〈スペシャル企画〉
矢樹純氏(作家)インタビュー

「短編ミステリでは、冒頭部分に掴みを入れ、
アイデアも多く詰め込む癖があるかもしれません」

聞き手/若林 踏(書評家)

――『妻は忘れない』刊行の経緯

若林
いま連作形式ではない、ノンシリーズ短編集は、なかなか出版されにくい状況にあると言われています。一方で、芦沢央さんの『汚れた手をそこで拭かない』(文藝春秋)が直木賞候補作になったり、「本格ミステリベスト10 2021年版」国内編第1位に阿津川辰海さんの『透明人間は密室に潜む』(光文社)が選ばれるなど、2020年はミステリ分野においてノンシリーズ短編集がいくつも話題を呼びました。短編ミステリ好きにとっては、たいへん心強い一年でしたね。
 その中で、私が特に注目した作家さんが矢樹純さんです。
 矢樹さんは2019年に刊行された短編集の表題作「夫の骨」で第73回日本推理作家協会賞短編部門を受賞、さらに昨年10月に刊行した第二短編集『妻は忘れない』(新潮文庫)も粒ぞろいの短編集として高い評価を得ています。私も読みましたが、どれもサプライズの演出が巧みで、2冊ともハイレベルの短編集であると感じました。
 そこで今回は短編ミステリを書くことについて、矢樹さんにがっつりお話を伺いたいと思います。
 まずは現時点での最新短編集である『妻は忘れない』について。この作品集ですが、担当編集者の側から「短編集を出してみませんか?」という依頼があったとお聞きしています。
矢樹
そうですね。『夫の骨』(祥伝社文庫、2019年4月刊)を刊行して1ヶ月くらい経った頃に、「短編集という形で出版の企画を進めてみませんか」というご連絡をいただきました。その後、まずは表題作となった作品をその冬に書き上げて雑誌掲載しました(注:『小説新潮』2020年2月号掲載「したたかな噓」。同作を加筆、改題したものが「妻は忘れない」)。その後、ちょっと時間がかかったのですが、以前noteに発表した作品の改稿と、書き下ろしを三編加える形で短編集になったのが『妻は忘れない』です。
若林
この『妻は忘れない』というタイトルですが、以前に刊行した短編集が『夫の骨』です。“妻”と“夫”、対になっているのは当然、意図的に付けたものですよね?
矢樹
はい、それは最後のタイトル決めの時にそうしましょうか、という話になりました。実をいうと、それまではタイトルが固まっていない状態で進んでいたんですが、最後の段階で「やっぱり二つの短編集で対になるようなタイトルにしましょう」ということになったんです。
若林
そうだったんですか。
矢樹
はい。当初、どの作品を表題作にしようか、ということも定まっておらず。一編目に書いた作品が表題作になることが決まった後に、雑誌掲載時の「したたかな噓」という題名を「もうちょっと本のタイトルとして映える感じに変えましょう」という話になりました。タイトル決めの会議をしたり、私の方からもいくつか案を出したりしたんですけれど、結局、編集部の方で決めていただいたのが『妻は忘れない』でした。
若林
なるほど、そういういきさつがあったのですね。でも、『夫の骨』にしても『妻は忘れない』にしても、家庭内の出来事を軸にした短編がメインになっているじゃないですか。このコンセプトについては、編集者から依頼があった時点で決まっていたことなのかな、と私は思っていたのですけれど。
矢樹
いえ、特に「家族をテーマにして書いてほしい」という依頼があったわけではないですね。むしろ「割と自由に書いていい」と仰っていただきました。
 ただ最初にお話をいただいた時、「『夫の骨』を読んで、短編集を書いてもらおうと思いました」と言われたので、「もしかしたら、家族関係を題材にしたミステリで統一した方がいいかも」と私の方で、勝手に意図を汲んだといいますか。
 ご依頼を受けて最初に書いた「したたかな嘘」が夫婦関係の話だったので、「だったら、夫婦や家族の話で揃えてみようか」と思った次第です。
若林
なるほど、編集者のオーダーを推理したわけですね。

――とにかく展開は早く!

若林
二つの短編集を再読して気付いたことがあります。『妻は忘れない』の表題作と、『夫の骨』に収録されている「かけがえのないあなた」は開始からほんの数ページを開いただけで、衝撃的な文章が目に飛び込んできます。このショッキングなことが書かれるタイミングは、意識されたのでしょうか?
矢樹
うーん、タイミングについては特にかっちりと「ここで書こう!」と意識していたわけではないですね。プロットを作る時に、起承転結の「起」の部分に衝撃を与えるような形にしたいというか、主人公がすごく追い詰められるような事件が起こるというか。とにかくその後に続くお話に不穏な感じを出せるようにプロットを作っているので、それがたまたま、冒頭数頁辺りの似たようなタイミングで書かれているのかもしれないですね。
若林
なるほど、最初に衝撃を与えることで、その後の不穏な雰囲気を醸し出して読者を釘付けにする、という手法が、ミステリを書く上で矢樹さんが大切にされている型なのかもしれません。
 でも、物語の早い段階でフックを出す、というのは、現代のミステリ読者と向き合う上で非常に重要なポイントである気がします。
 以前、とあるミステリ作家さんにイベントでお話をお伺いした時に、「ミステリ漫画のサブジャンルとして、頭脳バトルものがある時期から隆盛し始めたじゃないですか。あれって、どうしてなんでしょうね?」という問いかけをしたことがあります。
 その作家さんの答えは、「例えば『金田一少年の事件簿』みたいに、謎・論理・解決という手順を踏む物語を、何週もかけて読んでいくことに耐えられない読者が増えてきたのではないでしょうか。一方、頭脳バトルや、福本伸行さんのギャンブル漫画のような作品はスピーディで、物語の開始早々に色々な出来事が起こるから、そちらの方が読者には食いつきやすい」というものでした。ああ、なるほど、いまの読者は、もしかしたら結構せっかちなのかもしれないとその時は思いました。
 そう考えると、矢樹さんが短編でも早い段階でフックを出す、というのは、そういう読者を意識していたのかなと、ふと感じたのですが。
矢樹
いやあ、どうでしょう……。私自身、何となく読者として想定しているのは、自分と同年齢くらいの方なんですね。あくまでイメージですが、そういう方って、ショッキングな出来事が次々と起こるよりも、もっと落ち着いた話を読みたいのかな、と思っています。だから、若林さんの仰るような“せっかちな読者”を特に意識しているわけではないです。
 ああ、でも……自分が読者の側に立った時、何も起きずに進んでいくよりは、物語の始まりから「あっ!」と思うような出来事があって、それを引きずってサスペンスが続く方が好みなんです。だから、そういう自分の嗜好が作品に反映されているのかもしれません。
 「とにかく早く、何かとんでもないことが起こってほしい!」という気持ちが強いんでしょうね。
若林
なるほど、どちらかというと、ご自身のミステリ観がそのまま短編にトレースされている感じなのでしょうね。
 もう一つ、この点について別の角度から伺いたいのですが、矢樹さんは漫画原作のお仕事も手掛けておられますよね? 先ほどミステリ漫画を例に出しましたが、漫画原作のお仕事をする上で培われたものが影響している、と感じることはありませんか?
矢樹
そうですね。自分は“漫画脳”といいますか、確かにその影響があるかもしれません。
 漫画原作の仕事に取り組んでいて感じるのは「とにかく展開を早く作らなければ」ということですよね。物語に起伏を与えようと思う時でも、漫画ではそれこそ1ページ目でどうにか収めなければいけない。読者が1ページ読んでつまらないと思ったら、その連載作品は飛ばされてしまう。だから「冒頭部分に掴みをいっぱい入れなきゃ!」って、ある意味で焦った気持ちで書いているところはあります。時々、「これはさすがにやりすぎたかな」って後で見返して反省することもありますが。
 そういう癖がちょっと小説にも出ているのかもしれません。

――アイディアは「詰め込みすぎ」くらいが丁度いい?

若林
なるほど。でも、とにかく最初から色々詰め込んでいこう、という意識でミステリ短編を書いている作家さんは、逆に少ないんじゃないかなと私は思っているんです。そして、それが矢樹さんの短編作家としての武器ではないか、とも。
 新人賞の下読み仕事をしていると、とにかく最後の方にワンアイディアの仕掛けを用意して驚かせようとする作品に多く出会います。でも、そのアイディアが決まらなかったらどうするの、と思うんですよ。
 その点、矢樹さんの場合はとにかく一編に複数のアイディアを盛り込んで、読者を飽きさせないようにする工夫をされていますよね。
矢樹
それはそうですね。数年前、『あいの結婚相談所』という漫画の原作を書いていました。何かしらの謎や秘密を抱えた依頼人がやってきて、最後にはそれを解決するという、ミステリの要素が入っている一話完結型の連載です。そこで毎回どんでん返しを仕掛けるのですが、大き目の仕掛けを一つ、小さ目の仕掛けを二つ入れないとページがもたないな、ということを感じながら書いていたんですね。
 多分、その時と同じような創作法でミステリ短編も書いている気がします。どんでん返しの数や、読者を驚かせるポイントの数が多く詰め込まれている、というのは、連載漫画の作り方に近いのではないかと。
 いまから振り返ってみると、一編にアイディアを多く詰め込む癖は、漫画原作の仕事をしていた頃にはあったような気がしています。私が原作を手掛けた漫画は、確かに他の方の作品と比べて、詰め込んでいる方だと思います。セリフや説明の部分がすごく長くて、他の漫画家さんと比べるとだいぶ話が込み入っていて、読みづらいと自分でも思う時もありましたね。やっぱり、この頃から詰め込みすぎる癖があったのかもしれません。
若林
でも、その「詰め込みすぎ」が逆に短編ミステリの書き手として、矢樹さんを抜きんでたものにしたのではないでしょうか。『夫の骨』と『妻は忘れない』はひとことで言うと「元手がかかった短編集だな」っていう風に思っています。
 この「元手がかかった短編集」と感じたのが、2020年でいうと『妻は忘れない』と、阿津川辰海さんの『透明人間は密室に潜む』。
 阿津川さんもアイディア量がものすごく豊富な作家さんだから、短編でもアイディアをとにかく詰め込んで、読者に楽しんでもらいたい、という精神に溢れている。同じマインドを矢樹さんにも感じるんですよね。
 気になるのが、一編の短編に盛り込みすぎると、アイディアのストックがなくなって次が書けなくなる不安が生じることはないのかな、ということです。
矢樹
いや、書けなくなるという不安はいまのところありません。
 もちろん、この先も同じような短編ばかりをずっと書き続けたら辛くなるかもしれませんが、驚かせるアイディアの組み合わせを色々と試しながら書いている途中というか、まだ試していないこともいっぱい残っているな、と感じています。ですから、一つ一つの話を完成させるのは大変ではありますけれど、将来に不安を感じるほどではありませんね。
若林
たいへん頼もしい言葉です。

――アイディア同士には“飛躍”を持たせよ

若林
先ほど「アイディアの組み合わせを色々と試している」と仰っていましたよね。ここでいう「アイディアの組み合わせ」というのは、作中に登場する小道具の使い方ではないか、と思います。その点で一番、私が好きなのは『夫の骨』に収録されている「虚ろの檻」。おお、このタイミングでこの小道具を使って、こういう仕掛けを用意するのか、という展開が非常に巧い。
 こういう作中の小道具とアイディアの組み合わせ方について、ご自身の決められたメソッドみたいなものはあるのでしょうか?
矢樹
メソッドというほどではないんですけれど、作り方としてなるべく最初に決めるのはメインのトリック、あるいは最後のどんでん返しを先に決めた後、メインのトリックやどんでん返しとは違うジャンルのアイディアを、一つか二つ足してみる、ということでしょうか。
 盛り込むアイディアとアイディアの間に飛躍があった方が面白いかな、と思っています。例えば家庭のドロドロしたものを書く一方で、もう一方のネタとして裏社会ものの要素を用意して組み合わせよう、といった感じですね。それぞれ全く関連のない業界の資料を使って、別のところからアイディアを出してみる、といったこともしています。
若林
いま、タイプが別のアイディアを組み合わせていく、と仰いましたよね。矢樹さんの小説家としてのデビュー作『Sのための覚え書き かごめ荘連続殺人事件』(宝島社文庫)は長編ですが、実は同じようなことを感じたんですよ。
 最初は舞台となる村の風習が説明されて、「ああ、これは現代版の横溝正史みたいお話を書こうとしているのかな」と思っていたら、いきなり“他人の秘密をのぞかずにはいられない”探偵が出てくる。あれ、何か変なキャラクターが出てきたぞ、と思っていたら、今度はまたとんでもない展開に……っていうように、テイストがころころと変わっていくじゃないですか。横溝だと思って読んでいたら、いつの間にかフランスミステリみたいな超絶技巧の物語が二章以降で始まるんです。
 要するに、矢樹さんの作品はテイストの切り替えがすごくよく出来ている。矢樹さんは短編・長編に限らず、それをやってらっしゃるのかな、と。
矢樹
そうですね。多分、そういうところはあると思います。
 同じジャンルというか、似たようなテイストで物語を続けるよりは、タイプの違う物語を組み合わせて読者に提供すれば、それ自体が一つの驚きになる気がします。読者が「こういうジャンルの小説なんだろうな」と思って油断しているところに、別の角度から殴るじゃないですけれど。

――目標とする短編作家は?

若林
ここまで複数のアイディアの詰め込み方だったり、テイストの切り替えといったことを伺いましたが、お手本にした短編作家や作品があれば教えていただきたいのですが。
矢樹
ちょっと考えてみたのですけれど、実を言いますと、初めて短編を書いてみようと思った時に、あまり短編作品を読んでいなかったことに気付きました。
若林
えっ、そうなのですか。私はてっきり、色々なミステリ短編を読んだ蓄積があったからこそ書けたのでは、と勝手に想像していました。
矢樹
はい、実はそうなんです。その時は、短編よりも長編本格ミステリの方が自分の好みでしたので。
 そこで編集者さんから「短編ミステリを書くためには、お手本としてこれを読んでみたら?」ということで、小池真理子さんと連城三紀彦さんをお薦めされたんですね。その時に初めて、そのお二人の作品を読んでみたんです。
 読んでみると、確かにミステリを書く上でのお手本として素晴らしいと思いました。でも「このお二人の作風に似せちゃったらダメだな」とも思い、逆に似たような感じにはならない方向で頑張ることにしたんです。
 お手本というより「目標にしたいな」と思った作家さんでは、桜木紫乃さんと沼田まほかるさんがいます。
 桜木さんについては「ミステリには当てはまらないだろうけれど、お薦めだよ」と言われたので読んでみると、「あ、こんな小説があるのか」と感動しました。正直に申し上げると、私は小説に関しては本格ミステリ以外のジャンルを大人になるまであまり読んだことがなかったのです。
若林
なるほど。桜木さんの作品は具体的にどういうところが、矢樹さんの琴線に触れたのでしょうか?
矢樹
読んでいて感情を動かされる部分がすごいなと思っていて。『ホテルローヤル』(集英社文庫)を読んだ時に、ホテルの従業員のおばあさんが山の中に入ってしまう短編がものすごく心に刺さったんですね。「小説って、ここまで感情を動かすことが出来るんだ」と。ジャンルは違いますが、ミステリでも桜木さんのように感情を動かすことが出来たらな、と思いました。
若林
感情を動かす、というのは具体的にいうと、「読む側の感情に起伏を持たせるようにする」ということでしょうか。もっというならば、読者の心をざわつかせること、とか。
矢樹
そうですね。何か途轍もない出来事が起きて、びっくりさせること以外の何かがミステリ小説で出来ればいいな、と考えています。
若林
なるほど! 逆にその話を聞くと、いままで矢樹さんが小説に求めていたものが「とにかく驚くこと」だったのでは、と思えてきました。
矢樹
そうですね。本格ミステリが好きでしたので。

――“本格浸け”の読書体験

若林
本格ミステリばかり読んでいた、ということですけれど、具体的にはどの辺りの謎解き作家がお好きなんですかね?
矢樹
江戸川乱歩、横溝正史、アガサ・クリスティ、エラリー・クイーン辺りは小学校の高学年から中学生にかけて読んでいましたね。実際、大人向けの作品をちゃんと読めていたかは定かではありませんが。
 でも、やっぱり一番、影響が大きいのは新本格ミステリになるんですかね。綾辻行人さん、有栖川有栖さん、法月綸太郎さん、我孫子武丸さん、麻耶雄嵩さんは大好きです。講談社ノベルスでミステリが盛んに出ていた頃に嵌まったので、霧舎巧さん、京極夏彦さんなどもよく読んでいました。
 自分でもミステリを書いてみたいと思ったきっかけになったのは、島田荘司さんの『占星術殺人事件』です。あの作品で描かれているトリックを読んだ時に「こういうトリックを考えついて、小説が一作書けたら最高だな」って思って。確か大学生の時だったかな。そこで初めてミステリを書きたいと思ったのですが、それから一作目を書くまでにものすごいブランクがあるわけです。
若林
ミステリファンあるあるですね。いつかは自分も書くぞ、書くぞと言いながら、なかなか書き上がらないという。
矢樹
「書くのに値するアイディアが出てこない!」と言って、10年くらい過ぎてしまうというやつですね。
若林
好きなミステリのお話に戻すと、有栖川さんや法月さんのお名前も挙げられていましたが、矢樹さんはどちらかといえばエラリー・クイーンのようなロジカルな犯人当てよりも、一発大技のトリックが仕掛けられた小説の方が好みなんじゃないのかな、という気がします。
矢樹
そうですね。先ほども申し上げた通り、とにかくビックリしたいですね。「やられた!」「騙された!」と感じて、また作品を読み返すという読書が好きです。
若林
なるほど。先ほど言及されていた島田荘司さんの作品もそうですよね。もちろん、緻密な推理もきちんと書いているけれど、とにかくトリックのインパクトが大きすぎて、細かい推理の部分は忘れてもトリックだけは忘れない。
矢樹
本当にそうですよね。島田さんが書かれるようなトリックを思いつくことが出来ればいいなあ、とは思いますけれど。私自身は、なかなかそういう発想が出てこないタイプなのかもしれないです。

――ヒッチコックに学んだ感情の動かし方

若林
しかし、サプライズを重視した読書をされていたと聞いて、ちょっと意外だな、と思いました。
 これまで矢樹さんが書かれた二つの短編集の美点として、アイディア同士をつないでいく時のサスペンス、あるいは不穏な演出の仕方が非常に巧いことがあると思っています。さっき新人賞の下読みについて触れた際に出てきたワンアイディアに固執してしまう書き手の一番ダメなところは、読んでいる最中のサスペンスを演出したり、読者を宙吊りの感覚にさせるテクニックが出来ていないことです。矢樹さんはそれがちゃんとクリアされているんですね。いや、クリアどころか、読む側を不安に追い込む技巧は非常に優れていると言っていい。
 とにかく驚くようなトリックや仕掛けを施すことが大事、と思っていると、サスペンスの演出がないがしろにされてしまうことって多い気がするのですが、そこをクリア出来たのはご自身でどういうところがポイントだったと思いますか?
矢樹
サスペンスの演出が巧く出来るようになったのは、漫画原作の仕事を始めて二作目の連載でホラーを書くことになったのがきっかけではないか、と思います。その時に「ホラーを書く上で勉強になるよ」と編集者さんに薦められたのが、映画監督のアルフレッド・ヒッチコックにインタビューをしたもの凄い分厚い本でした。
若林
ああ、フランソワ・トリュフォーがインタビュアーを務めた『映画術』(山田宏一・蓮實重彦訳、晶文社)ですね。
矢樹
はい、そうです! あれを読みながら「本に出てくる映画を観ろ」と編集者さんに言われて、薦められた通り観たんですよ。その本でヒッチコックは観客の感情や情動を引き起こすことと、観客の意識を掴んで離さずに引きずり回す、ということを述べているんですけれど、「ヒッチコックは格好いいな。私も自分の作品でこれが出来たらいいな」と感じたんです。
 その後、ヒッチコックが言うところのエモーションを引きずり出すことを意識しながら、ホラーやサスペンスを書くようになりました。ですので、サスペンスの演出がきちんと書けている、という評価をいただけるのは、おそらくヒッチコックの『映画術』を読んで頑張ろうと思ったお陰かな、と。
若林
なるほど、ヒッチコックの『映画術』なのか! 確かにサスペンスを勉強するに当たって基本図書ではありますけれど、原点の中の原点、という本なので、却って思いつきませんでした。
 ちなみに『映画術』を読む以前に、ヒッチコックの映画を観たことはあったのですか?
矢樹
いや、その時に初めて観ました。『映画術』に出てくる題名のDVDを注文して鑑賞する、という感じでした。「ああ、この映画は白黒なんだな」なんて思いながら買っていました。
 もちろん、ヒッチコックの映画を全て観たわけではないのですが、『映画術』で言及されている作品の中で、特に有名なものや、個人的に気になった映画を拾って観ていきました。
 あの時は小説をまだ書いていない頃で、子供が幼児くらいだったかな。
若林
しかし薦めた編集者の方も偉いな、って思います。ホラー漫画の原作を書く勉強のために、ヒッチコックの『映画術』を薦めるというのは、なかなかないんじゃないのかな。
矢樹
そうですね。その点、私は編集者の方にたいへん恵まれていると思います。『映画術』を教えてくれたその編集者さんには「これも読んだらいいよ」と、平山夢明さんの作品を薦めていただいたりもしました。小説家として、自分の土台となる部分を作ってもらった気がします。
若林
まあ、平山さんの場合はヒッチコックと違って、真似しようと思ってもなかなか真似出来ない部分が結構多いような気がしますが。
矢樹
そうですね。ただ「何となく矢樹さんが好きそうだなと思った」とか、「何か刺激を受けるだろうと思って」みたいな感じで、編集者さんには色々な作品をお薦めしてもらったんですよね。そういう風に育ててもらったな、って思いがあります。
若林
刺激を与えてくれる本をお薦め出来る編集者さんの存在って大事なんだなと、いまの話を聞いて改めて思いました。

――短編で学んだ描写力

若林
編集者さんといえば、矢樹さんのブログを拝見していて、気になったことが一つありました。
 短編を書き始めたきっかけが、編集者さんから「練習のために短編を書いたらどうだ」というアドバイスをもらったためだ、と書かれていました。そのアドバイスというのは、具体的にはどのようなものだったのでしょう?
矢樹
確か「矢樹さんは長編を書くのはまだ早いような気がします」というような趣旨のアドバイスを受けた記憶があります。長編のプロットを編集者さんに渡して読んでもらった時でした。
 その時もだいぶ入り組んだプロットを書いてしまったのですが、編集者さんからは褒めてもらいつつも、「こういう複雑なプロットの作品を書き上げるにはもう少し力が必要だと思います。短編を書いて力を付けた方がいいんじゃないでしょうか?」という風に言われたんです。
若林
その編集者さんが仰った「力」というのは、複数のアイディアを複雑に詰め込んだ小説を書くに当たって、短い紙数の中で整理してまとめ上げる力、ということでしょうか?
矢樹
おそらく、そうだと思います。
若林
ちなみに、その時に渡した長編のプロットというのは、どれだけ複雑なものだったのですか?
矢樹
そうですね……アイディアの数もそうですが、盛り込んだトリックのバリエーションがとにかく幅広いというか……確かにあれを書き上げようとするのは大変だろうなと、いまになっては思います。
若林
なるほど。そこで短編を書かれて、Kindleで個人出版などもされたわけですね。
 実際に書いてみて、アイディアを整理する力を身に付けることが出来た、という実感はありましたか?
矢樹
そうですね、アイディアの整理が出来るようになった、というよりは、小説を書く力そのものが上がったかな、という気持ちが強かったです。
若林
小説を書く力そのもの、というのは具体的に言うと?
矢樹
描写力、表現力と言い換えた方がいいかも知れません。アドバイスをいただいて短編を書くまでは「描写が読者の目に浮かぶように書く」といった、基本的なところがあまり出来ていないと、自分でも感じていました。
 例えば、あるトリックを作中に仕掛けようとすると、そのトリックがばれないように表現をぼかして書くことがありました。でも、トリックの為にぼやけた表現を書くと、描写力が足りない文章に見えてしまうことがどうしてもあるんですよね。
 短編を書いて編集者さんに読んでもらったところ「仕掛けを隠そうと表現をぼかすあまり、風景が目に浮かばなくなるような文章になっています。そういう描写がぼやけている部分をなくして、限られた枚数の中で情景が目に浮かぶように書いてください」という指摘をいただき、なるほど、と思いました。
 そうやって書いていくうちに描写力が上がっていったのではないか、と自分では考えています。
若林
なるほど。トリックを仕掛けるために情景描写が分かりにくくなってしまうのは、アイディアに振り回されてしまった、という風に捉えることも出来ますよね。
 アイディアだけに頼って書くと、記述が不自然になったり、あるいは説明不足になったりするところが生じてしまう。トリックが成立すれば、小説として表現が物足りないものになっていい、というわけではない。描写を豊かにしながらトリックも成功させることを目指しなさい、というのが編集者さんの意図だったのかもしれませんね。

――シリーズキャラクターにはこだわらない

若林
先ほど本格ミステリが好きだと仰っていましたが、『夫の骨』と『妻は忘れない』では、いわゆる「謎・論理・解決」の流れで描くストレートな謎解きがほとんど入っていませんよね。ご自身でもっとガチガチの本格謎解き短編を書いてみたい、という思いはなかったんですか?
矢樹
そうですね。ストレートな本格ミステリを書くためのアイディアがあまり思いつかないんですよね。それこそワンアイディアの大トリックを思いつくことが出来れば、「謎・論理・解決」に則った物語が書けるのかもしれません。でも、やっぱり自分にはそういう一発ネタを思いつく力がないのかな、と思っています。
若林
先ほども「島田荘司さんのようなトリックが思いつければいいな」と仰っていましたもんね。
 でも、けっこう矢樹さんはトリックメイカーだな、と私は思っています。具体的にどの作品に、どういう仕掛けが、というのはネタばらしになるので当然言えませんが、『夫の骨』と『妻は忘れない』の収録作には、「このネタ一本でも、長編を支えるくらいのインパクトはあるんじゃないのかな」というアイディアが用意されているものもあります。
矢樹
それはやっぱり、自分の本格ミステリ好きの部分が滲み出ているのだと思います。とにかく人を驚かせるようなアイディアを盛り込もうという気にはなりますね。
若林
本格ミステリの話題に寄せてもう一つ。例えば『Sのための覚え書き かごめ荘連続殺人事件』と『がらくた少女と人喰い煙突』(河出文庫)では、桜木静流という窃視症の探偵を登場させているじゃないですか。矢樹さんにとっての、いわゆるレギュラー探偵だと思うんですが、桜木に限らず固定した探偵役を配した連作短編やシリーズを書きたいという気持ちはないんですか?
矢樹
そうですね……デビュー作と二作目でレギュラー探偵を使ったミステリを書きましたけれど、ちょっといまはあまり書こうとは考えていないですね。「ぜひシリーズものを書いてほしい」というオーダーをいただいたら、考えることはあるかもしれませんが、自分から書こうという気持ちは、それほど強くは持っていないです。
若林
冒頭で私が「ノンシリーズのミステリ短編集があまり売れない」という話をしましたが、書き手の側としても、連作短編形式にして全体を貫く仕掛けを構想したり、シリーズキャラクターを創造して続きものにする方が、ある程度、短編を書き続けやすい面もあるんじゃないかと思います。もちろん、シリーズを継続して書くとなったら、また別の難しい問題が生じるはずですが。
 ノンシリーズ短編集が厳しい、と言われる中で、逆に矢樹さんがノンシリーズにこだわって書かれている姿勢を見ると、珍しいなと感じます。
矢樹
そういえば、そのことについてあまり深く考えたことはありませんでしたね。ただ……漫画原作が、シリーズものというか、同じ主人公をずっと書き続ける仕事だからかもしれません。漫画の仕事でそういう続きものを書いているんだったら、小説では違うことにチャレンジしてみよう、という気持ちが強いんです。
若林
シリーズキャラクターの話で、もう一つ。桜木静流は他人の秘密を覗かずにはいられない人間ですよね。探偵役である以上、謎を解く側の人間であるのですが、一方では時に違法行為にも手を出してしまう、非常にグレーゾーンの人物です。たいへん個性的で面白い発想だな、と思いました。あのキャラクターはどこから構想が出てきたんですか?
矢樹
先行するミステリ作品の影響が大きいですね。癖のある探偵が出てくるお話を先輩作家さんが多く書かれていて、私もそれをむさぼるように読んでいたので、「謎解きミステリを書く以上は、個性的な探偵を出さなければいけない!」という思いが強かったです。
若林
人の名前は覚えないのに誕生日は覚えている探偵とか。
矢樹
島田荘司さんの御手洗潔ですね。そうですね、やっぱり新本格を読んでいた影響が大きいのと、“漫画脳”があるので、どうしても漫画チックな感じで登場させるキャラクターを立てなければいけない、という意識がどこかしらにあるんだと思います。

――じんわりと感情を動かす小説を書きたい

若林
ちょっとミステリの話題から離れて、矢樹さんが取り扱われている題材の話をします。
 これはインタビューの冒頭でもちょっと触れましたが、『夫の骨』と『妻は忘れない』は家族をテーマにした短編で統一されているじゃないですか。矢樹さんが家庭内の関係性や、そこで起きる出来事にこだわって書かれる理由は何かあるのでしょうか?
矢樹
私自身は、特に家族というテーマにこだわっていたつもりはないんです。
 最初は「練習として短編を色々書いてみよう」と思って書いていたんですけれど、それが溜まっていくうちにだんだんまとまった作品集として出したいという気持ちが出てきて。そうすると今度は「短編集にするなら、何か全体をくくるテーマがないといけないのかな」と感じて、その時に書き溜めた話を改めて見てみると、家族の話が多いことに気付きました。「ならば家族をテーマにした短編集として出すことにしよう」と思って刊行したのが『夫の骨』だったんです。
『夫の骨』を出す前は学校の同級生をメインの登場人物に据えた話などもあったんですが、いざ書くとなると、自分の身の回りで起きるような話がやはり書きやすくて、結果的に家族を題材にした話が多くなった、ということです。ですから、家族でテーマを統一したことについては、特に強い動機があったわけではないんですね。
若林
なるほど。ちょっとすごいなと思うのが、どの短編でも身近な風景をずっと描かれているじゃないですか。場合によっては風景が似通った風になるから、「この短編はこっちの話と似ているな」ということも出てくるんじゃないかと思ったら、全然そんなことがない。
矢樹
そうですね。身近な風景を題材に取ることが多い以上、なるべく登場人物の年代や関係の配置にバリエーションを持たせて、印象が被らないようにしよう、という工夫はしました。
若林
日常を題材にしたミステリに関してもう一つ。“イヤミス”という言葉が2000年代以降、ジャンル内で流行しましたよね。とにかく主人公の身の回りで嫌な出来事が起きたり、嫌な人物がわんさか出てきて嫌なことをする。とにかくドロドロした感じで、人間の奥にある陰の部分を引き出す感じのミステリです。
 私は最初、『夫の骨』を読み始めた時に「もしかして、これも“イヤミス”とラベリングされる話なのかな」と思ったんですが、ちょっと違ったんですね。すごくカラッと書かれているな、と。ドロッと書くのではなく、カラッとさせたのは意識的にやったことなのか、それとも普段から心がけているのか、どっちなんでしょうか?
矢樹
そうですね……そもそもイヤミスっていうジャンルを自分から意識して読んだことはなかったんですよ。そういうのが流行っているらしい、というのを聞いてはいましたが、「流行っている」って言っても後味悪い話をわざわざ読みたいとは自分では思わなかったので。湊かなえさんの作品などは好きで読んでいたんですけど、だからといって、いざ自分が小説を書く時に後味がいいものを書くのか、そうじゃないものを書くのか、というと、後味が悪いものを書きたい気はなかったんです。
 読後感としては、なんだろう……なんとも言えない感じというか、それこそ沼田まほかるさんとか桜木紫乃さんの作品を読んで「言葉では言い表せられないな」という感覚を何度か経験したんですけど、ああいうものを目指したいという思いはあります。
若林
それを聞いて「なるほどな」と思ったのが、桜木さんのお話をされた時、「感情を動かす」という言葉が出てきたじゃないですか。その感情というのは、極端に笑ったり、極端に嫌な気持ちになったりするものではない、ということですよね。情景描写から登場人物の心理状態がじわりと伝わってくるような、そういう小説を志しているのかな、と思います。
矢樹
そうですね。感情というのは、あくまで読者さんの中にあるものだから、百パーセント書き手側の思う通りに、読者の感情を動かすことが出来るのかは分かりません。だからこそ、「嫌な気持ちになってください」「ここは笑ってください」とダイレクトに感情を操ろうとする表現ではなく、ボワッと伝えて、それぞれの読者の内面で湧き起こる感情や情景を大切にしていただければと思っています。あまり直接的ではない表現を使って、感情の変化が起こってくれればいいな、と。
若林
例えば『妻は忘れない』に収録されている「百舌鳥の家」が、いま矢樹さんの仰った直接的ではない表現を使って、感情を揺り動かすいい例になっていると思います。
 これはメインの登場人物である姉妹の会話と、回想を交えながら進行するんですけれど、姉妹の心理の動きに終始しながら、ミステリとしての驚きも忍ばせて、最後にはじわっと読む側の心に変化が表れる。
 こういう作品が、さっき矢樹さんが仰っていた「感情を動かされる」小説のイメージなのかなと、私は思ったんですよ。
矢樹
そうですね。出来ているならよかったです、自分でもよく分からないで書いたので。
 自分の目指していることが書けているのか、読んでいただいた方に感想をいただくまでは分からないですよね。

――今後の予定

若林
1月発売の『ジャーロ』No.74より「Mother Murder マザー・マーダー」の連載が始まりました。今度は連作短編に挑戦される、ということですが。
矢樹
主人公は各話ごとに入れ替わりますが、ある親子とそれを取り巻く人々の視点で描いていく予定です。初回はその親子の隣に住んでいる若い奥さんが主人公なんですが、次は職場の同僚だったり、子供を同じ学校に通わせている人だったり……という形で視点人物を入れ替えながら進んでいくことになります。
若林
関係者の複数視点から様々な物語を描きながら、背景に何か大きな一つのものが浮かび上がる。そんな感じの小説になるんでしょうかね。楽しみです。
 連作形式というのは矢樹さんにとって今回初めてですよね。結構大変じゃないですか? 例えば連作短編ごとに色々な伏線を仕込んで、それをどのタイミングで明かそうか、など、各話と全体の構想で皆さん、苦労されているとよくお伺いします。
矢樹
伏線……そう言えば仕込み忘れたかも。
若林
。ちなみに今回の連載は連作形式ということですが、今後は長編でこういう物語を書きたいとか、こういう小説を現在構想中、というものはありますか?
矢樹
現在、『夫の骨』を刊行いただいた祥伝社さんで長編を執筆中です。
 『夫の骨』と同じく家族が物語の核になっているミステリではあるんですが、いままで書いたことのないタイプのミステリになると思います。
若林
なるほど、新たな分野に挑戦されているわけですね。そちらも楽しみに待っています。

矢樹 純(やぎ・じゅん)

小説家、漫画原作者。1976年、青森県生れ。実妹とコンビを組み「加藤山羊」の合同ペンネームで、2002年、「ビッグコミックスピリッツ増刊号」にてデビューする。『あいの結婚相談所』『バカレイドッグス』などの原作を担当。2012年、第10回「このミステリーがすごい!」大賞に応募した『Sのための覚え書き かごめ荘連続殺人事件』で小説家としてデビュー。2017年、『Sのため…』の桜木シリーズの続編である長編ミステリー『がらくた少女と人喰い煙突』が刊行される。2019年、短編集『夫の骨』が注目を集め、2020年に表題作で第73回日本推理作家協会賞短編部門を受賞。2020年、短編集『妻は忘れない』を上梓。

※若林踏氏が聞き手となった気鋭のミステリ作家インタビュー集が、単行本として光文社より7月刊行予定(今回の矢樹純氏インタビューも収録)。