者が信じているその基盤さえ失わせてしまうような。それこそがディーヴァー短編の魅力であると同時に、一作読むごとに、あまりの落差にエネルギーを吸われる要因でもありました。

     もちろん、そんな職人芸的技巧も素晴らしい、というのを前提にしたうえで、今回の短編集を読んでみると――いやあ、これは面白い。水を飲むようにするする飲める。『Ⅰ』に収録の「三十秒」などには、まだ初期短編の容赦のなさが残っていますが、他の短編・中編には、ディーヴァー長編の「エンターテイメント」部分の楽しさを、短くリサイズして提供してくれるような、無類の楽しさがあります。リンカーン・ライム登場の「教科書通りの犯罪」(『Ⅰ』収録)なんて、中編サイズでもしっかり、ホワイトボードで情報整理するパートが入ってるんですよ。

     たとえば『Ⅰ』の冒頭、表題作の「フルスロットル」は、キャサリン・ダンスが爆弾事件を防ぐべく、得意のキネクシス(行動心理学)を生かしてテロリストと取調室で対決、という筋なのですが、まさにタイトル通り「フルスロットル」、ノンストップで巻を措く能わずの傑作に仕上がっています。また、『Ⅰ』の「バンプ」では、人生リアリティーショー×『カイジ』といった体のギャンブル小説になっていて、膨大な伏線に快笑、という一作。

     はたまた『Ⅱ』の「死亡告示」では、リンカーン・ライム死す!? の報にニヤニヤしつつ趣向の妙を楽しめる表題作や、これまでのディーヴァーだったらここで終わらせていただろうな、というツイストの後に、なんとも心憎い伏線回収でニヤリとさせてくれる〈父と子の物語〉、「和解」などなど、またしても楽しませてくれます。また、エド・マクベイン編のアンソロジー『十の罪業 Black』(創元推理文庫)で既に邦訳されていましたが、中編「永遠」は、統計学を愛する数学刑事と無頼派の叩き上げ刑事のコンビが面白くてたまらない、ディーヴァー長編をギュッと圧縮して味わえるような良作。特にこの数学刑事、タルの言動は最高で、データは複数形で、単数形はデータムですよ、と先輩刑事の文法を直し始めるあたりでもう好きになってしまいました。これは私が、元々数学好きだからかもしれません。

     しかも「カウンセラー」……。これはもう、抱腹絶倒、というシロモノです。法廷ミステリーが始まった時は、今回も真面目に行くのかと思いきや、あれよあれよという間にとんでもない地点まで。私も「六人の熱狂する日本人」(『透明人間は密室に潜む』収録)で、法廷ミステリー的な雰囲気を利用してユーモア・ミステリーを仕立てたので、なんだか妙にシンパシーを感じてしまった、というのもあります。

     この第三短編集における変化というのは、もっと具体的に言えば、『クリスマス・プレゼント』『ポーカー・レッスン』では、短編を読んだ後に「やってくれるぜ! ディーヴァー!」と叫んでいたのが、今回は、「やってくれるぜ! キャサリン・ダンス!」だったり、「やってくれるぜ、タル!」だったり……中短編から、読者が持ち帰れるものが増えた、と言えば伝わるでしょうか。ディーヴァーの職人的技巧を存分に味わえる第一・第二短編集、登場人物たちの生き生きした冒険を味わえる第三短編集、どちらもオススメです。

    〇今、一番続きが待ち遠しい警察小説シリーズ

     凄いぜ、アンデシュ・ルースルンド『三日間の隔絶』(ハヤカワ・ミステリ文庫)は。

     どのくらい凄いかというと、北欧警察小説シリーズのエッジを極めてきた本シリーズが、遂にエンターテインメントのド本道に挑み、それがクリティカルヒット、本格ミステリーとしても冒険小説としても極上の逸品になってしまった、なんてシロモノなのですよ。特にこのフーダニットは凄えぜ。心から震えるぜ。役得で一足早くゲラを読ませてもらえたので、こんな早いタイミングでレビューが出ているのですが……。

     そもそも〈グレーンス警部〉シリーズ(第七作『三分間の空隙』まではベリエ・ヘルストレムと共著)は、北欧警察小説の一つの特徴である、「社会問題への意識」を強調し、そうした問題への怒りを犯罪小説という形で描出することにより発展してきました。第二作『ボックス21』が、重苦しく、読んだ後しばらくはダメージが残るような読み味でありながら、北欧警察小説史にその名を燦然と輝かせているのは、そこに描かれた少女売春への怒りが鮮烈であり、強烈であり、忘れてはならないものだからです。

     一方で、本シリーズには、本格謎解きミステリーのエッセンスが分かちがたく結びついています。シリーズの邦訳順では遅れて訳された第四作『地下道の少女』がまさにそれで、バスの中に放置された43人の外国人の子供、というショッキングな冒頭から、地下道で生活せざるを得ない人々を描く社会派としてのテーマを描きつつ、意外な真相を見事に演出してみせる。ある部分の伏線など、思わず膝を打ってしまうほど巧みなのです。また、『三日間の隔絶』の文庫解説では、霜月蒼により、第三作『死刑囚』の不可能状況の魅力について熱く語られていて、これも非常に、非常に分かるのです(ちなみに同解説は、解説者のシリーズへの愛が十全すぎるほど伝わり、どうしようもなく読みたい気持ちにさせられるという点で、本当に素晴らしい解説だと思います。私も読み終えた後すぐ、もう再読したくなってしまった)

     社会派と謎解き。こうした二つの方向性が発展したり、交錯したり、どちらかがより強まる中で本シリーズは発展し、第五作『三秒間の死角』からは、ここに「冒険小説のサスペンス」がのっかってきます。『三秒間の死角』では、犯罪組織に潜入してそのメンバーのふりをし、警察に情報を流す仕事をしてきたホフマンという男を描くのですが、彼を巡るサスペンスの魅力が実に見事。とはいえ、『三秒間の死角』では、「表の事件」を追いかけるグレーンス警部とホフマンの立ち位置が完全に対立してしまい、それがスリルを超えて、ストレスに感じてしまった部分もありました。

     この『三秒間の死角』から、〈グレーンス警部〉シリーズでは、「シリーズ内シリーズ」が始まり、原題にも「三」の意味を含む三部作が展開されました。『三秒間の死角』『三分間の空隙』『三時間の導線』の三作です。『三分間の空隙』ではいよいよ海外に舞台を移し、『三秒間』でものにした「冒険小説」の結構を生かして、さらなるサスペンスの創出に挑みますが、その次の『三時間』で、いよいよ大化けした、と思わされたのです。

    『三時間の導線』では、冒頭から、百体以上の死体という強烈な謎で魅せてくれます。そして、一つの死体に残された手掛かりを丹念に追いかけることで意外な展開を生み出し、海を越えた、血沸き肉躍るサスペンスに向けて軸足を移す――そう、ここに来て、〈グレーンス警部〉シリーズが歩んできた各要素が、遂に一つの束になった、と感じさせられたのです。社会の不正義や、虐げられる人々への無関心、愛しい人を傷つける人々に対する怒りを力強く表明できるという意味で、「怒れる人」であるアンデシュ・ルースルンドの筆が、同じく「怒れる人」であるグレーンス警部の行動を動かし、抜群のエンターテインメントとして演出しているのです。本格ミステリーとして。そして、冒険小説として。

    『三時間の導線』からして興奮が止まらなかったわけですが、哀しいかな、「シリーズ内シリーズ」であるがゆえに、サプライズの一つが『三秒間の死角』から読み進めていかないと不発に終わってしまうというきらいがありました。『三分間』は最悪の場合飛ばしても構わないとはいえ、少なくとも、『三秒間』→『三時間』の順番は必須でしょう。

     とはいえ、今作では、そうした不安も払拭されています。前作を読んでいなければサプライズが作動しないということもありませんし、キャラが分からなくても丁寧な説明があります。何より、これまでのどの作品よりも抜群に面白い。〈グレーンス警部〉シリーズが長大すぎて悩んでいたとすれば、本作から読み始めるという選択も、大いにアリ、というべきでしょう。

     さて、ここでいよいよ、『三日間の隔絶』の話に入ります。

     まず、あまりに完璧すぎるプロローグをご覧ください。五歳の少女を視点とした、躍動感あふれる文体と、あるページをめくった直後に訪れる、まだ「老警部」と呼ばれるほどには経験を積んでいない頃の、昔のグレーンス警部の描写。そう、この作品は、英語版のタイトル “Knock, Knock”が意味する通り、数度のノックから幕を開くのです。そして、この忌まわしい事件の記憶が、この後幾度となく、登場人物の脳裏を“ノック”する。

     第一章では、過去の未解決事件を巡るグレーンス警部の回想と、消えてしまった少女の謎が描かれます。十七年前の事件なので、当時の少女は大人になっているはずですが、彼女は証人保護プログラムによって名前を変えられており、以後の消息は隠されている。グレーンスはその記録を見つけようと警察の文書保管庫に向かいますが、なんと、保管庫から少女の記録が奪われていた。奪った誰かは、彼女の新しい名前と住所を知っているはず。誰かが、彼女の命を狙っているかもしれない。しかも、その敵は、警察の中にいるかもしれない。そのスリルがここには描かれているわけです。グレーンスの「怒り」がここでは噴出します。

     第二章では一転、ある男に視点が切り替わります。元は裏社会に所属していた男が、その時の弱みを握られて、家族を殺すと脅され、以前の犯罪にもう一度手を染めるように乞われる――とくれば、これは王道のクライム・ノヴェルの結構と言っていいでしょう。とんでもなく有能であるゆえに、手柄を買われているわけですが、家族を奪われるわけにはいかない。どんなことをしてでも家族を守ると、「怒り」に震える男の、決死の追跡行が始まるのです。

     こうして、「怒り」を抱く二人の男がどう交錯するのか――などというのは、早々に明かされます。最後まで引っ張ったりなんか、当然しません。どう交錯するか、などということは問題ではないのです(もちろん、そのシーンはとんでもなく良い)。二人の男が手を取り、自分たちやその大切な人を襲う陰謀に一歩一歩迫っていくその過程、そこに本格ミステリーとしての怜悧なきらめきがあり、冒険小説としての類まれなる興奮があるのです。

     マイ・シューヴァル&ペール・ヴァールーや、ヘニング・マンケル、あるいはジョー・ネスボなどのロングランの北欧警察小説――もはや「大河警察小説」とでもいうべき大部ですが――の特徴はいくつもあり、〈グレーンス警部〉シリーズもそれらの特徴といくつも重なるところがありますが、ここでは、「(1)刑事その人のライフプランや、家族の物語が描かれること」「(2)後半に行くにつれて、『vs.警察内部』の構図が見えてくること」の二点を抽出してみます。

    (1)では、〈グレーンス警部〉シリーズではこれまで、親の話などを印象的に書いてきたのですが、本作ではいよいよ、グレーンスに定年退職が迫っている、という事実が描かれます。これがもたらすグレーンス自身の懊悩が、本書の展開には大きく関わってきており、特にある部分の処理に関して、いよいよこのシリーズもこんなところまで来たか、と唸らされてしまいます。ラストシーンの感慨は、何度褒めても足りないくらい素晴らしい。今年のベスト・ラストシーンは本書で決定ではないか。

    (2)でも、第一章のあらすじからも分かる通り、〈グレーンス警部〉シリーズもまた、「vs.警察組織」の道に行くのかと思わされますが、そこはアンデシュ・ルースルンド、巧みに方向性をズラしてみせるところに、ただものではない上手さを感じます。アンデシュ・ルースルンドという作家への評価は、今後、シリーズの邦訳が進む中でさらに整理されていくものと思われますが、個人的には、トラディショナルな「長期北欧警察小説」の枠組みの中に、『ミレニアム』のような現代犯罪小説のエッセンスを注入することで、これまでのパターンから少しずつズラして発展させている作家、という風に感じます。

    巧いなあ、アンデシュ・ルースルンド。今後も目が離せません。

    (2022年5月)

第38回2022.05.13
春の新刊まつり ~絞り切れなかったので、「かわら版」的短評集~

  • 長い別れ、書影

    レイモンド・チャンドラー
    『長い別れ』
    (創元推理文庫)

  • 〇四月の新刊が面白かった……。

     さる第20回の時、2021年7月に刊行されたミステリーに良作が多すぎて、欲張って全てに言及する回をやりましたが、今年の4月はそれに匹敵する感じでした。どれかにフォーカスして深掘りしたい、とギリギリまで悩んでいたのですが、いっそ全部コメントしていこうと。数が多いので短評集みたいになるのと、あらすじ等の紹介は割愛するのでご了承ください。大体、私が読んだ順です。

     早川書房からはシルヴィア・モレノ=ガルシア『メキシカン・ゴシック』とグレイディ・ヘンドリクス『吸血鬼ハンターたちの読書会』の二冊のホラーが立て続けに刊行、しかも方向性が全然違って面白い。前者はシャーリイ・ジャクスンファンへの格好の贈り物と言えるゴシックホラーで、演出の妙が素晴らしい(時代性もあって性暴力の描写はかなりきついのですが)。後者は読書会マニアの主婦vs吸血鬼という趣向で、黒い笑いと「母」の苦悩に満ちたエンターテインメント。読書会の題材が犯罪ノンフィクションというのも良いし、作中に上がった書名を淡々と紐解いていく柳下毅一郎の解説もツボ。

     光文社からは東川篤哉『スクイッド荘の殺人』と芦辺拓『名探偵は誰だ』の二冊をピックアップ。前者は烏賊川市シリーズ13年ぶりの長編(!)であり、つまるところ、著者の長編刊行が13年ぶりということでもあります。ご本人のデビュー20周年にひっかけてか、20年前のバラバラ殺人の目撃情報から始まる話なのですが、過去と現在を繋ぐ因果の糸と、数々の「?」が「!」に変わる解決編に膝を打ちました。まさしく伏線と構図のクリーンヒット。東川印のユーモア・ミステリーを堪能しました。

     後者の『名探偵は誰だ』は、パット・マガーの名作『被害者を捜せ!』等や貫井徳郎の好短編集『被害者は誰?』などを彷彿とさせる「変則フーダニット」の短編集。「犯人でない人物」や「名刑事に捕まる人物」、「雪の山荘から生き残った人物」などを当てるというひねったシチュエーションも目を引きますが、そうしたフーダニットを可能とするための状況設定の部分が既に面白い。事件が起きていない段階からそれを未然に止めるという、私が大好きな趣向を盛り込んだ短編も。フーダニットなのはもちろんですが、この短編集は「本格ミステリーの『お約束』を裏側から覗き込む」作品集とも言えて、本格巧者の著者ならではの短編集だと思いました。――芦辺拓先生、第75回日本推理作家協会賞受賞おめでとうございます!

     ポプラ社から刊行の楠谷佑『ルームメイトと謎解きを』は、全寮制男子校で起きる殺人事件を解き明かす青春ミステリーで、青崎有吾による推薦帯にも注目。著者の趣味が大いに反映されているとみえる全寮制男子校の男子たちのキャラクター描写と、演出に注力した正統派ロジックの謎解きが心地よい。消去法推理って、やっぱりこうでないと。過去作も追いかけて行こうと思います。

     徳間書店からは〈トクマの特選!〉の一冊、梶龍雄『驚愕ミステリ大発掘コレクション1 龍神池の小さな死体』をピックアップ。私はこの作品、大学生以来5年ぶりの再読となるのですが、再読してみるとプロットの運び方の手つきがくっきり見えてきて、楽しめました。梶作品に関しては、帯やあらすじにも書かれた伏線の要素よりも、構図の驚きを与えてくれるのが好みだったりします。『清里高原殺人別荘』とか、『紅い蛾は死の予告』とかも復刊してほしいなあ。

     角川書店からは馳星周『月の王』を紹介。平井和正や半村良などを思わせる伝奇バイオレンスアクションに舌鼓。皇家から遣わされた謎の男VS蒋介石配下の「四天王」とか、激アツ青年漫画かよ。感涙必至の馬小説『黄金旅程』の次に、まさかこんなぶっ飛んだ作品が刊行されるとは、この多彩さには憧れます。また、これは再文庫化ですが、『煉獄の使徒』が角川文庫入りしたのを機に読んだところ、あまりの傑作だったので打ちのめされてしまいました。オウム真理教という「現実」を楔にして(作品内では新興宗教〈真マントラ言の法〉)、三人の男たちが転落していく破滅の様を描く――ノワールという文学形式は、こんなことまで出来るのか、と心の底から震えました。

     幻冬舎からは月村了衛『脱北航路』を。ある地点からある地点を目指す、というタイプの冒険小説として、これも幻冬舎文庫に収められている『土漠の花』と好対照をなす傑作でありながら(『土漠』ではソマリアの大地、今回は海。対照的な舞台を選択している点にも注目)、北朝鮮情勢を抉るポリティカル・フィクションとしても一級品です。しかし、冒険小説オタクの私は、心の中でこう叫びました――月村先生ッ! 海で潜水艦ってことは、今回はアリステア・マクリーンですかッ!?

     集英社からは岩井圭也『生者のポエトリー』と東野圭吾の『マスカレード・ゲーム』の二冊をピックアップ。前者は『文身』『水よ踊れ』『竜血の山』等々、近年一作追うごとに方向性を変えたエンターテインメントを展開してくれる作者の最新作。あまりに毎回面白いので無限の信頼を寄せているのですが、今回もまた方向性を変え、言葉・詩の力で世界とつながり、生きていく人々の群像劇を堪能。ラストシーンで思わず目頭が熱くなりました。

     後者はマスカレードシリーズの最新作。このシリーズは毎回、「次はホテル・コルテシアで殺人が起こるかもしれない!」というシチュエーションをまず形成するところに力点があると思うのですが、シリーズ最新刊の本作ではこの部分のドラマにこれまでで一番興奮させられました。魅力的でケレン味たっぷりの殺人の構図。「あの人物」が登場するシーンまでの、序盤~中盤の筆さばきには平伏してしまいます。

     新潮社からはライオネル・ホワイト『気狂いピエロ』を紹介。同名の映画の原作が60年の時を経て刊行(今の書店で見るとドキッとするこのタイトルは、映画に合わせたものですね)。キューブリックが監督、ジム・トンプソンが脚本を務めた傑作フィルム・ノワール『現金に体を張れ』の原作『逃走と死と』の作者でもあります。『気狂いピエロ』は酷薄に突き放したような筆致が大いにツボのノワールで、このファム・ファタール(運命の女)の描き方がいつまでも尾を引く。やっぱり私は矢口誠さんの翻訳が大好物ですねえ。充実の解説二本にも満足。新潮文庫の「海外名作発掘」シリーズにこれからも注目です。

     講談社からは国内と海外を一冊ずつ。国内は呉勝浩『爆弾』。著者の最高傑作がまた更新されたのは間違いなく、もうこのまま今年のミステリー・ランキングを席巻するのではというくらい面白い。中学生の頃、ドラマ「相棒」にハマり、西村京太郎の『華麗なる誘拐』とか、誉田哲也の諸作や雫井脩介の『犯人に告ぐ』にドハマりしていた時って、やはり「劇場型犯罪」が大好物だったからだと思うのです。派手で、次々事件が起こって、警察だけでなく一般の人まで翻弄されて、息つく暇もない、そんな作品。『爆弾』では久々にその興奮を思い出しました。もちろん現代式にアップデートされており、犯人が絶対的な自信家として現れるのではなく、とぼけた中年男として現れるのも面白いですし、中盤以降突き付けてくる「悪意」も非常に現代的で、心抉られるものになっています。三部構成になっているのですが、第一部の終わりで全身に鳥肌が立ってしまい、その後はまさに寝食を忘れて読んでしまったなあ……。

     講談社海外からはルシア・ベルリン『すべての月、すべての年 ルシア・ベルリン作品集』。彼女の短編を読んでいると、磨き抜かれた言葉によって、自分の感覚が広がっていくような気がするのです。なんだこの表現は、と立ち止まるたび、そういう刺激が訪れるのが心地よく、前作『掃除婦のための手引き書 ――ルシア・ベルリン作品集』は何度となく読み返しました。前作は文庫になっているので、「わたしの騎手」という2ページの作品をちょっと読んでもらいたい(講談社文庫はシュリンクがかかってるから難しいのか……書店によっては見本用に一冊開けてくれているところもありましたが……)。そんな大好きなルシア・ベルリン作品なので、『すべての月~』も当然堪能しているのですが、一編読むごとに「ああ、読み切るのがもったいない」という気分になり一旦本を置いてしまうので、実は読み切っていないのです。といってもう、「泣くなんて馬鹿」までの時点で今年のマイベスト短編集内定は間違いないので(19編中の13編目)、このタイミングで話をしてしまいました。

     扶桑社からは『レオ・ブルース短編全集』が刊行。未刊のタイプ原稿から直接邦訳した作品など、9編はなんと世界初紹介。全40編で400ページの文庫本で、平均して10ページくらいのパズル・ストーリーをテンポ良く味わえる。作中のビーフ警部のように、パブでビールを傾けながら味わうのにうってつけ。短めの短編なのは、初出が新聞のEvening Standard紙だったというのも大きいはずで、巻末の初出一覧を見ると、月一編、多い月は月二編書いているのにびっくり。確かエドマンド・クリスピンの短編も同紙が初出のものが多かったはずで、邦訳の『列車に御用心』や未訳の“Fen Country”も、同じように短く歯切れの良いパズル・ストーリーが多かった記憶があります。

    〇古典を読むということ

     さて最後は東京創元社から、キャプションにも使用させていただいた、レイモンド・チャンドラー『長い別れ』を。これをメインに持ってきたのは、初読の中学生の頃(清水俊二訳)、二回目の大学生の頃(村上春樹訳)と、全然面白さが分からなかったので、そのことを、恥を忍んで告白したい、という意図があってのことです。解説なども任されるようになった今の立場で、古典的名作にそんなことを言わないほうがいいのかもしれませんが、名作に対して「実は分からない」と表明している人がいることは、時に救いになることがあると経験上知っているので、あえて書いてみます。

     私が昔この本を好きでなかった理由は、マーロウの言動が肌に合わない、と思っていたのもありますが、ミステリー上のプロットにも原因がありました。この長編は、二つの長編のアイデアを、長編Aを①パートと②パートに分断し、間に長編Bを挟むことで、「長編A①パート/長編B/長編A②パート」と繋ぎ合わせただけと思っていました。それゆえにこんなに長くなり、そのせいで中盤、誰が何の話をしているか分かりづらく、中だるみがある。やや凡庸なプロットのBが、非常に謎解きミステリー的であるAを遠くに切り分けていることを、「長いお別れ」と言っているのではないかと勘繰っていたことも。

     ですが、今回田口俊樹訳の『長い別れ』を読み、ミステリーとしてのプロットをよりくっきりと味わうことが出来たことで、決してそれだけの作品ではなかったと分かったのです。解説の杉江松恋の言葉を借りれば、「AはAで完結した事象に見える。Bも同様である。だがAとBを突き合わせると違った見方ができるようになる」(『長い別れ』解説内、p.589)という狙いがあったと、訳文からはっきり読み取ることが出来ました。また、解説には、過去の訳が、原書で書かれた言葉の多義性をいかすために中性的な訳を選択していたことも指摘されていて、三者の比較の中で、「自分がいかにチャンドラーを読んできたか」すら謎解きされていく、非常にスリリングな読書でした。チャンドラーへの言及や解説、解読書なども色々読んできましたが、今回の解説には「ミステリーマニアが本当に知りたかったこと」が詰まっており、素晴らしいものでした。

     まさしく、ミステリーマニアの「痒い所に手が届く」訳文×解説のゴールデンコンビ。『長い別れ』を十数年越しに面白く読めて、大満足の四月なのでした。

    (2022年5月)

第37回2022.04.22
その足跡に思いを馳せて ~ミステリーファン必携の一冊~

  • 西村京太郎の推理世界、書影

    『西村京太郎の推理世界』
    (文春ムック)

  • 〇嬉しい短編掲載

     今月の雑誌では、〈紙魚の手帖 vol.4〉のロバート・ロプレスティ「シャンクスと鍵のかかった部屋」が素晴らしかった。『日曜の午後はミステリ作家とお茶を』で颯爽と登場した作家、ロプレスティの新作です。作品の特徴は、とにかく軽快で楽しい会話劇と、巧みにカリカチュアしながらもちょっとした毒を滲ませた「作家界隈」の描写と(それも、毒で胸やけしたりしない、思わずクスッとくるような塩梅なのだ)、しっかりとした謎解き。今回も冒頭からニヤニヤさせられました、サイン会あるある。やっぱり雑誌を読んで海外短編が読めると嬉しいですねえ。そろそろ海外のミステリー短編集も強いのが読みたい……と思った矢先に出たのが、ジェフリー・ディーヴァー『フルスロットル トラブル・イン・マインドⅠ』(文春文庫)で、これも実に良いのですが、これは原書の短編集を二分冊したうちの一冊目なので、来月『Ⅱ』が出た時にまとめてお話ししましょう。

     同誌では北山猛邦「神の光」も、エラリー・クイーン「神の灯」に引っ掛けたと思われる、「あるものの消失」を扱った作品で、一読忘れ難いトリックの傑作でした。冒頭は「賭け」にまつわる導入だったのに、いよいよ事件が起こるに至って、とんでもないスケールになってくるという。北山短編だと「一九四一年のモーゼル」と「廃線上のアリア」が好きなのですが、それに匹敵するくらい好きですねえ。本格ファンは必読です。また、櫻田智也の「赤の追憶」も、泡坂妻夫の「赤の追想」もしくは「赤の讃歌」に引っ掛けたようなタイトルでニヤリとさせられました。今回もさすがの一編で、次の作品集を読むのが楽しみです。

    〇汲めども尽きないその世界

     雑誌は時代を映す鏡であってほしい、と常々思っています。そんなに大げさな意味ではなく、例えば昔の「ミステリマガジン」や「エラリイ・クイーンズ・ミステリ・マガジン」を読んでいると、それが目当てで手に取った好きな作家の短編とは別に、コラムやらエッセイやら書評から、当時の本の「読まれ方」が見えてくるような気がしてくる。そんな体験のことを指しています。

     だからこそ、『西村京太郎の推理世界』には感動しました。没後わずか一ヶ月で作られたとは思えないほど充実した内容で、しかも「オール讀物傑作選」と題された短編五本は、まるで西村京太郎の傑作短編集のよう(文中では敬称略にて失礼いたします。この後も次々ビッグネームが登場しますが……)。貴重な対談なども数多く収録されていて、特に、山村美紗が後頭部を殴られて逆行性健忘性になったという衝撃の事実が語られる対談「事実は推理小説より奇なり」と、唐突に文中に登場したジェイムズ・エルロイの行動がやけに印象に残ってしまう「ミステリー界の巨人たち」(佐野洋、三好徹との鼎談で、しかも司会が大沢在昌!)が面白かった。

     また、ここに「目次で読む『オール讀物』と推理小説の90年」が再録されているのが素晴らしい。これは北村薫、戸川安宣、北上次郎というメンバーで、「オール讀物」の目次を90年分読んで、そこから時代ごとのミステリーシーンを切り取っていくという、何度読んでも面白い最高の企画です。2021年7月号掲載なので、さすがに記憶には新しかったのですが、なぜここでこれを再録するかというと、その答えは冒頭の赤川次郎による追悼エッセイ、そして赤川次郎と西村京太郎の対談「ミステリーを書き続ける幸せ」にあるんですね。そこで西村京太郎は、「僕は『オール讀物』と同い年」(p.8)と述べていると。つまり、『オール讀物』を語ることは、そのまま西村京太郎を語ることなんだ、という意味合いで編集部はこの記事を再録したのではないか……と思って泣いていました。ちなみにこの企画は何度読んでも良いので、今回も熱にあてられて、文中に出てくる、結城昌治「森の石松が殺された夜」と都筑道夫「森の石松」の読み比べをしてしまいました。

     閑話休題。絶筆『SL「やまぐち」号殺人事件』における列車消失トリックの図面や、生涯647冊の全リストなど、まさに、必携ともいえる一冊です。個人的には、デビュー短編「歪んだ朝」を再読しつつ、有馬頼義、高木彬光、水上勉、松本清張という豪華メンバーによる選評まで読めて満足感が高かったです(松本清張が結構辛くて、西村京太郎の 『赤い帆船(クルーザー)』に松本清張の「火と汐」のトリックの話が出てくることに違う文脈が生じてしまって面白い)。西村京太郎その人とその作品に思いを馳せる、大切な時間になりました。

    〇「私の愛する西村作品ベスト5」

     さて、ここで話は終わらず――今回は、同ムック収録の綾辻行人×有栖川有栖「僕らの愛する西村作品ベスト5」の対談にならって、私も西村京太郎作品のベスト5についてお話しさせていただこうと思いました。この連載も一年以上続いているので、メインが雑誌・ムックの回があってもいいでしょう。

     綾辻・有栖川の両氏によるベスト5はぜひ本誌で確認していただくとして、私は、両氏が選んだ作品を外して、ベストを選んでみようと思います。両氏が選んだ作品には重複があり、全七作品。どれもこれも傑作なのでこのあたりを外すとちょっと選ぶのが難しいのですが、後追いでやるのでこれくらいはするべきでしょう。ベストって人が選んでいるのを見るとなんか自分もやりたくなりますよね……。

     ではいきます。

    ・『消えたタンカー』
     私、実は「海」を書いている時の西村京太郎作品に目がないのです。『赤い帆船』は容疑者が日本―タヒチ間のヨットレースの最中、という壮大なアリバイトリックを用意した海洋ミステリーの傑作ですし(中盤の推理シーンがいいんだよなあ)、短編「南神威島」や『幻奇島』などの孤島もの……。そしてこの『消えたタンカー』は、巨大タンカーが炎上沈没し、乗組員六名が救出されるが、残り二十六名は生死不明……という状況下で、更なる連続殺人が起こる作品で、タンカーの知識を交えながら展開される中盤の検討パートと、終盤のフーダニットがたまらない私的マスターピース。

    ・『殺人者はオーロラを見た』
     これを挙げたのはやはりタイトルが素晴らしいのと、結構珍しい、アイヌが題材のミステリーだから。西村作品が社会派の題材を扱う時に出てくる熱さを味わうことが出来ると同時に、初期作品ならではのスケールの大きさも味わうことが出来る逸品です。西村作品で好きなタイトルは、これと『おれたちはブルースしか歌わない』がツートップ。後者は青春本格の良作で、「読者への挑戦状」もついてますよ。たまらなく好き。

    ・『札幌着23時25分』
     トラベル・ミステリーからはこれを。全作品リストを読む限り、私の西村作品読書は90年代から2010年代までがすっぽり抜けてなかなか読めておりませんので、あくまで自分が読んだ中で好きなものを。本書が好きなのは、「十津川警部が時刻表トリックを使う作品だから」。とある証人を札幌に送り届けるために交通機関を利用しないといけないのですが、飛行機は欠航、証人を殺すために刺客も送り込まれている、という状況なので、十津川は刺客の裏をかくためにトリックを弄する必要があるのです。ねじれた倒叙ものと言うべきか、犯人と警察による頭脳戦というべきか、一風変わった趣向のサスペンスでお気に入り。

    ・『一千万人誘拐計画』
     短編集からも一冊。『南神威島』や『カードの城』なども捨てがたいのですが、思い出もありこちらを。本書との出会いは、中学生の時、『法月綸太郎の本格ミステリ・アンソロジー』で、短編「白い殉教者」を読んだこと。いわゆる雪の密室もので、それまでテレビでやっているトラベル・ミステリーの二時間サスペンスしか見てこなかったので、こういう本格ものも書くのか、と感動したのを覚えています。その体験が、ここに挙げたような西村京太郎作品をどんどん読み始めるキッカケになりました。また「一千万人誘拐計画」は『華麗なる誘拐』を濃縮して味わいたいときに愛用しています。『盗まれた都市』とか、壮大な西村ミステリーが好きなんですよねえ。

    ・『石北本線 殺人の記録』
     最近のものからも一冊。これも思い出補正がかかっているかもしれませんが、ミステリー系の特集で「オール讀物」をチェックしていた時に、なんとはなしに連載を読んでみたら、直球のコロナ・ミステリーだったことに驚いてしまったのです。容疑者にコロナ感染疑惑があるので、十津川警部がPCR検査を受けさせられるという(息の長いシリーズキャラクターは、こうやって文字にするだけで面白いことをさせられるので面白いですよね……)。おまけに、主人公の男はバブルの時代からコールドスリープさせられているという設定で、よりにもよって二〇二〇年の二月に目覚めてしまうわけですが、このあたりの発想にも驚かされます。この男が主人公となり、眠っている間に姿を消した男を追いかけていく……というのが大まかな筋なのですが、そこに隠された構図は、まさに初期作の壮大なスケールを思わせます。まさに、生涯現役、という作品で、連載を追いながら感動していたので挙げました。

     ということで、綾辻・有栖川両氏のベストをあえて外して、五作挙げてみました。ちなみに、被ってもいい、というルールで選ぶと――『消えたタンカー』『殺人者はオーロラを見た』は残し、あとは被りますが『七人の証人』『ミステリー列車が消えた』『名探偵が多すぎる』でしょうか。『七人の証人』はアクロバティックな状況設定からして最高の本格ミステリー(最近復刊されたので手に取りやすいはず。必読)、『ミステリー~』は「消失の西村」の中でもひときわ面白いサスペンス、『名探偵が多すぎる』は……私が船上ミステリーを嫌いなわけないじゃないですか……一読忘れ難い密室トリックが好きよ……あと……「名探偵最後の事件」フェチなので『名探偵に乾杯』も……。

     汲めども尽きぬその作品世界。西村京太郎先生にあらためて哀悼の意を表し、『西村京太郎の推理世界』に対する日記の締めくくりとさせていただきます。

    (2022年4月)

第36回2022.04.08
心に残る犯人 〜未解決事件四部作、いよいよ好調!〜

  • ヨルン・リーエル・ホルスト、書影

    ヨルン・リーエル・ホルスト
    『警部ヴィスティング 悪意』
    (小学館文庫)

  • ◯まさかアレが本当に出るとは……

     去る三月、ジョエル・ディケール『ゴールドマン家の悲劇』(上下巻、創元推理文庫)が刊行されました。これがまず驚き。というのも、同作者の邦訳一作目『ハリー・クバート事件』(上下巻、創元推理文庫)は、私が大学二年生の時に出た本で、まさか二作目が出ると思っていなかったからです。ディケールがそもそも文学畑の人、という情報を見ていただけに、本当に書いたのか、と……。

     大学二年生の時、サークルの部室でちょっとした論争が巻き起こっていたのを覚えています。『ハリー・クバート事件』のどんでん返しやその是非について、賛否が真っ二つ分かれていたのです。当時の私は、年に海外新刊を十冊読んでいればいい方、というくらいで、『ハリー~』は刊行当時、四六判の上下巻だったので、読まずに済ませてしまっていたのですが……(それが今では、上下巻を二冊とカウントすれば、月に海外新刊を十冊は読んでいる時もザラにあるのだから、どうかしている)。

     で、今回、せっかく新刊が出るのだからと、二月に『ハリー・クバート事件』を開いてみたのです。そしたら……えっ、えっ、えっ、なんじゃこの超絶面白ミステリーは……。

     そもそも、私は師弟関係とか、師匠が弟子に贈るレッスンみたいな話が大好きなので……そこにユーモアが入っていればなおさらで……なので、章ごとの冒頭に掲げられた作家二人、ハリー・クバートとマーカス・ゴールドマンのやりとりだけでシビれまくってしまうんですよねえ。二作目が書けずにどん詰まってる作家(これはゴールドマン)という造形に妙にシンパシーを覚えるのもあるかもしれません。

     そこに、師であると同時に、何よりも大切な友であるハリーの汚名をそそぐ、という激アツな物語が乗っかるわけですから、これはもうたまらない。しかも切り込むのは町の小コミュニティという。私の好きなミステリーを全部詰めた夢の作品か? 登場人物全員どこか露悪的なのも非常に良い。お騒がせな販売戦略にノリノリの編集者とか大いにツボです。

     上下巻なのに本当に一瞬で読み切ってしまいました。そりゃまあ、あの時サークルで否定派の人が言っていた、伏線の足りなさとか、どんでん返しの是非とかも気持ちは分かるんですが、それでもこれだけやってくれたら私は大満足なんです。

     という期待感の中迎えた今回の新刊、『ゴールドマン家の悲劇』。これがまたなんとも、前作から人が変わったようにシリアスな仕上がりで、なかなか読ませるのです。四つの家族を巡る悲劇の物語で、ミステリーとしての事件や結構が分かるのにやや時間はかかるのですが、瑞々しい青春小説として完成度が高いのでぐいぐい読んでいけます。『ハリー・クバート事件』がエンターテインメントに振り切ったミステリーだとすると、今回はディケールの文学畑らしい一面が覗いた作品と言えるかもしれません。物語の閉じ方が、実にいいんですよねえ。

    ◯未解決事件四部作も、三作目まできたか……

     私は嬉しい……嬉しいよ……ヨルン・リーエル・ホルストの新作がまた読めて……。

     年一冊ベースで刊行が続いている、小学館文庫のホルスト〈未解決事件四部作(コールドケース・カルテット〉シリーズ。一昨年の『カタリーナ・コード』、昨年の『鍵穴』に続いて、今回の新刊は『警部ヴィスティング 悪意』。『鍵穴』についてはこの連載の第13回で取り上げていて、早川書房から刊行の『猟犬』を含めて、〈警部ヴィスティング〉シリーズの話をまとめていますのであわせて参考にしてください。

     第13回で私は、このシリーズが、主人公である警部ヴィスティングが、静かに犯人の心を見つめることに特徴があると指摘しながら、『鍵穴』では「動」を強調し、エンタメ寄りのプレゼンになってきていると述べています。この流れで言うと、最新刊の『悪意』は……いよいよ、「動」全開。まさかまさか、ここまで楽しませてくれるエンターテインメント作品になってくるとは。しかも、ホルストの作品の良さは違う形で残っているという。これは感動しました。

     あらすじはこうです。5年前、二人の女性の殺害で収監された犯人トム・ケルが、三番目の殺人を告白する。その死体を埋めた場所を教える代わりに、世界一人道的と言われる、別の刑務所に身柄を移してくれ、というわけだ。ヴィスティングを含める面々が警戒体制をしくなか、犯人は現場に降り立った。しかし、一瞬の隙を見て、犯人は走り出して逃走、追いかけた警官を手榴弾が襲った……。

     どうですか。完全に現在進行形の事件なのです。『カタリーナ・コード』では24年前の殺人事件を扱い、ひたすら「対話」、「静」にこだわってきた本シリーズが、いよいよ「動」に全振りしてきたわけです。逃げた男を追跡する捜査行に加え、男の共犯者「アザー・ワン」探しというフーダニットの要素が加わってきます(追いかける敵に「二つ名」みたいなのがついているとやたらと興奮するのは、やっぱり漫画『金田一少年の事件簿』が好きだからでしょうか)。

     5年前の時点から、その存在が疑われてきたトムの共犯者。その人物の手引きがなければ、このような逃亡事件を起こすことは不可能だったに違いない、という話の流れですね。現在進行形の事件であることが、過去の事件を解く鍵になっているとも言えます。5年前の事件が、音を立てて動き出す……このダイナミズムが読ませます。

     そしてこのフーダニットが……たまらないんだよなぁ〜! いいフーダニットが何を指すかには色々あると思っていて、それはいい伏線だったり、一発で絞り込む鮮やかなロジックだったり、隠し方だったりしますが、今回感心したのは、描写のうまさでした。犯人の人物像の提示の仕方、書き方が上手い。ここで鍵になってくるのが、第13回のまとめで述べた「心」を見つめる警察小説、という部分で、『カタリーナ・コード』ではヴィスティングが犯人の心に迫るその過程を、150ページかけて丹念に描き、手探りで暴き出す過程を重視してきたわけですし、『鍵穴』では事件のジグソーパズルを組み立てるうち、その部分はそう解釈するとピースが合う、というように、唐突に動機が現れて来るところにミソがありました。今回はどうかと言えば、ぼかしていうと、映画のワンカットだけで動機を切り取って容赦なく叩きつける、というような演出になっていて、これがとんでもなく上手い。今回は、読み解こう、理解しよう、というベクトルではなく、ただ「絵」で見せてしまうのです。それゆえに、動機に説得力が生まれるとも言えます。

     犯人の動機を見つめる、という部分をカリカチュアして、さらにそれがフーダニットとしての精妙さと表裏一体になっている。私はここに感動しましたし、久しぶりにいいフーダニットを読めた、という満足感がありました。伏線の隠し方も堂々としていて好みです。

     共犯者からの手紙とか、物証の追いかけ方も、それぞれのオチの付け方も、全部いいんですよねえ。ディティールが良い。ますます楽しみになってきた〈未解決事件四部作〉。ここまできたら四作目も超読みたいし、四部作以外にもどんどん出してくれてもいいのよ……。

    (2022年4月)

第35回2022.03.25
悪魔的なほど面白い、盛りだくさんの超本格ミステリー! ~我が生き別れの、イギリスのお兄ちゃん……(嘘)~

  • スチュアート・タートン、書影

    スチュアート・タートン
    『名探偵と海の悪魔』
    (文藝春秋)

  • 〇ミステリー書きの新たなるバイブル

     2月の話題になってしまうのですが、『サスペンス小説の書き方 パトリシア・ハイスミスの創作講座』(フィルムアート社)が刊行されました。本国では60年以上、指南書として親しまれている一冊。サイトなどで本の存在自体は知っていたのですが、邦訳されて読める日が来るとは。3月にはあの傑作『水の墓碑銘』(河出文庫)が映画化のために復刊しましたし、ハイスミスファンとして嬉しい限り。

     そんなわけで楽しみに開いた本書。冒頭から、なぜこの本が60年以上も親しまれ続けているか分かる気がしました。ただの「ハウツー」本ではなく、ハイスミスの「声」が横溢するような一冊だったからです。特に感動したのは「序」にある本書の姿勢。

    “多くの駆け出しの作家が、著名な作家は成功の方程式を持っていると考えている。本書はとりわけそうした考えを一掃する。執筆に成功の秘密はなく、あるのはただ個別性だけだ――それを個性と呼んでもいい。そして、一人ひとりみな異なっているのだから、周囲の人間との違いは、その個別の人間が表現するしかない。私が魂の解放と呼ぶものである。といってもそれは、神秘的なものではない。それはただ、ある種の自由――整えられた自由なのだ。”(『サスペンス小説の書き方』、p.9)

     本書には、その言葉通り、ハイスミスという作家の「個性」の話が淡々と語られています。私はこの考え方にグッときてしまうんですよねえ。逆に言うと、自分の成功に気をよくして、「方程式」を語り出すタイプの人はそれだけで敬遠してしまうのです。ハイスミスは「ハウツー」や「方程式」にはこだわらず、ただただ自分の「声」だけで、自らの個別性をここに残そうとしていた。そう感じさせる本でした。中でも、一章まるまる使って、自作である『ガラスの独房』を解説してくれるところに興味津々。1950~1960年代の『エラリイ・クイーンズ・ミステリ・マガジン』に惹かれる私にとっては、コーネル・ウールリッチやヴィンセント・スターレットなどの短編小説への言及にもニヤリとくるところ。

     ハイスミスのファンには特に読み応え満載ですが、何よりも悩める創作者は、ぜひとも一冊持っておくべき本です。オススメ。ちなみに私が一番好きなハイスミスは『愛しすぎた男』です。最悪なので……。

    〇全編面白い本格ミステリー、小説の魅力を満載した傑作現る!

     さて、2月刊行にして、早くも、年間ベストに匹敵するような大傑作が現れてしまいました。それこそが、スチュアート・タートン『名探偵と海の悪魔』(文藝春秋)です。

     前作『イヴリン嬢は七回殺される』(文藝春秋)では、タイムリープと人格転移ミステリーを掛け合わせた、ギミック満載のミステリーで驚かせてくれたスチュアート・タートン。同じ一日を幾つもの視点(人格)を行き来しながら体験することで、イヴリン嬢が撃ち殺される事件の謎を解き明かす、という結構はまさにノベルゲームの本格ミステリーそのもので、フラグ管理をするようにエクセルに時間割表を打ち出しながら読み進めるのが妙に楽しかったのを覚えています。

     しかし、『イヴリン嬢は七回殺される』の凄いところは、そうしたギミック満載の外装の中身となっている、「カントリーハウスでの殺人事件」のアイディアについては、超端正な本格ミステリーたりえているところです。特に、シンプルな錯誤によって事件の構図を読み替えてしまうところなどは、巧いッ! と唸らされてしまいました(それだけに、外装の異様さと、多重どんでん返しがもたらすアンバランスさに驚いてしまうわけですが)。アガサ・クリスティーの『ホロー荘の殺人』では、プールの周りで血を流して倒れている男と、その傍らに拳銃を持って立つ女、という情景が、何度となくポワロの脳裏でフラッシュバックし、繰り返され、再解釈を積み重ねていくわけですが、私見では、『イヴリン嬢』の殺人事件の真相の部分は、プールや拳銃という小道具の類似性も含めて、『ホロー荘』に匹敵する巧さを具えていたと思います。

     そうした、ジャンルを横断して積載された趣向の多様性や、盛り込みすぎと言えるまでのネタの多さを指してのことか――新刊である『名探偵と海の悪魔』の発売が文藝春秋のツイッターで告知されると、こんな言葉が目に飛び込んできました。評論家である千街晶之による、“「イギリスの阿津川辰海」みたいな作家なのでは”(2021/11/5)という言葉です。

     その瞬間から、妙に面白くなってしまって、私はこのスチュアート・タートンが、イギリスの、生き別れた兄なのではないか、というような気分になって来たのです。もちろん書きぶりもスタイルも全然違うし、本国での売れ方を見れば私がそう思うのさえおこがましいのですが、私の大好きな彼の国に、私と似ていると評してもらえるような本格ミステリー作家がいるということが、やはり嬉しかったのです。

     で――そんな期待の中迎えた、『名探偵と海の悪魔』ですが、これが、とんでもなく面白かった。身内の(だから、身内じゃないって言ってるでしょ)ひいきを差し引いても、これほどサービス精神に満ち溢れた傑作はないのではないでしょうか。

     あらすじはこうです。17世紀、バタヴィアからオランダへ向かう帆船が出航する直前、包帯に包まれた怪人が炎上して死を遂げる。彼は死の直前、「この船は呪われている」という謎めいた言葉を遺した。この船で、一体何が蠢いているのか? この謎に挑むのは、「罪人名探偵」サミー・ピップスと、そのバディである大男、アレント・ヘイズのコンビ。それも、罪人として囚われているサミーは表向きに捜査が出来ないので、アレントが一人奮闘する、という趣向。ここに、総督の妻サラや愛人クレーシェといった、当時の根強い女性差別により、そもそも船の中で探偵行為を行うのを大いに反対されてしまうメンバーが加わり、これら名探偵と素人探偵の団結によって、船を襲う「呪い」に挑むことになる……。

     読み始めてすぐ、最高、と口に出してしまいました。何より驚かされるのは、理想化されたイメージを排除し、当時の社会の硬直的な身分制度や、帆船の中の強烈な縦社会をしっかりと再現し、むせかえるような臭いがするほどにしっかりと当時の海の旅を描写してくれることです。これが実にいい。エリス・ピーターズの〈修道士カドフェル〉シリーズとか、米澤穂信の『折れた竜骨』を読むような楽しみがここにあります。当時の歴史状況などを頭に入れてから読みたい人がいたら、マイク・ダッシュ『難破船バタヴィア号の惨劇』(アスペクト)などが迫力満点のノンフィクションでオススメですが、そうした事前準備などしなくても、異国感満載の描写を味わいながら読むことが出来るでしょう。

     こうした描写のうまさに、魅力満点のキャラクターたちが乗ってくるのですから、もうこれは興奮せざるを得ません。今回特に興奮したのは、「罪人名探偵」サミー・ピップスの造形です。謎解きにしか興味がないという設定や、往年のシャーロック・ホームズを思わせるような推理のプレゼンテーションのうまさ、「熊と雀」と称されるほどの、ワトソン役アレントとの体型のアンバランスさ……何より、アレントがサミーを探偵としてなぜ信ずるか、という信仰の核心を明かすエピソードが途中にさらっと描かれるんですが、そのクサいまでの格好良さ。いい……めっちゃくちゃいい。前回の『イヴリン嬢は七回殺される』というのは、どれだけ魅力的なキャラメイクでも、それが一人称の「私」のアバターに過ぎない……つまり、ゲームに例えるなら、「私」が使える「スキン」に過ぎないというところに、本格としての面白さと、小説としての面白さの限界が表裏一体で染みついていたわけですが、今回はもう全開です。スチュアート・タートンという作家が、全てをエンタメに振り切った時に、これほど魅力的なドラマが生じるのかと、感嘆する思いでした。

     さらに、総督の妻・サラも素晴らしい。本作で描かれる帆船の上は、これまでの海洋ミステリーが描いてきた「船の旅」とはまるで色合いが違っています。例えば『ナイルに死す』のようなきらびやかな観光旅行ではなく、17世紀、死と隣り合わせの旅なのです。船員たちには独特の社会があり、中央のメインマストの前と後ろで、船員用区画と客室用区画は明確に分かたれています(正確には、高級船員区画は別)。この区画を超えてしまったなら、互いに何をされても文句は言えないのです。これほど硬直的な船の社会構造に、17世紀当時の、強力な女性差別がのっかってきます。そんな硬直的な社会に力強いNo!を発するように、サラは謎解きに乗り出していくのです。

     この瞬間のみずみずしい感動! 私は、この感動を描いてきた作家の名前を一人、知っています。フランシス・ハーディングです。彼女が『嘘の木』で描いた19世紀イギリスの少女・フェイスの姿に、本書のサラの姿も重なって来たのです(『嘘の木』も5月には文庫化する模様。全員読んで欲しい)。エンターテイメントとしてのアツさと、謎解きの興奮が同居した構成に、またしても喝采を上げてしまいます。

     ミステリー部分はどうかというと、これもまた、極上。ここだけ書いても絶対に真相は分からないので書きますが、私がまず、嬉しすぎて興奮してしまったのは、本書11章(p.65)の描写です。クリスティー『ナイルに死す』の核心とはなんだったでしょうか? 船上のゴージャスなミステリー。それもあります。ミステリーの歴史で語り継がれるシンプルかつ強力無比なメイントリック。それもあります。ですが、私にとって『ナイルに死す』とは、「誰もがそれぞれの思惑を秘めて船に乗り込んでいるというスリル、それが一枚一枚剥がされていく謎解きの妙味」なのです。私は、なんならメイントリックそのものよりも、殺人が起こるまでの250ページと、ポワロが次々容疑者を呼び出して尋問するシーンの連打の方が好きだったりします。件の第11章は、本書の怪奇小説、事件としてのキモである悪魔「トム翁」の印が帆に描かれており、それを各登場人物たちが見ている、という描写なのです。帆の印を見た人物たちは、それぞれに、意味深な反応を示します。私はこの描写に辿り着いた時、「あっ!」と声を上げました。ここには、私が『ナイルに死す』に――優れた船上ミステリーに求めてやまなかった、あのスリルが確かに存在する!

     そして、その期待は一切裏切られませんでした。不可能犯罪あり、怪奇小説満点の妙味あり(特に、七隻しか帆船がないのに、夜の海に「第八の角灯」の灯が浮かぶという、ヴィクトリア朝の怪奇小説はだしの演出がサイコーだ!)、名探偵と彼に憧れる素人探偵たちの推理行ありと、盛りだくさんのネタの一つ一つに、驚かされ、唸らされ、唖然とさせられました。あえてクリスティーに引っ掛けて言うならば、『イヴリン嬢は七回殺される』は「様々なギミックを掛け合わせて魔改造された『ホロー荘の殺人』」、本書『名探偵と海の悪魔』は「歴史ミステリーの文脈を導入することで、新しい衣を得た『ナイルに死す』」と称することが出来るかもしれません。全ページ、楽しくて、楽しくて、仕方ない。中盤のピンチも、終盤のチェンジ・オブ・ペースも、全てが「読書」の愉しみに繋がっている、そんな傑作でした。

     それにしても、スチュアート・タートンの作品は装丁も素晴らしく、カバーを外したところにある帆船の断面図がまたいいんですよね……私、海は怖いし、船も苦手なのですが、昔から海洋ミステリーについている船の図面だけには目がないんですよ。船ってなんでこんなに見ていて楽しいんでしょうね。

    (2022年3月)

第34回2022.03.11
引き裂かれたアイデンティティー ~歴史ミステリーの雄、快調のクリーンヒット~

  • アビール・ムカジー、書影

    アビール・ムカジー
    『阿片窟の死』
    (ハヤカワ・ポケット・ミステリー)

  • 〇新雑誌にて

     月をまたいでしまいましたが、実業之日本社のムック「THE FORWARD Vol.2」において、新作〈九十九ヶ丘高校シリーズ〉を始めました。掲載されている記事の幅広さに驚いています。私の作品については、気の長い不定期掲載として企画を出したものなので、続きは気長に待っていてください、という感じです。

     第一話は「RUN! ラーメン RUN!」という陽気なタイトルで、昼休み時間の校外外出を校則で禁止されているところ、昼休みにラーメンを食いに行く「完全犯罪」に挑む二人の男子高校生のお話です。古畑・コロンボにあやかった倒叙ミステリー式の短編に仕上げてみました。なぜ昼休みを舞台にしたかというと、放課後ばかりが主役になる青春ミステリー・学園ミステリーにおいて、青崎有吾が『早朝始発の殺風景』(集英社文庫)で早朝の青春ミステリーを繰り出してきたのが嬉しくて、それなら自分は昼休みだ! と思い立ったということ。ちなみに、タイトルの元ネタは、はやみねかおるの『都会まちのトム&ソーヤ』(YA! ENTERTAINMENT)の第二巻のサブタイトル『乱! RUN! ラン!』のもじり。第二話あたりで気付く人がいるかな、と思っていたのですが、友人には早々にバレていたので書いてしまおう。

     特段、シリーズキャラクターがいるというわけでもなく、とりあえず〈九十九ヶ丘高校〉を舞台にしたミステリーをやろう、という緩いところから始まったシリーズです。まあ、気長に見守ってやってください。

    〇インドミステリーの新作が待ちきれない!

     さて、今回取り上げるのはポケミスの新刊、アビール・ムカジーの『阿片窟の死』(ハヤカワ・ポケット・ミステリー)。1910年代末~1920年代の、イギリスによる植民地支配を受けるインドを舞台に、英国人警部ウィンダムと、インド人の部長刑事バネルジーのコンビの活躍を描くシリーズの第三作になります。

     第一作『カルカッタの殺人』は、政府高官のイギリス人が殺害された事件の捜査から、当時のインドの状況が浮かび上がってくるという結構のミステリー。ただ、ここでは現代エンタメとしての骨格が秀ですぎるあまり、歴史ミステリーとしてのアンバランスさが際立っているような気がしていました。植民地支配に批判的でありながら、かといって、自身もベンガルの人たちに対する差別意識がナチュラルに出てしまうところもあり、いわば、現代と歴史との狭間、英国人とインド人の狭間で引き裂かれているウィンダムの不安定さが目立っているのです。「引き裂かれたアイデンティティー」という主題は、最近だとヴィエト・タン・ウェンの『シンパサイザー』(ハヤカワ・ミステリ文庫)、『革命と献身 シンパサイザーⅡ』(早川書房)というスパイ小説でも現れていて、これはムカジーやウェンの出自にも関連しているのかもしれません。

     このウィンダムの不安定さが――というところは、第三作の紹介のくだりに譲るとしましょう。ここではまず、第二作のことから。

     第二作『マハラジャの葬列』は、一言で言えば「ゴージャスなミステリー」というべき逸品です。1920年のカルカッタで、藩王国サンバルプールの王太子が暗殺される……という発端からしてスケールが大きいですが、第二作の特徴は、この藩王国にウィンダム&バネルジーのコンビが二人だけで乗り込んでいって、孤立無援の捜査行を強いられること(ここにきて、ウィンダムの「個」がより強調されていくことになります)。独特の倫理観、慣習、そして人々の陰謀が渦巻く宮廷の描写に、「これぞ歴史ミステリーの面白さだ!」と嬉しくなりました。サンバルプールに向かうまでの、事件の矛盾点を丹念に拾い上げていくウィンダムの推理もツボを押さえていて面白いのです。

     そして来る第三作『阿片窟の死』。実のところ、『カルカッタの殺人』を読んだ時に、原書のあらすじを読んでいたのですが、この『阿片窟』が一番面白そうだと感じていたのです。冒頭はこうです。

     ウィンダムには阿片を嗜む悪癖がある。いつも通り、阿片窟で恍惚に浸っていた時、警察の手入れが入った。命からがら逃げるウィンダムだが、その途中で、両目を抉られ、腹を刺された男が現れ、目の前で絶命する。翌日、その死体の目撃情報はなかった。あれは阿片が見せた幻だったのか? しかし、同様の殺され方をした死体が別の場所で発見される。この事件が連続殺人であることを指摘できるのはウィンダムしかいない。しかも、それをバネルジーにさえ相談できないのだ……。

     そう、つまり本作では、引き裂かれたアイデンティティーを持つウィンダムという男のありようが問われるプロットになっているのです。

    “クリスマスはともかく、この街に対しては徐々になじんできつつある。それはカルカッタが同じように欠陥だらけで、機能不全に陥っているという事実と関係しているのかもしれない。悪臭を放つベンガルの湿地のまんなかにつくられた街。そこでは、はみだし者たちがもがき苦しみ、なんとか生き延びるために捨て身で闘っている。”(本書、p.24)

     作中に印象的に登場する小道具に、止まってしまったウィンダムの腕時計があります。死んだ父親の唯一の形見であり、イギリスのハットン・ガーデンの時計技師でも直せなかったというその時計は、イギリスとインド、その二つの間で引き裂かれ、半ば壊れてしまったウィンダムという男の心象風景でもあるのかもしれません。しかし、壊れた時計でも、日に二回は正しい時刻を指すといいます。『阿片窟の死』の終盤、事件の構図を見抜きながら、犯人を求めて奔走するウィンダムが遂に放つある一言――この事件に対するスタンス、この国の人々に対するスタンスを表明するある一言が、とても力強く、そして清冽に感じられるのは、引き裂かれた男・ウィンダムの道行をここまで追いかけてきたからでしょう。

    『阿片窟の死』では、第一作『カルカッタの殺人』で試みた、「現代エンタメの骨法で歴史ミステリーを描く」という趣向が完全に成功したと言えるのではないでしょうか。『カルカッタ』では現代エンタメの荷が勝ちすぎ、『マハラジャ』では歴史ミステリーとしての魅力が全体を塗りつぶしてしまったところですが、『阿片窟』では、現代エンタメと歴史ミステリー、この二つの方向性が目指した地点が、完全に同じ地点になっているのが見事です。続発する事件の裏に隠された構図が明らかになる瞬間の驚きと戦慄には、思わず膝を打ってしまいました。

     一作ごとに、「なかなか目を離しがたい」と追いかけてきたシリーズでしたが、『阿片窟の死』をもって、本作はいよいよ目が離せない現代エンタメシリーズになってきた、と思います。続刊がとても楽しみ。

    (2022年3月)

第33回2022.02.25
児童ミステリーが読みたい! ~あるいは、私を育てた作家たちのこと~

  • エミリー・ロッダ、書影

    エミリー・ロッダ
    『彼の名はウォルター』
    (あすなろ書房)

  • 〇名アンソロジー誕生!

     汐文社から刊行の「絶対名作! 十代のためのベスト・ショート・ミステリー」シリーズ、全四巻が今月で完結。千街晶之によるセレクトと解説付きで、現代のミステリー作家たちの作品を十代の人にも読んでもらおう、という趣向の本となっています。ミステリーの世界に優しくガイドするような千街解説の語り口も魅力の一つです。図書館や図書室での購入を想定している本のようなので、十代の人がもしこの記事を読んでいたら、探してみてください。

     その第四巻「涙と笑いのミステリー」には、宮部みゆき「サボテンの花」、光原百合「橋を渡るとき」と並んで、拙作「六人の熱狂する日本人」が収録されています。昔から大好きな二人と並ぶことになって恐縮している上に、もしかして、笑いは私一人で担っているのだろうか? とビビっていますが、手に取る機会がありましたら、ぜひ。光原作品はまさしく十代の頃に読んで欲しいので、これを気に入ったら『時計を忘れて森へいこう』『十八の夏』などなど読んでもらいたいですし、宮部みゆき作品は私をここまでミステリー好きに染め上げた最初の入り口なので(東野圭吾、宮部みゆき、伊坂幸太郎が私にとって「初」ミステリーの御三家です)、汲めども尽きないあの世界に一緒に飛び込んで欲しいです。私が好きなのは『理由』『スナーク狩り』『ステップファザー・ステップ』あたり。最近では杉村三郎シリーズが一作たりとも読み逃せない傑作シリーズです。

     宮部作品と言えば、今月はイラストレーターの藤田新策による『STORIES 藤田新策作品集』(玄光社)も刊行されています。宮部作品とスティーヴン・キング作品で育ってきた私にとっては、まさに必携の一冊でした。宮部作品の『火車』『模倣犯』『レベル7』などは、ストーリーの面白さと共に、絵のインパクトも強烈に脳に焼き付いていますし、『IT』や『ミザリー』の表紙を見るたび、何度どきどきさせられたか。あるいは小野不由美『東京異聞』や、恩田陸『ネクロポリス』、道尾秀介『背の眼』など、十代の頃夢中になった禍々しい本の数々に、どれだけ藤田新策の絵の幻想世界が結びついていたか。十代の頃を瑞々しく思い出すような体験も相まって、『STORIES』は私の聖典になりそうです。

    〇私を育てた作家の新作ミステリー!

     で、今回「絶対名作! 十代のためのベスト・ショート・ミステリー」と『STORIES』の話から始めたのにはワケがあります。私を育てたファンタジー作家の最新作が、なんとなんとミステリーだったからです。エミリー・ロッダ『彼の名はウォルター』(あすなろ書房)がそれです。

     エミリー・ロッダ。私と同じ世代の人なら聞き覚えがあるでしょうか。そう、あの冒険ファンタジー『デルトラ・クエスト』の作者です。第三シーズンまであるこのシリーズですが、第一シリーズでは、王家を守る七つの宝石が埋め込まれたベルトが壊され、各地の魔境にこの七つの宝石が隠されてしまう……というのが始まりで、一巻ごとに、それぞれの魔境での冒険とバトルを描き、最終巻ではいよいよ七つの宝石を揃えて最終決戦に臨む全八巻という構成。第二、第三ではまた違った敵が現れるわけです。

     このシリーズ、小学生の私が大ハマりして――当時からドラクエやFFが好きでしたから、ある意味当然と言えば当然――最低でも四周はしているので、未だにスラスラ口に出来るというところ。アニメ化もして、それも見ていたんですよ。その頃何周もしていたファンタジーと言えば他に、なんといっても『ダレン・シャン』(これは五周は固い。④~⑥は最高に好きだったのでそこだけもっとしているかも)、他に『セブンスタワー』、『サークル・オブ・マジック』(ここまでの三シリーズは小学館ファンタジー文庫に収められています。私が読んだ頃は単行本でした)、『ドラゴンラージャ』(岩崎書店)などがありました。そして単巻ですが最も読み返していたのは、ミヒャエル・エンデ『はてしない物語』でしょう。岩波少年文庫版で今は手ごろに読めますが、私の家に会ったのは岩波書店から刊行の、函装のハードカバーでした。主人公と同じように、あのしっとりと肌に張り付くような質感の赤い本を開く時の感動を、何度も何度も味わっていたのです。

     そんな時期の思い出に存在するエミリー・ロッダが、今回はミステリーを書いたわけですが、「いやいやファンタジー作家の余技なんじゃないの?」と疑われるかもしれません。しかし、実はエミリーは、本名ジェニファー・ロウで大人向けの推理小説を書いており、これが一作だけ、日本でも訳されているのです。『不吉な休暇』(現代教養文庫の「ミステリ・ボックス」)という作品がそれ。こいつがちょっとした傑作なんですよ。

     オーストラリアのリンゴ園を営む家族の家に、毎年親族が集まってリンゴ摘みの作業をするのですが、今年は何やら良くないことが起こりそうだ……というのが大方の筋なのですが、この「何かが起こりそう」という「殺人前のドラマ」を、100ページほどの紙幅を取って三人称の多視点からじっくりと描き、それぞれの登場人物像と愛憎の構図を読者の前に描出するその手際は、まさにアガサ・クリスティーのよう。しかも、それだけではありません。この後予期された通り殺人が起こるのですが――そこから展開される二転三転のプロットの手つきが、いやいや、実にクリスティー的なのです。中盤で感じるいくつもの違和感が一挙に繋がる解決には、そうかッ、と思わず膝を打ってしまいます。

     ミステリ・ボックスの隠れた拾い物として、こういうのが好きで好きでしょうがない人にはぜひ勧めておきたい作品。そして、そんなジェニファー・ロウことエミリー・ロッダが書くミステリーだからこそ、ハズレはないだろうと、私は知っているわけです。

     さて、今回の新作『彼の名はウォルター』のあらすじはこうです。嵐がやってきそうな荒天の日、乗っていたミニバスが故障して、一人の歴史教師と四人の生徒たちが立ち往生。近くに立っていた、打ち捨てられたような不気味な館で過ごすことに。主人公のコリンが見つけたのは、『彼の名はウォルター』という題名が冠された、不気味な挿絵の入った謎の本だった。ケータイもなく、荒天の恐怖を和らげてくれるものは他にない。他の四人に読み聞かせる形で、彼はその本を朗読し始める。そこに描かれていたのは、孤児ウォルターの壮絶な人生譚で――。

     というのが大体のあらすじ。『彼の名はウォルター』をわくわくしながら開くコリンの描写は、さながら、先に挙げた『はてしない物語』の冒頭の瑞々しさをも思い出させますが、『彼の名はウォルター』には不穏の影がびっしりとまとわりついているというのがサスペンスとしてのキモ。

     作中作である『彼の名はウォルター』では、冒頭から、孤児ウォルターが老人バチにハチの巣の中で育てられるという描写から始まり、ファンタジーであることがすぐに分かるようになっています。彼が大きくなって、自分の本当の母親を求め、自分の幸せを求め、冒険する一代記という構成ですが、ここに、どうにも不穏な館での、先生一人と生徒四人の会話が挟まっていきます。嵐が迫る天候と、館自身が持つ不気味な雰囲気も相まって、ゴシックサスペンス風の筋立てにもなっていますが、むしろ本書を読んで思い出すのは、三津田信三的なホラー観……作品に書かれた化け物そのものが、襲い掛かって来るのではないか、というような恐怖です。

    『不吉な休暇』に比べれば、いわゆる本格ミステリー度は低く、ミステリーだけを期待して読むとやや肩透かしに感じるかもしれません。ですが、この『我が名はウォルター』という本がどういう本だったのか分かった瞬間、ほうっとため息の漏れるような感動があります。まさに主人公にとってみれば「一夜」の冒険なのですが、それがウォルターという人物の人生そのものの冒険でもあった、というような。作中作ミステリーの要素、ゴシックサスペンスの要素、冒険ファンタジーの要素を横断する、欲張りな一冊といってもいいかもしれません。

     ちなみに、私が小さい頃に読んでいた児童ミステリーのオススメと言えば、やはり、はやみねかおる作品の諸作や、「YA!ENTARTAINMENT」という叢書から出ていた本になってしまうのですが、常々、これもアップデートしなければなあ、と思っている次第。ずっと置いて行かれていますからね……。今回のように『彼の名はウォルター』のような作品をネットサーフィン中に見つけると、なおさらそう思ってしまいます。

     ついでながら、大人になってから見つけた児童ミステリーの中の名作で、子供にも大人にも読んで欲しいものをちょっと紹介しておくと、ジェラルディン・マコーリアン『不思議を売る男』(偕成社)がその一つ。古道具店で働くようになった謎の男を、主人公とその母親は「なんだか怪しい」、と思ってみていたのが、古道具の来歴をお客さんに語って聞かせるその話術に段々と魅了されていく……という構造の連作短編集で、実にしゃれの効いたオチが待っています。ある意味でねじれた構成なのですが、ちゃんとミステリーとしてもファンタジーとしても成り立っているのがたまらないのです。また、連作シリーズとして新庄節美『雨あがり美術館の謎――名探偵チビー』(青い鳥文庫)なんかも名前を出しておきたい。青い鳥文庫にあるこの一作は、まさに雨と傘を使ったロジック勝負の一作で、子供向けながら実に本格的なのですが、子供の頃は青い鳥文庫に入っているこの一作しか知らず、他の作品は大人になってから借りて読んだ、という。私のお気に入りは豪快なトリックとそれによる犯人の絞り込みが気持ちいい『首なし雪だるまの謎』と、意外な構図と犯人の導き出し方が良い『泣き虫せんたく屋の謎』などです。これこそ、見つけるのが大変ですが……。

     さあ、そんなわけで、少々脱線しながら、今日は私を作った作家、エミリー・ロッダの新作『彼の名はウォルター』についてご紹介しました。これを機に、ジェニファー・ロウの新作を、どこか訳してくれまいか。絶対にまだ、面白いのが眠っているはずなんです。なんでもしますから。お願いします!(主に飯田橋と神田に向けて)

    (2022年2月)

第32回2022.02.11
かくして阿津川は一人で語る ~あるいは我々を魅了する『黒後家』 の謎~

  • 笛吹太郎、書影

    笛吹太郎
    『コージ―ボーイズ、あるいは
    消えた居酒屋の謎』
    (東京創元社)

    宮内悠介、書影

    宮内悠介
    『かくして彼女は宴で語る
    明治耽美派推理帖』
    (幻冬舎)

  • 〇『黒後家蜘蛛の会』について

    『黒後家蜘蛛の会』って最高ですよね。

     いつもはその時々の書誌情報とかそれ的なニュースから入ることにしているのですが、今日はここから始めるだけでも十分だろうと思い、いきなり本題に入りました。と、いうのも、最近「いいなあ」と楽しく手に取った本のことごとくが、アイザック・アシモフ『黒後家蜘蛛の会』(創元推理文庫)に連なる安楽椅子探偵の要素を秘めていたからです(以下、『黒後家蜘蛛の会』『黒後家』と表記するときは作品名を、〈黒後家蜘蛛の会〉と表記するときは作中における会の名前を指します)。

     例えば、石持浅海『新しい世界で 座間味くんの推理』(光文社)は、沖縄県座間味島のTシャツを着ていたというだけで「座間味くん」と名付けられた男が、酒席において持ち出された事件を、話を聞いただけで快刀乱麻解き明かしていく連作短編集の最新作。初登場の『月の扉』が長編で、以後、連作短編集としてシリーズ化し、連作短編集としては四冊目にあたります。第三短編集の『パレードの明暗』の文庫解説において、私は座間味くんの推理の魅力を語らせていただきましたが、本作『新しい世界で』でもその魅力は健在です。『月の扉』でハイジャック事件の人質となった赤ん坊が今や成人となり、座間味くんたちの酒席に混じるというのも乙な趣向ですが、毎回毎回、飲む店を選ぶときのやり取りや、美味い居酒屋メシを食べる時の描写にも、和んでしまうのが嬉しいところ。ミステリー的には、意外な着眼点から著者らしい構図が立ち現れる「雨中の守り神」「安住の地」、またシリーズファンなら思わずニヤリとしてしまう趣向が見所。

     また、水生大海『ランチ探偵 彼女は謎に恋をする』(実業之日本車文庫)は、ドラマ「ランチ合コン探偵 ~恋とグルメと謎解きと~」の原作となったシリーズの最新作。昼休み一時間と時間有給一時間を合わせて、ランチ合コンに勤しむ阿久津麗子と、謎に目がない天野ゆいかのコンビが、今回も謎に挑む――というところまでは従前通りですが、本作ではコロナ禍を巡る情勢が絡んでくるのが特徴で、オンライン合コン(!)まで開催されるという。『黒後家』的だと感じるのは、合コン相手、つまり『黒後家』でいう「ゲスト」が毎回謎を持ち込んでくれるところでしょう。これが実に愉快で楽しい。

     あるいは、田中啓文『シャーロック・ホームズたちの新冒険』(創元推理文庫)に収録の「二〇〇一年問題」。実在・架空の偉人たちへのオマージュを込めた本格ミステリ 短編集の第二弾で、「二〇〇一年問題」では、アイザック・アシモフがアーサー・C・クラークに宛てた書簡を巡って、「黒後家蜘蛛の会」のメンバーが推理を繰り広げるという、なんとも愉快で楽しい逸品。何よりも人を喰ったオチが最高で、これぞ、田中啓文の小説だ! と喝采したくなります。いわゆる『黒後家』オマージュ作品でアンソロジーを組むなら、絶対に収録したい(他に何があるんだと言われると悩みますが、 森博嗣『地球儀のスライス』(講談社文庫)収録の「石塔の屋根飾り」などもかなり再現度の高いオマージュと言えそうです。謎そのものが、『黒後家』で扱われそうな質感のものである、というだけでなく、ラストの一行に『黒後家』のヘンリーが持つ洒落っ気が完全に再現されています)。

    『シャーロック・ホームズたちの新冒険』は文庫化なので厳密には最新作ではないのですが、田中啓文は2020年にも、『竹林の七探偵』(光文社)という、中国版『黒後家』とでもいうべき作品を書いていて、これは竹林の七賢が酒を飲みながら謎(作中では「疑案」と呼ばれる)を解き明かしていくのですが、謎を解く存在というのが、非常に変わった、意外な存在なのです。まあ、『黒後家』のヘンリーもまた、当時の社会環境などを考えれば一人の「見えない人」なわけで、探偵役の意外性は『黒後家』オマージュにはぜひ求めたいところですが、その意外性だけ抜き出せば、『竹林の七探偵』にかなう本はないでしょう。

     ……と、まあ、『黒後家』オマージュ小説から、これから取り上げる二作を除いてザッと見てきたわけですけど、ここできちんと、『黒後家蜘蛛の会』そのものについても書いていきましょう。

     本当なら、一切の要素を伏せてまずは原典を読んでもらいたいのですが、ある程度、作品の内容に触れざるを得ないところはあります。〈黒後家蜘蛛の会〉とは、特許弁護士、暗号専門家、作家、有機化学者、画家、数学者の六名、そして給仕のヘンリーからなる、〈ミラノ・レストラン〉における晩餐会です。月に一回、ゲストを招き、そのゲストにこう尋問を始めるのをルーティーンとしている、すなわち――「あなたは何をもってご自身の存在を正当となさいますか?」。要するに職業やその仕事の内容を聞く質問ですが、この質問に、ピリッとした、ゾクッとくる緊張感を感じるのもまた事実(この質問をされた時、私なんて、どんな風に答えればいいんだろうと逡巡してしまいます)。

     その尋問の中から、謎が現れてきて、会のメンバーが色々議論して真相に迫っていき……というのが恒例の流れ。つまり、(1)ゲストの話がメインになるまでの六人+給仕ヘンリーの和やかな会話、(2)ゲストの会話、謎の出現、(3)議論、(4)ヘンリーによる解決 、というセクションから成り立っていて、これをストイックなまでに守っているのがこの連作なのです。先に挙げた田中啓文「二〇〇一年問題」が冒頭から新鮮な驚きを感じさせるのは、この過程の中に描かれない、「それぞれのメンバーが〈ミラノ・レストラン〉に現れる瞬間」の描写があるからです。というか、それ自体が新鮮に感じる程、原典はストイックな構成に徹していると言えます。

    『黒後家蜘蛛の会』のお気に入り短編を挙げていけば、なんと言ってもたった一度きりのサプライズと心憎いラスト一行が素晴らしい「会心の笑い」(第一巻)、いわゆる「古典ミステリー」が秘める輝きが凝縮されたような良いトリック「電光石火」(第二巻)、タイトルからして素晴らしいし結末も良い「地球が沈んで宵の明星が輝く」(第二巻)、お得意の領域で筆が冴え渡る「欠けているもの」「かえりみすれば」(第三巻)、〈黒後家蜘蛛の会〉が女人禁制であることが露骨に現れたエピソードで、唯一女性がゲストとなる回であり、面々の意外な反応が面白い「よきサマリア人」(第四巻)などなどですが、ここに挙げなかった短編も、覚えている内容とタイトルがすぐ繋がらないだけで、いずれも心に染み入ってくるような良い作品なのです。

     未だに――というか、これ以上に、『黒後家蜘蛛の会』という作品集に満ち満ちた「幸福」な光を閉じ込めた言葉を他に知らないので、瀬戸川猛資『夜明けの睡魔』から一部を引用します。『黒後家蜘蛛の会』について述べた、以下の文章です。

    “傑作短篇がずらりと並んでいる、というわけでもない。小味な作品が多いし、“頭の体操”みたいな他愛ないものもある。しかし、冬の夜、ストーブの傍に腰をおろして、コーヒーを片手にこの本のページを繰っていると、なんとも表現しようのない感動がこみあげてくる。ずっと昔に忘れてしまった推理小説を読みはじめた頃の感じ、シャーロック・ホームズやブラウン神父の一篇一篇に覚えたあの懐かしい感動である。”(瀬戸川猛資『夜明けの睡魔』、p.66)

    『黒後家蜘蛛の会』以上に、私の中で、この瀬戸川の文章への感動が大きいせいか、今でも私は、冬になると無性に『黒後家蜘蛛の会』を読み返したくなります。タイトルだけ見ても内容を思い出せない短篇を一つ選んで、あの懐かしい、〈黒後家蜘蛛の会〉の面々に会いに行くのです。

     ここで、いわゆる『黒後家蜘蛛の会』オマージュに求めたい要素を列挙してみます。

    ① 複数名の会員にゲストを加える形で、そのゲストが謎を持ち込む形式であること(酒席、そうでなくても食事の描写があると完璧)
    ② 事件の前段の語り+事件の説明+検討+解決の四部構成を守っていること
    ③ 給仕に限らず、謎を解き明かす存在は意外な人物であること

     ここで補足的な要素として、「④事件の説明パートはストイックに間接話法のみで語られる」というのを加えてもいいかもしれません。事件の捜査パートは動きを持たせて書いた方が読者にとっても読みやすくはなるし、この手法を取り入れている作品もありますが、『黒後家蜘蛛の会』のような作品ではレギュラーキャラクターの人数が多く、読者が読みたいのも彼らのやり取りなのですから、どうしても間接話法になるのはやむを得ない……というところでしょうか。原典『黒後家蜘蛛の会』でも、ゲストが一人で事件についてバーッとひとまとめに語るのは異例のようです(第四巻の「バーにいた女」がひとまとめにゲストの語りで構成された例)。

     さらにないものねだりをすれば、「⑤作者による「あとがき」が各編についていること」を加えてもいいかもしれません。私は『黒後家蜘蛛の会』の各編を読み終わった後に、アシモフの愚痴めいたあとがきを読むのが大好きなのですから。ここまで条件を加えると、私の求めるオマージュとして達成されているものはほとんどありません。前に挙げた例で言うと、田中啓文の「二〇〇一年問題」にはあとがきがあり、完璧ですが。最近この渇きを満たしてくれたのは、ロバート・ロプレスティの短編集『日曜の午後はミステリ作家とお茶を』『休日はコーヒーショップで謎解きを』(創元推理文庫)でしょうか。各編はいわゆる『黒後家』流というわけではなく、もっとバリエーションに富んでいて、手を替え品を替え楽しませてくれますが、ロプレスティの人柄がにじんだあとがきが、何よりの楽しみというわけです。

     ここに①~⑤の要素を挙げてみましたが、これを全て守っていなければだめ! というわけでは当然ありません。これまでに挙げた『黒後家』オマージュの作品も、全て当てはまっているというわけではなく、むしろ、これらの要素の何かを強調したり、切り取ったりするなかで自分の作品を作ってきたと言えます。たとえば『黒後家』の新版解説を担当している東川篤哉の『謎解きはディナーのあとで』(小学館文庫)は、まさに安楽椅子探偵ものですが、④の要素については、宝生麗子による捜査パートは彼女の視点から描かれていますし(そのおかげで風祭警部という名キャラクターも生きるのです)、ここではむしろ、『黒後家』の給仕ヘンリーがもつ、恭しく喋りながらも、毒や皮肉を滲ませているような慇懃な喋り方を誇張し、影山というキラーキャラクターを生み出したことに大きな価値があるわけです(一方、『黒後家』と同時発生的に生まれた鮎川哲也の傑作シリーズである〈三番館〉シリーズも、また別のラインで多くの後続者を生んでいると思います。「春の驟雨」「竜王氏の不吉な旅」「中国屏風」「走れ俊平」「百足」「X・X」「鎌倉ミステリーガイド」あたりが好きです)。

     さて、なぜここで、瀬戸川の言葉を引き、〈黒後家〉オマージュに求める要素を挙げてみたかというと、これから紹介する二冊の新刊――私が試みに挙げた要素を全て満たして『黒後家蜘蛛の会』に完璧すぎるオマージュを捧げた二冊の新刊には、あの「なんとも表現しようのない感動」が存在するからです。そして、その感動に至るプロセスが、この二冊では微妙に異なるからです。ということで、今日は延々と『黒後家蜘蛛の会』とその周辺作の話をします。しばしお付き合いを。

    〇コージーミステリーの新たな古典!

     さて、一冊目の『黒後家蜘蛛の会』オマージュの新刊は、『コージーボーイズ、あるいは消えた居酒屋の謎』です。十一月の刊行なので、もうお読みになった方も多いかと思いますが、もう一冊の新刊とセットでご紹介したかったので、ずっとストックしていた次第です。

     少し大げさかもしれませんが、この作品集、既に東京創元社のミステリー短編集のマスターピースになり得る強度としなやかさを秘めた連作だと思っています。「ミステリーズ!」掲載時に「コージーボーイズ、あるいは消えた居酒屋の謎」を読んだ時に、『黒後家蜘蛛の会』のフォーマットを律儀なほど踏襲していることに敬服し、意外な「見えない居酒屋」のトリックに膝を打ち、何より、実に泡坂妻夫の伏線的な、ある部分の手掛かりにニヤリとさせられてしまったのです。

     まずは本書のミステリー的な魅力を掘り下げてみましょう。フォーマットは完璧に『黒後家蜘蛛の会』をなぞっていますが、本書が素晴らしいのは、伏線やヒントの堂々とした書きぶりです。読者に真相がバレてもいっそかまわない、というほど、ヒントは明々白々に置かれているのに、気付けない。そんな絶妙なバランスを突いています。試験問題で言えば、いわゆる「部分点」を取れる短編はあって、「この部分の構図だけは分かったぞ」と思いながら読むわけですが、すると、「あっ! そんなところにもう一つ手掛かりがあったのか!」「その手掛かりも綺麗に繋がるのか!」という驚きがあったりする。この塩梅が、実に気持ちいいんですね。すれっからしのミステリーマニアも泣いて喜ぶ充実ぶりです。

     私が特に好きなのは、「コージーボーイズ、あるいはロボットはなぜ壊される」です(以下、短編のタイトルは全て「コージーボーイズ、あるいは」を除いた形で表記しています)。なぜ子供は宝物にしていたロボットを壊したのか――というのがメインの謎なのですが、私はサブになっている謎の、「ある一言」のロジックに感服してしまいました。都筑道夫の短編「写真うつりのよい女」(『退職刑事1』収録)に、たった一言を論理的に突き詰めて解釈していくと、事件の構図がガラッと変わってしまうという、都筑のいう「論理のアクロバット」を体現したような趣向があるわけですが、「ロボットはなぜ壊される」には、あの感動をまざまざと思い起こさせるものがありました。

     また「謎の喪中はがき」には、誰も死んでいないのに送られた喪中はがき、という、様々な解釈が付けられそうなユニークな謎に対して、これまたユニークな解決がつきますし、「見知らぬ十万円の謎」では、お金が減るという謎は見たことがあるけれど、その逆をいって「増える」というひねった謎作りもしてあって、手を替え品を替え、各編で楽しませてくれます。また何よりも嬉しいのが、著者・笛吹太郎の人柄がにじむ各編のあとの「付記」で、特に「ロボットはなぜ壊される」における取材のエピソードや、「ありえざるアレルギーの謎」の意外なネタ元など、作品の裏話に思わず顔がほころんでしまうこと請け合いです(各編末尾の「付記」だけでなく、本の終わりにも「あとがき」がついているのも嬉しい)。

     ネタバレ有で、各編について大いに語りたくなるほど、本書のミステリーとしての充実度は素晴らしいのですが(どの短編が好き!? という話題だけで、既に三回のオンライン飲み会が大盛り上がりしました。飲み会の救世主、笛吹太郎)、本書が〈黒後家蜘蛛の会〉オマージュとして優れている点はそれだけではありません。形式、トリック、伏線。ミステリーの核に宿る感動がきちんとある上に――そう、ここには。

     この連作には、『黒後家蜘蛛の会』が持つ「おとぼけ感」が、しっかり存在するのです。

    『シャーロック・ホームズたちの新冒険』収録の「二〇〇一年問題」において『黒後家蜘蛛の会』の完璧なパスティーシュを書いた田中啓文は、同書のあとがきでこう述べています。

    “私はダジャレ小説の総帥であるアシモフ大先生の『黒後家蜘蛛の会』がめちゃくちゃ好きで、折に触れ読み返しては、あー、こんな風にダジャレひとつで一篇書いてもいいんだなあ、アシモフ大先生がやってるんだからいいにちがいないなあ、などと自己正当化を行っているわけだが、本作はコンピューターの「二〇〇〇年問題」に引っ掛けたネタである。”(同書あとがき、p,334)

     うはは、と思わず笑ってしまうではありませんか。そう、そう、そうなのである。「ダジャレ小説の総帥」。これほどアシモフの一側面を、容赦なく切り取った言葉はないではないか。もちろん、田中啓文がアシモフを愛していることは、「二〇〇一年問題」の完成度を見れば一目瞭然なのですが、四角四面にしゃちほこばったミステリー読みからは、この表現がなかなか出てこなかったでしょう。

     つまり、『コージ―ボーイズ、あるいは消えた居酒屋の謎』という作品集には、あの「ダジャレ小説の総帥」アシモフが持っていた、冗談感というか、トボけた味わいが宿っているのです。たとえば、「コーギー犬とトリカブトの謎」では、あとがきにおいてそのものずばり、「駄洒落の効用」について語っています。作品作りや発想を膨らませる段階で、アシモフ流の「駄洒落」感が生きているのは間違いありません。謎解きこそ、本格ミステリ作家クラブ編のアンソロジー『本格王 2021』に取られたほど本格派ですが、そもそも「消えた居酒屋の謎」の真相からして、実にぬけぬけとしているではありませんか。

     ダジャレ全開時のアシモフのようにトリビア的な頭の体操で一本持たせている、というわけではなく、各編きっちりと本格謎解きなのは凄いことですが、その背後には、思わず顔が綻ぶような、おとぼけた空気が備わっているのです。その空気の中でぬくぬくと温まりながら、堂々と提示された手掛かりから真相を読み解くワクワクを味わい、謎解きがもたらす「なんとも表現しようのない感動」を味わうことが出来る。これは、そんな作品集です。

    〇風太郎の明治小説×チェスタトンの逆説=博覧強記のエンタメ連作

     もう一冊の新刊は宮内悠介の最新刊『かくして彼女は宴で語る 明治耽美派推理帖』です。「小説幻冬」にて、隔月で一年間連載されていた連作短編シリーズで(雑誌掲載時タイトルは「牧神に捧ぐ推理」)、私は雑誌の頃から一話ごとに感嘆しながら読んでいました。

     木下杢太郎、北原白秋、石川啄木などなどそうそうたるメンツが隅田川沿いの料理店「第一やまと」に集い、若き芸術家たちのサロンが開かれていた。それを「 の会」といい、メンバーの出入りがありつつも、月に数回開催されていました。このメンバーの異同についても史実に基づきつつ、宮内悠介が史実の空隙を縫うように推理譚を繰り広げるというわけ。森鴎外が巻き込まれたという、乃木大将の菊人形が殺された事件(第一回「菊人形遺聞」)、華族の屋敷において発生した、野口男三郎事件の再来かと思われる残虐な嬰児殺害事件(第三回「さる華族の屋敷にて」)などなど。酒席における推理合戦のさなか、謎めいた女中・あやのが言葉を発し――。

     とくれば、これはまさしく、『黒後家蜘蛛の会』の本歌取りであると、皆様も納得されることでしょう。『黒後家蜘蛛の会』において、事件説明に入る前の、当時の時勢を語ったり伏線を仕込んだりするパートが、本作では若き芸術家たちのエピソードや、当時の隅田川、両国橋、東京勧業博覧会などの風物描写にあてられる形。これがもう、たまらないんですよね。第30回の『偽装同盟』の回でも書きましたが、土地勘のあるところの風物描写をじっくり楽しめる小説って、それだけでたまらないんです。そして、名士たちが次々登場し、その史実が見事に生かされるあたりは、山田風太郎の明治小説の作法も思い起こさせます。

     今回の短編集はとにかくこうしたディティールが魅力で、そもそも、第一話に出てくる牛鍋の描写からして、とんでもなく美味そうなんです。一人一人の芸術家の人間描写も的確で、くっきりしている。こうしたディティールの良さの背景には、一編の資料読みに二週間半もあてる(「小説幻冬」2月号のインタビューより)という作者自身のこだわりが滲んでいるわけですが、さらに、作者がTabtterで公開しているように、校閲者の鋭い指摘があるというのも面白いところ(「『かくして彼女は宴で語る ――校閲ベストテン』)。作者と作品、そして校閲者の幸福な出会いを巡る、刺激的なエピソードとして併読をオススメします。各編の末尾についた「覚え書き」にも、徹底した資料読み・校閲の成果が見て取れます。

     ちなみに、「小説幻冬」2月号のインタビュー記事も面白く、宮内の執筆の動機に、自らの推しである木下杢太郎について「私の推しを知ってくれ!」という思いがあったことが分かり、これまたニヤリとさせられます。

     閑話休題。第一回、「菊人形遺聞」を読んだ時から、もう感動。ここにあるのは、実にチェスタトン流の逆説の世界です。そもそも「美のため美」という標語から、私が連想したのが、チェスタトンの登場人物たち――現実から遊離した世界に生きているかにみえる、独特の行動原理を持った人々のことでした。パンの会が行われた1908年からの数年間といえば、チェスタトンが『正統とは何か』を著し、数年後には『ブラウン神父の童心』が刊行されるという時期。ちょうど時代感が重なった、というのもあるかと思いますが、理と思想、政治と芸術の距離という意味でも、この連作はチェスタトンの世界を思い起こさせてくれました。そこに、いわゆる「D坂」の土地や、横溝正史の『犬神家の一族』を想起させる菊人形という要素まで重なっているのですから、古典ミステリー好きにとってこれほど贅沢な作品もありません。

     もともと、私は宮内作品が大好きで、デビュー作『盤上の夜』(創元推理文庫)を発売当時に手に取った時から感動しっぱなしだっただけに、『月と太陽の盤 碁盤師・吉井利仙の事件簿』(光文社文庫)や『超動く家にて』(創元推理文庫)などで宮内ミステリーを読めた時には嬉しくてたまりませんでした。SFの中でも『彼女がエスパーだったころ』(講談社文庫)などは実に硬質で鋭いミステリー短編集の貌も併せ持つ傑作短編集だと思っています。そんな宮内悠介が、満を持して、ミステリー好きが抱く「ツボ」を全て積載し、古き良き本格ミステリーに立ち返り、推理エンタメのど真ん中を攻めてきたのが、本書だと思うのです。

     個々の短編でのお気に入りは、第三回「さる華族の屋敷にて」における、時代背景を生かした死体損壊のホワイダニットの妙と、第四回「観覧車とイルミネーション」における推理のポイントの隠し方、そして最終話で明かされる趣向の途方もないエモさ……ここでとにかく感動するのは、これまでの『黒後家蜘蛛の会』ものになかった、青春小説としての味わいなのです。

     冒頭の引用からして最高なんですよ。

    “若い芸術家が芸術より他の何ものをも見なかつた時代だ。真のノスタルジアと、空想と詩とに陶酔し、惑溺した時代だ。芸術上の運動が至醇な自覚と才能から出発した時代だ。芸術家の心の扉に、まだ「商売」の札が張られなかつた時代だ。人生は美しかつた。永遠の光に浴してゐた。
     ――長田幹彦(「パンの會」野田宇太郎)”

     そう、これこそが『かくして彼女は宴で語る』に宿る「感動」の核心ではないでしょうか。チェスタトン流の世界観や謎解きの味わい以上に、一人一人が芸術を紡ぎながら、「永遠の光に浴し」ながら、理想を、自分たちを、語らい尽くすその集まりそのものに、清冽な「感動」が宿っているのです。それこそ私が「青春小説としての味わい」と言った部分で、この部分は各編のエピローグの部分で忘れ難い余韻を残してくれます。

     若い芸術家たちが言葉でやり合うのを読むことさえ、今から思えば「永遠の光」を感じる営みと言えるかもしれません。そう思うのは、ドキュメント映画の「三島由紀夫VS東大全共闘」を最近見たからかもしれません。これは東大の900番講堂に三島由紀夫が単身登壇し、東大全共闘の学生たちと二時間半にわたる激論を繰り広げた記録なのですが、この字面を見るとかなり物騒な内容を想像してしまいますが、そうではない。むしろ、学生たちの主張を三島が受け止めながら、ユーモアをもって応答していくさまが克明に写し出されていて、学生たちの方にも思わずこぼれるような笑いがある。私はなぜかその光景を見て終盤、涙が止まらなくなったのです。三島のその後を想像したせいではありません。元東大全共闘としてインタビューを受けたうちの一人である芥正彦が、当時を振り返り、「媒体として言葉が力があった時代の最後」という言葉を言うわけですが、その言葉から想像される、あたたかで、力強い光を、画面の中から感じ取ったからかもしれません。

    『かくして彼女は宴で語る』に閉じ込められているのは、力を持った言葉たちが若き芸術家たちの信念を体現し、ときに抉っていた、そんな時代の光です。読むとほのかな苦みと共に、爽やかな風が心の中を吹き抜けていくような、そんな気持ちの良い作品になっています。

    〇このご時世に『黒後家蜘蛛の会』を読むということ

     それにしても、〈黒後家蜘蛛の会〉オマージュ作品を立て続けに読むと、なんとも幸福に満ちた気分がしてきます。これはなぜなのだろうと思った時に、ふと腑に落ちました。このご時世で、気の合う仲間と、酒席を共にして語らうということそのものが、やりにくくなっているからです。

     外に出て飲めない代わりに、荻窪のカフェ〈アンブル〉へ、明治末期の隅田川「第一やまと」へ、あるいはニューヨークのミラノ・レストランへ。作中に出てくる料理の描写がやたらと美味しそうに感じるのも、今、こうして家で本を開いていることの効用があるかもしれません。

     そう思って読み返していたら、例の二冊と『黒後家蜘蛛の会』の共通点を、また一つ見つけました。

    “ルールは二つ、作品の悪くちは大いにやるべし、ただし人の悪くちはいってはならない。もっとも後者の誓いはしばしば破られる。”(『コージ―ボーイズ、あるいは消えた居酒屋の謎』、p.7)

     そして、『かくして彼女は宴で語る』には、酒席で悪口を語るメンバーの様子を受けて、こんな描写が。

    “陰口にはやや眉をひそめるものがあったが、『巴里の美術學生』にはこうもある。
     ――能く飲み、能く喋り、又た能く悪口を云ふ奴である。
     当時のヨーロッパの美術学生を評した言葉だ。これを思い出し、それとなく静観した。“(『かくして彼女は宴で語る』、p.14)

     時代と場所を超えて、酒の入った席の雰囲気というのは、変わらないものかもしれません。そういえば、〈黒後家蜘蛛の会〉も冒頭から必ず誰かがやり合っている気がします。その雰囲気をしっかり留めているからこそ、例の二作は『黒後家蜘蛛の会』に並びうる作品になるのではないかと感じられるのです。

     ところで、この2作品の作者によるトークショーが、今月下旬に開催されるようです。なんと豪華な。その日は、お二人と酒席を囲んでいるような気持ちで、酒を持ってパソコンの前で聞こうかな、とか思っています。……ああ、こんなことを書いていたら無性に酒が飲みたくなってきた。日本酒を持ってこい! 私は「菊人形遺聞」を読んでから、牛鍋が喰いたくて仕方ないんじゃ!

    (2022年2月)

第31回2022.01.28
たった一人で、不可能の極致に挑む男 ~しかし、ユーモアだけは忘れない~

  • アンディ・ウィアー、書影

    アンディ・ウィアー
    『プロジェクト・ヘイル・メアリー』
    (早川書房)

  • 〇「ジャーロ」の新連載について

     先日、私のバイブルの一つである評論本が電子で復刊されました。千街晶之(以下、本文中敬称略)『水面の星座 水底の宝石 ミステリの変容をふりかえる』がそれです。2001年から2003年にかけて「ジャーロ」で連載されたものに加筆修正を加え単行本化したもので、単行本が長らく入手困難となっていたのです。本書の特徴は、ミステリーというジャンルが内包する〈歪み〉に焦点を当て、テーマごとにその〈歪み〉のありようを描出してくれるその手際にあります。

     例えば、第二章「宙吊りのシンデレラ」(まずこのタイトルが最高……)においては、セバスチャン・ジャプリゾ『シンデレラの罠』を題材とし、趣向ばかりが取りざたされる『シンデレラの罠』の分析を行ったのち、そこから派生していった諸作を紐解いていきます。私は高校生の頃に読んだ『シンデレラの罠』が前評判ほどすごい本なのか分からず、首をひねってしまった時に、「宙吊りのシンデレラ」を読んだので、いたく感動したのでした。当時からミステリー映画に夢中だったので、シャマランの『アンブレイカブル』から始まる第六章「操るものの座」に興奮したこともありありと覚えています。

     本書をことあるごとに読み返し、咀嚼する中で私が出来たと言っても過言ではなく、若島正の〈乱視読者〉シリーズ、法月綸太郎の評論諸作、巽昌章『論理の蜘蛛の巣の中で』、諏訪部浩一『ノワール文学講義』『「マルタの鷹」講義』と並んで、私の永遠のバイブルの一つです。

     本日発売開始の「ジャーロvol.80」では、そんな千街晶之の「ミステリから見た『二〇二〇年』」という連載が始まり、私も興味津々。第一回を読むと、コロナ禍におけるミステリーの「変容」のありようが、しっかりと同時代性をもって記録されるような思いがして、なんとも心強いのです。

     しかもしかも、今号では杉江松恋による新連載「日本の犯罪小説 Persona Non Grata」第一回も始まったのです。第一回は「はらわたを喰い破れ」というタイトルで、大藪春彦の『蘇える金狼』を取り上げているのですが、あまりにも紹介が面白く、思わず『蘇える金狼』を即座にポチってしまいました。ううむ。また本が増えてしまった。

    「紙魚の手帖 vol.2」(東京創元社)からは若島正の「乱視読者の読んだり見たり」が連載開始していますし、こんなに幸せでいいのだろうか。

     あ、「ジャーロ vol.80」には、拙作「六人の激昂するマスクマン」も掲載していただいています。まさかまさかの学生プロレス回。これでジャーロ・ノンシリーズ短編も四本溜まりました。積もる話は、短編集のあとがきで、ということで。

    〇ラファティのSFは素晴らしい

     ここからは一月刊のお話。R・A・ラファティ『とうもろこし倉の幽霊』(新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)の紹介から始めます。

     早川書房は、『町かどの穴』『ファニーフィンガーズ』と、ラファティの傑作短編集を二冊連続で刊行してきました。『町かどの穴』については、第28回のSF特集回で紹介しました。『ファニーフィンガーズ』も今月の前半にようやく読み終わりましたが、これまた傑作でしたね……アンファン・テリブルもののミステリーまで収録されているんですよ。

     で、この二冊は、翻訳のある作品の集成という側面が強かったのに対し、『とうもろこし倉の幽霊』は全篇初邦訳の全9篇というのですからたまりません。ファンにとっては、まさにマスト・リードな一冊に仕上がっていると言えましょう。ラファティらしい人を喰った幽霊譚である表題作、これほどの傑作がまだ訳されていなかったとは! と一読喝采する「下に隠れたあの人」、ラファティの語りの魅力にじっくりと浸れる「チョスキー・ボトム騒動」「さあ、恐れなく炎の中へ歩み入ろう」などがお気に入り。

    『町かどの穴』『ファニーフィンガーズ』『とうもろこし倉の幽霊』で、すっかりラファティの虜になってしまいました。折に触れて読み返す大切な三冊になると思います。

    〇アンディ・ウィアーのSFは面白い!

     で、もう一冊、またしてもSFのご紹介なのですが……いやぁ、とんでもなく面白いですよ、『プロジェクト・ヘイル・メアリー』。

     実を言うと、「とんでもなく面白い」というところまで読んでもらったら、今日はこのページを閉じていただいてもいいくらいです。私は今から、未読の方の興を削がないよう全神経を使ってこの本の魅力を書いていきます。要するに、「何も分からない状況からスタートする」ということにこの本のミソがあるわけで、だから何かを書いてしまうごとに、読者の驚きを損なってしまうのではないか……と思うのです。本当に可能なら、あらすじや帯にも目を通さずに読み始めてほしい。

     という弱音はさておき、アンディ・ウィアーの話をしましょう。ウィアーのSFの最大の魅力は、「『手の届く範囲から始める』という感覚を手放さない」ことだと思います。どんなに壮大な宇宙開発SFを展開するときにも、まずは目の前、目の届く範囲の現実をしっかりと描き、そこから始めてくれるのです。だからこそ、元来がSF者でない私のような人間も、スッと作品世界に入り込める。「そこ」から描いているからこそ、デビュー作『火星の人』はあれだけの傑作たり得たのだと思います。『火星の人』は、宇宙飛行士マーク・ワトニーが火星にたった一人で取り残されてしまい、そこで植物学とエンジニアとしての知識を総動員して、なんとか火星で生き延びようとする、という筋です。マークが「今」「目の前に」あるものだけで、自分の命を守り、食いつなぎ、地球と交信しようとするその過程を描くだけで、600ページもの大作になっているのですが、そのトライアル&エラーの過程が一切の飛躍なく、丹念に書かれていることで、これは傑作になっているのです。

    『プロジェクト・ヘイル・メアリー』にも、その感覚は生きています。冒頭だけ、冒頭だけ書くのを許してほしいのですが、本作の主人公は、大宇宙にたった一人取り残されているというシーンから始まるのです。「え、『火星の人』と同じってこと?」と思ったそこのあなた、え~っと、ここだけ聞くとそうなのですが、中盤から全然違う地点へとカッ飛んでいくのでご安心ください。今回もっとすごいのは、この主人公は自分の名前さえ思い出せず、記憶喪失の状態にあり(!)、自分以外のクルーは全員死亡している(!!)ということ。つまり、自分が誰なのか、周りの死体が誰なのか、この宇宙船はなんなのか、そもそも、「なんで自分は宇宙にやって来たのか」さえ分からない状態で、今回の冒険はスタートすることになります。

     ある意味で、強烈な「謎」ということが出来るでしょう。無論、この「謎」をクローズアップする方向には進まず、主人公の正体も序盤であっさり判明することになりますが、冒頭、自分が置かれている状況から、船のメカニズムを解明するところからして知的興奮に満ち満ちています。このように、主人公は「今」「目の前」にある状況を徹底的に読み解くことで、生き残る道を、この宇宙進出ミッションの正体を解き明かさなければならない、ということになります。この過程が、べらぼうに面白い。ミステリー的なアプローチともいえる物語のギアの作り方は、第二作『アルテミス』とも通じてくると思います。

     そして前作、前々作と共通する最大の美点は、「主人公」のユーモアセンス、これに尽きます(厳密な意味でネタバレにならないようにすると、『プロジェクト・ヘイル・メアリー』の主人公の名前すら書けないという! もどかしい!)。そもそも『火星の人』のマーク・ワトニーからして、ようやくつながった地球との交信で下ネタを飛ばしてしまうような、ある種のコメディアンだったわけですが、今回もユーモアが本当に凄い。『プロジェクト・ヘイル・メアリー』では主人公が置かれている状況を描く「現在」と、彼が少しずつ過去の記憶を取り戻していく「回想」のパートに分かれていて、基本的に「現在」では主人公と自動音声ロボットの会話しかありません(このロボットとの会話も笑える)。「現在」はほとんど主人公の一人称の地の文だけで構成されているのですが、この地の文でもう……ボケ倒しているわけです。

     そのボケにシンプルに笑うもよし、心の中でツッコミを入れながら読むもよし……あまりにも絶望的な状況を描いているにもかかわらず、全く重くないのはこのユーモア溢れる文章のおかげですよねえ。カラッとして明るく、しかし、切迫感と緊張感は失わない絶妙のライン。

     主人公はなぜ宇宙に出たのか? 彼の目的は? 正体は? 彼の「作戦」は成功するのか? 多くの謎を抱えた物語は、いくつものツイストを見せながら上下巻600ページ、爆走することになります。特にあのシーンで……!

     ……と、さすがにこの先は語ることが出来ません。ただ一つ言えるのは、「『このジャンル』のSFにおいて、間違いなく、最高級の傑作と言える一作だ」ということだけです。

     ここでは、今は分からなくても、読んだ後に帰って来てもらえば何かしらピンとくるかもしれない話を。本書のタイトル”Project Hail Mary“の Hail Mary とは、直訳すれば「聖母マリアが降りてくる(アベマリア)」という意味になりますが、ここではアメフト用語の「ヘイルメリーパス」(”Hail Mary Pass”)のことを指すと考えられます。これは試合終盤、負けている方のチームが、タッチダウンによる逆転を狙って行うロングパスのことを指します。あまりに長距離で、神頼みのような様子からつけられた名前と言います。これがアメフト用語を意識してつけられたプロジェクト名であることは、たとえば上巻p.168などで、主人公がアメフト用語を使っていることから見ても明らかです。

     そう。この本で描かれるのは、絶体絶命の状況に置かれた彼――ひいては、人類が、自らの存亡を賭けて放った「ヘイルメリーパス」なのです(タイトルに合わせるなら「ヘイル・メアリー・パス」なのですが、とりあえずアメフトの訳語を優先しています)。アメフトのボールの代りに放たれたのが、この宇宙船、ということになります。宇宙に向けて放たれた、彼らの最後の希望。だけど、そのパスを受け取ってもらえなければ、彼らの希望は潰える。そんな絶望的で、最後の願いを込めたミッション――だからこそ、このミッションにはその名前がついているのです。

     その「パス」の行方はどうなるのか。答えはぜひ、読んで確かめてみていただい、ということで。600ページ上下巻も、一気読みの面白さですよ。

    (2022年1月)

第30回2022.01.14
佐々木譲は立ち止まらない ~歴史改変SF×警察小説、無敵の再出発~

  • 佐々木 譲、書影

    佐々木 譲
    『偽装同盟』
    (集英社)

  • 〇復刊本の話題から

     12月にも言及した山田風太郎の『黒衣の聖母 山田風太郎傑作選 推理篇』に続き、今月『赤い蝋人形 山田風太郎傑作選 推理篇』が刊行されました。赤と黒で好対照の装丁が美しい二冊となっています。個人的には、『黒衣の聖母』の私の推薦文と、『赤い蝋人形』の米澤穂信推薦文が、また違ったスタイルで対称をなしているのが嬉しいところでした。『赤い蠟人形』には、ホワイダニットの傑作「新かぐや姫」も収録されていますし、表題作において、犯行計画の中に「偶然」を巧みに組み込んで運命のいたずらを描いて見せる手際には惚れ惚れさせられます。超おすすめですよ。ちなみに河出文庫からは、塚本邦雄『十二神将変』も復刊されています。これには驚きました! 現代短歌の巨匠が生み出した、言葉と事件の妖しいイメージにどっぷり酔いしれることが出来るミステリーで、私は『本格ミステリ・フラッシュバック』で言及されているのを見て存在を知りました。270ページほどの本なのですが、大学生の頃の私(いまより速読でしかも元気!)が読み通すのに一週間かかったほど、濃密で濃厚だったのを覚えています。良い本です。

     復刊関係で驚いたのは、柴田錬三郎『第8監房』(ちくま文庫)でしょうか。この原稿を書いている時はまだ発売していないので読んでおりませんが……。2014年(大学生の頃)に、『幽霊紳士/異常物語 柴田錬三郎ミステリ集』が創元推理文庫で出て、「そうなんだ! 柴田錬三郎って眠狂四郎のイメージしかなかったけど、ミステリーも書くんだ!」と気付かされたのです。特に連作短編集『幽霊紳士』の、幽霊が解決編でぬるっと出てきて「……仕損じたね」の一言から全てを解決していく、その切れ味が好きだったんですよ。変種の安楽椅子探偵ものというか。で、その『幽霊紳士/異常物語』の解説だったかどこかに「眠狂四郎にもバカミスみたいなトリックの回がある」と書いてあるのを見たので、眠狂四郎を集めたりして……。私が好きな柴田錬三郎は『赤い影法師』です。それこそ山田風太郎の世界観とも通底するような感じですね。ということで、『第8監房』は超楽しみにしているので、この原稿が出るころには読んでいるでしょう。

    〇佐々木譲、圧巻の新シリーズ

     今日の新刊は佐々木譲の歴史改変SF×警察小説シリーズの第二弾、『偽装同盟』。日露戦争に負け、ロシアの統治下に置かれた日本――というパラレルワールドの設定こそSF的ながら、国家と組織、組織と個人の相克を描く熱い警察小説を展開してくれるのです。往年のスパイ小説などのように、「事件の解決が国家の利益にならないと判断した時、一人の警察官としてどうするべきか」という問いが立ち現れてくるのが、警察小説としての面白さであり、今の自分たちが国とどういう関係を取り結ぶべきか、考えるきっかけにもなるでしょう。

     第一作『抵抗都市』では、日本橋川・堀留橋の下から発見された変死体を巡り、警視総督直属の高等警察と、ロシア統監府保安課の介入を受けながら、警視庁特務巡査の新堂と西神田署の巡査部長・多和田の二人が、一つの死の真相と、その背後に蠢く国家レベルの陰謀を描出していく過程がスリリングでした。第二作『偽装同盟』は、一作目と同じく新堂が主人公に。冒頭のエピソードが実に巧みなのです。連続強盗事件の犯人を旅館で捕らえた矢先、その男がロシア高官の名前を出したせいで、ロシアの日本総督府保安課の預かりとなってしまい、捜査の過程が断ち切られる。新堂たちの置かれている国家と警察組織の相克をわずか20ページほどで突き付け、第一作から間が開いた読者にも、設定と彼らの状況を思い出させてしまうのが上手い。そのうえで、ロシア人街にほど近い神田明神の近くで殺された女性の死の謎に挑んでいく、というのが大体の筋。女性の身の上や、街の特徴も相まって、ロシア軍人が犯人である可能性があるため、一歩間違えれば国際問題に発展しかねない……という状況設定がキモになっています。

     で、ここが歴史改変SFとしてのポイントなのですが……この小説の冒頭に、本郷三丁目~御茶ノ水~東京駅あたりの地図が載っていて、路地や建物の名前が、ロシア統治下という設定の下に変更されているのです。こういうのが私、たまらないんですよねえ。もう学歴は明らかになっているので言いますが、東京大学出身というのもあり、この辺には土地勘があるので、頭の中で架空の町を思い浮かべてその中を歩くのが、とんでもなく楽しいんですよ。なんなら中高生の頃からこの辺で遊んでいたわけで……。たとえばニコライ堂が「復活大聖堂」という名前になって、ロシア人街の中心に置かれるように配置されていたり、本郷通りは日露戦争の時の軍人アレクセイ・クロパトキンの名前から「クロパトキン通り」と命名されていたり……。設定の一つ一つが上手いんですよね。これを眺めているだけでも一冊分の愉しみがあります。そのうえで、佐々木譲が今回、『偽装同盟』で殺人を起こした路地を思うと……あ~上手い、いい設定だ……。

    『このミステリーがすごい! 2022年版』内に掲載された、2022年中の各作家の新刊の予定を発表するエッセイ「私の隠し玉」の佐々木譲の欄を見ると、本書『偽装同盟』を含めて四冊の書名が公表されています。ほかの三作は『裂けた明日』『樹林の罠』『闇の聖域』というタイトルで、それぞれ、近未来SF、道警シリーズ、SFサスペンス、と書かれています。そう、つまり、歴史改変SFである『偽装同盟』を加えると、2022年中に佐々木譲が発表する予定である四作のうち、実に三作がSFの作品だということになります。

     佐々木譲は1950年生まれなので、今年で72歳ということになります。〈第二次大戦三部作〉で圧倒的な冒険小説のセンスを見せつけ(『ストックホルムの密使』大好き!)、『笑う警官』(旧題『うたう警官』)に始まる〈道警シリーズ〉等々で警察小説の頂点を極めた作家が(『警官の血』と『廃墟に乞う』が好き!)、今まさに、持ち前の技術を全て駆使して、SFという大きな山に登ろうとしている――私にはそんな風に見えてきます。まだまだ挑戦をやめず、更なるエンターテインメントを生み出すために山を登っていくその姿を、これからも追いかけていきたいと思います。

     ちなみに第一作『抵抗都市』は、ちょうど来週、1月20日頃に集英社文庫から文庫化されることになります。念のために書いておくと、『偽装同盟』には前作の致命的なネタバレは書かれておりませんが、順番に読んだ方が、新堂まわりの描写の面白さや、『偽装同盟』のラストシーンの感動は増すと思います。

    〇国家とSFに関連して

     また、現代の国家と人間のかかわりを考えさせられる歴史改変SFとして、今月の新刊からアンドレアス・エシュバッハ『NSA』(ハヤカワ文庫SF)も最後に紹介。

     これはナチス・ドイツが現代同様のネット環境を使えたとしたら――という設定で、政治・社会的な状況は第二次世界大戦時のナチス・ドイツのそれでありつつ、通信技術だけ、当時の水準としてはオーバーテクノロジーに設定されています。冒頭からいきなり、今でいうクレジットカードの使用履歴と、成人男性・女性の平均的な使用カロリーを世帯ごとに割り出したものを突き合わせることで、法律上はいないことになっている人間(つまり匿われている人間など)をあぶりだせるのではないか、という仮説が描かれて慄然とするのですが、それはまだまだ序の口。強権的な全体主義社会が情報をほしいままにするその恐怖……にページをめくる手が止まらない一作です。主役であるヘレーネの書きぶりがたまりません。上巻最後の地の文とか、思わず胸を突かれるような文章です。訳者あとがきに紹介されている、エシュバッハの未訳作にしてSFとスリラーの合わせ技だという『ソーラーステーション』が気になってしまうのは、ミステリー者のサガか。もっと読んでみたい作家です。

    (2022年1月)

第29回2021.12.24
法月綸太郎は我が聖典 ~“疾風”“怒涛”のミステリー塾、待望の新作!~

  • 法月綸太郎、書影

    法月綸太郎
    『フェアプレイの向こう側
    法月綸太郎ミステリー塾
    怒涛編』
    (講談社)

  • 〇クリスマスにはクリスティーを!

     昨年にもクリスマスに更新したこの読書日記。昨年はマイ・シューヴァル&ペール・ヴァールーの『笑う警官』(角川文庫)をクリスマスミステリーとして読む回をやってみましたが、今年もイブということで、クリスマスミステリーの話から始めましょう。

     今年はまさにそれにうってつけの新刊が出ております。早川書房から刊行のアガサ・クリスティー『クリスマスの殺人』がそれです。新訳の短編こそないものの、早川書房の各短編集に散らばっていたクリスティーのクリスマス短編が、一挙にまとまって掲載されているというのが素晴らしい。今年は『マン島の黄金』からアレを読もうか、いや、『謎のクィン氏』からアレか? いやいやそれとも……と悩む必要はもうありません。一家に一冊、『クリスマスの殺人』を。それだけで、クリスマスに読むミステリーに、生涯困ることはなくなるでしょう。

     クリスマスを書けばますます生き生きするクリスティーのこと、良い作品ぞろいですが、中でも嬉しいのは末尾に付属した「書誌情報」の詳細さ。イギリス版、アメリカ版の収録短編集の違いにまで言及しているのですから、その資料性の高さたるや。早川書房には珍しい函装丁も素敵で、棚に並べておくだけでも幸福感に溢れる一冊です。

    〇早川書房繋がりで宣伝も一つ

     今月、エイドリアン・マッキンティの〈ショーン・ダフィ〉シリーズ最新作、『レイン・ドッグズ』が発売になりました。解説を担当させていただいております。

     80年代、暴動に揺れるアイルランド情勢を活写しつつ、熱に溢れたハードボイルド×ノワールのクリティカルヒットを放ち続けてきた本シリーズも、遂に第五弾。尻上がりに良くなり続けているシリーズなのですが、本作『レイン・ドッグズ』もまた、前作(『ガン・ストリート・ガール』)の高いハードルを越えてきたのです。今回起こる事件は、キャリックファーガス城という実在の名跡での「密室殺人」だというところも、謎解きミステリーファンへのアピールポイント。

     解説では、〈ショーン・ダフィ〉シリーズを初めて手に取る方、あるいは、これまでの歩みを振り返りつつ、最新作の魅力を知りたい方に向けて、魅力を語りまくっております。ぜひ、書店でお見かけの際はご覧くださいませ。エイドリアン・マッキンティは最高ですよ。

     ところで、前出のシリーズ第四作『ガン・ストリート・ガール』はこの読書日記の第三回で取り上げております。わお。驚いたことに、これで、第一回のジョゼフ・ノックス、第二回のジェフリー・ディーヴァー、第三回のエイドリアン・マッキンティと、フェイバリットな現代海外作家の解説を拝命したことになります。凄い話です。ありがとうございます。この連載が続いているのも皆さんのおかげです。

    〇法月綸太郎は我がバイブル

     さてさて、前置きが長くなりましたが、今月は絶対に取り上げなければいけない本があります。『フェアプレイの向こう側 法月綸太郎ミステリー塾 怒涛編』(講談社)です。なんといっても、こんな連載を始めるキッカケになったのが、この読書日記の副題「ミステリ作家は死ぬ日まで、黄色い部屋の夢を見るか?」にある通り、法月綸太郎、都筑道夫、内藤陳の三氏なのですから、その新刊が出るのであれば話をしないわけにはいかんというわけです。というかさせろ。

     法月綸太郎の作品は全作、私のバイブルで、『密閉教室』『生首に聞いてみろ』はボロボロになるまで読み返して何度も買い直していますし、『誰彼』は中学生の頃にあの二転三転する推理をノートにまとめて、ここがこうなっていたのか~とか理解する遊びをしてましたし(遊び?)、『二の悲劇』や『ふたたび赤い悪夢』も落ち込んだ時に読み返してしまいますし、今はちょうど『一の悲劇』にオマージュを捧げた誘拐ミステリーを……ってこれは喋りすぎか。さらに好きなのは『法月綸太郎の冒険』『新冒険』『功績』の短編集や、エッジの効いた『パズル崩壊』、実家のような安心感と共に読める『犯罪ホロスコープ』の1・2巻といった短編集で……と、この話延々続いてしまうな。

     で、評論集なのですが、これに至っては、もうミステリーの読み方そのものに影響を与えられているので、好きという言葉では言い尽くせないのです。中高生の頃から、この人の解説がついていれば、絶対にその本を読む、という人が何人かいて、その中の筆頭が法月綸太郎でした。特に海外ミステリーは、身近に勧めてくれる人がいなかったので(私のエッセイに度々登場する「図書室の司書さん」は国内ミステリー、特に新本格の時期以降の作品に詳しく、海外ミステリーは自力で探す必要がありました)、法月綸太郎の解説や、『複雑な殺人芸術 法月綸太郎ミステリー塾 海外編』(同じく講談社)が本を選ぶ指針になっていたのです。パトリック・クェンティンの『わが子は殺人者』『俳優パズル』、ミッシェル・ルブラン『殺人四重奏』、ジル・マゴーン『騙し絵の檻』、クリストファー・プリースト『魔法』、D・M・ディヴァイン『悪魔はすぐそこに』、ロバート・トゥーイ『物しか書けなかった物書き』(しかもこの作品は編も法月が務めています)あたりは、法月解説のおかげで出会うことが出来た、マイフェイバリットな作品群です。ジャック・カーリイに関しては、三作目『毒蛇の園』が法月解説と知り、「解説読みたいから一作目『百番目の男』から読むか~」と重い腰を上げて読み始めたところ、『百番目の男』の真相に爆笑してしまい、『デス・コレクターズ』のネタの多さに唸ってしまったので、解説のために読み始めたのに大ファンになってしまった、という経緯があります。あとこれは解説ですらないのですが、『2016本格ミステリ・ベスト10』(原書房)で法月綸太郎の5位がグスタボ・ファベロン=パトリアウ『古書収集家』(水声社)という知らない作品で、「ボルヘス・ミーツ夢野久作みたいな設定だが、探偵小説として風呂敷を畳んでいるところに好感を持った」とコメントしているのに興味を惹かれて読み、あまりにどうかしている構造と、どうかしてるのに急に解決編が始まることに驚愕するなどしていました。ちなみにこの年、このどうかしてる本を同誌で投票していたのは法月綸太郎と若林踏の二人だけでした。……って、どうして私はこんな公の媒体で、法月綸太郎のストーカーみたいなことをして本を読んできたことを告白しているんだ?

     ともかくそんなわけで、私の人格形成に多大なる影響を与えられているので、取り上げないわけにはいかないのです。せっかくなので今日は、『法月綸太郎ミステリー塾』の四冊と、プラスワンとしてそれに先立って刊行されている『謎解きが終ったら 法月綸太郎ミステリー論集』(講談社文庫)の紹介をまとめて行います。電子版は全部生きております。

     ここから行うのは、評論の評論とか評論の批評というよりは、「これが面白いよ!」という単なるオススメと、各評論を読み返して頭に去来した思い出話を原稿に刻印しておく作業に終始すると思いますが、まあ、しばらくお付き合いください。

     今日の私は、法月綸太郎の話がしたいのだ。

    〇『謎解きが終ったら 法月綸太郎ミステリー論集』

     まず、冒頭の「まえがき」を読んでくださいよ。

    “私は評論や解説の仕事をする時も、ミステリーの実作者としてのクセがどうしても抜けきらない。着想のオリジナリティとか、プロットのひねりとか、トリッキーな修辞とか、いつもそういうことばかり考えて書いている。「読み物」として面白い文章を書きたいという色気がいつもあって、その色気と思い込みの激しい分だけ、つい羽目を外してしまいがちなのである。そのせいか、作者の意図からかけ離れた極端な地点まで暴走してしまうようなことも珍しくない。しかしクリエイティヴな批評は、そうした無鉄砲な試行錯誤の積み重ねの中からしか生まれないと思う。”(同書、p.5)

     これはもう、本書だけでなく後続の『法月綸太郎ミステリー塾』四冊を通底する決意表明でしょう。この信念を持ってミステリーを読み解いてきたからこそ、法月綸太郎は「ミステリー界の至宝」(『盤面の敵はどこへ行ったか』の帯文より)になり得たのだと感じさせる一節です。

     その心意気を反映したかのように、困難な題材を果敢に解題していく、荒武者・若武者のような読み心地が『謎解きが終ったら』の特徴です。その白眉が「誰が浜村龍三を殺そうとかまうものか ――中上健次論」で、これは最新刊の「『屍体』のない事件 ――『死霊』(埴谷雄高)に関する一考察」に通底する評論でもあります。「フェアプレイの陥穽」と題した坂口安吾『不連続殺人事件』論が、後年の『盤面の敵はどこへ行ったか』に収録された角川文庫版文庫解説「本格ミステリのアキレス腱」ではよりコンパクトかつ研ぎ澄まされた形に洗練されるなど、小説だけでなく、法月の書いた評論にも水脈が見えてくるのが、今読み返すと面白いところです。

     解説の白眉は、なんといっても綾辻行人『黒猫館の殺人』の解説「座敷童子のいる『館』」。綾辻作品に登場するモチーフを座敷童子というキーワードから解題していく手つきが実にスリリング。私の綾辻行人観は、これと巽昌章の『暗闇の囁き』解説から出来ていて、だからこそ『暗闇の囁き 新装改訂版』の解説のお話をいただいた時は、「私の『子供時代』の話をするのが、構成としては一番綺麗かなあ」と考えてあのような形になったのでした。

     閑話休題。倉知淳に対する「天然カー」、東野圭吾の本格愛に関して、それぞれ戸川安宣編集長と法月、東野と北村薫の会話の再現などが載っているのも楽しく、当時の雰囲気を感じられます。あと思い入れ深いのは「デクスターを擁護する」(『オックスフォード運河の殺人』解説)で、実はコリン・デクスターを本格的に楽しめるようになったのは大学生になってからで、それまでは「なんだかよくわからんが、面白い。ただ犯人だけは本を閉じた瞬間に誰か分からなくなる」という酷い感想を持っていたのですが、デクスターのパズル・ストーリイとしての特色とスタイルを読み解いた本稿の中に、『死者たちの礼拝』について「デクスターの作品の中で最も難度の高い(何度も読んでもサッパリわけがわからない)、最後まで五里霧中のような謎めいた長編」(『謎解きが終ったら』、p.234)とあって、ああそうか、法月綸太郎でも分からないんだ、じゃあ私に分からなくてもしょうがないな、とひどく安心した覚えがあります。

    〇『複雑な殺人芸術 法月綸太郎ミステリー塾 海外編』

     言わずと知れたロス・マクドナルドについての名論考「複雑な殺人芸術」を含む、海外編であります。「複雑な殺人芸術」はロス・マクドナルドが『ウィチャリー家の女』『さむけ』『縞模様の霊柩車』で本格ミステリーとして何を試みていたかを、原文に即して読み解いていく超刺激的な文章で、特にトリックを暗示するダブルミーニングに関する分析には興奮が止まりません。「ミステリー評論はネタバレがあるからなかなか読めない! 予告なしにネタバレされたら許せない!」という人も多いかと思いますが、こうして、一作を律儀に、丹念に読み解いていく論考というのは、きちんと予告をしてからネタを割ってくれるわけですし、苦手意識のある人でも読みやすいと思います。三冊読み通してから読むと、即座に再読したくなるようなウルトラ傑作ですよ。

    「複雑な殺人芸術」は、若島正が『そして誰もいなくなった』の心理描写に隠された「趣向」を読み取る「明るい館の秘密」(『乱視読者の帰還』に収録)のバトンを見事につないだ評論、だと思っているのですが、この後、当の若島正が同人誌「Re-Clam」でロス・マクドナルド『ギャルトン事件』についての論考を試み、更に同誌で法月綸太郎が『一瞬の敵』について「フェアプレイの向こう側」という論考でさらにロスマクを掘り下げて見せたのには驚きました。この後者の論考が、今回の新刊の表題作というわけ。この二人には無限の憧れがあるので、彼らの論を読むたびにロス・マクドナルドを読み、ロス・マクドナルドを読むたびに二人とロスマクのことが好きになるという幸福な円環が完成しています。

     ちなみに、二人へのオマージュを捧げてみたのが、アガサ・クリスティーの『雲をつかむ死 新訳版』(早川書房)の私の解説だった……のですが、これ、実は、知り合いの編集にはモロバレだったので恥ずかしくなりました。凡夫では到底あの高みに及ばぬのですよ。とはいえ、本編を読んだ後に読むと、クリスティーの手つきが垣間見えるものは書けたんじゃないかと思うので、ぜひご一読ください。

     と、脱線したところで戻ってくると、やはり目玉は「ミステリー通になるための100冊(海外編)」でしょうか。中学生~大学生の私が一冊ずつつぶしていったリストです。ウラジーミル・ナボコフの『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』(光文社古典文庫など)は、当時文庫になっていなかったので外されているのですが、本文中で「メタ・ミステリーの傑作」と書かれているので読んだりしました。このリストがなかったらナボコフはまだ読めていなかった気がします。私が一番好きなナボコフは『ディフェンス』(河出書房新社)です。『アーダ』『賜物』は読み返す必要がある。

     もう一つの大きな目玉はもちろん「初期クイーン論」「一九三二年の傑作群をめぐって」「密室――クイーンの場合」といったクイーン論。柄谷行人、ゲーデル問題、形式化といったキーワードから、エラリー・クイーンが直面していた本格ミステリーの「困難」を迫っていくのですが、実は当初中学生の私にはなかなか咀嚼しきれず、以降、何度も読み返すことになった論考です。笠井潔『探偵小説論序説』→法月綸太郎の本書→飯城勇三『エラリー・クイーン論』といった提起・応答の流れを理解する中で、少しずつ理解していったという感じです。今では初期・後期クイーンも、角川文庫の新訳、ハヤカワミステリ文庫の新訳において、飯城勇三が一作一作その作品のネタに即した形で読みどころを解説してくれているので、読みやすくなったなあと感じます。

    〇『名探偵はなぜ時代から逃れられないのか 法月綸太郎ミステリー塾 国内編』

     まずタイトルが最高。そして二つの論、「大量死と密室 ――笠井潔論」と「挑発する皮膚 ――島田荘司論」の衝撃ですよ。前者は笠井潔『哲学者の密室』を読み解く論考で、笠井潔自身の提唱する「大量死理論」に応答することを通じ、『哲学者の密室』とエラリー・クイーンのある作品との信じられないレベルの相関関係が見えてくるという実にスリリングな代物。一番面白いのは、「国内編」なのに結局クイーンの話である、というところですね。もちろん、『哲学者の密室』とクイーンの国名シリーズの一角をなす「その作品」(あえて名前は伏せます)を読んでいないとネタバレを食らってしまいますが、二作を読んでからぜひ読んで欲しい傑作。

     そして後者「挑発する皮膚 ――島田荘司論」は、私的には法月綸太郎評論のマイベストに挙げたい論なのです。冒頭から赤瀬川原平と島田荘司の相似を指摘されて面食らうのですが、そこから、島田荘司のミステリーを隠された「皮膚感覚」を読み解いていく。トリックやストーリーの中に通底するキーワード、シーンを次々読み解いていく様そのものが、例えば本棚にぎっしり並べた大好きな作家の作品の背表紙を、つうっとなぞっていくあの幸福に満ちた「皮膚感覚」を表現しているようで、読むたびに幸福に満ちるのです。この評論を読む直前に、私は島田荘司の『摩天楼の怪人』と当時新刊で刊行されていた『アルカトラズ幻想』(2012年なので高校3年の時)を立て続けに読み、そこに連続して現れた「深さ」のモチーフに興奮して、これは何か意味があるのではと思った時にこの「挑発する皮膚」を読んだので、いたく感動したのでした。この評論は1995年の「野生時代」に掲載されているのですが、そこで試みられた論が、今でも通底する作家の核を捉えているということ、これが私の感動の核心でした。

     個々の解説で言うと、どうしても殊能将之『鏡の中は日曜日』の解説には触れざるを得ない。見るたびに、凄い原稿をもらったな、と思ってしまいます。これこそ『謎解きが終ったら』のまえがきにいう、「作者の意図からかけ離れた極端な地点まで暴走してしまうようなこと」の一つなのでしょうか?

     また、麻耶雄嵩『痾』の解説もここに収録されているわけですが、今年刊行されたばかりの『夏と冬の奏鳴曲 新装改訂版』の新解説を法月綸太郎が務めているわけで、あの作品とあの続編の解説を両方務めた法月綸太郎にただただ脱帽してしまいます。

     他、思い出深いのは「ボトル底の澱のように」(西澤保彦『彼女が死んだ夜』解説)でしょうか。西澤保彦とクレイグ・ライスの相似関係について書いたものですが、これは『時計は三時に止まる』の野崎六助によるライス解説とも通底するものがあります。つまり、ライスはユーモアミステリーの作家と言われているけれども、時に「作家の暗い人生観がワインの瓶の底にたまった澱さながら、随所で顔をのぞかせる悲痛な一面」(『名探偵はなぜ時代から逃れられないのか』、p.147)を持っている、という指摘です。私は昔から、クレイグ・ライスと西澤保彦は、なかなか立て続けに読めないという肌感覚を持っていて、一冊読むとぐわっとダウナーになってしまうのですが(でも私はダウナーになる本が好きなのでこの二作家の作品が大好き)、それだけに、この解説を読んだ時に妙に腑に落ちたのを憶えています。

    〇『盤面の敵はどこへ行ったか 法月綸太郎ミステリー塾 疾風編』

     やはり冒頭の「第一部 夜明けまで十三歩」が嬉しい。電子出版サイトe-NOVELSでの不定期連載をまとめたものですが、取り上げられているのが当時の新刊メインということもあり、法月綸太郎によるミステリー時評を楽しむことが出来るのが大きい。特に、ジャン=クリストフ・グランジェ(『クリムゾン・リバー』『コウノトリの道』)、エリック・ガルシア(『さらば、愛しき鉤爪』)、フレッド・ヴァルガス(『死者を起こせ』)、ベルトラン・ピュアール(『夜の音楽』)、これはメインではなく本文中ですが、ブリジット・オベール、ポール・アルテなどを同時代的に取り上げ、当時のフランス・ミステリー邦訳の空気感が分かるところなどが、後追いから読む立場としては面白い点です。マイクル・コナリーとジェフリー・ディーヴァーの比較を、コナリーの『わが心臓の痛み』を通じて行っている「第二歩」も嬉しい。これに取り上げられていなかったら、スタンリー・ハイランド『国会議事堂の死体』も読んでいなかっただろうなあ。あんなに面白いのに。

     あと本書で嬉しいのは、ロバート・トゥーイ『物しか書けなかった物書き』の解説に、探偵小説研究会の「CRITICA」で掲載していた「トゥーイ拾遺」がセットで併録されていること。当時、この「CRITICA」を入手できなかったので、この本のおかげで、「もっとトゥーイを読みたい」という渇を癒すことが出来ました。似たような点で言うと、フリースタイル版の都筑道夫『黄色い部屋はいかに改装されたか?』の解説に付属して「『黄色い部屋はいかに改装されたか?』について、もう少し」「都筑道夫クロニクル」も併録されていて、都筑道夫のミステリー論の核心や意図、名探偵論争、「モダーン・ディテクティヴ・ストーリイ」という言葉について、手探りで整理していくような読み心地がたまらない。

     また、私はシオドア・スタージョンという作家が大好きで、エラリイ・クイーン名義で代作した『盤面の敵』について、あれほどスタージョンの作家性が刻印されているにもかかわらず、ガイドや当時の友人などは、いわゆるクイーン的なプロットの部分ばかり取り上げることに腹が立っていたのですが、その怒りを鎮めてくれたのが「盤面の敵はどこへ行ったか」でした。「孤独の円盤」を引いてくるあたりで満面の笑みになってしまいました。

    〇『フェアプレイの向こう側 法月綸太郎ミステリー塾 怒涛編』

     で、最新作ですよ。『複雑な殺人芸術』の項で既にふれたところではありますが、本書の目玉はなんと言っても表題作の「フェアプレイの向こう側」です。ロス・マクドナルドについて「複雑な殺人芸術」によって自らが読み解いた、ロスマクのフェアネスへのこだわり。それが変質していくさまを、今度は『一瞬の敵』を精読することで読み解いていくのです。

     特に、犯人の名前に関する考察が面白くて、文中に犯人の名前が出てくる箇所は何箇所で……と考察していく手つきは、若島正の「電子テキストと『ロリータ』」(『乱視読者の新冒険』収録)を読んだ時の興奮を思わせます。これは『ロリータ』の電子書籍で、たとえば「ピーター・クリストフスキイ」という名前の人物を検索して登場する箇所を確かめた時にこんなことが見えてくる、という論考です。これは電子書籍時代に小説、ミステリーを読み解く格好のヒントにもなる論考だったと思います。こういう手法は法月綸太郎の短編集『法月綸太郎の消息』に収録された、ポワロ作品を読み解く「カーテンコール」にも用いられています(電子書籍を全て買った、と話すキャラクターが出てきたはず)。

    「フェアプレイの向こう側」、締めがまたいいんですよねえ。この後に何か続けるとすると、いよいよ最後の三作、『地中の男』『眠れる美女』『ブルーハンマー』あたりに踏み込んでいくことになるのでしょうか。

     他に最高なのは、ジェームズ・ヤッフェの『ママは何でも知っている』の文庫解説「ママの名前を誰も知らない」と、同時期の「CRITICA」に掲載された「ヤッフェ覚え書き」のコンボ。これもまた、文庫解説を補完する論を併録している例です。都筑道夫も「アームチェア・ディテクティヴ・ストーリイのもっとも理想的なもの」と評する短編集の魅力を法月が語ることもさることながら、ヤッフェのママ長編四部作に隠された、とある趣向を暴く「ヤッフェ覚え書き」が素晴らしい。ママの長編って、冒頭で短編シリーズのレギュラーキャラクターをあんな形で退場させることからも分かる通り(あんまりだよ、ほんとに)、かなりビターな味わいになっているんですよね。もちろん、推理小説としての強度はそのまま、なのですが。

     あとは「架空(妄想)インタビュー三題」。ジュリアン・シモンズ、スタージョン、スタンリイ・エリンへのインタビューを捏造した妄想インタビューで、冒頭のシモンズの口調からして爆笑。結局クイーンの話になっているスタージョンも最高です(内容そのものは、「盤面の敵はどこへ行ったか」の変奏曲にもなっています)。あとエリンの口からコリアの「夢判断」の話をさせてますが、この後法月綸太郎自身が「続・夢判断」(『赤い部屋異聞』に収録)を書いたことを思うと、じわじわと笑いが込み上げてきます。

     また、解説の中では「純粋トリック空間はいかに実装されたか?」(北山猛邦『少年検閲官』の解説)がやはり白眉。北山猛邦の「世界と謎解きの乖離」を、「純粋トリック空間」という概念を用いて読み解いた解説になりますが、この後、原作となったゲームのポップでサイケデリックな世界観の中で、北山猛邦の物理トリックが生き生きと映えた『ダンガンロンパ霧切』が生まれているだけに(ゲーム「ニューダンガンロンパV3」では、北山がトリック監修を務める。私は北山猛邦の物理トリックの特徴を生かし切った最終話の構想と、この世界観でしかやる意味がないような第三話の鮮やかなトリックがお気に入り)、これもまた島田荘司の「挑発する皮膚」と同じように、芯を捉えているといった感じがします。ところで先月末情報が出たばかりですが、スパイクチュンソフトの今度の新作「超探偵事件簿 レインコード」のシナリオにも北山猛邦が参加しているってマジ? 絶対買うし即日プレイします。

     個人的に親近感を覚えたのは、「ゴーストハント」シリーズの『ゴーストハント読本』に寄稿された「作家・小野不由美ができるまで」の中にある、京大ミステリ研の初期会員が使っていた造語「悦ちゃん手がかり」という言葉だったりしました。仁木悦子のミステリーによく出てくる形式のロジックという意味で、この文章の枕に使われてる部分なのですが、あまりにも「分かりすぎる」肌感覚がツボに入ってしまいました。やはりこれも「ミス研あるある」といったところでしょうか。ところで、『ゴーストハント』が文庫化したんですから、『ゴーストハント読本』も……文庫化……。

     また、『フェアプレイの向こう側』の話をする時、触れざるを得ないのが殊能将之です。『殊能将之 読書日記 2000-2009』(講談社)に収録された解説と、追悼文「嘘が嘘であるために」(殊能将之は2013年に逝去)が収録されています。特に「嘘が嘘であるために」は、読むだけで当時のことを思い出してまた涙が出そうになります。殊能将之といえば、フランスの本格ミステリー作家、ポール・アルテの紹介をしてきたことでも有名で、中でも殊能将之が高く評価していたのが『狂人の部屋』と『死まで139歩』でした。前者は2007年に邦訳されましたが、後者はアルテの邦訳自体が長らく途絶え、今年ようやく邦訳され、法月綸太郎が解説を務めているのです。この解説では、アルテという作家性の話もさることながら、「殊能将之があの時、何を言っていたのか」を日記の記述から読み解いていく過程が、実にスリリングな読み心地になっています。『フェアプレイの向こう側』を読んで殊能将之に思いを馳せたら、『死まで139歩』も一読……というのもありかもしれません。

     ちなみに私的には、『狂人の部屋』がぬけぬけとしたトリック、『死まで139歩』が唖然とさせられる動機、という方向で突き抜けてくれた作だと思っています。いやあ、どちらも笑わされました。

    〇蛇足ながらの2021評論・読書本オススメ

     と、いうことで、『法月綸太郎ミステリー塾』四冊プラス1の紹介を終え、2021年の読書日記は終了! 来年もよろしくお願いいたします! ……といきたいところですが、今年は良い評論本・読書本が他にもあったので、簡単にご紹介を。

    ・米澤穂信『米澤屋書店』(文藝春秋)

     まずどうしたって本書を取り上げないわけにはいかないでしょう。取り上げられた作品の膨大さ、視点の鋭さ、ブックガイドとしての博覧強記ぶり、その資料性の高さで、今後、「作家による読書エッセイ」のマスターピースとなるべき一作です。私にとっては『複雑な殺人芸術 法月綸太郎ミステリー塾 海外編』がそうであり、私の同期の友人にとっては有栖川有栖『有栖の乱読』がそうであったように、大好きな作家の本としていつまでも手元に置き、取り上げられた作品を一作一作丁寧にチェックしていく、そんなキッカケになってくれる本でもあると思います。とにかく「ご挨拶より本の話をしませんか」「ご挨拶より本の話をいたしましょう」が最高なのですよ。注釈も最高です。『米澤屋書店』の嬉しいところは、ミステリーに限らずいろんなジャンルの読みたい本が増えるところですね。私の「読みたい本」メモも凄いことになってしまいました。『世界堂書店』(文春文庫)のアンソロジーとしての充実ぶりを見た時も感動したのですが、『米澤屋書店』に感じる感動はまたひとしお。必見の一作。

    ・竹内康浩・朴舜起『謎ときサリンジャー 「自殺」したのは誰なのか』(新潮選書)

     スリリングな評論、という意味では断トツでこれでした。サリンジャーの「バナナフィッシュにうってつけの日」(『ナイン・ストーリーズ』(新潮文庫)などに収録)を取っ掛かりに、サリンジャー作品の「グラス家サーガ」に隠された意図を読み解いていく、「文学探偵の新冒険」とでもいうべき作品。この「バナナフィッシュ~」という作品、何も考えずに読むと、本当にワケのわからない短編なのですが、一読してから『謎ときサリンジャー』を手に取ると、ナンセンスにしか思えなかった会話が、ガラッと反転して、裏面に隠された物語が立ち上がるようになってくるという凄い本です。特に、エレベーターの中の会話に関しては、伏線の張り方、ミスディレクションという点で、ミステリーの技法そのものではないでしょうか。本当ならグラス家サーガを読み通してからの方が、特に後段の論は読み通しやすくなるのですが、少なくとも「バナナフィッシュにうってつけの日」を読むだけでも楽しめる本ではないかと思います。ミステリーマニアも読み逃すなかれ。

    ・瀬戸川猛資・松坂健『二人がかりで死体をどうぞ』(盛林堂ミステリアス文庫、同人誌)

     1970年代、瀬戸川猛資「二人で殺人を」「警戒信号」、松坂健「死体をどうぞ」というミステリー時評がありました。国内外の新刊をばっさばっさと論じていった、その「二人の荒武者」の軌跡をたどる画期的な一冊。後追いで読んでいると全く感得することが出来ない、「ああ、この本とこの本、同時期に出ていたんだ」「当時の流れで読むと、この本って面白かったんだ」ということが記録として残っていることがまず素晴らしい。『瀬戸内海殺人事件』とか、やたら読みたくなるんですよ。私は当時のミステリー時評として、小林信彦『地獄の読書録』と大井廣介『紙上殺人現場』を愛読しているのですが、それらでは拾えない空白の時期を埋めてくれる、資料的価値が極めて高い一作であると思います。特に読んでいて嬉しかったのは、特に松坂健「死体をどうぞ」に顕著なのですが、冒頭にさらっと書かれた時事ネタ、書誌ネタが、当時の時代性を知る資料として生き、しかも語りの味を生み出していることです。この読書日記でも、毎回毎回、メインの本とは別の書誌情報を盛り込むことにしているのですが、それが間違っていなかったことを教えてもらえた気がしました。もちろん、勝手に受け取っているだけですが。カバーを外すと、ペーパーバックのビビットで毒々しい色使いがぐわっと目に飛び込んできて、これまた幸福感に包まれます。私、ペーパーバックの書影を集めた本とかやたらと買っちゃうんですよね。

     本年10月、本書の発売と前後するタイミングで、本書の執筆者の一人である松坂健さんがご逝去されました。お悔やみ申し上げます。……私は、新作ミステリーの取材のため、一度だけご自宅にお伺いしたことがある、という程度の関係性でしたが、そのたった一回で、たくさんの経験と力をいただけたと思っています。なくてはならない時間でした。中でも、書評で慣れ親しんできた、ミステリーを語る時の「声」を、この耳で聞けたことが、何よりの財産だと思っていて。『二人がかりで死体をどうぞ』を読んでいると、あの「声」をまた聞けるような気がして、だからこそ、かけがえのない一冊なのです。

     お会いした時にお伺いした話、勧めていただいた作品等々については、新作に直接繋がってくる話なので、きちんと私がその作品を完成させて、そこに「あとがき」を書ける日まで、取っておきます。困難な題材なので、数年がかりになると思っていますが、きっと完成させます。本書を見るたびに、身も引き締まることでしょう。

     ……しんみりとした気分になってしまいましたが、どうしても、『二人がかりで死体をどうぞ』の話題でもう一つ。この本を読むと、スウェーデンのカーと言われるヤーン・エクストレムの『うなぎの罠』(未訳)という本が、やたらと読みたくなるんですよ。松坂健さんの原書紹介「ミステリ診察室②」で、作中の図版付きで紹介されているのもさることながら(「事件の謎は、うなぎだけが知っていたということになるのだが……」(同書、p.273)というフレーズ、あまりに気になりますよ!)、本書の他の箇所でも度々名前が出てくるという。ヨハン・テオリンのエピソードは面白すぎです、こんなん笑うにきまってるじゃないですか。待てよ、巻末の索引を見れば、何回出てきたか分かるぞ! ……五か所……五か所!?

    (2021年12月)

第28回2021.12.10
超個人版「SFが読みたい……」 ~ファースト・コンタクトSFっていいよね……~

  • スタニスワフ・レム、書影

    スタニスワフ・レム
    『インヴィンシブル』
    (国書刊行会)

  • 〇年末ランキングの話題から

     年末ミステリーランキングの結果がぼちぼち出そろっている頃かと思います。私は今年、『蒼海館の殺人』(講談社タイガ)を送り出しましたが、各種ランキングで高順位をいただいていて大変ありがたいです(「本格ミステリ・ベスト10」で第2位、「このミステリーがすごい!」で第5位、「ミステリが読みたい」で第4位、「週刊文春ミステリーベスト10」で第8位)。皆さんのご声援の賜物です。

     個人的には、読書日記で勝手にレフェリーを務めて競わせるように紹介した(第23回)、『ヨルガオ殺人事件』『木曜殺人クラブ』『自由研究には向かない殺人』の高順位が嬉しいのと、解説を務めた『オクトーバー・リスト』『スリープウォーカー マンチェスター市警エイダン・ウェイツ』の高順位も嬉しいところ。推しが武道館に行くみたいな気持ちです。特に『オクトーバー・リスト』の解説は、本編の企みにならって全編逆行で書き上げてみた、担当編集からも「クレイジー」と評された怪作ですので、ぜひともご一読を。

    〇SFが読みたい……日もある

     さて、今回のタイトルは別にSF側のランキングムックにならったわけではなく……。海外作品オンリーとはいえ、ミステリーランキングに投票するために11月頭まで怒涛のごとくミステリーを読むことになるので、それが終ると、さあ、じゃあ他の積み本を読んでいこうか、という気分になるのです。ちなみに去年、ランキング投票後の読書日記はケイト・マスカレナス『時間旅行者のキャンディボックス』(創元SF文庫)を紹介しており(第4回)、毎年やってることは変わらないなあと苦笑した次第。あれはミステリー要素も強い一作でしたが、今日これから紹介するのは、完全にSFですね。

     SFに関しては、めちゃくちゃ詳しいというわけでなく、大学に入って先輩に勧められて読んだグレッグ・イーガン『順列都市』のオチが分からなかったと言ったら、「阿津川くん、SF読む才能ないね」と言われたくらいの男なので、別に理知的に分析しようとか、云々しようとかはまるで思っていません。好きとか興奮するとか情緒的なことしか言っていないと思います。まあ、そんなわけで、なんの参考にもならないかもしれませんが、ぼちぼちやっていきます。

     まずはスタニスワフ・レム『インヴィンシブル』(国書刊行会、旧題はハヤカワ文庫SFの『砂漠の惑星』)。〈レム・コレクション〉第二期の一冊目です。ちょっと前にも生誕100周年にかこつけて話しましたが(第22回)、実は私はレムが大好き。特に『完全な真空』と『ソラリス』が好きなんですが、後者が好きなのは、圧倒的なファースト・コンタクトSFであると同時に、「絶対に理解し得ない」存在を描いているからなんですよね。ホラー的でも恋愛小説的でもある書きぶりに夢中になって読めるとはいえ、結局、相手は惑星を覆う粘膜状の海なんですよ。こういうどうしようもなくドライな感覚が好きで、『インヴィンシブル』はこの『ソラリス』に連なる〈ファースト・コンタクト三部作〉の一つということ(あともう一つは『エデン』)。今度の相手は何せ金属製の虫。そういう話好きなんですよー。おまけに人もどんどこ死ぬし(ここ大事)。謎の廃墟、散乱した人骨、変わり果てた宇宙船の姿、一体ここで何があったのか? という謎に少しずつ迫っていく過程も迫力たっぷりです。レムのSFはこうでなくちゃあ。

     オラフ・ステープルドン『スターメイカー』(ちくま文庫)は、上記のレムや、J・L・ボルヘス(これまたド偏愛作家)に絶賛された「伝説の作品」(文庫あらすじより)で、いつか読まなければと思っていたのですが、今回全面改訳されて文庫化されたので、いざ、と読んだもの。白状しますが、一読したものの、私はこの本のことがまだ全然わかっていません。ただ、凄いものを読んだことだけは分かりましたし、とんでもなく面白かった。なんでこんなことを表明するかというと、若島正の『乱視読者のSF講義』に収録された「ジーン・ウルフなんてこわくない」の項を読んで、世の中には、なんかよく分からないけど面白い、ということはあるし、なんかよく分からないけど面白い、と言ってみることも少しも恥ずかしくないんだと思い知らされたからです。もちろん、若島正が「ジーン・ウルフ分からない」と言う時の理解度と、私が同じことを言う時の理解度とには、天と地ほどの差があるわけですが。とはいえ、『スターメイカー』は間違いなく凄い本で、冒頭、「わたし」が丘に登るシーンの描写の仕方だけで、オラフ・ステープルドンが自分の好きな小説家なのは確信したのですが、肉体を遊離して宇宙の彼方を訪れ、奇妙な人類と文明を描いていく文章にもくらくらさせられましたし、途中「あれ、今私、社会学か哲学の本読んでたっけ?」と思わされるような文章になるのも好き。私の中では、ジェイムズ・エルロイの『ホワイト・ジャズ』なんかと同じように、「なんだか全然分からなかったけど、生涯何度となく読み返してしまう一冊」になると思います。なんて頼りない感想だ。よってこの読書日記は、私の『スターメイカー』感想の途中経過その①なのです。

     そんな若島正と絡めて、サラ・ピンスカー『新しい時代への歌』(竹書房文庫)もここで紹介。本書を紹介する前に、ちょっと回り道。先述した若島正『乱視読者のSF講義』は、そのものずばり大学の講義風に、短編SFを一つずつ取り上げ、精読していく「講義」が入っていますが、その中にサミュエル・R・ディレイニーの「コロナ」(『ドリフトグラス』〈国書刊行会〉や『20世紀SF〈3〉1960年代・砂の檻』〈河出文庫〉などで読めます)という短編に言及したものがあります。もちろん、今世界を脅威に陥れているアレとは無関係。ディレイニーのSFも好きなんですが、特にこれが好きなんですよねえ。音楽が、出自も来歴も全く違う二人(大人の男と一人の少女)を、恋愛感情とは全く関係ない形で、繋ぎ止めるという音楽SFの傑作中の傑作。ライブに感動したことのある人間なら、「コロナ」に心震わされないことはないのではないか、と思うくらい。この「コロナ」がいかに感動的かを、淡々と、正確に読み解いていく若島正の講義も実に感動的なので、ぜひとも併読してください。

     さて、なんでこんな話を挟んだかというと、『新しい時代への歌』はこれまた音楽SFの新たな傑作だからなのです。感染症とテロによりライブが禁じられた世界で、「最後にライブツアーを行った女性」として伝説になった女性シンガー・ルースと、人との接触が全て禁じられ、仕事も完全リモート化した社会で生きる女性・ローズマリーの二人の物語。ローズマリーが初めて目にするオンラインライブに感動した日から、二人の人生は大きく動き出す。音楽を作るもの。それを聞くもの。二人の視点から歌に人生を捧げ、あるいは歌に人生を変えられるものの姿を鮮やかに点描していく。これが上手い……。おまけに献辞が最高なのだ。「音楽を生演奏するすべての人と、耳を傾けるすべての人に」。こんな献辞読まされたら、買わないわけにはいかないでしょう……。ちなみにこのSF、さながらコロナの現状を予言したような一冊になっていますが、本国での刊行年は2019年。期せずして現実が追いついてしまったことを「現実になることを望んでなどいなかった」(同書p.599、訳者あとがきより)と語る著者の言葉を読むと、また感慨が込み上げる一冊でした。

     竹書房文庫からはもう一冊。キース・トーマス『ダリア・ミッチェル博士の発見と変異 世界から数十億人が消えた日』を。私、弱いんですよ、モキュメンタリー。しかもこの本では、人類が数十億人消えた「上昇」という現象を巡って、あの日何が起きたのか? 世界はどう変わったのか? というのをノンフィクション形式で書いていくというのだからたまりません。ファースト・コンタクトをノンフィクション風に綴るという発想、天才のそれか? 何せ、冒頭からボイジャー1号の打ち上げを見たことがあると語る全アメリカ大統領の序文から始まるんですよ? それが終ると、こんな前書きが現れます。

    “これは世界がどのように終わったかについての、口述記録オーラル・ヒストリーである。
     本書の執筆には二十三カ月を要した。
     わたしたちが知っていた世界は、たった二カ月で終わった。”(同書、p.16)

     かぁ~っ、お前これもう、たまんねえな! 関係者への聞き取りや口述記録から少しずつ「あの時何が起こったか」が分かってくる展開も上手い。この読み味、どこか覚えがあるな、と思ったので何かと思ったら、ジャン・ミッシェル・トリュオン『禁断のクローン人間』(新潮文庫)というヘンテコSFフランス・ミステリーでした。あれはあれで、近未来の2037年、クローン人間を巡る陰謀を、口述記録や政府の機密文書の集積から暴き出していく話で、フランス・ミステリーっぽいネジの外れ方が忘れ難い一冊でした。壮大な出来事をモキュメンタリー風に綴っていく、という点が共通しているので思い出したのかも。目指した方向はまるで違うものになっていますが。私こういう話好きなので、刺さっちゃうのはしょうがないですね……。

     これにて、ファースト・コンタクトから始まり、ファースト・コンタクトに終わる原稿が終了――といきたいところですが、二、三簡単に追加します。ハヤカワ文庫SFからはアーカディ・マーティーン『帝国という名の記憶』と、R・A・ラファティ『ラファティ・ベスト・コレクション1 町かどの穴』を。前者は銀河を支配する帝国に大使として招かれたマヒートが巻き込まれる陰謀を描いた作品なのですが、前任大使の死を巡る謎、思惑を胸に秘めて単身奮起しなければいけないそのヒリついた緊張感など、ジョン・ル・カレ風のスパイ小説としての読み味があるのが大いにツボ。後者は『地球礁』(河出文庫)が好きなので読もう読もうと思っていたラファティの短編集をいただいたので、大喜びで読みました。どこかネジの外れたナンセンスな世界観と、奇妙な設定の感じがいちいちツボで、そのナンセンスさを突き詰めるあまり、ゾッとするようなオチがたまに現れてくるのがますますツボだったりします。お気に入りは、タイトルからして大好物だし、今にも蝶番の音が聞こえてきそうな「不安」の短編「世界の蝶番はうめく」、解題にある「秘密結社小説の四大巨匠」という言葉に大いに納得の「秘密の鰐について」(ちなみに他の三人として挙げられているのは、ボルヘス、ピンチョン、チェスタトン。これも大いに納得!)、名作短編を思わせる設定から来る捻ったオチ――もさることながら、冒頭で誰もツッコまない鏡の描写に笑わされた「カプリ―ト」、話という点ではこれが一番好きな「つぎの岩につづく」あたり。続刊『ファニーフィンガーズ ラファティ・ベスト・コレクション2』も超楽しみです。

     また、これは11月より前に読んだのですが、ハヤカワ文庫JAの『日本SFの臨界点 石黒達昌 冬至草/雪女』も大好きな作品集で、文章がともかく好きだし(「冬至草」のあの完璧さはなんですか? 読んでいるだけで痺れるんですが……)、モキュメンタリー的、ノンフィクション的な読み物が好きという私の好みを容赦なく突いてくる「平成3年5月2日、後天性免疫不全症候群にて急逝された明寺伸彦博士、並びに、」という論文風の小説がクリティカルヒット。こういうのが読みたくて小説読んでるんだよな。JAの「1500番到達記念」復刊からは半村良『産霊山秘録』を読んでみて、伝奇小説としてあまりにも面白くてひっくり返ることに。日本の歴史に「ヒ」の一族という奇想をぶち込み、歴史を貫通するようにしてその「裏面」を書いていくような活劇の展開に大興奮。武部本一郎のイラストがまた素晴らしい。半村良、中学生に手を出した時より、面白く読めるようになっているかもしれない。前回の冒頭に話した山田風太郎にハマったおかげですかね。今なら『石の血脈』を数段面白く読めそうだし、読み直そうかな。

     創元SF文庫からは「復刊フェア」の一冊、川又千秋の『幻詩狩り』を。毎年、復刊フェアからは何か一つ、ノーマークだった本を買うことにしています。それが今年はこれだったわけですが、なんだか眠れないなあという夜に開いたら、あまりの面白さに一気に読み切ってしまったという。1948年、戦後のパリで書かれた魔術的な詩が、少しずつ人から人へと渡り、人々の運命を歪ませていく……という筋なのですが、冒頭の古きゆかしき警察ものっぽい始まりから一転、過去へと遡っていく構成もいいですし、こういう「人をおかしくしていく芸術もの」の中でも、モチーフが詩なので、詩そのものが一部掲載されるという真っ向勝負の書きぶりが良い。私はこの、「芸術が人を殺していく」というテーマの作品がお気に入りで、先日『短編回廊』に収録されて気軽に読めるようになったデイヴィッド・マレルの短編「オレンジは苦悩、ブルーは狂気」なんかもその一つ。あれは、とある画家のことを「調べた人間が」死んでいくという怪異の書き方になっていて、理に落ちるのか、怪異に落ちるのか分からないことにより生み出されるドライブ感がキモの逸品ですが、『幻詩狩り』はそうした構成とはまた違い、純粋に詩一本で爆走していく感じがたまりません。また宮内悠介推薦帯がかっこいいじゃないですか。これは今買うべきですね。創元SF文庫では門田充宏『記憶翻訳者 いつか光になる』も大いにツボで、過剰共感能力を生かして他者の記憶を「翻訳」していくという設定からして好き。関西弁もいいんですよね。特に表題作には、この設定を生かした映画の使い方に膝を打ったうえで、そこで描かれる感情にジーンときてしまって、読んですぐに、著者の作品を全部買い集めてくるくらいにはハマってしまいました。これも『スターメイカー』とはまた違った意味で、途中経過報告、と言えるかもしれません。

     ところで、竹書房文庫の次の新刊、ヘンリー・カットナーってマジですか? 『御先祖様はアトランティス人〈ユーモアと風刺あふれるアメリカSF〉』(ソノラマ文庫)好きなので即買いします。

    「ミステリー作家は死ぬ日まで~」っていうタイトルなんだから、いい加減ミステリーの話しろよ! というそこのあなた、ご安心ください、次からは平常運転に戻ります。だって、あのお方の新刊が出たんですよ? この連載のタイトルは、都筑道夫と、内藤陳と、それからもう一人……あのお方の本から取っているのですから。

     阿津川辰海は黄色い部屋の夢を見るか? いや、誰が見ようとかまうものか、ということで、次回、クリスマス・イブにお会いしましょう。

    (2021年12月)

第27回2021.11.26
ワシントン・ポー、更なる冒険へ ~イギリス・ミステリーの新星、絶好調の第二作!

  • M・W・クレイヴン、書影

    M・W・クレイヴン
    『ブラックサマーの殺人』
    (ハヤカワ・ミステリ文庫)

  • 〇山田風太郎の話題から

     山田風太郎は2022年に生誕100周年を迎えるそうです。なんでそんなことを急に言い出したかというと、再来週になりますが、12月7日頃に河出書房新社から発売する『黒衣の聖母 山田風太郎傑作選 推理篇』の帯にそう書いてあったからです。今回、同作の帯文を書かせていただきましたので、書店でぜひご覧ください。

     山田風太郎、いいですよね。最近も河出文庫や角川文庫での復刊のおかげで絶えず目にする気がしますし、メディアミックスを見ても、モーニングで勝田文が『戦中派不戦日記』(角川文庫等)を基にした『風太郎不戦日記』の漫画連載を完結させ、今は東直輝によってあのウルトラ傑作『警視庁草紙』が『警視庁草紙 ―風太郎明治劇場―』として連載しているという状況。やっぱりみんな好きなんだなあ、とウンウンと頷いています。

     私はといえば、忍法帖や時代物には未読が多くあるのですが、山田風太郎のミステリー作品だけはめちゃくちゃ読んでいるという、ある種ヘンな読み方をしてきました。高校生の頃に『明治断頭台』で度肝を抜かれ、「厨子家の悪霊」の解決のつるべ打ちに膝を打ち、『妖異金瓶梅』のどぎつい描写にドギマギしながらそのミステリー部分の異常な構成に惚れこみ(『妖異金瓶梅』だけは何度も読んでいます)、『夜よりほかに聴くものもなし』のクールな構成と決め台詞の完璧さに打ち震え、『太陽黒点』の前に完全敗北した……といった具合。「帰去来殺人事件」『十三角関係』のあまりの面白さ・完成度に興奮して、名探偵・荊木歓喜ものは全て読もうと、高木彬光と合作して、荊木歓喜と神津恭介が共演した『悪霊の群』まで読んでいるのですから、相当です。それなのに『魔界転生』はまだ読まずに取ってあって……と言うと怒られます。

     今回の帯文のために、河出文庫で復刊された山田風太郎作品を読んでみて、中でも『八犬伝 山田風太郎傑作選 江戸篇』(上下巻)の面白さには興奮しました。「虚」「実」二つのパートを往還しながら、『南総里見八犬伝』の筋書きと、それを書いていた頃の滝沢馬琴の周辺の話を語っていくという歴史伝奇小説。もともと、子供の頃から『南総里見八犬伝』が大好きだったので、八犬伝の話というだけで興奮してしまうのですが、そこに滝沢馬琴を描いたパートまで合わさってくるので、ぐいぐい読まされてしまって。やっぱり最高だなあ、山田風太郎、と、改めて脱帽してしまいました。

     今回復刊される『黒衣の聖母』の表題作と「さようなら」は、国内ミステリー短編のオールタイムベストにも選びたくなるような、キレがあり、しかもロマンチックなミステリーとなっています。山田風太郎の短編の中で、戦時期を題材にした現代短編10編が完全に集成されたものになっています(私はハルキ文庫版の『黒衣の聖母』を所持していましたが、そこから3編増補され、戦争ものが全て揃ったという形)。推理作品というより、人間の生々しい欲望や、戦争の悲哀を描いたものが多めですが、それでも「島」を舞台にした三作の濃密な人間関係などは一読忘れ難いですよ。オススメ。

    〇ここでちょっと映画に寄り道

     さて、いつもならここでスッと新刊の紹介に入るのですが、今日はちょっとだけ、映像作品の話をさせてください。2021年の総括回に持ってこようかと思っていたのですが、急遽、取り上げたい作品が出来たので。

     今年はコロナ疲れもあって、上半期には映像配信サービスで映画を、下半期には映画館で映画を結構観に行きました。短編「六人の熱狂する日本人」(『透明人間は密室に潜む』収録)のあとがきで名前を上げていますが、あれは「十二人の怒れる男」「12人の優しい日本人」「キサラギ」などのミステリー映画が発想元になっていて、私の中では、映像ミステリー作品も創作への刺激を得るための重要な糧なのです。

     上半期とくにハマったのは、コリン・デクスターの〈警部モース〉シリーズからスピンアウトした刑事シリーズ〈新米刑事モース〉。モースの若かりし頃の事件を描くのですが、警察ミステリーの捜査の心地よさと、思い付きと推理で爆走するモースの青さ(ショーン・エヴァンズがとにかくかっこいい!)、そして彼を評価し、時にたしなめる最高の上司、サーズデイ警部補と、とにかく見所満載なのです。ミステリー的にオススメの回は、クロスワードパズルを手掛かりの中心に置き、二転三転する推理に「これぞデクスターだ!」と膝を打つCase1「新米刑事、最初の事件」(なお、邦題は各所でまちまちですが、アマゾンプライムビデオの配信に合わせてあります)、意外な犯人の出し方も良ければ、ラストシーンの胸を熱く打つセリフ回しが最高のCase3「殺人予想図」、兵器工場でのセレモニーから一転して起きた殺人事件が、見事な映像的手掛かりで解決するCase4「密謀のロンド」、百年前の殺人事件が暗い影を落とすゴシックな作りもさることながら、過去の事件を解き明かすと同時に現在の事件も解いてしまうという離れ業が決まったCase7「顔のない少女」あたり。各種配信サービスを利用してシーズン5まで観てますが、モースとサーズデイの関係性の推移もたまらなく良いのです。

     ドイツの映画「カット/オフ」は、日本では『サイコブレイカー』『アイ・コレクター』『乗客ナンバー23の消失』などで知られるセバスチャン・フィツェックと、マイケル・トゥコスとの共著“Abgeschnitte”が原作のサイコスリラー。検視官が死体の頭部から紙切れを観つけるが、そこには彼の娘の名前と電話番号が。恐る恐る電話をかけると、彼の娘を捕らえたと名乗る人物から、「指示に従わないと娘を殺す」と。しかし、その指示に従おうにも、目的地には雪による飛行機の欠航でたどり着けない。そこで彼がとった方策は……という筋なのですが、この「方策」がどうかしてるんですよね。法律的に超問題があると思うのですが、そこからパズルのように構図を手繰っていくサスペンスが良い。波状攻撃のようなどんでん返しの構成に、ああ、これはフィツェックの技だな、とニヤリとさせられる作品です。

     ここから後半戦。映画「オールド」は、「シックス・センス」「ヴィレッジ」などで知られるホラー映画監督、M・ナイト・シャマランの最新作。ヒーロー論にもガッツリと踏み込んだ、ある意味、島田荘司の「へルター・スケルター」(『エデンの命題』収録)のニューロスティックスリラー×脳科学本格的な味もある「ミスター・ガラス」が大好きなのですが(ただし、「アンブレイカブル」「スプリット」の続編なので、この2作を観てから観ること)、それだけに最新作を楽しみにしていました。そこにいるだけでみるみる年をとっていく、という奇妙なプライべートビーチを巡る話で、設定を聞いた時は、「『ジョジョの奇妙な冒険』のグレイトフル・デッド戦じゃん」と思ったのですが、観てみるとまた違った印象がありました。誕生から死までを全て高速で盛り込んでいく「奇妙な味」風味の作品、というような。私が思い出したのは、早川書房の「異色作家短編集」の一冊、リチャード・マシスン『13のショック』に収録された「人生モンタージュ」。自分の人生を「映画みたいに、うまく端折ることができたら……」と思った瞬間から、高速で自分の人生を体験してしまう30ページの短編なのですが、どこからどう読んでも奇妙な話なのに、「人生」を感じさせる温かな感動が込み上げる作品なんですよ。「オールド」にはそんな感動もありました。もちろん、ミステリー的な着地もあります。最高の伏線回収とは、目の前で同じ現象を起こすことなのですよ。あと私、「ヘレディタリー/継承」を観て以来、「オールド」でも子供役(年をとった後の青年としてですが)を演じている、アレックス・ウルフの顔が大好きなんですよね。毎度毎度どえらいことに巻き込まれてやがる。

    「マスカレード・ナイト」は東野圭吾原作で、「マスカレード・ホテル」に続く映画第二弾。やっぱりあるじゃないですか、木村拓哉と長澤まさみを観たくなる時……。というのは冗談としても、「誰が犯人であってもおかしくない」豪華キャストと、そのキャストをフルに生かした意外なツイストの連打がたまらないミステリー映画でした。ホテル周りの監修と、警察組織の書き方がしっかりしているのも良い。警察にもホテルにもそれぞれの正義があって、そのせめぎ合いと共闘をリアルに探っていく過程がいいんですよねえ。原作も好きなのですが、これだけ豪華なキャストと映像を観せられると、両方合わせて楽しんでほしくなります。作中の舞台となる「ホテル・コルテシア東京」の、異世界と見紛うばかりの仕上がり、最高です。年越しナイトが題材の作品なので、ロングランしてたら年末に観に行くのも手です。ちなみに木村拓哉繋がりで、「龍が如く」スタジオの最新作となるゲーム「LOST JUDGMENT 裁かれざる記憶」の話も。これは木村拓哉がモデル・声優を務めるキャラクター、八神隆之を主人公としたシリーズ第二弾ですが、ミステリーの名作短編にもある逆転の発想に、ヘンテコなメイントリックが掛け合わせてありました。玉木宏がめちゃくちゃ悪人で顔が良くて好き。

    「モンタナの目撃者」は、日本では『夜を希う』『深い森の灯台』などが訳されているマイクル・コリータの“ Those Who Wish Me Dead”が原作。アンジェリーナ・ジョリー演じる森林消防隊員が主人公の作品で、ある事件のトラウマから塔での森林火災の監視についている。そこに、目の前で父を暗殺された少年がやってきて、二人で暗殺者から逃げながら戦う、というサスペンス。塔から雷雲を観察するシーンとか、モンタナを焼く山火事のシーンとか、やたらとC・J・ボックスの猟区管理官の書きぶりを思い出すネイチャー映画感が気持ち良い。暗殺者の背景とか、キャラ周りはざっくりしていて、原作を読んで補完する必要があるのは間違いないのですが、頭を空っぽにして楽しめる100分間でした。やっぱりアンジーっていいよね。

    「クーリエ:最高機密の運び屋」はキューバ危機の時代、スパイにスカウトされたセールスマンの英国人を巡る「事実に基づく物語」。この英国人を演じるベネディクト・カンバーバッチは、ご存知「SHERLOCK」のシャーロック・ホームズだというのだからたまらない。私は「一市井人」から観た戦争、冷戦の話が大好きなので、このベネディクト・カンバーバッチ演じるグレヴィル・ウィンの描き方がともかくたまらないんですよねえ。運び屋として作戦には協力するが、あくまでも家庭があり、「友」として、ソ連の二重スパイ・ペンコフスキーに共感する一人の男、という描き方。これがしっかりしているからこそ、ラストシーンがとんでもなく胸を打つんだと思います。パンフレットを読むと分かるんですが、カンバーバッチはこのウィンの当時の映像や自伝から、彼のRPアクセント(イギリス英語のアクセントの一種)の特徴や、彼の上昇志向やセールスマンとしての技術の高さをしっかり読み取って役作りに生かしていて、それが全編にいい緊張感をもたらしているというか。というかウィンについて語るカンバーバッチがもうホームズみたいだな……。楽曲も絵作りも全部たまらない。ジョン・ル・カレの緊張感が好きな人にはぜひともオススメしておきたいです。今年のマイベスト・ムービーはこれ。

     ……と思ったのですが、先日、裏ベストになる一作を観てしまったのです。「急遽取り上げたい」というのはこの作品のこと。それがジェームズ・ワン監督による「マリグナント 狂暴な悪夢」です。ええ……実は私、高校生の頃から「ソウ」のファンで(R15+なのでギリギリセーフ!)、もちろん鮮やかな伏線に支えられたどんでん返しも好きなんですが、やっぱり、たまに悪趣味なものを存分に摂取したくなるんですよ。観るだに痛そうなシーンに顔をしかめたり、「こうなったら嫌だなぁ~」と思うことがどんどん実現したり、恐怖が振り切れて爆笑したりしていると、妙に元気になることありますよね~。ちなみにあまりに日常性を感じると夜眠れないので、和ホラーは観れません……。当初ホラー苦手だったのですが、大学の頃、知り合いからダリオ・アルジェントや「サンタ・サングレ」のDVDなどをまとめて貸してもらい、英才教育を受けたことでこうなりました。教育は大事。

     で、今回の「マリグナント 狂暴な悪夢」は、私がホラー映画に求めている嫌さが全部詰まっている嫌な作品だったのです(ちなみにこれは褒めてますよ~)。冒頭から、90年代のビデオテープの記録! 海辺に建つ精神病院! 謎の患者! 徹底的に患者の姿を映さないカメラワーク! 血! 血! 血! 死体! と古き良きジャーロ映画(ざっくりいうと、流血多めの殺人シーン、映像、音楽などを特徴として、フーダニットの要素は残したホラー映画のこと。「ジャッロ」とも表記する。光文社の雑誌、ひいてはこの読書日記の連載元のことではない!)を思わせる要素の乱打に興奮してしまうのです。……えっ? ジェームズ・ワンって、『ソウ』とか『死霊館』の各シリーズはいいとしても、『ワイルド・スピード SKY MISSION』とか『アクアマン』とかメガヒット映画撮ってますよね? こんなの撮ってくれていいんですか? 俺たちのために……? ありがとう……。

     で、こういうのが好きなのって、中学生の頃から綾辻行人『殺人鬼』『緋色の囁き』『フリークス』、三津田信三『スラッシャー 廃園の殺人』などが好きだったせいだと思うんですよね。大学生でアルジェントにスッと入れたのもそれが大きい気がします。有名な「サスペリアPART2」の映像的手掛かりも好きですが、「4匹の蠅」の「そうはならんやろ!」「なっとるやろがい!」感とか好きなんですよね。

     閑話休題。「狂暴な悪夢」という副題の通り、悪夢のシーンの映像的な快楽に満ちた作り込みがたまりません。アナベル・ウォーリス演じるマディソンの顔がポスターには使われていますが、目を見開いた時に映える顔なんですよね……。敵がクッソ気持ち悪い動きしてくるのも良いホラーの特徴。どう考えてもキモい。この敵の名前、ガブリエルというのですが(冒頭で言われるのでネタバレではない)、ガブリエル君、こんな一発ネタみたいな使われ方をしなければ、ホラー界のニューダークヒーローになれるポテンシャルがあった。いや、でも一発ネタみたいな使い方だから良いんだよなあ、こればっかりは。理に落ちるのか、恐怖に落ちるのかギリギリまで分からない、ホラーとミステリーの振り子運動が素晴らしい一作に仕上がっています。ぶっちゃけ、「ギリギリのフェアプレイ」じゃないですか? これ? ……そんなことないかなあ。ああ、あのホラー映画とかあのホラー映画を引き合いに出して語りたいが、どネタバレになってしまうのだ! パンフレットには全部関連作として書いてあるから観終わったらパンフレットを確かめてくれ! ちなみにパンフレットは売り切れ続出らしいですよ……ほんとに!?

     いや、でも、絶対気軽に観に行かないでくださいね? 倫理観とかは、正直、ないので。怒らないでくださいね? こういうのが好きな大きなお友達だけが観に行ってください。私のせいで今週T京S元社の担当編集さんが観に行ったそうなのですが、彼は私に「アングスト/不安」を薦めてきた男なので絶対に大丈夫だろうと満面の笑みで送り出しました。

     ということで、「マリグナント 狂暴な悪夢」の話でした。2021年はこれを観られた年として記憶しておきたいので、大脱線してみました。

    〇刑事ポーの冒険から目を離すな!

     さて、そんなわけで、映像化したらウルトラヒット間違いなし! という新刊を今回は取り上げてみようと思います。

     10月にM・W・クレイヴンの新作『ブラックサマーの殺人』(ハヤカワ・ミステリ文庫)が刊行されました。刑事ワシントン・ポーとその相棒たちの活躍を描くシリーズの第二弾で、2020年に第一弾の『ストーンサークルの殺人』が刊行されています。第一弾からかなり面白かったのですが、今年の夏とか、まだ『ブラックサマーの殺人』が刊行されていなかった段階でも、書店に面陳され、フェアとして棚が確保されている状況を観ていたので、もしかして売れているのでは、と密かに思っておりました。

    『ストーンサークルの殺人』は、舞台となる、英国カンブリア州のストーンサークルが殺人の現場となる、という観光ミステリーとしての絵作りにもミソがありました。冒頭3ページ、事件の情景を描くシーンだけでグッと引き込まれるんですよね。舞台の面白さ、加えてワシントン・ポーのユーモラスな語り、バディとなる分析官ブラッドショーのキャラクターの完璧さ(16歳でオックスフォード大学で最初の学位を受けてからずっと、学問の世界で生きてきたので世間一般の常識に疎く、ポーをぎょっとさせることも。ノーメイクで出てくるのもキャラに合っていて良い)……どれをとっても、かなり期待値高めの幕開けでした。ちなみに、これ、超重要ポイントなんですが、男女バディが恋愛関係にならないタイプの作品です(まあ、少なくとも今のところ、と留保しておきますが)。

     連続焼殺事件の目的や、加速する連続殺人のミッシング・リンク……などは当然書けないのですが、一つ、謎解きミステリー作家としてのクレイヴンの特色として言えるのは、「探偵役をただの探偵役のままにはしておかず、プロットの中で有機的に機能させることが出来る作家」だということです。こういう特徴は、たとえばマイクル・コナリーの〈ハリー・ボッシュ〉シリーズや、ジョー・ネスボの〈ハリー・ホーレ〉シリーズに通じるところがあります。『ストーンサークルの殺人』では、三番目の死体に「ワシントン・ポー」の名前と「5」と思しき字が刻みつけられていた、というのが最初の謎になっています。こうなると、ポーは否応なしに、事件に巻き込まれていくことになる。それがプロット上の都合ではなく、きちんと犯人の計画に生かされているのも、クレイヴンがそういう作家だと思う理由の一つでした。

     今回『ブラックサマーの殺人』を読んで、その印象は確信に変わりました。ポーやブラッドショー、そして捜査チームの顔見せが第一作で済んだ今作では、いよいよ「殺人事件」そのものに比重をかけて、実にトリッキーなプロットに挑んでくれたのです。

     六年前、ポーによって刑務所送りにされたカリスマシェフ。彼は自分の娘を殺害した容疑で逮捕されていた。しかし現在、殺されたと思われていた娘が、生きて姿を現したという。ポーによる逮捕は冤罪だったのか? それとも、これは何か、大きな策略の幕開けなのか? ……というのが筋。

     冒頭でポーの逮捕という衝撃のシーンから幕を開け、そこから「二週間前 第一日」に遡っていく構成からして技あり一本ですし、冒頭近くに描かれる、この六年前に死んだと思われていた娘が現れるシーンが実に良い。刑事の観察の仕方がとても地に足がついているのです。こういう細部を疎かにせず、同時にエンターテイメントとしての快感も忘れないでいてくれるのが、クレイヴンという作家の観所だと思います。

     そのうえで描かれるのは、「六年前の事件は冤罪だったのか」という謎。当然、証拠のほとんどは散逸した状態ながら、ポーの冤罪を示す証拠だけは続々上がって来る、という非常にマズい状況です。まさに、一種の「不可能犯罪」と言ってもいいでしょう。ポーはこの事件の裏には何かがあると、自分の身に降りかかる火の粉を払うために奮戦しますが、なかなか尻尾を掴めない。

     ところが、中盤のある一点、ある手掛かりによって、ポーは一つの着想を得ます(ネタバレを避けるとこんな表現に……)。このシーンがまず良い。良いのですが、本当に素晴らしいと思ったのは、その推理によって一つの壁を突破しても、まだ十重二十重に壁が立ちふさがっている、という不可能興味の描き方です。

     半ば「敵」の姿が観えている状態で、それでも詰め切れないもどかしさ。これこそ警察小説! と膝を打ちたくなるような緊迫感。しかし、重苦しくはならず、チーム捜査、ブラッドショーとの協力といった要素の風通しの良さ(今回のブラッドショーの登場シーン……最高ですよ!)もしっかり同居しているのです。描かれている事件は間違いなく陰惨で、状況も絶体絶命なのに、決して明るさを失わないんですよね。それはポーの三人称一視点の語りの良さが生んでいるものでもありますし、チーム、バディの足取りの軽やかさから生まれるものでもあります。終盤のシーンの、胸がすくようなツイストには、思わず笑顔になってしまいました。

     読めば読むほどテンションが上がる解決編もさることながら(ほぼ過不足なく伏線回収を行いつつ、エンターテイメントとしての盛り上げも一切忘れない作者の手並みは見事なもの)、『ストーンサークルの殺人』のラストで観せた「引き」の面白さは本作も健在。読み終えたばかりなのに、すぐにでも次作が読みたくなってしまいました。

    〈ワシントン・ポー〉シリーズ、いいなあ。巻末の作品リストにあるシリーズの短編集なんかもぜひとも読んでみたいところ。ガンガン訳されていってほしいなあ。こうして年に一回、〈ワシントン・ポー〉の軽やかさに舌鼓を打ちたい。

     なお、決定的なネタバレはないですが、『ストーンサークルの殺人』で描かれた〈イモレーション・マン〉の事件は本作にも影を落としていますし、ポーに関する重大な設定も明かされているのが第一巻なので、出来れば順番に読んで欲しいところ。ともあれ、〈ワシントン・ポー〉シリーズ、やはりオススメです。

    (2021年11月)

第26回2021.11.12
伊坂幸太郎は心の特効薬 ~唯一無二の寓話世界、新たなる傑作~

  • 伊坂幸太郎、書影

    伊坂幸太郎
    『ペッパーズ・ゴースト』
    (朝日新聞出版)

  • 〇新雑誌が創刊

     先月の話題になってしまいましたが、東京創元社の雑誌「ミステリーズ!」が廃刊となり、先月から新しく「紙魚の手帖」という雑誌が始まりました。

     以前は創元推理文庫の投げ込みチラシに使われていたこの〈紙魚の手帖〉という名前。結構内容も充実していて、古本屋で何気なく買った本に挟まっていると、嬉しかったものです。私の家には、この投げ込みマガジン〈紙魚の手帖〉が挟んであるF・W・クロフツの『スターヴェルの悲劇』が今も大事に取ってあります(しかもオレンジ色の背のやつ)。

     この度の新雑誌「紙魚の手帖」にはミステリーだけでなく、SFや文芸、しかも海外翻訳の短編まで掲載されていて、おまけに大好きな加納朋子の新作や、今絶好調で私も密かにファンになっている櫻田智也の最新短編まで。充実の一冊目だったと思います。ピーター・トレメインの〈修道女フィデルマ〉シリーズの短編「魚泥棒は誰だ?」の掲載も嬉しいところ。人を喰ったようなオチは思わずニヤッとしてしまうような塩梅なのですが、やはり歴史ミステリー的な描写が良い。解説文には、来年の春に出る短編集『修道女フィデルマの采配(仮)』の情報も! これは嬉しい。元の短編集“Whispers of the Dead”から5編を収録、とあったので調べてみたら、この短編集は全部で15編あるんですね。分厚い。トリッキーな作品揃いの第二短編集の『修道女フィデルマの洞察』が結構好きなので、楽しみにしています。

     初期の頃の「ミステリーズ!」や「ジャーロ」がやっていた海外短編訳出は、個人的にはあると嬉しいものです。今なお「ミステリマガジン」では海外短編が載っていますし(11月号から「華文ミステリ招待席」の連載も開始)、田口俊樹の新訳と杉江松恋の解説が同時に味わえる「おやじの細腕新訳まくり」の連載も楽しみにしているところですが(小鷹信光『“新パパイラスの舟”と21の短篇』〈論創社〉のような形で、アンソロジーと評論の両輪が一体となった書籍になってほしい……)。それでも「紙魚の手帖」に期待してしまいますね、こうなってくると。

     さて、いきなり海外短編の話をしていまいましたが、ここで今月の一冊の話へ。

    〇伊坂幸太郎が好き

     突然ですが、伊坂幸太郎のことが大好きです。

     本格ミステリー、海外ミステリーの話ばかりしているせいで、ともすればそういう印象を持たれていないと思うのですが……。なので、あえて声を大にして言わせていただこうと。私にとって、エンターテイメントへの入り口となった作家こそ、伊坂幸太郎です。むしろ、これだけ海外ミステリーを読めるようになったのは、会話のセンスやユーモア、エンターテイメントとしての風通しの良さといった小説の魅力を、伊坂作品を通じて摂取していたおかげではないかと思うのです。少なくとも、伊坂幸太郎を通らずして、私はドナルド・E・ウェストレイクやトニー・ケンリック、ローレンス・ブロックの〈殺し屋ケラー〉シリーズに出会っていません。二見文庫の『殺し屋』などのシリーズの新帯で、伊坂幸太郎の推薦文付きの黄色い帯が出たのを憶えている方もいらっしゃるのではないでしょうか。私はあれで手に取ったクチです。ちなみに私は、大須賀めぐみが伊坂作品の要素とキャラをマッシュアップしたコミカライズ『魔王 JUVENILE REMIX』が、中学一年生の頃に連載開始したという、ある意味での直撃世代で、原作の良さとコミカライズの巧さ、その両方を同級生に暑苦しく語っていた覚えがあります。

     自分にとってエンターテイメント、ひいては、海外ミステリー作品の入り口だった……そんな思い入れもあって、私の中で伊坂幸太郎は、唯一無二、なのです。1ページ開けば、伊坂幸太郎独特の寓話世界に連れていかれ、現実から遊離したようでありながら、どうしようもなく現実の一側面を切り取ったその描写や会話に、そして緻密に回収される伏線の妙技に、私は身もだえするしかない。

     新刊である『ペッパーズ・ゴースト』(朝日新聞出版)は、まさにそんな期待に応えてくれる本でした。

     1ページ開けば、ロシアンブルとアメショーという偽名を使っている二人の男の会話が始まります。「九〇年代にアフリカ、ルワンダで起きた虐殺のことは知っているか?」(本書、p.4)。ピシッと読者の頬を張るような、一気に世界に引き込まれる出だしですが、章が変わると、どうも、この二人が出てくるパートは、主人公である壇先生の生徒である、布藤鞠子という中学二年生の少女が書いた小説だということが分かってきます(この少女、中学二年生にして伊坂幸太郎の会話センスを再現できるのですから、ただものではありません!)。このあたりの切り替えでもうニヤニヤしてしまうのですが、小説はしばらく、壇先生の視点と作中作、この二つのパートをスイッチしながら進み、進むごとに視点が増えていく結構となっています。

     この中学校教師、壇は不思議な能力を持っています。他人の飛沫を浴びて“感染”すると、その人の未来が少しだけ見える能力、〈先行上映〉です。本当に少しだけしか見えず、見たものを他人に信じさせることも困難。一見、役に立つのか立たないのか分からない、少し、不思議な能力が主軸になるところは、『魔王』(講談社文庫)などを思い起こさせるでしょう。実に伊坂作品らしい想像の手ざわり。おまけに、今般の情勢に対する私たちの不安や心配を形にしたような手ざわりになっています。この能力の使い方が要所要所でバシッと決まっているのと、序盤から早くもピンチに追い込まれることで、やはり上手い! と膝を打ってしまいます。

     また、伊坂作品と言えば、有名な文学作品もその枠にとらわれることなく、ポップに取り込まれ、解釈されていく楽しみが魅力の一つです。私が特に好きなのは『グラスホッパー』(角川文庫)に登場する『罪と罰』を愛読して、常に持ち歩いている殺し屋・鯨の造形や、『ホワイト・ラビット』(新潮文庫)における『レ・ミゼラブル』の使い方、などですが、今回もまたそれらの「好き」を塗り替えてくるような面白い使い方だったのです。今回取り込まれたのは、谷崎潤一郎の『痴人の愛』と、ニーチェでした。今まで書いてきたあらすじと『痴人の愛』の一体何が繋がるのか、さっぱり分からないことと思いますが、登場した時にニヤリとしてしまうんですよねえ。

     正直、『超訳 ニーチェの言葉』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)が出た後の日本では、ニーチェを作品に取り込むこと自体、シリアスに書いてもポップに書いても陳腐化してしまって難しいのでは、と思っていたのです。そう思っていただけに、伊坂幸太郎がニーチェの「永遠回帰」の考え方を、軽やかに、それでいて温かく取り入れたのにはハッとさせられました。この人はやはり、どんな言葉でも、私たちの手に届けるまでに自分で噛み砕いて、温かく届けてくれるのだと、改めて思わされたのです。

     やはり、伊坂作品からしか摂取出来ない栄養というものが、この世にはあります。「終末時計」というワードがこんなに面白く使われている例って見たことがないし……。もちろん、この後の展開は全く書けないのですが、展開のツイストによる驚きと、伏線の回収による納得がどんどん増していくような構成で、実にたまらないのです。

     読み終えて本を閉じる時にも、確かな満足感が残る。帯にある「作家生活20周年超の集大成」という看板に偽りなし。ああ、今年も良いものを読ませていただきました。大満足。

     ちなみに、私が特に好きな伊坂幸太郎作品の話もしてみようと思います。せっかくの機会なので。たとえば……読み終えた後、自分でノートに「あるもの」を作って、その精緻な設計に更に感動することになったという思い出がある『ラッシュライフ』(新潮文庫)、死神・千葉のキャラが好きすぎて、友達と一緒に鑑賞会をやった映画も、違ったアプローチでネタを作っていることに感動した『死神の精度』(文春文庫)、冒頭からノックアウトされ何度となく再読している『陽気なギャングが地球を回す』(祥伝社文庫)(ちなみに映画も好き。何せちゃんと90分で作っているのが良い。おまけに響野は佐藤浩市なのだ。ひゃっほう!)、読んでからしばらく「痴漢は死ね」が口癖になってしまう痛い中学生時代を過ごすことになった『ゴールデンスランバー』(新潮文庫)、中学二年の時になけなしの小遣いをはたいて買い、読んでからしばらくパソコンで何かを検索するのが怖くなった『モダンタイムズ 特別版』(モーニング連載時の花沢健吾の全イラストが楽しめるバージョンです。今も宝物)、東北新幹線ではなかったとはいえ、友人との旅行に向かう新幹線の中で読んだため最高の気分になった『マリアビートル』(角川文庫)、読んでからしばらく友達との麻雀でピンフ(平和)ばかり狙い続けることになった『砂漠』(実業之日本社文庫など)、ちょうど阿部和重作品にハマったタイミングで、まるで祭りのような本が出ると興奮に興奮してその期待を裏切られなかった阿部和重との共著『キャプテンサンダーボルト』(文春文庫など)……ああダメだ、参りました。到底ここに書き尽くせない。このままでは画面を文字で埋め尽くしてしまう。

     思い返せば思い返すほど、私の青春の傍らに、いつも伊坂幸太郎がいる。

    (2021年11月)

第25回2021.10.22
世界に毒を撒き散らして ~〈ドーキー・アーカイヴ〉、またしても快作~

  • アイリス・オーウェンス、書影

    アイリス・オーウェンス
    『アフター・クロード』
    (国書刊行会)

  • 〇一周年ありがとうございます!

     なんと、今日でこの連載は一周年を迎えます。ありがとうございます! ここまで続けてこられたのも皆さんのおかげです。出版社の公式ツイッターや、取り上げた作品の担当編集さんに反応していただいたり、他社の編集さんと打ち合わせしてる時に、「読んでいます」とか、「日記を見てその本を買った」とか言われたりすると、めちゃくちゃ恐縮してしまいますが、本当にありがたいですね……。これからも情勢の許す限り、マイペースに本を取り上げていきます。

    〇ところで……

     日記なのでこれだけ残しておきたいんですけど……ゲームの話で恐縮ですが、先月、“Tales of Arise”が発売されたんですよ……テイルズ・オブシリーズは小学生の頃から大ファンなんですけど、全部後追いだったり、対象となるゲームハードを持っていなかったりで、実は新作としてすぐ購入してプレイできたのは初めてなんですよね。コラボカフェに行ったり、めちゃくちゃグッズ買ったりしているのも実はテイルズでは初めてです。テイルズ・オブシリーズでは恒例の「マーボーカレー」がリアルで食べられたのでめっちゃ楽しかったですね……。今回も壮大な世界観と中盤のどんでん返し、癖がありつつも愛らしいキャラクター(特に主人公であるアルフェンとシオンは絶品、テュオハリムも良い)を堪能しました。ラスボス周りには不満が残る作りなのですが「公式が最大手」「推しカプが最強」といった感じだったので全てを良しとしました。今回スキットの充実ぶり半端じゃなかったですからね。あと戦闘システムと曲が最高でした。サントラを早くください。執筆BGMにするので……。

     さあ、「どうして今日は本以外の話題から?」と思ったかもしれません。というのも、連載もせっかく一周年を迎えたので、とあるカミングアウト、いえ、場合によっては、誰かの救いになるかもしれない事実から、今回は初めてみようと思ったからです。それが今回取り上げる本ともつながってきます。

     私にも、一文字も本を読めない時があります。

    〇本が読めない時にはどうする?

     仕事が殺人的に忙しくなったとか、締め切りが大量に重なったとか、外出しなくなった(電車に乗らないので本を読む時間が減る)とか、ガッカリするような本を連続で読んだとか……特定の原因があることもありますが、何が原因かハッキリしないこともあります。どんな本を読んでも目が滑ったり、すぐ寝落ちしてしまったりする時、「あれっ」と初めて気付くのです。

     この読書日記をやるようになってからは、バタバタしてしまって数日読めないということはありましたが、大抵はすぐ元に戻っていました。それが今回は、随分長引きました。私はこの状態を「読書スランプ」と呼んでいます(文章が一文字も書けない状態と区別するために)。自覚症状を得てから十日だったので、大体二週間はその状態だったんだろうと思います。この日記は二週間ごとに更新されているので、二週間読まないとマズいんですよね。冒頭で言ったゲームをやっていたことは特に関係なくて、いつもはゲームをやりながらでも執筆も読書も進むので……季節の変わり目に弱いんですかねえ。

     そういう時は大抵気分も落ち込んでいることが多いので、読書を起点に生活が崩れ始めます。では、そういう時にはどうするか? 色々気分転換の方法はあると思いますが、私の場合は「一旦底まで沈む」ことをよくします。無理矢理元気になろうと思っても出来ないんですよね。陰鬱な話、暗い話、主人公がボロボロになるまで悩んで苦しむ話、不安を掻き立てられる話……そういうものを読んでいくと、ようやく、この世界に一人じゃないと思えるようになるのです。

     これまでの読書スランプ時に役立った本のリストを挙げていくと……アガサ・クリスティー『春にして君を離れ』『終わりなき夜に生まれつく』、法月綸太郎全長編(特に『密閉教室』『頼子のために』『生首に聞いてみろ』)、ジョイス・キャロル・オーツ諸作品(特に『生ける屍』、超傑作)、ジム・トンプスン全作品(特に『死ぬほどいい女』『残酷な夜』)、シャーリィ・ジャクスン諸作品(特に『くじ』『野蛮人たちの生活』)、デイヴィッド・ピース『TOKYO YEAR ZERO』『1977 リッパー』、恩田陸『ユージニア』『灰の劇場』、ローレンス・ブロック『八百万の死にざま』、多岐川恭『氷柱』『人でなしの遍歴』、平山夢明全作品(特に『他人事』『あむんぜん』などの短編集)、P・D・ジェイムズ『黒い塔』、ジェイムズ・エルロイ『ホワイト・ジャズ』『わが母なる暗黒』……。その本が持つ暗い色や毒に身を浸すことで、底の底まで沈み、逆に浮き上がってくるという。ヘンな性格をしているなあ、と思います。

     そして今回、私が読書を再開する役に立ったのが、エイダン・チェンバーズの『おれの墓で踊れ』(徳間文庫)と……アイリス・オーウェンス『アフター・クロード』(国書刊行会)だったわけです。前者は友人の墓を荒らした容疑で逮捕された少年についての新聞記事に想を得て描かれた長編です。実在の新聞記事から想像を膨らませた、という点では、この連載で取り上げた恩田陸『灰の劇場』と共通点がある作品ですね(第12回)。「その二人の少年に何があったか」を辿る青春小説なのですが、この罪を犯した少年、ハルの方を主人公として、彼が自分の心理状態を理解するために、教師の提案を受けて手記を書いていく……という設定がキモ。自分の心情を理解する過程の中で、自分の心、友人のバリーの心を掴もうとしても掴めないもどかしさにもがき、苦しみ、次第に文体が破壊されたりする過程が凄いのです。なぜ誰もオレを理解できないのか、オレ自身もオレも理解できない、という苦悩が噴出する終盤はノワールの味にも接近するのですが、全編をユーモアが覆っていて、陰鬱すぎないのも良いところです。カート・ヴォネガットが好きな男子高校生という設定で既にツボですし、カーリという女性にヴォネガットの『スローターハウス5』(早川書房)に出てくるフレーズで毒づかれた時、「これのおかげでカーリが読んでいることを知った」と注をつけてくるくだりとかでクスッときてしまいます。

    〇【警告!】この本を読む者は、一切の希望を捨てよ

     そして後者は……ここで私は、【警告!】と発しておかなければなりません。なぜならば、『アフター・クロード』は、ある種の人にとっては劇薬となり得る一冊だからです。決して……決して、面白そうだと思ったとしても、自己責任で手に取るようにしてください。正直、私には責任を負えません。

     本書は「ハリエット・ダイムラー」の筆名でポルノを書いていた作家の別名義で、ポルノ作家に枠にとらわれない作風で知られていました。日本だと富士見ロマン文庫で邦訳がある程度でしょうか(『快楽泥棒』など)。『ロリータ』の版元オリンピア・プレスでポルノ作品を発表していたという紹介文を見て、〈ドーキー・アーカイヴ〉責任編集者である若島正の名前と回路が繋がった、という感じ。

    〈ドーキー・アーカイヴ〉は元々大好きなシリーズで、若島正と横山茂雄の責任編集で、埋もれた異色作、知られざる傑作を刊行していく幻想怪奇、ホラー、ミステリ、SF等々の選書です。全10巻の予告が打たれて、2016年にL・P・デイヴィス『虚構の男』、サーバン『人形つくり』が同時刊行されたのを皮切りに、今回の『アフター・クロード』で七冊目。全部買って読んでいますが、これまで特にお気に入りなのは二冊。一冊目は、多重人格者内の人格同士のバトルという奇想天外な発想を、作者独特の不安をどこまでも惹起する文章と道具立てで実現したシャーリィ・ジャクスン『鳥の巣』。二冊目は、25ページごとにポルノ作家が原稿を進めては脱線を重ねてしまい破棄していく……という流れを繰り返し、それが変な方向にどんどん転がっていくドナルド・E・ウェストレイク屈指の怪作『さらば、シェヘラザード』。毎回とても楽しみにしているからこそ、『アフター・クロード』もすぐさま買ってきたのです。

    「捨ててやった、クロードを。あのフランス人のドブネズミ」という、作中の主人公ハリエットが吐き捨てるように放つ印象的な一行から始まり(自分のもう一つの筆名からあえて名前を取っているのが、面白いところです)、冒頭からクソ映画を連射砲のごとき舌鋒でけなし、クロードに対しても皮肉や毒を吐き続け、誰であっても彼女の追求から逃れることは出来ない。自分本位で、妙にユーモラスで、反対意見は一つも認めず、誰からも理解されず、堕ちていく。闊歩した道全てに猛毒を撒き散らすような人生を描く、地獄のような小説です。

     褒めてるのか? とお思いでしょうが、前段の部分を読んだ方はお分かりかと思います。これは、私がある種の小説に寄せる最大級にして最高峰の賛辞です。私は、最良の文学は人を完膚なきまでに傷つける力があると思っています。それは、「誰も傷つけない物語」の対置にあるような小説でもなく、反対に、特定の境遇にある人々や症例を持つ人だけを描くことで笑いやお涙頂戴を演出する「特定の誰かだけを排斥したエンターテイメント」とも決定的に違います。

     なぜ違う、と言えるのか。『アフター・クロード』に描かれるような人間像に、心のどこかで心当たりがあるからかもしれません。そのものズバリ、な人が身近にいる人もいるかもしれません。かといって、「ああ、こういう人いるいる」という共感を誘う作品でも決してない……そんなヤワなものであったら、どんなに楽か。言うなれば……「現実の一真実があまりにも残酷に切り取られており、その人生を小説の形で追体験せざるを得ないからこそ、私はここまで深く傷つく」、そんな本なのです。

    『アフター・クロード』の読み味に最も近い小説は、私のこれまでの読書体験の中から言えば、アガサ・クリスティーの『春にして君を離れ』(クリスティー文庫)になると思います。クリスティーはこの「猛毒を撒き散らし、誰からも憎まれる一人の女性」を、ミステリの技法を使った普通小説の形で紡ぎました。読者は彼女のことを俯瞰的に眺められるからこそ、鈍感な彼女の人生を、彼女の周囲の人間が舐める悪夢を、350ページの間徹底的に、執拗なまでに味合わされることになります。

     本書も似ています。「捨ててやった、クロードを。あのフランス人のドブネズミ」。この一文は、当初、作者アイリス・オーウェンスの頭の中に「あたしはクロードに捨てられた、あのフランス人のドブネズミ」(同書解説内、p.267-268)という形で存在していたと言います。その文章にコペルニクス的転回が起こることによって、今の一文になり、小説の骨格が出来た、というのです。そう、この一文を小説の冒頭で叩きつけられた後、すぐさま感じる違和感は、次第に戦慄に取って代わります。作中の主人公ハリエットが見る現実の――「信じたいと思っている」現実の向こうに見える地獄だけを、読者だけが見続けることになるのです。こんな地獄、他にあるだろうか。身近にこういう人間がいる、こういう人間に困らされたことがある、という人ほど、本書から受けるダメージは深いでしょう。「そういう人もいるよね」と笑って済ますことは、この本を手に持っている間だけは出来ないのだから。あなたはこの本を読んでいる間、ハリエットの人生を見つめ、「ハリエットを生きねばならない」のだから。

     とはいえ、ハリエットの当てこすりや皮肉自体にはユーモアがあり、私も何度か、冒頭から引き攣りっぱなしだった顔面が緩んで、本気で笑わされました。とはいえ、私は恐怖が振りきれると笑い始めるタイプなので、怖かったのかもしれません(先日もアリ・アスター監督の映画「ヘレディタリー/継承」のラストシーンを見て、ビビりながらゲラゲラ笑っていました。怖かったので)。しかしもう、気分を最低で最悪のところに持っていくには、これほどうってつけの一冊はありませんでした。この本のおかげで気分が底まで沈んだおかげで、翌朝はスッキリと目覚め、前回の読書日記で取り上げたジェフリー・ディーヴァーの『魔の山』を読了出来たのです(※あくまでも個人の感想です)。

     かくて呪いの書、産み落とされり。しかし、その呪いに救われた人間も、ここにいる。

    (2021年10月)

第24回2021.10.08
お天道様が許しても、この名探偵が許さない ~コルター・ショウ、カルト教団に挑む~

  • ジェフリー・ディーヴァー、書影

    ジェフリー・ディーヴァー
    『魔の山』
    (文藝春秋)

  • 〇「トクマの特選」、始動!

     10月より、徳間文庫から復刊専門レーベルとして「トクマの特選」、なるものが始まるようです。徳間文庫は元々復刊に力を入れている印象で、私が解説を務めた北森鴻『狐罠 旗師・冬狐堂(一)』から始まる〈冬狐堂〉シリーズの復刊もそうでしたし、先日ではSFミステリの傑作である三雲岳斗『M.G.H』『海底密室』が復刊されていました(もう今では『ストライク・ザ・ブラッド』〈電撃文庫〉の方が有名でしょうし、ストブラも最高ですが、このSFミステリ二作も凄いんですよ! 『少女ノイズ』〈光文社文庫〉とかも)。他にも中町信の創元推理文庫から漏れた作品も復刊されてきました。『悲痛の殺意』(旧題『奥只見温泉郷殺人事件』)は工夫に満ちた作品で良いのですよ。あと復刊されてない中町信だと『「心の旅路」連続殺人事件』が「心の旅路」を題に置いていることからも分かる通り、記憶喪失を扱ったトリッキーな長編で、中町作品には珍しいほどシンプルかつ見事なロジックが決まるのが嬉しいので、復刊されないかしら。

     閑話休題。で、肝心の「トクマの特選」第一回配本は全部で5作。小松左京『小松左京“21世紀”セレクション1 見知らぬ明日/アメリカの壁【グローバル化・混迷する世界】編』、かんべむさし『公共考査機構』、樋口修吉『ジェームス山の李蘭』、笹沢左保『有栖川有栖選 必読! Selection1 招かれざる客』、そして、山田正紀『山田正紀・超絶ミステリコレクション#1 妖鳥』というわけです。名作の数々がカバーを刷新して復刊されるのもさることながら、「毎月上旬に3~5点程度」を刊行すると謳われていることや、笹沢左保にいたっては表紙に「笹沢左保サスペンス100連発」と書かれていて(全著作の数を考えれば不可能ではないでしょうが)、山田正紀の復刊もまだまだ続きそうな予感。力の入れように驚いてしまいます。

     このうち、山田正紀『妖鳥』の解説を担当しています。山田正紀はSFだけじゃなくてミステリもめちゃくちゃ凄い! というのを解説にしたためました。『妖鳥』の話もたっぷりしていますが、他に山田ミステリを合計30作取り上げています。怒涛の連続紹介。詳しくは解説を確認してください、そして山田正紀ミステリに幻惑されよ!

     笹沢左保もいいですよねえ。もう祥伝社文庫等でガンガン復刊されているところですが、初期作はなかなか手に取りにくい状況が続いていました。『招かれざる客』『求婚の密室』『霧に溶ける』『人喰い』あたりはぜひとも読んで欲しい良作ですし、アリバイ崩しの究極系ともいえる『暗い傾斜』は最高です。『空白の起点』のアリバイ崩しのシチュエーションは壁が高すぎてゾクゾクしますし、『他殺岬』なんかもいいし、誘拐物にも良作が多く、『悪魔岬』『真夜中の詩人』も素晴らしい。他に好きなタイトルを列挙すると、『三人の登場人物』『海の晩鐘』『憑霊』『アリバイの唄』などなど。笹沢左保、多岐川恭、土屋隆夫、陳舜臣、海渡英佑あたりの昭和ミステリに大学時代はどっぷりつかっていたので、ポンポン出てきます(都筑道夫、泡坂妻夫、鮎川哲也の三名には中高時代にハマっています)。

     個人的な感慨ですが、笹沢をはじめとする’60~’80年代の昭和ミステリを読むようになったのは、「清張以後、綾辻以前」の「本格不遇の時期」にも本格ミステリは書き継がれていたとして、その年代の埋もれた本格ミステリを再評価した『本格ミステリ・フラッシュバック』(東京創元社)を読んだからでした。中高生の頃、新本格以後の作品や評論、解説を読んで得た「史観」に引きずられて、’60~’80年代の作品をあまり読んでこなかったからです。中学の文芸部の先生に松本清張の『波の塔』を勧められても、「ヘン、なんだい、清張なんて……」と吐き捨てて、綾辻行人『十角館の殺人』の冒頭のセリフを引用するようなクソほどイタい中学生だった私が、『本格ミステリ・フラッシュバック』を読んだ大学生の時期以来、「えっ、『時間の習俗』のアリバイ崩し超絶面白いじゃん! 鮎川哲也の鬼貫を読み尽くしちゃった渇が癒えたぞ!」「えっ、『火神被殺』とかの古代史ものめっちゃ面白いじゃん! ていうか清張中短編うま!」とか続々読んでいって、今ではこれほど好きなのだから、分からないものです。どうしても、「出会う時期が遅れたのではないか」と思ってしまうからこそ、今回の復刊でこれから笹沢左保の傑作群を手に取れる人が羨ましいと思います。なぜなら、笹沢左保が当時提唱していたのは〈新本格推理〉という言葉であり、これからの読者は、ほかならぬ有栖川有栖の手引きによって、「もう一つの〈新本格推理〉」への扉を開くことになるのですから。「トクマの特選!」の笹沢左保第二弾は『空白の起点』とのこと。これは傑作。ぜひ読みましょう。

    〇コルター・ショウの冒険、再び

     そうか、今回のシリーズは「冒険小説」がやりたかったのか。

     ジェフリー・ディーヴァーの新刊『魔の山』(文藝春秋)を読んでまず頭をよぎったのは、そんな気付きでした。

     本書は、ジェフリー・ディーヴァーの新シリーズである〈コルター・ショウ〉シリーズの第二作にあたります。第一作である『ネヴァー・ゲーム』はこの日記の第2回で取り上げているので、紹介はそちらを参照してください。失踪人探しという発端から、あれよあれよと変わる事件の「形」を追いかけることになるサスペンスフルなミステリーでした。タイトル通り、ゲームショウが絡んでくるのも面白いところで、なかなか印象に残るシーンになっていました。

     第2回の記事を読んでいただけると分かりますが、私は一作目『ネヴァー・ゲーム』の時点では、コルター・ショウを、「動」の名探偵と捉え、リンカーン・ライムやキャサリン・ダンスと同じ枠で捉えようとしていたようです。それ自体は、間違っていたとは思いません。今回の新刊『魔の山』でも、絶体絶命の状況下から、ある事実を掬い上げて逆転劇を演出するコルター・ショウは名探偵の名にふさわしいですし、細かいツイストの味は健在。ですが、それ以上に、彼の本質は「サバイバル」なのです。この『魔の山』によって、シリーズが指向している形がよりくっきりと見えたと思うのです。

     文藝春秋の本の話題を出している時に、他社の例を出して申し訳ないのですが……もし〈コルター・ショウ〉シリーズがハヤカワ文庫から出版されていたなら、間違いなく、冒険小説、スパイ小説が出る白背のNVで出ていただろう、ということです(ディーヴァーのハヤカワミステリ文庫、〈ジョン・ぺラム〉シリーズは赤背だった気がしますが……)。

     今回の舞台はというと……カルト教団〈オシリス財団〉が巣食う山の中! コルター・ショウはその財団の総本山に単身乗り込み、偽名を使って、信者のふりをして、教団の内部を探っていくのです。孤立無援の状況の描き方は、スパイスリラーを彷彿とさせます。〈コルター・ショウ〉シリーズが三人称一視点で描かれていることで、読者は、ショウが真意を隠しながら物わかりの良い信者を演じようとする「腹芸」を全て楽しむことが出来ますし、ピンチが訪れた時の心理描写も余すことなく味わえるのです。コルター・ショウがあまたの動揺やピンチをかいくぐっていく冒険や心理描写の読み味は、克己の物語としての冒険小説と繋がってきます。この日記で取り上げた作家の中だと、ディック・フランシス(第14回)やC・J・ボックス(第20回)に最も印象が近いかもしれません。

     それを象徴する一文が、これです。前後を書くとネタバレになっちゃうのですが、カルトのヤバいところが一瞬見えたところのシーンです。「〇〇〇(字数は適当)は二度と行われない」、誰もそんな目に遭わせない、と心の中で決意し――そして放たれる言葉が、これです。

    “コルター・ショウが絶対に許さない。”(『魔の山』、p.212上段)

     か、カッコいい! 「お天道様が許しても、この桜吹雪は見逃さねえぞ!」(遠山の金さんの決め台詞)じゃないですか! ミステリーに引き寄せて言うなら、『ポケットにライ麦を』で、彼女の死を知ったミス・マープルの怒りの描写ですよ。カッコいい! 天知る地知るショウが知る、ショウがやらねば誰がやる! ……と、これは麻耶雄嵩『メルカトル悪人狩り』(講談社ノベルス)の「著者のことば」にインスパイアされたものですが。

     こう考えてみると、『ネヴァー・ゲーム』の帯文に書かれていた「流浪の名探偵」という言葉が、いかにこのシリーズの真芯を捉えていたか……という気分になってきますね。「流浪」という言葉のイメージかもしれませんが、どことなく風来坊、無頼漢的な感じというか、流れ者……そのイメージがショウにぴったりなんですよ。日本で言うと股旅のイメージが合いますね。それこそ、今回の冒頭で話した笹沢左保が原作の〈木枯し紋次郎〉のような。「あっしにゃぁ関わりのねぇこって……」と紋次郎は言うところを、ショウは自分から首を突っ込んでしまいますが(今回のカルト教団に乗り込む動機なんて、実にアツいと思うんですよね)。

    〈リンカーン・ライム〉の世評でよく見る言葉として、大乱歩の時代からある「怪人VS名探偵」の現代的再現、という言葉があります。それと対照するなら、これは冷戦期の冒険小説・スパイ小説黄金時代の再現……と言えなくもないのかもしれません。全然読み味は違うんですが、アリステア・マクリーンを読んでいる時の興奮と少しダブったりするんですよ。

     このカルト集団の正体はなんなのか? 最大の謎が次第に見えてくる中盤以降、細かいツイストを重ね、意外な事実を少しずつ取り出していく手法はまさに職人芸。しかし、それが作劇上のアツさに繋がっているところが、冒険小説としての見所でしょう。あのクライマックスのシーン、そりゃこんなことしたら盛り上がりますよ。ええ、盛り上がりますとも。

     そもそもカルトに乗り込むまでの捜査の流れも結構面白いし、ライバル役として登場するダルトン・クロウのキャラなんかも面白いところ。そして『ネヴァー・ゲーム』から続く父親の物語もいよいよターニング・ポイントに。シリーズとしては、やはり順番に読むことをお勧めします。

     訳者あとがきによれば、第三作The Final Twistが2021年春に本国では発表されていて、スパイアクション風の仕立てになっているといいます。やはり! と思わされますし、三部作を貫いているショウ一家の謎も解き明かされるということ。読み始めるなら今、ですね。

    (2021年10月)

第23回2021.09.24
海外本格ミステリー頂上決戦 ~ヨルガオvs.木曜、そして……~

  • 〇ミステリー・ランキングの締め切りが……。

     第3回の読書日記でも取り上げたのですが、昨年から「このミステリーがすごい!」の投票締め切りが一か月早まりました。奥付2020年10月から2021年9月末までの本を対象に投票作を選ぶようになったのです。今年、第20回でも取り上げたように、7月、8月に新刊刊行ラッシュが続いたのも、この繰り上げが原因ではないかと思っています。

     もちろんランキングだけにこだわっているわけではないにせよ、やっぱり気になってしまうというのが、年末ランキングというもの。今年の結果はどうなるんでしょうね……。

     海外ミステリーのランキングは……。

     アンソニー・ホロヴィッツの四冠となるのか? はたまた『木曜殺人クラブ』が突き刺すのか? あるいはダークホースか? ううん、興味が尽きません。ホロヴィッツが好評を博したことを受けて、現代海外謎解きミステリー(この「現代」というのがとても重要)がまた充実してきたのではないかと思います。ホロヴィッツがいい風をもたらしたとも言えるでしょうし、各出版社のバチバチの雰囲気を感じるとも言えます。ええ、そりゃもう、バチバチですとも。

     そんな決戦を煽りたいわけでもないのですが……しかし、あまりに素晴らしすぎたので、今日は勝手にこの二作品を戦わせてみたいのです。

    〇赤コーナー:『ヨルガオ殺人事件』

     さてさて、今回前人未到の四冠に挑むのは、王者、アンソニー・ホロヴィッツ。簡単におさらいをしておくと、2019年『カササギ殺人事件』、2020年『メインテーマは殺人』、2021年『その裁きは死』(年は「このミス」の表題年)で1位となり、同作で「本格ミステリ・ベスト10」「週刊文春ミステリーベスト10」「ミステリが読みたい!」でも続々1位を獲得、連覇を重ねている絶対王者……それがホロヴィッツです。2019年以前にも、シャーロック・ホームズ財団公認で書かれた「続編」になる『絹の家』『モリアーティ』や、イアン・フレミングのジェームズ・ボンドを起用した『007 復讐のトリガー』(3作とも角川文庫)などが訳されてきましたが、日本でのホロヴィッツ受容は『カササギ殺人事件』を機に爆発的に進んだ、と言ってもいいでしょう。

     ちなみに「このミステリーがすごい!」の1位を連続で取ったのは、2004年、2005年(同前)のサラ・ウォーターズ『半身』『荊の城』の二冠がホロヴィッツ登場までのマキシマムですから、三冠達成の時点で既に異常。強すぎる。2018年刊行の『カササギ』をもって首位を手にし、今回はその続編にあたります。コンディションは万全といったところでしょう。

    『カササギ殺人事件』という本は、作中のミステリー作家、アラン・コンウェイがものした同名の推理小説(しかも長編一冊分)がまるまる作中作として組み込まれ、しかも、その作中作が作中現実で起きる殺人事件の謎解きにも直結するという、贅沢な作品でした。現実パートではアランの編集者、スーザン・ライランドが殺人事件を追うのですが、彼女の眼から描かれるアランの人物像が、また読ませるのです。

     先日ジャーロvol.76に掲載された「2010年代海外本格ミステリ ベスト作品選考座談会」では、ホロヴィッツ『メインテーマは殺人』が選ばれました。同選考では①2010年から2019年に邦訳刊行、②2000年以降に原著刊行という二要件で、「現代の」本格ミステリーを顕彰するための条件付けを整えたわけですが、ホロヴィッツは『カササギ』『メインテーマ』が対象となりました。私はこの時に二冊とも再読し(他の最終選考候補作十七作品も全て再読)、ついでに『その裁きは死』(2020年刊行)も再読したわけですが、その時思ったのは、『カササギ』は素晴らしいが、上巻と下巻のアンバランスさは認めざるを得ないのではないか、という点でした。

     各選考委員がその点を加味し、ホーソーンとホロヴィッツ(作者と同名の登場人物)のコンビを描く『メインテーマは殺人』に軍配が上がったわけです。『カササギ殺人事件』の美点の一つに、「登場人物が最大の手掛かりとするテキストを、まったく同じ形で読者も手にすることが出来る」という点があり、これはアガサ・クリスティーが『アクロイド殺し』『五匹の子豚』で試みたものと同じです。そこを〈ホーソーン&ホロヴィッツ〉シリーズでは、ホームズとワトソンにならって、ホロヴィッツが自分の遭遇する事件を現在進行形で小説にしており、それをホーソーンが読んで手掛かりを得る、という仕組みになっています。つまり、作中作、というものを導入せず、フェアプレイの実現性をストーリーテリングの中に巧みに取り込んでいて、とてもこなれているのです。

     とすれば、もちろん、個々のアイデアの美点もあるものの、ホロヴィッツの邦訳作はどんどんレベルが上がっていて、とにかく物語として面白いものになっている……ということになります。事実、私はホーソーンというキャラにはちょっと首を傾げるところがあるのですが、東京創元社から出た今までの作品の中では『その裁きは死』が好きです(ちなみに、これまでに邦訳刊行された作品で一番好きなのは『モリアーティ』です。ホームズパロディのくすぐり方も見事なのですが、謎解きがたった一撃の居合切りといった感じでカッコいいんですよねえ)。

     また『カササギ殺人事件』で一番感動したのは、あの小説の中で描かれる「作中現実」と、アランという作家の人物像が醜悪であるにもかかわらず、結末にそっと置かれた、アランが書いた名探偵アティカス・ピュントの世界(作中作部分)は、一切の夾雑物もなく美しく在り続けている、というところでした。正直、私は『カササギ殺人事件』の下巻を読む時、アランの苦悩になぜか寄り添って読んでしまったため、彼の描いた「世界」だけは美しいことが、私にはあの作品に残された救いのように見え――誰にも共感されないのですが――深く涙したのです。

     では、そんな期待を背負った『ヨルガオ殺人事件』はどうだったか。今回とくに感心させられたのは、作中作を読ませるまでの過程で、一切焦らなかった、という点です。

     アティカス・ピュント・シリーズは完結し、アラン・コンウェイは死んでいる。そんな状況で続編をどう作るのか。その問いに、ホロヴィッツは「アティカス・ピュントの既刊のモデルとなった人々が、彼の本を読み、今の事件を引き起こす」という形で答えて見せました。つまり、今の事件の手掛かりが、アランの小説『愚行の代償』に埋め込まれているのではないか、という趣向です。

     この趣向を実現するのに、ホロヴィッツはまず300ページ、きっちりと作中の現実を描き、なぜ『愚行の代償』に手掛かりがあると思われるかを丁寧に展開していきます。その過程では、当然、作中人物たちが『愚行の代償』を読んだ時の感想、世間的な評価、編集者から見た創作過程などが少しずつ詳らかにされることになり――当然、いずれ来る『愚行の代償』への期待は否応なく高まってしまうというわけです。

     50万部も売れたベストセラーとはどんな本か? やがて訪れる「不意打ち」とは? 作中にはモデルとなる人物がいるようだが、誰が誰を模して造られるのか? このように読者の頭の中で『愚行の代償』への期待が膨らんでいくのに、普通だったら耐えられないはずです(ぶっちゃけ私だったら、自分がこれから書く作中作に「50万部売れた」という設定は怖くて付けられません。プレッシャーに耐えられない!)。しかし、ここで焦ってはいけません。なぜならば、読者がスーザンと完全に同じ情報を得た後で『愚行の代償』を取り出さなければ、フェアプレイは実現されないのですから。読者は、作家のアランが、現実の登場人物をモデルに『愚行の代償』を書いたという情報も与えられているので、作中作を読んでいる間も、作中現実が二重写しになっていて、その不思議な感覚を味わうことが出来ます。ここが、作中作がいきなり登場する『カササギ殺人事件』とは決定的に違うところです。

     で、訪れる『愚行の代償』はどうかというと、読者の期待に応えるものになっているのが凄いところで、ちゃんと現実の事件への手掛かりを埋めているところも律儀。前作の作中作部分にあたる『カササギ殺人事件』は(本そのもののタイトルと作中作のタイトルが同じなのでややこしい)、「アティカス・ピュント最後の事件」の雰囲気もさることながら、葬式のシーンから始まるのがアガサ・クリスティーの『葬儀を終えて』風で実に良かったのですが、今回は「いかにも殺されそうな女」を淡々と描いて、その周辺の人物関係を描いていくあたりが、『死との約束』などを思わせます。そもそもホテルですしね。『バートラム・ホテルにて』とか(とはいえ、観光客にスポットが当たらないのがクリスティーっぽくないところではありますが)。

     作中作『愚行の代償』や、そこに至るまでの情報整理を読んでいてつくづく思ったのは、やはりホロヴィッツの魅力の核心は「演出」にあるということでした。謎解きそのものももちろんですが、それを描く筆致も、語り口も、そこに至る流れも、全てがワクワクする。今回、『愚行の代償』を読み始める時に、スーザンがサンドウィッチとジントニックを用意して読み始めるのですが、私もジントニックを作って同じように読んでみました。ジントニックを作っている時ですら、最高にワクワクしていたんですよ。わざわざジントニックを作ってこようと思うほど、ホロヴィッツの「演出」のうまさに、ここから、事件の手掛かりが得られるんだというワクワクに魅せられていたわけです。今回もホロヴィッツのミステリーを堪能しました。

     とはいえ、作中作と作中現実の紐帯は『カササギ殺人事件』の頃より明らかに緩まっていますし(設定上、しょうがないと言えばしょうがないですが)、あくまでも個人的な思いで――こんなことを言っても詮無いことは分かっていますが、まあこれは日記なので、ということで――今回は完答してしまい、感動が薄くなってしまったという点は認めざるを得ないのです。これはもちろん、「2010年代海外本格ミステリー ベスト作品選考座談会」のために緻密に全作を再読したおかげで、ホロヴィッツの書き方を学んだことが大きいと思います。

     とはいえ、これは本格ミステリーというジャンルの不思議なところで、答えが全部分かるからこそ、その伏線の張り方のうまさに舌を巻く、という経験もあるのです。うわ、ここにこんな風に置くのか。→あの伏線ここの箇所と呼応しているし、これ絶対回収するよね。でもこういう風に意識逸らしておいたら気付かれないな→こういう演出でさりげなく拾うのか、見事! というように、オーディオコメンタリー付きで映画の二回目を見ているみたいな読み方をしてしまうんですよ。そうすると、職人芸を鑑賞している思いで楽しめたりして。ううん。難儀だなあ、本格ミステリー。

    〇青コーナー:『木曜殺人クラブ』

     対するはリチャード・オスマンのデビュー作『木曜殺人クラブ』。ポケミスで初めてプルーフ(ゲラ段階の見本本)が作られたことからも、早川書房の力の入れようが分かるというもの。このプルーフに書かれた「アンソニー・ホロヴィッツ最新作を超えて英国で最速100万部突破」という惹句も、実に挑発的でしょう。オスマン自身はともかくとして、早川書房はホロヴィッツへの闘気を隠そうともしておりません。

     ホロヴィッツとオスマンの共通する特徴は、アガサ・クリスティーにオマージュを捧げているところです。オスマン『木曜殺人クラブ』は、タイトルから分かる通り、『火曜クラブ』(ハヤカワ・ミステリ文庫、『ミス・マープルと13の謎』〈創元推理文庫〉に同じ)やミス・マープルへのオマージュが盛り込まれています。

    『火曜クラブ』というのは安楽椅子探偵型の短編集です。各々が真相を知っている事件について披露し、それを解き明かすことで互いの推理力を競おうというもの。前半六編と後半七編に分かれ、前半と後半で話者たちが入れ替わっているのですが、この後半がいいのです。それぞれの話者が生き生きと描かれ、それゆえに生じる人間のひだにクリスティー流の錯誤を仕込む。前半はトリックの印象が強いですが、後半はドラマの印象が強くなります。

     では『木曜殺人クラブ』はどんな本か? たとえて言うなら、「あの『火曜クラブ』の個性豊かな面々が、町へ繰り出して大暴れしたら、どんな愉快な話になるか? それを実現した一冊」ということになるでしょう。

     元看護士、元労働運動家、精神科医、そして経歴不詳のエリザベス。個性豊かな四人の高齢者たちが、引退者用施設〈クーパーズ・チェイス〉において、元警官が持ち込んだ捜査ファイルをもとに未解決事件を調査することを趣味としている――。この設定だけでもそそりますが、このあらすじだけでも分かる通り、この高齢者たち、手段は一切選びません。町の若い警官の出世欲を煽って捜査に潜り込み、主任警部の頭を悩ませ、上へ下への大暴れ。

     ですが、この大暴れが決して、嫌な感じではないのです。語り手の一人であるこの若い警官ドナも、やれやれ仕方ないわねという雰囲気を滲ませながら、口元を緩ませて見守っている、と言いましょうか。どいつもこいつも胡乱で、自分の欲に正直に動いているので、ユーモアミステリーとして絶妙の塩梅で「大暴れ」が描けているのです。事実、作中の表現や展開には何度も声を出して笑いそうになりました。特に主任警部のハドソン。彼は作中の中ではかなり常識人として設定されているはずなのですが、それゆえに、高齢者たちの企みに巻き込まれ、ドナの相棒にされ、翻弄されつつ、ちょっと状況に悩みつつ、捜査していく感じが実に良い。出てくるたびに好きになりました。登場人物みんなが愛せて楽しいミステリーって、実に良いんですよねえ。だからこそユーモアも生きる。ああ、そうなんだよそうなんだよ! これがイギリスのミステリーなんだよ! 私の大好きでたまらない、イギリスのミステリー!

    〈クーパーズ・チェイス〉という田舎の小コミュニティの書き方が、ミス・マープルが住む〈セント・メアリ・ミード〉をモチーフにしているのは明らかでしょうが、その書き方がまた大胆で面白いのです。〈クーパーズ・チェイス〉には再開発計画が持ち上がっており、そういう意味で、住人たちは誰も彼も利害関係者になるのですが、彼らが総出で座り込みの抗議集会を開いたりする。この感じがまた、良いのです。例えばイズレイル・ザングウィル『ビッグ・ボウの殺人』(ハヤカワ・ミステリ文庫)では、密室殺人の真相について町ぐるみで推理が行われて、次々新聞投書で素人推理が投稿されるさまが書かれたり、エラリイ・クイーンの『九尾の猫』(同)では、連続殺人鬼〈猫〉の恐怖におびえるニューヨーク市民、また都市そのものの姿が描かれたりします。こうした古典ミステリーの雰囲気、つまり、「一つの殺人事件が一つの町そのものを揺らがしてしまうほどのインパクトを持つ」という状況が、『木曜殺人クラブ』では再現されているように思うのです。それも、ユーモラスに。そういう雰囲気一つとっても、古典ミステリーの大事な部分――それは名探偵とかトリックとか、そんな表層的なものではなく――を掬い上げ、現代において再現している、と感じさせてくれるのです。

     おまけに、謎解きもしっかり面白い。前半の各章で提示された不可解なシーンや、投げ出された伏線が、展開の起伏の中で見事に回収されていく見事さ。特に、私も初読時に引っ掛かった箇所があったのですが、それも見事に回収されていく過程に膝を打ちました。メインとして使うのではなく、その後の展開の起爆剤として使っている感じが実に良い。その結果立ち現れる、ビターな味わい。本を閉じる最後の瞬間まで、「ああ、良いミステリーを読んだ!」と満足感を味合わせてくれる傑作といえるでしょう。

     ――といった具合に、実力の点では完全に首位の座を狙えるルーキー。二点だけ文句をつけるなら、視点があまりにも変わりすぎるため頭の中で整理するのが序盤は大変だったこと(480ページで115章あります)、施設の性質を考えれば当然そうなのですが、容疑者群として設定された人々の出自が違いすぎ、覚えるまでは時間がかかることくらいでしょうか。とはいえ、全編を覆うユーモアと、謎解きの見事さ、古典ミステリーの「雰囲気」の掬い方のうまさと、それ以外の点は文句のつけようがありません。めちゃくちゃ良い。

     ということで、アンソニー・ホロヴィッツとリチャード・オスマンは、共にアガサ・クリスティーを現代流にアップデートした作家と言えます。古典ミステリーをよく味わい、咀嚼し、しかしただの再生産には決してならない。こういう作品が現代に現れることに、私は感動さえ覚えます。嬉しい。私はやっぱりイギリスのミステリが好きだ。この二作が覇を競い合うのだとすれば、まさにクリスティー好きの私にとってはベストバウトと言える試合……。

     さあ、それでは『ヨルガオ殺人事件』と『木曜殺人クラブ』、どちらが勝つのか?

     ……そう楽しみにしていた矢先、私は鼻先を殴りつけられたのです。

    ホリー・ジャクソン、書影

    ホリー・ジャクソン
    『自由研究には向かない殺人』
    (創元推理文庫)

    〇ダークホース:『自由研究には向かない殺人』

     それこそが、ホリー・ジャクソン『自由研究には向かない殺人』だったのです。これは――これは、あまりに素晴らしかった。まさに「今」を描いた瑞々しい青春ミステリーです。作者は「語り」の効能について知り尽くしているとしか思えず、ハッキリ言って、全編が面白い。それは『木曜殺人クラブ』にもあった、抜群のユーモアセンスが全編を覆っているからであり、また、「情報」を追いかけ、整理し、事件の真相に肉薄する過程そのものが、ミステリーの根源的楽しみであったことを思い起こさせてくれるからです。

     この世には「ずっと読んでいたくなるミステリー」というものが存在します。あの夏に永遠にとどまっていたい。彼女たちがいるあの世界に、いつまでも。1000ページあってなお、飽くことのない世界。派手な展開なんてものは一切なくて良い。シリアルキラーも、圧倒的な悪さえも時にはいらない。一に堅実な捜査、二に地に足のついた読み心地、最後に全編を覆うユーモア。これさえあれば他にはいらない。『自由研究には向かない殺人』にはこれらの要件が全て備わっている、備わっているのですが、それでは言い尽くせないほど「巧い」作品でもあるのです。そのことについて掘り下げていきましょう。

    『自由研究には向かない殺人』のプロットはある意味シンプルです。5年前に起きた自分の町で起きた殺人事件について、高校生のピップは「自由研究」で取り上げ、事件を解決しようとします。しかし、そこは一介の高校生です。出来ることは限られているのですが、知り合いの伝手を辿ってインタビューしたり、電話で取材を試みて、少しずつ情報を集めていくのです。ハッキリ言って、骨子は「取材→情報の収集→情報の整理」だけで構成されている小説と言っても過言ではありません。しかもピップの一人称一視点を絶対に崩さないのです。派手さともケレン味とも無縁なこのミステリーが、なぜこれほど傑作になるのか? それには三つのポイントがあると思います。

     一つ目は、抜群のユーモアセンス。ピップはちょっとおせっかいで――あえて言うなら、ちょっとウザい部分もある女の子です。過去の事件をひっかきまわし、真相を暴こうとする。言ってみれば、彼女の探偵行はそんな行為です。事実、関係者たちはそれに対する嫌悪感を当初露にしていますし、敵意を向けてくる相手もいます。本来なら感じが悪くなってしまいそうなこの小説を、包み込んでいるのが、ピップの語りが生み出す抜群のユーモアなのです。

     冒頭2ページを書店で開いてみてください。ピップの自由研究案が渋々ながら担任教師に承認された、その「志望書」と「指導教師からのコメント」から始まるのです。この小説としての遊びだけでもうれしくなってしまいますが、コメントに「事件に巻きこまれたどちらのご家族ともいっさい連絡はとらないこと」(p.11)と書かれているにもかかわらず、本編に入って即家族と接触するので、あまりのテンポに笑わされてしまいます。ちょっとコミュニケーションが苦手で、緊張するとトリビアを披露しちゃう高校生の女の子。事件の捜査はするけれど、普通の女子高生の日常を過ごしているので、失恋した同級生を励ますために友人二人で家に押しかけ、彼女らを出迎えたその子の母親に「騎兵隊の到着ね」(p.40)と迎え入れられ、男への悪口を垂れ流したり、ネットフリックスを起動して「ロマンチック・コメディでもシリアスなやつでも、男どもがむごたらしく殺されるのはどれかな?」(p.42)と探し出したりします。このテンポ感、リズム感! セリフも良い! 私たちの現実と地続きのところにピップたちが生きているのだと、文章と会話の端々から実感させられます。これが実に良い、たまらない。こうしたユーモアセンスが、過去の殺人の掘り起こしというメインプロットにもかかわらず、全編にわたる「風通しの良さ」を生み出していると思うのです。

     そう、「風通しの良さ」。これは若林踏による解説でも指摘されているポイントです。こうした「風通しの良さ」を生み出しているのが、このピップの人物像だと思うのです。現代では受け入れがたい偏見や思想を持った相手にも、ピップは果敢に挑んでいき、正しいことを、青臭く、泥臭く見つけていこうとします。それが安っぽいヒロイズムに流れるのではなく、「なぜ彼の無実を信じるのか」という部分に、きわめて個人的で、しかもじーんとくる動機を用意しているところも良いのです(これはかなり序盤で明かされます)。その動機、つまり行動原理によって、読者がピップという女の子の心に寄り添った瞬間、この小説はもうたまらないものになります。少しおせっかいだけど、頑張る彼女の姿を、ずっと応援したくなるのです。

     ピップだけではありません。一人一人の登場人物に、ワルにさえ独特の味とユーモア、行動原理があって、どれもたまらなく読ませるのです。私は、アン・クリーヴスやヘニング・マンケルのミステリーで、決して真相にはかかわらない、しかし印象的で生き生きとした造形を与えられた登場人物の一人一人を、いつまでも忘れられずに覚えていたりします。あるいは、P・D・ジェイムズの容疑者で、結局犯人じゃなかったけど好きだった人物とか……。ロス・マクドナルドの小説に一章だけ登場する鷹匠とかも好きなのです(これについては、誰も覚えていないとよく言われるので、もしかしたら自分の捏造記憶ではと疑っているのですが)。

     こうした人物たちを覚えているというのは、小説を読んでいる間、彼らと共に生きた故だと思います。それが小説を読むということの幸福であり、そして『自由研究には向かない殺人』では、登場人物の大半を私は瑞々しく覚えていると思います。彼らは物語の中で有機的に動き、あるいは生き生きと発言し、風通し良く議論を交わして、いつまでもあの夏の中に輝かしい記憶として残り続けるからです。

     二つ目は、情報の整理の上手さです。「取材→情報の収集→情報の整理」で構成されているというのは前述のとおりですが、この「情報の整理」がキモなのです。「作業記録――エントリー1」と題された、レポートの文書の使い方、容疑者リストの作り方が実に素晴らしい。この「作業記録」は、電話取材やインタビューを書き起こししたもの、それに対するピップの解釈、ピップが作成した容疑者リスト、という三つのレイヤーに分かれています。これがミソなのですが、ピップは作業記録を書く時、必ず自己と取材時の情報を客観視出来ているのです。このワンクッションが、先ほども指摘した「風通しの良さ」を生み出す効果を上げています。例えば、ある人物に「彼と寝ていたのか」と質問をしたとします。この時、ピップは書き起こしで自分の声を聴き、“(正直、いま録音を聞いて自分でもドン引きしているけど、なんでもかんでも知っておかなきゃならない)”(p.138)というコメントを残しています。取材の当時には熱が入り、暴走したとしても、書き起こしの時には冷静に自分を客観視し、適度に自戒する。おまけに、取材を書き起こす時間を経ているので、素人探偵であっても、実に小説上自然な流れで、その後に推理を展開するだけの下地を経ていると言えるのです。それゆえ、ここでの「ピップの解釈」の切れ味の鋭さと速度は見事になっています。

     閉鎖的な田舎コミュニティを舞台にした本格ミステリーの場合、緊密な関係性を持つ関係者たちが、ある共通の秘密をひた隠しにしていたり、それぞれに隠し事があって全員異常に口が重かったりするわけです。お互いにお互いの顔を知っている空間だからこそ生じる重さです。しかし、『自由研究には向かない殺人』は違います。事件の関係者たちは表面上、完全に5年前の事件を乗り越え、「現実」を生きている(ふりをして)います。ピップのインタビューを煩わしく思い、「なんでそんなこと聞くんだ!」とシャットアウトすることはあっても、基本的な受け答えはしてくれます。ピップはこうした受け答え、あるいはシャットアウトされた事実一つ一つに推理を巡らせ、自分の容疑者リストを増やしていくのです。つまり、表向きには普通の顔をある程度保ちつつ、ピップがその裏に隠れた「共通の秘密」や「隠し事」を推理していく、という形を取っているのです。小さなコミュニティを描きつつも、決して閉鎖的にならない「風通しの良さ」は、この情報整理の巧みさによって生み出されているのです。古風ゆかしい小コミュニティミステリーを極めて現代的に再現するための画期的なバランス感覚と言えるでしょう。

     この「情報整理」は、「これまでの推理・展開」を絶えず読者に再確認させてくれるという意味でも小説の読みやすさに寄与しています。同じような情報整理は、例えばジェフリー・ディーヴァーの〈リンカーン・ライム〉シリーズで小道具として用いられる「ホワイトボード」にも共通してみられます。これまでの捜査の過程を端的にまとめ、情報を列挙する。そのパリッとした読み心地が、次第にリズムを取っていく、というわけです。

     この小説が「風通しの良い」小説だというなら、サスペンスは不足しているのか? ところがそうではありません。一つの取材から新たな情報が現れて、新たな推理から新しい容疑者が増える。この容疑者というのは、子供の頃から良く顔を知っている友達の親戚や町の住人なわけです。ピップの町の人々に対する視線は、少しずつ変化していく。その過程そのものがスリリングですし、中盤以降、調査を続けるピップに対する悪意も動き出すことになります。われらがピップはどんなピンチに遭おうとも、決して折れず、くじけない。その力強さが、何よりも本書の「謎解き小説」としての力なのです。

     三つ目は、現代性の取り入れ方の巧みさです。先に述べたように、田舎コミュニティを現代的に書くための工夫はもちろんなのですが、FacebookやLINE等のメッセージアプリ、図版などを積極的に取り入れた語りの工夫も見事です。それがまた絶妙の緩急で、変化を付けてほしい時にポッと現れるのです。また、SNSの作中での使い方の上手さについては、国内外見渡しても最高峰だと思います。その呼吸、リズム、文体が息づき、まるで本物であるかのように感じられるという点において。そして、そうした文体、形式を挿入することが、小説のリズムを一切殺しておらず、むしろ高めているという点において。著者ホリー・ジャクソンの生年は創元推理文庫のプロフィールには書いていませんが、かなり自分と同年代に近いのではないかと思います。

     お気づきでしょうか。現代に流行っている海外本格ミステリーの有名作では、いずれも「書かれたもの=テキスト」が効果的に取り入れられているのです。登場人物の一人が、何かを能動的に書き、したためるという行為。そのワンクッションがもたらす感情の整理や情報の整理、フェアプレイへの貢献。アンソニー・ホロヴィッツは『カササギ殺人事件』『ヨルガオ殺人事件』でアティカス・ピュントが主人公となる作中作を取り入れ、『メインテーマは殺人』『その裁きは死』では語り手であるホロヴィッツが事件に遭遇しながら小説の原稿を書き、それを時折探偵であるホーソーンがチェックするという構成を取っています。また、今年同じく創元推理文庫から出たエリー・グリフィス『見知らぬ人』では、怪奇短編小説が取り込まれ、しかも、古風な「日記」を好む女教師を語り手の一人に据え、その「日記」を要所要所で挿入します。『木曜殺人クラブ』でも語り手の一人が日記の形で親戚に情報を伝え、その中で自分の持つ情報や感情を整理しています。

     こうした趣向は、先にホロヴィッツの項で指摘しましたが、「探偵役が推理のために必要とするテキストを、まったく同じ形で読者も保有している」という点で、フェアプレイに寄与する機能を持っています(グリフィスがそもそも犯人当てを志向していたかどうかは、議論の余地があると思っていますが)。これは、アガサ・クリスティーの『アクロイド殺し』『五匹の子豚』と全く同じだという意味で、英国ミステリーの伝統を継いだ趣向と言えるのです。

    『自由研究には向かない殺人』は、決して先達へのオマージュのつもりで書かれたものとは思っていませんが、ここで導入される「テキスト」の多様性(志願書、レポートの下書き「エントリー」、Facebookのコメント、SNSのメッセージ、ピップによる手書きの図版、あるいは警察による取調調書)によって、そうした現代海外ミステリーシーンの中でなお輝きを放つ作品だと思います。テキスト=「情報」の見方が多面的になっているのです。

     終盤、こうした「多様性」の楽しさは、視覚的に立ち現れます。追い詰められ、推理を立て直す必要に駆られたピップと彼女を手伝うある青年が、ピップがこれまでに書いたエントリーを全てプリントアウトし、並べるのです。私はその瑞々しいシーンを読んだ時、「これだ!」と膝を打ちました。多様な情報を整理し、バッと目の前に広げることによって得られる情報のタペストリー、そこから自分の答えを導き出すために奮戦する情熱、これこそまさに、「自由研究」ではないかと。

     冒頭で、「『情報』を追いかけ、整理し、事件の真相に肉薄する過程そのものが、ミステリーの根源的楽しみであったことを思い起こさせてくれる」と述べたのは、こういう点を指してのことです。もちろん、本書は最終的な解決や結末の鮮やかさも見事ですし、青春ミステリーが兼ね備えるビターな味わいもちゃんとあります。結末がさあ、結末がさあ、また良いんですよね……本当にジーンとする……。

     正直言って、文句のつけようのない一作で、仕事や読書日記のことなど完全に忘れて、全ページ楽しんで読んでしまった作品でした。ピップの力強さと気風の良さに、何度救われ、何度泣かされたことか。

     ……と、いうわけで、『ヨルガオ殺人事件』と『木曜殺人クラブ』の圧倒的な完成度を認めつつ、偏愛度で『自由研究には向かない殺人』を激推ししてしまった、という結果になりました。刊行時期も締め切りギリギリで、『ヨルガオ』『木曜』といった作品群の中で埋もれてしまうのではないかと心配ですが、ぜひとも推していきたいところです。

     訳者・服部京子と解説・若林踏というタッグ(編集者も一緒でしょうからそこも含めればトリオ)は、カレン・M・マクナマス『誰かが嘘をついている』(創元推理文庫)と共通のものでした。この作品も、SNSを巧みに取り入れつつ、四人の語り手を順繰りに行き来して真相を探っていく青春×本格ミステリーで、『自由研究には向かない殺人』に勝るとも劣らないほど、展開と謎解きが鮮やかな逸品でした。ランキング投票期間ギリギリに出たので、期間内に読めずにかなり後悔していたのですが、今回はちゃんと読めました。ううん、このタッグ、トリオ、これからも見逃せませんね。

    (追伸)この原稿を書いていたところ、ツイッターで、『自由研究には向かない殺人』の重版情報と、続編“Good Girl, Bad Blood”の刊行情報が飛び込んできました! 来年刊行! いやっほおおおおお!! 『木曜殺人クラブ』のシリーズ第二弾“The Man Who Died Twice”も来年邦訳刊行が予告されていますし(ちなみに「二度殺された死体」という趣向は私の超好物。泡坂妻夫『花嫁は二度眠る』などなど)、ホロヴィッツは来年、〈ホーソーン&ホロヴィッツ〉第三弾“A Line to Kill”の刊行も『ヨルガオ殺人事件』の帯裏で予告されているところ。ううん、参ったなあ、来年も祭りじゃないですか。最高。翻訳ミステリーの未来は明るいなあ。日本ミステリーの末席を汚す人間として私も頑張らなければ……。本当に……。

     ということで、私とこの連載が元気だったら、来年もここでお会いしましょう! (編集さんの方を振り向きながら)エッ、マジで来年もやるんですか!?

    (2021年9月)

第22回2021.09.10
“日本の黒い霧”の中へ、中へ、中へ ~文体の魔術師、その新たなる達成~

  • デイヴィッド・ピース、書影

    デイヴィッド・ピース
    『TOKYO REDUX 下山迷宮』
    (文藝春秋)

  • 〇今月も本の話題から

     スタニスワフ・レム、生誕百周年ですって! おめでとうございます!!

     百周年記念の一環として、国書刊行会から〈スタニスワフ・レム・コレクション〉第Ⅱ期が刊行されるそうです。今月の『インヴィンシブル』が第一弾。これは『砂漠の惑星』の新訳版ですね。各種短編集の刊行はもちろん、『捜査/浴槽で発見された手記』なども新訳刊行とのこと。『捜査』が私は結構好きなんですが、後者はサンリオSF文庫の言わずと知れたキキメ(流通量が少ないからか古書でも高価な巻)で、古本に強い友人に貸してもらって読もうと思っていたのに機会を逃して、実はまだ読んでいないんですよねえ。なので読めるのが楽しみ。〈泰平ヨン〉シリーズの最後の作品『地球の平和』や、レムの連続インタビュー集『レムかく語りき』なども早く読みたいですねえ。

     早川書房でも、あの傑作『ソラリス』が新カバーで登場とのこと。ホログラム加工で虹色に光るらしいです。『ソラリス』のことはあまり好きすぎて、家にハヤカワ文庫旧版(『ソラリスの陽のもとに』)、国書刊行会版、ハヤカワ文庫新版、電子書籍と4冊あるのですが、また『ソラリス』を買ってしまうのか……いや、買うでしょう。買いますね。

     私は『ソラリス』『完全な真空』『虚数』あたりがすごく好きです。『ソラリス』はファースト・コンタクトSFとしての強靭で力強い面白さと、読むたびに「違うジャンルの小説の読み味」で楽しめる奥行きが、後者二冊は、私はヘンな小説が好きなので好きです。それぞれ、〈存在しない本〉の書評集と、序文集という体裁の本なのですよ。そのうち、読書日記も存在しない本を取り上げることがあるかもしれませんね(そんな虚無回は作ろうと思っても作れません。難しい)。

    〇待ってたぜ、デイヴィッド・ピース!

     という冗談はさておき、今回は腕にずっしりと来る重量級の一冊を取り上げましょう。それこそがデイヴィッド・ピースの『TOKYO REDUX 下山迷宮』(文藝春秋)です。待っていた、本当に待っていました。デイヴィッド・ピースによる〈東京三部作〉の完結編にあたります。この三部作は、GHQ占領下で起きた昭和の犯罪を題材にとっていて、一作目『TOKYO YEAR ZERO』(文春文庫)は小平事件、二作目『占領都市 TOKYO YEAR ZERO Ⅱ』(文藝春秋)は帝銀事件、そして本作は副題から分かる通り下山事件ということになります。

     この「東京三部作」は、実際の事件が持つ荒涼で暗澹たる「黒い霧」を描きつつ、それをピース文体によるノワールの中に効果的に取り入れた三部作です。ピースはデビュー作『1974 ジョーカー』(ハヤカワ・ミステリ文庫)から続く〈ヨークシャー四部作〉で、ヨークシャー・リッパーを題材にとって、暗黒のヨークシャー史を描いてきましたが、そのピースが目をつけたのが日本の昭和史だったというわけです。東京大学の文学部講師であり、芥川龍之介など日本文学に造詣が深いことを考えると、それも当然と言えるかもしれません。

     もちろん、これはミステリー、ノワールの範疇に属する作品なのですが、私がピースと出会ったのは、大学の文芸サークルに所属していたSF読みの先輩の影響でした。「これが面白いぞ!」と言われて『TOKYO YEAR ZERO』の単行本を渡されたのです。「この人がミステリーを褒めるとは珍しいな」と思って読んでみたら、これが面白いのなんの。私はミステリーとしての構成に感嘆したのですが、先輩には英国人作家が書いた昭和の像が刺さった様子。私は今からミステリーとしての本書の魅力を語るのですが、『TOKYO YEAR ZERO』の解説に、本書が浦沢直樹『BILLY BAT』に影響を与えたと書かれていたことからも分かる通り(正確にはストーリー共同制作者の長崎尚志がインタビューで語っているのですが)、多面的な魅力を持つ作品なので、文芸作品として読んでも十分な実りがある作品だと思う、ということを、思い出話に添えて言っておきたいと思います。

    〇ノワールなんかこわくない

    「実際の事件」を取り入れたフィクション小説は、ノワールと呼ばれるジャンルの十八番です。この「ノワール」というものがどんなものかを念のため補足しておくと(この言葉の語感が同年代に伝わりづらいというのを、肌感覚で知っているからです)、これは「孤独や屈折を原因として、精神的な自壊、破滅に陥るまでの過程を描く小説」であると私は考えています。この過程において、ファム・ファタール(運命の女)が多く登場したり、独特の文体や特徴的な表現手法を用いたり、実在の事件が持つ闇を取り入れたりするわけです。ちなみにこのノワールの勃興においてアメリカの大恐慌による不安がもたらした影響も分析しつつ1900年代前半からのノワールの勃興を見つめる諏訪部浩一『ノワール文学講義』(研究社)であるとか、私の定義よりもよっぽど完璧でかっこいい定義づけを書いている『1974 ジョーカー』の池上冬樹激アツ解説とかを読むと、よりニュアンスが伝わるかもしれません。

     この「実在の事件が持つ闇を取り入れ」るという部分ですが、例えば、そもそもノワールという時必ず引き合いに出されるジェイムズ・エルロイの『ブラック・ダリア』(文春文庫)からして実際の惨殺事件を題材としているわけです。同じ事件を題材としたマックス・アラン・コリンズの『黒衣のダリア』は、主人公であるネイト・ヘラーという私立探偵が、この殺された女性と昔恋仲だったという設定まで付け加えて、虚々実々の調査行で読ませてくれますし、ネイト・ヘラーものでは他にも禁酒法の時代のアル・カポネ(『シカゴ探偵物語』、扶桑社ミステリー)や、リンドバーグ誘拐事件(『リンドバーグ・デッドライン』、文春文庫)と実在事件を取り入れていきます。いずれも大変良い作品です。オススメ。これはノワールだからというより、例えば『タイタニック号の殺人』(扶桑社ミステリー)では史実に基づいて船上のジャック・フットレルが謎解きに挑む本格ミステリを書いていたりするので、コリンズ自身の特色でもあるのでしょう)。最近私が解説を書いたジョゼフ・ノックスも二作目『笑う死体』(新潮文庫)において「タマム・シュッド事件」という、歯を見せて笑いながら死んでいる身元不明死体の事件を想起させる事件を主人公に解かせます。

     こうした手法の何がいいかというと、やはり、リアルが持つ生々しい質感が、ずっしりと体に覆いかぶさってくる感覚だと思います。例えば前述の『笑う死体』では、死体が『ルバイヤート』の破ったページの紙片を握らされているという描写があるのですが、どうも調べるとこれは「タマム・シュッド事件」を反映したもののようです。どう考えても現場にそぐわず、身元不明の死体に関する唯一の手掛かりに見えるけれども、どうも据わりが悪い。落ち着かない。不安になる。この落ち着かなさというのは、フィクションとして作られたものに挿入されたリアルの質量によるのではないかと思うのです。

     そしてこの「不安」というのは、ノワールの語り手の精神的自壊に読者を巻き込むために、必要不可欠な要件だと思います。大変雑な言葉を使えば、私の中でノワールの評価は「ノレるか」に大きくかかってきます。鬱屈や孤独、そうした語り手の心情描写にどこまでのめりこめるか。語り手が感じている「不安」を読者も感じることが出来るか。癖のある文体を導入したり、決定的なタイミングで特徴的な文体を取り入れる(例えばジム・トンプソン『残酷な夜』『死ぬほどいい女』〔扶桑社ミステリー〕などの終盤を読むと伝わると思います)のも、ザラッとした肌触りを与えて読者の「不安」を煽っているのではないかと思っています。現実の事件を取り入れることによって、フィクションが私たちの現実へと浸潤してくるような「不安」も惹起され……。

     と、まあ、あまりに長い脱線をしてしまいました。ともあれ、おおざっぱに言うと、①精神的自壊、②特徴的な文体、③(実在の事件がもたらす)重みと不安。こうした要素を兼ね備えた作品が、ノワールであり、その中でも飛び切り「ノレる」作品がノワールの傑作だと、私は考えているわけです。③のカッコ内については、必ずしも不可欠ではないのでカッコにくくってみました。

     そう、この①~③までを兼ね備えた私の大好きなノワール作家というのが、ジム・トンプソン、チャールズ・ウィルフォード、ジェイムズ・エルロイ、馳星周、そして、このデイヴィッド・ピース、というわけです。

    〇ピースの〈ヨークシャー四部作〉、その文体

     デイヴィッド・ピースのデビュー作となった『1974 ジョーカー』から始まる〈ヨークシャー四部作〉は、先にも述べた通り、ヨークシャー・リッパーの史実に基づき、暗黒のヨークシャー史を描く四部作となっています。実在事件の持つ「闇」を作品に取り入れる、という先ほど指摘した特徴がきちんとあるわけです。これはもちろん、ピースがエルロイに影響を受けているゆえなのですが、そこについて語ったピースの言葉がまた、良いんですよね。『1983 ゴースト』(ハヤカワ・ミステリ文庫)の巻末に掲載された「作家対談 デイヴィッド・ピースvs.小川勝己」から引用します。

     “――ピースさんはジェイムズ・エルロイを目標としているとおっしゃっていますが。
    ピース……エルロイは歴史について情熱をもっています。彼の書きたいと思っていることと自分の書きたいことがかなりオーバーラップしている。エルロイは自分のスタイルを変えながらもそれを強烈に押し出す、それが成功するかどうかわからない危険性がありながらも押し出すところは感銘をうけます。いつかは越えていきたいと思っている。
    小川……エルロイといえば、馳星周さんがエルロイを意識して作品を執筆したことがありましたが、そうしたことで「おれはエルロイじゃないことがわかった」と言われたそうですね。
    ピース……作家はそうした他の作家を意識することで自分のスタイルを認識します。エルロイ自身というのもダシール・ハメットを何度も何度もコピーすることで自分のスタイルを確立してゆく。そういう「父親」のような存在を持っていた。作家というのはそういう「父親」をいつか殺さなきゃならない。父親殺しの日がくるんですね。”(同書、p.830-831)

     エルロイが「歴史について情熱をもってい」ると指摘し、その情熱に果敢に挑んでいくピース。〈ヨークシャー四部作〉はもちろん、今から語る〈東京三部作〉もまた、その延長線上にあると言っていいでしょう。ちなみに、対談者の小川勝己の小説は私、かなり好きで、『眩暈を愛して夢を見よ』(角川文庫)とか『撓田村事件 ―iの遠近法的倒錯』(新潮文庫)とか『ぼくらはみんな閉じている』(新潮社)とか……今から考えると、ノワールを感じていたから好きなのかもしれません。

     閑話休題。文体の面でも、ピースの四部作はエルロイに対する「父親殺し」の試みの一環だったのではないかと、あとから振り返ると思わされます。エルロイ文体の最高峰はやはり『ホワイト・ジャズ』(文春文庫)の、記号や短文を立て続けに叩きつける独特の切り回しということになるでしょうが、『1974 ジョーカー』でも、中盤以降から短文による言葉の連打があったり、自分さえが溶けていくような展開の中で唯一確からしい基盤として与えられる各節冒頭の日付と時刻の情報があったりと、文体の面でもエルロイを思わされる部分が多いのです。

     ですが、二作目である『1977 リッパ―』を読んだ時に、その印象は大きく変わります。「エルロイの息子の本を読んでいる」という感覚が、「ピースという作家の本を読んでいる」に変わったのです。各節冒頭のラジオの会話の挿入の仕方もそうですが、終盤で「執拗」とも言える独特の文体をいよいよ確立し、「破滅」を描くラストに関しては、もはやこれを誰も越えられないのではないかというほどの凄みに達しています。語り手のみならず、こちらの足元さえ揺らがすような文体の凄み。不吉で心をかき乱すイメージのカットバックをリズムよく繰り出すことにより生じる魅惑的で真っ黒な幻視。初読時に、ほうっ、とため息が漏れたのを覚えています。

     だから私は〈ヨークシャー四部作〉、とりわけ『1977 リッパ―』が好きなのですが……今回、〈東京三部作〉では、それすら凌駕したと感じています。

    〇〈東京三部作〉が描いた地平

     冒頭で述べた通り、〈東京三部作〉では日本の実在事件を取り上げています。ここでキーワードとして取り上げたいのが、芥川龍之介を始めとした日本文学の存在です。『TOKYO YEAR ZERO』の冒頭では『或阿呆の一生』がエピグラフに用いられ、『占領都市』の「参考資料」においては“「羅生門」と「藪の中」からヒントを得た”(p.375)と明言されています。さらに、〈東京三部作〉の合間に刊行された『Xと云う患者 龍之介幻想』(文藝春秋、2018年)は芥川文学をコラージュ・マッシュアップした連作短編集になっています。

     ピースが確立したノワールの文体・構想に、こうした要素が注入された結果、何が起こったか。一言で言えば、それは〈語りの複層化〉という現象だったのではないかと思います。

     それはもちろん、ピースが「あの時代」の日本の姿を捕らえるために摂取した日本文学、海外文学、映画などのイメージが幾層にも折り重なっている……という意味でもあります。今ここでより強調したいのは、「文体」の部分なのです。

     一作目『TOKYO YEAR ZERO』では、冒頭で終戦の日の情景が描かれ、その一年後にGHQ占領下の日本で凶行を繰り返す「小平事件」の犯人を捕らえようと奮戦する警視庁の刑事たちの活躍が描かれます。ここで導入されたのが、太明朝体による文章の挿入、という趣向です。これがピース独特の「執拗」な文体と相まって、独特のリズムを生んでいるのです。ちょっと引用してみましょう。

     夜は昼だ。目を開いた。もう錠剤はない。昼は夜だ。雨の音が聞こえた。視線を逃れる。夜は昼だ。日が昇るのが見えた。もう錠剤はない。昼は夜だ。目を閉じた。死体。夜は昼だ。現場百回。もう錠剤はない。昼は夜だ。白い朝の光が黒い芝公園の木立の後ろから。丈の高い、高い草の中に。夜は昼だ。見えるのは黒い木立だけだ。もう錠剤はない。枯葉と雑草。昼は夜だ。再び姿を現す黒い葉。もう錠剤はない。夜は昼だ。わたしは向き直った。もう錠剤はない。昼は夜だ。現場を離れた。別の国の死者。夜は昼だ。黒門の下で。もう錠剤はない。昼は夜だ。犬はまだ待っていた。別の国。夜が昼になった。(同書、p.221)

     要所要所で繰り出されるこのリズムに、私はもう、参ってしまうのです。好きすぎて……(今、「阿津川の作品は読んでいたがピースの作品は読んでいなかった」という人は、そういうことかと腑に落ちたりしたでしょう。そうです。慣れないことをやっていたのです)。文藝春秋の編集者に伺ったところ、太明朝体の部分は、原文だとイタリックで表記しており、太明朝体で表現するというアイデアはその編集者の発明だということです。素晴らしい。

     この太明朝体の部分が、語り手「わたし」の心の奥底から湧き上がる心の声のようでもあり、真相を知る者から投げかけられる声のようでもあり、あるいは読者の現実世界へと闇が浸潤してきているように見える視覚効果もあったり……最初は慣れずに驚いてしまったのですが、読み進めるうち、これがクセになってたまらなくなりました。〈語りの複層化〉による第一の効用はこの文章上の特徴だったと思います。

     ちなみに一作目は、この文体以外に、精緻に作られたミステリー部分にも大きな魅力があります。小平事件の使い方が巧みで、史実の生かし方が良いというか、「あの事件の真相はこういうものだった!」的な見せ方じゃないんですよね。終盤のあるシーンが特に素晴らしく、あんなに禍々しく、映える使い方ってあるだろうかと惚れ惚れします。また、再読の楽しみはこの上ないものです。

     そして二作目『占領都市 TOKYO YEAR ZERO Ⅱ』は、帝銀事件について、十二の章で異なる語り手を用い、異なる文体で事件を記述するという趣向になっています。これは芥川龍之介「藪の中」を下敷きにして、「複雑性と不確実性」(同書p.381)を表現するためのもので、〈語りの複層化〉が目に見えて現れたことになります。刑事の視点、生き残りの視点、投獄された平沢貞通の視点(!?)などを次々繰り出すだけでも面白いのに、それを「〇本目の蝋燭」とナンバリングしていき、百物語にもなぞらえることで、禍々しい毒が暗黒として現出するさまを演出しているようで、ゾクゾクくるのです。

     また、この小説では二人称の語りも印象的に用いられています。『1983 ゴースト』でも「あんた」と地の文で使っているので、初めてではないのですが、『占領都市』は効果的なタイミングで使われている気がします。この二人称小説というものも好きで、初体験は法月綸太郎の『二の悲劇』か「しらみつぶしの時計」(いずれも祥伝社文庫)になるのではないかと思います。「しらみつぶし~」は、施設に運び込まれてゲームに参加させられている、という部分以外の設定は捨象し、論理パズルに徹していることもあり、「きみ」という呼称によって、まるで読者である私自身もこの知的ゲームに参戦しているような感覚がもたらされていました。あるいは、レイ・ブラッドベリの「夜」(『壜詰めの女房』(早川書房)収録)。読者の心のどこかにもあるかもしれない、子供時代の一情景を「きみ」という呼びかけと共に切り取り、幻想と現実のあわいが揺らぐその一瞬を鮮やかに切り取る幻想小説の逸品です。ここでは「きみ」という言葉は読者のノスタルジーを喚起する働きをしているのではないかと思います。特に翻訳においては、作品の“you”の効果に最も近い言葉を選び取るのが肝心なのでしょう。

     では、ピースはどうか。〈東京三部作〉の翻訳に使われたのは「おまえ」です。誰かを名指しで示すような語感が感じられます。ほかならぬおまえ、というような。この語感は文藝春秋の他の翻訳書でも効果的に使われていて、『イヴリン嬢は七回殺される』の帯文でも、「おまえが真犯人を見つけるまで、彼女は何度も殺される。」と書かれています。これもまた、登場人物の一人に対して、「ほかならぬおまえ」と呼びかけるニュアンスがあると同時に(既読者はさらにニヤッとしますよね)、読者もまたこの推理に参戦させられる感じがします。この「ほかならぬおまえ」のニュアンスは、『占領都市』の最後の章、とある人物が語りを始めるにあたって、最大限の効力を発揮しています。

     ちなみに、帝銀事件がモチーフ、異なる語り手による複層的語り、という共通点から、恩田陸『ユージニア』を思い出させるのが、私の偏愛ポイントでもあります。『ユージニア』については、第12回の読書日記で『灰の劇場』を取り上げた時に言及させていただきましたが、「不安」を描かせたら右に出る者はないというか……。しかし、その『ユージニア』にも負けないくらい、『占領都市』も凄い本なのです。

    〇新刊『TOKYO REDUX 下山迷宮』について

     では最後、『TOKYO REDUX 下山迷宮』はどうなのか。下山事件とは、1949年当時、国鉄総裁だった下山定則が朝の三越百貨店で失踪、深夜に線路上の轢断死体となって発見されたという事件です。国鉄職員十万人以上の首を切ろうとした矢先の犯行であり、他殺が疑われますが、自殺か他殺かで捜査機関の意見は真っ二つ。捜査機関は「自殺」の結論を下し、のちに内部資料を「下山白書」として雑誌「改造」と「文藝春秋」に流出させ、事件は表向きには収束します。しかし、この事件について、のちに多くのノンフィクションが「下山総裁謀殺論」をしたためていくことになります。私もこの事件について最初に詳しく知ったのは松本清張『日本の黒い霧』(文春文庫)を通じてでした(後述)。

     とはいえ、事件の経過や結論については知らなくても、『TOKYO REDUX』を楽しむことは出来ます。むしろ、GHQ捜査官の視点から事件の発生前夜からその顛末を追いかけていくというのが筋なので、ピースの語りに身を任せて事件について知り、後からノンフィクション本などに手を出してみるというスタイルが良いかもしれません。

     下山事件を描く警察小説の逸品であり、三部作の掉尾を飾るにふさわしい大部であり、律儀なまでに作りこまれた謎解き小説でもありますが、私はこの作品の魅力を一言で、「〈語りの複層化〉を物語のダイナミズムの中で達成した圧巻の傑作」と言ってみたいと思います。

     太明朝体によるレイヤー(階層)の違う語りの挿入、語り手の変更による事件解釈の多層化。そうした今までの手法に加え、今回は、プロットの中で様々な文体・語りが巧みに挿入され、「下山事件が起きたあの夏」が複層化していくのです。未読の方の興を削がないよう、明言は避けますが、この小説は部の切り替わりごとに新鮮な驚きがある小説なのです。その驚きの中で、小説の原稿、証言、あるいは「おまえ」という二人称を使った語りなどが、物語のダイナミズムの中に続々投入されていくのです。

     また会話文を意味するカギカッコ(「 」)の排除も、今回の特徴と言えるでしょう。私の担当編集者に、「ミステリーにおいて読者の読みの基盤になるのは、三人称の地の文だと思います。会話文など、他の部分には嘘が含まれているかもしれませんから。地の文が多いミステリーの方が、安心して読むことが出来ると思うんです」と指摘してきた方がいます。この言を借りるなら、本書では、「信頼できる(はずの)地の文」と「信頼できない(はずの)会話文」を視覚的に区別するためのシグナルが一切存在しないことになります。もちろん、ゆっくり読んでいけば、どこが発話内容で、どこが語り手の心情なのかは分かるので、混乱することはないのですが、ふとした拍子に、この徹底したカギカッコの排除が不思議な酩酊感を生み出してくれるのです。この「溶け合う」という感覚が最も重要で、〈東京三部作〉で多用される太明朝体や、『占領都市』における章などの明確な区分けなしに、物語の起伏の中で多くの文体を経由していくのです。

     加えて今回、エピグラフの使い方の巧みさには触れざるを得ません。初読時には、おお、と流す程度で大丈夫です。読み終えた後帰ってくれば、不思議な感慨に包まれるでしょう。

     複層化し、互いに響き合っていく「語り」のダイナミズム……この楽しさと言ったらありません。現実と虚構の境目はどんどん曖昧になっていき、語り手の精神が揺らぐのと同調するように、読者である私の不安も増幅していきました(私は「不安」を感じる小説が大好物なので、これは超褒め言葉です)。

     特に今回はこの「おまえ」の使い方が絶妙です。ある箇所で唐突に「おまえ」の語りが始まった時、一瞬立ち止まって、どうして急にこの語りが挿入されたのか考えたのですが、そこで意味に気付いた時にハタと膝を打ちました。「ほかならぬおまえ」という名指しのニュアンスが、これ以上ないほど生きているのです。ちなみに、ここで指摘した「意味」については、黒原敏行による「訳者あとがき」において、ピース本人の意図もちゃんと書かれているので、読んだ後に確認してみてください。

     そもそも第一部において、「GHQによる下山事件の捜査」が描かれることからして、今までにない新鮮な書き方です。敬愛する松本清張の影響で、私も昔からこの下山事件には関心があったのですが、どうしても日本人の眼から見た事件の再構成になってしまうので、GHQ捜査官の視点というのが、それだけで嬉しく感じたのだと思います。

    『TOKYO REDUX 下山迷宮』は、下山事件について書かれた犯罪小説の新たなるマスターピースであり、まさにこの夏に読むべき逸品です。

    〇蛇足ながらの副読本

     ところで、下山事件についてよく知らない、という方のために、おすすめの副読本を挙げておこうと思います。

     まずは先述した松本清張『日本の黒い霧』(文春文庫)。上巻冒頭にある「下山国鉄総裁謀殺論」が、下山事件についての文章です。松本清張の凄みは、下山事件に関する事実の整理、疑問点の洗い出し、謀殺論の構築を、わずか100ページでやってのけてしまったことにあります。下山事件に関する基礎知識を頭に入れておくのに、これ以上格好のテキストはないでしょう。アプローチや深度が異なっており、それぞれに美点があるのですが、後続の「下山謀殺論」のどれもが、松本清張が築いたレールの上に載っているようにも感じます。松本清張には、ピースが『占領都市』で描いた帝銀事件を扱った傑作『小説帝銀事件』ですとか、1965年に起きた実際の事件、アムステルダム運河殺人事件の真相に小説の形で迫る本格推理『アムステルダム運河殺人事件』などの作品もあります。

     閑話休題。他には柴田哲孝『下山事件 最後の証言』(祥伝社文庫)。「自分の祖父が下山事件の実行犯かもしれない」との疑いから始まった柴田の調査行を描く圧巻のノンフィクションで、2006年の日本推理作家協会賞と日本冒険小説協会大賞の評論・実録部門賞をW受賞しています。「下山事件」の真相を探ろうとするジャーナリストとしての心と、祖父の真実を知ったら家族が悲しむかもしれないという一人の人間としての葛藤が鮮やかに描かれていて、手に汗握るドキュメントになっています。ある出来事の繋がり方なども面白いんですよね。ちなみに柴田はこのノンフィクションで描いたことを、フィクションの形でまとめ、ノンフィクションでは埋めきれない空白を鮮やかに埋めた『下山事件 暗殺者たちの夏』(祥伝社文庫)も発表していて、これも実に読ませます。

     他にもいろいろありますが、長くなる一方なので、このくらいで。

    〇ノワールの時代

     ここで持ってきたのは、デイヴィッド・ピースの『1974 ジョーカー』が邦訳刊行された時の「ハヤカワミステリマガジン」2001年8月臨時増刊号のサブタイトルです。当時エルロイからの影響を公言し、『不夜城』三部作で日本ノワールの最先端をひた走っていた馳星周(完全に私は後追いで想像しているだけですが)とピースの対談、ノワール必読書やフィルム・ノワールのリスト、ジェイムズ・M・ケインやチャールズ・ウィルフォードについてのエッセイ、デニス・レへインとジョージ・P・ペレケーノスの対談、当時〈リーバス警部〉が立て続けに刊行されていたイアン・ランキンの短編……当時のノワールを語るのに、この一冊は欠かせない、という雑誌なのです。ともにサングラスをかけてキメッキメの馳とピースの写真だけでも、たまらない。

     この一年、やたらとノワールの傑作に行き会った、というのが私の実感です。佐藤究『テスカトリポカ』(読書日記第11回)ピエール・ルメートル『僕が死んだあの森』、紫金陳『悪童たち』(読書日記第20回)、ジョゼフ・ノックス『スリープウォーカー』(読書日記第21回、解説)、デイヴィッド・ピース『TOKYO REDUX 下山迷宮』。古典の年代ですが、諏訪部浩一『ノワール文学講義』で取り上げられたジェイムズ・M・ケインの『ミルドレッド・ピアース 未必の故意』も訳されました。また、『ノワール文学講義』内ではその作品そのものは取り上げられていないものの、『サンクチュアリ』や『エルサレムよ、我もし汝を忘れなば』に初期ノワールの雰囲気があると論じられていたウィリアム・フォークナーについて、その諏訪部の訳で『土にまみれた旗』(河出書房新社)が刊行されたのも今年のこと……。去年に戻れば、扶桑社文庫から『コックファイター』や『ナイトメア・アリー』といった最高のノワールが出て嬉しかった……。そもそもの話、①鬱屈・屈折から脱出しようとする主人公が陥る破局、②人生を破滅に導くファム・ファタール(それも複数)、③独特の絵作りと世界観で築き上げられた世界(=文体)という三要件を完璧に具えている以上、藤本タツキ『チェンソーマン』(集英社)は最高のノワール漫画ということが出来……(この人は、ツイッターでも言っている妄言をまた言っているよ)。

     ピースが出た時と同じように、また「ノワールの時代」と言い張ってもいいような気がしたので、あえてミステリマガジンを引っ張り出してきたのです。『ノワール文学講義』においては、アメリカにおける初期ノワールの勃興と大恐慌の発生が重ね合わせられています。社会に対する不安、不満が噴出するときに、ノワールという文学形式が力を得るのだと、私は思っています。今年刊行されたノワールの傑作・良作群を見ていると、「鬱屈・孤立」の書き方のレイヤーや、文体の使い方、先行作の咀嚼の仕方などが各国によってまるで違い、そうした発見の一つ一つに楽しめます。

     ノワール……ノワール、書きたいですよねえ……。ノワールを書きたいという気持ちが暴走したのが、さっきもちょっと触れた某小説のある一章なんですけど……まあ……もっと文章が上手くならないと無理だな……。

    (2021年9月)

第21回2021.08.27
世界水準の警察小説、新たなる傑作 ~時代と切り結ぶ仕事人、月村了衛~

  • 月村了衛、書影

    月村了衛
    『機龍警察 白骨街道』
    (早川書房)

  •  まずは本の話題から。八月末に、ジョゼフ・ノックス『スリープウォーカー マンチェスター市警エイダン・ウェイツ』(新潮文庫)が刊行され、私が解説を務めています。『堕落刑事』『笑う死体』に続く三作目ですが、ここからでも十分読めます。『堕落刑事』『笑う死体』でも既に、ハードボイルドのプロットやギャングの抗争といった展開、あるいはモジュラー型警察小説の面白さの中に、「謎解きミステリ」のセンスの良さが光っていたのがノックスですが、今回の『スリープウォーカー』は完璧に本格ミステリーなのです。なぜなら、「名探偵 みなを集めて さてと言い」を地でいったような解決編まであるのですから。ノワール、ハードボイルドのファンは間違いなく手に取るべき連作ですが、謎解きミステリのファンも決して読み逃してはなりませんよ。

     そう、この日記を最初から読んでくれている方はお気付きでしょう(一体何人いらっしゃるのでしょうか)。記念すべき第一回の読書日記で取り上げたのが、このノックスの『笑う死体』だったのです(なので、一作目、二作目の詳しい紹介については第一回をご覧ください。担当者の方がページをリニューアルしてくださったので、探している回まで飛びやすくなっているんですよ)。新潮社の編集さんに聞いたところ、第一回のことは知らなかったようなので、完全に偶然なのですが、でもノックスの解説を書けたのは光栄なことでした。

       *

     ノックスも世界水準の警察小説シリーズですが、今月、日本でも世界水準の警察小説シリーズ最新作が登場しました。月村了衛『機龍警察 白骨街道』(早川書房)がそれです。ファンの多いシリーズだけに、私がここで取り上げるのも緊張してしまうのですが、これは一読震えてしまったので、ぜひとも取り上げようと思った次第。

     新型機甲兵装「龍機兵」という、市街地を想定した近接格闘兵器が存在する世界が描かれる本シリーズでは、この「龍機兵」を擁する日本の警視庁特捜部と、そこに属する警察官の異端児たちの活躍が描かれます。この設定を展開しつつ、特捜部と他の部局との対立、謎の組織との対決を描いたのが第一作『機龍警察』でしたが、シリーズは第二作で、早くも世界に目を向けます。

     それが第二作『機龍警察 自爆条項』(以下、シリーズ名を共通タイトル「機龍警察」を除いた部分のみで表記)であり、日本に潜入したアイルランドのテロ集団の戦いが描かれます。「至近未来小説」と作者自身が称する本シリーズでは、時に作品の題材が現実の事象に肉薄し、例えばロシアン・マフィアが絡んでくる『暗黒市場』では、日本でのカジノ法案が議論され始めたタイミングでそうした話が取り上げられていましたし(刊行は2012年)、『未亡旅団』ではチェチェンから日本に潜入した、自爆テロすら辞さない女性によるテロ集団「黒い未亡人」との戦いを描きました(刊行2014年)。

     現実に限りなく肉薄するからこそ得られるスリルと興奮、そして心がざわつくような読中感は、もはや冒険小説の域を超え、ポリティカル・フィクションの面白さにも近接していきます。私などは、冷戦を肌感覚で知らないため、スパイ小説にしばらく苦手意識がありましたが(今ではル・カレはマイフェイバリットな作家の一人ですが)、当時読まれたスパイ小説はこうした「現実に近い絵空事」の感覚で楽しまれていたのだろうと想像しています。

     内藤陳の『読まずに死ねるか!』に収録された開高健との対談「内藤陳vs.開高健」に、こんな一節があります(こういう時に内藤陳を持ってくるって、お前は一体いくつなんだよ、というツッコミはさておき)。

    開高 しかし、西側の作家にとってみても、スパイ小説は難しくなってるのよ。第二次大戦以後はね。東ヨーロッパ圏が広がったでしょう。(……)何を食って、どんなものの言い方をして、どんな慣用語句があってと、これを全部いちおう押さえていかなきゃいけない。ものすごい勤勉なやつでないと、これはとてもつとまらないわけです。
    内藤 しっかりしたものを書くには、ですね。
    開高 そうです。スパイ小説というのは、新聞――「タイムズ」でも何でもいいけど、その新聞の欄外余白に書かれたニューズ、解説なんだな。だから母体である新聞そのものの成熟度とスパイ小説の成長は密接な関係があるんで、スパイ小説のいい、悪いでその国の新聞の程度がわかるといっても過言ではないんです。”(p.49)

     この文章全体には、どこか古めかしいところというか、時代を感じさせるところがありますし、月村一人が上手く書けているから日本の新聞は優れているということにもならないのですが、この「新聞の欄外余白」という感覚にはどこか頷けるものがあります。現実のニュースとどこまでも近い距離感にありながら、しかし、現実からは少し外れたもの。絵空事であると頭では理解しながらも、少しのバランスで現実に雪崩れていきそうなもの。そんなスリルを味わうことが、スパイ小説を読む楽しみだったのでしょう。『007』まで行けば「大人のおとぎ話」になりますが、ここで言っているのはもっと現実との距離が近い作品です。

     私が〈機龍警察〉シリーズに感じていたのは、何よりもこのスリルでした。国際政治へのアンテナ感度が高く、それを作品に組み込める力のある作家だからこそ、滲み出てくるスリル。冒険小説としての構成の力、月村了衛の高い空間把握能力が生み出すキビキビとしたアクションの切れ味、そして魅力溢れ、過去にも暗い影を持った登場人物たち。そうした小説としての奥行きの中でも、読んでいる間に感じる「ゾクゾクとした」感覚は格別のものだったのです。

       *

     では、今作の『機龍警察 白骨街道』はどうか。これはもう、ゾクゾク、などという生易しいものではありません。もはや、戦慄といっても過言ではない。フィクションが現実と切り結ぶということの意義。「現代を照射する物語」と月村自らが語る構想が、最高の形で結実したことの凄み。そうした興奮を感じると同時に、途方もない奈落の果てに突き落とされたかのような、この読後感。帯に書かれた「日本はもう終わっているのか?」という惹句は、この読後感を見事に言い表しています。

     つまり、〈機龍警察〉はこれまでも高い水準を維持し続け、一作ごとに「最高傑作」を更新してきたにもかからわず、今回で更なる高みに到達してしまったのです。それはミャンマーを題材にとったからでしょうか。あまりにも現実と接近し、絵空事としては読めないほどのその迫力ゆえでしょうか。私は、もう一つ理由があると思います。

     それは、前作『機龍警察 狼眼殺手』から本作の刊行までの四年間、作者が「月村版 昭和―平成史」とも言える傑作群を次々発表したことと無縁ではないのではないでしょうか。『東京輪舞』『悪の五輪』『欺す衆生』『奈落に踊れ』の四作品が、これにあたります。

    『東京輪舞』(小学館文庫)は、ロッキード事件、東芝ココム事件、ソ連崩壊、地下鉄サリンなどの昭和史の裏側で展開されていた公安警察の戦いを年代記形式で描く骨太の傑作です。女スパイとの戦いがとにかく手に汗握りますし、前回の読書日記で個人的な思いを述べたオウム真理教の事件も取り上げられています。

    『悪の五輪』(講談社文庫)は昭和のオリンピック公式記録映画監督を巡る利権争いを描く、昭和史×映画ものの傑作です。映画好き(当時なので「カツドウ好き」と呼ばれます)の変人ヤクザ、人見の人間像が素晴らしい。オリンピックからいかに金を吸い上げるかを考える人間たちの群像と、ラストシーンの身を切るような切なさが、現代のオリンピックにも重なってくる。今思えば、なんて完璧なタイトルでしょう。

    『欺す衆生』(新潮社)は戦後最大の詐欺事件である「豊田商事事件」を材に取り、その詐欺事件を目撃した「個」の視点から時代を描くことで絶妙のクライム・ノヴェルに仕立てています。プロットの起伏が良くて、この長さでも一気読み出来てしまうんですよね。第10回山田風太郎賞に輝いています。

    『奈落に踊れ』(朝日新聞出版)は、1998年にノーパンすき焼きスキャンダル事件が発覚し、揺れる大蔵省を舞台にしています。東大出で飛び切り優秀にもかかわらず、出世街道から外れた変人・香良洲が、スキャンダルによって首を切られそうな四人の身勝手な頼みをあえて聞き入れ、大蔵省に切り込んでいくのが痛快です。どうしてもノーパンすき焼きという言葉に引っ張られてしまいますが、それは話のきっかけに過ぎず、中身はクールなピカレスクロマン、経済小説になっています。ラストシーンがしびれるのです。

     これらの傑作群はいずれも、近過去の事件を虚実取り交ぜて描き切ることによって、それが現在の腐敗構造をも照射し、日本人への警鐘となるような書き方がされています。例えば、『奈落で踊れ』では、消費増税は恒久的な増税を意味するとの批判や、「十年、二十年後の未来において、日本全体を根こそぎさらおうとする大津波を幻視して」(同書、p.271)香良洲が立ち尽くすシーンがあります。刊行されたタイミングを考えると、震えてきます。この『奈落で踊れ』や『東京輪舞』を興奮しながら手に取り、読み進めていったときに、月村の小説はまだまだ進化するのかと興奮したのを覚えています。

     そして、この「月村版 昭和―平成史」の視点が、遂に「至近未来」を書く〈機龍警察〉と合流してしまったのが、今回の『白骨街道』なのです。

       *

     月村が今回題材にした日本の過去とは、インパール作戦。いわゆる援蒋ルートを遮断するために、ビルマ側からインパールに侵攻しようとした作戦のことです。史上最悪の作戦として名を残し、日本兵の死者は一説によると七万人以上、大半は戦死ではなく、病死や餓死だったと言います。狭い山道を埋め尽くした日本兵の白骨を、『白骨街道』と呼ぶわけです。

     本作で姿俊之含む三人の龍機兵パイロットが従事させられるのは、ミャンマーで確保された犯罪者の身元引き渡し。日本初の国産機甲兵装を開発していた会社から、軍事機密を盗んだ男を、「現地での引き渡し」を条件に特捜部へ引き渡す。明らかに、これは罠です。そういう気配を察しながらも、特捜部長・沖津は三名の搭乗要員をミャンマーに派遣する。この時、元傭兵である冷笑的な男、姿俊之が漏らすのが、「まったく、二十一世紀になってインパール作戦に従軍するハメになろうとはね」(p.36) という言葉なのです。本作は「インパール作戦」を描くことによって、現代の日本を照射し、さらにミャンマー情勢へも肉薄するという、現代小説として最高峰の構成を取っているのです。

     もう、シリーズ読者はお気付きでしょう。〈機龍警察〉にはこれまで、魅力満点に書かれたキャラクターのうち一人が主演を務めるような構成になってきました。第二巻『自爆条項』ではライザ・ラードナーの壮絶な過去をアイルランド系テロリストとの戦いを通じて描き出し、第三巻『暗黒市場』では、三人の搭乗要員のうち元から警官だったユーリ・オズノフの過去が描かれます。『未亡旅団』はあの人、そして『狼眼殺手』では……これは読んでのお楽しみとして、私は常々、「もう一回姿俊之がメインに据えられる巻が来るだろう」と、シリーズ読者の友人と話をしていました。そして『白骨街道』では、登場して早々の皮肉めいたやり取りで姿俊之の魅力が満載。過去を掘り下げるというベクトルではありませんが、姿の目から過去の日本と現代の日本を重ね、照射するために、今回は彼が選ばれたのではないか、と思います。

     そして、この叩きつけるようなラストシーン。姿俊之だからこそ、そしてこの夏に読むからこそ映えるこのシーンは、一読忘れがたいものです。本書の発売記念メッセージとして、「庶民の怨念と文学の強度」という文章を月村了衛が著しており、私はプルーフに挟まれていたメッセージカードで読んだのですが、同内容の文章を早川書房のnoteから読むことが出来ます。「現代を照射する物語として構想した『機龍警察』が、ようやくその本質を実証できたように思う。この上は、白骨と化した怨念と文学の強度を堪能していただきたいと願うばかりである。」とのメッセージには力強さを感じます。過去を描き、至近未来に分け入ってきた月村了衛だからこそ、遂に辿り着いたこの高み。もちろん、この小説は現実の変容にこれからも耐え抜き、世界を見据えた日本警察小説×冒険小説の金字塔として残り続けるでしょう。ですが、この戦慄を、怨念を、熱さを、最も実感できるのは「今」です。月村了衛と同じ時代に生きていることの幸せを、一作ごとに噛み締めています。

     本書を読み終えてすぐ、ニュース番組を眺めていると、本書の舞台となっていたミャンマーの情勢が目に飛び込んできました。クーデターにより国軍が実権を掌握、国軍が酸素ボンベを一括管理し、医療を支配しており、酸素ボンベを手に出来ない民衆が二日以上も長い列をなしてボンベを求めているという映像で、『白骨街道』が描いた「現実」とは違うものの、薄皮一枚も隔たっていないところに私たちの現実があることに息を呑み、驚かされました。『白骨街道』をエンターテイメントとして消化することと、私たちの現実を見据えてものを考えることとは、矛盾しないと私は思います。月村了衛の小説を読むとは、月村了衛の眼を通じて、私たちの世界とその悪を見つめることと同じなのですから。

     月村了衛がこのシリーズで、次はどんな「悪」との闘争を見せてくれるのか。読者としてはワクワクすると同時に、緊張感をもって、国際政治のフィールドを見定めておかなければいけないような気がしています。

       *

     さて、かなりエモーショナルな方向で日記を締めくくろうとしていて、空を切っているような感覚がしてしまうので、もう少し作品の具体論に立ち返っておきましょう。

    〈機龍警察〉シリーズは『未亡旅団』以降、冒険小説としてのプロットの強靭さで読ませる方向にシフトしており、実はそれぞれ一作ごとにそこから読み始めることが可能になっています。本作『白骨街道』も、ここから読むことは十分に可能で、設定やキャラクターについては作劇の中で把握できるように書かれていっていますし、何より、ミャンマーを縦断する作戦の面白さで牽引されるので、あれよあれよと読めてしまうと思います。「地点Aから地点Bに辿り着くことがプロットのメインになる」という点は海外冒険小説の王道で、その終着駅が「白骨街道」というだけでも興奮してしまうのですが、何より、このシンプルで強靭なプロットから『土漠の花』(幻冬舎文庫)を思い出して嬉しくなってしまいます。

     最近は「いかに龍騎兵の見せ場を限定し、盛り上げるか」という作劇にもどんどん力が入っていて、特に今回のアクション小説としての趣向には興奮しました。これだけのアイディアと動きをこの短さで書けてしまうのは、本当に凄いことなのですよ。『槐』の杉江松恋解説には、当時のインタビューが引用されていて、月村はアクションを考える時、「地図やそれぞれの位置関係の覚え書きやタイムテーブルを作って、三次元的に把握しながら書いていきます」(同書、解説内p.399)と話していますが、作品を読めば、本当にその通りにやっているのだと一目瞭然です。今回は機龍兵の動きにある「縛り」が課せられるシーンがあるのですが、それがまた面白いんだよなあ……!

     また、海外出張に向かう姿たちと、日本に残り推理を巡らせる沖津たち、という役割分担を明確にしたおかげで、かなりプロットを追いやすくなっています。おまけに、沖津が推理する「この事件の裏に一体何があるのか?」というホワットダニットの内容は、限りなくポリティカル・フィクションでありながら、同時に、そう考えればすべてが結びついてしまうという謎解きミステリーの快感に満ちたものでもあります。おまけに、この謎解きが「月村版 昭和―平成史」ともある意味結びついてしまうのですから、舌を巻くほかありません。〈機龍警察〉はどんどん「情報戦」の書き方が上手くなって、そういう意味でスパイ小説をも思わせるのが魅力です。

     また今回、在ミャンマー大使館の愛染、ミャンマー警察や国軍の面々も、それぞれに思惑を抱え、しっかりとした行動原理で姿たちと渡り合ってくるので非常に読ませます。特に愛染、彼の語る過去パートがなかなか良いのです。それを聞く姿の醒めた反応も良い。こういう作戦に、まったく違った行動原理の人間が一人介入するだけで、冒険小説はグッと深みを増すのです。

     ああ、まだまだ到底、語り足りません。そもそも、今年月村了衛は『非弁護人』(徳間書店)という傑作を世に送り出しています。弁護士バッジを持たず、裏から法廷を操っていく元弁護士を主人公に、「ヤクザ喰い」と呼ばれるビザールな悪との戦いを描いていくピカレスク小説で、キビキビとした調査パートによって次第に敵の恐ろしさを点描し、ようやく姿が見えたかと思いきやツイストがあり……という、これまた年間ベスト級に面白い作品だったわけです。それさえアッサリ超えてくる『白骨街道』って……。いやいや、素晴らしい……。

     ともあれ、『機龍警察 白骨街道』。今すぐにでも読むべき、「今」、そして「未来」の小説として、大いにオススメいたします。

    (2021年8月)

第20回 特別編62021.08.13
七月刊行のミステリー多すぎ(遺言)~選べないから全部やっちゃえスペシャル~

  • エドワード・ケアリー、書影

    エドワード・ケアリー
    『飢渇の人
    エドワード・ケアリー短篇集』
    (東京創元社)

  •  この七月、私がデビューした新人発掘プロジェクト「カッパ・ツー」から、遂に第二弾の作品が登場。犬飼ねこそぎ『密室は御手の中』(光文社。以下、敬称略)がそれです。

     石持浅海・東川篤哉の両氏を選考委員とするこのプロジェクトは、最終選考で受賞作が決定した後、石持・東川・新人作家の三人で鼎談の機会を持ち、「どう直していくか」「プロとしてもう一段高めるには何をするか」をじっくりと議論し、形にするというスタイルを取っています。そのため、受賞から刊行までに間があり、読者から見ると「忘れた頃にやって来る」という形になっていると思います。ある意味、「最も面倒見が良い『本格ミステリー専門』新人賞」と言えるのではないでしょうか。

     今回の受賞作、犬飼ねこそぎ『密室は御手の中』は、新興宗教『こころの宇宙』で起きた密室殺人を名探偵が解き明かすという、いかにも古式ゆかしい本格ミステリーの結構を取っていますが、文章や構成力のおかげでスッと物語に入っていけるのがとても不思議。いい意味で、肩の力が抜けた書きぶりで、緻密なロジックにより二転三転する展開と、タイプの違う密室トリックの競演で読ませてくれます。特に「百年密室」の回答には、思わず膝を打ってしまいました。また、少年教祖と名探偵との関係性も面白く、なぜ謎を解くのか、なぜ論理をふりかざるのか、という部分をサッと入れることで後半のドラマを引き立てています(このサッと、というのがキモで、第一回カッパ・ツー受賞者のように暑苦しくなっていないのです)。今年の本格ミステリーの注目作です。ぜひ。

        *

     さて……そんな『密室は御手の中』を含む七月刊ミステリーですが、ここで一言。「多すぎる!」。あまりの充実ぶりにホクホクする気持ちと、これだけ畳みかけられるとさすがに息切れしてくる気持ち。おそらく、「このミステリーがすごい!」のランキング対象期間が一か月早まったせいではないかと思うのですが(昨年、奥付9月30日までの刊行作品とレギュレーションが変わりました)、大部の完結編なども出ており、「この夏はミステリーマニアを試しているのではないか?」と思ったほどです。

     いつもは楽しく読んだ多くの本の中から、断腸の思いで二冊を選び、この読書日記に載せていますが……もうだめです。さすがに選びきれません。そこで、開き直ることにしました。

     分かった、全部書いちゃおう。

     こんな思い切ったことはこれきりにしたいというのが本音です。ただ、このままどこにも書かないと、私の感情の行き場もなく……。なので、七月刊と、六月刊なのに私が読んだのは七月になってしまったという作品をまとめて紹介していこうと思います。紹介で気になるのがあったら手に取ってください、というノリでいきます。今回の書影の掲載は偏愛度で『飢渇の人』に譲りましたが、正直、ここで取り上げたものは全部面白いと思っています。

     また、頑張って読みましたが、正直、刊行ペースに全く追いついていません。読者の皆様は「あれがない」「これがない」と言いたくなるかもしれませんが、このままではこの原稿が無限に長くなるので、「七月三十一日までに読んだ本」でバサッと切ってしまうことにしました。正確には竹本健治『闇に用いる力学』は八月一日の午前一時に読み切っていますが、まあ私が寝るまでが三十一日だったということです。

     ちなみに、第18回の冒頭で取り上げ、解説も書いたラグナル・ヨナソン『閉じ込められた女』と、第19回の冒頭で紹介した若林踏編『新世代ミステリ作家探訪』も、本来ならこのラインナップに並べられるべき作品。この二作も素晴らしい作品ですので、あわせてご覧ください。

     では、いきます。

     マイケル・ロボサム『天使と嘘』(ハヤカワ・ミステリ文庫)は、臨床心理士サイラスと、嘘を見抜く体質の少女「イーヴィ」のコンビを描いたミステリーです。この二人の出会い、少しずつ距離を縮めていく過程、一緒に事件を解くまでの流れがとにかく面白い。冒頭、自分たちの悲惨な生い立ちを語る少年少女の中で、一人だけ映画のあらすじを語るイーヴィと、聞いていた中でたった一人気付いて笑ってしまうサイラス、なんていう序盤のシーンだけで、たまらなく顔が綻んでしまうのです。また、シリーズ一作目である本作では殺人事件に割かれる比重が少なめですが、こちらも、あるワンポイントに着目したキレのあるフーダニットになっています。解かれ方が論理パズルみたいで、そのくせ事件関係者の背景がちゃんと立ち上がるので、なんだか不思議なんですよね。イーヴィの過去にはかなり凄惨な事件があったことがほのめかされており、このシリーズは次作でそこをもっと掘り下げるよう。三部作になるとの予定で、これからますます面白くなること請け合いです。

     小池真理子『神よ憐れみたまえ』(新潮社)は、小池ミステリ史上最大にして、最高の犯罪小説。昭和38年11月に両親を惨殺された十二歳の少女の人生を辿るという筋で、序盤は彼女や彼女を取り巻く人々、そして両親を殺した「彼」のパートで進んでいくのですが、この「彼」がその昭和38年11月の日に国鉄の事故に巻き込まれているという設定がまた良い。ボタンの掛け違い。または歯車のひずみ。何か大いなるものに運ばれていくように、しかし、一歩一歩歩んでいく「犯罪後」の彼女の来し方に思いを馳せながら読んでいくと……ある箇所で不意に驚きが訪れます。それはミステリー的な驚きではありません。「この先を、書いてくれるんだ」という嬉しさと困惑、そしてそのページを開いた瞬間に始まる、喪失と別離の物語。このラストによって、漆黒に塗りたくられたこの圧巻の大部は、読者の心を熱くさせる見事な小説となるのです。残酷で、やるせなくて、それなのに生きる力をもらえるような小説です。最後は涙が止まらなかった。昭和38年に十二歳なので、小池真理子自身の生年とほぼ同じなんですよね。素晴らしかった。

     C・J・ボックス『越境者』(創元推理文庫)は、猟区管理官〈ジョー・ピケット〉シリーズの最新作。講談社文庫で長らく訳されてきましたが、昨年、『発火点』によって創元推理文庫に翻訳刊行を移籍。その『発火点』はリアルな山火事描写によるサスペンスを描いた作品でしたが、今度の『越境者』は舞台に雪が降っているのもあり、ある意味好対照をなしています。ジョー・ピケットの盟友である鷹匠のネイト・ロマノウスキが登場するのが、シリーズ読者にとっては嬉しい作品ですし、ジョーが追跡する暗殺組織の裏にネイトの陰が見え隠れするという、「ジョーvs.ネイト」を押し出した構成にも興奮間違いなし。このシリーズは前作のネタバレ等は一切ないので、どこから入っても楽しめます。ネイトのことを知りたければ、彼が主演を務める最高の作品『鷹の王』(講談社文庫)が現役で手に入るうちに買い、読みましょう。主人公の克己の物語に焦点が当たること、冒険小説としての奥行き、一年に一回刊行のペースをボックスが守っていることなど、この読書日記で第14回に取り上げたディック・フランシスの特徴を思い出すのが彼です。一作ごとの充実度と完成度では、フランシスをも凌駕するかも。

     アルネ・ダール『狩られる者たち』(小学館文庫)は、2021年のミステリ・ランキングで健闘した犯罪小説『時計仕掛けの歪んだ罠』の続編。『時計仕掛けの歪んだ罠』は、ありふれた猟奇サスペンスのように始まった作品が、四部構成のうち、第二部に入った瞬間、「こんな展開今まで見たことない」というようなスリリングな切り返しを見せ、そこから謎解きサスペンスとして突っ走っていく構成に妙がありました。しかし、同じ手は二度通用しません。さあ、今回はどうするのかと思いきや……あっさりと、ハードルを飛び越えて見せたのです。今回も四部構成なのですが、一部で既に驚愕。「こんな展開にして、一体何をどうするつもりなんだ!?」と驚いたのも束の間、ダールに鼻面を引き回され、一寸先も読めないスリラーに魅了されることになります。特に感心したのは、場を引っ掻き回すだけ引っ掻き回した後、二部に一度「これからやるべきこと」を整理して次の展開へ動いていくという、キビキビとした捜査小説としての基礎部分です。これが固まっているからこそ、どんな展開に持っていこうとついていけるんですね。とはいえ、前作『時計仕掛けの歪んだ罠』から続くストーリーについては、いったん綺麗に収束させてほしいところ。少年漫画かよというぐらい引っ張ります。引っ張るなら、せめて解決するまでは邦訳が続いてほしいです。

     エドワード・ケアリー『飢渇の人 エドワード・ケアリー短篇集』(東京創元社)は、ダークでグロテスク、そして奇妙なファンタジーを得意とする作家、ケアリーの日本オリジナル短篇集です。本文だけでなく、作中に出てくる不気味だがユーモラスなイラストもケアリーお手製、さらには作中に登場する町の模型を作り写真を掲載してしまう(『アルヴァとイルヴァ』、文藝春秋)など、クリエイティブ精神においては国内外眺め渡しても比ぶ者なき逸材ですが、大長編が多く、敬遠していた向きもあるかもしれません。本作『飢渇の人』は、これまでの長編でも発揮された、ケアリーのエピソード作りのうまさと切れ味、「物」に対するフェティシズム、細かな描写から世界を立ち上げる力がいかんなく発揮された作品で、たとえて言うなら早川書房の『異色作家短篇集』に入っていてもおかしくない作品集です。それも、訳者の古屋美登里がケアリーに、初めての短編集を編みたいと伝え、この短編集のための作品が六編も書き下ろされているというのですから、これほど贅沢な話もありません。私のお気に入りは、色んなものを仮託しながら読むと不思議な笑いが込み上げてくる「バートン夫人」、短篇集のこういう遊びが好きすぎる「アーネスト・アルバート・ラザフォード・ドッド」「鳥の館 アーネスト・アルバート・ラザフォード・ドッド著」(前者でアーネストの人生を短編で書き、後者でその人が書いた短編をそのまま載せる、という趣向です)、短編にして群像劇でもあり、長編『望楼館追想』さえ思わせる「私の仕事の邪魔をする隣人たちへ」、長編『おちび』と同じくフランス革命の時代を題に取ったスピンオフとも言える短編「飢渇の人」です。『おちび』と「飢渇の人」は、どちらを先に読んでも楽しめます。ケアリー愛好者にとって最高の贈り物であり、入門にもうってつけの作品集です。

     紫金陳『悪童たち』(ハヤカワ・ミステリ文庫)は、早川書房や文藝春秋から今一つの潮流としてプッシュされている「華文ミステリー」紹介が、新たなステージに入ったと感じさせられる傑作です。妻の実家の財産を狙う男が、義父母を事故に見せかけて殺害。これが冒頭で描かれるのですが、このシーンを少年少女三人が偶然撮影していたカメラで収めてしまいます。警察に届けるべきところですが、三人のうち二人は孤児院から逃げてきたので警察に見つかるのはまずい。彼らは自分たちの将来のため、犯罪者を脅迫して大金をせしめようとする……といった筋の犯罪小説なのですが、偶然噛み合ってしまった歯車があれよあれよと計画を狂わせていく、その過程が面白い。特に感心したのは、下巻、ある展開によって物語の底が抜けた瞬間です。それまで、「最悪」に向けて突き進んでいく犯罪小説のプロットを楽しみながらも、感じていた違和感。それが解消されると同時に、「この物語はなんだったのか」が鮮やかに明かされる。面白い犯罪小説を読みたい人も満足できる作品ですが、この驚きは、必ずや謎解きミステリーのファンも満足させることでしょう。あまり日本に引き寄せて語りたくはないですが、訳者あとがきには、東野圭吾の『容疑者Xの献身』を読んで「社会派」ミステリーを志したと書いており、まさしく、東野ミステリーの犯罪小説的側面、『白夜行』などをはじめとした東野ノワールのプロットなどを咀嚼し、昇華させた作品だと考えています(これはネタバレスレスレなので挙げられませんが、本格ミステリーとしても評価が高い東野のある作品をも取り込んでいます)。あえて「華文ノワール」と称したい傑作で、これまでに邦訳刊行された華文ミステリーの中で一番好きです(これまでは水天一色『蝶の夢 乱神館記』(文藝春秋)が一番好きと公言してきました)。ところで、最新のハヤカワ・ミステリマガジンには紫金陳のインタビューが掲載されているのですが、伊坂幸太郎と東野圭吾が好きと語ったうえで、東野圭吾で一番好きと言った作品が……私も大好きだけど、それかい! なんだか気になります、紫金陳。

     ライリー・セイガー『すべてのドアを鎖せ』(集英社文庫)は、献辞をアイラ・レヴィンに捧げていることからも分かる通り、マンハッタンのアパートメントで起こる怪事件に巻き込まれる『ローズマリーの赤ちゃん』にオマージュを捧げつつ、それを見事に現代式にアップデートしてみせたホラー・サスペンス。高級アパートメントの空き部屋に番として住むだけで、大金がもらえるという求人広告。見るからに怪しい広告ですが、失業中で、とにかく金に困っているジュールズは飛びつく(この「貧困」の書き方が、実に現代的で……ある意味日本の状況にも重なります)。女優や憧れの作家、医師。セレブたちが暮らす高級アパートメントの雰囲気に酔いしれるジュールズ。しかし、不穏の陰は少しずつ忍び寄っていく。「敵がいるのは分かっているのに、その正体が見えない」序盤はかなりヤキモキさせられるのですが、マンハッタンの街の描写なども良く、それらを楽しんでいたところ、ある物証が発見された瞬間、恐怖が加速。そこからはノンストップで読んでしまいました。特に、どんでん返しの連鎖の中のある部分の処理があまりに上手いことに、唸ってしまいました。ここからどう持っていくんだろうと思っていたら、するっと方向転換するんですよね。で、伏線も張ってある。感心しきりでした。アイラ・レヴィン好きはニヤニヤしながら読むと思いますが、そんな人も驚くでしょう。リーダビリティーも高く、この次の作品も面白そうなので紹介が待たれるところです。

     マイクル・コナリー『鬼火』(講談社文庫)は、〈ハリー・ボッシュ〉シリーズの最新作。ボッシュものであると同時に、『レイトショー』『素晴らしき世界』と続いてきた深夜勤務の女性刑事・バラードの三作目でもある……のですが、実は私はあまり褒められたコナリー読者ではなく、『エコー・パーク』あたりまでをなるべく順番に追い、あとは『転落の街』など評判を聞いたものを拾い読みして、ここ数年はサボってしまっていました。ではなぜ、今回手に取ったかというと、やはりコナリーには「Night」の印象があって、原題“The Night Fire”を見て興味を惹かれ、訳者あとがきにも「終盤の怒涛の展開は近年屈指」(『鬼火』下巻「訳者あとがき」、p.343)とあったため。第一作の原題は“The Black Echo”なのですが、邦題は『ナイトホークス』(扶桑社文庫)なんですよね(ちなみにBlackも多い)。『暗く聖なる夜』とかの印象が強いのでしょうか。で、読んでみたところ……いや、凄い、ウルトラ傑作でしたね……。ボッシュの恩師である刑事が亡くなり、その葬儀の日に託された麻薬がらみの殺人事件の調書。バラードが遭遇するホームレス放火殺人。判事暗殺事件の裁判。この三つの事件が絡み合うのですが、一個一個の演出が本当に上手い。そもそも、ボッシュの異母弟のハラー(リンカーン弁護士のことです)が判事暗殺事件の裁判で見せる法廷戦術からして面白いのに、それを上巻であっさり使い切るし……。「繋がるぞ。絶対にこの事件は繋がるぞ」と身構えて読んでも、読者が夢中になって読んでしまいガードを下げるタイミングを心得ているし……。本当に衰え知らずですね、コナリーは。また、今回の事件の構図は、核は一言で説明出来るというくらいシンプルなのが良い。それをここまで演出してみせるんだから凄いですね。堪能しきったので、バラードものに追いつこうと『レイトショー』『素晴らしき世界』を即座に買いました。また、訳者あとがきによると、次のコナリーはジャック・マカヴォイ・シリーズである『ザ・ポエット』『スケアクロウ』の続編になるよう。この二作が結構好きなので、次も発売日に買います。

     西澤保彦『スリーピング事故物件』(コスミック出版)は、このところ西澤作品を復刊刊行していた同出版社から遂に刊行された書き下ろし新作(『神のロジック 人間のマジック』が気軽に手に取れるようになったのは本当にうれしいことです。超大好きな一冊なんですよ)。いわくつきの事故物件にルームシェアして住む三人の女性。犯罪が起きた物件であるその家では、部屋の中にあるワープロ専用機を動かさないよう禁止事項が言い渡されているのですが、そのワープロに文字を打ち込んだところ、幽霊となった被害者と交信することに。21年前の殺人事件の真相とは? というのが筋。愛憎微妙な関係が入り乱れた三人の女性の、ブラックでどこかトボけた会話劇(これは作者の現代ミステリーの特徴ではありますが)に乗せられていると、背筋が凍り付くような異形のホワイダニットに背負い投げを食らわされます。サイケでポップな表紙に騙されていると、飛ぶぞ、といった代物です。

     エリー・グリフィス『見知らぬ人』(創元推理文庫)は語りの魅力満点のビブリオミステリー。イギリス・ミステリーからまたしても実力派の登場です。タルカーズ校は、かつてヴィクトリア朝時代の怪奇作家・ホランドの邸宅だった。そんな学校で教師が殺され、遺体の傍にはホランドの短編に登場する言葉が書かれたメモが。これは、ホランドの小説の再現なのか? というのがメインの謎ですが、それを日記にしたためる女性教師のクレア(今時、あえて「紙の日記」というのが良いですし、それを可能にするキャラ設定も面白い)の語りの魅力によって、ユーモアに満ちた、しかし少し底意地の悪い人間観察に溢れた作品になっています。この「少し底意地が悪い」というのは誉め言葉で、私はイギリス・ミステリーのそういう皮肉めかしたところが好きなんですよ。語り手を少しずつスライドしていって事件を複数の目で描いていく、堅実ながら魅力的な書きぶりや、終盤に向けたサスペンスの高まり、要所要所に挿入されるホランドの短編小説「見知らぬ人」の面白さなど(同じく創元推理文庫の『怪奇小説傑作選』の一巻に入っていてもおかしくない出来栄えです。大時代的な語り口が、いいんですよね。「猿の手」なんかを思い出します)、見所満載。この本、更に嬉しいのが、本編が終わって、解説の前に、アレがちゃんと収録されているところ。こういうプレゼントが、何より嬉しいですよね。ちなみに、学校が昔は違う建物で……という設定を生かした作品に、テレビドラマ「新米刑事モース ~オックスフォード事件簿~」の「顔のない少女」という回があって、百年前の事件が関わってくるところや、ゴシックな雰囲気などが共通しています。この「顔のない少女」は、百年前の未解決事件に拘泥するモースが、そこから現在の殺人事件まで解き明かしてしまうアクロバティック・パズラーで、それを思い出させる『見知らぬ人』の設定も嬉しくなってしまったわけです。

     古野まほろ『征服少女 AXIS girls』(光文社)は、同じく光文社より2019年に刊行された『終末少女 AXIA girls』の続編。アポカリプス的な世界観と夏の孤島という取り合わせ、そして怒涛の解決編と論理に圧倒される『終末少女』は、まさに夏に読むべき傑作ですが、『征服少女』はまたしても趣を変えて読者の脳を揺るがす本格ミステリーの雄編です。天国の勢力を上げた地球再征服作戦。彼女らは最大の戦艦にして新世界の方舟〈バシリカ〉に乗り込み、悪魔に支配された地球へと……という筋なのですが、この独特の世界観の中に配置された違和感と、少女たちを襲う惨劇の謎が、たった一つのフーダニットを始点に全て鮮やかに解き明かされてしまう、その手腕が見事。この快感は凄まじいものですし、戦艦という舞台設定から『天帝のみぎわなる鳳翔』を思い出す往年のファンもいることでしょう。滅びゆく世界を舞台に、「まだ分からないこと」がたくさんある状況を描き、夏の清冽なイメージも描き切った『終末少女』と対照的に、この世界観の全てがいよいよ説明・解明されていく『征服少女』。対照的な二作でありながら、本格ミステリーとしての構築性と驚愕は同じ高みにあると思います。特に、不可能興味の書き方が好きでした。この設定、この状況下で、絶対にこの犯行は不可能だ、とガチガチに詰めておいて、それを鮮やかに解いてしまう見事さ。これは先も述べた『鳳翔』の毒殺経路の特定の鮮やかさを思い出します。読み応えもあり、大満足の一冊。

     山沢晴雄『死の黙劇 〈山沢晴雄セレクション〉』(創元推理文庫)は、著者初の文庫化。私は高校生の頃、光文社文庫の『本格推理』から出ていた別冊シリーズ『本格推理マガジン』という企画を愛読していて、その中でもぶっ飛んだのが、『硝子の家』に収録された山沢晴雄の「離れた家」。こういうアリバイトリック系の中では最も複雑なのではないかと思えるほどなのですが(分刻みの行動表がついている麻耶雄嵩『木製の王子』(講談社文庫)よりも、体感では「離れた家」の方が複雑ってどういうこと)、実は解かれてみると、事件全体の構図はかなり見通しやすいと感じて、狐にでも化かされたような気持ちを味わったのです。それ以来、私は山沢作品の虜となり、日本評論社から出た『離れた家』をなんとか手に入れ、『本格推理マガジン 絢爛たる殺人』に掲載された山沢参加のリレー小説「むかで横丁」を読み……と過ごしてきたわけですが、今回『死の黙劇』が文庫になると聞いて驚愕。山沢の探偵役・砧が出演する五作に加えて、犯人当てなどの四作。私も未読が五作も読めるとあって大満足でした。たとえていうなら、偶然まで含めて複雑に絡んだ因果の糸を、彼はこういう意図で動いた、一方彼女はこう考えて動いた、など一つ一つの必然性の説明によって一本一本ほぐしていくのが山沢ミステリーの味で、鮎川哲也なら長編一本かけてくれそうなところをあえて四十ページで早回ししてみせる「京都発“あさしお7号”」なんかはまさにそうした読み味。だから短編の尺にもかかわらず、じっくり、腰を据えて読むことが求められる感じがします。とはいえ、私にとって山沢作品を読むことは、チェスタトンや天城一、あるいは平石貴樹の純正論理の世界に浸る楽しさに通ずるものがあって、自ずから読む時の心構えも変わってくるというわけなのです。初めて読む方には、落ち着ける環境で腰を据えて読むことをオススメします。創元推理文庫からは幻の長編『ダミー・プロット』も刊行予定とのことで超楽しみです。

     三津田信三『忌名の如き贄るもの』(講談社)は、〈刀城言耶〉シリーズの最新作。自分の名前とは別に与えられ、決して他人に教えてはならず、その名で呼ばれても振り返ってはならないという「忌名」。その儀式の最中に起きた殺人に刀城言耶が挑む、という筋なのですが、冒頭で語られる怪異のシーンがもう怖い。「生きながら埋められる」というのは私の中で「ホラーで一番怖いやつ」なのですが(あとは眠っている間に何かされるやつ。防御不能なのが怖い)、それに加えて、今回は儀式の最中に道を歩いている時に後ろから呼ばれるというシーンで、語り手も振り返らず、そこにあるものを直接見ないだけに、読者の側も恐怖が高まるという趣向。夏に読むのにうってつけです。そこから刀城のパートに移っていくわけですが……今回はもう、まさに一読驚愕。刀城言耶というのは、名探偵なのですが、作中でも「迷探偵」と言われるくらい推理が迷走するところがあって、何せ関係者を集めた時点ではまだ事件を解いておらず、警察側も「人を集めたら刀城へのプレッシャーになって何か思いつくかも」と人を集めてくるという次第なのです。その迷走ぶりが生み出す「一人多重解決」がこのシリーズのウリにもなっているわけですが、ここが今回はべらぼうに面白い。伏線の張り方と解釈の利用の仕方が上手いんですよね……それによって、今回の異形の動機が際立っている。思わずため息を漏らすような見事なホラー×本格ミステリーでした。途中の事件の手数の多さや充実度の点では、『山魔の如き嗤うもの』や『碆霊の如き祀るもの』(どちらも講談社文庫)に譲りますが、真相のインパクトはシリーズ屈指だと思います。面白かったー。

     ペーター・テリン『身内のよんどころない事情により』(新潮クレスト・ブックス)はベルギーの作家によるメタ・フィクション小説。あるパーティーを断るために「身内のよんどころない事情により……」という表現を使った作家は、「もし自分の伝記が書かれるとすれば、この表現をきっかけに色々邪推されるのだろうか」と考え出す。彼は新たな小説の構想を得、娘と一緒に幸福に暮らしていたが、その娘が病に倒れた。「身内のよんどころない事情」は本当になったのだ……というのが大体の筋。小説家のパートだけでなく、彼が書いた小説の登場人物「T」(「ぼく」)のパートも含めて、複雑な入れ子構造をなした小説で、一読ではすべてを見通しづらいのですが、読み返してみると、この複雑な構造がどうなっていたのかが少しずつ見えてきて、その興奮がまた面白さを搔き立てる、といった読み味。この小説は三部構成を取っているのですが、部の切り替わりごとに、「そっちに転がるのか」と思わされる展開が面白く、特に「この小説は一体なんだったのか」が、ジグソーパズルのピースが嵌まるように見えてくる第三部が素晴らしい。細かい部分には多くの謎が残る文学作品なのですが、この構成がミステリー好きにもアピールすると思い、あえて取り上げてみました。皮肉とユーモアに満ちた語りも魅力満点です。

     竹本健治『闇に用いる力学』(光文社)は、「赤気篇」「黄禍篇」「青嵐篇」の三部作で、四半世紀の時を経て遂に完結。ただし、書籍化されていたのは「赤気篇」のみで、「黄」「青」初の書籍化です。通常の「普及版」販売とは別に、定価三万円の「特装版」(!?)も同時発売で、力の入れようが分かるというもの。二十世紀末の東京を舞台に、人喰い豹の出現、超能力少年の蒸発、高齢者を狙い撃ちで広まっていく突然死ウイルス〈メルド〉など、世界が破滅に向かっているとしか思えないほどの大事件・怪事件が連なっていくというのが大まかな筋で、正気を失っていく人々の恐怖を群像劇として描き切った暗黒小説と言えます。際限なく広がっていく事件に感じる酩酊感は凄まじいものです。私は旧版の『闇に用いる力学 赤気篇』を手に取った時、竹本が1995年のオウム真理教事件について「あの事件の決着のかたちは現実にあってはならないものだという想い」があったと述べ、「あの事件によって歪められてしまった現実のかたちを、小説のなかであるべきかたちにもどしてやればいい」と書いていました。これが、私が『闇に用いる力学』という本を手に取った動機、だったのです。地下鉄サリン事件の時、私はまだ生後間もない頃で記憶はありませんが、両親と共に祖父母の家に帰省していて、たまたま一日早く帰ったからいいものの、予定通り帰っていたら、父親はあの地下鉄に乗って出勤していた、と両親から聞かされたことがあります。それ以来、オウム真理教、地下鉄サリンという言葉は、私の中で絶対に手の届かない淀みのようなものになっていて、だからこの竹本健治のあとがきの言葉が、深く胸に残ったのです。当時のあとがきでは詳らかにされなかった、竹本健治のあの事件に対する意見は、『黄禍篇』の中で表明され、『青嵐篇』で作品の形で完全に成就され、特装版の特別付録冊子の中で、インタビュワーの千街晶之が踏み込んで聞いています。あのあとがきの言葉が分かるとともに、『赤気篇』帯の「私たちは本当に世紀末を乗り越えたのか」という言葉になぜかヒヤッとするような。四半世紀をかけた大部は、例えばウイルスの描写などが今のコロナ情勢を思わせるなど、時間をかけただけに、現実と重なる箇所も多くなっています。現実の変容にさらされながら、遂に完結したこの大部は、私の中で『匣の中の失楽』や『フォア・フォーズの素数』、『狂い壁 狂い窓』と並ぶほど好きな竹本作品になりましたし、個人的な体験の意味でも特別な一冊(まあ、三冊ですが)になると思います。

     さて、今月は浅田次郎の『兵諫』(講談社)も刊行され、これは『蒼穹の昴』シリーズの最新作であり、西安事件を描いたという意味で蒋介石を描いた小説でもあります。そして、『闇に用いる力学』は、現実の変容にさらされながら、「この国の終わり」を描いた作品でもありました。そうした二冊と共時性を持つように、蒋介石を妨害するためのインパール作戦を描きながら、現実の変容と取っ組み合い、国の終焉を見据えた傑作が八月に刊行されます。

     それこそが、月村了衛『機龍警察 白骨街道』(早川書房)です。発売前の新刊を取り上げるのは気が引けるので、これは次回に詳しく書いていきましょう。

    (2021年8月)

第19回 特別編52021.07.23
ヴァランダーは、われわれと共に生きている ~警察小説の最高峰、最後の贈り物~

  • ヘニング・マンケル、書影

    ヘニング・マンケル
    『手/ヴァランダーの世界』
    (創元推理文庫)

  • 〇「作家本」の話

     作家についての特集本や、その作家についての資料。そうした「作家本」を読むのはやはり楽しい。もちろん、好きな作家の思わぬ一面を知らされ、ショックを受けることもあるが、それも一つの発見です。

     その話は第12回で恩田陸・山尾悠子(以下、敬称略)のムックを取り上げた時もしましたが、やはり一番興奮させられるのは、作家その人が関わるものです。インタビュー・対談も良いですし、自作解説や自選短編集などは作者のこだわりや好み、それを書いた時の手応えが窺えます。実作者の一人として目がランランとしてしまうのはやはり創作ノートですね。神奈川近代文学館の特別展で「巨星・松本清張」展が開かれた時は、『点と線』(新潮文庫)の創作ノートをいつまでも穴のあくほど見ていたので、同行者に引かれました。

     さて、今月、そんな「作家本」が発売になります。若林踏編『新世代ミステリ作家探訪』(光文社)がそれです。これは書評家・若林踏と10人のミステリ作家との対談集で、参加陣は、円居挽、青崎有吾、逸木裕、斜線堂有紀、呉勝浩、澤村伊智、矢樹純、方丈貴恵、太田紫織、そして私という顔ぶれ。光文社からは綾辻行人対談集の『シークレット』が昨年発売されていますが、一人も対談相手が被っていないのが面白いところです。『シークレット』は、ミステリ史上、そして各人の原体験として大きな存在である「綾辻行人」への各作家の反応、模索を追走することが出来る対談集でしたが、本作はまた読み味が異なります。書評家としての若林踏が、その作家を構成するものは何なのか、根源は何か、をスリリングに解き明かしていく対話の面白さなのです。私自身、他のインタビューや対談では出来なかった話が出来たという実感があります。各々の作家が、己の創作哲学や理想のミステリについて明かすところもあり、まさに「これから」のミステリの姿を想像するのに格好の一冊となっています。

     駆け足で特にグッと来たところを紹介すると、青崎有吾の青春ミステリの核心に触れた感のある青崎有吾回、ミステリで社会を描くことについて深い納得と共に力強い示唆を得ることが出来る逸木裕回、「この背中についていけば大丈夫だ」とさえ思わせる呉勝浩のミステリへの情熱に胸打たれ目頭を熱くする呉勝浩回、「特殊設定ミステリ」とはミステリの可能性を拡張する試みなのだと感じさせられる方丈貴恵回などなど……ちなみに、私は矢樹純回を読んですぐに、ヒッチコックの『映画術』を買ってしまいました。感化されやすい。

     ともあれ、これは実に良い一冊です。ところがこれが本題でないのが今回の恐ろしいところ。「作家本」という切り口で、更に脱線していきます。

        *

     去る6月はそんな作家本が二冊も出ました。一つがジョゼフ・グッドリッチ『エラリー・クイーン 創作の秘密』(国書刊行会)。エラリー・クイーンという作家は、従兄弟同士であるフレデリック・ダネイとマンフレッド・リーの二人のペンネームで、ダネイが詳細なプロットをしたため、リーが小説的な肉付けをして執筆する、という分業がなされていました。この本では、そのダネイとリーがやり取りした往復書簡が読めるのです。

     私たちミステリ作家は(私のような若輩者が「たち」と言い張るのはなんだかおこがましいですが)それぞれのやり方で創作ノートやメモを残し、あるいは残さずに直感で進めていきます。他の作家と交流してノートの類を見せ合うと、あまりのスタイルの違いに驚くことしばしです。しかも、完成までの間には編集者とのやり取りで詰めていく作業もあります。この時点で、二つの脳が議論に参加することになって、その過程を全て記録に留めることは難しくなっていきますし、互いにどんどん忘れていきます。何が何だか分からない。

     ところが、ここに「エラリー・クイーン」という「二人で一人」の作家が作品を作る過程で残した議論を、往復書簡という形で追跡できる本が現れたのです。これはもう、並みの創作ノートを見せられるよりもよほど凄いことです。波乱万丈の議論、舌鋒鋭い指摘と反論のラリー、そしてあの傑作群が生まれるに至った軌跡の全てを味わうことが出来るのですから。

     ここで取り上げられたのは『十日間の不思議』『九尾の猫』『悪の起源』の執筆時の往復書簡です。小説としての奥行きと、謎解きミステリとしての完成度を併せ持つこの三作が作られる過程は、ミステリの創作の指南になり得る本ですし、ミステリ読者も楽しめる本だと思います。確かに、ダネイとリーのやり取りは凄まじいものですが、それぞれの指摘は正当ですし、彼らはギリギリまでユーモアの感覚を忘れていないと思います。そこが読み物として良いのです。

     個人的には、名探偵という存在に対して、創作ノートによく「聖痕」という比喩を書いてしまいますし、打ち合わせでもよく「聖痕」と口にするので、「エラリー」という名の「聖痕」」(p.107)という表現に深く頷いてしまいました。ダネイとリーの苦悩が深く身に染みてくるところもたまりません。私はたぶん、それが作中の名探偵や私立探偵であろうが、作者その人であろうが、彼らの「苦悩」というものに目がないんだと思います。同じ作家本でいうと『別名S・S・ヴァンダイン』(国書刊行会)を読んだ時の凄絶な感覚を思い出しました。

     書簡集はやはり作家本としてはある意味究極のものですね。実のところ、創作ノートを書く時は、「いずれインタビューとかで見せる時が来るのだろうか、私が死んだときはどうなるのかな」という思いが一瞬頭をよぎるのですが、書簡は基本的に「相手以外に読まれるとは思わない」ですからね。より生々しいものが残るのです。それが合作作家のものとくれば、その史料価値は計り知れません。

     書簡集でいうと、ロス・マクドナルドの書簡集”Meanwhile There Are Letters: The Correspondance of Eudora Welty and Ross Macdonald”も原書を持っているのですが、いつか訳されてほしいところです。文通相手のユードラ・ウェルティーは『デルタの結婚式』が代表作のアメリカの作家です。拾い読みしか出来ていませんが、リュウ・アーチャーという「視点」に対するロス・マクドナルドの考え方などが窺えて興味深い本です。同じくらいの時期に出たポール・ネルソン”It’s All One Case: The Illustrated Ross Macdonald Archives”は私が社会人一年目の初任給で買ったもののうちの一つ。大判本で、たまに開いて幸福に浸るための、本棚の肥やしになってしまっています……いつか読み切りたい。

     さて、前置きが長く、既に一回分の分量がありますが、今回はどうしても取り上げたい――このタイミングで、絶対に取り上げなくてはいけない作家がいるのです。

     それが、ヘニング・マンケル。そして彼の輝かしい警察小説シリーズ、〈クルト・ヴァランダー〉シリーズなのです。

    〇新刊『手/ヴァランダーの世界』について

     この6月、『手/ヴァランダーの世界』(創元推理文庫)が刊行されました。これが〈クルト・ヴァランダー〉シリーズ十二作目、最終作にあたり、これにてシリーズの邦訳刊行も最後となります。

     本書には、オランダの書店のキャンペーンのために書かれた中編「手」と、マンケル自身が書いたシリーズ各巻についての辞典「ヴァランダーの世界」が収録されています。前者についてはこの後の全作レビューで語るとして、先に後者の話をしましょう。

     この「ヴァランダーの世界」には、ヴァランダー作品の各作品あらすじなどはもちろん、シリーズに登場した全登場人物の索引、地名索引などが掲載されています。日本の読者にとっては、馴染みのない文化を少し伝えてくれる「文化索引」も嬉しいところです。これはたとえて言うなら、「『アガサ・クリスティー百科事典』(ハヤカワ文庫-クリスティー文庫を、アガサ・クリスティー本人が書きました」というようなもので、その手間と労力を考えるだけでも恐れ入ってしまいます。しかも、読者の立場からまとめたのではなく、作者の立場から語り直すのですから、ポロッと裏設定らしきものが漏れてくるところまである。なんて贅沢な本なのでしょう。まさしく、シリーズのファンへの格好の贈り物です。私は「Ⅶ ヴァランダーの好きなもの」の章で、作中の色々なことを思い出してうるっときました。『目くらましの道』の杉江松恋解説では、それまでのシリーズ5作品に登場する刑事について、どの作品で初登場し、どんなエピソードがあるのかを9ページかけて詳細にまとめてありますが(黒川博行『海の稜線』の杉江解説も同じことをしています。なんと手間を惜しまぬ作業だろう)、「ヴァランダーの世界」でマンケルは全作品分をまとめてしまったわけです。しかも本人が。あまりのことに、笑うことしか出来ない……。

     マンケルはなんと素敵な贈り物を遺してくれたのでしょう(マンケルは2015年に逝去、本書の原著刊行は2013年)。これから折に触れ、「ヴァランダーの世界」に浸りたくなった時に手に取る本になりそうです。

     ですが、これはシリーズを追いかけてきた人への贈り物……であるのも確かです。まだ読んだことがない、あるいは途中でやめているという人のために、ここから、〈クルト・ヴァランダー〉シリーズの全作レビューを開始しましょう。

     初めにことわっておくと、私もヴァランダーを読んだのは最近のことです。時系列的にヴァランダーの最終作にあたる『苦悩する男』が翻訳刊行された2020年の8月、その直後に友人二人に熱烈に勧められたのです。そして『殺人者の顔』を手に取ったのが2020年の11月頭、年末のランキング投票を終えて肩の荷を下ろしたところでした。それから八か月間、一か月に一冊のペースで読もうと決めて……ある時点を境に、月一ペースでは満足できなくなりドンドン読んでいったのです。

     なので、各作品の記憶も鮮明ですし、時間としてはハマりたて。シリーズは2001年に『殺人者の顔』の邦訳が刊行されてから20年の期間にわたるわけですから、当時からのファンの熱には敵わないですが、この機会に自分なりにまとめてみようと思います。

    〇〈クルト・ヴァランダー〉シリーズ全作レビュー

    ① 『殺人者の顔』(原著1991年、邦訳2001年)

     地方の片隅で暮らす農家の老夫婦。夫は無残な傷を負って死亡し、重体だった妻も次いで息を引き取った。彼女は死ぬ直前「外国の」と言い残した。その言葉が、外国人移民への憎悪を誘発する……。

     ヴァランダー・シリーズの特徴の一つは、基本的にヴァランダーの三人称一視点で記述されることです。ヴァランダーはよく〈マルティン・ベック〉シリーズ(角川文庫)と並び称され、確かに北欧のミステリ作家であること、社会問題に深く関わる犯罪を取り上げること、刑事の私生活が濃密に描かれることなど数多くの共通点がありますが、この「視点」こそが大きな相違点ではないでしょうか。〈マルティン・ベック〉シリーズは三人称多視点によるチーム捜査で、多角的に事件を切り取り、彼らのきびきびとした捜査がときに失敗し(この「失敗」、いい意味での「無駄足」感をいかにプロットの中に残せるかが、警察小説の味に直結すると思うのです)、そして歯車がかみ合うように事件が解けていくかを演出する。一方で〈クルト・ヴァランダー〉シリーズでは三人称一視点を固定することで、ヴァランダー自身の懊悩を事件の捜査に直結させているのです(ただし、プロローグなどでは他の視点が挿入されますし、サスペンスを高めるために犯人の視点が入ったりもします)。この試行錯誤と、社会の流れについていこうとしながらついていけなくなっている、ヴァランダーの感覚がたまりません。

     かといって、ヴァランダー以外の刑事たちに魅力がないという意味ではありません。むしろヴァランダーの視点から固定して描くからこそ、性格が見え、顔が見え、〈マルティン・ベック〉とはまた違った魅力が味わえます。特に私はリードベリという刑事がとても好きなのです。それにヴァランダーの父もいいんですよね。ヴァランダーの姉と親父の仲は良好なのに、ヴァランダーと親父の仲は最悪。時に読むのがストレスになるほどのクソ親父なのですが、最後まで読むと……ああ、良いなぁ。

     事件そのものも「外国の」という言葉から手掛かりを捻り出し、試行錯誤する過程で読ませますし、400ページで綺麗にまとまっています。マンケルは謎解き部分もしっかりしていますし、この「外国の」という言葉の真相も私は結構気に入っています。ただ、まだ一作目でキャラクターが定まり切っていなかったのか分かりませんが、ヴァランダーが「いくらなんでも、それはどうなの?」という行動を取る箇所もあります。

    ② 『リガの犬たち』(原著1992年、邦訳2003年)

     海岸に一艘のゴムボートが流れ着いた。ボートの中には二人の男の射殺死体。彼らの身に着けていたもの、そしてボートを手掛かりに捜査を進めると、彼らはソ連か東欧の人間らしいと分かったのだが……。

     実のところ、一作目『殺人者の顔』を読んだ時点では、まだ『苦悩する男』まで完走――おまけに、一年以内に完走――する気は全くありませんでした。それがこの『リガの犬たち』を読んだ瞬間、ヴァランダーにハマってしまったのです。

     もちろん、ボートを手掛かりに追跡をかけていき、遂には海外出張編が始まるという、捜査小説の部分も面白い。ですが、最もヒットしたのが名キャラクターの登場です。それこそが、バイバ・リエパ。この後ヴァランダーの人生に深く関わることになる女性の登場です。一度自分の知性を下げて率直に書いておくと……なんか、なんでか分かんないけど、いい女なんだよなあ……。

     ちなみに、先に言及した〈マルティン・ベック〉シリーズの二作目、『刑事マルティン・ベック 煙に消えた男』(角川文庫、旧題『蒸発した男』)も海外出張編なのです。これはマンケルが狙ったのか狙っていないのか。いや、関係ないか。

     また、これは1991年春の「ソ連のクーデター」を目撃した後のマンケルが、クーデター前のリガを瑞々しく描いた小説でもあります。ヴァランダーは、「時代を見つめ続けた人」です。あとがきでマンケルが“今日われわれはバルト諸国の発展について状況的知識をもっているわけだが、この小説を書くにあたってそれを使わないようにするというむずかしさがあった”(p.435)、“わずか一年前のことなのだが、あのときはどうだったのかを常に思い出さなければならない。あのときはすべてがまったく違っていた。もちろんいまよりもすべてがずっと不明瞭だった。”(p.436)と述べているのを見て、バルト諸国の独立宣言を見た直後の著者が、あえてその「直前」を描くこの作を書き切ったことの困難を思い、マンケル自身も「時代を見つめ続けた人」だったと深く腑に落ちたのです。

     その瞬間、私はヴァランダーに、マンケルにハマりました。

    ③ 『白い雌ライオン』(原著1993年、邦訳2004年)

     男は暗殺を請け負った。標的はその人、南アフリカの英雄ネルソン・マンデラ。一方スウェーデンの田舎町では女性が失踪、その近くで謎の空き家が炎上した。焼け跡から黒人の指と南アフリカ製の銃、ロシア製の通信機器。ヴァランダーを世界的規模の陰謀が襲う。

     北欧ミステリのシリーズが社会問題を取り上げる際、アフリカに話が及ぶのは、移民に対する関心の高さゆえでしょう。他にアフリカの話をしている北欧ミステリとしてパッと思いつくのはトーヴェ・アルステルダール『海岸の女たち』(創元推理文庫)やアンデシュ・ルースルンドの某作品などでしょうか。

    『白い雌ライオン』は文庫一冊で700ページもあり、それでもこの後に続く上下巻の作品に比べればまだ(少し)短いのですが、スケールのデカさゆえにヴァランダーの一視点では到底収まらず、多視点になっているのもシリーズの他作品に比べてとっつきにくい原因かもしれません。とはいえ、最後まで読むと立ち現れてくる陰謀は読みごたえがありますし、シリーズとしても一つの重要作になることは確かです。

    ④ 『笑う男』(原著1994年、邦訳2005年)

     ヴァランダーの友人である弁護士が、彼のもとにやって来た。父は交通事故で死んだが、その死に腑に落ちない点がある、と。直後、その友人が殺されて……。ヴァランダーはいくつもの経済犯罪を追ううち、その背後に潜む「笑う男」の存在に気付く。

     め~ちゃくちゃ好きな長編です。③『白い雌ライオン』の結末を受けたヴァランダーの冒頭の情景があまりにも好きすぎる。デンマークのスカーゲンの海岸を一人で歩く失意のヴァランダーと、それを毎朝見つめる一人の女。苦悩する主人公が信じられないほど心に刺さってしまう私にとって、たまらないシーンです。

     それだけでグッと引き込まれてしまうのに、今回の犯人像と、その犯人との攻防がまた面白い。中盤ではもう「こいつが犯人だろ!」というのが出てくる(タイトルもタイトルですしね!)のですが、その後の「犯人は確定しているんだけど詰め切れない」感じが「刑事コロンボ」なんかを思わせるからでしょうか。謎解きミステリとして、というよりも、ドラマとして読ませるという感じですが。その滋味溢れる感じが、たまらなく読ませるんですよねぇ……。いやぁ本当に好き。

    ⑤ 『目くらましの道』(原著1995年、邦訳2007年)

     夏の休暇を待つヴァランダー警部の前に、凄惨な事件が続発する。菜の花畑の真ん中で、焼身自殺を遂げた少女。背中を斧で割られ、頭皮の一部を髪の毛ごと剥ぎ取られた猟奇死体の発見。猟奇死体はやがて連続殺人に発展する。恐るべき敵に、ヴァランダーはいかに立ち向かうか?

     さあ、ここから〈クルト・ヴァランダー〉シリーズの黄金期が始まる。『目くらましの道』から最終作『苦悩する男』に至るまで、ここから先は一作残らず傑作なのです。

     ここだけ太字にしてフォントデカくしておきたいくらいです。シリーズを読むよう熱烈に勧められた時、「『目くらましの道』以降はすべてが傑作である」と言われました。本当かよ、と思っていたのですが、完全に本当でした。『目くらましの道』は、1995年の時点で猟奇殺人VS名刑事のフォーマットを使いこなした警察小説なのです。マイ・フェイバリット・ヴァランダーその1。

     私はこの『目くらましの道』を読んだ時、あまりに猟奇的な事件の様相に驚きました。これまでヘニング・マンケルについての書評や評価を見た時に、猟奇サスペンス的な側面が強調されたことはあまりなかったからです(そういう書評や解説があったとしたら、ごめんなさい)。犯行の様相自体も残酷ですし、なぜ犯人がそのような行動をするに至ったか、という点には異形のドラマが用意されています。古式ゆかしい「名探偵VS怪人」の再現を行っているジェフリー・ディーヴァー『ボーン・コレクター』の原著刊行が1997年ですから、それより2年早いことになります(邦訳は1999年で、一方『目くらましの道』の日本刊行は2007年ですから、一見マンケルが先には全然見えませんが)。マンケルとディーヴァーでは読み心地も目指す方向も違うとはいえ、時をほぼ同じくして、共にシリアルキラー・サスペンスの魅力を確立しているのには驚かされました。

     本書には犯人側の視点も挿入されるのですが、その不気味さと、異形のドラマの面白さも素晴らしい。サスペンスに牽引されて、上下巻の分厚さも全く気になりません。おまけに、本格ファンなら、事件の構図にある海外古典を思い出すかもしれません。タイトルにある「目くらましの道」とは、「捜査が全く違う方向に進んでいるのではないか」というヴァランダーの不安をあらわした言葉です。そう、先に〈マルティン・ベック〉シリーズに触れながら述べた、警察小説の良い意味での「無駄足」感を象徴する言葉です。捜査手続きとして、人間の直感として、その可能性を潰しておくのはもちろん必要なのだけれど、でも真相から離れていっているような気がする……警察小説とはその過程を面白く描くミステリであり、それは本格ミステリが可能性潰しを行う楽しさと全く変わらないのです。

    「死体搬送車が夏そのものを運び去った」(p.63)とかそういう描写から出てくるロマンチシズムも良いんだよなぁ。ともあれ、『目くらましの道』はここからの傑作群の中でも、間違いなくマストリードの一つ。オススメです。

    ここから読む、というのもアリではあります。第二作『リガの犬たち』で登場したバイバが今作にも登場していて、ヴァランダーと付き合っているので夏の旅行に一緒に行こうとしている、という点だけ押さえておけば、基本的には、シリーズ上のことも大丈夫です。

    ⑥ 『五番目の女』(原著1996年、邦訳2010年)

     濠の中で数本のポールに突き刺されて死んだ男。花屋の主人は失踪し、木に括り付けられて絞殺される。彼らはなぜこのように残忍な方法で殺害されたのか? 父親とのローマ旅行から帰ってきたヴァランダーは、再び、異形の犯人との対決に挑む。

     マイ・フェイバリット・ヴァランダーその2。さっき言ったばかりじゃないか。速いよ、あまりにペースが速いよ。

     しかし、これはめちゃくちゃ良いのです。特にもう、連続殺人の意味が明らかになる瞬間と、犯人との対決シーンがとんでもなく良い。プロットの切り返しもうますぎで、大満足の一冊。

     マンケルはプロローグの置き所が上手い作家です。『五番目の女』はその良さが端的に現れています。彼は必ず、事件の遠因を示す地点から話を始めます。しかもその遠因というのが、本来置くべき位置から半歩ほど、絶妙にズレている気がするのです。その絶妙なズレが、一体この話はどこに繋がってくるのか? という興味を引き立てる。この「半歩のズレ」というのは、ジョン・ル・カレの第一章にも通じるのではないかと思うのです。ル・カレは冒頭では絶対に本題に入らないのですが、あとから本題でしかなかったことが分かりますからね。その「半歩のズレ」が人によっては「とっつきにくい」と言われてしまうところでもあるので、とっつきにくさを感じたら、サッと読んで本編に入ってしまうというのもアリです。後から戻ってくれば必ず意味が分かりますから。それにヴァランダーが登場した瞬間からもう超絶面白くなりますから。

     また『五番目の女』には、マンケルの「社会に対する感覚」が鋭敏に現れた一節があります。長いですが、以下に引いてみましょう。文中に登場する「リンダ」とは、ヴァランダーの娘の名前です。

    “紅茶を注ぎながら、リンダはなぜこの国に暮らすのはこんなにむずかしいのだろうと言った。

    「ときどき思うんだが、それはわれわれがくつ下をかがるのをやめてしまったからじゃないだろうか?」

     リンダは不可解な顔で父親を見た。

    「いや、本気だよ。おれが育った時代のスウェーデンは、みんな穴の開いたくつ下をかがっていた時代だった。おれは学校でかがりかたを習ったのを覚えているよ。そのうちに急にみんなそれをやめてしまった。穴の開いたくつ下は捨てるものになった。古くなったものを捨てるのは、社会全体の風潮になってしまった。もちろん穴の開いたくつ下をかがることを続けた人もいただろう。だが、そんな人たちの存在は見えなかったし、話にも聞かなかった。それがくつ下だけのことなら、この変化はそんなに大ごとではなかったかもしれない。だが、それがいろいろなことに広がった。(……)」”(本書上巻p.410)

     若い人から読むと(お前だって十分若いだろう、というツッコミはさておき)、高齢者の回顧にしか見えないかもしれませんが、この一節がとても良いのです。がっつりと社会問題の話に触れていた初期四作や、「菜の花畑で焼身自殺した少女」というモチーフを早々に叩きつけた『目くらましの道』と異なり、『五番目の女』では序盤から中盤にかけて連続殺人サスペンスとしてのエンタメ力でひたすら物語を駆動していて、社会的なものからは一度離れたように見えます。だが、そうではない。理解不可能な連続殺人を描くことが、その悪意を描くことそのものが、「スウェーデンがどこかおかしくなってしまった」という主題にそのまま直結している。そのことを、先に引用した一節は示しているのです。殺人を描くことそのもので社会のひずみを表現するうまさは、アーナルデュル・インドリダソン『厳寒の町』(東京創元社)などにも現れています。北欧ミステリはそういうのが絶妙に上手いんですよ。

    ⑦ 『背後の足音』(原著1997年、邦訳2011年)

     十八世紀末の衣装をつけて、野外パーティーを楽しむ若者たち。彼らは突然失踪を遂げた。夏の間は暇なイースタ警察署を、再び不可解な事件に巻き込む第一報は、失踪した娘の母親からの、必死の捜索要請だった。やがてヴァランダーは直感する。もう彼らは死んでいるのだ。彼らを殺した冷血な殺人者が存在するのだ。この町の誰かが……。

     マイ・フェイバリット・クルト・ヴァランダーその3、なんなら最終作『苦悩する男』を除けば、これこそがマイベスト。

     なぜならば、『背後の足音』は連続殺人サスペンスとしても中盤の二転三転の切り返しが見事な作品であると同時に、「一緒に働いていたはずの同僚の『顔』を知らない」ことに気付き、彼の行動を追いかけていく――そう、〈マルティン・ベック〉シリーズの『笑う警官』に通じる話であるからです。

     ネタバレなしで語れることは多くありません。とにかくこのプロットは凄い。警察小説で複数の事件が起きた時、それらの事件が繋がることに驚きを覚えるのは、似た趣向の作品が濫発された現代ではもう不可能で、興味・関心は「どう繋がるか」に焦点化されるでしょう(無論、R・D・ウィングフィールドの〈フロスト警部〉シリーズのように、どんどん事件を起こしてモジュラー型と言えるまでに事件を増やせば、例えばAとCの事件は繋がり、その繋がりからから事件Dの目撃者が現れるが、Bの事件は全く繋がらないで解けるというように、「そもそもこの事件とこの事件は繋がるのか」という含みを残しつつ読者を翻弄することが可能です)。

    『背後の足音』はこの「どう繋がるか」がもう既に見事ですし、そこからさらに何度も底が抜け……そして、最後に現れる犯人像が、実に素晴らしいんですよ。私は『目くらましの道』『五番目の女』『背後の足音』の三作が連続殺人サスペンスとしてトップクラスの完成度を誇るので、これだけを指して勝手に「異形の連続殺人鬼三部作」と呼びたいのですが、『背後の足音』の犯人はその三部作の最高点に位置します。不気味でゾッとする犯人、最高だよなあ。

     もっと言えば、この「不気味さ」というのは、独白が変わっているとか、その程度では全然ダメで、犯行態様そのもので、そこに潜む人間への悪意そのもので魅せてくれなきゃダメなのです。連続殺人鬼は独白ではなく、犯行現場と死体で語れ。『背後の足音』はそれが良い。犯人が現場で何をしたか分かった瞬間、腹の底から震えあがるなんてもう何年も味わっていなかった。ここにはその戦慄がある。なんてビザール。

    ⑧ 『ファイアーウォール』(原著1998年、邦訳2012年)

     19歳と14歳の少女がタクシー運転手を襲う事件が発生した。彼女らは金欲しさの犯行だと自供するが、ふてぶてしい態度を取り、反省の色はない。尋問の席で母親を殴った少女にカッとしたヴァランダーは、取調室で少女を殴ってしまう。その瞬間を、新聞記者は押さえていた。

     上のあらすじを読んで、「うわあ」と思った人は同志です。警察小説が大好きな私でも、どうしても受け付けない描写があって、それはマスコミの描写です。警察小説に限らず、私は「無理解な他者の集積」という表現が苦手で、まあそれは現実そのままだから、と言えばそれまでなのですが、どうにも。同じ理由でSNSの描写も苦手で、よほど良いバランス感覚で書かれていないと受け付けられません。日本のドラマをあまり見られなくなったのは結構それが理由。横山秀夫の『64』のように、広報が主人公としてガッツリ書かれ、主題になっているとかなら、良いのですが。

     さあ、ではヴァランダーはどうだったか。結論から言いましょう。マンケルのバランス感覚は、やはり絶妙でした。記者のくだりはしっかり書かれますが、そればかりに拘泥することはありません。むしろ、その後の容疑者の翻意という形で、謎の一つに絡んでさえいます。実に器用。そうそう、こういう感じでやってくれないとダメなんですよ。

     また、怒りっぽいというのは彼自身の人間描写でもあります。後に娘のリンダを語り手に据えた『霜の降りる前に』でも、父親の爆発がいつも苦手だったという旨のことが書かれています。少女に手を上げた瞬間にはさすがに私も引きましたし、1999年の作品だなあと思いましたが、そのあたりのバランスを対マスコミ描写でうまく取っていたということも出来るかもしれません。

     しかし、これでは殺人事件周りの話がまるで伝わりません。では、あらすじを少し変えてみましょう。

     二人の少女がタクシー運転手相手に強盗を働いた。彼女らは犯行を認め、証拠もそれを示している。だが、ヴァランダーはこの事件の背後には何か大きなものが蠢いていると直感する。しかし、その直後容疑者の少女が失踪。変電所からは謎の焼死体が発見され、モルグからは死体が消える。一体、何が起こっているのか?

     どうです? 面白そうでしょう? マンケルはこれまでの作品でも複数の事件を起こしてきましたが、『ファイアーウォール』までくると「モジュラー型」に発展したと見て良いと思います。壮大な図柄のピースが繋がり、タイトルにもある「ファイアーウォール」に結びつくまでの流れが実に見事です。お察しの通り、パソコンのファイアーウォールのことですが、今のところ全然パソコン出てこないでしょう? どう繋がるのか気になりませんか?

    ⑨ 『ピラミッド』(原著1999年、邦訳2018年)

     ヴァランダー・シリーズの中短編集です。各編のあらすじは、ここでは割愛します。この後今年の新刊『手/ヴァランダーの世界』によって中編「手」が一本追加されたわけですが、基本的にはシリーズの中短編集はこれ一冊。しかも、これは『殺人者の顔』以前のヴァランダーを描く作品集なのです。そう、「新米刑事ヴァランダー」というわけ(Netflixでも同名のドラマが独占配信されていますが、また原作とは違う内容でこれも面白い)。二十代、まだマルメ署で働いていた頃から、イースタ署に移るまでの過程や、ヴァランダーの元妻・モナとの関係性の変遷も味わうことが出来ます。

     これからヴァランダーを追いかけたいけど、長編はどれも長くて食指が動かない……という人には、まずこの『ピラミッド』を大いにオススメします。謎解きミステリとしてのヴァランダーの魅力、社会を見つめる警察官としての視点も、既にここには色濃く表れています。冒頭の「ナイフの一突き」の1ページ目を読めば、思わずグッと引き込まれてしまうこと請け合いですし、「裂け目」という30ページ強の短編には、ヴァランダーの社会への「視線」の魅力が端的に現れています。「海辺の男」「写真家の死」も良い謎解きミステリですし、本書の中で最も長い「ピラミッド」は中編サイズでマンケル作品のスケールの大きさと、ヴァランダーの父親とのいざこざを楽しむことが出来ます。大充実の作品集で、自信を持ってオススメします。

     また、この作品集では、短編・中編ごとに登場人物紹介がついているのが嬉しいところ。海外短編集をオススメしても、「海外を読む時はいつも登場人物紹介を参照しているけど、中短編集だと自分でメモを取らないといけないからなかなか読めない」と言われたことが昔、ありますが、そんな人でも『ピラミッド』は安心です。最近だと、アレックス・パヴァージ『第八の探偵』(ハヤカワ・ミステリ文庫)も、作中作の短編の登場人物紹介がしおりカードの形で付属していました。こういう工夫で少しでも読む人が増えるなら良いですね(それにしても、ハヤカワの登場人物紹介カードは、あれがついているかついていないかで、将来古書店での値段が変わったりしそう)。

    ・番外編『タンゴステップ』(原著2000年、邦訳2008年)

     森の中の一軒家で、人形をパートナーにしてタンゴを踊る退職刑事。54年間、彼を追いかけ続けてきた過去が、その日、彼の命を奪った。かつての師である刑事の死に、舌癌の宣告を受けたステファン・リンドマンが挑む。

     この作品は番外編の位置づけで、『手/ヴァランダーの世界』の「Ⅱ クルト・ヴァランダーの物語」のあらすじ紹介でも触れられていません。事実、『タンゴステップ』にはヴァランダーは一切登場しません。ただ、ここに登場するステファン・リンドマンが、次作『霜の降りる前に』で印象的に登場するので、順番に全て攻略したいという場合は読んでおくべき作品です。

     2000年にスウェーデン本国で刊行され、2002年にドイツで翻訳刊行されたという本作。プロローグを見ても分かる通り、第二次世界大戦時のドイツからの因縁がこの作品には流れています。それが明らかになるまでの過程がややもったりしているのがとっつきにくさの原因ですが、ステファンの苦悩はヴァランダーのそれとも重なり、非常に読ませます。『リガの犬たち』で既に原型が完成していた、「国際政治上の事件が波及して、スウェーデンで悲劇を生む」というプロットが一つの結実を生んだ作品です。ラストシーンの感慨もひとしお。『目くらましの道』に続いて優先して翻訳されたのも納得の力作です。

    ⑩ 『霜の降りる前に』(原著2002年、邦訳2016年)

     ヴァランダーの娘・リンダは、父親と同じ道を歩むことになった。この秋にイースタ署に赴任することが決まったリンダの前で、友人の一人がいきなり失踪した。まだ警官になっていないからと諫める父をよそに、リンダは事件にのめり込んでいくが……。

     長期シリーズの、こういった変化が嬉しくてたまりません。あのリンダが警察官に! しかも語り手を務めてくれるのです。私は新米刑事作品の「新米ゆえの危うさ・失敗」というのも大好きなので、『ピラミッド』の「ナイフの一突き」でヴァランダー自身の新米刑事ぶりを味わった後に、こんな形でまた新米刑事ものが読めていいのか、と飛び上がってしまいました。今まで、ヴァランダーから見た自己と、同僚から見たヴァランダーは描かれてきましたが、娘の目から見た父がきちんと描かれるのも嬉しいところ。先に述べた、父親が癇癪を起した時の娘の反応なども、辛いとはいえ読ませます。ヴァランダーの元妻・モナとも、ヴァランダー自身はあまり関わりを持っていなかったなか、リンダの目から今の姿が描かれて、思わず衝撃が走ります。モナ……。

     事件の展開自体も、ありふれた失踪事件かと思いきや、中盤のツイストを経てどんどんねじれた方向に向かっていきます。これも結構残酷な話だよなあ……。プロットのツイストで何度も驚かされるんですよ。特にあのシーンなんて……おっと、これはやめておきましょう。あと下巻のステンドグラスの表紙ですが、読み終えてみると確かにこれがぴったりだと思わされますね。ヴァランダー・シリーズ、衰え知らず。

     そして、彼の冒険は、次で最後になります。

    ⑪ 『苦悩する男』(原著2009年、邦訳2020年)

     リンダのパートナー、ハンスとの間に子供が生まれた。五十九歳のヴァランダーは、初孫の誕生に喜ぶが、自分の記憶が時折欠落することに悩まされてもいた。そんな中、ハンスの父親・ホーカンの誕生日パーティーに招かれる。退役した海軍司令官である彼は、ヴァランダーに「ある話」をする。なぜ、彼は自分のその話をしたのだろうか? そして突然、ホーカンは姿を消した。あの「苦悩する男」は、一体何を抱えていたのだろうか?

     ここには、目を惹きつけるような連続殺人も派手さもありません。ただ、滋味溢れる、最高の推理小説があるのです。失踪した人間の追跡から始まるプロットは、これまで見たとおりマンケルの十八番で、なんなら前作『霜の降りる前に』にも似ていますが、ある時点のツイストで事件は異様な様相を呈します。この事件の背後に、一体何が潜んでいるのか? ぞくぞくするような謎ですし、そこにプロローグで書かれたような政治状況がしっかり絡んでくる。他の国の歴史上の事件、国際政治上の事件が波及してスウェーデンで悲劇を生む構成は、『リガの犬たち』で早くも試みられ、『タンゴステップ』で一度完全に成就させたダイナミズムです。

     そして、ヴァランダーの私生活上の苦悩も、一つずつ繋がっていきます。あのキャラクターとの関係。あのキャラクターとの人生。彼自身が記憶の欠落に悩まされる中、事件をひたすらに追いかけ、真実に迫っていく。事件の構図を遂に導き出すヴァランダーの姿は、名探偵の輝きに満ちています。本書の解決はまさしく謎解きミステリのそれです。

     そして、ラストシーン。

     全てが暖かく柔らかな光に包まれ、ヴァランダーという男の人生が一つの地点に収束する瞬間。それを限りなく綺麗に切り取った美しい文章。このエピローグを、私は生涯、決して忘れることはないでしょう。

     今も思い出すだけで、涙ぐんでいます。

     未読の方はぜひ、「クルト・ヴァランダー」という名の旅路を、ここまで順番に、きっと、追いかけてきてください。絶対に、この作品は最後に読まなくてはいけません。

    ⑫ 『手/ヴァランダーの世界』(原著2013年、邦訳2021年)

     そして、これが今年の新刊です。「ヴァランダーの世界」についてはさんざん話しましたので、オランダの書店で、犯罪小説を一冊買うとおまけに小説がついてくるというキャンペーンが開かれて、そのキャンペーンのために書き下ろされたという「手」。なんだその豪華なキャンペーンは? おまけでマンケルの小説を?? しかも150ページもある中編を??? と脳がバグってしまうのですが、『霜の降りる前に』から『苦悩する男』の間を埋める、ファンにとってはとても嬉しいボーナストラックです。

     ヴァランダーはある時から田舎暮らしを夢見るようになりますが、その物件探しの最中に人間の手の骨を見つけてしまう、というあらすじ。ヴァランダー、なんであなたはいつもいつもそんな目に……? 過去の殺人を掘り起こしていく過程に味がありますし、ラストの犯人との対決まで、一気呵成に読ませるスマートな中編です。もうとっくに時効の事件なので人員も予算も割けない、と人員を激絞りされるあたりが実に「らしい」ですね。今から追いかけるのだとすると、時系列的順に『霜の降りる前に』→『手』→『苦悩する男』と読むのもアリだと思います。『苦悩する男』を読み切った後は、しばらく動けなくなりますもんね……。

    〇完全攻略、まとめ

     ということで、八か月にわたるヴァランダー完全攻略をこれにて終了いたします。結論から言うと、

    1、 長編からいきなり入るのが億劫な人は、時系列的にも最初にあたる『ピラミッド』から読み始めるのもオススメ

    2、『目くらましの道』以降は全て傑作で、特に『目くらましの道』『五番目の女』『背後の足音』の三作は「異形の連続殺人鬼三部作」と称したいほど、サスペンスの魅力と謎解きミステリの鮮やかさに満ちた超傑作群。一作目から四作目が読みづらければ、『目くらましの道』から読む方法もある

    3、『苦悩する男』だけは、絶対に最後に読んで欲しい。

     こうなります。いやぁ、本当に面白かったです。〈マルティン・ベック〉シリーズをまとめ読みした時も興奮しましたが、〈クルト・ヴァランダー〉シリーズはこれからも折に触れて読み返す作品群になりそうです。高校生でスティーグ・ラーソン『ミレニアム』を読んだ時から、北欧ミステリには陰惨なスリラーの印象がついていて敬遠していたのですが、いやいやどうして、〈マルティン・ベック〉〈クルト・ヴァランダー〉は滋味に溢れた実に良い推理小説ではありませんか。この流れに、アーナルデュル・インドリダソンやヨハン・テオリン、ラグナル・ヨナソンを加えてもいいです。

     マンケル作品は全部で四十五作品あり、ヴァランダー以外にも多彩な作品世界が広がっています。2019年に邦訳された『イタリアン・シューズ』も、老境の主人公と過去の恋を描いた素晴らしい作品で、訳者あとがきによればその続編「スウェーデン製のゴム長靴(仮題)」の邦訳に次は取り掛かるとのこと。期待が高まります。ちなみに私はヴァランダーを完全攻略すると決めた時から、『北京から来た男』はもったいなくて読むことが出来ていませんし、『流砂』は闘病エッセイと聞いているのでもっとメンタルが整ってから読もうと大事に取ってあります。でもマンケルのユーモア感覚なら、陰鬱にはなっていないと思うんですよね……。

     最後に。「ヴァランダーの世界」の「Ⅰ 始まりと終わり、そしてその間になにがあったか?」では、なぜヴァランダーがこれほどの人気を勝ち得たのか、作者自身による分析があります。これ自体、ユーモアの感覚に満ちた、実にマンケルらしい文章ですが、私も私なりに一つ、なぜヴァランダーがこれだけ人気を集めたか、自分の思いを書いていこうと思います。

     今回、完全攻略のタイトルの横に、原著刊行年と邦訳刊行年をあえて併記しています。『殺人者の顔』の原著刊行は1991年、『苦悩する男』の刊行が2009年、その間は18年間。そう、邦訳刊行年は前者が2001年、後者が2020年なので、19年間。訳者・柳沢由実子による着実な、そして統一された邦訳のおかげで、作者と本国の読者が歩んだのと同じペースで、日本の読者はクルト・ヴァランダーの世界に接することが出来たのです。ヴァランダーは社会を見つめ続け、そこに順応できない自分に悩み、一歩一歩、『苦悩する男』で訪れる、最後の暖かく柔らかな光に向けて、歩んできたのです。

     この約20年、クルト・ヴァランダーはわれわれと共に生きてきた。だから、彼の体温をわれわれは愛するのです。

    (2021年7月)

第18回2021.07.09
輝かしき三部作(サーガ)、ここに閉幕 ~皆川愽子の底知れぬ魅力~

  • 皆川博子、書影

    皆川博子
    『インタヴュー・ウィズ・
     ザ・プリズナー』
    (早川書房
     ハヤカワ・ミステリワールド)

  •  今週、小学館文庫からラグナル・ヨナソン『閉じ込められた女』が発売されました。解説は私、阿津川辰海が務めています。この作品は、フルダという女性警察官を描いた三部作の完結編にあたるのですが、フルダ・シリーズは〈逆年代記〉の手法で綴られているのがミソ。第一作『闇という名の娘』では六十四歳、定年間際のフルダ、第二作『喪われた少女』では五十歳。そして本作『閉じ込められた女』が、実は時系列では一番前に来るというわけです。つまり、三部作の完結編にもかかわらず、ここから読むことも可能です。

     寒さが厳しいアイスランドの田舎で、クリスマスの吹雪に降り込められた夫婦と一人の「招かれざる客」。三人だけの奇妙な空間で繰り広げられる凄まじいサスペンスと、フルダによって解き明かされる意外な真実。そしてフルダ自身を襲った「悲劇」の顛末とは? 素晴らしい傑作です。ぜひご一読を。

     今年は何やら、三部作の最終巻を読むことが多い気がします。先月も言及した『三時間の導線』(ハヤカワ・ミステリ文庫)は「時間三部作」の完結編にして最高到達点と言えますし、今解説を書いている本も……と、まあ、この情報は、またのお楽しみということで。

     さて、そんな三部作の中から、今月は皆川愽子『インタヴュー・ウィズ・ザ・プリズナー』(早川書房)をご紹介。第12回本格ミステリ大賞を受賞した『開かせていただき光栄です ―DILATED TO MEET YOU―』が一作目となる本作は、18世紀のロンドンを描く歴史小説であり、作中随一のトリックスターであるエドワード・ターナーの魅力によって牽引された無類の本格ミステリなのです。

     一作目『開かせていただき光栄です』では、18世紀ロンドンでまだまだ異端視されていた解剖学の描写が目を引きます。死体を盗掘してサンプルを得るしかなかった当時の状況や、外科医ダニエル・バートンの五人の弟子たちのユーモラスでどこか病んだやり取り、盲目の治安判事ジョン・フィールディングというキャラクターの魅力がてんこ盛りに盛られたうえ、「解剖教室からあるはずのない死体が出現する」「しかもその死体は四肢を切断されている」という魅力的な謎が現出するのですから、これはもう、たまりません。

     詩人志望のネイサンを描いたパートも、青春小説としてとても読ませますし、ネイサンのパートとダニエルたちの殺人事件のパートがどう絡むのかも物語の吸引力になっています。ここで生きてくるのが本シリーズのトリックスター、エドワード・ターナー(エド)の活躍で(三作目の帯に「エド、最後の事件」ってデカデカと書いてありますし、これくらいでは致命的なネタバレにはならないということで……)、彼がカードを開くたびに二転三転する事件の行方には思わず手に汗握ります。第12回本格ミステリ大賞は城平京『虚構推理』との同時受賞で、『虚構推理』は先鋭的な多重解決の趣向が話題になったわけですが、皆川愽子も中盤の手数の多さ、事件の構図のうねりは、まさに「多重解決」と言っていいほどです。

     そして二作目『アルモニカ・ディアボリカ』。ネタバレを避けようと思うと言及できることがどんどん少なくなるのですが、順番に読んでいくと、思わず嬉しくなってしまうことと、思わず叫びそうになるようなことがどんどん起こります。これがこの三部作を「サーガ」と呼びたい理由で、やはり順番に追いかけなければと思わせるのです。

     洞窟の縦穴から、まるで天使のように現れた死体。その胸には「ベツヘレムの子よ、よみがえれ! アルモニカ・ディアボリカ」という謎の暗号が。暗号の意味を巡って、事件は過去へと遡っていくのですが、これが一作目の刑務所描写以上に胸を抉ってくるようなもので、実に読ませるのです。ここまでくればもうこの三部作から逃れるのは不可能。心に深く刻み込まれる、あまりにも印象的なラストは忘れようがありません。

     そして、三作目。『インタヴュー・ウィズ・ザ・プリズナー』です。読み始めてすぐに膝を打ちました。アメリカ独立戦争! 18世紀ロンドンを生き生きと描いてみせた皆川愽子が、更に新天地を求め、まだまだ高みに登り詰める。もちろん、皆川愽子の歴史ミステリが絶品なのは知っています。『死の泉』や『伯林蝋人形館』、『総統の子ら』あたりが私のイチオシですが、ここに来てまた超えてくるなんて……。アメリカの先住民族・モホークが、互いを「空を舞う鷹」「美しい湖」と呼び合う描写、風物の描写だけで、もう良質の海外歴史小説を読む感覚に舌鼓を打ってしまうわけですが(ある意味ジーン・ウルフのSFミステリ『ケルベロス第五の首』の二話目なんかも思い出しますね)、そこに、囚人として捕らえられているエドの謎まで加わっているのですから、面白いのなんの。

     今回の謎は、なぜエドはある男を殺したか? というものですが、本来は追及されるはずのエド(このタイトルですしね)がある手記を手渡された途端、一転して推理を始めるのが面白い。人を喰ったようなエドのキャラクターも相まって、二転三転の本格ミステリに仕上がっています。

     一作目『開かせていただき光栄です』以来、エドワード・ターナーと他の弟子四人の来し方に思いを馳せていたファンに対しての贈り物と言える作品ですが、そんな言葉では済みそうにないのも、さすが皆川愽子、一筋縄ではいかないというか……。今回も堪能しました。くれぐれも、順番に、順番に、ですよ。

    (2021年7月)

第17回2021.06.25
ユーディト・W・タシュラー、ますます好調の二作目!  ~ドラマ豊かな文芸ミステリ~

  • ユーディト・W・タシュラー、書影

    ユーディト・W・タシュラー
    『誕生日パーティー』
    (集英社)

  •  オーストリアの作家・タシュラーは2019年に、本国で権威あるミステリー賞であるフリードリヒ・グラウザー賞を受賞した『国語教師』(集英社)が邦訳されました。日本でも各種ミステリーランキングで好成績を収めた作品です。

     十六年ぶりに再会した男女。男は有名作家、女は国語教師。彼女は学校のワークショップのために男に連絡を取ったのです。小説は彼らのメールのやり取りから始まり、やがて彼らの会話文、彼らがそれぞれに語る「物語」、さらには供述調書(!)で構成され、彼らが序盤からなかなか語らない、謎めいた過去の事件の正体を次第に明かにしていきます。

     タシュラーの特徴を一言で言うなら、「カードの開け方が上手い作家」です。メールや会話文などから、モザイク状の図柄を少しずつ見せていき、次への引きを作りつつ、しかし、肝心な部分は決して見せない。この書き方が堂に入っており、しかもストーリーにも凄まじい求心力があるので、グイグイ読まされてしまうのです。

     しかも『国語教師』の構成要素には作中作、つまり「物語」がありました。もちろんある程度作中の現実を反映していますが、虚構も混じっている。そうした虚々実々の構成の中から、真実を紡ぎだしていき、二人の主人公の物語がぐわーっと立ち上がってくるという、非常にトリッキーな構成でした。文芸寄りでありながら、ミステリーファンにも自信を持って勧められたのは、そうした構成のゆえでした。

     さて、では今回の邦訳二作目『誕生日パーティー』はどうか。今回もまた、メールのやり取りから始まるのにはニヤッとさせられますが、作品の狙いは『国語教師』とまた別のところにありました。つまり、『国語教師』は「物語」を描く小説だったのに対し、『誕生日パーティー』では苛烈なまでの「現実」が描かれるのです。

     あらすじはこうです。ドイツで妻と子供三人との幸福な家庭を築いたカンボジア移民のキムは、五十歳の誕生日パーティーの日、末っ子が用意した「びっくりプレゼント」に困惑する。そのプレゼントとは、キムがカンボジアから亡命した際、一緒に逃げてきた妹分の女性、テヴィとの再会だったのだ。苦しい時を一緒に過ごした存在だが、同時に、最も会いたくない人物でもあった……。

     小説は、2016年の誕生日パーティーの模様を描く三人称多視点の家族の群像劇、1970年代、ポル・ポト政権下でクメール・ルージュの活動に苦しめられる二つの家族の物語、キムの回想、そしてキムとテヴィをドイツに引き取ってきた女性モニカの日記などで構成され、「キムの過去に何があったのか?」「それほど大切な妹分と何年も音信不通だったのはなぜなのか?」という謎を少しずつ解きほぐしていきます。

     中盤以降から克明に描かれていく、ポル・ポト政権下でのカンボジアの様子は、思わず胸が痛くなるほどです。知識人よりも農民の方が価値あるとされ、知識人や反体制派が次々連行され処刑されていく。読み書きができる、眼鏡をかけている、というだけの理由で殺された人もいる。そんな「地獄」の中で、回想の中に現れる二つの家族はどう選択し、どう生きてきたのか。その凄まじいドラマが、物語の求心力にもなっています。

     また中盤、そうした苛烈な状況下で生き残ったキムを「誇りに思っている」娘・レアが、学校の授業でキムに当時のカンボジアでの体験を話してもらえないかと乞われ、学校に行くパートも特に心に残りました。こんな辛いシーン、よく書けるな、と思いつつ、すっかりのめり込んでしまいました。

     こうした家族一人一人の描写、書き方も素晴らしいのです。レアが父を「誇りに思っている」こと、父に過剰なまでの優しさを向けてしまうその心情や、そこに戸惑いを感じてしまうキムのありよう。あるいは完璧な善意でテヴィを誕生日パーティーに呼び寄せてしまった息子ヨナス。テヴィとキムに対する妻イネスの態度。カンボジアのパートに現れる一人一人にも、描写の妙があります。特にホテルのシーンがとても良い。『国語教師』がテクスト中心というか、ひたすらに「語り」のみで構成された小説だったがゆえに、風物描写や凄惨な現実の描写もこんなに上手いのかと感心させられっぱなしでした。

     ミステリー的にも、タシュラーお得意の「カードの開け方」によって、鮮やかなネタが用意されていますし、『国語教師』と同様、暖かな救いに導くその手際が素晴らしい。ネタ自体は、最近の翻訳ミステリーにも似た趣向の作品があるのですが、物語が優れているので、それだけで評価が下がることはありません。1970年代のカンボジア情勢の苛烈さをここまで描いているにもかかわらず、この救いに暖かさと、そして納得を感じるのは、「それから」のキムたちの生活、その姿をタシュラーが克明に紡いできたからでしょう。大満足のミステリーでもあり、一級品の小説でもある。今回も堪能いたしました。

     人間性さえ剥奪されるような苛烈な状況を描いたミステリーとして、ほかにベン・クリード『血の葬送曲』(角川文庫)、アンデシュ・ルースルンド『三時間の導線(上・下)』(ハヤカワ・ミステリ文庫)、アレックス・べール『狼たちの城』(扶桑社BOOKSミステリー)も併せてオススメしておきます。

    『血の葬送曲』は1951年のレニングラードを描いた作品で、警察官も秘密警察に粛清される時代が描かれます。線路の上に並べられた五つの惨殺死体、という謎も描かれますが、この事件の動機については完全にどうかしていて、しかし不思議と納得感がある。そういう謎解きミステリー的な意味でも良いですし、音楽の道を断たれた主人公が過去と立ち向かっていく犯罪小説としても、歴史小説としても大いに楽しめます。そもそも、主人公のチームが線路上の死体の調査に赴いたのも、現場の所轄署の警官が一人を除いて秘密警察に連行されたからで、思わず呆れかえってしまうような描写に、妙なリアリティーがあるのです。トム・ロブ・スミス『チャイルド44』はもちろん、猟奇殺人アイデアとの取り合わせがニクラス・ナット・オ・ダーク『1793』なども思わせます。

    『三時間の導線』は、グレーンス警部シリーズの最新邦訳作にして最高傑作です。ベリエ・ヘルストレムをコンビとして、『制裁』『ボックス21』『死刑囚』『地下道の少女』(いずれもハヤカワ・ミステリ文庫)と、犯罪捜査を通じて社会の暗部を抉るミステリーを書き続けてきた作者ですが、『三秒間の死角』(角川文庫)から、これまでの作風にサスペンスや冒険小説の興奮を加えたものを立て続けに発表しています。続く『三分間の空隙』(ハヤカワ・ミステリ文庫)、そして新刊『三時間の導線』のいわば「時間三部作」(果たして三部作なのかは分かりませんが)は、そのスケールの大きさと興奮度を一作ごとに加速させていて、『三時間の導線』は本格ミステリーとしても冒険小説としても超絶無比。死体安置所に、一体死体が増えている……という発端から始まり、冒頭100ページはその謎解きにあてられますが、人を人とも思わない過酷な環境に放り込まれた、凄惨な状況がいきなり描かれ、胸を締め付けられます。グレーンス警部が猟犬のように獲物を追いかける過程も面白いですし、ある「潜入作戦」を描くパートは手に汗握ります。最大限楽しむためには『三秒間』から順番に読む必要があるので、追いつくには時間がかかりますが、それだけの価値がある傑作です。

     アレックス・べール『狼たちの城』は第二次世界大戦下のドイツを描いた作品です。半密室状態の古城で殺害された女優。彼女の発見された部屋はゲシュタポ長官のノスケのもので、門番が人の出入りを監視していたので、ノスケが第一容疑者として疑われる状況……いかにも本格ミステリーらしい状況設定ですが、ゲシュタポはこの門番を拷問して自白を引き出そうとするという。呆れる描写の妙なリアリティーは『血の葬送曲』にも通じます。この事件を解決するのが、なんとユダヤ人の古書店主。彼がなぜ名探偵を務めるか――務める羽目に陥るかは、それ自体がスパイスリラー的なくすぐりに満ちているので、出来ればあらすじ等にも目を通さずに読み始めてほしいところ。アウシュヴィッツ収容所での虐殺前夜を描いた作品なので、主人公の古書店主の命運いかに、とハラハラドキドキしながら読める良質な歴史スリラーです。

     今月は紹介したい新刊が多く、長々と書いてしまいました。特に、『血の葬送曲』『狼たちの城』の二作は歴史ミステリーで、『誕生日パーティー』も歴史をがっつり描いたものだというのが、歴史好きの私には嬉しいところ。日本では米澤穂信『黒牢城』が、戦国時代の武士の価値観を描いて、描いて、描き切ることが不可能犯罪や不可解な曲事、またそれを解く理由に説得力を与えていて、かつそれが結末において胸を打つダイナミズムにもなっているという、歴史とミステリー両方大好きな私が随喜の涙を流すような作品でした。嬉しい月でしたね。

     ところで、『誕生日パーティー』の冒頭は鴨を捌くシーンから始まって、小説の全体に鴨が印象的に登場するのですが、なんだか鴨が食べたくなってきてしまった。血抜きとか断頭のシーンが多いので、全然おいしそうじゃないのに。鴨南蛮とか食べたいなあ。

    (2021年6月)

第16回 特別編42021.06.11
「普段使い」のミステリが好き ~ディヴァイン邦訳作品全レビュー~

  • D・M・ディヴァイン、書影

    D・M・ディヴァイン
    『運命の証人』
    (創元推理文庫)

  • ●「普段使い」が出来るミステリとは?

     翻訳ミステリ大賞シンジケートのホームページで、毎月、書評七福神と称された七人の評論家がその月で面白かった海外ミステリを紹介する連載があります。2011年から続く連載が、このたび、一冊にまとまりました。それが『書評七福神が選ぶ、絶対読み逃せない翻訳ミステリベスト2011‐2020』(書肆侃侃房)です。

     手に取った印象は、まさに、壮観。巻末の著者別、タイトル別索引リストも嬉しい。毎月毎月、10年間も継続してきたことというのは、形にまとまると凄いな、と思いました。しかし、何より嬉しいのは、書き下ろしのコラムでそれぞれの方が挙げる「この10年間のベスト作品」や、あるいはそれぞれの方の年末ランキングの選考からは漏れてしまうような、面白い本をたくさん拾えるところ。例えば既読作でも、マイケル・オンダーチェ『名もなき人たちのテーブル』とか、ロバート・クーヴァー『ノワール』とか、フランシス・ディドロ『七人目の陪審員』などなど、あまり触れられないけれど面白く、懐かしいタイトルを見るだけでニヤッとしてしまいます。

     この本を読んでいると、霜月蒼が何かのイベントの折に、リー・チャイルドやマイクル・コナリーを指して言っていた「『普段使い』が出来る新刊」というフレーズが思い出されます。気軽にパッと読めて、いつも本棚に常備しておきたい。いわば「常備菜」なのです。そうした作品は、決して年末のランキングで高い位置につけることはありませんが、しかし、毎月毎月の生活の中で、日々に潤いを与えている存在であることは間違いありません。例えば海外新刊の分厚いハードカバー上下巻を読む時などは、さすがに、えいやっと気合を入れて、面白かったら年間ベストにも投票できるかもしれないぞ、と思いながら読むわけですから、そうした気負いもなく読める「普段使いの新刊」「常備菜」がいかに身に染みるか……。毎月行われていた「書評七福神」の連載からは、そうした「普段使い」も色々見つけられそうで、ウキウキしています(もちろん、各々の「この10年のベスト」発表も見ごたえ抜群ですので、お見逃しなく)。

     ということで、今回のテーマは私にとっての「普段使い」のミステリとしました。ここで5月の新刊、D・M・ディヴァイン『運命の証人』(創元推理文庫)をご紹介。

     私にとって「普段使い」の本、「常備菜」としての本とは、大体三つの種類があります。一つは「短編集」。お気に入りの作家・シリーズの短編集を持っておいて、それを一日一編ずつくらい読む。北村薫、恩田陸、若竹七海作品や、もう読み尽くしてしまった中では「異色作家短篇集」シリーズ(早川書房)、「現代短篇の名手たち」(ハヤカワミステリ文庫)、「英米短編ミステリー名人選集」(光文社文庫)などがあります。最近は『ソーンダイク博士短篇全集』全三巻(国書刊行会)をちまちま楽しんでいます。

     二つ目は「通勤電車で読むと楽しい本」。要するにお仕事小説などですが、とりわけ警察小説、しかもチームでの捜査がぴたりとハマっていればいるほど、通勤電車で下がった気分を持ち直してくれます。〈刑事マルティン・ベック〉シリーズも、〈クルト・ヴァランダー〉シリーズ、あるいはヒラリー・ウォーの小説などもここに入ります(ヴァランダーは大体上下巻だけどいいのか、という声が聞こえてきそうですが、マンケルは読みやすいのであまり長さが気にならないんですよね……)。だから面白い警察小説シリーズに出会うと、嬉しくなってしまうわけですね。大学生の頃、サークルのOBが「横山秀夫は社会に出てからの方が数十倍面白く読める」と言っていて、卓見だと思ったことがありましたが、感覚はかなり近い気がします。

     そして三つ目が、「地味なミステリ」です。誤解しないで欲しいのですが、私は「地味」という言葉を、誉め言葉として用いています(このせいで人と感覚が合わない)。描写はゆったり、事件はさほど多くは起こらない、人間を描くことに力を注ぎ、ケレン味などは一切ない。これがもう、とにかく落ち着くのです。日々の生活で疲れた心を癒してくれる本です。このカテゴリに属するのが、レジナルド・ヒル、P・D・ジェイムズ、アン・クリーヴス、ジム・ケリー、そしてD・M・ディヴァインです。クリスティーとラブゼイも加えたいところですが、どちらかというとこの二人にはケレン味のうまさを感じるので、近い位置ですが別枠なイメージ。

    ●ディヴァイン作品との出会い

     私が初めてディヴァインの作品を手に取ったのは、高校二年生の正月のことです。高三のセンター試験本番に向けて、高二の同日にセンター試験の問題を解く、という予備校の模擬試験があり、うちの高校では全員でその模試を受けることになっていました。勉強しろと教師からも口うるさく言われていたのですが、正月だから祖父の実家には行くと連れ出され、とにかくミステリを一冊持っていこうと本棚の前で呻吟。その時、クリスティー絶賛の評に惹かれて買っていた『兄の殺人者』(創元推理文庫)をなんとなく手に取り、持って行ったのでした。

     そうしたら、面白いのなんの。まるで霧の中を手探りで行くような、重苦しく、濃密な人間関係を楽しみ、フーダニットの冴えを楽しみ……。実は、『兄の殺人者』は初読時からすでに、手掛かりから真犯人まで完答してしまったのですが、それだけにディヴァインのフーダニット作りのうまさ、伏線のうまさに、初読で感心しきってしまったのです。

     それ以来、折を見て、『悪魔はすぐそこに』『ウォリス家の殺人』『災厄の紳士』『五番目のコード』などを買い集めて読み……今でもその習慣は変わりありません。しかも、初読時に、大学受験というある程度ストレスのかかった、慌ただしい環境からの逃避として読んだので、私にとってのディヴァインは「落ち着きを得るための常備菜」になったのでした。

     そんなディヴァインなので、新刊が出るたびに大事に読み、折を見て再読や昔の未読作をつぶしてゆっくり読んでいたのですが、今回の新刊『運命の証人』は、ちょうど心を落ち着けたい時期に発売したので、すぐに読むことにしました。

    ●新刊『運命の証人』について

    『運命の証人』は四部構成の法廷ものとなっています。刊行予告を見て、「法廷もの!?」とまず私はひっくり返りました。ディヴァインはとにかくドメスティック寄りに話を展開したがる作家です。家族や恋人、友人、同僚。半分身内のような人々の中で「思い込み」を丹念に描くことが、犯人特定の驚きにも、主人公のドラマの面白さにも繋がっています。

     つまり、例えば警察の人間を視点人物にして、外部からその身内サークルを描くことはやや不得手、という印象があったのです。その弱点を自覚しているのか、警官自体をその半身内の中に含めてしまったり、容疑者の一人とメロドラマを演じさせて「思い込み」の中に取り込んでしまったりします。とはいえ、法廷ものではそうした「外部の人間」が何人もいるはずだし……と、私はどんな作品に仕上がっているか、期待半分、不安半分で待っていました。

     ところが、読み始めてすぐ、その不安は氷解したのです。確かに冒頭で法廷シーンが描かれ、「二人の人物が殺されたこと」「主人公が被告人であること」という二つのショッキングな事実が明かされますが、明らかにディヴァインの関心は、法廷シーンそのものを描くことにはありません(褒めているんですよ!)。形式的なセリフは大胆に端折り(もちろん、被害者の名前を隠す『被害者を探せ!』的な趣向もあるのでしょう)、即座に、主人公の視点から回想を描いていきます。

     きた! と私は膝を叩きました。これぞディヴァインお得意の、半身内関係を利用した濃密な人間関係の書きっぷりなのです。友人とその恋人との三角関係、二人の女性の間での板挟み、友人の父親や周囲の人々の反応……特に主人公の行動にはヤキモキさせられっぱなしで、第一部に展開した人間関係をさらに押し進める第二部に入ると、さらにこのヤキモキは高まっていきます。こういう「ヤキモキ」に耐えられない、という向きもあるかもしれませんが、ある意味ベッタベタなロマンスや過ちを楽しみながら、犯人に繋がるものを探そうと目を皿にするのも、ディヴァインを読む楽しみというわけです。

     さて、しかし、本書は法廷ミステリです。先述した「外部の人間」の視点の問題はどうなるのでしょうか。中盤以降、法廷シーンをじっくりと描き、読者にも既に顔なじみになった各登場人物たちが次々現れて証言を行います。その時、私は先述の不安が思い過ごしだったことを痛感しました。そうなのです、半身内サークルの「中」の視点だけでは描き切れない、彼らが「中」の人間に見せる顔と「外」の人間に見せる顔の微妙な違い。これを描き出すために、ディヴァインはあえて「法廷ミステリ」のフォーマットを用いたのではないか。だからこそ、あの手掛かりを埋め込むことも出来たし、法廷シーンで訪れる、「ある瞬間」は感動的でさえあるのです。

     三人称一視点である理由もそこにあります。ディヴァインは『こわされた少年』以降、三人称多視点を多用し、複数のカメラ・アイの死角を突くようなフーダニットを作ってきましたが(こういう特徴もアン・クリーヴスと似ています)、今回はあえて一視点を採用しました。おかげで視野の狭さが生まれており、犯人に仕立て上げられた主人公が誰をどこまで信じていいのか一切分からない、孤立無援の状態が出来上がっているのです。

     ……とまあ、こんなことを考えながら読んでしまいましたし、全十三作中、読むのは十二冊目。さすがにこちらも手の内は分かっていて、手掛かり・犯人含めて今作も完答出来てしまいましたが(もちろん全作当ててるわけじゃないですよ)、もうそんなのはどうでもよく、ただただこの地味な法廷ミステリを楽しんだ、ベタベタなメロドラマを味わった。それに尽きるのです。

     これぞ、私の常備菜。ありがとうD・M・ディヴァイン。

    ●おまけ

     せっかく十三作品のうち十二作も訳されて読んでいるのですから、ここらで刊行年順に作品を振り返ってみようと思いました。ネタバレなしでザクっとコメントもつけますので、未読の方も参考になればと。
     タイトルの前には通常「〇」をつけていますが、「◎」がついている作品は、特にオススメ、という意味です。

    〇『兄の殺人者』(1961)
     クリスティーに絶賛されたデビュー作。一人称視点で殺人事件と兄の隠された秘密を探っていく話で、ディヴァイン独特のゆったりとしたテンポはすでに確立しています。シンプルなトリックを用いて、構成と伏線で見せる作品です。自分の最初のディヴァインだったのであまり悪く言えない。

    〇『そして医師も死す』(1962)
     二か月前に死んだ共同経営者の死は、実は殺人だったのではないか? 一行目からグッと心を掴む書き出しもグッドな二作目で、既に医師やその妻、市長の妙にイヤ~な人間関係を描く筆が冴えてきています。
     今回のフーダニットは「驚いたもん勝ち」で、取っ掛かりは面白い。ディヴァインはこの後、三人称多視点を導入してカメラ・アイを増やし、死角を作ろうとしていきますが、これは一人称の視野の狭さを利用した作品とも言えるのかも。

    ◎『ロイストン事件』(1964、現代教養文庫、絶版)
     これは正直、凄いと思う。
    父親の実家で見つけた、自分に何かを伝えようとした手紙の書き損じ。「きわめて重大なことがわかった。おまえの義弟は……」。父は「ロイストン事件」の再調査中に、亡くなったのだ。主人公は弁護士として、「ロイストン事件」の渦中に義弟を告発しており、それが実家とのしこりの原因ともなっていた。父の身に一体何が、そして、あの事件の真相とは?
    「ある事件」をきっかけに引き裂かれてしまった家族と、その事件のせいで結ばれてしまった人々。ディヴァインの描く濃密な「小サークル」の題材として、これほど強烈で、嫌なものがあるだろうか? 家族の確執はディヴァインお得意のテーマですが、これほど苛烈なのも珍しいというくらい。
     はっきり言って謎解き面はあざとい部分はあるけれども、もっと読まれてほしい一冊。創元推理文庫に入れてほしいし、入れる時には、出来れば真田啓介解説も入れてほしい……。

    〇『こわされた少年』(1965、現代教養文庫、絶版)
     ここで初めて、三人称多視点を採用。しかし、五つのパートに分かれ、それぞれのパートを消えた少年の姉と、警部とが交互に受け持つ形となっているので、非常に読みやすい。
     とはいえ先に述べた通り、ディヴァインは「中」から「中」の人間を書くから面白いのであって、「外」から覗かせても……と思いきや、なんとディヴァインはいつもの手癖で、この姉と警部が惹かれ合うという書き方をし始める。そうきたか、と思わず笑わされました。
     真相はやや強引なんですが、この小説はとにかく「過程」が面白い。少年が一人、失踪したという発端を受け、警部が聞き込みを始めた段階でも少しずつ見えるものが変わって来て、中盤からは何度もひねっていく。新たなスタイルに挑んだ力作です。

    ◎『悪魔はすぐそこに』(1966)
     D・M・ディヴァインの最高傑作。何せ、創元推理文庫に10冊もディヴァインが入ったのも、第一打の『悪魔をすぐそこに』のホームランのゆえでしょうから。
     これにはもう、異論はありません。三人称多視点記述をものにしたディヴァインが、いよいよキビキビと視点を変え、大学の教授やその身内たちの、絶妙に嫌~な人間模様を描き出し、そこに巧妙な技巧を忍ばせる。ディヴァインは犯人当ての手掛かりがシンプルであるがゆえに、再読するとやや評価が減じる作品も多いのですが、『悪魔はすぐそこに』は何度読んでも下がらない、むしろ上がっていきます。
     これはあまり指摘されていませんが、『悪魔~』の衝撃は、何作かディヴァインを通った後の方が大きいのではないか、と思っています。私自身がそうだったからですが、ともあれ、最高傑作であることは間違いないので、参考意見として受け止めてください。

    ◎『五番目のコード』(1967年)
     もう、ノリにノッちゃってるわけです。
     6作目にして挑んだのは「連続絞殺魔」。ディヴァインが遂に連続殺人を!? しかも「殺人者の告白」を冒頭に置いて、「八人がわたしの手にかかって死ぬだろう」と宣言! いいぞ!
     ということで、地方都市で暗躍する殺人鬼と、自らも疑われながら犯人を追いかける記者の奮闘が読ませます。殺人者による独白まで挿入され、ディヴァインにしては珍しくケレン味たっぷり。ぐいぐい読むことが出来るので、初ディヴァインにもおすすめの一作と言えるでしょう。
     連続殺人周りの謎解きはもちろん、フーダニットの意外性・伏線も十分。サスペンスと謎解きのバランスが取れた傑作です。
     なお、作中でクリスティー『ABC殺人事件』のネタが容赦なくバラされます。未読かつネタを知らないという幸福な人がいたら、すぐに『ABC殺人事件』も読むのです。

    〇『運命の証人』(1968年)
     今回の新刊。人称の変化を並べてみると、『こわされた少年』から三作連続で三人称多視点を試した後、ここで三人称一視点を試みているのが分かります。ある意味実験作とも言えるかもしれません。

    〇Death Is My Bridgeroom(1969年)
     未訳。原書も持っていません。お待ちしております……。

    〇『紙片は告発する』(1970年)
     町長選挙をめぐって揺れる村で、タイピストが殺された。彼女は仕事中に見つけた紙片のことについて、誰かに話していたらしい。一体そこには、何が書かれていたのか?
     地方都市、選挙という取り合わせがディヴァインお得意に見えるのは、後年の『跡形なく沈む』の印象が強いからでしょうか(『跡形~』が2013年邦訳、『紙片~』が2017年邦訳)。
     謎解きはそれなりで(ヒントの示し方が煽りすぎてしまっています)、全体から考えると間違いなく水準作なのですが、ますます落ち着きをたたえたディヴァインの筋運びに心地よさを感じてしまいます。

    ◎『災厄の紳士』(1971年)
     ロジック面で見た時の、ディヴァインの最高傑作。
     ディヴァインが示す犯人当ての手掛かり、根拠というのは、いわゆる「疑いを抱くキッカケ」「些細だが見過ごせない矛盾」といった性質のものです。犯人登場からわずか10~20ページで物語が終わるのも、謎解きパートの指摘がシンプルであるがゆえです。鮮やかで緻密な伏線に支えられ、それまでの人物描写も丹念なため、納得させられますが、堅固な論理でこの人でしかあり得ない、と特定するものではありません。
     しかし、『災厄の紳士』は違います。堂々と書かれているのに気づかなかった手掛かりによって、バシッと犯人が決まってしまうのです。例えて言うならエラリー・クイーンの『エジプト十字架の謎』の……それはちょっと、褒めすぎかもしれませんが。
     結婚詐欺を題材にしたコンゲーム風に書かれた前半(やや書きなれていないのはご愛敬ですが、それでも、ロマンス風に楽しめます)と、ある事件を経た後の後半に分かれ、巧みな二部構成も光る作品です。オススメ。

    〇『三本の緑の小壜』(1972年)
     ディヴァインが13歳の少女の一人称を書いた作品で、彼女を含めた一人称多視点の小説になっています。初期の特徴であった「一人称」と、『こわされた少年』『運命の証人』などに顕著な「第何部」構成との組み合わせは、ある意味回帰とも言えるかもしれません。
     私はすぐに犯人が分かってしまったのですが、それだけに、周到に配置された作品であることも分かります。私が特に好きなのは、中盤で、ある手掛かりから容疑者の枠が確定するところ。推理、検討から、「あの時あの場所、あそこに居合わせた人たちの中に犯人が……?」と判明するパートは、思わずゾクッとするような寒気に満ちています。

    ◎『跡形なく沈む』(1978年)
     前作からかなり間が空いています。死後に発表され、書いた時期は初期にあたるのではと推測される『ウォリス家の殺人』を除けば、事実上の最終作と言えるでしょう。
     数年前の市議会議員選挙を巡る秘密、それを探ろうとし周囲を混乱に追い込むタイピスト、惹かれあう二人、その背後にまた現れる選挙のこと、そして殺人。これまでのディヴァイン作品の要素を片端から集めてきたような作品で、しかし、これがやたらと落ち着くんですね。「実家のような安心感」というやつです。この作品に「◎」をつけたのは、正直そのあたりが大きいです。
     この作品は手掛かりと、犯人のラストシーンがとても印象的です。実にいい余韻が残るシーンなのです。

    〇『ウォリス家の殺人』(1981年)
     最後の最後、これぞ王道と言える「家」もの。まさにクリスティー、と言いたいところですが、語り手のモーリスにあまり惹かれないのが玉に瑕です。
     高校生の初読時は、作中に配置されたある偶然の使い方が気になり、評価が低かったのですが、再読してみると着眼点が非常に面白いと思いました。
     今『ウォリス家』を読み返すと面白いのが、訳者・中村有希による、「ディヴァイン邦訳戦略」のあらましです。一定のパターン、お約束のネタが多いディヴァインの作品を、似ている作品の邦訳時期はずらし、マニア好みのものは先にして、という工夫。今こうして本国での刊行順に並べてみて、創元推理文庫での刊行順を考えてみると、その「戦略」が窺えます。

     というわけで、今回のディヴァイン新刊も楽しみました。次にゆったりしたいときは、積んでいるP・D・ジェイムズを何か崩そうかな……。

    (2021年6月)

第15回2021.05.28
命を削る雪中行 ~突発企画・ノンフィクションが読みたい!~

  • ベア・ウースマ、書影

    ベア・ウースマ
    『北極探検隊の謎を追って:
    人類で初めて気球で北極点
    を目指した探検隊はなぜ
    生還できなかったのか』
    (青土社)

  •  5月は解説を二本書かせていただきました。綾辻行人(以下、敬称略)『暗闇の囁き〈新装改訂版〉』(講談社文庫)と西澤保彦『パズラー 謎と論理のエンタテインメント』(創元推理文庫)の2冊。どちらも、綾辻作品、西澤作品の中でベスト級に好きな作品です。中学生の時から大好きなお二方を前にして、ただでさえ緊張しながら書いたのですが、さらに併録される旧版解説(『パズラー』は集英社文庫版解説)は巽昌章という、この凄まじいプレッシャー。担当編集には「Wタツミ解説ですね」とメールで言われましたが、私は完全にアワアワしてました……。

     巽昌章の名は私にとってはお二方と並ぶぐらいとても特別で、『論理の蜘蛛の巣の中で』は私のバイブルですし、巽解説をひたすら集めていた時期があったり、短編や長編『森の奥の祝祭』を読んで「傑作だ」と大学サークル内で騒ぎまくったり……なのでプレッシャーには感じましたが、綾辻作品、西澤作品を数多く再読して見つめ直すことが出来て、貴重な時間を過ごせた気がします。

     とはいえ……疲れたのも事実。解説の荷を下ろすと、私の中に猛烈に、湧き上がってきた感情がありました。

     ――ノンフィクションが読みたい!

     事実は小説より奇なり、などという月並みな文句は嫌いですが、時折どうしようもなくノンフィクションが読みたくなります。ミステリー仕立てなら、なおのこと良い。あくまでも現実に起きたことである、という事実そのものの重みをしっかりと受け止めつつ、スリルも奥行きも味わえるような、そんな体験をしたくなります。そう思い立った時は、大型書店のノンフィクション本コーナーに行き、興味を惹かれる本を片端から見てみるのです。

     そこで今月はベア・ウースマ『北極探検隊の謎を追って』(青土社)を手に取ってみました。「人類で初めて気球で北極点を目指した探検隊はなぜ生還できなかったか」という長いサブタイトルがついており、そのものずばり、北極探検隊三人の死因を巡るノンフィクションになっています。

     極地探検隊、アンドレー探検隊は、気球に乗って北極点を目指した。サロモン・アウグスト・アンドレ―、ニルス・ストリンドベリ、クヌート・フレンケルは、1897年10月5日、クヴィト島に上陸した。四か月以上にわたる雪中行の最後だった。探検隊の一人が書いた日記は、10月8日の記述を最後に途絶え、後には三人の死体だけが遺された。一体、彼らは何が原因で死んだのか。本書は、300ページかけて、ただそれだけを解き明かす作品だ。

     ――とはいえ、答えは明白ではないか! 私も最初はそう思いました。低体温症でも凍死でも、細菌でも、ホッキョクグマを食べたというのでその寄生虫でも死に得る。ところが、本書の凄いところは、そうした主要な仮説の一切を、ほぼ冒頭の時点で全て退けてしまうことです。

     著者、ベア・ウースマは、自らもクヴィト島に行こうとします。三人が踏んだ地をその足で踏もうとするのです。あるいは、三人の日記を、そのまま掲載したりもします。何よりも大量の事実を集め、検証することで、この謎に挑もうとします。

     この日記は、なんと40ページをも占め、本書の白眉とも言えるパートでしょう。雪中行の過酷さが淡々と描かれ、体感温度の低さのデータを見るだけでも体の芯から震えあがってしまいます。そんな40ページのなかにも、きちんと手掛かりは書かれているのです。

     そうした「事実」を重視した姿勢の中に、ベア・ウースマは時折詩情と、狂おしいまでの熱情を覗かせます。例えば69ページ、突然1ページを使ってこんな表現が入ります。事実を基にした作品に、突然詩のページが挟まったような具合なのです。

     “三人の居場所をだれも知らない。
    体は影を落とさない。”

     なぜ三人に執着するのか、その感情をベア・ウースマ自身は「ラブストーリー」という言葉で表現したりもします。その熱情もまた、この作品の求心力になっているのです。

     さて、最後には謎はきちんと解かれます。現場周辺の見取り図を作製するパートだけでも興奮するのですが、ある物証の写真をじっくり見た瞬間、目の前に存在していながら、たどり着けなかった答えを見つけるような感覚は無類でした。とはいえ、「誰かその説を思いつかなかったのか」とは思わなくもないのですが、納得させられるほどの迫力が、本書にはありました。

     ということで、『北極探検隊の謎を追って』は、無類の謎と熱情に導かれた、実に面白いノンフィクションでした。オススメ。

     今月はもう一冊、亜紀書房から出たスザンナ・キャラハン『なりすまし 正気と狂気を揺るがす、精神病院潜入実験』もかなり面白いノンフィクションでした。詐病によって精神病院に潜入したローゼンハンという男を巡る作品ですが、精神医学上有名だというこの論文に対して、著者が取るアプローチが面白いというか、「そっちの方向から検証するのか!」という面白さがありました。これもまた、併せて勧めたい一冊です。

    (2021年5月)

第14回2021.05.14
ディック・フランシス「不完全」攻略 ~年に一度のお楽しみ~

  • ディック・フランシス、書影

    ディック・フランシス
    『出走』
    (早川書房電子書籍)

  • ◎結論

     私と同じ年代で、「ディック・フランシスの名前くらいは知っているが、あまり読んでこなかった」という人にぜひおすすめしたい作品は、以下の順番です。カッコ内に示したのは、原書の初出年、フランシスの作品順では何番目にあたるかと、主人公の種別(騎手・非騎手)です。

    ①『出走』(1998年、短編集)
    ②『利腕』(1979年、第18作、元騎手、現在調査員)
    ③『証拠』(1984年、第23作、非騎手=ワイン商)
    ④『度胸』(1964年、第2作、騎手)
    ⑤『血統』(1967年、第6作、非騎手=諜報員)
    ⑥『名門』(1982年、第21作、非騎手=銀行員)
    ⑦『横断』(1988年、第27作、非騎手=保安員)
    ⑧『本命』(1962年、第1作、騎手)
    ⑨『大穴』(1965年、第4作、元騎手)
    ⑩『黄金』(1987年、第26作、騎手)
    別格 『女王陛下の騎手』(1957年、自伝)

    ◎総論

     ディック・フランシスは何を読めばいいですか?
     私はこの質問を年上のミステリ読みに何度となくぶつけてきました。フランシスは2010年に逝去、その時私はまだ高校生でした。すでに、息子との合作も含めて44作品の著作が出揃っており、作品を読もうにも、どう追いかけていいか分からない状態でした。唯一の手掛かりは『東西ミステリーベスト100』に『興奮』『利腕』がランクインしていること。
     初めてのフランシス体験は、中学三年生の時に読んだ『興奮』でした。そして、恥を忍んで告白すれば、私はその時、面白さがまるで分からなかったのです。馬が虐待される描写ばかりが胸に残ってしまい、モヤモヤしながら読み終えることに。
     だが、これだけ高い評価なのだ。何か理由があるに違いない。そう思った私は、とにかく年上のミステリ読みに聞きました。「ディック・フランシスは何を読めばいいですか?」。答えはいつも同じでした。『興奮』と『利腕』。他の情報はまるで上がってこない。なにが始末に悪いって、たまにそれ以外の作品の情報が上がってきて、えっ、ちょっと待ってくださいよとメモを取っても、どれもこれも二文字タイトルなので、古本屋の棚の前に行った時には、ハテどれを勧められたのやら、と首をかしげてしまうのです。
     そんなわけで、冒頭に「結論」と題して、私のおすすめしたいタイトルについて並べさせていただいた。これなら、古本屋で探している時、「そういえば、阿津川という作家がネットに書いていたな」と思い出してもらえれば、すぐ参照してもらえるだろうと思ってのことです。

     今回、ディック・フランシスをまとめ読みしてみようと思い立って、一か月強で読めたのは二十冊でした。全体からすると半分にあたる。その中から、勧めたい作品が既に十作+一作挙がったのだから、これはもう、実は大変なことです。いやいや、面白いじゃないですか、ディック・フランシス。
     しかも一番びっくりさせられたのは、原書の初出年一覧を確認した時です。一年に一冊、出しているのです。デビュー作『本命』(1962年)から第二作『度胸』(1964年)の間には2年の期間があるが、それ以外は年一ペースで、1965年の『興奮』『大穴』のように2冊出している年さえある。2000年の『勝利』から2006年の『再起』までの間は空いていますが、それまでは年に一冊とにかく出ているということです。
    『ディック・フランシス読本』に収録された、来日記念講演の箇所にも、「だいたい秋に次の小説の筋を練ります。そのためには、かなり調査をしなければなりません」と述べられています。一年ごとに調査・取材する対象を変えて、ルーティーンを守って刊行し続けてきた、その姿勢が窺えます
     邦訳もほぼそれに近いペースで、ハヤカワポケットミステリから、ハヤカワ・ミステリ文庫から、ハードカバーから、とにかく何かしらの形でほぼ年に一回のペースで訳されています。初邦訳の『興奮』は1967年10月31日発行で、『大穴』は同年の11月15日発行というデータを見るにつけ、「おいおい、一体どんなペースだよ」と驚かされます(訳者の菊池光は、同じ年にギャビン・ライアル2冊とジョン・ボール1冊を訳しているので、このペースも驚き)。
     この「一年一冊」という事実には、もう一つ感じたことがあるのですが……それは本筋ではないので、本稿の末尾で触れることにしましょう。
     さて、今回、私がオススメ作品を選んだポイントは以下のとおり。

    ① 「謎」の魅力
     後続の立場から追いかける身として、やはりストーリー上の大きな魅力である「謎」自体の魅力は重視しました。ここでいう「謎」とは、密室とかアリバイとかそういう話ではなく、「自分の周囲で、悪意が蠢き、自分の思惑を超えた何かとんでもない事態が進行している」というゾクゾクとした恐怖のことを意味する。こうした意味での「謎」作りが、ディック・フランシスは病的に巧みなのです。具体的に、どういう謎があるのか。それはこの後、各作品の紹介にて触れていきます。

    ② その「謎」を起点にした中盤の展開
     なんだか江戸川乱歩の「中段のサスペンス」みたいな話になってきましたが、要するに、そういうことです。「謎」の転がし方が巧かどうか、サスペンスに満ちているか、を重視してみました。

    ③ 登場人物の魅力
     これは正直、あえて論じるまでもなく、実はフランシスは毎回満点級です。ただ、作品によっては少し違った陰影の視点人物を入れることで雰囲気を変えていることもあるので、そこにも注目していきたい。

     こんなポイントを参照しながら、以下、各作品の紹介をします。

    〇各論

    ①『出走』(1989年、短編集)
    “話を聞かせてくれ、それも力強く、速く。
     面白い寝物語を聞かせてくれ。血まみれの死体がなく、ぞっとするような出来事がなく、絞首刑後、はらわたを抜かれ、体を四つに裂かれた主人公のいない話を。” (同書、p.5)

     どうだ、この冒頭は。最高の短編集の序文でしょう。なんともゾクゾクするではないか。
     今これからフランシスを追いかけるなら、この短編集を外すことは出来ないのではないか? そう思わせるほど、粒よりの短編集です。小説家としてデビューして(自伝を入れず)36年目にして、初の、そして唯一の短編集。長いキャリアの中で一つずつ書かれた作品集は、まさしくフランシスの魅力のショーケースのように思えます。
     フランシスの作品は全て一人称小説で、そのどれもが作者自身を投影したものになっているのですが、『出走』では三人称記述や、悪党をメインに据えた作品があるのも印象的。長いキャリアの中で一編ずつ仕込んだという経緯からして、各編がフランシスの実験にもなっているのです。いつもヒーローを書いていたフランシスが、「正しくあろうとしても、そうできない人」を書いたことが、また一段フランシスの深化につながったとも取れます。
     さて、全13編、どれもユーモアとツイストに満ちた好短編ばかりで、中でも、人生の皮肉を悲喜こもごもに写し取っていく傑作「敗者ばかりの日」、フィニッシング・ストロークが見事な「悪夢」などが出色の出来。ぜひとも、おすすめの一作です。

    ②『利腕』(1979年、第18作、元騎手、現在調査員)
    (以下、☆印は各項目5個が満点)
    謎 ☆☆☆☆☆
    中盤☆☆☆☆☆
    人物☆☆☆☆☆

     これはもう、冒頭2ページ、「プロロゥグ」をまず読んでみてほしい。私は『利腕』を大学生で読んで以来、未だに、思い出したようにこの冒頭を読み返しに行って、密かに涙ぐんでしまうのです。それは騎手の夢、喪ってしまった男の夢、『利腕』が奪回すべきものを示した、美しい2ページです。
     これこそ、ディック・フランシスのマスターピース。確かに大ベタですが、大学生の私が読んで、「いつかフランシスをちゃんと読まなくては」と密かに思うきっかけになった本です。そして、今回二十作品読んだ中でも、やはり評価は揺るぎませんでした。
     次々とレース生命を絶たれていく本命馬たち、一体、何が起こっているのか? この謎自体が、フランシスが一番ベタに取り上げる謎であるのは事実ですが、これを隻腕の元騎手、シッド・ハレーが捜査することにより、無類の冒険小説の味を放っています。それはハレーのハンディキャップゆえに出てくる緊迫感でもあるでしょう。
     トラウマからの克服、というサブテーマも加え、これこそ隙のないエンターテイメント。北上次郎が『ディック・フランシス読本』で書いた「ディック・フランシスの30年」によれば、やはり『利腕』が出世作であり、長いスランプから抜け出した作品でもあるようですが、これで終わらなかったのが凄いことです。

    ③『証拠』(1984年、第23作、非騎手=ワイン商)
    謎 ☆☆☆☆
    中盤☆☆☆☆
    人物☆☆☆☆☆

     これも『出走』と同じく、魅力的な冒頭を引用してみましょう。

    “社会生活では苦しみを表に出す事は許されない。人は涙を見せない事になっている。特に一応人並みの容姿を具えた三十二歳の男は泣いてはならない。妻が亡くなって半年たち、周りの者すべての哀悼の念が消えて久しい場合はなおさらである。”(同書、p.7)
     ワイン商を主人公にした作品ですが、これも無類の面白さ。ワインのラベルを張り替えて、同じワインを違うワインとして売り出しているバー。これだけなら偽酒売りの話に過ぎないが、主人公にこのバーのうわさを持ち出した人物が馬車に轢かれ(そうやって馬が出てくんのかよ!)、事態は風雲急を告げる。
     ワインの世界に分け入っていく面白さだけでも十分に読ませるし、中盤にも事件が続発し飽きさせない。騎手が主人公だったり、競馬ががっつり絡んでくる話に抵抗感があるなら、こうした、非騎手が主人公の作品から入るのアリでしょう。何せ、『証拠』は、トラウマからの回復、という要素を取り出せば、『利腕』で確立したパターンの再生産でもあります。そういう意味でも完成されており、入りやすい。
     ところで、冒頭に掲げた一文は、実はフランシスが書く小説の主人公が共通して持つ信念の核なのではないでしょうか。男は、恐怖を感じていても、その恐怖を表に出す事は許されない。それを克服し、立ち向かい、危機に打ち勝っていく。そこがかっこいいし、何より共感を呼ぶのではないか。
     私が中学生の時『興奮』を読んで、面白さが分からなかったのは、この「社会生活では苦しみを表に出す事は許されない。人は涙を見せない事になっている」という感覚を、まだ肌で理解しきっていなかったからかもしれません。

    ④『度胸』(1964年、第2作、騎手)
    謎 ☆☆☆☆☆
    中盤☆☆☆☆
    人物☆☆☆☆

     新人気鋭の騎手が、28回連続最下位を取る。すげえ謎だ! この謎を読んだ時、正直、ぶっ飛んだ。あまりにも凄い悪意ではないか。どんなことをすればそんな事態が生み出せるのか、その見当すらつかないのだ。
    レースに出なければ食い扶持を稼げない、イギリスの競馬界のシビアな側面も描かれて、なんとも堂々とした充実ぶりを見せた二作目です。なんと冒頭に掲げた謎も、見事に解決する。あったのだ、トリックが。28回連続最下位を取らせるトリックが。しかもそれを仕掛けた犯人もちゃんといるのだ。その動機も常軌を逸している。フランシス作品の犯人は、金を動機とした人間は別として、結構常軌を逸している、というのが私の持論なのですが、『度胸』の犯人はその中でも頭一つ抜けているでしょう。

    ⑤『血統』(1967年、第6作、非騎手=諜報員)
    謎 ☆☆☆
    中盤☆☆☆☆
    人物☆☆☆☆☆

     スパイスリラー編です。これが結構面白い。輸送中の名馬が突然消える、という謎と、主人公たちがいきなり命を狙われるつかみで十分だが、他の「ゾクゾクする謎」に比べるとやや力不足の感は否めないか。今回特筆すべきは、手数の多さというか、中盤の「名馬奪還劇」の面白さでしょう。
     やや陰鬱なスパイを主人公に据えたことによって、ややグルーミーな読み味となっていることで、個人的には読みやすく感じた。とはいえ、たとえばネオ・ハードボイルドという感じではなく、上司の娘をあしらう描写などには、やっぱりマッチョなハードボイルド観が見え隠れします。全体としてはグルーミーですが。
     スパイ小説ならでは、組織と個人の相克の苦みも最後には立ち上ってきて、非常に楽しめる作品です。

    ⑥『名門』(1982年、第21作、非騎手=銀行員)
    謎 ☆☆☆☆☆
    中盤☆☆
    人物☆☆☆☆☆

     異色作にして問題作。ロンドンの名門銀行のバンカーを主人公にし、インテリをメインに据えていること自体が異色だし、銀行の投資信託を描くために、三年という長い時間軸の話が設定されているのも異色です。
     しかし、本書の凄みはそこではない。名馬の種付け事業に投資信託を行う、という筋なのだが、この種付けをした馬が一年後……奇形ばかりを生んだ、という謎なのです。
     この謎が立ち現れた瞬間、私はとにかくゾッとした。凄まじい悪意、あまりにも底知れない悪意である。しかもこれが見事に解けて、犯人までちゃんといるのだから恐れ入るではないか。
     銀行家の周辺を描くモジュラー式の書き方も、最後にはきちんと繋がり、ある意味では本格ミステリのベタな構図さえ立ち上がる。謎解き小説としては無類だし、恋愛小説としてもかなりナイーヴかつ甘く仕上がった快作です。ただ、謎の性質も特殊だし、異色作、取扱注意のもと読んでほしい。
     ちなみに、本書巻末の池上冬樹の解説では、『連闘』までの各作品の採点表までついていて、後続の立場からかなり参考になったことを付言しておきます。

    ⑦『横断』(1988年、第27作、非騎手=保安員)
    謎 ☆☆☆
    中盤☆☆☆☆
    人物☆☆☆

     やっぱり、フランシスが一年に一冊書いていたというのは、大きいのだと実感した作品。ミステリートレイン、カナダ横断鉄道。しかも馬主を満載して、カナダの競馬場を巡るという趣向なのです。その車に乗ったある男の悪巧みを暴くため、英国ジョッキイ・クラブ保安部員の主人公は列車に乗り込む。つまり、列車、競馬、スパイスリラー、ミステリ劇の四本立てです。豪華ではないですか。これが原書刊行年だと、後述する『黄金』という、古風ゆかしい犯人捜しものの翌年に出るのだから、そりゃあ、バリエーションの付け方に楽しくなってしまうでしょう。おまけに『横断』の翌年は、宝石業界を描いた『直線』という、またガラッと変わった題材なのです。
     列車に乗り込むまで100ページ近くかかるのが難点だが、終盤に、列車、馬主たちの人生、ミステリ劇の三本の筋がきっちりと重なり、意外な真相と結末がきちんと立ち上がるのは見事です。題材の圧倒的な楽しさも加味して、この位置につけたい。

    ⑧『本命』(1962年、第1作、騎手)
    謎 ☆☆☆☆
    中盤☆☆☆
    人物☆☆☆

    “熱した馬体のにおいと河からたちのぼる冷たい霧が入り混じって私の鼻をついた。聞こえるのは疾走する馬の足がシュッシュッと空を切り蹄が地面を蹴る音、それに時折蹄鉄がぶつかりあう鋭い音だけである。”(同書、p.5)

     これがフランシスのデビュー作の冒頭です。どうでしょう。馬上の騎手の息遣いまで聞こえ、臭いまで臭い立ってくるような描写ではないですか。それ以降の冒頭のユーモアセンスに比べると、まだまだ生硬な味わいがありますが、掴みはバッチリというものです。
     障害競馬の最中、騎手が死んだ。これは事故なのか? それとも……。これこそ、騎手にとって、騎手である過去を持つフランシスにとって、最も生々しく、しかも迫力ある謎というわけです。
     ということで、これはむしろ、王道のフーダニットと言える作品なのです。この面白さで300ページ台というのも本当に驚かされます。アラン・ヨーク自身の魅力は、それ以降の主人公たちに比べるとやや見劣りはするかもしれません。

    ⑨『大穴』(1965年、第4作、元騎手)
    謎 ☆☆☆
    中盤☆☆☆
    人物☆☆

    “射たれる日まではあまり気にいった仕事ではなかった。その仕事も自分の一命とともに危うく失うところであった。”(同書、p.5)

     フランシスの冒頭の掴みのうまさは、ぜひとも学ぶべきところでしょう。どれもこれも、グッと心を鷲掴みにされ、思わず続きを読みたくなる冒頭です。疑うのなら、古本屋でフランシスが並んだ棚の前に立ち、片っ端から冒頭だけを読んでみてください。
     ここに引用しなかった各作品の冒頭も、一行目から人が死んだり、掴みは見事です。
     さて、『大穴』は、『利腕』で名演を果たすシッド・ハレーの初登場作です。ハレーを狙撃したのは誰か、という謎で、ベタだがゾクゾクする謎である。ただ、シッド・ハレーというキャラについては、やはり『利腕』で再登場させるつもりが当初はなかったからか、ここではまだちょっと魅力が薄いようには思えます。
     ちなみに、シッド・ハレーはこの後『敵手』『再起』で登場し、それらもやはり面白いが、『再起』はややオマケ的な感じがします。

    ⑩『黄金』(1987年、第26作、騎手)
    謎 ☆☆☆☆
    中盤☆☆
    人物☆☆☆

    “私は父の五番目の妻を心底から嫌っていたが、殺すことを考えるほどではなかった。”(同書、p.7)

     フランシスのトリッキーな冒頭も、ここまでくると笑うしかない。ということで、本作は五回再婚した父を巡るサスペンスで、拡大家族の中の誰が殺人者なのか? という、いわゆる「クリスティー流のフーダニット」に仕上がっています。
     正直、中盤のサスペンスの部分でかなり見劣りするのだが、後半200ページ、今までろくに向き合ってこなかった家族一人一人を調べ、その人生を理解していく過程には面白さがある。意外な真相もなかなか。
     フランシスの作品の特徴の一つに「親子関係」があるが、明確に現れた作品でもあります。

    別格『女王陛下の騎手』(1957年、自伝)

     ディック・フランシスの騎手時代を綴った自伝。これまでにも触れた通り、フランシスの作品は全てフランシス自身を投影した一人称小説なので、実は、「フランシスその人を好きになること」がフランシスを読む最大のコツなのです。
     ということで、『女王陛下の騎手』を読み、その人生そのものに興味を持ってしまうというウルトラCもオススメです。

    〇蛇足

     ということで、ディック・フランシス、面白かった! ここまでに紹介したのは、後続の立場で、二十代の私が読んでも面白かった、というものなので、当時追いかけていた皆様とはずいぶん感じ方が違うかもしれません。とはいえ、誰かしらの参考になれば幸いです。

     で、ここまで考えてみて気が付いたのです。
     ディック・フランシスは、今の私でいう、ジェフリー・ディーヴァーや、「劇場版名探偵コナン」のような楽しみ方をされていたのではないか?
     ちょっとたとえが分かりにくいかもしれません。私は毎年、ディーヴァーの新作と「劇場版名探偵コナン」の新作は、発売日・公開日に鑑賞する、それが難しければ翌日には鑑賞することにしています。分かっています。ディーヴァーなら『コフィン・ダンサー』『ウォッチメイカー』やコナンなら『瞳の中の暗殺者』『天空の難破船』レベルの傑作がそうそう味わえるわけではないだろう、とは。見果てぬ夢を追いながら、それでも毎年、出たら読む/観るのです。「今年は面白いらしいから読もう」「今年は評判が悪いから金曜ロードショーでいいか」ではないのです。出たら、読む/観る。これは確定事項です。なぜならそれが習慣だからです。一年間に一度、ディーヴァーの新作を読み、劇場版コナンの新作を見ることは、なにものにも代えがたい楽しみだからです。
     それに、この「楽しみ」は、毎年恒例の幸せな時間をも約束してくれます。気の合った仲間たちと、ああでもない、こうでもないと、感想を言い合う時間です。「今年の『〇〇』はどうだった?」「いまいちだったね、去年の方が良かったよ」とか、よし、じゃあ一作目から順に評価を確認しようとか、毎年似たような話を、喫茶店にでも入ってだらだらするわけです。そうしているうちに、今年の作品と前の作品が思わぬ形で繋がって面白い考察が出来たり、むしろ前の作品の評価が下がってしまったり、そういう時間を過ごすのが何より楽しいのです。
     そりゃ、楽しいでしょう。こんなにユーモアとサスペンスにあふれた作品が毎年のように出て、「今年の『横断』はミステリートレインだったね」「珍しい題材だけど、やっぱり列車がピンチに陥る終盤のところはいいね」なんて、あーでもないこーでもないと話していたら、そりゃあ面白かろうと――
     まあ、そんなこんなでイマジナリーミス研での会話を妄想したのですが、「それでも、後の時代から振り返った時、ミステリマニアが後追いできる足掛かりは必要だろう」と思うのです。私も多分後二十年、三十年すると、「ディーヴァーは何を読めばいいって? ボーン、コフィン、ウォッチの三作で十分かな」などと言いだし、『石の猿』『クリスマス・プレゼント』『ブラック・スクリーム』『煽動者』『オクトーバー・リスト』を挙げることを忘れるようになるかもしれませんが、それだけに、どんなものでも蹄跡を残しておく必要があるのではないか、と。『オクトーバー・リスト』(文春文庫)に寄せた私の解説には、そんな思いも乗せていました。
     と、いうことで、現在進行形でディック・フランシスを追いかけていた人たちの熱量には多分もう追いつけないことを自覚しつつ、「今読んでも面白いフランシス」を指針として残しておこう、というのがこの文章の狙いでした。
     残り半分の作品については、いつか読んで、この記事の「不完全攻略」から「不」が取れる日が来ると良いのですが。
     いやそれにしても、「一年に一冊必ず新作が出る」とは、やはりエンターテイメントにおいて一番大事なことじゃないでしょうか? フランシスもディーヴァーも「劇場版名探偵コナン」もそこが偉い……ちょっと待て、こう締めくくると、自分の首を絞めることにならないか?

    (2021年5月)

第13回2021.04.23
心を見つめる警察小説

  • ヨルン・リーエル・ホルスト、書影

    ヨルン・リーエル・ホルスト
    『警部ヴィスティング 鍵穴』
    (小学館文庫)

  •  私の好きな刑事といったら、なんといっても大沢在昌の新宿鮫、誉田哲也の姫川玲子、ヒラリー・ウォーの諸作、マイ・シューヴァル、ペール・ヴァールーらのマルティン・ベック、そして今現在進行形で月に一冊ずつ読んでいるヘニング・マンケルのクルト・ヴァランター、ユーモアも入れればフロスト警部とドーヴァー警部、路線は本格寄りですが、P・D・ジェイムズのアダム・ダルグリッシュやアン・クリーヴスのジミー・ペレスも……。

     と、キリがないのですが、最近このリストに加わった大好きな警察小説シリーズがあります。この読書日記でも取り上げた、ジョゼフ・ノックスのエイダン・ウェイツ・シリーズ(第1回)、エイドリアン・マッキンティのショーン・ダフィ・シリーズ(第3回)、そして、ヨルン・リーエル・ホルストが描く警部ヴィスティング・シリーズです。

     そこで、今月の2冊目は、ホルストの新刊『警部ヴィスティング 鍵穴』(小学館文庫)を取り上げましょう。なんとも不思議な魅力をたたえたシリーズなのです。

     ヴィスティングの印象というのは、上に列挙した刑事たちの中では、ダルグリッシュやペレスの印象に近いでしょう。事件を静かに眼差しながら、その本質を捉えようとする。その静かさが、このシリーズの捜査の魅力を形作っています。

     ホルストがノルウェーの作家であることを考えると、北欧の作家という点ではむしろマルティン・ベックやクルト・ヴァランターに近いのかと思えば、そうではない。それは恐らく、警部ヴィスティング・シリーズに、どこか時代から遊離したような感覚があるからではないでしょうか。ベックとヴァランターは、現在進行形の事件、しかも人身売買や大量殺人、年金暮らしの孤独な生活者など、現代の社会問題が絡んだ事件にがっぷり四つで取り組んでいく。その中で刑事自身も傷つきながら、捜査というドラマを見せてくれる。

     一方で、これまでに邦訳されたホルストの小説は、いずれも話のベクトルが過去に向いています。『猟犬』(早川書房)は、ヴィスティングが解決した17年前の誘拐殺人事件で採用された証拠が捏造されたものだったのではないか、という疑惑を巡る物語ですし、『警部ヴィスティング カタリーナ・コード』(小学館文庫)は24年前の失踪事件を静かに解き明かしていく作品です。時間は世界にも人々にも堆積しており、ヴィスティングはその中に静かに分け入って、真実を見つけ出そうとする。マルティン・ベックやヴァランターが抉る社会問題は時代を経てもなお鮮烈ですが、ヴィスティングはまた別の意味で、違う時代にも読まれ続けていくような気がするのです。何か普遍的なもの――「人の心のありよう」を見つめようとする、その眼差しに惹かれるからでしょうか。

     警部ヴィスティングには捜査チームの他に、娘のリーネという頼れる相棒がいます。彼女はタブロイド紙の記者で、『猟犬』『カタリーナ・コード』では、警部と記者、父と娘のそれぞれの立場から情報を集め、必要な時に情報の交換を行う姿勢が描かれていました。いわば警部が「静」なら、リーネのパートは「動」を担当していたわけです。『カタリーナ・コード』などは、失踪した女性の夫であるマッティンとヴィスティングとが友人になっていて、ヴィスティングは彼との対話から何かを見いだそうとし続けますし、後半150ページは、犯人と目される人物と延々と会話をし続ける(!)のです。リーネのパートがあるから動きはありますが、そうでなければ恐ろしいほど動きのない小説です。京極夏彦の京極堂シリーズで、京極堂の店で京極堂の話を聞いている時くらい動きがない。だけどそれがいいのです。

     たとえて言うなら、夜にストーブをつけ、ホットコーヒーを飲みながら、穏やかな心でページを開くと、ミステリを読むということの幸福を静かに味わえるような本なのです。

     と、こんな具合にシリーズを概観したところで、『鍵穴』の話を。今までの邦訳二作品の主役がヴィスティングだとするなら、今回はリーネにスポットが当たった話だと言っても過言ではないでしょう。つまり、本作は「動」の印象が強いのです。

     今回の事件は、大物政治家が遺した大金の謎を追うことから始まります。不正献金か、裏金か。ヴィスティングは秘密裏の捜査を開始しますが、大金を政治家の倉庫から移した直後、その倉庫が放火される。ここで事件は一気にきな臭くなり、政治家の周辺で起きていた未解決の失踪事案を巻き込んで更なる展開を見せていく……。

     次から次へと事件が掘り出され、繋がりが明らかになり、加速度的に事件が広がっていく捜査小説の面白さ。謎の侵入者など、リーネの身に迫る危険まで描きつつサスペンスを高める手法。これまでの『猟犬』『カタリーナ・コード』と比べると、文体や静かさの魅力は共通しながらも、よりエンタメ寄りのプレゼンになっていると言えるでしょう。作中何度も「鍵穴」「ジグソーパズル」の比喩が登場しますが、まさにジグソーパズルの印象に近い一作です。パーツが増えていき、それを合わせていきながら、ぴたりとはまる最後の「鍵」を探す物語なのです。

     しかし、作中で実にさらりと描かれた、「政治家が大金を手にした理由」がまた良い。時の中に埋もれた思いに手を伸ばした感覚がたまりません。

     ということで『鍵穴』も実に楽しく読みました。もしこのシリーズを初めて読まれるなら、いぶし銀の魅力がストレートに現れた『カタリーナ・コード』をオススメしておきますが、前作のネタバレなどはないので、『鍵穴』から読んでも問題なしです。

     小学館文庫では、『カタリーナ・コード』『鍵穴』に続いてあと二作を「未解決事件四部作(コールドケース・カルテット)」として引き続き刊行予定とのこと。くうう、たまりません。めちゃくちゃ待っています。

    (2021年4月)

第12回2021.04.09
「不安」を描く作家、恩田陸 ~人生を賭した「謎解き」~

  • 恩田 陸、書影

    恩田 陸
    『灰の劇場』
    (河出書房新社)

  •  作家特集のムック本というのは、やはり良いものです。インタビューやエッセイに触れるうち、その人の作品がますます読みたくなり、いつしか再読の海の中で溺れている。そう思わされたのは、『文藝別冊 恩田陸 白の劇場』(KAWADEムック)と、『夜想#山尾悠子』(ステュディオ・パラボリカ)の二冊を手に取ったゆえです。充実した本で、どちらも作者のファンは絶対に買い逃してはならないというレベル。

     ということで今月の1冊目は、恩田陸の『灰の劇場』(河出書房新社)です。先月の読書日記でも、二月刊行の作品としてさらっと名前を挙げたのですが、やはりどうしてもそれでは済まない気持ちになったので取り上げます。

     先述した、この本と同時発売のムック『白の劇場』を読んで、大森望と全作を概観したり、桐野夏生や小川洋子と対談しているのを読んだり、各評者のエッセイや評論を読んで触発され、中学・高校の頃にまとめ読みした恩田陸作品を、この二月・三月にひたすらに再読していたのです。まさしく三月の国。ともかく幸せな時間でした。もちろん青春小説やホラーも好きですが、特に好きなのは『ユージニア』(角川文庫)、『Q&A』(幻冬舎文庫)の二冊。この二冊だけは今回の機会がなくとも何度も読み返していて、あの世界に浸るのが好きなのです。

     それはなぜかといったら、あの二冊が「不安」を描いた作品だからだと思うのです。『Q&A』はショッピングセンターでの大量死事件を巡り、インタビュアーの質問とそれへの回答だけで構成された小説で、そこに描かれるのは、あの日、あの場所にいた人たちを襲った正体のない「不安」の姿です。これがもう、中学生の私には、どんなホラーよりも怖かった。とにかく心がざわついた。しばらくショッピングセンターには近寄れなかったほどです。

     そして『ユージニア』は名家の大量毒殺事件を巡り、14の章でかわるがわる関係者が登場し、それぞれの「真実」を語るという長編なのですが、事件のイメージや各登場人物の語りがもたらす「不安」はもちろんのこと、単行本版では本文がちょっと斜めに印刷してあって、それがとにかく「不安」を誘いました。見た目には普通に見えるのに、どこか感覚が揺らいでいく……。親が買っていた単行本版を読んだので、世代的には全く被らないのに、中学の時にそんな経験をし、未だに『ユージニア』のとりこなのです。『ユージニア』のオマージュ元であるヒラリー・ウォーの『この町の誰かが』(創元推理文庫)も、同じくオマージュを捧げたという宮部みゆきの『理由』(新潮文庫)も、擦り切れるほど読んでいます。

     それで、今回の新刊『灰の劇場』では、「事実に基づく物語」として、恩田陸が1994年に目にした三面記事を巡る物語が描かれます。45歳と44歳の女性が橋から飛び降りて死亡。二人は私立大学時代の同級生だったという。

     恩田陸自身がモデルと思われる語り手が、この三面記事を見た記憶をたどっていく「0」の章、彼女が「飛び降りた二人の女性」の視点を描く小説部分の「1」の章、その小説を舞台で上演する過程が描かれる「(1)」の章と三層構造の物語となっています。三層構造といえば、『中庭の出来事』(新潮文庫)も「三層」で構成され尽くした物語でした。何が現実だったのか宙づりにしてしまう『中庭の出来事』が、多視点の語りによって読者の拠って立つ足場をぐらつかせる『Q&A』『ユージニア』の先にある物語だったとするなら、『灰の劇場』はさらに一歩も二歩も上を行くものだと言えるのではないでしょうか。

     海外ノンフィクション風の読み味があるのも魅力の一つです。「0」の章においてミネット・ウォルターズの『養鶏場の殺人/火口ほくち箱』(創元推理文庫)を引き合いに出していますし、ローラン・ビネの『HHhH プラハ、1942』(東京創元社)について『白の劇場』での桐野夏生との対談で「やられた!」と思ったと口にしていますが、特に、『HHhH』と『灰の劇場』との類似には驚きます。 『HHhH』というのは、ビネ自身が『HHhH』というノンフィクションを書くまでを描く記述と、ナチスドイツを巡るノンフィクション的記述の部分が交互に登場し、やがてもつれあってしまう作品です。『灰の劇場』でも、作者自身を描く「0」と事件を描く「1」の交錯があり、「やられた!」と思うのも頷けるところです。

     ですが、結果としては全く違う傑作に仕上がっている、と言えると思います。大きな違いの一つが、「(1)」の章の重みです。作者自身の声である「0」だけでなく、その作者が一人の観客として「演じられた物語」に相対しなければならない「(1)」があることで、作者自身がこの「三面記事」の事件に相対する感覚が深まっていると思うのです。事件に向き合い、何かを見いだそうとするその姿勢に、私は深く感じ入ったのでした。

     そしてこの物語、特に「事実に基づく物語」である小説部分の「1」は、どうあっても自殺の瞬間に辿り着くという、そんな途方もない「不安」を描いた小説でもあります。作中の語り手が、亡くなった二人に、作者が自分たちの死を小説に仕立てることを「望んでません」と言葉をぶつけられるシーンもあります。書くことそのものが葛藤であり、不安である。そうして、この先には二人を死に追いやったある種の「絶望」がある。その感覚が私の心を飲み込み、『灰の劇場』という小説体験に、恩田陸自信をモデルにした語り手の声を聴くことに、二人の女性の人生を「生きる」ことに、どうしようもなく夢中になったのです。

     この「不安」は、現代に生きる人すべての「不安」をも包摂しているのでしょう。「事実に基づく物語」やそうした映画がもてはやされる風潮について述べた、印象的な一節があります。

     “彼らは、それほどまでに、本や映画に向かう理由を欲しているのだ。本や映画に一定の時間を割くのは、それだけ孤独を強いられるということでもある。それは、常に「リアル」な繋がりを感じていられる、SNS等の世間からいったん離脱しなければならないことを意味する。そこから離脱するだけの動機を保証してほしい。「リアル」な繋がりから、ほんの数時間だけでも離れたことを後悔するような失敗だけはしたくないのだ。”(『灰の劇場』、p.20-21)

     この言葉にどこか刺されるような感覚がありました。今の小説家が読まれるためには、ソーシャルゲームと戦わなければいけないなんて言葉を聞いたことがありますが、本当はその背後にある、もっと大きな何かと戦っているのかもしれない。そんなことを思いながら、また「不安」の中に叩き落され、しかし、その形のない「不安」になにがしかの名前と言葉を与えてくれる恩田陸の作品が、私はやはり、どうしようもなく愛おしいのです。

     ……さて、以下は蛇足ですが、実はこの三面記事、私もなぜか見たことがあるような記憶がありました。作中で何度も「棘」の比喩を使って、この飛び降り事件が心に刺さった棘だったと語り手は何度も述べますが、私にもなぜかこの棘が刺さっている。

     でも、そんなことはあり得ないのです。記事は1994年の9月25日に掲載。私はまだ生まれて3日しか経っていない時です。三面記事なので、どこかで見たり聞いたりした、ということも考えられません。なのになぜ、私にはこの記事の記憶があるのか……。

     実はこれも、『灰の劇場』を読んで囚われた不安の一つでした。その不安の影につきまとわれながら、恩田作品の再読を繰り返していると、答えがありました。『puzzle』(祥伝社文庫)の中の一節です。長いですが引用してみましょう。

     “「そういえば一つ思い出したよ。親父がミステリ・ファンだったから、新聞の隅っこに載ってる小さな記事から事件の真相を組み立てるゲームを家族でよくやったんだ。刷り込まれたせいか、今でも結構習慣になってる。で、いつ読んだ記事かは忘れたけど、とても印象に残ってる事件がある」
    「へえ、どんな?」
     志土は興味を覗かせた。
    「女の人二人が橋の上から身を投げて死んだという事件なんだけどね。自殺らしいんだけれど、なかなか身元が分からなかったんだそうだ。でも、暫く経ってから、近所のアパートに住んでいた女性二人だと分かった。二人は大学時代の同級生で、血の繋がりはなかったんだけれど、ずっと一緒に暮らしていたらしいんだな。二人は五十歳くらいだったと思う。遺書もなかった」“
    (『puzzle』、p.93)

     二人はこの後、「いろいろなストーリーが思い浮かぶ」と言って、望んで一緒に住んだのか、やむを得ずか、心中だったのか、過去の犯罪も絡んでいるのかなど取り留めもなく話した後、本筋である事件の検討に戻っていきます。『puzzle』の刊行は2000年ですから、この頃から、本当に恩田陸の中の「棘」になっていた事件だったのだと思い知らされました。1994年から、『灰の劇場』の連載を終了するまでの2020年、その26年間、恩田陸はこの謎を心のどこかに抱え続けてきたのです。

     これだけさりげなく出ていたのですから、実は私が知らなかっただけで、他の作品にも出ていたのかもしれませんし、恩田ファンの間では有名な話だったりするのでしょうか……?

     立て続けに再読した中でこのエピソードがふっと現れた時の感覚は、もう、衝撃というか、戦慄としか言いようがありませんでした。しかも、「(1)」の章の技巧というのは、『中庭の出来事』や、あるいは『猫と針』(新潮文庫)といった戯曲の作品を通ってきた恩田陸だからこそ書けた、と言うことも出来るかもしれません。だとすれば、恩田陸はこれまでの人生、そのすべてをもって、1994年9月25日のあの事件を解き明かしたとも言えるのではないか、と。

     私は『puzzle』を手にしたまま、暫く呆然としていました。小説を書くというのは、書き続けるというのは、これほど凄まじいことなのかと、恩田作品の前で立ち尽くしてしまったのでした。

    (2021年4月)

第11回2021.03.26
足元で口を開く暗黒の淵 ~分厚く、切れないエンターテイメント~

  • 佐藤究、書影

    佐藤究
    『テスカトリポカ』
    (角川書店)

  •  これが載るころには先月の話になっているのですが、2月の国内新刊の量がちょっとおかしかった(褒め言葉)。著作刊行70冊の節目にふさわしい傑作である恩田陸の『灰の劇場』と、それと連動した豪華なムック本『白の劇場』、柄刀一版〈国名シリーズ〉の長編にして論理の牙城を築いた『或るギリシア棺の謎』、待望の新作にして幕末に不可能犯罪の華を咲かせた雄編である伊吹亜門『雨と短銃』、充実の犯人当てアンソロジーである『あなたも名探偵』、デビュー作で類まれなミステリセンスを見せた著者がガチガチのロジックミステリを刊行した紙城境介『僕が答える君の謎解き』、ますます充実ぶりを発揮する人気シリーズ短編集である誉田哲也『オムニバス』、更には、私もコメントを寄せた呉勝浩『おれたちの歌をうたえ』は著者最高傑作とも言えるエンタテインメントで……多分、書き忘れているものもあるはずです。それくらい、冊数が多かった。幸福な時間でした。

     しかし、中でもぶっ飛んだ一作を紹介したいのです。佐藤究の『テスカトリポカ』(角川書店)がそれ。こいつはもう、ぶっ飛んだ(二回目)。年に何回か、角川書店から出る極厚の小説のあまりの面白さにタコ殴りにされてしまい、寝食も忘れて一気読みをしてしまうことがあるのですが、これはまさしくそんな本でした。

     耳慣れないタイトルですが、これはアステカ神話の神の名前です。ストーリーもメキシコに住む十七歳の少女・ルシアから始まりますが、なんと舞台は早々に日本の川崎に。時は経ち、彼女の息子であるコシモが生まれてから、物語は本格的に動き出します。

     川崎に住むコシモ少年に、一体どのようにアステカ神話の神が絡んでくるのか。読者の心配をよそに、佐藤究は自在に視点を飛ばし、メキシコの麻薬密売人とジャカルタの臓器ブローカーが手を組んだ「新たなビジネス」の話や、日本の保育園に勤める女性など、「事件」の渦中に飛び込んでいく人々を、ゆっくりと、焦らず、どこか突き放したような文体で精緻に描いていきます。さながら大木のような小説です。作者は一つ一つの枝葉をゆっくりと描き、また別の地点から枝葉を描き、最後にはどっしりとした幹が中心に現れている。その中心というのが本作では、アステカ神話の神と現代との「重ね合わせ」なのです。

     メキシコの麻薬カルテルということで、まず連想したのがドン・ウィンズロウの「犬の力シリーズ」。『犬の力』『ザ・カルテル』『ザ・ボーダー』では、大部の小説の中で、麻薬戦争に翻弄される人々や捜査官アート・ケラーと、麻薬カルテルとの戦いが描かれますが、何より胸に迫るのは、麻薬というものを前に、紙屑のように人間が消えていく、その怖さです。特に凄いのが『ザ・カルテル』で、好きになったキャラが次のページではあっさり殺されているなんてザラで、麻薬戦争を前にした人の命の軽さが残酷なまでに描かれます(だからこそ、そこからの解放と安らぎを描こうとする『ザ・ボーダー』の輝きも凄いのですが)。

     (前略)さまざまな形を取る資本主義の魔法陣のうちで、おそらくもっとも強力な魔法システムの図形である麻薬資本主義ドラッグ・キャピタリズム、(後略)(『テスカトリポカ』、p.152)

     人一人の命をあっさりと捧げてしまう現代の魔法と、古代の信仰の重ね合わせ。その取り合わせは意想外でありながら、同時にとても馴染んでいます。

     しかしこれは資本主義だけの物語では終わらない。これは同時に「信仰する者」の物語たり得ているのです。教義。太古の歴史。そして出し抜けに古代と現代の光景が重なってしまう時。そのイマジネーションの中で、現代の暴力が紡ぐ悪夢と、古代の神話が彩る祝祭が同時に立ち現れる。名シーンの数々が描かれる第Ⅳ章は圧巻の面白さでしょう。ミステリ的なネタバレでは一切ないことを前書きしたうえで書くと、私は第50節の会話の素晴らしさだけで、この本を生涯忘れないと思います。

     神話というと、なんだか難しそうと思われるかもしれませんが、必要な知識は全て作中で解説されていますし、一人の登場人物に感情移入して追いかけるだけでも、かなり充実した読書体験が約束される本です。クライム・ノベルとしても、幻想文学としても無類の本作。個人的には2021年ベストエンターテイメントに早くも推したい。

    (2021年3月)

第10回2021.03.12
海洋ミステリの見果てぬ夢 ~高橋泰邦が生み出した「名探偵」~

  • 高橋泰邦、書影

    高橋泰邦
    『偽りの晴れ間(上・下)』
    徳間文庫

  •  今月、文春文庫からジェフリー・ディーヴァーの新作『オクトーバー・リスト』が刊行され、私、阿津川辰海が「解説」を務めさせていただきました。ノンシリーズ長編、いきなり文庫での刊行になる本作の趣向は、「逆行する犯罪小説」というもの。第36章から2日間の出来事を遡っていき、最後、時系列ではいちばん最初にあたる「第1章」にかけて全てが解き明かされる凝った構成で、ディーヴァー作品で一、二を争う衝撃を味わうことが出来ます。本の構成要素もすべて逆順になっているので、本来なら「解説」になる私の文章も、「日本語版・序文」になっているという趣向。解説も知らず知らずのうちに気合が入り、「逆行する解説」をしたためてしまいました。ディーヴァーからしばらく離れていた方にも自信を持ってオススメできる逸品です。

     さて、今月の1冊目は高橋泰邦の『偽りの晴れ間』(講談社、文庫版は上下巻で徳間文庫にて刊行)をご紹介します。

     高橋泰邦といえば、今のミステリ読みからは翻訳家として名高い方でしょう。有名なのはアントニイ・バークリーの『毒入りチョコレート事件』(創元推理文庫)でしょうか。ハヤカワ文庫から刊行のホーンブロワー・シリーズや、アリステア・マクリーン『北極基地/潜航作戦』など、船舶が関わるミステリや海洋ミステリにも強かった人です。

     そんな高橋泰邦ですが、「翻訳家になりたくて小説を書き始めた」という異色の経歴の持ち主。しかし、余技と言い切るには惜しいほど、今読んでも面白い作品ばかりなのです。中でも、補佐人・大滝辰次郎という男を主人公にした一連の海洋ミステリ・シリーズは、海難審判を扱った法廷ものとしての魅力と、航海士たちの人間ドラマや海のサスペンスが調和した傑作揃い。補佐人というのは、海難審判の弁護士のことだと思ってもらうと良いです。

     大滝シリーズは全部で四作、うち三作は光文社文庫で刊行され、今でもKindleで購入できます。そこで、本稿の末尾で、その三作もあらすじや魅力を紹介させていただくとして、今はシリーズ第四作にあたる『偽りの晴れ間』の話をしましょう。

     1970年発表の本作は、1954年の実在の海難事故「洞爺丸事件」をテーマにした長編ミステリ。死者・行方不明者あわせて1155名にのぼる、この海難史上に残る事故に対し、船長たちの責を問う海難審判が始まる。とはいえ、船長は死亡しているため、矢面に立つのは二等航海士(セコンドフサー)だという一事をとっても、複雑な事件であるわけです。

     探偵役を務める大滝は、洞爺丸側の弁護士である「海事補佐人」としてこの事件に関わることになります。大滝はそれまでのシリーズ三作品では、もちろん架空の事件を解き明かしていたわけですが、本作は実在の事件に大滝を登場させていること自体が一つの驚きになっています。高橋泰邦は1962年にこれまた実在の事件である「南海丸沈没事件」を扱った『紀淡海峡の謎』というノンフィクション風の事件小説を出していますが、大滝は出ていません。ではなぜ、大滝は『偽りの晴れ間』に登場したのでしょうか。

     そこには、大滝がシリーズを通して言い続けてきた、ある信条が関連していると思います。彼は事あるごとに言います。「審判が海難の真因を究明することを目的とするとうたっているからには、“人間審判”でなければならぬ」「人間的な要素を無視して、何が真因か」(いずれも『偽りの晴れ間』講談社版、p.26)

     高橋泰邦の海洋ミステリは、全てのディティールを疎かにしません。船乗りが使う言葉一つとっても、船の部位の名前一つとっても、細心の注意を払って全てを余すところなく書きます。『黒潮の偽証』(光文社文庫)の解説にて、新保博久氏がこんなエピソードを紹介しています。かつて内藤陳氏が率いた日本冒険小説協会で、海洋部なるものを発足させたことがありました。その第二回会合のゲストに高橋泰邦氏が呼ばれたといいます。

     (……)一同酔余の果て、最近腹の立った本を一冊ずつ挙げる段になると、高橋氏は書名は伏せながら、ある海洋小説の翻訳が難しい個所をぜんぶ飛ばして訳しているのを非難した。「原文の難しいところほど、その小説のおいしい部分であるはずなんですよ」(『黒潮の偽証』解説より抜粋、p.280)

     まさに、この信念こそが、たった一つの言葉ですら疎かにしない高橋泰邦の迫力ある海洋ミステリを生み出した、と窺わせるエピソードである。そして、『偽りの晴れ間』では、対象が実在の事件であるがゆえに、高橋のこの信念は人間にまで及びます。洞爺丸の中から発見された死体の状況も、遺族が手をつけられないでいる遺体を、遺族と共に泣きながら湯かんしていた国鉄労組函館支部の婦人部長がいたことも、いきなり家族を奪われ、補償への道をただ一つのよすがに裁判を見守っていた遺族の姿も、彼は何一つ書き飛ばさず、誠実に、ただただ眼差していくのです。

     法廷ミステリ風に言えば、大滝を巡る状況はまさに四面楚歌です。全ての責任は、台風の大シケの中漕ぎだしていった、船長=国鉄側の重過失と考えられるのですから、そこを弁護する大滝は遺族から見ると「敵」です。大滝を睨みつける遺族の姿も、高橋泰邦はしっかりと細部まで描き切る。まさに「公正」な書きぶりです。世界に対して誠実で在るとは、なんと勇気のいることか。そのうえで大滝、いや高橋は、「洞爺丸事件」は人災だったのか、天災だったのか、という主題に立ち向かっていくのです。

     そこには幾つもの要因が絡んでいます。当時は船で経済が動いていたという事実も、一つの欠航から生まれる経済的損失の予測も、損失を恐れて会社側が出航させたのではという疑惑も、出航を決意させたと言われる「台風の目」の晴れ間の正体も、当時の気象予報技術も。複雑性の網の中で起きる事件を、公正に、ディティール豊かに書く。その一つ一つが、刊行から五十年以上経てもなお、圧倒的な熱として読者に伝わってきます。

     中でも、転覆の一つの要因とみられる地形の条件を確かめるべく、シケの海に乗り出していく大滝の姿を描いた中盤のシーンは、ミステリ的な一つの山場の意味でも、海洋冒険小説としての面白さという意味でも、屈指の名シーンでしょう。

    「それにしても、連絡船も出ないシケのなかへ、小船で出られますか?」
    「洞爺丸はもっとひどい海に出ていった」
    「だって、先生……、だから事故を……」
    「わたしはその洞爺丸の事故を調べとるんだ。机上の推論だけでは確信はもてない。確信のもてないことに説得力や訴求力はありえない!」
    (『偽りの晴れ間』講談社刊、p.127)

     大滝はこう喝破し、「悪魔の剣」と称する地形の特徴を論説しにかかる。そして助手にあたる鳥居という男を容赦なく引き回し、シケの海に小船で乗り出していくのである。まさに名探偵。それはすべて、船長に対するいわれなき𠮟責だけは退けたいという、彼の「人間審判」への情熱がなせるわざでしょう。

     もちろん、背景にあるのは実在の事件、実在の判決です。法廷論戦は丁丁発止で読ませますが、根本的にはアンチクライマックスな物語と言っていいでしょう。しかし、人災か天災かを巡る議論は、飛行機事故や製造物責任といったものに形を変えて、今なお何度も繰り返されているのではないでしょうか。だからこそ私も、生まれる前の事件の話で、馴染みのない海難審判の話であっても、これだけ読まされ、心を揺さぶられたのです。

     いや、実は『偽りの晴れ間』が大きく私の心を揺さぶった要因が、もう一つあります。それは中井英夫の『虚無への供物』です。『虚無への供物』では、連続殺人の中心となる「氷沼家」が洞爺丸の遺族として設定されており、それが重要な一要素になっています。私は結末部分で放たれるある言葉を、「洞爺丸事件」だけではなく、それ以後も繰り返されてきた多くの悲劇の名前に変えて受け止めていました。それだけに通時性のある言葉だと思っていたのですが、『偽りの晴れ間』を読んだことで、洞爺丸事件のことを知り、高橋泰邦が再現した出航前の「死闘四時間」を文字の力によって体験したことで、今ではより深く、あの言葉を理解できた気がします。今の私がそんなことを言ったところで、当時『虚無への供物』を読んだ読者に比べれば、程度の浅いものであることは、重々分かっています。それでも、氷沼蒼司の腕時計が、洞爺丸の沈んだ十時三十九分で止められているという、9章の描写の切なさは、『偽りの晴れ間』を読んだ後だとより一層感じることが出来ました。

     そんな個人的な体験も相まって、『偽りの晴れ間』は私の中で、大層大事な一冊になったのです。

     ……とはいえ、『偽りの晴れ間』は今となっては入手困難。そんなのおすすめされても読めないよ! と思われてしまうでしょう。だが、先ほども述べた通り、大滝シリーズの前三作は、電子書籍のKindleならすぐに読んでいただけます。しかも全部面白いのです。最後に、各作品の見どころを紹介させてください。

    〇『衝突針路』1961年、光文社文庫(Kindleあり)
     傑作。高橋の小説で何か一冊読むなら絶対にこれです。貨物船が衝突して事故を起こし、機関員は謎の死を遂げた。彼は殉死なのか、それとも他殺か? 事故の真相を巡る海難審判に、死の謎を絡めた無敵の法廷ミステリです。第一部で展開する、事故直前の船内の描写や、ボート漂流パートのサスペンスが既にたまらないですし、その中に巧妙に隠された伏線も見事。法廷論戦の楽しさも、本書が一番よく表れています。老獪な探偵役、ここにあり。

    〇『賭けられた船』1963年、光文社文庫(Kindleあり)
     サスペンスに注力した一作です。航海士の失踪と乗組員の謎の死。大滝の命を受けた一等航海士・紅林竜太は、単身船に乗り込み、そこで船を巡る悪意と対峙する。言ってみればスパイもの、潜入捜査の面白さもあって、船で事件に巻き込まれる紅林が、翻弄されながらも犯人を追い詰めるくだりが見事。ちなみに光文社文庫入りは一番これが早いのですが、やはり当時はサスペンス重視だったということでしょうか。

    〇『黒潮の偽証』1963年、光文社文庫(Kindleあり)
     東都ミステリーの一冊として刊行されたときには、最後の犯人の名前が伏せ字になっていたという「犯人当て」長編がこちら。謎の密航者、密室で殺害される一等航海士、そして犯人当て。わりとオーソドックスな本格の道具立てを備えた一作ですが、やはり中盤のサスペンスの迫力が無類なのです。「なぜ不可解な状況が生じたか」に着眼した論理展開は、今読んでも古びないパズラーの味です。

     シリーズを除くと、『大暗礁』(光風社、1961年、品切れのため入手困難)という短編集も素晴らしい。こちらは老船長・桑野を巡る短編集ですが、犯人当ての結構を備えた「マラッカ海峡」、船の上で犯罪(それも殺人とかではなく、より大きな犯罪)を企てる人間を倒叙風に描き、サスペンスとドラマを両立させる「誤差一分」「大暗礁」、そして桑野の殉死そのものを謎とし、法廷ミステリに仕立てる傑作「殉職」と、どれも外せない名短編集です。徳間書店(Tokuma novels)のアンソロジー『血ぬられた海域 海洋推理ベスト集成』の収録作「天国は近きにあり」あたりと合わせて五編で復刊とか……いや、やはり難しいですかね……。

    「たしかに、船と人と海の世界を書くことは難しい。日本人読者の身内に眠っている血をかきたてることはなお難しい。だが、誰かが書かなければならない。誰かが日本人の体内にひそむ海洋民族の血潮を目覚まさなければならない」(『衝突針路』あとがきより)

     熱い思いから、海洋ミステリの理想を追い求めた高橋泰邦の小説は、今読んでもなお、心の中にある何かを熱くさせます。それは彼の小説が、船の世界を緻密に描き、同時に、人間を描いているからだと思うのです。

    (2021年3月)

第9回2021.02.26
無比のヒーロー、ここに在り! ~寡黙な男が全てを救う~

  • ロバート・クレイス、書影

    ロバート・クレイス
    『危険な男』
    創元推理文庫

  •  今月の二冊目は、なんといってもこいつを取り上げないといけません。ロバート・クレイス『危険な男』(創元推理文庫)!

     直近の邦訳『指名手配』(エルヴィス・コール・シリーズ)が2019年5月だったことを考えると、まだ2年は経っていないのですが、随分首を長くして待っていた気がします。ジョー・パイク・シリーズの邦訳を待ちわびていたからでしょう。前に邦訳された『天使の護衛』は2011年8月。なんとほとんど10年ぶりの刊行になるのです。

     クレイスはデビュー作『モンキーズ・レインコート』以来、ロスの探偵エルヴィス・コールと、そのパートナーであるジョー・パイクのコンビを書き続けてきました。コールは陽気なおしゃべりで、しかしただのお気楽男ではなく、信念を持った陽気さで世界を愛する。パイクは警官上がりで、凄腕の元傭兵という異色の経歴を持つ寡黙な戦士。正反対ですが互いを信頼し合うこのコンビの活躍は、いつ見てもシビれるほどカッコ良い。私は特に『ララバイ・タウン』という作品が大好きで、あそこに書かれた1990年代のアメリカの風景に、懐かしい何かを感じてたまらないのです。

     そんなシリーズからポップアウトした新シリーズが、ジョー・パイクを主人公とした「ジョー・パイク・シリーズ」というわけです。前述の『天使の護衛』が一作目にあたります。交通事故によってとある犯罪者と顔を合わせてしまった大富豪の娘が、命を狙われる。パイクは彼女の護衛を務め、冒頭からクールな銃撃戦を繰り広げる。そしてコールの活躍もしっかり楽しめる。パイクがコールに電話をかけ(このシーンがまたたまらないのです。パイクは電話では一言二言しか話さないのですが、コールもそれに慣れきっているんですよね)、コールが「何が起こっているのか」の調査に参入してから、事実は二転三転。アクションだけでなく、プロットと心理描写でも巧みに読ませる名品です。

     さあ本作『危険な男』も、スピード感では負けていません。冒頭わずか4ページ、愛おしい家族の風景の中に不穏な何かを忍ばせるシーンの妙だけで舌鼓を打ってしまいますが、次のページではもう銀行員の女の子が拉致されることがほのめかされ、程なく実行。現場に居合わせたパイクは、放っておくことが出来ず助けに入る。このシーンだけでもとんでもなく面白いのに、事態はこの後二転三転。なぜ彼女が狙われるのか、という謎で牽引しながら、コールの活躍や、誘拐犯たちの視点でもしっかり楽しませてくれます。

     ロバート・クレイスは最初、完璧な一人称ハードボイルド小説を書く作家だと思ったのですが、こうして多視点サスペンスをものにして、今なおエンタメの雄であり続けていることに感動させられます。パイクは寡黙な男なので、三人称記述がしっくり来るんですよね。逆にコールの内面描写はいちいちニヤッとします。この塩梅が実に楽しい。

     ロバート・クレイス、もっと読みたい。あまりにも楽しみにしすぎて、今回も発売日に読んでしまいました。エルヴィス・コール・シリーズの『ララバイ・タウン』『死者の河を渉(わた)る』あたりも大好物ですが、相棒を失った刑事と相棒を失ったシェパード、マギーがかけがえのない「相棒」となり再生するまでを描く『容疑者』、その一人と一匹に加えてコール、パイクの二人もゲスト出演し、交錯するフルスロットルエンタメ『約束』も最高です。『約束』なんて全ページ面白い。

     クレイス作品の何がそんなに私を魅了するのかと言われれば、クレイスの小説が飛び切り格好良いからです。コールの饒舌さの中に潜む愛が、パイクが寡黙さの中に隠す世界への怒りが、私の心を震わせるからです。

     『死者の河をわたる』の解説に一部引用されたクレイスの言葉に、「人間の心以外は書くに値しない」というものがあります。多彩な陰影を持つ登場人物の中に、人間への対称形の理想を投影したかのようなパイクとコールの姿が、私には永遠に眩しく映るのです。

    (2021年2月)

第8回 特別編22021.02.12
ランドル・ギャレットの世界 ~SF世界の本格ミステリ~

  • ランドル・ギャレット、書影

    ランドル・ギャレット
    『魔術師を探せ! 〔新訳版〕』
    ハヤカワ・ミステリ文庫

  •  1月29日頃から、早川書房〈このミステリがヤバい!〉フェアが展開されています。四人のミステリ作家が、海外本格の名作四作にそれぞれ推薦文を寄せる、というもの。

     円居挽(以下、敬称略)がクリスチアナ・ブランド『ジェゼベルの死』、青崎有吾がコリン・デクスター『キドリントンから消えた娘』、斜線堂有紀がポール・アルテ『第四の扉』、そして私がランドル・ギャレット『魔術師を探せ!〔新訳版〕』。推薦文の内容などは、早川書房のnoteにも掲載されています。

     このフェア、面白いのは担当編集が「次の展開」を考えて組み立てたであろう「手つき」が感じられること。長らく絶版だった『キドリントンから消えた娘』の新カバーによる復刊が目玉なのは間違いありませんが、アルテは『殊能将之読書日記』で「傑作」と紹介された『死まで139歩(仮)』が今年刊行予定といいますし、ギャレットも品切れ中の『魔術師が多すぎる』の復刊に向けた編集者の野望についてチラッとnote記事内で言及されています。古き良き傑作を、新たなパッケージで打ち出し、次に繋いでいく。そんな力にあふれたフェアだと思います。

     そこで今月の一冊目は『魔術師を探せ!〔新訳版〕』を取り上げようと思います。決して帯文を書いたから、というわけではなく、読んでいるうちに色んなものと繋がって、今感じたことを書き留めておきたくなったからです。昨年のクリスマスに続き二度目の特別編です。

     本作はSF作家ランドル・ギャレットによる本格ミステリ・シリーズから、中編三編を収めた作品集です。他に長編『魔術師が多すぎる』(早川書房、品切れ中)が出ており、各雑誌、アンソロジー等でシリーズの短編が訳されています。

     科学の代わりに魔術が発達したパラレルワールドの英国で、魔術が絡んだ犯罪を、魔術による捜査で解き明かす。痛快な本格ミステリです。探偵役のダーシー卿と、法廷魔術師のマスター・ショーンのコンビもお互いに信頼感があって良いですし、何より、推理と魔術捜査を役割分担したのがうまいところ。ダーシー卿の推理に必要な魔術知識は全てショーンの口から説明されるため、バランスの取れたフェアプレイを実現しているのです。

     長編『魔術師が多すぎる』で起こるのは直球の密室――不可能殺人ですが、『魔術師を探せ!』では「不可解」な犯罪が多いのが特徴的です。身元不明の死体と、消えた侯爵の謎はどう関連するのか。なぜ死体は藍色に染め上げられていたのか。これらの不可解な謎が、現実的な論理で解きほぐされていく過程には、確かな本格の快感があります。

     もちろん特殊設定ミステリの語で捉えてもいいですし、設定が社会に浸透して一つの世界をきちんと形作っている意味でSFミステリでもありますが、「ダーシー卿シリーズ」にはそれらの語だけでは済まないような奥行きが感じられます。

     なぜそのような奥行きが感じられるのか、その理由を自分なりに探るために、補助線を一本引こうと思います。都筑道夫の「モダーン・ディテクティヴ・ストーリイ」という概念です。この語は都筑道夫が理想とした謎解き小説の理念を多岐に含むものですが、おおざっぱに言って、ここでは「不合理な謎を論理によって解き明かすことを、何より優先しなければならない」という理念の核を捉えておきます。トリック不要論も、シリーズ名探偵を求める後段の議論も、全てはこの核に立脚していると思うからです。

     ここで都筑道夫の話が出るのは唐突に思えるかもしれませんが、キッカケがあってのことです。『魔術師が多すぎる』の解説は、早川書房の編集者であった都筑道夫が執筆しているからです。SFとミステリの関係性やSFミステリの難しさなどを分析した名解説ですが、まず重要な箇所を、少し長いですが引いてみましょう。

    「(……)この場合のSFはサイエンス・フィクションではなく、スペキュレイティブ・フィクションであるわけだが、それを本格推理小説としてまとめた点に、新しいSFファンは不満を持つかも知れない。謎とき推理小説にはルールがあって、それをまもることの古風さが、まずスペキュレイティブ・フィクションの自由奔放さと相反するものだからだ。しかし、いっぽう推理小説ファンにとっては、その不自由さに魅力がある。かぎられた枠のなかに、思いがけない変化を見いだすことが、本格推理小説ファンの楽しみなのだ」

     この箇所に登場する「スペキュレイティブ・フィクション」という語は、1960年代から70年代前半、SF界で巻き起こった「ニューウェーヴSF運動」において使われ、従来のSFに哲学的、思弁的な要素を持ち込もうとしたものです。特にハーラン・エリスンがこの理念に意欲的だったことは、これまた早川書房で最近完訳されたアンソロジー『危険なヴィジョン〔完全版〕』(全3巻)の序文からビシバシ窺われて、この話もまた面白いのですが、今日は本筋ではないので脇に置いておきます。

     都筑道夫『黄色い部屋はいかに改装されたか?』(フリースタイル、以下『黄色い部屋~』と表記する)の解説において、法月綸太郎は「都筑のモダーン・ディテクティヴ・ストーリイ論には、六〇~七〇年代前半のニューウェーヴSF運動の担い手たちが掲げたスペキュレイティブ・フィクションという理念に通じるセンスが感じられます」と述べています(この引用箇所はこの後理念を推し進めた時の危うさにも言及していますが)。その相似性を分析するのはここでは差し控えておきますが、ここでは二つの概念の同時代性を確認し、その概念が提唱された時代の中にランドル・ギャレットの「SF本格」もあったことを意識しました。『魔術師が多すぎる』の原書が1966年刊行、ポケミス刊行が71年7月、『黄色い部屋~』は70年10月から71年10月にかけて連載されていました。数々の締め切りに追われる中、都筑はギャレットの作品に触れ、解説を著したことになります。

     翻って、都筑道夫の実作を探ってみます。都筑道夫の短編には、「犯人以外の意図・価値観が介在して、事件が不可解・不可能な様相を呈してしまう」という趣向が数多く見られます。ネタバレになってしまうので具体的な名前が挙げられないのが残念ですが、「犯人以外の意図」とは、「被害者自身」や「犯罪以外の価値観を持った関係者」のことです。

     都筑道夫は先述した『黄色い部屋~』の中で、ジャック・リッチーの短編“By Child Undone”とエドワード・D・ホックの「長方形の部屋」を比較し、前者の犯罪者の計画の「危険」さを指摘、「トリック中心の本格推理小説の、これは落ちこみやすい落し穴です」と言っています。後者は「この解決は、すばらしいと思います」「犯人のトリックはなく、状況から生みだされた謎があるだけですが、その謎が読者の興味をそそるに足るもの」であると述べています。都筑道夫の実作はまさにこの「状況から生み出された謎」という感覚に立脚していると思います。その「状況」というのが、先に言った「犯人以外の意図」ではないかと。犯人が不自然なトリックを仕掛け、謎が生まれたとするのでなく、犯人自身も様々な意図やアクシデントに翻弄されるなかで、不可解な犯罪が生じてしまった、と構成する。エラリー・クイーンの実作を都筑が気に入っていたのも、畢竟こういう点だと思います。

     そして、「ダーシー卿シリーズ」では、SF設定である「魔術」というものが、この「犯人以外の意図」になっていると思うのです。犯人の計画を超えて、「魔術」のルールに従うことで(従わざるを得ないことで)、犯人の意図していなかった不可解な謎が生まれてしまう。つまり、犯人もまた、魔術の論理に縛られる。とすれば、これは「魔術により形作られたモダーン・ディテクティヴ・ストーリイ」とも言えるのではないかと。だからこそ今でも新鮮に読むことが出来、論理も古びない。

     とはいえ、そんな理論をギャレットが考えていたとは思いませんし、都筑道夫がギャレットを読んで考えたなんてことも思っておりません。この感覚とは究極的に言ってしまえば一つの事実に基づいていると思います。世界が先に立っている、という感覚です。

     ミステリであろうとすること、犯罪を描くこと以前に、そこに魔術により形作られた世界があり、ルールがあり、論理がある。その世界が先に立っており、犯人もまた、その世界の住人である。だからこそ、犯人もまた、そのルールに縛られ、もがき、意図せぬ謎を作ってしまうこともある。先に引用した解説の個所の中で、都筑は「謎解き推理小説にはルールがあって」「その不自由さに魅力がある」と述べています。まさに、この「不自由さ」こそが、犯人をも縛り付けるのです。まず先に世界があり、思索があり、ルールがある。堅牢に作られた世界そのものが、犯人をも縛る枷になっているのです。世界の一部である魔術は犯人だけでなく、探偵たちにも味方し、例えば「その眼は見た」(『魔術師を探せ!』収録)では、「そんなことまで分かるの?」と言いたくなるような魔術捜査の凄さと、そこから生まれるツイストが見事なオチになっています。このオチは、もちろん犯人の意図したトリックなどではありません。これもルールが公正であるがゆえです。

     例えば、ある犯罪を実行するためにルールが作られることがあれば、それは作者と犯人が共犯関係を取り結ぶことになります。その瞬間、作り上げた世界のほころび、ほつれが見えてしまう。世界が先に立っていれば、ほころびは生じない。

     世界が先にあるとは、SFとして読めばごく当たり前のことで、なんらすごい結論ではなく恥ずかしいのですが、大きな回り道を経て、それが実感として確かめられた気がしたので、ここに残しておきます。

     そして、この「世界が先にある」「犯人もまた世界のルールに縛られる」という感覚は、SFミステリのシリーズ化を可能とする意味でも、かなり有効ではなかったかと思います。SF設定を連ねていったとき、どうしても「前作品に出てきた魔法でこれは解決できるのではないか」「なぜ前作の魔法が使われていないと言い切れるのか」というツッコミを避けるのは難しくなります。SFは世界を広げるものであるため、どこかで確定させる手はずが必要になります。ところが、『魔術師』シリーズはそこも軽やかに超えてみせる。世界観全体が先に完成していれば、どの魔法が今回関わるかは、ショーンによる魔術捜査であらかじめ確定させてしまえばいい。この世界にある魔法全てをその都度説明しなくてもフェアプレイを実現でき、読者と探偵の立場を対等にしているのは、こういう細かな点です。面白いのは、スペキュレイティブ・フィクションという「自由奔放な」ものを介在した結果として、トリックではなく不合理な謎を押し出し、シリーズ名探偵を使う、まさに都筑道夫の「モダーン・ディテクティヴ・ストーリイ」に合致する作品が出来上がっていることです。

     これは補足ですが、日本にも、似たやり方で「SFミステリのシリーズ化問題」をうまく解消している作品群があります。西澤保彦の〈チョーモンイン〉シリーズです。『念力密室!』に顕著ですが、「観測装置」によってどんな種類の超能力が使われたいつ、どこで使われたかまで特定し、ホワイダニットに問題を絞るというやり口は、まさしく都筑理論をSFミステリで達成した好例といってよく、ランドル・ギャレットの世界の延長線上にあるものだと思います(脱線ですが、創元推理文庫版『退職刑事6』に収録された西澤保彦の解説は、『退職刑事』の変遷から先駆的評論家/実作家としての都筑の像を、西澤作品の登場人物のような妄想めく推理で明かしていく名解説でオススメ)。

     ランドル・ギャレット、西澤保彦の実作、そして都筑道夫の評論を読み返す中で、自分の作品を顧み、反省するような時間を過ごせました。

     そんな思いを込めての帯文50文字は、ぜひ店頭や早川書房のnoteでご覧ください。そして『魔術師を探せ!』、ぜひご一読を。

     それにしても、「ダーシー卿シリーズ」は粒揃いで実に素晴らしいのです。長編の『魔術師は多すぎる』はわが理想にして最愛のSFミステリなのでぜひ復刊してほしいですし、未収録短編だと急速に年老いた死体の謎が極めてロジカルに解かれる「十六個の鍵」、『オリエント急行の殺人』パロディーまでぶち込んだ「ナポリ急行」、ダーシー卿とショーンの出会いを描きながら、ポーランド軍の所在が分からないというユニークな謎を展開する未訳短編“The Spell of War”等まだまだ好きな作品があります。「ダーシー卿」フリーク、増えないかしら。

    (2021年2月)

第7回2021.01.22
進化し続ける「探偵自身の事件」

  • ジョー・ネスボ、書影

    ジョー・ネスボ
    『ファントム 亡霊の罠(上・下)』
    集英社文庫

  •  来週、1月30日から第1回「みんなのつぶやき文学賞」の投票が始まるようです。昨年まで「Twitter文学賞」という名前でしたが、今年から名前を変えて立ち上げるとのこと。Twitterで読者投票出来るので、気になる方は投票してみては。年末のランキング企画とは一風変わった、SNS時代の文学賞に注目していきたいところです。

     さて、今月の二作目はノルウェーの作家ジョー・ネスボの『ファントム 亡霊の罠』(上下巻)。ハリー・ホーレという警官が主人公のシリーズの九作目。〈ハリー・ホーレ・サーガ〉とでもいうべき大部です。ちなみに前作のネタバレはないので、ここからでもいけます。

     このサーガ、とにかく驚かされるのは、高い謎解きのセンスとハリー自身の物語の厚みが同居していること。警察小説ではありますが、シリーズの中ではハリーが一匹狼として事件を追う作品のほうが深く心に突き刺さります。

     作者はあまりにも徹底してハリーを追い込みます。第三作『コマドリの賭け』から始まる「ハリーの相棒三部作」では、アルコール漬けになってボロボロになりながら連続殺人鬼を追うハリーの姿が胸に迫りますし(第五作『悪魔の星』)、第六作『贖い主 顔なき暗殺者』以降、集団としての警察組織と、個人としてのハリーの相克は苛烈なほど描かれていきます。ネスボは「探偵耐久実験」でもやっているのかと言いたくなるほど、壮絶な起伏です。

     そして、『ファントム』は中でも飛び切り凄い。何せ本作では、ハリーはもはや「警官」の立場すら追われているのですから。彼はある容疑者の無実を証明するべく、組織にも属さず、一人事件を追うことになります。

     その容疑者というのが、自分の「息子」――息子同然に接してきた青年、なのです。

     あまりのことに「待ってよ! どうしてそんなに酷い目に遭わせるの!?」とネスボに向けて叫んでしまいました。証拠は完全にオレグが犯人だと示している。絶体絶命の状況です。ハリーはそれでも、オレグにかかった容疑を覆すため、奮闘する。

     下巻の第四章以降、めまぐるしく容疑者が入れ替わり、フーダニットの面白さはかなりのハイレベル。おまけに謎解きの端緒となる伏線の置き方までユニークとあっては。

     ジョー・ネスボ、やはり凄い作家です。同じ集英社文庫から出ているノンシリーズの 『ザ・サン 罪の息子』は良いサスペンスだったし、早川書房から出た別シリーズ『その雪と血を』『真夜中の太陽』は好対照をなす二作で、共にノワールの名品だし。『ファントム』の続編、第十作の“Police”、英訳版で読んでみようかな……。

    (2021年1月)

第6回2021.01.08
形式の冒険 ~『驚き』の復刊~

  • 清水義範、書影

    清水義範
    『国語入試問題必勝法 新装版』
    講談社文庫

  •  2020年12月号の「小説現代」に面白い企画が載っていました。謎の作家「X」による長編小説「XXX」一挙掲載。1959年のアメリカを舞台にしたハードボイルドで、黒人コミュニティとの交流の書き方も好みだし、フーダニット興味もしっかりと。満足して、何よりまず思ったのは、「なんのバイアスもなしに読む」経験の貴重さでした(この作家のものだから面白いに違いない! というプラスの先入観も、一種のバイアスですし)。読む時の自分も試されているような。同誌の2021年1月号では、名前を明かしたその作家のインタビューが掲載されていて、タイトル募集もしていました。気になる方はチェックしてみては。

     発表の仕方、作品の「形式」で遊ぶような企画はこれからも見たいものです。そこで今月は、そんな「形式の遊び」を体現するような復刊書籍を一つ。清水義範『国語入試問題必勝法 新装版』です。

     清水義範はパロディ、パスティーシュを大得意として、私はユーモラスな推理小説シリーズもお気に入り。中でも、表題作の「国語入試問題必勝法」は、抱腹絶倒の名短編なのです。

     誰しも、国語入試に悩まされたことはあるでしょう。現代文の難解さとか、小説の読み方に正解はないはずなのに唯一の解を求められる理不尽さとか。

     そんな国語入試が大嫌いな主人公・浅香一郎が、月坂という家庭教師に「必勝法」を教わる、というのが短編のスジ。なんともうさんくさい感じですが、「この種の問題は、原文とは無縁の点取りゲームにすぎないんだよ」と喝破する月坂は、まるで塾のカリスマ講師のよう。次々披露される眉唾物の、いやしかし、どこか真理を突いていそうなテクニックの数々がなんとも可笑しい。

     素人によるリレー小説を偽作する「人間の風景」や、丸谷才一のパロディ「猿蟹合戦とは何か」など抱腹絶倒の全七編。私はこの本の他には『主な登場人物』などが好きです。本編を読まず、登場人物表だけで本編を妄想する話です。

     さて、ここまでで目安の800字なので、以下は完全に余談です。『国語入試問題必勝法』の復刊タイミングに驚いたのは、まさに1月29日発売の「ジャーロvol.74」に載る私の短編で、「国語入試問題必勝法」をエピグラフとして使用しているからです。2021年、コロナと新制度入試で変わる受験界を舞台にした推理小説で、タイトルは「2021年度入試という題の推理小説」(タイトル元は都筑道夫『怪奇小説という題名の怪奇小説』です)。

     こういうものに挑みたいと思ったのは、やはり高校生の頃、「国語入試問題必勝法」に触れた経験があったからだと思うのです(他に、『ウンベルト・エーコの文体練習』や法月綸太郎『挑戦者たち』に触発された面もありますが)。だからこそ、狙い澄ましたような復刊タイミングに驚きました。講談社のほうでも、新制度入試にかぶせる意味があったのかもしれません。

     とまれ、今回の作品も古い形式を使った新しい推理小説を目指しました。全体のトーンは「六人の熱狂する日本人」(『透明人間は密室に潜む』収録)に近いでしょうか。昔、塾講師のアルバイトをさせてもらったりしていたので、愛のある業界に対して時折やってしまう、すちゃらか・フルスロットル本格です。

     ここで書きすぎると、いずれ書きたい「あとがき」で書くことがなくなるので、今日はこの辺で!

    (2021年1月)

第5回2020.12.25
🎄クリスマスにはミステリを!🎄

  • マイ・シューヴァル、ペール・ヴァールー、書影

    マイ・シューヴァル
    ペール・ヴァールー
    『刑事マルティン・ベック
    笑う警官』
    角川文庫

  •  ※作中、訳の明記がない引用は全て新訳(訳者・柳沢由実子)に準拠。

     今になってマルティン・ベックシリーズにハマっています。全作良いので「完全攻略」はいずれどこかでやりたいのですが、今日はクリスマス。それなら『笑う警官』の28章の話をしましょう。ミステリ部分のネタバレはしませんのでご安心を。『笑う警官』の28章、このたった一章の精読を通じて、ストックホルムのクリスマスの風景を感じ取ることが出来ますし、この小説の眼差しのありようにも迫れるのではないかと思っています。というわけで、今回は特別編です。

    『笑う警官』で起こるのは市バス内で八人が銃殺される大量殺人。被害者の一人の若い刑事・ステンストルムの行動を追い、彼の私生活に分け入っていくところにミソがあります。刑事の私生活を書くことは、主役刑事たちに対して作者がずっとやってきたことでもあります。

     28章はそんな主役刑事二名、マルティン・ベックとレンナルト・コルベリが迎えるクリスマス・イブの日。シリーズは全作「30章」で構成されていますが、28章には20ページ以上の紙幅が割かれており、29・30章が事件解決に向けたものであることと比較すると、私生活を描いたこのシーンの厚みが際立って来ます。29章以降は新年にかけて描いているので、今の時期にぴったり。

     28章は最も重要な章と考えられます。タイトルにもなっている「笑う警官」のレコードがかかるシーンであり、事件解決に至る大きな手掛かりを得るシーンでもあるからです。後者についてはミステリ部分に関わるので省略し、「笑う警官」の話をしましょう。聞いたことのない人は「The Laughing Policeman」とYouTubeで検索すれば原曲に当たれるので聞いてみてください。

     なんとも陽気な曲です。高見浩訳では「高らかな笑い声」、あるいは『警官殺し』で再登場する際「哄笑」という語が使われますが、笑い声が印象的で耳に残ります。「聞いていると笑いがうつるらしく、インガもロルフもイングリットも笑いこけている」とあるように、一家団欒の小道具として効果的に用いられています。

     1922年にイギリスで発表されたコミックソングで、本国では子ども番組などでかかっていたらしいです。1898年のジョージ・W・ワシントンによる"The Laughing Song"が音楽やメロディ、笑い声の元といいますから、作中でコルベリが「第一次世界大戦前からのものだ」と言っているのはこれを受けてのことでしょう。作中でマルティンは娘のイングリットから、この「笑う警官」を収録した「笑う警官の冒険」というタイトルの「四十五回転のEPレコード」を贈られます。彼女にとってこれが会心のプレゼントだったのは、24章で笑顔の少ない父に「クリスマスイブにはきっと笑うわよ、パパは」/「ええ。あたしのプレゼントをもらったら笑うにきまってる」と予告しているのを見ても明らかでしょう。警官の父親にこのレコードを贈るのが、彼女なりのしゃれだったわけです。

     ところが、そんな会心のプレゼントを貰い、曲を聴いてなお、マルティン・ベックは笑うことが出来ない。

    “「パパ、ぜんぜん笑わなかったわね」不機嫌そうだ。
    「いや、とてもおかしいと思ったよ」と言ったが、説得力はなかった。”

     続けてかかる「陽気な警官たちのパレード」もそうですが、歌詞の中では「警官」を戯画化して描いています。家族にとっては現実を忘れ、団欒を愉しむのが目的です。ところが、マルティンは「レコードのジャケットを見つめた」「ステンストルムのことを考えた」とあるように、彼の意識はすっかり目の前の家族から離れてしまい、現実を見つめている。そこに決定的なずれがあります。

     一方のコルベリも家族の団らん中に電話を受け、受刑者と話をするべく刑務所に向かうことに。かくて、彼は事件の手掛かりを手に入れますが、妻には「食事が。すっかりだめになってしまったじゃない」と涙ながらに出迎えられる。気の利いたフォローを入れているのがコルベリのいいところですが、注目すべきはコルベリの帰宅後のシーンにも、マルティンからの電話越しに「笑う警官」の笑い声が響いていることです。かくして、クリスマス・イブにも仕事を忘れられず、現実に生き、家庭の中で不和を抱えた二人の警官を、戯画化された太った警官の笑い声が包み込んでいる。その笑い声のエコーが結末にも響いていることは言うまでもありません。

     また、28章では以下の表現も印象的です。

    “街は静まり返っていた。唯一、動いていたのはよろよろ歩きのサンタクロース。それも任務を果たすには遅すぎ、酔っぱらい過ぎたサンタ。彼らはたくさんのスナップスを、たくさんの振る舞いが大好きな家でごちそうになってすっかりご機嫌だった。”

     どこか温かいまなざしで、「しょうがないなあ」と見つめるコルベリの視線を感じる表現です。19章で「お祭り騒ぎの前触れの年中行事、すなわちぐでんぐでんに酔っぱらったサンタクロースたちが建物の入り口や公衆便所から担ぎ込まれる」と書かれているのと比較すると一目瞭然。そんな端々の描写もあって、『笑う警官』の28章は、家庭内の不和という要素はあるにもかかわらず、ストックホルムのクリスマス・イブの幸福な光を切り取ったシーンのように私には感じられるのです。

     最後になりますが、旧訳の高見浩氏訳と新訳の柳沢由実子氏訳を28章のみ読み比べて気付いたことを書き留めておきます。

     まず、このシリーズにはスウェーデン独特の固有名詞が多いとは聞いていましたが、まさにその通りで、たとえば高見「両親の墓」→柳沢「スコーグ教会墓地」、「しょうが入りケーキ・ビスケット」→「伝統のねじり棒の揚げ菓子クレネッテール」など、ストックホルムの異国情緒に染まる意味では新訳が好ましい。とはいえ、軽妙洒脱な高見訳もやっぱり面白いですね。

     そして、28章には新旧で大きな違いがあります。「笑う警官」の歌詞が旧訳には書いていないのです。旧訳は英訳版からの重訳で、新訳はスウェーデン語から原語訳したことが一つのウリになっていましたが、この異同は恐らく偶然ではありません。理由の一つは先に言及した「陽気な警官たちのパレ―ド」の歌詞は旧訳にもあること、もう一つは、「笑う警官」の歌詞を受ける形で、新訳では結末に二行追加されているからです。この異同は、「笑う警官」という曲の出自にも理由があるのかもしれません。1922年にイギリスで発表された「笑う警官」は、1955年にスウェーデンで新しいバージョンが作られます。1898年を始点にすれば、約30年周期で新しい命が吹き込まれていることになります。スウェーデンではまだ「若い」曲だから聞いたことのない世代がいて、一方マルティン・ベックぐらいの年なら原曲に触れたことがある、とすれば共通理解のため歌詞の表記は必要です。反対に、もしかしたら、英語圏では歌詞をあえて書かなくてもいいくらい有名な曲だから歌詞が省かれたのかもしれません(その辺りは一か月では調べきれず……)。仮説以上のものではありませんが、この二行の違いは、新旧訳の違いの中でもかなり大きなものだと言えるでしょう。

     ただでさえ印象的な結末が、この二行の、ある男の反応によって感動的なユーモアに変貌するのです。28章から通奏低音として流れる「笑う警官」の高らかな笑い声と共に、『笑う警官』はクリスマス・イブの幸福な光を閉じ込め、今もなお、警察小説の金字塔として燦然と輝き、そこに在る。

    (2020年12月)

第4回2020.12.11
年の暮れにSFミステリの理想を夢見ること

  • ケイト・マスカレナス、書影

    ケイト・マスカレナス
    『時間旅行者の
    キャンディボックス』
    創元SF文庫

  •  この度、拙著『透明人間は密室に潜む』が「本格ミステリ・ベストテン」で第一位の名誉に与りました。ありがとうございます。他の順位も続々出ていますが、過去最高順位ばかりです。皆様の応援のおかげです。デビューから四年目、一歩一歩踏みしめるように進んできて本当に良かったと思います。これからも倦まず弛まず精進し、この読書日記も「死ぬまで」続けていきます(言いましたね?)。

     さて、気持ちも新たに12月の1冊目はケイト・マスカレナス『時間旅行者のキャンディボックス』。毎年あるんですよ。ランキング投票後に、超好みの本を読み後悔すること。2年前のハーディング『嘘の木』、去年の呉勝浩『スワン』等。

     で、本書。タイムトラベルが実用化され、タイムトラベラーが巨大組織により管理されている社会を描いたSFなのですが、主題の一つに射殺体、密室殺人という謎が据えられていて、意外な犯人・トリック・動機までしっかり炸裂する本格ミステリであるという。

     私はSFミステリというのは、設定やアイデアだけではなく、それがあった時に人間や社会がどう反応し、適応していくかというところまで触れて欲しいという理想があるのですが、本書はその思いに応えてくれる作品。

     例えば、タイムトラベラーは未来の自分の死期や恋人の死を見てしまうので、死生観に大きな揺らぎが生じ得る。そこで、就任試験にあたっては、心理テストを行って、精神的に健全な人間を登用しようとする。巻末にはそのテストがそのままついたりしているわけです。

     他にも、邦題にもあるキャンディボックスは、タイムトラベル機構を用いて、中に入れたキャンディが60秒後に出てくるようにした子供のおもちゃ。奇抜すぎず、しかし質感のある小道具なのが面白くて、しかも違法改造の記録に挑むチーターたちがいるなんて描写まであってニヤリとします。ここには、「時間旅行」という一つの特異点によって区別された、しかし、私たちと似姿の社会がくっきり描かれている。

     SFとして楽しく、謎解きミステリとして見事、時間・性を超えた愛憎のストーリーも面白いという。やられました。目が離せない作家がまた一人。

    (2020年12月)

第3回2020.11.27
〈ショーン・ダフィ〉、完全開眼!
北アイルランドの鬼才に乗り遅れるな

  • エイドリアン・マッキンティ、書影

    エイドリアン・マッキンティ
    『ガン・ストリート・ガール』
    ハヤカワ・ミステリ文庫

  •  今年からミステリ・ランキング投票のうち「このミステリーがすごい!」のレギュレーションが変わり、奥付9月までの本が対象に。一か月前倒しになった形。例年、「このミス」に投票すると年末ムードに入りますが、今年はロスタイムの気分です。

     今月の新刊はエイドリアン・マッキンティの『ガン・ストリート・ガール』。1980年代、紛争が続発する北アイルランドを舞台に、刑事ショーン・ダフィの活躍を描くシリーズの4作目です。このシリーズ、警察小説とハードボイルドの魅力ムンムンで、注目していました。

     1作目『コールド・コールド・グラウンド』ではバラバラ死体、3作目『アイル・ビー・ゴーン』では密室と、作者はガジェット型の謎を用意してきましたが、むしろシリーズの魅力は「ダフィがこの情勢下でいかに動き、選択し、過去や現在に立ち向かうか」を描き切るところでした。だからこそ、『アイル・ビー・ゴーン』ラスト100ページの熱に浮かされたような文章と展開に胸打たれたのです。

     そして4作目の本作では、そうした魅力はそのままに、捜査小説としての面白さがグンと高まっている。両親が殺され、子供は失踪。これまでよりシンプルに見えるこの事件が、捜査を進めるうちに次々様相を変え、加速していく。この読み味を加えた上で、ダフィの物語としても熱を放っているとあっては。巻を措くあたわずとはまさにこのこと。助手役の刑事のキャラや「因縁」のあの女を巡る展開がまた良いのです。

     次作『レイン・ドッグス』は、1作目の訳者あとがきで早くも触れられていて、とても期待していたタイトル。帯裏によれば来年刊行予定とのことで、また来年の愉しみが一つ増えました。

     ちなみに、私がこのシリーズを最初に手に取ったきっかけは、中学の頃読んだ石持浅海の『アイルランドの薔薇』でアイルランド情勢にある程度興味を持っていたおかげ。そう思うと、読書はちゃんと繋がっていく、と感じます。

    (2020年11月)

第2回2020.11.13
新しいのに懐かしい、名手のニューヒーロー!

  • ネヴァー・ゲーム、書影

    ジェフリー・ディーヴァー
    『ネヴァー・ゲーム』
    文藝春秋

  •  10月分の2冊目はジェフリー・ディーヴァー『ネヴァー・ゲーム』。もはや秋の風物詩となった名手ですが、今回はなんと新シリーズ。しかもこれが良い。リンカーン・ライムが「動かない『静』の名探偵」だとするなら、新主人公コルター・ショウは「飛び回る『動』の名探偵」なのです。失踪人を探し出した時に出る懸賞金で稼いで、家はキャンピングカーというのがまたいい。ディーヴァ―のキャラ造形ってやっぱり半歩くらい先を行ってる気がする。

     ライムシリーズは三人称多視点を採用し、立体的に立ち上げた事件の構図の中に死角を用意してくれますが、今回は徹底して三人称一視点。ショウ自身も事件の全体像や、どの事件が繋がるのかまるで見通せないまま、暗中模索しながら走り抜けるグルーヴ感が味わえます。失踪人探しから始まり、事件の「形」がどんどん変わるのがミステリ的な読みどころ。

     彼の父親が「~べからず」の形で教えた「狩りの心得」がまた好きなんですよ。私は師弟関係が好きで、ドン・ウィンズロウ『ストリート・キッズ』、レナード・ワイズ『ギャンブラー』等がフェイバリットなのも、煎じ詰めればそれが理由。忘れがたい印象を残すいいキャラです。

     いやあ、シリーズの続きが楽しみ。しかも、訳者あとがきには「第三短編集」の文字も! ディーヴァーの短編集、二冊とも偏愛しているので、首を長くして待ちたいと思います。

     と、10月分の2作は、どちらも池田真紀子さんの翻訳ミステリになってしまった。たまたまそうなっただけですが、「この人の翻訳ならなんでも読む!」のモードに入ることってありますよね。他に偏愛翻訳者を挙げると……エッ、文字数がもう足りない?

    (2020年10月)

第1回2020.10.23
ミステリー界の"ノックス"はもう一人いる!

  • 笑う死体、書影

    ジョセフ・ノックス
    『笑う死体』新潮文庫

  •  例年、9月、10月は各種ミステリ・ランキングに向けた読書で大慌て。刊行点数も凄まじいので、凄い勢いで原稿を書いて読書もしないと終わりません。でもどんなに辛くてもやるのは、まあどれだけ暑かろうが夏コミに、寒かろうが冬コミに行くのと同じで、学生時代からこの業界にいる人特有のサガ、骨がらみの習慣です。

     そんな中から2冊。1冊目はジョセフ・ノックスの『堕落刑事』『笑う死体』(新潮文庫)。後者が今年の新刊。

     マンチェスター市警エイダン・ウェイツを主人公にしたミステリで、解説によれば原書では三作目が刊行されており、三部作となる見込みが高いとのこと。

     とにかく本シリーズの美点は、ノワールの魅力と本格ミステリの快感とが高いレベルで融合していること。

    『堕落刑事』では麻薬抗争によって、三分の一を過ぎたあたりからバタバタ人が死に、エイダンもボロボロに。結末近くなり、「俺はとにかく説明が欲しい」と言って、真相究明に動く彼のカッコよさときたら! 死体の山の中から、たった一人の死の真実を解き明かすのです。

    『笑う死体』では、身元不明でしかも歯を剥き出しにして笑っている死体の謎や、連続放火の謎が絡み合う、モジュラー型のミステリに。エイダンは夜勤の警官として街を駆けます。間違った街で、間違った人たちの中で、自分もそこに身を染めながら、でも「正しく」あろうとする……だからこそ、彼の行動の一つ一つにハラハラさせられ、胸打たれるのだと思います。三作目、切に待ってます!

    (2020年10月)